『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
視界が白く染まった。
次の瞬間。
ルヴィアは、見知らぬ場所に立っていた。
そこは、先ほどまでいた高台とは明らかに違っている。
円形に近い石造りの広場。
周囲には高い壁がそびえ、その上方だけが夜空へ開かれている。
月明かりが、石床を淡く照らしていた。
中央には、巨大な揺り籠のようなものが置かれている。
その周囲には、幾つもの燭台。
だが、火は灯っていない。
静まり返った場所だった。
「……ここは……」
ルヴィアが呟く。
しかし、その声は誰にも届かなかった。
自分の姿も、そこにいる者たちには見えていないらしい。
少し離れた場所に、人影があった。
一人。
二人。
やがて、何人もの人間が姿を現す。
彼らは皆、同じ方向を見ている。
その先にあるのは――巨大な揺り籠だった。
中には、赤子がいる。
眠っているのか。
生きているのか。
遠目には、それすら判然としない。
だが、周囲にいる者たちは、その赤子を中心に静かに立っていた。
やがて、誰かがゆっくりと手を上げる。
それに合わせるように、別の者も手を上げた。
祈るような姿勢。
だが、そこに神へ祈る者の敬虔さは感じられなかった。
何かを待っている。
何かが訪れることを、ひたすら待ち続けている。
やがて――。
赤子が泣いた。
小さな声だった。
だが、その瞬間。
空気が変わった。
風が止まる。
月明かりが揺らぐ。
そして、広場の上空に黒い影が現れた。
「……っ」
ルヴィアが息を呑む。
それは、巨大な何かだった。
人の姿ではない。
獣にも見えない。
幾つもの細長いものが、夜空の中でゆっくりと揺れている。
しかし、その全体を捉えることができない。
あまりにも大きい。
あまりにも異質だった。
それが、ゆっくりと降りてくる。
赤子の泣き声に応えるように。
人々が一斉に顔を上げた。
その姿に、恐怖を示す者はいなかった。
むしろ――。
歓喜している。
待ち望んでいたものが、ようやく現れた。
そんな様子だった。
ルヴィアは、その光景を凝視した。
これは――何なのか。
魔術によって呼び出された存在なのか。
それとも、本当にこの世界の外から来た何かなのか。
判断できない。
ただ、赤子の泣き声に応じて現れたことだけは明らかだった。
巨大な影が、さらに近づく。
その輪郭が、月明かりの中で僅かに浮かび上がった。
黒い外套のようなもの。
その下から伸びる、幾本もの腕。
その姿は、まるで巨大な鳥が翼を広げているようにも見えた。
だが、それは鳥ではない。
人間が知るどの生物とも違う。
それが、赤子のいる場所へ近づいていく。
そして――。
ルヴィアの耳元で、何かが囁いた。
誰の声なのか分からない。
幻視の中の人間が発したものなのか。
それとも、自分の頭の中に響いたものなのか。
判断することさえできない。
次の瞬間。
赤子の泣き声が、もう一度響いた。
巨大な存在が動く。
人々が一斉に跪く。
そして、月明かりが――。
すべてを覆い尽くした。
ルヴィアは思わず目を閉じた。
何かが起きた。
それだけは分かった。
だが、何が起きたのかまでは見えない。
次に目を開いた時。
そこには、誰もいなかった。
人影も。
赤子も。
巨大な存在も。
ただ、空になった揺り籠だけが残されている。
ルヴィアは、その光景を見つめた。
「……何を、したのです」
当然、答えはない。
だが――。
遠くから、ミコラーシュの声が聞こえた。
「ふふ……」
「見えたかねぇ」
ルヴィアが振り返る。
そこには、いつの間にかミコラーシュが立っていた。
「これが……あなた方の儀式?」
「そうとも」
ミコラーシュは、楽しげに笑った。
「我らは、呼びかけた」
「そして――」
檻の奥から、愉悦に満ちた声が漏れる。
「応えがあったのだよ」
ルヴィアは、再び空になった揺り籠へ目を向けた。
今の光景が、本当に過去の出来事だったのか。
それとも、ミコラーシュが見せた幻なのか。
まだ判断できない。
ただ一つ。
あの巨大な存在が、赤子の泣き声に反応して現れた。
その事実だけが、妙に鮮明に残っていた。
ルヴィアは、しばらく目の前の光景を見つめていた。
祭壇。
その上に置かれた、小さな揺り籠。
そして――そこから聞こえる、赤子の泣き声。
姿は、はっきりとは見えない。
布に包まれた小さな身体が、時折僅かに動いている。
ただ、その泣き声だけが妙に鮮明だった。
細く、弱々しいはずの声。
それなのに、広い空間のどこまでも響いていく。
まるで、こちら側だけでなく、その向こう側へまで届こうとしているかのように。
そして、その声に応じるように――。
空間の奥で、巨大な何かが姿を現した。
ルヴィアは息を呑んだ。
「あれが……」
言葉が続かない。
ミコラーシュが、静かに笑った。
「そうとも」
「我らが求めたものは、あの赤子そのものではない」
「では、何ですの?」
「呼びかけるためのものだよ」
ミコラーシュは、遠くにある揺り籠へ目を向ける。
「上位者は、我らとは異なる場所にいる」
「こちらから手を伸ばしたところで、容易には届かない」
「だからこそ、我らは彼らが求めるものに目をつけた」
ルヴィアの眉が僅かに動く。
「……赤子」
「ふふ……」
ミコラーシュが嬉しそうに笑う。
「そうとも」
「上位者は、赤子を失い、そして求めている」
「だから我らは、その性質を利用した」
「赤子を、こちらからの呼びかけに用いたのですわね」
「その通り」
ミコラーシュは、まるで当然のことを語るように答えた。
「赤子の泣き声を、向こうへ届ける」
「その声に応えるものがあるなら――」
一度、言葉を切る。
「我らは、そこへ辿り着ける」
ルヴィアは先ほどの光景を思い返した。
泣き声。
それに応じるように現れた、巨大な存在。
偶然とは思いにくい。
だが、それだけでミコラーシュの言葉を信じることもできなかった。
「……あなた方は、その存在と接触した」
「そうとも」
ミコラーシュの声が、僅かに弾む。
「我らは確かに、向こう側へ触れた」
「そして、そこで初めて知ったのだよ」
「人間の認識には、限界がある」
「見えていないのではない」
「見えていても、それを認識できない」
ルヴィアは黙って聞いていた。
「だから我らは、その限界を越えようとした」
「人間のまま、より広いものを見る」
「より深く考える」
「今まで理解できなかったものを、理解する」
「それを、我らは『瞳』と呼んだ」
「……認識のための器、ですのね」
「ふふ……そうとも言える」
「だが、それだけではない」
ミコラーシュは、自らの頭部を覆う鉄の檻へ手を添えた。
「これも、そのためにある」
「これは我らの意思を律する」
「俗世の雑音を遠ざけ、己の思考を一点へ集める」
「そして――」
檻の奥で、ミコラーシュが僅かに顔を上げる。
「向こう側へ意識を伸ばすための触覚でもある」
ルヴィアは檻を見つめた。
「……随分と特殊な道具ですわね」
「必要だったのだよ」
「人の世界に身を置いたままでは、届かぬ場所へ行くためにねぇ」
ルヴィアは、ふと疑問を覚えた。
「ですが……」
「何かねぇ?」
「あなたは、狩人に殺されたのでしょう?」
「そうとも」
ミコラーシュは、妙に楽しげだった。
「仕事熱心な狩人だったよ」
「では、そこで終わったのでは?」
「本来ならばねぇ」
ミコラーシュの声が、少しだけ遠くなる。
「目覚めれば、そこに残るのは死体だけだ」
「意識も、探求も、そこで消える」
「だが――」
彼は笑った。
「夢は、そう簡単には終わらない」
「誰かが我らを拾い上げた」
「死体となった後も、我らは再び夢へ沈んだ」
ルヴィアは黙っていた。
目の前にいるのは、人の姿をしたミコラーシュ。
ただ頭部には、奇妙な檻が被せられている。
それが死者の姿なのか。
夢の中に残った意識なのか。
ルヴィアには、まだ判断できない。
「……それでも、あなた方は探求を続けた」
「当然だろう?」
ミコラーシュは月を見上げる。
「一度、向こう側へ触れたのだ」
「そこで終われると思うかねぇ?」
「我らは、さらに先を求めた」
「もっと深く」
「もっと高く」
「もっと遠くへ」
その声音には、狂気とも陶酔ともつかない熱が混じっていた。
「一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない」
「それが探求というものだよ」
ルヴィアは月を見上げた。
この男の言葉を、まだ信じてはいない。
だが――。
自分が先ほど見たものまで、すべて幻だったと切り捨てることもできなくなっていた。
「……では、あなた方は次に何を求めたのです?」
ミコラーシュは、しばらく答えなかった。
やがて、檻の奥から笑い声が漏れる。
「ふふ……」
「それを知るには、もう少し夢の奥へ行かねばならないねぇ」
その瞬間だった。
遠くから、赤子の泣き声が響いた。
一度。
細く、長い泣き声。
ルヴィアの身体が僅かに強張る。
「……また」
先ほどと同じ声だった。
しかし――。
今度は、どこから聞こえているのか分からない。
ミコラーシュは、ただ嬉しそうに笑っている。
「そうとも」
「夢は、まだ終わらない」
赤子の泣き声が、もう一度響いた。
その声に呼応するように、遠くの闇が僅かに揺らいだ。
ルヴィアは、反射的に身構えた。
何かが、こちらへ近づいている。
そう感じた。
だが、その姿が現れるより先に――。
視界が、再び白く染まった。