『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』   作:丹波りん

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第三十三話 迫りくる異形

 誰かの声が聞こえる。

「……さん!」

 遠くから、誰かが呼んでいる。

「……ヴィアさん!」

 聞き覚えのある声だった。

 けれど、それが誰の声なのか、すぐには思い出せない。

 意識が深い水の底に沈んでいるようだった。

 声は聞こえているのに、そこへ手を伸ばすことができない。

「ルヴィアさん!」

 もう一度、声が響いた。

 今度は先ほどより近い。

「起きてください! ルヴィアさん!」

 グレイ。

 ようやく、その名前が意識の中に浮かんだ。

 その瞬間、夢の中にあった光景が崩れ始めた。

 白く染まった視界。

 あの男の声。

 赤子の泣き声。

 そして、自分が見たもの。

「……っ」

 ルヴィアは僅かに身じろぎした。

 瞼が重い。

 身体も鉛のように重く、指一本動かすことさえ億劫だった。

 夢から抜け出せていない。

 そんな感覚だけが残っている。

「ルヴィアさん!」

 グレイの声が、今度はすぐ耳元で聞こえた。

 ルヴィアはゆっくりと瞼を開いた。

 最初に見えたのは、灰色の髪だった。

「……グレイ……?」

 その顔には、張り詰めていたものが切れたような、明らかな安堵が浮かんでいた。

「よかった……」

「……何が……?」

 ルヴィアは眉を寄せる。

 なぜ、グレイはそんな顔をしているのか。

 自分は何をしていたのか。

 ここはどこなのか。

 どうして自分は床に倒れているのか。

 何一つ、頭の中で繋がらない。

「私は……」

 身体を起こそうとした。

 その時だった。

 乾いた発砲音が響いた。

 ルヴィアの身体が跳ねる。

「なっ……」

 銃声。

 それを聞いた瞬間、夢の中にはなかった現実の感覚が一気に押し寄せてきた。

 冷たい床。

 石造りの壁。

 夜の空気。

 そして、何かが動く気配。

「……ここは……?」

 視線を巡らせる。

 自分たちがいるのは、石造りの建物の二階だった。

 だが、それを理解したところで疑問は消えない。

 なぜここにいる?

 何をしていた?

 グレイと獅子劫は、なぜ戦っている?

 夢の中で見たものと、今ここにあるものが頭の中で混ざり合い、

 現実と夢の境目さえ曖昧になっていた。

「ルヴィア! ぼさっとするな! 手を貸せ!」

 獅子劫の怒鳴り声が飛んできた。

「……獅子劫?」

 ルヴィアは声の方へ顔を向ける。

 獅子劫は銃を構えていた。

 その銃口は、建物の外へ向けられている。

「いったい、何が――」

 そこで、何かが視界の端を動いた。

 ルヴィアが顔を向ける。

 建物の外壁に、何かが張り付いていた。

 人間のように見えた。

 だが、人間ではない。

 腕が一本ではない。

 壁に伸びている腕の下から、さらに別の腕が現れる。

 その腕に押し潰されるように、別の身体が重なっている。

 さらにその下にも、身体がある。

 一人ではない。

 二人でもない。

 何人もの死体が、互いに押し潰され、

 絡み合い、無理やり一つの塊にされたような姿だった。

 その塊が、腕を使って壁を這い上がっている。

「……何……?」

 ルヴィアの声が震えた。

 幾本もの腕が壁を掴むたび、重なった身体がずるりと持ち上がる。

 そして、異形が一段、また一段と近づいてくる。

「……こちらへ来ていますわ」

「だから言ってるだろ! 手を貸せ!」

 獅子劫が叫ぶ。

 次の瞬間、異形の腕が伸びた。

「来ます!」

 グレイが前へ出た。

 アッドが振り抜かれ、伸びてきた腕を叩き落とす。

 切り飛ばされた腕が床へ落ちても、指先はなお蠢いていた。

「……っ」

 ルヴィアは息を呑みながら指を突き出す。

 指先から放たれたガンドが腕へ直撃し、肉を吹き飛ばした。

 獅子劫の銃声が続く。

 それでも異形は落ちない。

 残った腕で壁を掴み、なおも二階へ這い上がろうとしている。

「下がれ!」

 三人が退いた直後、幾本もの腕が床へ叩きつけられた。

 石床が砕け、破片が飛び散る。

「……何なんですの、これ……」

 ルヴィアは息を乱しながら後退した。

 狭い。

 後ろは壁。

 ここに留まり続けることはできない。

「このままじゃジリ貧だ」

 獅子劫が銃を構え直す。

「あいつ一体ならまだしも、ここで足止めされたら終わりだ」

「では、どうしますの?」

「大通りへ移動する!」

 獅子劫が即答した。

 その時、グレイが大通りへ目を向けた。

「……獅子劫さん」

「どうした?」

「向こうにも……」

 ルヴィアもそちらを見る。

 大通りへ続く横道から、何かが姿を現していた。

 一体ではない。

 二体。

 三体。

 さらにその奥からも、死体の塊が這い出してくる。

「……増えていますわ」

 ルヴィアが呟いた。

 ようやく理解した。

 ここに留まれば、囲まれる。

「……大通りを抜けるしかない」

 獅子劫が言った。

「グレイ、先頭を頼む。ルヴィアは中央。俺が殿をやる」

「分かりました!」

「承知しましたわ!」

 迷っている時間はなかった。

 グレイが先頭へ飛び出す。

 アッドで進路を塞ぐ異形を退け、ルヴィアがその後に続く。

 正面から迫るものにはガンドを撃ち込み、獅子劫は背後へ銃弾を浴びせた。

 三人は建物から大通りへ飛び出した。

 その瞬間、ルヴィアの足が止まりかけた。

「……何なんですの、これ……」

 目の前に広がっていた光景を見て、声が漏れる。

 大通りの両側に並ぶ建物。

 その壁際。

 階段。

 道の脇。

 そこかしこに、人の姿があった。

 だが、生きている者ではない。

 石になっていた。

 しかも、一人や二人ではない。

 何人もの人間が互いに身体を寄せ、重なり合い、

 まるで逃げ場を失ったまま押し固められたかのように石へ変わっている。

 腕を伸ばしている者。

 顔を覆っている者。

 誰かに縋りつこうとしている者。

 苦痛に耐えるように身体を折り曲げている者。

 その姿は、ただの彫像には見えなかった。

 まるで最後の瞬間まで、生きようとしていた人間そのものだった。

「……いつの間に、こんな……」

 ルヴィアは呟いた。

 記憶にある街と、目の前の光景が結びつかない。

 自分が夢を見ている間に、一体何が起きたのか。

 夢だったはずだ。

 あれは夢だった。

 なのに、今見ているものまで夢なのか。

 ルヴィアは思わず空を見上げた。

 建物の隙間から月が覗いている。

 その光が街を照らしていた。

 けれど、何かがおかしい。

 以前に見た月とは違う。

 月そのものが大きくなったようにも、こちらへ近づいているようにも感じられる。

 まるで、この街の上から何かが見下ろしているようだった。

「ルヴィアさん!」

 グレイの声が響いた。

 ルヴィアは我に返る。

 大通りの横道から、また異形が這い出してきた。

「……っ!」

 ルヴィアは指を向ける。

 ガンドが直撃し、異形がよろめいた。

「止まらないでください!」

「ええ!」

 三人は再び走り出した。

 グレイが先頭を駆ける。

 行く手を塞ぐ異形が現れるたび、アッドで道を切り開いた。

 ルヴィアは左右へ目を配り、横道から伸びてくる腕をガンドで牽制する。

 獅子劫は最後尾から追手を撃ち、三人との距離を保たせる。

 だが、横道から現れる数は次第に増えていった。

「左から来ます!」

 グレイが叫ぶ。

 ルヴィアが即座にガンドを撃ち込み、その隙にグレイが横を抜ける。

 その直後、反対側からも別の個体が姿を現した。

「またですわ!」

 獅子劫が振り返る。

「構うな! そのまま奥へ行くぞ!」

 三人は横道には入らず、大通りをそのまま奥へ走った。

 前方にも異形が現れる。

 グレイが足を止めずにアッドを振り抜き、道を開く。

 ルヴィアが追撃を防ぎ、獅子劫が背後を支える。

 それぞれが自分の役割だけを果たし、ひたすら前へ進んだ。

 背後では、異形の這う音が重なっていく。

 石畳を叩く腕。

 引きずられる身体。

 獣とも人ともつかない呻き声。

 それが少しずつ近づいてくる。

「まだ来るぞ!」

 獅子劫が叫んだ。

 ルヴィアは振り返らなかった。

 振り返れば、足が止まる気がした。

「前へ!」

 グレイの声に押されるように、三人は速度を上げた。

 やがて、建物の並びが途切れ始めた。

 大通りの先に、月明かりが広がっている。

 その向こうに、何か大きな建物の影が浮かんでいた。

「……あれは……?」

 グレイが目を細める。

 大通りの出口。

 その先に、高い壁と大きな入口を持つ建物が見えていた。

 夜の闇の中に浮かび上がる、その姿。

「教会……?」

 ルヴィアが呟いた。

 その瞬間、背後から異形の腕が石畳を叩いた。

「考えるのは後だ! あそこへ行くぞ!」

 獅子劫が叫ぶ。

「はい!」

 三人はさらに速度を上げた。

 大通りの横道から這い出してくる異形を振り切り、出口の先に見える教会へ向かって走る。

 グレイが先頭を駆け、ルヴィアが続き、獅子劫が殿を務める。

 やがて三人は大通りの出口へ差しかかった。

 その先にある教会の入口が、月明かりの中で少しずつ大きくなっていく。

 背後では、異形がなおも追ってきていた。

 しかし三人は振り返らない。

 そのまま教会へ向かって、大通りを駆け抜けていった。

 

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