『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
オドン教会に、獣除けの香とは別の匂いが漂っていた
潰した豆に多少の塩を入れ、煮出しただけの味気のないスープ
硬い黒パンには、薄っすらと汚れが目立つ
だが、こんな状況では食べられるだけでもありがたい
アデーラは鍋を掻き混ぜながら、残りの食料のことを考えていた
そんな彼女の横から腕が伸びる
「…これは?」
獅子劫は缶詰の蓋を引き剝がすと、中には燻製されたベーコンの塊が詰まっている
他にも胡椒の小瓶やチーズなども差し出すと、アデーラは目を丸くしながらも喜んだ
「まぁ…宜しいのですか? こんなに貴重な品を」
「構いやしないさ。それだけじゃ味気ないだろう?」
遠くからは獣の叫び声が時おり聞こえてくる
いつ何が起こるか分からず、誰しもが不安であるはずだ
食事の質は士気にも関わる
「感謝致します。シシゴー様」
獅子劫は苦笑しながらも、嬉しそうに受け取った品を入れ、
鍋を掻き混ぜるアデーラに、この街のことや医療教会について
世間話でもするように、軽く探りを入れた
アデーラは心を許したかのように、
医療教会で自身が過ごしてきたことを饒舌に話し始めた
教会で《調整》を受け、幸運にも《血の聖女》として認められたこと
何処か得意げな様子で、頬が赤らんでいる
エミーリア様に認められた感動、真摯に祈りを捧げたのが漸く報われた喜び
「オドン教会横の広場にある女神像は御覧になられましたか?
あの像は血の拝領を賜る女神様を模したものなのですよ」
アーモンドの木の前に、首のない女性が壺を傾けている像があったのを、
何度か通る度に目にしているが、その様な由来があったのか
ルヴィアもいつの間にか来ていたのか、話に加わった
「私は大聖堂にも赴いたのですが、あの階段の両脇に置かれた…」
少し言葉を選ぶように告げる
「…あの独創的な像も医療教会が崇める対象なのでしょうか?」
「…すいません、あの像に関しては初代教区長であらせられた
ローレンス様が御存命のときに建てられた物だそうです。
私が医療教会の門を叩いたときには既にあり、詳しいことは残念ながら存じません」
…上層部の白服のお方なら何かご存じかも知れませんが、
現在の教区長、エミーリア様や私たち信徒が信仰しているのは血の女神様です
…信徒の子供たちの中にも怖がる子も居りましたので、私も余りよい印象はないのです
尼であるのにも関わらず、教会の像を恐れるなど不信であるとお叱りを受けそうですが…
そう言ってアデーラは苦笑する
「…そんなに奇抜な像なのか?」
「貴方はあのときは別行動でしたし、見ていませんものね」
ルヴィアは獅子劫に耳打ちするように、
(異形の怪物にしか見えませんでしたわ)
そんな折《獣狩りの夜》が起こり、暴徒と化した民衆が
医療教会の門に押しかけていると聞いたのだと
「…きっと市民の方々は何か誤解しているのだと思います。医療教会が市民を見捨てたなどと」
だが、手記や旧市街の惨状を目の当たりにした獅子劫やルヴィアは何も言えずにいた
一先ず安全な場所に退避しようと移動していた際に、
何者かに昏倒させられ、連れ去られたのだという
アデーラは思い出すように、体を抱きしめながら話し出した
「…私が連れ去られたのは、大きな牢らしき場所でした…
気づいたときには付近に見張りも居らず、牢の扉も開かれたままでしたが…」
牢を抜け出し逃げようとした際に、獣の遠吠えが近くから聞こえ、
隠れて震えていた際に狩人に助けられたのだという
「最初は同輩の狩人様かと思いましたが、どうやら外から来た御方のようでした」
街の方は余所者だと邪険にしておりますが、
見知らぬ私を救い出してくれた御方が悪い人であるはずがありませんとも
何処か夢見心地に頬を染めて口元を緩める姿に、吊り橋効果じゃないかと獅子劫は溜息を吐いた
「……誘拐した犯人に心当たりはありますの?」
「…最初は市民の方かと疑いもしましたが…逃げ帰る際に通った街並み…」
見慣れない街並みの各所にメンシスのシンボルが刻印された建物が散見されたことから、
今までの所業はメンシス学派の仕業であるかと思い至ったのだという
これまでも市民の中から時折、行方不明者が出る事件があった
教会の狩人も捜査を行ったが、犯人の居場所が遂に掴めなかった
「今回の獣狩りの夜が終われば、直ぐにでも教会の本部へ報告するつもりです!」
…メンシス学派、多数の行方不明者、特別な血、血の聖女、そして赤子を用いる儀式…
情報が繋がりつつあるのをルヴィアは感じ取っていた
ふと、アデーラは教会の奥に座るアリアンナへ鋭い視線を向けながら忠告してきた
「…あの女には気を付けなさい。決して心を許さないように」
「アリアンナをか? …悪い奴には見えねぇが」
視線を外さないままアデーラは続けた
かつてビルゲンワースを裏切り聖血を盗み出した者がいた
その一族は雪に閉ざされた古城を根城とし、悍ましい不死の女王を崇拝している
淫欲に耽り、血を常飲する吸血鬼の一族であると
……かつて医療教会から討伐隊が向かい、一族を根絶やしにしたとされたが、
未だにその血を引く者が隠れて生き延びているのだと噂されている
「…その生き残りがアリアンナだと?」
「……あの女からは、穢れた血の匂いがします…信用なさらないように」
尼の立場から娼婦を嫌って言っているようには見えない
何処までが真実なのかは不明だが、心に留めておくべきだろう
「…その一族の家名は知っていますの?」
雪に閉ざされた世界、古城に住まう不死の女王
血の常飲者、穢れた血の一族
その名は【カインハースト】
獅子劫とルヴィアの胸に浮かんだのは、
人に仇なす者、闇夜に紛れ血を貪る怪物
吸血種、【死徒】の姿だった
***
「熱いので気をつけて下さいね」
未だに湯気が立ち上る器を、赤布の手を取りながら持たせると、
くぐもった声が耳に届いた
「…ありがとう…ありがとう。暖かい食事なんて初めてだよ」
哂いとも嗚咽ともつかない小さな声と共に、
既に光を失った瞳から零れる雫だけが、蝋燭の火に照らされていた。