『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
聖杯教会を出ると、Ⅱ世は僅かに足を引きずりながら、来た道を戻り始めた。
落下した際に痛めた脚が、歩くたびに鈍く疼く。無理に速度を上げれば、
帰路の途中で動けなくなる可能性もあった。今は焦るよりも、確実に進む方がいい。
そう自分に言い聞かせながら、Ⅱ世はランタンを掲げた。
纏わりつくような空気が薄れ、やがて見覚えのある街路へ出る。
ここまで来るのに使った道だ。多少の崩落はあったものの、進む方向を迷うことはない。
――そのはずだった。
数歩進んだところで、Ⅱ世は足を止めた。
前方に、何かがいる。
建物の影から、低い唸り声が聞こえていた。
Ⅱ世は反射的にランタンの光を絞り、壁際へ身を寄せる。
痛む脚を庇いながら、慎重に顔だけを覗かせた。
見えたものに、息が止まった。
あの獣だった。
地下の倉庫で遭遇した、あの異形の獣。狼を思わせる頭部と黒い毛皮。
人間の名残を僅かに残した身体に、異様に発達した腕。
間違えるはずがない。
だが、なぜここにいる。
Ⅱ世たちが聖杯教会へ向かった時、この場所に獣はいなかった。
少なくとも、姿を見てはいない。
隠れていたのか。
一瞬そう考えたが、すぐに打ち消す。
あれほどの身体を持つ獣が、気配を悟らせずに潜んでいたとは考えにくい。
そもそも、先ほど見た獣には、
こちらの存在を探りながら待ち伏せするような知性があるようには思えなかった。
では、なぜ。
その疑問が浮かんだ瞬間、Ⅱ世は周囲の異変に気づいた。
来る途中で崩れていたはずの建物が、元の形を取り戻している。
壁が立っている。
崩れていた石柱も、何事もなかったかのように残っている。
道を塞いでいた瓦礫さえ消えていた。
Ⅱ世は無意識にランタンを動かした。
確かめるように周囲を見回すほど、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
壊れたものが修復された、という程度ではない。
まるで――時間そのものが巻き戻ったかのようだった。
先ほどまで確かに存在していた崩壊の痕跡が、どこにも残っていない。
それなのに、目の前には獣がいる。
街が元へ戻ったことと、獣が現れたこと。
その二つが偶然だと考えるには、あまりにも出来すぎていた。
「……この街で、いったい何が起きている」
呟きは、誰に届くこともなく闇へ消えた。
獣が低く唸ると、Ⅱ世はすぐに口を閉ざした。
…まだ気づかれていない。
こちらへ顔を向けることなく、獣は周囲の匂いを探るように鼻を動かしている。
しかし、隠れていられる場所はほとんどない。
この脚では、走って逃げてもすぐに追いつかれるだろう。
ならば、どうする。
魔術を使う手もある。だが、正面から戦えば負傷した脚が持たない。
Ⅱ世が息を殺していると、不意に――。
どこからともなく、かすかな音が響いた。
――チリン。
鈴の音だった。
獣が顔を上げる。
Ⅱ世も同時に身を固くした。
音の出所が分からない。
街路のどこかから聞こえたようでもあり、すぐ耳元で鳴ったようでもあった。
もう一度。
――チリン。
今度は、もっと近い。
Ⅱ世は懐へ手を入れた。
指先に触れたのは、先ほど地下で拾った古い鐘だった。
壊れている。
内部にあるはずの舌がない。
振ってみても、音が鳴るはずはない。
それなのに。
――チリン。
鐘の音が聞こえた。
Ⅱ世は思わず息を止めた。
耳から聞こえているのではない。
そんな感覚だった。
音が、頭蓋の内側から響いている。
「……何だ、これは」
魔術師としての習慣が、恐怖より先に動いた。
Ⅱ世は鐘を手にしたまま、意識を集中させる。
魔力の流れを探る。
だが、その瞬間だった。
頭の奥で、何かが蠢いた。
「――っ」
脳の内側を、ナニかが這うような感覚が走る。
吐き気が込み上げ、視界が大きく揺れた。
Ⅱ世は咄嗟に壁へ手をつく。
胃の中身がせり上がる。
魔術の反応とは違う。
ナニかが、こちらの意識へ触れている。
そう認識した途端、その感覚が唐突に消えた。
呼吸だけが荒く残り、冷たい汗が背中を伝っていた。
何だったのか。
考えるより先に、目の前の空気が変わった。
街路の一角に、青白い霧が滲み出している。
それは地面から湧き上がるように広がり、やがて人の形を取り始めた。
Ⅱ世は反射的に距離を取った。
霧の中から現れたのは、一人の人影だった。
白い法衣のような衣服。
頭部を覆うのは、鈍い金属の光を帯びた円錐形の兜。
左手には古びた銃。
そして右手には――。
車輪だった。
ただの車輪ではない。
巨大な鉄の輪が、武器として握られている。
あまりにも重そうなそれを、目の前の存在は何の苦もなく携えていた。
人間の姿には見える。
だが、人間だと断定することもできない。
「……お前は、何者だ?」
Ⅱ世が問いかける。
返事はない。
白い衣服の人物は、ただそこに立っている。
敵意も感じられない。
少なくとも、こちらへ攻撃を仕掛けようとしているようには見えなかった。
しかし、どこから現れた。
先ほどの霧と同じだ。
突然現れ、何の痕跡も残さない。
Ⅱ世は目の前の存在から意識を離さなかった。
魔術師として見るなら、これは召喚に近い。
何らかの術式によって、こちら側へ呼び出された存在。
そう考えるのが最も自然だった。
だが、通常の召喚とは違う。
使い魔ならば、術者との間に魔力の経路がある。
契約による繋がりが、どこかに存在するはずだ。
それが見えない。
ならば、何を媒介にしている。
その疑問に触れた時、Ⅱ世の視線が自然と懐へ落ちた。
古い鐘。
そして、ここに来るまでに関わった聖杯。
偶然なのか、それとも――。
そこまで考えたところで、白い人物が僅かに動いた。
Ⅱ世は視線を戻す。
人物がこちらではなく、別の方向を見ている。
その先には、先ほどの獣がいた。
獣もまた、こちらへ顔を向けている。
低い唸り声が響いた。
白い人物が、一歩踏み出す。
その瞬間だった。
姿が消えた。
「――なっ」
次に見えた時には、すでに獣の目前にいた。
あまりにも速い。
Ⅱ世が目で追うことさえ難しい速度だった。
獣が跳びかかる。
白い人物は巨大な車輪を振り上げた。
轟音とともに、それが獣の身体へ叩きつけられた。
骨の砕ける音が響き、獣が地面へ叩き落とされる。
それでも、白い人物は止まらない。
車輪が再び振り下ろされる。
身体が潰れ、黒い毛皮が血に濡れる。
さらに一撃。
腹部が裂け、内部が露出する。
それでもなお、車輪は止まらなかった。
何度も、何度も振り下ろされる。
やがて獣の身体は原形を失い、石畳の上には赤黒いものだけが残った。
Ⅱ世は言葉を失っていた。
あまりに一方的だった。
先ほど自分が警戒していた獣が、まるで抵抗する間もなく叩き潰されている。
「……既に死んでいる。そこまでにしておけ」
ようやく声を絞り出す。
白い人物の動きが止まった。
ゆっくりと車輪を下ろす。
まるで、命令を理解したかのようだった。
Ⅱ世は眉を寄せた。
やはり、こちらの言葉を理解している。
少なくとも、単なる暴走した怪物ではない。
それなら――。
Ⅱ世は痛む脚へ視線を落とした。
この状況で、一人で街を戻るのは難しい。
目の前の存在が何者であれ、これほどの戦闘力を持つなら、同行させる価値はある。
白い人物は何も言わず、ただ立っている。
Ⅱ世は小さく息を吐いた。
「……まるで、バーサーカーだな」
そう呟いた時、白い人物は何も答えなかった。
ただ、手にした巨大な車輪だけが、月明かりを鈍く反射していた。