『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
病室の窓から、朝の光が差し込んでいた。
薄いカーテン越しの陽射しが、床と壁を淡く照らしている。
グレイは、その光を感じてゆっくりと目を開いた。
「……」
しばらく、ぼんやりと天井を見つめる。
見慣れた天井。
古びた壁。
簡素な病室。
自分たちが拠点として使っている診療所だった。
グレイはゆっくりと身体を起こした。
頭が少し重い。
身体に違和感がないか確かめるように、腕を動かす。
指を開き、握る。
肩を回す。
痛みはない。
傷もない。
身体そのものに異常はなさそうだった。
それでも。
不安で仕方がなかった。
グレイは周囲へ視線を向けた。
師匠は、すでに起きていた。
ベッドの上で上半身だけを起こしている。
眼鏡を掛け直しながら、周囲を確認していた。
壁。
窓。
机。
扉。
そして、自分自身の身体。
まるで。
今いる場所と、自分の状態を一つずつ確かめているようだった。
その様子には、普段の落ち着きとは少し違うものがある。
そして。
もう一人。
獅子劫さんも起きていた。
彼もベッドの上で上半身を起こしている。
何も言わない。
ただ、自分の手のひらをじっと見つめていた。
指を動かす。
握る。
開く。
何かを確かめるように。
三人とも。
まだ口を開かなかった。
病室には、朝の静けさだけが残っている。
グレイは二人の様子を見つめた。
自分だけではない。
それだけは分かった。
やがて。
グレイは、Ⅱ世へ視線を向ける。
「……師匠」
Ⅱ世が反応した。
眼鏡越しの視線が、グレイへ向く。
「グレイ」
それだけだった。
グレイは少し躊躇った。
何を言えばいいのか分からない。
夢。
そう言ってしまえば簡単なのかもしれない。
けれど。
あれを、ただの夢として話していいのか。
「……あの」
「どうした?」
「拙は……夢を見ました」
Ⅱ世の表情が、僅かに変わった。
「夢?」
「はい」
グレイは小さく頷く。
「とても……変な夢でした」
目を閉じる。
思い出そうとする。
「夢の中の拙は、この診療所の患者でした」
グレイは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「多分……幼い子供だったと思います」
夢の中での自分は、今の自分とは違っていた。
誰かに手を引かれていた。
そのまま、診療所へ連れて来られた。
「大人の人に手を引かれて、ここへ連れて来られました」
そこで。
一人の女性へ引き渡された。
「その女性を、子供は『ヨセフカのお姉ちゃん』と呼んでいました」
グレイは僅かに眉を寄せる。
「だから……多分、あの女性が、この診療所の院長なのだと思います」
夢の中の子供は、その女性を恐れていなかった。
むしろ。
信頼しているようだった。
「とても優しくしてもらっていたようです。少なくとも、夢の中の拙は……その人を信じていました」
そこから先の記憶は、少しずつ鮮明になっていく。
「その後、ベッドへ寝かされました」
身体を固定された。
腕も。
脚も。
逃げられないように。
「それから……輸血されたのだと思います」
グレイは自分の腕を見る。
「赤い液体を、身体へ入れられていました」
そして。
夜。
目を覚ました。
「その時には、身体がおかしくなっていました」
強い痒み。
身体の内側から湧き上がるような熱。
ただ熱いだけではない。
身体そのものが、別のものへ変わっていくような感覚。
「とても強い痒みがあって……身体が、尋常ではないほど熱くなっていました」
グレイの声が少しだけ震える。
「その様子を、あの女性は記録していました」
患者の苦しみを心配する様子ではない。
ただ。
起きた変化を、一つずつ記録していた。
「拙は……自分の身体が、少しずつ何か別のものに変わっていくように感じました」
グレイはそこで言葉を止めた。
両手を握る。
「何が起きているのか分からなくて……とても、怖かったです」
その記憶だけは。
夢から覚めても、はっきりと残っていた。
「その後で……師匠が現れました」
Ⅱ世の表情が僅かに変わる。
「夢の中の師匠は、拙を見て……とても驚いていました」
グレイは自分の顔へ触れる。
「だから、多分……」
一度、言葉を探す。
「その時の拙は、もう普通の姿ではなかったのだと思います」
病室に、短い沈黙が落ちた。
「夢の中では、自分の姿をはっきり見ることができませんでした」
グレイは俯く。
「でも……師匠の表情だけは、覚えています」
驚き。
困惑。
そして。
僅かな恐怖。
「だから、拙の身体が……何かに変わってしまっていたのだと思います」
グレイは小さく息を吐いた。
「……それが、拙の見た夢です」
再び。
病室に沈黙が落ちた。
グレイは俯いたまま、自分の手を見つめている。
Ⅱ世も、何かを考えるように黙っていた。
やがて。
「……俺も」
獅子劫が口を開いた。
「俺も、夢を見た」
Ⅱ世とグレイが、同時に獅子劫へ目を向ける。
獅子劫はベッドに腰掛けたまま、しばらく何かを思い出すように黙っていた。
「俺は、夢の中で狩人だった」
一度、言葉を切る。
「いや……そいつの記憶を追体験した、って感じだな」
「…狩人」
Ⅱ世が尋ねる。
「ああ」
獅子劫が頷いた。
「相棒と一緒に、ここへ向かっていた」
「相棒?」
「あぁ。二人組で行動してたんだろう」
獅子劫は自分の記憶を確かめるように話を続ける。
「獣化の兆候が出た患者の処分が任務だった」
グレイの表情が僅かに強張った。
「ヨセフカの奴もいたぜ」
Ⅱ世の目が細くなる。
「狩人は、あいつのことを……メンシスのイカれ野郎って感じていたな」
「……メンシス」
Ⅱ世が呟く。
「ヨセフカ院長は、医療協会ではなく……メンシス学派の所属だったのか」
「らしいな」
獅子劫は答える。
「そんで、狩人が悪態ついてるってんなら、医療協会とメンシス学派は、あまり良好な関係じゃなかったんだろう」
Ⅱ世は何も言わなかった。
ただ。
その情報を頭の中で整理しているようだった。
「それから、相棒と一緒に裏庭で患者を処分したよ」
獅子劫の声が少し低くなる。
「見た目は人間だったのに、容赦なしだ」
短い沈黙。
「そんで死体を――」
「どうした?」
Ⅱ世が尋ねる。
獅子劫は頭を掻いた。
「あぁ、すまねぇ」
苦笑する。
「昨日、伝えるのを忘れてたぜ。パッチの野郎の騒ぎのせいだな」
僅かに悪態をつくような口調だった。
「裏庭に、魔術で隠蔽された大穴があってな」
獅子劫は手で場所を示すような仕草をする。
「そこに死体を捨てたのさ」
「……なるほど」
Ⅱ世が考える。
「後で確認しにいくか」
「あぁ」
獅子劫は頷いた。
「んで、続きだ」
獅子劫は再び夢の記憶へ意識を向ける。
「別の夜に、逃げ出した獣を相棒と追っていてな」
自嘲するように笑う。
「ヘマしちまって、手痛い傷を受けたのさ」
獅子劫は自分の身体を見る。
「普通じゃ助からない傷だった」
そこで。
声が僅かに変わった。
「だが……あの液体」
「液体?」
Ⅱ世が聞き返す。
「シリンダー型の注射器だな」
獅子劫は、夢の中で見たものを思い出す。
「輸血したら、その場で立ち上がって動けるくらいに回復しやがった」
Ⅱ世は黙っている。
「効果の凄さに驚くより、不気味さが勝ったくらいだ」
獅子劫が眉を寄せる。
「狩人の奴も、使うのを嫌がってたがな」
「……」
Ⅱ世は何も答えなかった。
獅子劫は続ける。
「そんでな」
口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
「自分でも驚くくらいに力が漲ってな」
その声に、少しずつ熱が混じっていく。
「あの万能感は凄かったぜ」
「獅子劫?」
Ⅱ世が眉を寄せる。
だが。
獅子劫は止まらない。
「あのバカでかい斧も、枝でも振り回すみてぇに軽く動かせてな」
目が僅かに見開かれている。
「そんで暗闇で待ち伏せして――」
口元が歪む。
「あのクソったれな獣を、ペシャンコにしてやったのさ!」
「獅子劫!!」
Ⅱ世の声が病室に響いた。
「……」
獅子劫が固まる。
数秒。
何かに気づいたように、ゆっくりと瞬きをする。
「……あん?」
自分の声を確かめるように呟く。
「……あぁ」
獅子劫は額へ手を当てた。
「クソっ」
小さく息を吐く。
「すまねぇ」
先ほどまでの熱が、少しずつ消えていく。
「あの感覚が……まだ自分の中に残っているような感じだった」
Ⅱ世は獅子劫を見つめる。
「……大丈夫なのか?」
「あぁ。問題ねぇ」
獅子劫は答えた。
懐から煙草を取り出す。
一本咥える。
火を点ける。
小さな炎が、一瞬だけ彼の顔を照らした。
煙をゆっくりと吐き出す。
「そんで」
獅子劫は煙草を指に挟んだ。
「獣を処分してな」
僅かに視線を落とす。
「バカみてぇに笑っていたら……」
そこで。
声が低くなる。
「相棒に撃たれたよ」
グレイが息を呑む。
「……撃たれた?」
「あぁ」
獅子劫は煙を吐く。
「おそらく」
自分の手のひらを見る。
「獣化の兆候ってのが、俺にも出てたんだろう」
病室に。
再び沈黙が落ちた。
お知らせ
編集に難儀しております。
もしかしたら、前編、後編と分けるか
内容が変わる可能性があります
ご了承下さい