『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
薄暗い廊下を、パッチは歩いていた。
足音が、誰もいない石造りの通路へ響いている。
コツ。
コツ。
一定の間隔で靴音が返ってくる。
天井は高い。
壁際には背の高い書棚が並び、そこには古びた本が無数に収められている。
何冊かは床へ落ちていた。
開いたままの本もある。
机の上には用途の分からない器具。
細い金属棒。
空になったガラス瓶。
乾ききった薬品の跡。
どうやら、ここは学問をする場所だったらしい。
しかし。
人の姿はない。
廊下にも。
教室にも。
書棚の間にも。
誰もいない。
「……これはまた」
パッチは周囲を見回した。
「随分と寂しい学校ですなぁ」
返事はない。
ただ、自分の声だけが妙に遠くまで響いた。
パッチは肩をすくめる。
「まあ、人がいないということは――」
口元が緩む。
「物色するには、うってつけですな」
それからしばらく。
パッチは廊下を歩き回った。
書棚を覗く。
机の引き出しを開ける。
棚の奥を調べる。
落ちている器具を手に取って、裏返してみる。
「これは……売れるんですかねぇ」
分からない。
「こっちは……」
やはり分からない。
価値のありそうなものは、なかなか見つからなかった。
「いやぁ、残念ですな」
肩を落とす。
その時だった。
「おや」
頭上から声がした。
パッチの動きが止まる。
ゆっくりと顔を上げる。
天井。
そこには蜘蛛の巣が張っていた。
細い糸が幾重にも重なり、薄暗い天井の隅へ広がっている。
そして。
その中央に。
何かがいた。
八本の脚。
丸みを帯びた大きな胴体。
人間ほどの大きさをした蜘蛛。
長い脚が、静かに天井を這っている。
パッチはしばらく、それを見上げていた。
蜘蛛も、こちらを見ている。
やがて。
蜘蛛がゆっくりと天井から降りてきた。
脚の一本を壁へ。
もう一本を床へ。
まるで重さなど存在しないかのように、静かに地面へ降り立つ。
そして。
その顔が見えた。
「…………」
パッチは黙った。
蜘蛛も黙った。
そこにあったのは。
見慣れた顔だった。
自分自身の顔。
目。
鼻。
口。
輪郭。
全てがパッチと同じだった。
「……これはまた」
先に口を開いたのはパッチだった。
「なかなか男前な蜘蛛ですねぇ」
蜘蛛は少し考えるように首を傾げた。
「そうですか?」
「ええ」
パッチは頷く。
「なかなかどうして、見栄えのする顔をしていらっしゃる」
「それはどうも」
蜘蛛は穏やかに笑った。
そして。
「あなたも」
パッチを見る。
「なんとも誠実そうなお人柄が、顔に滲み出ていますよ」
「…………」
パッチは黙った。
「…………」
蜘蛛も黙った。
二人とも。
互いの顔を見つめている。
やがて。
パッチの口元が、わずかに歪んだ。
蜘蛛も笑みを深くする。
「……なるほど」
「ええ」
「随分と気の利いた蜘蛛ですな」
「あなたほどではありませんよ」
「いやいや」
パッチは肩をすくめた。
「私は正直者ですから」
「それは素晴らしい」
「でしょう?」
「実に素晴らしい」
また沈黙。
そして。
二人は同時に苦笑した。
「……面白い方ですな」
パッチが言う。
「あなたも」
蜘蛛が答えた。
「さて」
パッチは蜘蛛を眺めた。
「あなたは、ここで何をしているんです?」
「ここに住んでいるわけではありませんよ」
「では?」
「見ているだけです」
「何を?」
「ここで起きたことを」
蜘蛛の視線が、廊下の奥へ向いた。
「ここは、かつて学ぶ場所でした」
声は穏やかだった。
「夢を探求するための場所です」
「人間が眠っている間に見るものは何なのか」
「夢の中で得られるものは、ただの幻なのか」
「それとも、現実とは異なる何処かへ繋がっているのか」
パッチは黙って聞いている。
「最初は、夢そのものを調べていた」
「眠りの深さを変える」
「夢の内容を記録する」
「複数の人間に同じ夢を見せる」
「そうやって、少しずつ夢の奥へ進んでいった」
蜘蛛は静かに語る。
「やがて」
「彼らは、夢を見るだけでは満足できなくなった」
「夢の向こう側へ、自分たちの意思で到達しようとした」
「そのために、儀式を行った」
パッチが眉を上げる。
「儀式?」
「ええ」
「大勢の人間と、長い準備を必要とするものだったそうです」
「そして」
蜘蛛は微笑んだ。
「成功した」
パッチは少し黙った。
「……成功したんですか?」
「ええ」
「本当に?」
「本当に」
蜘蛛は頷いた。
「夢の向こう側に、彼らは辿り着いた」
「そこで」
「人間ではない存在と、邂逅した」
「人の理解を越えたもの」
「上位の存在」
その言葉だけが、廊下の中で妙に重く響いた。
「彼らは、その存在から知識を授かった」
「夢の中で見たもの」
「理解できなかったもの」
「人間の側からでは、決して知ることのできなかったもの」
蜘蛛は淡々と話す。
「儀式は成功した」
「研究も成功した」
「そして、彼らは成果を得た」
「なら」
パッチが尋ねる。
「どうして、こんなことになったんです?」
蜘蛛は少しだけ黙った。
「成功したからこそ、でしょうね」
「……成功したから?」
「一つの答えを得れば」
「次の答えが欲しくなる」
「一度、見えなかったものが見えれば」
「その先まで見たくなる」
蜘蛛の声は静かだった。
「彼らは、さらに成果を求めた」
「もっと深く」
「もっと遠く」
「もっと多く」
「そして、再び探求を始めた」
蜘蛛は廊下の奥を見る。
「今度は、夢を見るためではない」
「夢の向こうにあるものを、さらに知るために」
「知識を得るために」
「理解するために」
「そして」
短い沈黙。
「上位の存在と同じ視点から世界を見るために」
パッチは周囲を見回した。
誰もいない。
残された書物。
放置された器具。
閉ざされた研究室。
「……なるほど」
パッチは小さく呟いた。
「欲張りな学徒さんたちだったわけですな」
「知識を求めること自体は、悪いことではありませんよ」
「ええ」
蜘蛛は穏やかに答えた。
「ただ」
その笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「人間には、知らない方がよいこともある」
「彼らは、それを知る前に」
「さらに知ろうとしてしまった」
パッチは苦笑した。
「怖い話ですなぁ」
「そうですか?」
「ええ」
パッチは肩をすくめる。
「私は帰る場所がなくなるのは困りますからね」
「あなたらしい」
「でしょう?」
蜘蛛が笑った。
「ただ」
「はい?」
「ここには、あまり長居しない方がいい」
蜘蛛の声が、少しだけ低くなる。
「長くいればいるほど」
「ここにいることが自然になってしまいます」
「そして」
「帰る場所を忘れる」
パッチの笑みが、ほんの少しだけ固まった。
「……それは困りましたな」
「ええ」
「まだ何も見つけていませんからね」
「お宝ですか?」
「もちろん」
パッチは胸を張った。
「残念ながら、まだ一つも手に入っていません」
「それはお気の毒に」
蜘蛛は、どこか楽しそうに言った。
そして。
身体の横へ脚を伸ばす。
そこから、小さな石を取り出した。
「では」
蜘蛛はそれを差し出した。
「お宝を一つ」
「私に?」
「ええ」
パッチは受け取った。
掌に収まる程度の大きさ。
ずしりとした重みがある。
淡い青白色をした石だった。
冷たい色合いなのに、石として見るには妙に生々しい。
表面には薄い赤黒い筋が絡みつき、内部には細かな濁りが沈んでいる。
その形は鉱物というより、何か生物の組織が長い時間をかけて固まったものを思わせた。
何に由来するものなのか、想像することすらできない。
ただ、人間の知る自然物とはどこか違う――そんな違和感だけが残る。
「これは?」
「扁桃石」
「……へぇ」
パッチは石を眺める。
「なかなか変わった石ですな」
「珍しいものですよ」
蜘蛛は笑った。
「大切にしてください」
「それはそれは」
パッチは懐へしまった。
「ありがたく頂戴します」
蜘蛛は廊下の奥を指した。
「帰るのであれば、あちらです」
いつの間にか。
廊下の突き当たりに、一枚の扉があった。
先ほどまで、そこには何もなかったはずだ。
「……あれですか」
「ええ」
「本当に?」
「本当に」
パッチは扉へ近づいた。
取っ手に手を掛ける。
そして。
開いた。
その向こうには。
廊下も。
階段も。
部屋もなかった。
ただ。
空間そのものが、渦を巻いていた。
黒い。
しかし、完全な闇ではない。
青白い光が細く絡み合い、紫色の影がその中心へ吸い込まれている。
遠近感がない。
上も下も分からない。
見ているだけで、足元が崩れていくような錯覚を覚える。
「…………」
パッチは嫌そうな顔をした。
「これはまた」
一歩下がる。
「随分と趣味の悪い出口ですな」
蜘蛛を見る。
「……本当に、これで帰れるんでしょうな?」
「ええ」
「本当に?」
「ええ」
蜘蛛はにこやかに答えた。
パッチは扉と蜘蛛を交互に見る。
「……そうですか」
少しだけ考える。
「では、私は――」
その瞬間。
背中に衝撃があった。
「おわっ――」
蜘蛛の脚が、パッチの背中を押した。
身体が前へ投げ出される。
足が床を離れる。
渦が目の前へ迫る。
パッチが振り返る。
蜘蛛は。
満面の笑みを浮かべていた。
そして。
前脚を一本上げる。
ゆっくりと振った。
「Good luck.」
「…………」
落ちていく。
身体が渦の中へ吸い込まれる。
パッチは苦笑した。
「……最後まで、信用ならない御方ですなぁ」
その声を残して。
視界が暗転した。
テントの中。
パッチは、ゆっくりと目を開けた。
「…………」
しばらく天井を見つめる。
薄い布越しに、朝の淡い光が差し込んでいる。
現実の空気。
冷えた朝の匂い。
土の匂い。
焚き火の消えかけた匂い。
パッチはゆっくりと身体を起こした。
「……戻ってきましたか」
まだ頭が少し重い。
しかし。
夢の中で見たことだけは、妙にはっきり覚えていた。
パッチは懐へ手を入れる。
指先に硬い感触が触れた。
「…………」
取り出す。
淡い青白色の石。
扁桃石。
夢の中で蜘蛛から渡されたもの。
「…………」
パッチはしばらく、それを見つめた。
そして。
口元がゆっくりと吊り上がる。
「……いやぁ」
嬉しそうだった。
「夢にしては、随分と気の利いたお土産でしたなぁ」
石を朝の光にかざす。
不気味な品だった。
それでも。
パッチは満足そうに笑った。
「これは、なかなか良いものを貰いましたな」
そう呟いて。
大切そうに扁桃石をしまった。