『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』   作:丹波りん

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第二話 獣狩りの夜

 黒衣の男は、何も語らなかった。

 

 それが、この異常な状況においては奇妙なほど自然に思えた。

 

 男はただ歩く。

 

 長い外套を揺らし、右手に獣狩りの鉈を携え、左手には古びた短銃。

 

 振り返ることもない。

 

 こちらを気にしているのかすら分からない。

 

 それでも、五人はその背中を追っていた。

 

 他に頼れるものがなかったからだ。

 

 先ほどまで彼らを追い立てていた民衆の怒号は、まだ遠くから聞こえている。

 

「……少し、質問をしても?」

 

 Ⅱ世が声をかけた。

 

 男は答えない。

 

「我々は、この都市について何も知らない。ここがヤーナムであることは間違いないと思うが、現在何が起きているのか――」

 

 その時。

 

 男が突然立ち止まった。

 

 Ⅱ世も足を止める。

 

 男は振り返らない。

 

 ただ、鉈を僅かに持ち上げた。

 

 暗い路地の向こう。

 

 何かが走ってくる。

 

「来るぞ!」

 

 獅子劫が叫ぶ。

 

 次の瞬間、男が動いた。

 

 速い。

 

 ほとんど踏み込みだけに見えた。

 

 鉈が横薙ぎに振り抜かれる。

 

 飛び込んできた男の首元を正確に捉え、その勢いのまま身体を地面へ叩き落とした。

 

 続いて右。

 

 左。

 

 背後。

 

 まるで最初から敵の位置を知っているかのように、男は一人ずつ処理していく。

 

 銃声が響いた。

 

 短銃の銃口から放たれた弾丸が、男の懐へ飛び込もうとした民衆の頭部を撃ち抜く。

 

 男は止まらない。

 

 薬莢が石畳へ転がるより早く、鉈が次の敵へ振り下ろされた。

 

「……機械みたいですな」

 

 パッチが呟いた。

 

 いつもの笑みは浮かべている。

 

 だが、その声には僅かな緊張が混じっていた。

 

「戦いに迷いがない」

 

 獅子劫が銃を構えながら答える。

 

「迷いがないっていうより……」

 

 グレイが呟く。

 

「戦うこと自体に、何も感じていないみたいです」

 

 最後の一人が倒れた。

 

 男は鉈についた血を振り払い、そのまま歩き出す。

 

「……おいおい」

 

 獅子劫が呆れた。

 

「少しくらい息を整えろよ」

 

 当然、返事はない。

 

 Ⅱ世は倒れた民衆の死体を見た。

 

「待て」

 

 男に続く前に、しゃがみ込む。

 

「彼らを調べる」

 

「師匠、今ですか?」

 

「今だからだ」

 

 死体の顔を覗き込む。

 

 瞳が異常だった。

 

 黄色く濁っている。

 

 まるで眼球そのものが腐り、溶け始めているようだった。

 

 皮膚には黒い毛が生えている。

 

 人間の毛とは違う。

 

 硬く、太く、獣の体毛に近い。

 

 手の甲にも黒い毛。

 

 指先の爪は異様に厚く変形していた。

 

「……獣化」

 

 Ⅱ世が呟く。

 

「昼間のカルテにあった症例と一致する」

 

「やっぱり、あの手記に書かれていた『獣』ってのは――」

 

 獅子劫が言いかけた。

 

「人間だった可能性が高い」

 

 Ⅱ世は答えた。

 

 パッチが倒れた男の懐を探っていた。

 

「ほう」

 

 彼が取り出したのは、古びた手斧だった。

 

「これは使えそうですな」

 

「お前……」

獅子劫が呆れた声を漏らす

 

 ルヴィアが咎める様な顔をする。

 

「今この状況で死体から物を漁りますの?」

 

「生きている人間から奪うよりは健全でしょう?」

 

「そういう問題ではありませんわ」

 

「いやいや。こんな場所で使える物を拾わないほうがどうかしていますぜ」

 

 パッチはさらに懐を探る。

 

 火炎瓶。

 

 別の遺体からは古びた単発式の長銃。

 

 小さな袋。

 

 その中には、数枚の金貨が入っていた。

 

「おや、これはこれは」

 

「……金貨まで」

 

 ルヴィアが額を押さえる。

 

「本当に呆れた男ですわ」

 

「金は大事ですぞ、お嬢様」

 

「今のこの状況で?」

 

「こういう時だからこそです」

 

 パッチは金貨を懐へしまった。

 

 獅子劫が長銃を手に取る。

 

「妙な銃だな」

 

「旦那、そいつは少々特殊ですぜ」

 

「分かってる」

 

 弾薬を取り出す。

 

 普通の火薬銃の弾とは明らかに違った。

 

 透明な薬莢の内部に、銀色の液体が封じ込められている。

 

 その中に赤黒いものが混じっている。

 

「水銀……?」

 

 獅子劫が眉を寄せる。

 

「水銀と血液を混ぜているように見える」

 

 Ⅱ世が覗き込む。

 

「弾丸そのものに何らかの神秘を付与しているのか」

 

「それ以上は後にしませんかい?」

 

 パッチが言う。

 

「まだまだお仲間が来そうですぜ」

 

 その言葉通り。

 

 遠くで、獣のような声が響いた。

 

「……行くぞ」

 

 獅子劫が立ち上がった。

 

「ここで話し込んでる暇はない」

 

 黒衣の男は、すでにかなり先を歩いている。

 

 五人は慌ててその後を追った。

 

 どれほど歩いただろう。

 

 ヤーナムの街路を抜けた先に、巨大な橋が現れた。

 

 街の高所と高所を繋ぐ、巨大な石造りの大橋。

 

 両脇には高い建物が並び、遥か向こうには巨大な門が見える。

 

 門は閉じられていた。

 

「……大橋」

 

 Ⅱ世が足を止めた。

 

「まさか」

 

 ルヴィアも同じものを思い出したらしい。

 

「手記の……」

 

「『獣狩りの夜、聖堂街への大橋は封鎖された』」

 

 Ⅱ世が呟く。

 

「ここが、その大橋なのかもしれない」

 

 獅子劫が門を見る。

 

「ってことは、向こうが聖堂街?」

 

「おそらく」

 

 その先へ続く門。

 

 だが、そこへ至る道は閉ざされている。

 

 まるで都市そのものが、何かを閉じ込めているようだった。

 

 そして。

 

 黒衣の男は、そんな彼らの推測など一切気にすることなく歩き続けていた。

 

「おい、待て!」

 

 獅子劫が声を上げる。

 

 男は止まらない。

 

 大橋の中央へ向かって歩く。

 

「……本当に肝が据わってますなぁ」

 

 パッチが苦笑した。

 

 その時だった。

 

 門の向こう。

 

 月明かりを背に。

 

 何かが跳んだ。

 

「――ッ!」

 

 グレイが息を呑む。

 

 巨大な影。

 

 人間より遥かに大きい。

 

 四本の脚。

 

 異様に発達した右腕。

 

 そして。

 

「グオオオオオオオオオッ!」

 

 金切声のような遠吠え。

 

 巨体が石畳へ落下した。

 

 地面が震える。

 

 その姿は、かつて人間だったものの面影を僅かに残していた。

 

 だが、それ以上に獣だった。

 

 黒い毛。

 

 肥大化した筋肉。

 

 異常なほど長い腕。

 

 黄色く濁った眼。

 

「……あれが」

 

 Ⅱ世が息を呑む。

 

「獣……」

 

 獣がこちらを見る。

 

 次の瞬間。

 

 跳んだ。

 

 巨体が信じられない速度で迫る。

 

 しかし。

 

 黒衣の男も同時に動いていた。

 

 鉈が閃いた。

 

 獣の右腕が振り下ろされる。

 

 男は横へ滑るように回避した。

 

 石畳が砕ける。

 

 直後。

 

 男が獣の懐へ入り込む。

 

 鉈が下から上へ振り抜かれた。

 

 毛皮が裂ける。

 

 黒い血が飛び散る。

 

「速い……!」

 

 グレイが呟く。

 

 獣が咆哮する。

 

 左腕を振り回す。

 

 男はしゃがんだ。

 

 頭上を巨大な腕が通過する。

 

 そのまま地面を転がり、起き上がる。

 

 銃声。

 

 至近距離から弾丸を撃ち込む。

 

 獣が怯んだ。

 

 その一瞬。

 

 男が跳ぶ。

 

 鉈が大きく振り上げられた。

 

 ――ザンッ!

 

 肩口へ深々と食い込む。

 

 だが。

 

 獣は止まらない。

 

「無茶苦茶だ!」

 

 獅子劫が叫ぶ。

 

 獣が男を殴り飛ばそうとする。

 

「師匠!」

 

 グレイが走り出す。

 

「待て!」

 

 Ⅱ世が叫んだ。

 

 だが、もう遅い。

 

 グレイがアッドを構え、獣の側面へ飛び込む。

 

 刃が毛皮を裂いた。

 

 獣が振り向く。

 

 そこへガンドが炸裂した。

 

「こちらですわ!」

 

 ルヴィアが叫ぶ。

 

 獣の顔面で魔力が弾ける。

 

 獣が怯んだ。

 

 Ⅱ世はその隙を逃さない。

 

「――視界を奪う!」

 

 指先から魔術が走る。

 

 光。

 

 幻。

 

 視界を覆い尽くす白い残像。

 

 獣が頭を振る。

 

 何も見えない。

 

「今だ!」

 

 獅子劫が引き金を引く。

 

 水銀と血を封じ込めた弾丸が獣の胸へ食い込んだ。

 

 黒い血が飛び散る。

 

「効いてる!」

 

「なら、これも食らいな!」

 

 パッチが火炎瓶を投げた。

 

 ガラスが割れる。

 

 炎が獣の毛皮を包み込む。

 

「グオオオオオッ!」

 

 獣が暴れた。

 

 炎を振り払う。

 

 その巨体が橋を揺らす。

 

「なんて生命力ですの……!」

 

 ルヴィアが歯噛みする。

 

「一発や二発では止まりませんわ!」

 

「だったら、もっと撃ち込む!」

 

 獅子劫が銃を構える。

 

 その時。

 

 獣が跳んだ。

 

 狙いは男だった。

 

「危ない!」

 

 グレイが叫ぶ。

 

 男は鉈を構える。

 

 真正面から受けるつもりか。

 

 いや。

 

 直前で身を捻った。

 

 獣の腕が肩を掠める。

 

 男は吹き飛ばされた。

 

「――ッ!」

 

 石畳を何度も転がる。

 

 最後に壁へ叩きつけられた。

 

「おい!」

 

 獅子劫が叫ぶ。

 

 男の左腕が、不自然な方向へ曲がっている。

 

 明らかに折れている。

 

「師匠!」

 

 グレイが駆け寄ろうとした。

 

 しかし。

 

 男は立ち上がった。

 

 折れた腕を一瞥する。

 

 そして、何事もなかったかのように懐へ手を入れた。

 

 取り出したのは、注射器のようなシリンダーだった。

 

「……何を?」

 

 Ⅱ世が目を見開く。

 

 男はシリンダーの先端を自分の腿へ突き刺した。

 

 躊躇いがない。

 

 押し込む。

 

 透明な容器の中にあった、赤黒い液体が流れ込む。

 

 次の瞬間。

 

 異変が起きた。

 

 折れていた腕が。

 

 音を立てて戻った。

 

 骨が動く。

 

 筋肉が締まる。

 

 裂けた皮膚が閉じていく。

 

 数秒。

 

 それだけだった。

 

 男は左腕を握る。

 

 完全に治っている。

 

「……」

 

 Ⅱ世は言葉を失った。

 

「……なんですの、今の」

 

 ルヴィアも呆然としている。

 

「後でいい!」

 

 獅子劫が怒鳴った。

 

「今はあいつをどうにかするぞ!」

 

 Ⅱ世が我に返る。

 

「……分かった!」

 

 男はすでに獣へ向かって走っていた。

 

「ルヴィア!」

 

 Ⅱ世が叫ぶ。

 

「分かっていますわ!」

 

 ルヴィアが宝石を取り出した。

 

 その数。

 

 十。

 

 二十。

 

 三十。

 

 いや、それ以上。

 

「少し時間をくださいまし!」

 

「どれくらいだ!」

 

「私が満足するまでですわ!」

 

「それを時間と言うのか!」

 

 獣が咆哮する。

 

 男が鉈で受ける。

 

 吹き飛ばされる。

 

 立ち上がる。

 

 また斬る。

 

 まるで痛みという概念が存在しないかのようだった。

 

「援護するぞ!」

 

 獅子劫が銃を撃つ。

 

 水銀弾が獣の脚へ命中する。

 

 パッチが火炎瓶を投げる。

 

「こいつもどうぞ!」

 

 炎が燃え上がる。

 

 グレイが懐へ潜り込む。

 

「はあっ!」

 

 アッドが脚を切り裂く。

 

 獣が振り向く。

 

 そこへⅡ世の魔術が炸裂した。

 

「こちらを見ろ!」

 

 光が獣の眼前で弾ける。

 

 獣が咆哮する。

 

 男がその隙に鉈を叩き込む。

 

 肩。

 

 脇腹。

 

 腿。

 

 何度も斬る。

 

 だが、獣は倒れない。

 

「まだですの……!」

 

焦りから乱れる魔力を必死に制御する

 

 ルヴィアの宝石が宙に浮かび円陣を描き始める。

 

 魔力が膨れ上がっていく。

 

「もう少し!」

 

「なら、稼ぐぞ!」

 

 獅子劫が叫ぶ。

 

 グレイが獣の腕を避ける。

 

 パッチが火炎瓶を投げる。

 

 Ⅱ世が視界を奪う。

 

 獅子劫が銃を撃つ。

 

 そして男が斬る。

 

 全員が一瞬でも気を抜けば、巨大な腕に叩き潰される。

 

 それでも。

 

 誰も退かなかった。

 

「――完成しましたわ!」

 

 ルヴィアの声が響いた。

 

 宝石が一斉に輝く。

 

 空間そのものが震える。

 

「退きなさい!」

 

 全員が飛び退いた。

 

 直後。

 

 膨大な魔力が奔流となって獣へ殺到した。

 

 地面が砕ける。

 

 橋全体が揺れる。

 

 獣の巨体が炎と光の中へ消える。

 

「グオオオオオオオオオオオオッ!」

 

 絶叫。

 

 巨体が大きく仰け反る。

 

 そして。

 

 膝をついた。

 

「今です!」

 

 ルヴィアが叫ぶ。

 

 男は答えない。

 

 ただ走った。

 

 鉈を捨てる。

 

 獣の頭部へ飛びつく。

 

 そして。

 

 右腕を。

 

 獣の頭蓋へ突き入れた。

 

「――ッ!」

 

 グレイが息を呑む。

 

 男の腕が、頭部の奥へ消える。

 

 獣が絶叫する。

 

 男はそのまま腕を引き抜いた。

 

 何かを掴んでいる。

 

 脳髄。

 

 黒い血に塗れたそれを、男は引きずり出した。

 

 獣の巨体が大きく震える。

 

 そして。

 

 弾けた。

 

 肉体が崩れるのではない。

 

 霧のように。

 

 黒い靄となって。

 

 巨大な身体そのものが、空中へ溶けていく。

 

 数秒後。

 

 そこには何も残っていなかった。

 

 静寂。

 

 誰も言葉を発しない。

 

 全員が息を切らしている。

 

 やがて。

 

 男が振り返った。

 

 血に濡れた顔。

 

 無言のまま。

 

 そして。

 

 静かに一礼した。

 

 帽子のつばに手を添え、丁寧に頭を下げる。

 

 狩人の一礼。

 

「……こちらこそ」

 

 ルヴィアが息を整えながら答えた。

 

 Ⅱ世が男へ近づく。

 

「待ってくれ」

 

 男が顔を上げる。

 

「君は、この都市について何を知っている?」

 

 沈黙。

 

「我々はここへ調査に来た。しかし、何らかの異常に巻き込まれたようだ」

 

 男は答えない。

 

「血の医療について聞きたい。医療教会についても――」

 

 視界が揺れた。

 

「……な」

 

 猛烈な眠気。

 

 まただ。

 

 Ⅱ世は膝をついた。

 

「まさか……」

 

 グレイが動揺する。

 

 ルヴィアも地面に手をつく。

 

「また、この眠気……!」

 

 獅子劫が舌打ちした。

 

「おい、待て!」

 

 男へ手を伸ばす。

 

 だが。

 

 視界が暗くなる。

 

 最後に見えたのは。

 

 こちらを見つめる、あの狩人の姿だった。

 

 

 

 目を覚ました。

 

「……っ!」

 

 Ⅱ世が飛び起きる。

 

 知っている天井。

 

 診療所。

 

 自分たちが拠点としていた病室だった。

 

「……戻った?」

 

 獅子劫が起き上がる。

 

 ルヴィアもいる。

 

 だが。

 

「グレイは?」

 

 Ⅱ世が尋ねた。

 

 返事はない。

 

「……パッチ?」

 

 こちらも、いない。

 

 三人が顔を見合わせた。

 

 室内を調べる。

 

 荷物。

 

 資料。

 

 武器。

 

 全て残っている。

 

 だが、二人だけがいない。

 

「別の場所に飛ばされた可能性がありますわね」

 

 ルヴィアが言う。

 

「あるいは、我々だけが戻された」

 

 Ⅱ世は焦燥しながらもそう答えた。

 

 だが、確証はない。

 

「探すぞ」

 

 獅子劫が立ち上がる。

 

「この街で二人を放置するのは危険すぎる」

 

 昼のヤーナム。

 

 街は再び無人だった。

 

 昨夜見た狂乱など、最初から存在しなかったかのように。

 

 建物。

 

 石畳。

 

 棺桶。

 

 すべて昼間の姿に戻っている。

 

 だが。

 

 昨夜の出来事が夢だったとは思えない。

 

 獅子劫の手には、あの水銀弾が残っていた。

 

 ルヴィアの衣服には、僅かにだが獣の血が付着している。

 

 そしてⅡ世の記憶には、あの狩人の姿が焼き付いていた。

 

「グレイ!」

 

「パッチ!」

 

 何度呼んでも返事はない。

 

 民家を一軒ずつ確認する。

 

 診療所へ戻る。

 

 街路を調べる。

 

 何もない。

 

 手掛かりもない。

 

 やがて三人は、昨夜の大橋へ辿り着いた。

 

 巨大な門は、閉ざされたまま。

 

「ここだ」

 

 Ⅱ世が言った。

 

「我々が獣と戦った場所だ」

 

 石畳には、戦闘の痕跡すら残っていない。

 

 あれほど激しく戦ったというのに。

 

 まるで何も起きていない。

 

「……妙ですわね」

 

 ルヴィアが呟く。

 

 その時。

 

 地面が揺れた。

 

「何だ?」

 

 獅子劫が銃を構える。

 

 石畳の隙間から。

 

 白いものが浮かび上がってきた。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 小さな身体。

 

 白く干からびたような皮膚。

 

 異様に細い手足。

 

 頭部には帽子のようなものを被っている。

 

 人間。

 

 とは到底思えない。

 

「……何ですの、これ」

 

 ルヴィアが身構える。

 

 だが、それらは襲ってこなかった。

 

 小さな身体を震わせながら。

 

 ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

 そして。

 

 一体が両手を差し出した。

 

 そこにあったのは、一冊の小さな手記だった。

 

「……手帳?」

 

 Ⅱ世が受け取る。

 

 表紙には何も書かれていない。

 

 だが。

 

 中を開いた瞬間。

 

「……!」

 

 見覚えのある筆跡。

 

 グレイだった。

 

 ――師匠。

 

 ――もし、この手記を見つけているなら、私は今、師匠たちとは別の場所にいます。

 

 Ⅱ世は息を呑む。

 

 続きを読む。

 

  ――目が覚めた時、私は一人でした。

 

 ――ですが、あの狩人の方と出会いました。

 

 ――狩人は私を助けてくれました。

 

 ――その後、狩人の方と一緒に行動しています。

 

 Ⅱ世の目が文章を追っていく。

 

――オドン教会という場所へ向かっています。

 

 ――この街では、そこが数少ない避難所になっているそうです。

 

 ――オドン教会へ向かう途中、パッチさんと合流しました。

 

 ――パッチさんも、私と同じように別の場所へ飛ばされたようです。

 

 ――私たちはしばらく一緒に行動しました。

 

 次のページ。

 

 ――ですが、パッチさんは私を狩人の方に預けました。

 

 ――「嬢ちゃんは、この旦那と一緒に安全な場所で待ってな」と。

 

 ――「師匠たちを探すなら、俺一人の方がやりようはある」と言っていました。

 

 Ⅱ世の眉が僅かに動いた。

 

 パッチらしい。

 

 あの男なら、確かにそう言うだろう。

 

 ――私は一人では危険だと反対しました。

 

 ――ですが、パッチさんは聞いてくれませんでした。

 

 ――狩人の方にも、私を連れてオドン教会へ向かうよう頼んでいました。

 

 ――そしてパッチさんは、一人で市街地へ戻っていきました。

 

 ――師匠たちの痕跡を探すために。

 

 そこで文章が途切れている。

 

 最後に、僅かに震えた筆跡で一文だけが残されていた。

 

 ――どうか、三人とも無事でいてください。

 

Ⅱ世は手記を閉じた。

 

「……グレイは、オドン教会へ向かったのか」

 

「ええ」

 

ルヴィアが答える。

 

「しかも、この地図を見る限り、道順まで残してありますわ」

 

簡素な手書きの地図。

 

決して正確とは言えないが、ヤーナムの複雑な街路を歩いたグレイが、記憶を頼りに描いたものだろう。大橋からいくつかの分岐を経て、最終的にオドン教会へ至る道が記されている。

 

獅子劫がそれを覗き込んだ。

 

「なら、追えばいいんじゃないのか?」

 

「……いや」

 

Ⅱ世は首を横に振った。

 

「そう簡単にはいかない」

 

「何?」

 

「グレイがこの手記を書いたのは、我々が今いる時間とは違う」

 

獅子劫が黙る。

 

「昨夜、我々が飛ばされた先では、ヤーナムに人がいた。獣狩りの夜が起きていた。グレイはそこで狩人と出会い、パッチとも合流した。そして、そのままオドン教会へ向かった」

 

「つまり……」

 

ルヴィアが言葉を引き継ぐ。

 

「この昼のヤーナムにあるオドン教会へ行っても、グレイたちがいるとは限らない」

 

「ああ」

 

獅子劫は頷いた。

 

「むしろ、いない可能性のほうが高い」

 

昼のヤーナムには、人の気配がない。

 

獣狩りの夜も起きていない。

 

あの狩人も。

 

グレイも。

 

パッチも。

 

ここにはいない。

 

「なら、先にやることがある」

 

Ⅱ世は診療所の奥を振り返った。

 

「あの鐘だ」

 

獅子劫が顔をしかめる。

 

「壊れた鐘か」

 

「そうだ」

 

Ⅱ世は頷いた。

 

「あれが我々を、あの夜へ移動させた可能性が極めて高い」

 

「しかし、鳴らないのでしょう?」

 

ルヴィアが尋ねる。

 

「だからこそ調べる」

 

Ⅱ世の目が鋭くなる。

 

「普通の鐘ではない。音を発する機構そのものが壊れているにもかかわらず、我々は確かに鐘の音を聞いた。そして、その直後に全員が意識を失い、別のヤーナムへ移動した」

 

「鐘そのものが原因なのか、それとも何か別の術式が発動したのか」

 

「それを確かめる」

 

Ⅱ世は手記を懐へしまった。

 

「グレイを追うのは、その後だ」

 

「……教会へ向かうのを後回しにするんですの?」

 

「グレイがいるのは、あの夜のオドン教会だ」

 

Ⅱ世は静かに答えた。

 

「我々が今いる場所から向かっても、彼女と遭遇できる保証はない。それどころか、同じ場所に存在しているかすら怪しい」

 

獅子劫が腕を組む。

 

「つまり、先に戻る方法を探す」

 

「そういうことだ」

 

「そして、その鍵になるのが鐘」

 

「ああ」

 

Ⅱ世は一度、病室の奥を見る。

 

「幸い、鐘はまだ診療所にある」

 

ルヴィアが微笑んだ。

 

「では、魔術師らしく謎解きといきますか」

 

「そうだな」

 

Ⅱ世も僅かに笑った。

 

「まずはあの鐘を解析する」

 

そして、その表情から笑みが消える。

 

「ただし――」

 

「何ですの?」

 

「もしあの鐘が本当に我々を別の時間、あるいは別の位相へ移動させるためのものだとすれば」

 

Ⅱ世は低く呟いた。

 

「次に鳴らした時、我々がどこへ飛ばされるかは分からない」

 

三人の間に沈黙が落ちた。

 

それでも。

 

やるしかない。

 

グレイは「あの夜」にいる。

 

パッチもまた、あの夜のヤーナムを一人で歩いている。

 

そして彼らを追うには――。

 

まず、もう一度あの夜へ戻らなければならない。

 

「行こう」

 

Ⅱ世が立ち上がった。

 

「鐘を調べる」

 

その先に何が待っているのか。

 

それを知るために。

 

そして、グレイたちを追うために。

 

一行はまず、ヨセフカ診療所へ戻ることにした。

 

 




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