『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
Ⅱ世は執務机の前に立った。
机の上にはいくつかの書類と、一冊の古びた手記が置かれている。
表紙には何も書かれていない。
Ⅱ世は手袋を着け、慎重にそれを手に取った。
「……院長の記録か」
最初のページを開く。
そこには患者についての記録が綴られていた。
症状。
治療の経過。
患者の家族。
その日の容態。
かなり細かなところまで記されている。
そして何より目につくのは、患者への気遣いだった。
――今日の患者は、昨日より顔色が良い。
――このまま快方へ向かってくれればいい。
――幼い子供だった。母親も心配している。どうにか助けてやりたい。
――また一人、救えなかった。
短い文章の一つ一つから、医師として患者を救おうとする姿勢が感じられた。
「……随分と真面目な人物だったようだな」
Ⅱ世は呟く。
少なくとも、この部分だけを読む限りではそう思える。
ページをめくる。
ある患者が快方へ向かったこと。
別の患者を救えなかったこと。
血の医療に希望を見出していること。
それでも治療の限界に苦悩していること。
そんな記録が続く。
そして、あるページに差し掛かったところで、Ⅱ世の目が止まった。
――近々、聖歌隊より人が遣わされることになった。
――彼らの知識があれば、現在の治療について新たな可能性が見つかるかもしれない。
「聖歌隊……?」
Ⅱ世はその名を小さく口にした。
初めて見る名称だった。
時計塔から渡された資料にも、この名前はなかった。
「……これは覚えておこう」
Ⅱ世はページの端を指で押さえた。
この都市について、事前に集められた情報は多くない。
それだけに、新たに出てきた固有名詞は重要だった。
さらにページをめくる。
――そこからだった。
記録の内容が、少しずつ変わり始めた。
患者の症状を記録する文章。
治療の経過。
それらに混じって、血液の投与量や身体の変化について、妙に細かな記述が増えていく。
――血を通常より多く投与。
――反応あり。
――前回より変化が早い。
――意識状態に問題。
さらにページをめくる。
患者の名前が消えていた。
代わりに番号が振られている。
投与量。
血液の種類。
経過時間。
症状。
そして結果。
次のページ。
また次のページ。
記録は次第に具体的になっていった。
血を投与した結果。
身体に生じた変化。
理想とは異なる反応。
耐えられなくなった患者。
そして――処分。
患者を一人の人間として扱っているとは思えない。
実験材料。
失敗したなら廃棄する。
求める結果が出なかったことへの苛立ち。
次の実験についての考察。
「人体実験……」
Ⅱ世は低く呟いた。
それでもページをめくる。
そして、最後に近い部分で手が止まった。
そこには、今までとは違う出来事が記されていた。
――獣狩りの夜。
Ⅱ世の目が細くなる。
その夜、所属不明の狩人が診療所を訪ねてきた。
何者なのかは分からない。
しかし、院長はその狩人に嘘をついた。
ここは臨時の避難所になっている。
生き残った住民が集まってくる場所だ。
そう伝えた。
そして――生き残った住民をここへ来させるよう、狩人へ伝えた。
理由は明白だった。
――これで次の献体には困らない。
――わざわざ探し回る必要もない。
――ここへ生き残りが来るのを待てばいい。
最後には、僅かに浮ついた筆跡でこう記されていた。
――これほど都合よく材料が手に入るとは。
Ⅱ世は、しばらく手記を閉じなかった。
「獣狩りの夜……」
その言葉を、舌の上で転がすように呟く。
そして、所属不明の狩人。
患者を救うはずだった院長は、その夜に生き残った住民を自らの実験材料として誘導した。
「……最初から、診療所などではなかったということか」
Ⅱ世の声は低かった。
患者を治療するための場所。
そう思っていた。
だが、この手記を見る限り、この場所はいつからか別の役割を担っていた。
患者を集め、血を与え、その結果を記録する。
そして必要ならば、処分する。
Ⅱ世はゆっくりと手記を閉じた。
そのまま表紙へ視線を落とす。
「……待て」
何かが引っ掛かった。
Ⅱ世はもう一度、手記を開く。
最初のページ。
そして後半のページ。
目を凝らして文字を追う。
「筆跡……」
似ている。
いや、ほとんど同じに見える。
だが――。
Ⅱ世は眉間に深い皺を刻んだ。
同じ筆跡。
それだけで、同一人物が書いたとは断定できない。
誰かが別人の記録を書き写した可能性。
あるいは、意図的に筆跡を似せた可能性。
そもそも、長期間に渡って書かれた記録なら、本人の精神状態や身体状況による筆跡の変化も考えられる。
「……まだ決めつけるのは早いな」
前半に記された、患者を案じる医師。
そして後半に記された、患者を実験材料として扱う人物。
本当に同じ人間なのか。
それとも――。
Ⅱ世はそこで思考を止めた。
今の段階では、答えを出すには情報が足りない。
だが、この違和感だけは覚えておく必要がある。
◆
一方、ルヴィアは本棚を調べていた。
医学書。
治療記録。
血液に関する古い研究資料。
そして、その中にヤーナムの歴史について記された資料が混ざっていた。
「これは……」
ルヴィアは慎重にページをめくる。
そこには、旧市街についての記述があった。
かつて旧市街では、風土病が蔓延した。
病の名は――灰血病。
多くの住民が病に倒れ、都市そのものが危機に陥ったという。
ルヴィアは一度、手を止めた。
灰血病。
これは先ほど診療所内で見つけた患者の手記にも記されていた。
だが、患者の手記にあったのは、あくまで患者自身の不安と断片的な記憶だった。
こちらの資料には、その病がヤーナムでどのように扱われ、その後の医療協会へどう繋がったのかが記されている。
ページをめくる。
その後、ビルゲンワースから分かたれる形で、一つの組織が成立する。
医療協会。
初代教区長――ローレンス。
そして、血の医療。
血による治療によって、灰血病は完治へと至った。
「……ここまでは、患者の手記と繋がりますわね」
ルヴィアは小さく呟いた。
だが、その後の記述に目を止める。
ある時期を境に、血の医療を受けた住民の中に異常が現れ始めた。
身体の変質。
理性の喪失。
そして――獣への変貌。
「……獣化」
さらに読み進める。
医療協会は、その存在を秘密裏に処理するための機関を設けた。
獣を処理する者。
それが、狩人だった。
「医療協会の狩人……」
患者の手記に記されていた、黒服の連中。
その正体についても、ここで繋がった。
ルヴィアはページをめくる。
血の医療そのものが、獣の病を広げていく。
やがて発生する獣の数は、秘密裏に処理できる範囲を超えた。
隠しきれなくなった。
その先の記録は酷く傷んでいる。
ページは黒ずみ、文字も滲んでいた。
「ここから先は読めませんわね……」
ルヴィアは本を閉じた。
そして、資料を数冊抱えると、Ⅱ世のもとへ向かった。
「先生」
「ああ。そちらも何か見つかったか?」
「ええ。かなり重要なものが」
ルヴィアは資料を机へ置いた。
「先ほどの患者の手記にあった灰血病についてですわ。こちらには、その病がヤーナムでどのように扱われ、その後の医療協会へどう繋がったのかが記されています」
「見せてくれ」
Ⅱ世は資料へ目を落とした。
「灰血病が旧市街で蔓延した後、ビルゲンワースから医療協会が分かたれた。そして血の医療が確立された……」
「ええ。初代教区長ローレンスの名も出ています」
「そして、その血の医療を受けた者の一部が獣へ変わり始めた」
「医療協会は獣を秘密裏に処理するため、狩人を組織したようですわ」
「患者の手記にあった黒服の連中か」
「おそらく」
Ⅱ世はしばらく黙って資料を読んだ。
「血の医療と獣化には、かなり強い因果関係があると考えていい」
「先生の読んだ院長の手記にも、血を投与した患者の変化が記録されていたのでしょう?」
「ああ」
Ⅱ世は手記を開く。
「院長は明らかに血を利用して患者を実験している。しかも途中から、患者を番号で扱い始めている」
「こちらの資料では、医療協会が獣を処理するために狩人を組織したとありますわ」
「問題は、その実験が医療協会の正式なものだったのか、院長個人のものだったのかだ」
「……そこはまだ判断できませんわね」
ルヴィアが答える。
「ただ、院長の手記に出てきた聖歌隊という名称は気になりますわ」
「私もそう思っている」
Ⅱ世は手記を開いた。
「近々、聖歌隊から人が派遣される、と書いてあった」
「医療協会と関係する別の組織なのでしょうか」
「それも分からん」
Ⅱ世は手記を閉じる。
「だが、少なくともこの診療所には、私たちが事前に知らなかった情報が大量に眠っている」
「つまり、ここから先が本当の調査ということですわね」
「ああ」
Ⅱ世は院長室を見回した。
「まだ調べるべき場所は残っている」
◆
その頃、グレイと獅子劫は部屋の奥へ進んでいた。
医療用のカーテン。
獅子劫が、その前で足を止める。
「グレイ」
「はい」
「こいつの向こうを調べる」
獅子劫がカーテンへ手を掛けた。
「先に俺が見る」
獅子劫は短く答えた。
「お前は少し離れてろ」
「……?」
「見ない方がいいかもしれん」
グレイは僅かに迷ったが、頷いた。
獅子劫がカーテンを開く。
「……」
そこにあったのは、手術台だった。
古びている。
だが、頑丈な固定具が取り付けられている。
手首。
足首。
胴体。
人間を拘束するためのものだ。
その周囲には、医療器具に似た金属製の道具が並べられている。
鋭利な刃。
大型の鉗子。
用途の分からない器具。
治療器具というには、あまりにも物々しい。
そして床、手術台、壁。
そこには大量の古い血痕が残っていた。
黒く変色した跡。
何度も洗われた形跡がある。
それでも消え切らなかったものが、あちこちに残っている。
「……なるほどな」
獅子劫は低く呟いた。
その声を聞き、グレイもカーテンの隙間から中を覗く。
「……」
グレイの表情が強張った。
「師匠に報告しましょう」
「ああ」
獅子劫はカーテンを閉じた。
◆
一方、パッチは部屋の隅にある棚を調べていた。
引き出し。
家具の裏。
壁。
一つずつ確認していく。
「……ふむ」
棚を僅かに動かす。
その奥。
周囲とは僅かに色の違う木板があった。
「これは……」
パッチは指先で叩く。
コン。
コン。
コン。
「音が違う」
棚をさらに動かす。
そこには小さな隠し棚があった。
パッチは笑みを浮かべる。
「隠し棚とは、随分と分かりやすい」
指を掛ける。
だが、開かない。
鍵が掛かっている。
「おや」
パッチは懐から道具を取り出した。
細い金具。
小さな工具。
「あっしの出番ですな」
いつもの胡散臭い笑みを浮かべながら、パッチは鍵穴へ道具を差し込んだ。
院長室に残された謎は、まだ尽きていない。
むしろ調べれば調べるほど、ヤーナムという都市の過去は深い闇の中へ姿を変えていく。
そして一行はまだ知らない。
この診療所が、ヤーナムという都市そのものを理解するための、最初の重要な手掛かりに過ぎないことを。