『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
封印を解いた扉の先には、これまで通ってきた場所とは異なる、広々とした空間が続いていた。
三人は慎重に扉を抜ける。
まず感じたのは、開放感だった。
空が、近い。
頭上には遮るものがほとんどなく、薄暗い空が大きく広がっている。
聖堂街の高所。
そのさらに上へと突き出すように、この場所は造られていた。
「……随分と開けていますわね」
ルヴィアが周囲を見回す。
「ここまで来ると、街の中という感じがしませんなぁ」
パッチも空を見上げた。
遠くには、聖堂街の建物が連なっている。
今まで歩いてきた街並みが、遥か下に見えた。
「……なるほど」
Ⅱ世が空を見上げる。
先ほど見つけた紙片の言葉が、頭に浮かんだ。
『宇宙は空にある。聖歌隊』
「『宇宙は空にある』……か」
「どうかしました?」
ルヴィアが振り返る。
「いや」
Ⅱ世はしばらく空を見つめていた。
「この言葉は、単なる比喩ではないのかもしれんな」
「どういう意味ですの?」
「まだ何とも言えん。ただ、ここがこれほど空に近い場所に造られていることを考えると……」
Ⅱ世は言葉を切った。
「空そのものに、何か意味を見出していた者たちがいたのかもしれない」
「聖歌隊が、ですか?」
「それもまだ分からん」
Ⅱ世は首を横に振る。
「だが、少なくとも無関係とは思えないな」
三人はしばらく周囲を見回した。
そして。
その先に、大きな建物が見えた。
高い壁。
大きな窓。
空へ伸びるような尖塔。
それは、この場所に建てられた施設の中でも、とりわけ大きなものだった。
「……あれが本体でしょうか」
ルヴィアが目を細める。
「そうみたいですなぁ」
パッチが答える。
「外から見ていたより、ずっと大きいですな」
Ⅱ世も建物を見つめる。
「ここから先は、あの建物を調べる必要がありそうだ」
三人は建物へ向かって歩き始めた。
近づくにつれ、その大きさがはっきりしてくる。
壁は高く、内部の様子は外からでは分からない。
入口を抜ける。
その瞬間、空気が変わった。
外とは違い、内部は暗かった。
窓から差し込む光も僅かで、少し奥へ進むだけで細部が闇に沈んでいる。
「……これは、何か灯りが必要ですな」
パッチが荷物を探った。
「こういう時のために、持ってきておいて正解でした」
取り出したのは、小さなランタンだった。
火を灯すと、淡い明かりが周囲を照らした。
「助かりますわ」
「いやぁ、役に立つ男でしょう?」
「自分で言わなければ、もう少し格好がつきますのに」
「これは手厳しい」
パッチが笑う。
三人はランタンの明かりを頼りに、建物の内部を進んでいった。
やがて、広い空間へ出る。
その中央には、大きなシャンデリアが落ちていた。
装飾は砕け、金属の枠が床に横たわっている。
「……これも落ちたままですわね」
「長い間、誰も手を入れていないようだな」
Ⅱ世が残骸を見下ろす。
かつては、この広い空間を照らしていたのだろう。
今では、その役目を終えたまま床に転がっている。
三人はその脇を通り抜け、さらに奥へ進んだ。
やがて、ランタンの光が開かれた扉の先を照らす。
そこに何かがあった。
「……?」
パッチが足を止める。
「どうしました?」
ルヴィアが尋ねる。
「……あれは、人じゃないですかねぇ」
三人の視線が一点へ集まった。
誰かが立っている。
そう見えた。
Ⅱ世が先頭に立ち、ゆっくりと近づいていく。
ランタンの光が、その姿を少しずつ照らし出した。
干からびた身体。
古びた衣服。
生気を失った顔。
そして――
右腕は、頭上へ向かって伸びている。
左腕は、肩の高さで横へ伸ばされていた。
「…………」
三人とも、しばらく言葉を失った。
「……死体、ですわね」
ルヴィアがようやく呟いた。
「ああ」
Ⅱ世も短く答える。
近くで見れば、それが生きた人間ではないことは明らかだった。
長い年月の中で身体は干からび、まるでミイラのようになっている。
それでも、立ったまま残された姿勢だけは崩れていない。
「……何ですか、これ」
パッチの声からも、いつもの軽さが消えていた。
Ⅱ世は死体を見つめた。
ヤーナムへ来てから、初めて見る死体だった。
人の死体も。
白骨化したものも。
獣の死体さえも。
これまで一度も目にしていない。
街には、人が暮らしていた痕跡が残っている。
だが、死んだ者だけが、どこにも残されていなかった。
それが初めて、目の前にある。
「……今まで、死体なんてありませんでしたわね」
ルヴィアが静かに言った。
パッチも頷く。
「あっしも、初めて見ましたな」
Ⅱ世は答えず、死体の姿を観察していた。
「右腕……上を指しているようにも見えますわ」
「左腕は横か」
「何かを示しているのでしょうか」
「分からん」
Ⅱ世は目を細める。
「だが、偶然こうなったとは思えないな」
三人は、しばらくその死体を見つめていた。
ここが何のための場所なのか。
なぜ、こんな姿で死体が残されているのか。
そして――
先ほど見つけた「聖歌隊」という言葉と、何か関係があるのか。
まだ、答えは出ない。
Ⅱ世は、あの言葉を思い返していた。
「宇宙は空にある。聖歌隊」
「……妙な言葉ですわね」
ルヴィアが言う。
「普通に考えれば、当たり前のことですわ。宇宙が空にあるなんて」
「そうだな」
Ⅱ世も頷いた。
「だからこそ、気になる」
「と、いいますと?」
パッチが首を傾げる。
「わざわざ書き残す必要がない」
Ⅱ世は空を見上げた。
「空に宇宙がある。それ自体は誰でも知っていることだ。
少なくとも、普通の人間ならそう考えるだろう」
「では、別の意味があると?」
「ああ」
Ⅱ世は少し考える。
「魔術師は、当たり前の事実をそのまま言葉にすることを嫌う。特に研究に関わる連中ならな」
「天体の観測そのものではなく、そこに魔術的な意味を見出すわけですわね」
ルヴィアが言う。
「ああ。魔術師にとって、星は単なる遠い天体ではない」
Ⅱ世は言葉を選ぶように続けた。
「星の位置、運行、周期。それらが世界の構造や魔術に何らかの意味を持つと考える者もいる」
そこで、ふと別の記憶が蘇る。
ヤーナムへ向かう前。
封鎖された都市について調べていた際に見た、あの術式。
円環状の構造。
その周囲に並んでいた、星辰を思わせる記号。
「……そういえば」
Ⅱ世が呟いた。
「最初に見た、ヤーナムを封じていた術式もそうだった」
「封印の術式ですか?」
「ああ。円環状の構造に、星辰を思わせる記号が並んでいた」
Ⅱ世は記憶を辿る。
「こちらへ来る前に見た時は、天体術式に似ていると思った」
「……それと、今の言葉が繋がると?」
ルヴィアが問う。
「まだ、そこまでは言えん」
Ⅱ世は首を横に振った。
「封印術式と、この場所の思想が同じものだという証拠はない。だが――」
先ほどの紙片へ目を向ける。
「ヤーナムでは、星や宇宙を魔術的な意味で扱う何かが存在している可能性はある」
パッチが紙片の言葉を思い返す。
「つまり、『宇宙は空にある』というのは……」
「空を見上げれば宇宙が見える、という意味ではないのかもしれん」
Ⅱ世が答えた。
「『宇宙』そのものを、空の向こう側にある何かとして捉えている。あるいは――」
一度、言葉を止める。
「空そのものを、別の世界へ繋がる場所として考えている可能性もある」
「……別の世界」
ルヴィアが反応した。
「ああ。もっとも、これは現時点では推測にすぎない」
Ⅱ世は紙片を見つめる。
「問題は、その言葉の後に『聖歌隊』と書かれていたことだ」
「聖歌隊が、その考えを研究していた?」
「そう考えることはできる」
Ⅱ世は紙片を眺める。
「だが、まだ何も断定できん。ここが聖歌隊に関係する場所なのかすら、確証はない」
「それでも、ただの標語とは思えませんわね」
「私もそう思う」
Ⅱ世は紙片をしまった。
「『宇宙は空にある』――」
もう一度、その言葉を口にする。
「普通の人間には当たり前すぎる言葉だ。
だからこそ、魔術師が残したものなら、その当たり前の裏側を疑うべきだろう」
ルヴィアは静かに頷いた。
「では、この場所は……空の向こうにある何かを研究するための場所だった可能性も?」
「可能性の一つだな」
Ⅱ世は建物の奥へ目を向けた。
「そして、もしそうなら――」
暗い上層の奥を見つめる。
「ここにあるものを調べれば、その意味も少しは見えてくるかもしれん」
「それは、調べるしかありませんわね」
「ですなぁ」
パッチが小さなランタンを掲げる。
「せっかくここまで来たんです。何が出てくるのか、見てみましょうや」
三人は再び、暗い施設の奥へと歩き始めた。
※
三人は、再び建物の中へ足を進めた。
小さなランタンの明かりが、薄暗い室内を照らしている。
外から見た時には広く感じられた建物も、中へ入ってみればいくつもの部屋に分かれていた。
壁際には棚や机が残されている。
だが、長い年月放置されていたのか、どれも埃を被っていた。
「……何かに使われていた場所なのは間違いなさそうですわね」
ルヴィアが棚を眺める。
「ああ」
Ⅱ世も周囲を見回す。
「だが、普通の居住区には見えないな」
机の上に残された紙片を手に取る。
文字はほとんど判別できなかった。
Ⅱ世はそれを元に戻す。
「資料を置いていた場所か、何らかの研究をしていた場所か……」
「研究ですかい?」
パッチが反応する。
「そう考える理由がありますの?」
「さっき見つけたものだ」
Ⅱ世は先ほどの部屋を振り返った。
「『宇宙は空にある。聖歌隊』」
「ああ、それですなぁ」
パッチが頷く。
「妙な言葉でしたねぇ」
「ええ」
ルヴィアも同意する。
「ただの標語にしては、妙に意味深ですわ」
三人は別の部屋へ入った。
そこにも棚が並んでいる。
ほとんどは空だった。
しかし――
「……これは?」
ルヴィアが足を止めた。
棚の奥に、小さな瓶が置かれている。
薄いガラス越しに、中へ何かが沈んでいた。
パッチがランタンを近づける。
「何か入ってますな」
「生き物……でしょうか」
ルヴィアが瓶を覗き込む。
中にあったのは、白く光沢のある小さな軟体生物だった。
丸みを帯びた身体。
表面は、真珠のような淡い光を返している。
だが、すでに動いてはいない。
「……妙な生き物ですわね」
「ヤーナムじゃ、妙じゃないものを探すほうが難しいですがねぇ」
パッチが軽口を叩く。
Ⅱ世は瓶を手に取った。
底に、何かが貼り付けられている。
「……文字がある」
三人が覗き込む。
Ⅱ世が目を細める。
「『精霊』……?」
「精霊?」
ルヴィアが聞き返す。
Ⅱ世は瓶の中の生物へ目を向けた。
「魔術師にとっての精霊とは、本来こういう生物を指す言葉ではない」
「ええ」
ルヴィアも頷く。
「超自然的、あるいは霊的な存在。
そして、世界を構成する四大元素に結びつく存在を精霊と呼ぶのが一般的ですわ」
「そうだ」
Ⅱ世は瓶をゆっくりと回した。
「だからこそ妙なんだ。医療教会は、この軟体生物そのものを『精霊』と呼んでいる」
「見た目からして、普通の生物とは思えませんが……」
「それはそうだがな」
Ⅱ世は瓶の中身を見つめる。
「少なくとも、時計塔で使われる意味とは明らかに違う」
「つまり、医療教会独自の呼び方ということですか」
「おそらくな」
Ⅱ世はそう答えたものの、すぐには瓶から目を離さなかった。
「問題は、なぜこれを精霊と呼んだのかだ」
瓶の中で、白い軟体生物が淡い光を返している。
「単なる比喩なのか。それとも……彼らにとって、本当に何らかの霊的存在だったのか」
その言葉に、ルヴィアも黙って瓶を見つめた。
瓶の隣には、折り畳まれた紙が落ちていた。
Ⅱ世が拾い上げる。
紙はかなり古い。
ところどころ文字が擦れている。
「……読めますの?」
「一部ならな」
Ⅱ世は紙面を追う。
しばらく黙っていたが、やがて眉を寄せた。
「……地下遺跡、か」
「地下?」
ルヴィアが身を寄せる。
「この生物との邂逅が、何かの研究の始まりだったらしい」
「何の研究です?」
「……宇宙についてだ」
ルヴィアが黙る。
パッチも瓶へ目を向けた。
「地下遺跡で見つけた生き物から、宇宙ですか」
「ああ」
Ⅱ世は紙を読み直す。
「妙な話だな」
「宇宙を調べるなら、普通は天体を観測しますものね」
「そうだ」
Ⅱ世が頷く。
「時計塔の天体科も、基本的にはそういうものだ」
ルヴィアも頷いた。
「ええ。ですから、地下遺跡から宇宙を求めたというのは……」
「かなり変わっている」
Ⅱ世が言葉を引き取った。
三人の間に、しばし沈黙が落ちる。
先ほど見つけた紙片。
『宇宙は空にある。聖歌隊』
その言葉が、Ⅱ世の頭をよぎる。
「……あるいは」
Ⅱ世が呟いた。
「彼らが言う『宇宙』は、我々が考えているものとは違うのかもしれんな」
「どういう意味ですの?」
「まだ分からん」
Ⅱ世は紙を折り畳んだ。
「だが、少なくとも、この場所では宇宙という言葉が何度も出てくる」
「それだけでも偶然とは思えませんなぁ」
パッチが言った。
「そうだな」
三人はさらに部屋の中を調べ始めた。
棚の中。
机の下。
壁際の箱。
しかし、それ以上に目立ったものは見つからない。
やがて、Ⅱ世が部屋の隅に置かれた小さな木箱へ目を向けた。
「……あれは?」
木箱を開ける。
中には、布に包まれた小さな金属製の証が入っていた。
Ⅱ世が布を解く。
「……これは」
金属製の証だった。
円形の表面。
中央には、一つの瞳。
その瞳の中には、星を思わせる細かな模様が刻まれている。
「目……ですわね」
ルヴィアが呟く。
「瞳を象った紋章でしょうな」
パッチが横から覗き込む。
Ⅱ世は裏返した。
そこには、短い文字が刻まれている。
「……聖歌隊」
Ⅱ世の声が低くなる。
ルヴィアも表面の意匠を見る。
「では、これが聖歌隊の証……」
「ああ。おそらくな」
Ⅱ世は瞳の模様をじっと見つめた。
「この意匠……先ほどの言葉と無関係とは思えんな」
「『宇宙は空にある』……」
ルヴィアが呟く。
Ⅱ世は答えなかった。
ただ、手の中の証を眺め続けている。
瞳。
星。
そして、聖歌隊。
まだ、それぞれの意味は繋がらない。
だが、少なくともこの場所で行われていた研究と、
聖歌隊という一派が無関係とは考えにくかった。
「……持って帰りましょう」
「そうだな」
「これは調べる必要がある」
パッチが瓶へ手を伸ばす。
「こっちもですな」
「慎重に扱え」
「分かってますよ」
パッチは瓶を布で包み、荷物へ収めた。
Ⅱ世も証をしまう。
そして、三人は部屋の奥へ目を向けた。
まだ、この建物の全容は分かっていない。
見つかったものも、断片ばかりだ。
だが。
先ほどの言葉が、少しだけ現実味を帯びてきていた。
――宇宙は空にある。
その意味を知るためには、もう少しこの場所を調べる必要がある。
「行こう」
Ⅱ世が言った。
三人はランタンの明かりを頼りに、さらに奥へと進んでいった。