『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
一面を、白い花が覆っていた。
広大な庭を埋め尽くすように咲き広がり、月明かりを受けて静かに揺れている。
花々の向こうに、大きな樹が一本佇むように生えていた。
太い幹から伸びた枝が花の海へ影を落とし、その輪郭を夜の中へ溶かしていた。
周囲には、風化した石造りの墓石がいくつか並んでいる。
長い年月に晒された表面には、幾重もの傷が刻まれ、文字さえ判別できない。
その上空を、赤い月が覆っていた。
異様なほど大きい。
夜空に浮かぶというより、そこからこちらへ迫ってくるような存在感を放っている。
赤い光が庭を照らし、白い花を淡く染め上げていく。
静かな光景だった。
それでも、心の奥に引っかかるものがある。
月から、視線を向けられている。
そんな感覚が、消えない。
巨大な赤い光の奥に、何かが潜んでいるような――。
こちらの姿を見つけ、じっと観察しているような――。
そんな錯覚を覚えるほど、月は近く、そして大きかった。
花も、樹も、墓石も、そして自分自身さえ、その視線から逃れられない。
庭そのものが、赤い月の前に晒されているようにさえ感じられる。
風はなく、音もすらも消えた空間に、
白い花だけが、月明かりの中でかすかに揺れる。
美しいはずの景色の奥に、言葉では捉えきれない不気味さが沈んでいた。
***
霞んだ意識の底へ、鈍い痛みが割り込んできた。
遠いところで何かが軋んでいるような感覚だった。
それが少しずつ輪郭を持ち、やがて身体へと伝わっていく。
「……っ」
息を吸った瞬間、胸の奥が軋んだ。
背中から肩へ重い痛みが走り、脚の感覚も鈍い。
その痛みに引きずられるように、Ⅱ世の意識が浮かび上がった。
目を開けるも、闇に包まれ視界には何も映さない。
ただ、冷たい石の感触だけが背中に伝わっていた。
――ここは、どこだ。
ぼんやりとした思考が動き始める。
そして、最後に見た光景が蘇った。
崩れた床、掴んだ縁、自分を見下ろしていた男。
そして、蹴り飛ばされこの場所へと落下した。
「……パッチ……」
名前が漏れた。
胸の奥に、別の熱が生まれる。
あの男は、自分を助けなかった。
それどころか、手を踏みつけ、蹴り落とした。
思い出した瞬間、Ⅱ世は身体を起こしかけた。
だが――。
「ぐ……っ」
激痛が脚を貫き、思わず片手を床につく。
そのまま、しばらく動けなかった。
Ⅱ世は荒くなりかけた呼吸を、意識して整える。
目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
胸の奥に渦巻いていた熱が、少しずつ形を失っていった。
視界には暗闇が広がっているが、目を凝らしているうちに、わずかな濃淡が浮かび始める。
床、壁、すぐそばに散らばった木片。
手を伸ばし、触れた木片を拾い上げると、それが壊れた木箱の一部だと分かった。
その周囲には、厚みのある布が幾重にも重なっている。
大量に詰められていたものが、落下の衝撃で箱ごと弾けたらしい。
Ⅱ世はしばらく、その布を見つめた。
身体が受けた衝撃が思ったほどではなかった理由も、これで分かる。
(……運が良かった)
そう考えたところで、再び視線を周囲へ移した。
棚や樽、古びた木箱。
奥には、用途の分からない器具や、祭具らしきものまで見える。
埃をかぶりながらも、それぞれが一定の場所に収められている。
「……倉庫、か」
何を保管していたのか新たな疑問が浮かびかける。
その時
――ガリッ。
石を引っ掻く音がした。
Ⅱ世の視線が止まる。
暗闇の向こうから何かが動く気配がした。
しばらく何も起こらない。
やがて、もう一度。
ガリ……。
続いて、荒い息遣いが聞こえた。
フッ、フッ、と短く途切れる呼吸。
Ⅱ世は息を潜めた。
暗闇の中に、二つの光が浮かび、
充血した瞳がこちらを捉えている。
「……!」
身体が反射的に後ろへ退く。
闇の奥から、何かが這い出してくる。
狼のような顔、黒い体毛、そして異常に発達した腕から覗く鋭い爪
…だが、どこか人の輪郭が残されているようにも見える。
下半身は瓦礫に圧し潰されているのか、獣はそれ以上進めずに藻掻いている。
それでもこちらを喰らい付こうと、
前脚とも腕ともつかない肢を床へ突き、身体を引きずっている。
その腕が、こちらへと伸びるのを確認すると、Ⅱ世はもう一歩後ろへ退いた。
だが、伸ばした腕は届かない。
獣はなおも身体を引きずろうとする。
爪が石床を擦り、肉が瓦礫と擦れ合う。
獣の荒い息だけが、倉庫の静けさを乱していた。
Ⅱ世は目を細めた。
人間が獣化したものか、それとも、別の存在なのか。
傷口、骨格、腕の形、呼吸。
見れば見るほど、確かめたいことが増えていく。
だが、獣が再び腕を伸ばした。
指先が、ほんの僅かに床を滑る。
Ⅱ世の背中が壁に触れ、その冷たさが思考を現実へ引き戻した。
今は調べている場合ではない。
壁へ手をつき、身体を起こすも、
「……っ」
鋭い痛みが脚を襲うが、それでも無理やり立ち上がり、ゆっくりと壁沿いを移動する。
背後から爪が床を擦る音が続くが、獣は唸るだけで、それ以上動けない様子だった。
Ⅱ世は壁へ手を添えたまま、暗闇の中を探った。
…出口、階段、上へ戻るための手段が何処かにあるはず。
何か、使えそうなもの…
視線が壁際を滑っていく。
そして、小さな台の上で止まった。
それは祭壇にも見え、その上に小さな鐘が安置されていた。
Ⅱ世は獣の様子を確認する。
こちらに近づける状態ではない。
ならば、今のうちに。
足を引きずりながら、台へ近づき、
その鐘を手に取った。
古びた金属の感触が掌へ伝わる。
軽く状態を確かめるが、
――音がしない。
Ⅱ世は眉を寄せた。
壊れているのか。
それとも、最初からそういうものなのか。
…持ち帰れば、後で調べられる。
そう考えた瞬間、鐘を懐へ収めていた。
顔を上げ、奥へと目を凝らした先に梯子が見えた。
Ⅱ世は壁から手を離し、そこへ向かった。
背後で、また爪が床を擦る音が響いた。
最後に振り返る。
二つの眼が、こちらを追っている。
Ⅱ世は何も言わず、梯子へ手を掛けた。
脚へ痛みを無視して、Ⅱ世は慎重に梯子を登ってゆく。
***
やがて頭上に蓋が見え、手を伸ばし押し上げると、冷たい空気が頬を撫でる。
身体を引き上げ、Ⅱ世は息を整えながら、ゆっくりと顔を上げ辺りを確認した。
柱、壁、そして、祭壇。
そこへ自然と視線が向く。
つい先ほどまで、古い聖杯が置かれていた場所だった。
祭壇の上には、既に持ち去られた後なのか何もない。
ただ、薄く埃の積もった跡だけが残されている。
そこにあったはずのものが消えたことで、かえって祭壇の形がはっきりと見えた。
「……」
Ⅱ世の視線が、空いた祭壇から横へ動くと、その先に自分の手帳が放置されていた。
埃を払い、状態を確かめる。
少し汚れてはいたが、書かれた内容は無事のようだ。
すぐ隣にはランタンも置かれたままだ。
それを拾い、魔力を流し込むと、消えていた火が小さく揺らめいた。
淡い光が教会の内部へ広がり、祭壇を照らし出す。
…既に聖杯は持ち去られている、この場に留まる意味はない。
Ⅱ世は手帳を懐へ収め、ランタンを掲げた。
そして、教会の外へと目を向ける。
「……一度、拠点に戻る必要があるな」
痛む体を引き摺りながらも、Ⅱ世は拠点へ戻るべく、静かな教会の外へ向かって歩き始めた。