『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
異形の死骸を前に、Ⅱ世たちはしばらく言葉を失っていた。
祭壇の上に横たわるそれは、二人の知るどの生物とも異なっている。
膨らんだ頭部。
そこに並ぶ、いくつもの目のような器官。
胴体から伸びる細長い肢。
その姿には言葉にしがたい異様さが残されていた。
「…………」
Ⅱ世は黙って死骸を見つめている。
ルヴィアも、すぐには言葉を発することができなかった。
やがて、Ⅱ世が小さく息を吐く。
「…記録だけでも取っておこう」
「…そうですわね」
ルヴィアは手帳を取り出した。
祭壇の前に立ったまま、死骸の形状を描いていく。
ルヴィアが記録を取っている間、Ⅱ世はゆっくりと祭壇へ近づく。
「少しだけ、調べてみる」
「何をなさるおつもりですの?」
「サンプルを採る。組織の一部が残っていれば、何か分かるかもしれん」
Ⅱ世は死骸の状態を確かめながら、慎重に手を伸ばした。
その指先が、白く硬化した皮膚へ触れようとした――
瞬間。
「――っ!」
鋭い痛みが、頭の奥を貫いた。
Ⅱ世の身体が大きく揺れる。
「先生!?」
ルヴィアが顔を上げる。
Ⅱ世は咄嗟に頭を押さえた。
「……ぐ、あ……っ」
頭が割れる。
頭蓋を内側から無理やり開かれているような激痛だった。
視界が歪む。
足元が崩れ、Ⅱ世はその場に片膝をついた。
頭の奥で、何かが蠢いている。
脳の表面を、細い何かが這っていた。
冷たいものが、脳の皺をなぞるように動いている。
そして――
何かが、ゆっくりと動いた。
まるで――
脳そのものに、閉じられた瞼があるかのように。
それが、内側からゆっくりと開いていく。
「……っ」
Ⅱ世の呼吸が止まる。
見えているわけではない。
それなのに、何かが見え始めている。
自分の目ではない。
もっと深い場所にある何かが、初めて外界へ向けて開かれようとしていた。
――脳の奥で、何かが瞳を開いた。
※
――その光景は、唐突に現れた。
暗い空間。
その奥には、先ほどⅡ世とルヴィアが目にしたものと同じ、古びた祭壇がある。
そして、その祭壇の手前に――それとは明らかに異なる、巨大な異形が鎮座していた。
その異形の周囲を取り囲むように、人の姿がある。
数人ではない。
十数人にも及ぶ人々が、一定の間隔を保ちながら崇めるかのように異形を囲んでいる。
彼らは皆、聖職者を思わせる衣を身に纏っていた。
目元を覆う奇妙な帽子もあり、誰一人として素顔をはっきりと見ることはできない。
彼らは声を発していなかった。
ただ、静かに両腕を掲げている。
右腕を高く。
左腕を水平に。
「…………」
その異形を取り囲む人々の姿に、見覚えがあった。
それは、この場所へ来る前に見たものと同じ姿勢だった。
あの建物の中で見つけた、朽ち果てた遺体。
その遺体もまた、同じように両腕を掲げていた。
彼らは誰一人として動かず、ただ同じ姿勢を保っている。
祈りなのか。
儀式なのか。
それとも――。
※
その答えを考えるより先に、異変が起きた。
巨大な異形の頭上で――。
何もないはずの空間が、ゆっくりと歪み始めた。
水面に触れたように、空間そのものが波打っている。
その光景を見ているのは、Ⅱ世だけだった。
歪みは次第に大きくなっていく。
円を描くように広がり、異形の頭上を覆っていく。
その向こう側に、何かが見えた。
暗黒。
しかし、それはただの闇ではなかった。
その奥には、無数の光が浮かんでいる。
それは暗黒の中に浮かぶ星々だった。
それらは静止していない。
ゆっくりと、巨大な渦を描きながら回転している。
星々が互いに絡み合い、長い尾を引きながら、中心へ吸い込まれていく。
夜空を見上げているのとは明らかに違う。
距離という概念すら存在しない。
ただ、果てのない宇宙が、目の前に開かれていた。
Ⅱ世は言葉を失った。
思考が追いつかない。
これは幻覚なのか。
魔術による現象なのか。
それとも――。
考えようとした瞬間。
眩い光が、すべてを覆い尽くした。
――。
遠くから、声が聞こえる。
「先生、しっかりなさってください‼」
Ⅱ世が目を開けた。
すぐ近くに、ルヴィアの顔がある。
その表情には、明らかな焦りが浮かんでいた。
「先生、聞こえますか!?」
「……ルヴィア……?」
「よかった……!」
ルヴィアが安堵の息を吐く。
「突然、倒れたんですのよ」
「私は……」
Ⅱ世はゆっくりと周囲を見回した。
そこには、先ほどまで見えていた光景はない。
祭壇。
異形の死骸。
薄暗い地下空間。
「……何があった?」
「それはこちらが聞きたいですわ」
ルヴィアが答える。
「先生はサンプルを採ろうとした直後、お倒れになったんですの」
「……そうか」
Ⅱ世は額を押さえた。
まだ頭の奥に、奇妙な感覚が残っている。
星。
渦。
そして、あの眩い光。
「……少し待て」
Ⅱ世は目を閉じた。
記憶を整理しようとする。
何を見た。
何が起きた。
あの巨大な異形は何だったのか。
あの人々は何をしていた。
そして、あの空間は――。
だが。
「……駄目だ」
思考がまとまらない。
考えようとすると、頭の奥が鈍く痛む。
記憶を掴もうとしても、その直前で何かが霧のように散っていく。
「無理に考えないでくださいませ」
ルヴィアが言った。
「今の先生は、明らかに普通ではありませんわ」
「……分かっている」
Ⅱ世は立ち上がろうとする。
だが、まだ身体に力が戻っていない。
ルヴィアがすぐに支える。
「戻りましょう」
「……拠点へ?」
「ええ。グレイも待っていますし、今の状態で探索を続けるべきではありませんわ」
Ⅱ世はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……そうだな」
二人は祭壇を離れた。
Ⅱ世は何度か振り返った。
そこには、何も変わらない異形の死骸が横たわっている。
先ほど見たものが現実だったのか。
それとも、自分だけに見えた幻だったのか。
今のⅡ世には判断できなかった。
二人は昇降機へ戻る。
古びた装置が低い音を響かせながら動き始めた。
やがて二人は地下遺跡を離れ、足取り重く、拠点へと戻っていった。