『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
ルヴィアは、月明かりに照らされた高台に立っていた。
先ほどまでいた場所とは、何もかもが違っている。
足元に広がる石造りの床。
遠くにそびえる巨大な建造物。
そして――。
頭上には、異様なほど大きな月が浮かんでいた。
ルヴィアは周囲を警戒しながら、先ほどの出来事を思い返す。
遺骸へ触れようとした瞬間
歪んだ視界。
崩れていく景色。
そして、気がついた時には、この場所に立っていた。
「……一体、何が起きたというのです」
答える者はいない。
静かな風だけが、高台を吹き抜けていく。
その時だった。
「おや……」
背後から、声がした。
「また、お会いしましたねぇ」
「――!」
ルヴィアは振り返った。
身体を僅かに沈め、いつでも魔術を放てるよう身構える。
そこに立っていたのは、以前に夢の中で見た男だった。
頭部を覆う、奇妙な金属製の檻。
その下にある顔は、人のものだ。
ただ、その目にはどこか常人とは異なる光が宿っている。
「……あなた」
「ふふ……」
男はルヴィアの警戒を意に介する様子もなく、ゆっくりと月を見上げた。
「…名を聞かせていただけます?」
ルヴィアが問いかける。
男はすぐには答えなかった。
しばらく月を眺めた後、ようやく口を開く。
「私は、メンシス学派の最後の者」
「ミコラーシュ」
「それが、私の名だよ」
「……ミコラーシュ」
ルヴィアは、その名を確かめるように繰り返した。
メンシス学派。
以前から記録の中で、その名だけは目にしていた。
だが、その本人とこうして対面することになるとは思ってもいなかった。
「あなたは、あの遺骸と関係があるのですわね」
「遺骸……」
ミコラーシュは、楽しそうに笑った。
「そうとも。今の私には、それが一番近い呼び方かもしれないねぇ」
その言葉に、ルヴィアは眉を寄せる。
「では、ここは何処ですの?」
「ここは……」
ミコラーシュは、ゆっくりと周囲を見渡した。
「我らが、かつて夢を見た場所だよ」
その声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「夢……?」
「そうとも」
ミコラーシュは月を見上げたまま続ける。
「我らは、ここで高みを求めた」
それ以上は語らない。
ルヴィアが続きを促そうとした時、ミコラーシュの方から言葉を継いだ。
「ところで――」
「君は、なぜここにいるのかねぇ」
「それを私が聞いているのですわ」
ルヴィアが答える。
「ふふ……そうだったねぇ」
ミコラーシュは愉快そうに笑った。
「私は君を連れてきたわけではないよ」
「君は、私に触れた」
その言葉に、ルヴィアの表情が変わる。
「……遺骸に?」
「そうとも」
「その瞬間、君の意識がこちらへ触れたのだ」
ミコラーシュは、自らの頭部を覆う檻へ指を添えた。
「記憶と呼んでもいい」
「夢と呼んでもいい」
「過去の残滓――そういうものだ」
ルヴィアは黙っていた。
以前、夢の中でこの男に会った。
その時は、ただ奇妙な夢だと思っていた。
だが、今ここにいる。
そして、この男は自分が遺骸へ触れたことを知っている。
偶然では済ませられない。
「つまり、私はあなたが残したものを見ている」
「そういうことだよ」
ミコラーシュは笑った。
「過ぎ去ったものは、消えるとは限らない」
「残るのだよ」
「記憶として」
「夢として」
「あるいは――」
檻の奥で、目が細められる。
「誰かの意識に触れるものとしてねぇ」
ルヴィアは答えなかった。
この男の言葉は、どこまでが事実なのか分からない。
ただ一つ。
自分がここへ来た理由だけは、少しずつ見えてきた。
「では、あなた方はここで何をしていたのです?」
ルヴィアが尋ねる。
ミコラーシュは月を見上げたまま、しばらく沈黙していた。
「……人間というものは、不思議だと思わないかねぇ」
「見えているものだけを世界だと思う」
「聞こえるものだけを真実だと思う」
「触れられるものだけを、存在すると信じる」
その声音は静かだった。
だが、言葉の端々には奇妙な熱が滲んでいる。
「しかし――」
ミコラーシュは、ゆっくりと片手を広げた。
「世界は、それほど狭くない」
「人間が知らないものもある」
「人間には認識できないものもある」
「我らは、そこへ手を伸ばした」
ルヴィアは、その言葉を聞きながらミコラーシュを観察していた。
彼が語っているのは、単なる知識欲ではない。
何かに取り憑かれている。
それだけは、はっきりと分かった。
「それが、メンシスの研究ですの?」
「そうとも」
ミコラーシュは笑った。
「我らは、人間の限界を疑った」
「肉体の強さではない」
「血の力でもない」
「もっと根本にあるもの――認識の限界をねぇ」
そこで初めて、ミコラーシュは自らの頭部を覆う檻を両手で示した。
「これも、そのためのものだよ」
「……その檻が?」
「器さ」
「人の意識を律し、余計なものを削ぎ落とす」
「俗世から距離を置き、ただ一つのものへ意識を向ける」
ミコラーシュの声が、僅かに弾む。
「そして、あちら側へ触れるための――触覚でもある」
「あちら側?」
「ふふ……」
ミコラーシュは答えない。
「人の頭では届かないところへ、意識を伸ばす」
「見えなかったものを捉える」
「聞こえなかったものへ耳を澄ます」
「それが、我らの求めたものだ」
ルヴィアは檻を見つめた。
「それを、あなた方は何と呼んだのです?」
「瞳」
短い答えだった。
「……瞳」
「目玉のことではないよ」
ミコラーシュが笑う。
「人間の側に、新しい認識の窓を開く」
「世界そのものが変わるわけではない」
「ただ――」
月を見上げる。
「今まで見えなかったものが、見えるようになる」
ルヴィアは、しばらく考えていた。
それならば、以前から気になっていたことがある。
「……では」
ルヴィアは、静かに口を開いた。
「あなた方が言う『進化』も、それと同じ意味ですの?」
「そうとも」
ミコラーシュは答えた。
「必ずしも、姿を変えることではない」
「人のまま、より広く世界を捉えられるのなら――それも一つの進み方だろう」
ルヴィアの視線が、ミコラーシュの檻へ向かう。
そして、先ほどまでいた場所に残されていた遺骸を思い出す。
「ですが、ここにいるあなたは――」
その言葉に、ミコラーシュはしばらく黙っていた。
やがて、檻の奥から笑い声が漏れる。
「ふふ……」
「そこを問うのかねぇ」
ミコラーシュは月を見上げた。
「では、逆に聞こう」
「人の姿を保っていることが、成功の証なのかね?」
ルヴィアは答えなかった。
それは、簡単には答えられない問いだった。
ヤーナムへ来てから、説明のつかないものを幾つも見てきた。
人が獣へ変わるという記録。
割れた頭蓋の中に蠢いていた、理解し難いもの。
夢の中で見た、ガラスの檻に閉じ込められた青いナメクジのようなもの。
聖堂街の上層で見つけた、真珠のような光沢を持つ奇妙な生物。
そして、祭壇に残されていた、人間とも獣ともつかない異形の死骸。
どれも、自分の知る常識から外れている。
それでも、それらを見ただけで「進化」と呼ぶつもりはない。
「……形だけでは、判断できませんわね」
ルヴィアがようやく答える。
「その通りだよ」
ミコラーシュは、意外なほど素直に頷いた。
「形は結果にすぎない」
「何を得たのか」
「何を認識できるようになったのか」
「そこを見なければ、何も分からない」
その言葉に、ルヴィアは僅かに目を細めた。
少なくとも、そこだけは理に適っている。
だが――。
だからといって、ミコラーシュの語る「高み」まで信じたわけではない。
「……それで、あなた方は何を得たのです?」
今度は、ミコラーシュが黙った。
しばらくして、檻の奥から低い笑い声が漏れる。
「ふふ……」
「それは――」
ミコラーシュは月を見上げた。
「次の夢で語るとしようかねぇ」
ルヴィアが眉を寄せる。
「また、それですの?」
「知識というものは、一度に手に入れるものではない」
「少しずつ」
「触れて」
「確かめて」
「そして、自らの目で見るものだ」
ミコラーシュは、うっとりと月を見上げた。
「君も、もう少しで届くかもしれないねぇ」
「……何に?」
ルヴィアが問い返す。
ミコラーシュは答えなかった。
ただ、月を見上げたまま笑っている。
ルヴィアも、その月へ視線を向けた。
まだ、上位者という存在を信じたわけではない。
ミコラーシュの語る「高み」も、「瞳」も、すべてを理解したわけではない。
だが――。
ヤーナムへ来てから見てきたものを、
すべて見間違いだったと片付けることも、少しずつ難しくなっていた。
少なくとも、「何かが存在する可能性」そのものまで否定することは、
もうできなくなりつつあった。