『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
教会の入口が、目前まで迫っていた。
「急いで!」
グレイの声に押されるように、
三人は大通りを駆け抜け、そのまま教会の大扉へ向かった。
扉は完全には閉じていなかった。
扉の間には、人が一人通り抜けられる程度の亀裂が入っている。
「ここから入れます!」
グレイが身体を滑り込ませる。
続いてルヴィア、獅子劫も後に続いた。
獅子劫が中へ入った直後、背後から大きな音が響いた。
異形が教会の入口へ辿り着いたのだ。
幾本もの腕が石畳を叩き、重なった身体が大扉へ迫ってくる。
「来ますわ!」
ルヴィアが振り返った。
異形はそのまま扉へ身体を押しつけた。
だが、入れない。
人間一人が通り抜けるには十分な隙間でも、あの異形の巨体には狭すぎた。
身体を構成している無数の死体が扉に引っ掛かり、幾本もの腕が互いに絡み合う。
それでも異形は諦めなかった。
腕だけが、亀裂の向こうへ伸びてくる。
「……っ」
ルヴィアが後ろへ下がる。
伸びてきた腕が床を這い、三人へ向かってくる。
「下がってください!」
グレイがアッドを構えた。
腕が一気に伸びる。
アッドが振り下ろされ、その先端を叩き落とした。
切り飛ばされた腕が床へ落ちても、指先はなお蠢いている。
「まだ来ます!」
ルヴィアが指を向ける。
ガンドが直撃し、腕が弾かれた。
獅子劫も銃を構える。
「しつこい奴だな」
銃声が教会内に響いた。
撃たれた腕が震え、それでも亀裂の向こうから這い込もうとしてくる。
だが、身体そのものはどうしても入ってこられない。
幾本もの腕が扉を掴み、引き寄せようとする。
それでも巨体は亀裂に阻まれたままだった。
「……入って、こられない?」
ルヴィアが呟く。
「そのようです」
グレイが答えた。
異形はなおも腕を伸ばしてくる。
けれど、それ以上こちらへ近づくことはできない。
しばらくの間、扉の向こうで身体を揺すり、腕を伸ばし続けていた。
やがて、その動きが少しずつ鈍くなる。
伸ばされていた腕が引き戻された。
重なった身体が大通りの方へ引いていく。
「……行った?」
ルヴィアが息を整えながら呟いた。
獅子劫は扉の隙間を見つめた。
「少なくとも、追っては来ないみたいだな」
「なら、今のうちに離れましょう」
グレイが教会の奥へ視線を向ける。
正面の礼拝空間を抜けた先に、さらに外へ続く扉があった。
「向こうへ行けそうです」
「行きましょう」
三人は教会の外へ進んだ。
扉を抜けると、そこには先ほどまでの大通りとは違う静けさがあった。
異形の這う音も聞こえない。
追ってくる気配もない。
しばらく進んだところで、獅子劫が足を止めた。
「……ここなら、少し休めそうだ」
三人は壁際へ寄った。
グレイはアッドを手にしたまま周囲を警戒し、獅子劫は銃の残弾を確認する。
ルヴィアも息を整えながら、二人へ視線を向けた。
「……お二人とも」
「なんだ?」
「先ほどのことを、聞かせていただけます?」
獅子劫とグレイが顔を見合わせる。
「私が目を覚ます前に、何があったのですの?」
グレイは少し考えてから口を開いた。
「拙たちは建物の散策をしていた時に、
中央の広場でルヴィアさんが倒れているのを見つけたんです」
ルヴィアは黙って聞いていた。
「何度声をかけても、起きませんでした。身体を揺すっても反応がなくて……」
「だから、建物の中へ運んだ」
獅子劫が続ける。
「外に置いたままじゃ危険だったからな。二階まで運んで、そこで様子を見ていた」
「……そうでしたの」
ルヴィアは目を伏せた。
「その後です」
グレイの声が少し硬くなる。
「どこから来たのか分かりません。気がついたら、あの異形が建物の外にいました」
「最初は一体だった」
獅子劫が銃を確認しながら続ける。
「だが、戦っているうちに別の奴まで現れた。
逃げようにも、ルヴィアを置いていくわけにはいかなかったしな」
「だから、あの場所に……」
「そういうことだ」
ルヴィアはしばらく黙っていた。
自分が倒れていたせいで、二人は動くことができなかった。
その間、異形と戦い続けていたのだ。
「……ご迷惑をおかけしましたわ」
「気にしないでください」
グレイはすぐに首を横に振った。
「無事に目を覚ましてくれた。それだけで十分です」
「そういうことだ」
獅子劫も短く頷く。
「謝るくらいなら、これから自分の足で歩いてくれ。そっちの方が助かる」
「……ええ」
ルヴィアは小さく笑った。
「感謝いたしますわ」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、長く休んでいるわけにはいかなかった。
獅子劫が立ち上がる。
「そろそろ行こう。この先がどうなっているのか確認する」
三人は再び歩き始めた。
教会の奥には、さらに先へ続く道があった。
石造りの通路を進み、階段を上る。
途中にはいくつもの建物が並んでいたが、どれも人の気配がない。
大通りで見た異形の姿も、今のところ見えなかった。
ただ、妙に静かだった。
やがて道が開ける。
「……」
グレイが足を止めた。
その先に見えていたものに、見覚えがあった。
「ここは……」
ルヴィアも同じように立ち止まる。
「……まさか」
二人は顔を見合わせた。
以前、一度訪れた場所。
間違えるはずがない。
「ここに繋がっていたのですか……」
グレイが呟いた。
目の前には、大聖堂があった。
三人はそのまま大聖堂前へ進んだ。
高い建物の前から、街を見下ろす。
だが、そこでルヴィアが眉をひそめた。
「……おかしいですわ」
「どうした?」
獅子劫が尋ねる。
ルヴィアは街へ視線を向けた。
今まで、この街にはほとんど人の気配がなかった。
歩いている者もいない。
建物の中から声が聞こえることもない。
まるで街そのものが死んでいるようだった。
ところが――。
「……灯り?」
グレイが呟いた。
街のあちこちに、光が見えている。
一つではない。
二つでもない。
建物の窓から、いくつもの灯りが漏れていた。
通りの向こうにも、揺れる光がある。
炎だ。
さらに別の場所でも、何かが燃えているような明かりが見える。
「今まで、あんなものは……」
グレイの声が小さくなる。
ルヴィアも黙って街を見下ろしていた。
灯りが増えている。
まるで、誰かが今になって街の中へ戻ってきたかのように。
けれど、ここからでは人の姿は見えない。
聞こえるのは、遠くから風が吹く音だけだった。
「……誰かがいるのでしょうか」
ルヴィアが呟く。
獅子劫は答えなかった。
ただ、街を見下ろしたまま銃を握り直す。
今まで何もなかった場所に、突然現れた灯り。
それが何を意味しているのか。
三人には、まだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
この街では、何かが起きている。
そしてそれは、今までとは明らかに違っていた。
◆
街を見下ろしていた獅子劫が、ゆっくりと視線を外した。
眼下に広がる市街は、先ほどまでとは明らかに様子が違っている。
灯りと炎が点々と浮かんでいるにもかかわらず、
ここからでは、歩く人間の姿は見えない。
ここで立ち止まっていても、状況が分かるわけではなかった。
「ここにいても仕方ねえ。拠点まで戻るぞ」
「師匠が戻っているかもしれません」
グレイが答える。
「そうだな。合流できれば話が早い」
「ええ。そうですわね」
ルヴィアも頷いた。
三人は大聖堂前の階段へ向かった。
長い石段を下り、これまで歩いてきた道を戻っていく。
周囲には人の気配がない。建物の窓から漏れる明かりだけが、
暗い街路を断片的に照らしていた。
しばらく進んだところで、獅子劫が足を止めた。
道の先に、鉄柵が下ろされている。
道幅いっぱいを塞ぐほどの大きさだった。
「……前は、なかったよな」
近づいて確かめる。太い鉄棒が幾本も組み合わされ、
地面にも深く固定されている。
獅子劫が掴んで力を込めても、わずかに軋むだけだった。
「動きませんね」
グレイが鉄柵の向こうを見る。
その先には見覚えのある道が続いていた。以前の探索で何度も通った場所だ。
「この先を進めば、オドン教会へ戻れるのですが」
「だが、これじゃ通れねえな」
獅子劫は鉄柵から手を離し、周囲を見回した。
道そのものは分かっている。だからこそ、
この障害が以前には存在しなかったことが気にかかった。
「別の道から回るしかないな」
「……そうですわね」
ルヴィアも鉄柵の向こうへ目を向けた。
「以前ここを通った時には、確かにありませんでしたわ」
「拙も覚えています」
グレイが頷く。
三人は来た道を少し戻り、以前の探索で確認していた別の道へ入った。
こちらも見覚えのある道だった。
だが、夜の暗さに加えて、いつの間にか流れ込んできた霧が視界を奪っていた。
建物の輪郭がぼやけ、数メートル先にあるものさえ判然としない。
それでも三人は足を止めなかった。
曲がり角や階段の位置を記憶を頼りに進んでいく。
ところが、霧の中では道と建物の境目すら曖昧になっていた。
いつしか、知らず知らずのうちに一本の横道へ入り込んでいた。
「……待ってください」
グレイが立ち止まった。
周囲を見回す。
見覚えのある建物も、道の形もない。
「ここ……違います」
獅子劫も周囲を確認した。
戻ろうとしたが、背後も霧に覆われている。
先ほどまで歩いてきた道が、どこにあるのかさえ分からなくなっていた。
「……迷ったか」
その時、霧の向こうに人影が浮かんだ。
一つではない。
路地の奥や建物の陰に、何人もの人間が立っている。
獅子劫は警戒しながらも、まず声をかけた。
「おい。少し聞きたいことがある」
返事はなかった。
近くにいた男が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
虚ろな目だった。
何かを呟いているが、言葉として聞き取ることはできない。
その手には武器が握られていた。
周囲にいる者たちも、次々と三人へ視線を向け始める。
グレイがアッドへ手を伸ばした。
「……様子がおかしいです」
その声が落ちた直後、一人が突然こちらへ走り出した。
続いて、別の場所にいた者たちも動き始める。
霧の中から、複数の足音が重なった。
「来ますわ!」
ルヴィアが身構える。
三人はすぐに戦闘態勢へ移った。
最初に飛び込んできた男へ、グレイのアッドが振り抜かれた。
鈍い音とともに男の身体が吹き飛ぶ。
だが、それで終わりではなかった。
左右の路地から、別の市民たちが次々と姿を現す。
数が多い。
獅子劫は銃を抜き、迫ってきた一人へ向けて引き金を引いた。
銃声が霧の中に響き、弾丸が男の肩を掠める。
男がよろめいた隙に、グレイがアッドを振るって距離を取らせた。
「下がるぞ!」
三人は後退した。
グレイが前に立ち、迫ってくる市民をアッドで牽制する。
その後ろをルヴィアが続き、獅子劫は銃を構えたまま二人の後方を警戒した。
霧の向こうから、また人影が現れる。
倒れた者も、すぐには動けなくなったわけではない。
地面に手をつき、ふらつきながら立ち上がろうとしている。
「このままじゃ、きりがありませんわ」
「分かってる。止まるな」
獅子劫は後ろへ下がりながら、銃を撃った。
だが、次に引き金を引いた時には、銃声は響かなかった。
獅子劫が一瞬だけ銃へ目を落とす。
残弾が尽きている。
「……弾切れか」
舌打ちして銃を下げる。
「獅子劫さん?」
「もう撃てねえ」
その直後、迫ってきた市民が腕を振り上げた。
獅子劫は身を引いて攻撃をかわす。
すれ違いざま、手にしていた銃の側面を相手の腕へ叩きつけた。
市民の手から武器が落ち、石畳の上を滑っていく。
獅子劫はそれを一瞬だけ目で追った。
古びたサーベルだった。
次の瞬間には、獅子劫は銃を腰へ戻し、足元まで滑ってきたそれを拾い上げていた。
錆の浮いた刀身はところどころ傷み、刃も欠けている。
長い間、まともに手入れされていなかったのだろう。
握りを確かめるように一度だけ手を動かす。
「……ないよりはマシか」
背後から別の市民が迫ってくる。
獅子劫は振り返りざまにサーベルを横へ薙いだ。
迫っていた市民が身を引き、その隙に距離が開く。
前方では、グレイがアッドを振り抜いて別の市民を押し返していた。
「こちらに!」
ルヴィアが先を指し示す。
三人はその方向へ走った。
道幅は次第に狭くなっていく。
建物の壁が両側から迫り、霧がその先を白く覆っていた。
後ろから足音が続いている。
それでも、先ほどまでのような勢いはない。
三人は何度か角を曲がり、狭い通路を抜けた。
どちらから来たのかも、もう分からない。
やがて、背後から聞こえていた足音が少しずつ遠ざかっていった。
グレイが足を緩める。
「……追ってきていないのでしょうか」
「分からん。警戒して進むぞ」
獅子劫は立ち止まって振り返り、霧の向こうへ目を凝らした。
人影はない。
グレイもアッドを下ろし、周囲を見回す。
ルヴィアは二人の後ろへ目を向け、それから周囲の建物へ視線を移した。
見覚えのない建物が並んでいる。
先ほどまでいた場所との位置関係さえ、霧のせいで判断できない。
「完全に道を外してしまったようですわね」
「みたいだな」
三人はその場でしばらく様子を窺った。
追ってくる気配はない。
ようやく緊張が少しだけ緩む。
しかし、霧は晴れなかった。
獅子劫が手にしたサーベルを下ろした、その時だった。
「――あら」
頭上から、女の声がした。
三人が同時に顔を上げる。
すぐ脇に建つ家の二階、その窓が開いていた。
窓辺に立つ女が、こちらを見下ろしている。
「こんなところで、どうしたのかしら?」
穏やかな声だった。
先ほど襲ってきた市民たちとは、まるで違う。
女は窓枠に手を置いたまま、三人の姿を眺めている。
華やかな衣装を身につけた女だった。
このような夜の街で、しかも霧の中にある家から声をかけてくること自体が不自然ではある。
それでも、少なくとも敵意は感じられなかった。
「…道に迷った」
獅子劫が答える。
女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「まあ……そうだったのね」
その声音には、わずかな疲れが混じっていた。
「ここに長くいるのは、あまりお勧めしないわ。今夜の街は、少しおかしいもの」
グレイが窓を見上げた。
「あなたは、ここに住んでいるのですか?」
「ええ。私はアリアンナ」
女は名乗り、窓辺から三人を見下ろした。
「ずっと、この辺りで暮らしているの」
そして、霧に覆われた路地へ目を向ける。
「……あなたたち、オドン教会へ行くつもりなのかしら?」
三人は再び顔を見合わせた。
オドン教会という言葉を知っている。
そして、この女はそこへの道を知っているらしい。
グレイが窓辺のアリアンナへ視線を戻した。
これまで誰とも出会わなかった街で、初めてこちらから話を聞けそうな相手だった。
獅子劫も警戒を解くことはなかったが、サーベルを構える必要はないと判断した。
霧の中で立ち止まっているより、この女から話を聞く方がいい。
三人は窓辺のアリアンナへ向き直った。