『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』   作:丹波りん

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第三十二話 逃げられぬ者

 Ⅱ世は祭壇から少し離れた場所に腰を下ろし、手帳を開いた。

 見つけた聖杯について、これまでの記録と照らし合わせながら一つずつ書き込んでいく。

 発見した場所。

 教会までの経路。

 聖杯の形状。

 祭壇に置かれていた状態。

 書き留めるべきことは多かった。

 その間、パッチは何も言わなかった。

 Ⅱ世の作業を眺めたまま、しばらく動かない。

 やがて、パッチは静かに立ち上がった。

 Ⅱ世が手帳へ視線を落としているのを確認すると、教会の奥へ歩いていく。

 足音が遠ざかる。

 Ⅱ世は気に留めることなく、記録を続けた。

 教会の奥は、入口から見た以上に深かった。

 パッチは柱の間を抜け、さらに奥へ進んでいく。

 その途中で、足元が僅かに軋んだ。

「……」

 パッチは足を止めた。

 目を落とす。

 床の一部に亀裂が走っていた。

 周囲も長い年月に耐えられなかったのか、

 踏み込めば崩れてしまいそうなほど脆くなっている。

 パッチはしゃがみ込んだ。

 ランタンを亀裂へ近づける。

 床下には、確かに空間が続いているようだった。

 だが、光を向けても、その先は暗闇へ沈んでいる。

 パッチはさらに身を乗り出した。

 目を凝らしても、下に何があるのかまでは分からない。

 ただ、深い。

 暗闇の奥で、何かが僅かに揺れたように見えた。

 光だったのか。

 ただの錯覚だったのか。

 パッチはもう一度ランタンを近づけた。

 しかし、今度は何も見えない。

「……」

 パッチはしばらく黙っていた。

 地下へ続く空間。

 それ以上のことは、ここからでは判断できない。

 パッチはゆっくりと立ち上がった。

 少し考える。

 そして、Ⅱ世のところへ戻った。

「旦那」

「何だ?」

 Ⅱ世は手帳から顔を上げる。

「この奥に、何かありそうですなぁ」

「何か?」

「ええ。ちょっと妙な場所を見つけまして」

 Ⅱ世は眉を寄せた。

「案内しろ」

「もちろん」

 二人は教会の奥へ向かった。

 パッチが先を歩き、Ⅱ世がその後ろを追う。

 やがてパッチが足を止めた。

「ここです」

 Ⅱ世が足元を見る。

 床に走った亀裂。

 その隙間から、下の暗闇が覗いている。

「……下に空間があるな」

「ええ」

 Ⅱ世はランタンを向けた。

 光が床下へ落ちていく。

 しかし、その先は暗闇に飲み込まれ、底を照らし出すことはできなかった。

「かなり深いな」

 Ⅱ世は慎重に周囲を確認する。

 別の場所から下へ降りられるかもしれない。

 そう考えた直後だった。

 床が大きく軋んだ。

「――っ!」

 足元が崩れる。

 身体が傾き、そのまま暗闇へ引き込まれた。

 Ⅱ世は咄嗟に手を伸ばした。

 指が床の縁を捉える。

 片手だけで、かろうじて身体を支えた。

「くっ……!」

 下から冷たい空気が吹き上がってくる。

 足を掛ける場所がない。

 もう片方の手を伸ばそうとするが、届かない。

「パッチ!」

 Ⅱ世が叫んだ。

「手を貸せ!」

 返事はない。

 Ⅱ世は顔を上げた。

 穴の縁に、パッチが立っている。

 その顔には、いつもの軽い笑みが浮かんでいた。

「……パッチ?」

 パッチは答えなかった。

 視線を落とし、Ⅱ世が必死に掴んでいる床の縁を見る。

 そして、ゆっくりと足を上げた。

「おい……何をするつもりだ」

 Ⅱ世の声に、パッチは苦笑した。

「いやぁ……」

 足が、Ⅱ世の手の上へ乗る。

「こいつは、さすがに我慢できませんなぁ」

「何……?」

「扁桃石の時もそうでした」

 パッチはⅡ世を見下ろした。

「せっかくあっしが見つけたものを、旦那に取り上げられた」

「それは――」

「今回も同じでしょう?」

 Ⅱ世の表情が険しくなる。

 パッチは祭壇の方へ一度だけ目を向けた。

 そこには、先ほど見つけた聖杯がある。

「せっかく見つけた聖杯まで、旦那に持っていかれちゃあ……」

 苦笑が深くなる。

「もう御免なんですよ」

「パッチ……!」

「悪く思わないでくださいなぁ」

 足に力が込められる。

「私は、あっしの見つけたものを、今度こそ自分の手元に置いておきたいだけです」

「ふざけるな!」

 Ⅱ世が怒鳴る。

「君が何を考えているのかは知らんが、こんな真似を――」

「ええ。分かってますよ」

 パッチは苦笑した。

「旦那が怒るのも、もっともですなぁ」

 そう言いながら、足を引いた。

 次の瞬間。

 Ⅱ世の身体へ蹴りが叩き込まれた。

「――ッ!」

 床の縁を掴んでいた手が離れる。

 身体が暗闇へ投げ出された。

「パッチ――!」

 Ⅱ世の声が遠ざかっていく。

 ランタンの光だけが、落下していく身体を追っていた。

 やがて、その光も暗闇の中へ消えていった。

 暗闇の中へ、Ⅱ世の身体が落ちていった。

 しばらくして、下から何かが叩きつけられるような音が響く。

 パッチは穴の縁に立ったまま、じっと暗闇を見下ろしていた。

 返事はない。

 やがて、口元に薄い笑みが浮かんだ。

「……お気の毒ですなぁ」

 それだけ呟くと、興味を失ったように踵を返した。

 向かう先は祭壇だった。

 先ほどまでⅡ世が警戒していた聖杯が、そこに置かれている。

 パッチはその前に立ち、しばらく眺めていた。

 誰もいない。

 止める者もいない。

 ならば、遠慮する理由などなかった。

 手を伸ばし、聖杯を掴む。

 両手に伝わる重みを確かめるように持ち上げると、パッチは満足そうに目を細めた。

「ええ。これです」

 声には、先ほどまでの愛想のよさはなかった。

 自分が欲しかったものを、ようやく手に入れた男の声だった。

「旦那には、少々悪いことをしましたかな」

 そう言いながらも、悪びれた様子はない。

 むしろ、その口元には隠しきれない愉悦が浮かんでいた。

「ですが、あっしが先に見つけたんですからなぁ」

 聖杯を抱え、来た道を戻る。

 先ほどⅡ世を落とした場所を通り過ぎても、パッチは一度も振り返らなかった。

 その足取りは軽い。

 まるで、最初からこうなることを予想していたかのようだった。

 やがて、その姿は地下の闇へ溶けていった。

 オドン教会。

 拠点へ戻ったパッチは、車内の保管室へ向かった。

 棚の奥から取り出したのは、一つの箱だった。

 封印が施されている。

 パッチはそれを眺めると、鼻で笑った。

 箱を床へ置き、封印された鍵穴へ特殊な道具を差し込む。

 以前、Ⅱ世に取り上げられた扁桃石。

 あれを取り戻すために、ここまで手間を掛けさせられたことが気に入らない。

 封印は簡単には外れなかった。

 パッチは舌打ちこそしなかったが、表情からは明らかに苛立ちが滲んでいた。

 何度か道具を捻り、とうとう錠前を無理やり引き剥がす。

 蓋を開ける。

 中に収められていた扁桃石を手に取った。

 その瞬間、パッチの顔に再び満足げな笑みが浮かんだ。

「これで、ようやく全部ですな」

 扁桃石を懐へしまう。

 聖杯もある。

 扁桃石も取り戻した。

 欲しいものは手に入れた。

 後は、この街から出るだけだった。

 パッチは運転席へ乗り込み、エンジンをかけた。

 低い駆動音が車内に響く。

 ハンドルを握る。

「さあて……」

 アクセルを踏み込む。

「こんな場所とは、これでおさらばです」

 キャンピングカーが走り出した。

 ヤーナムへ入ってきた場所を目指して、街を進んでいく。

 建物の間を抜け、見覚えのある道を辿る。

 ところが、しばらく進むと霧が濃くなり始めた。

 最初は薄かった。

 それが、進むにつれてフロントガラスを白く覆っていく。

 視界が悪い。

 それでもパッチは速度を落とさなかった。

「この程度で足止めされるものですか」

 アクセルを踏み続ける。

 霧の向こうに、ようやく見覚えのある場所が浮かんだ。

 ヤーナムへ入ってきた、あの場所だった。

 パッチは笑った。

「ほら。ちゃんと道は残っている」

 そのまま車を進める。

 霧の中へ入った。

 しばらくして、視界が僅かに開ける。

 抜けた。

 そう思った。

 だが、目の前に現れた景色を見て、パッチの眉が僅かに動いた。

 見覚えのある建物。

 先ほど通った道。

 間違いない。

 自分は、そこへ戻ってきていた。

「……ふむ」

 車を止める。

 窓の外を眺める。

 パッチの表情から、笑みが消えた。

「これは、どういう了見ですかな」

 道を間違えたわけではない。

 確かに出口へ向かった。

 それなのに、同じ場所へ戻されている。

 しばらく考えた後、パッチはゆっくりと笑った。

「なるほど」

 ハンドルを握り直す。

「出したくない、と」

 それはそれで構わなかった。

 ならば、無理にでも出ればいい。

 パッチはアクセルを踏み込んだ。

 今度は速度を落とさない。

 霧の中を、ほとんど勘だけで突き進んでいく。

 建物が横を流れていく。

 道が曲がればハンドルを切る。

 前が見えなくなれば、それでもアクセルを緩めない。

「生憎ですがねぇ」

 パッチは低く呟いた。

「こっちは、ここへ閉じ込められるつもりなどありませんよ」

 さらに速度を上げる。

 エンジンが唸る。

 キャンピングカーが霧を押し退けるように走った。

 やがて前方に、再び道が見えた。

 霧の向こうに、街の外へ続いているような空間がある。

 パッチは目を細めた。

「……見つけましたか」

 口元に笑みが戻る。

「今度こそ、終わりですな」

 アクセルを踏み抜いた。

 車体が大きく揺れる。

 それでも止まらない。

 出口へ向かって一直線に突っ込んでいく。

 その瞬間だった。

 車体が、突然持ち上がった。

「――ッ!」

 タイヤが地面から離れる。

 パッチの身体が座席へ押しつけられた。

 何が起きたのか分からない。

 エンジンは回っている。

 だが、車は前へ進まない。

 宙に浮いている。

 パッチはゆっくりと窓の外へ目を向けた。

 霧しか見えない。

 だが、車体の下から何かが軋む音がした。

 金属が押されている。

 それから、窓のすぐ横を何かが通った。

 細長いものだった。

 あまりにも長く、関節の位置すら人間とは違っている。

 パッチは目を細めた。

 霧の向こうで、それがゆっくりと動いている。

 一本の腕だった。

 それが車体を持ち上げている。

 さらに霧が薄くなる。

 腕の先にある手が見えた。

 人間の手に似てはいる。

 だが、指の数が違う。

 長く伸びた六本の指が、車体を掴んでいる。

 その手のひらには、異様な光が浮かんでいた。

「……なるほど」

 パッチの声が低くなる。

 まだ、それが何なのかは分からない。

 ただ、自分の車を片手で持ち上げている。

 それだけは理解できた。

 視線を上げる。

 霧の向こうに、さらに大きな影が浮かんでいた。

 細長い胴体。

 蜘蛛を思わせる異様な体つき。

 七本もの腕が、身体から不自然な角度で伸びている。

 そして、その上にあるものが、ゆっくりとこちらへ向いた。

 頭部だった。

 大きく膨らんだ、脳髄を思わせる異形の頭。

 その表面を覆うように、無数の眼が開いている。

 いくつもの瞳が、ひとつひとつこちらを捉えていく。

 パッチは、それを見上げた。

 声が出ない。

 

 …だが、

 目の前にいるものを、知っていた。

 自分が使っていたもの。

 自分が人を送り込むために利用したもの。

 そして、自分が信仰していたもの。

「……アメンドーズ」

 ようやく、その名が口から漏れた。

 巨大な頭部が、さらに窓へ近づいてくる。

 無数の眼が、パッチを見下ろしている。

 パッチはしばらく黙っていた。

 やがて、口元に苦笑が浮かぶ。

「……まったく」

 それは、先ほどまでの余裕ある笑みとは違っていた。

「こんなところで、お目にかかるとは」

 車体が軋む。

 アメンドーズの指が、ゆっくりと閉じていく。

 パッチは扁桃石の入った懐へ手を当てた。

「ですがねぇ……」

 視線だけは、異形から逸らさない。

「せっかく取り戻したんですよ」

 アクセルを踏む。

 タイヤが空転する。

 アメンドーズは動かない。

 ただ、無数の眼でパッチを見つめている。

 そして、巨大な手に力が込められた。

 金属が大きく歪んだ。

「……ああ」

 パッチは、ようやく悟った。

 これは脅しでも、追い払いでもない。

 逃げ道を探す必要すらない。

 もう、自分は捕まっている。

 その事実を理解した瞬間――。

 アメンドーズの手が閉じた。

 車体が凄まじい音を立てて潰れる。

 窓ガラスが砕け、車体が折れ曲がる。

 最後に聞こえたのは、金属が潰れる音だった。

 やがて手が開く。

 そこには、原形を留めたものは何も残っていなかった。

 霧だけが、静かにヤーナムを覆っている。

 

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