『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
旧市街へと続く扉は閉ざされ、周囲は再び静寂と暗闇に染まる
デュラは最後に、ヤーナムを離れるようⅡ世に忠告を残した
留まり過ぎれば、やがて《捉われる》とも……
Ⅱ世は松明の灯りを掲げながら、来た道を戻り始めた。
まずは拠点であるオドン教会へ向かうべきだ
グレイたちも、もしかしたら到着しているかもしれない
……ビルゲンワースを調べるのは、その後だ
階段を上り、建物を抜けた瞬間、辺りの様子が視界に映った。
数名の市民らしき者が倒れ伏し、石畳を血で染めている。
(……今まで探索してきたときとは違い、市街地は無人ではないらしい)
Ⅱ世は警戒を解かぬまま、最も近くに倒れている死体へ歩み寄った。
まず目に入ったのは、身体の一部を覆う異様な変質だった。
皮膚は盛り上がり、手足の輪郭も人間のものとは僅かに異なっている。
さらに顔へ視線を移すと、瞳は濁り、溶け出すように変質していた。
(……獣化が進んでいる)
だが、その傍らには武器が落ちている。
握っていた形跡からして、最後までそれを扱うだけの判断力は残っていたらしい。
銃器を手にしていた者もいる。
(……完全に理性を失っていたわけではないのか)
Ⅱ世は周囲へ視線を巡らせた。
死体同士の距離、倒れている向き、そして石畳に残された血痕。
少なくとも、互いに殺し合ったようには見えない。
(別の何者かに襲われた……?)
今度は傷口へ目を向ける。
深く抉られた傷は、傍に落ちている武器でつけられたものとは明らかに異なっていた。
肉を削ぎ取るような傷跡。
しかも、その周囲には通常の刃物による切創とは違う、不規則な裂け目が残っている。
(……切断というより、削り取った跡に近い)
Ⅱ世は周囲に残された血痕と傷口を見比べた。
(大型の刃物……それも、鋸のような構造を持った武器か)
少なくとも、この街にはそうした武器を扱う者がいる。
そこまで考えたところで、霧の向こうから足音が響いた。
誰かがこちらへ歩いてくる。
Ⅱ世は即座に松明の火を消した。
(相手が友好的な人物とは限らない。それにこの状況だ。警戒すべきだろう)
横道へと踵を返し、その場から遠ざかるように奥へと向かう。
だが、Ⅱ世が向かった先には、石碑に凭れ掛かるように誰かが倒れていた。
……ただの死体であれば、気にはしなかっただろう。
その死体が身に着けている衣装や、傍らに転がっているある物を見て、
危険な状況にも関わらず、Ⅱ世の視線は釘付けになった。
(……あの衣装、そしてあの円錐形の兜)
見間違うはずもない。
旧市街を抜ける際に現れ、自身を護衛していた謎の人物。
その青年は、自ら喉にナイフを突き立てて事切れている。
だが、表情は何処か穏やかにも見えた。
(……あのときの人物であるとは限らない……だが)
もし同一人物なのだとしたら、礼を言う機会はもう二度と訪れないだろう。
そして、獣になる前に自ら命を絶ったのだとすれば――。
Ⅱ世はその場で目を閉じ、少しの間、黙祷を捧げた。
その後ろから声が掛かる。
「……あんたが殺ったのかい?」
このような状況で見知らぬ人物から声を掛けられたにも関わらず、
Ⅱ世の心情は何処か落ち着いていた。
これまでの経験から、多少のことには耐性もついたのだろう。
「……違う。その者は自害している。それに私に、この人物を害する理由もない」
(……壮年の女。少なくとも、こちらに声を掛けてくる人物ならば会話は成立するはずだ)
Ⅱ世は振り返ると、その人物の姿が目に入った。
頭部を覆っているのは、長く突き出した嘴を持つ奇妙な仮面。
目元だけを覗かせるその姿は、かつて疫病を診た医師の面影すら思わせる。
その身を包む外套もまた黒く、肩から背へと垂れた布地は幾重にも重なっている。
裾が不揃いに揺れる様は、まるで羽を重ねた烏の翼のようだった。
顔も表情もほとんど窺えない。
ただ、仮面の奥から覗く眼差しだけが、こちらを鋭く捉えている。
その人物は青年の死体に近づくと、呟くように言った。
「……己の使命を果たしたのかね。随分と満足気じゃないか」
その声には、少しの安堵が含まれているようにも聞こえる。
「……この街で人のままで死ねるなんて、幸運な奴さ」
その人物は振り向くと、Ⅱ世を眺めながら訝しげな視線を送りつつも、
警戒を緩めるように武器を収めた。
「あんた、この街の住民じゃないね……狩人にも見えない……」
「……この街には依頼で調査に訪れただけだ」
「……何を調べてるのか知らないがね……今夜はひどいものさ」
因果なことに巻き込まれたあんたには同情するよ、と、多少の呆れを滲ませながら溜息を吐く。
そして、これからどうするのかとⅡ世に尋ねた。
「拠点にしているオドン教会へ戻るつもりだ」
「今夜は避難所にもなっているはずさ。他の生き残りも集まっているだろうね」
「……すまないが、道中の案内を頼めないだろうか?
この状況では、私だけでは辿り着けるか不安だったのでね」
「……死なせるのも忍びないしね……あたしも戻るところだ。ついてきな」
二人は夜霧が漂う市街地を進み始めた。
道中では、正気を失った市民が闇の中から襲い掛かってくる。
だが、Ⅱ世が気づいたときには、その姿は既に地面へ崩れ落ちていた。
アイリーンは大振りのナイフに付いた血を拭いながら、
何事もなかったかのように歩みを進める。
闇を纏い、暗がりから獲物を狙うその姿は、かつての暗殺集団を思わせた。
「……あたしたちの狩りってのは、弔いでもあるのさ」
獣になってしまった者を元に戻す手段はない。
ならば、理性なき姿を晒し、人を喰らう獣に成り果てた者を手早く処理する。
それこそが、唯一の弔いとなる。
最初の狩人であるゲールマンの教えさね。
「……ただね、獣を狩り続けた者には、精神を病み、理性を失う者もいる」
そんな狩人を狩るのが、あたしの役目さね。
「……狩人ですら正気を失うのか……」
「聖職者ですら正気を失って獣になるんだ。あたしらみたいに獣の血を浴びてれば、尚更さね」
淡々と吐かれる言葉には、遣り切れない疲れが滲んでいるようにも聞こえる。
この人物はいかほどの同胞を、その手で屠ってきたのだろうか。
「……ほら、着いたよ。案内はここまでだ」
見知った建物――オドン教会の輪郭が、霧の奥に見える。
「助かった。何か礼でもしたいが……」
「構わないさね。……こんな夜だ、死にたくないなら出歩くのは止めておきな」
そう忠告を残すと、その人物は再び霧の漂う街へ戻り始める。
「最後に名を教えてくれないか」
「アイリーン、狩人狩りのアイリーンさ。あんたが獣に成り果てたら、あたしが狩ってやるさね」
そう言い残し、闇に消えるように、その姿が見えなくなってゆく。
***
食事を終え、これまでに得た情報を整理しながら話していると、
入口に掛けられた結界に反応があった。
……誰かが訪れたようだ。
「誰か来たようですわね。こちらを害する気配は無さそうですわ」
「市民の方でしょうか?」
ルヴィアとグレイが入口へ視線を向ける。
獅子劫も念のため銃を引き抜き、警戒しながら入口を見据えた。
やがて、扉の向こうから人影が現れる。
その姿を目にした瞬間、グレイが弾かれたように駆け出した。
「師匠!」
「グレイ」
駆け寄ってきた内弟子が、抱き着くようにⅡ世の胸へ顔を埋める。
その姿を受け止めながら、Ⅱ世はようやく張り詰めていたものが解けていくのを感じた。
無事だった。
それだけで十分だった。
「よう、そっちも無事で何よりだ」
獅子劫も銃を下ろし、安堵したように声を掛ける。
「よくご無事で……パッチは一緒ではないのですか?」
ルヴィアもⅡ世の帰還を喜んだものの、すぐにその背後へ視線を向ける。
そこに、共に行動していたはずのパッチの姿がないことに気づき、表情が曇った。
「……そのことだが――」
Ⅱ世は、旧市街で起きた出来事を順を追って説明した。
話を聞き終えるにつれ、ルヴィアの表情が変わっていく。
そして、最後には明らかな憤怒が浮かんでいた。
「信じられませんわ! 先生を蹴り落とした挙句、折角見つけた聖杯まで持ち去るなんて!!」
「……君は私より、聖杯が持ち去られたことに怒っているように見えるが」
何とも言えない表情を浮かべるⅡ世に、獅子劫も苦笑する。
「今度見かけたら、ケジメは取らせるさ」
そう不敵に嗤った。
ルヴィアのキャンピングカーが無かったのも、パッチの仕業なのだろう。
既に時間が経っていることを考えれば、奴はもうヤーナムを去ったのかもしれない。
「はぁ……私としたことが、あんな人物を雇ってしまうなんて……」
集めた資料や品まで持ち去られるなんて、最悪ですわ――。
今までの苦労が水の泡となり、草臥れ損だと
目に見えて落ち込むルヴィアを、グレイは必死に宥めていた。
***
「……Ⅱ世、気づいてるだろう。今の現状を」
「……あぁ、信じがたいがな」
切っ掛けは未だに不明だが、自分たちは現在、過去のヤーナムに捕らわれている。
幻覚や幻視などではない。ましてや、感覚も意識もはっきりしている。
都市を訪れたときとは、街の様子も明らかに異なっている。
廃墟然とした街並みはかつての姿を取り戻し、
無人だった市街地には、正気を失い、獣と化した住民が溢れている。
逃げ出すにしても、ただヤーナムを離れればいいという問題でもない。
「……厄介なことになったな」
「焦っても現状は変わりませんわ」
別れてから入手した資料や、住民から得た情報もある。
一度それらを共有し、整理するために互いの持つ情報を話し合った。
これからどう動くか、その判断材料にもなるはずだ。
***
「……残りの物資も、十分とはいえないな」
獅子劫が周囲を見渡す。
食料や水にも限りがある。
オドン教会で朝を迎えるという案も、住民の証言から、
夜が明けないという異常事態であることが判明している。
このまま待機していても、状況が良くなるとは思えない。
ならば、現状を打破するためにも、更なる情報を得るために移動すべきだ。
「残るは、ビルゲンワースか」
医療教会が禁域に指定した森の奥に、その学院はあるという。
すべてが始まった最初の地。
何かしらの情報が残っているはずだ。
「向かうのはいいとして、道はわかっているのか?」
「あぁ。禁域の森への行き方は、既に把握している」
森と聞いて、獅子劫には思い当たる場所があった。
「その森なんだが、診療所の地下にも森へ続く道があったはずだ」
もっとも、そこが禁域の森であるかどうかは不明だ。
それに、ヨセフカ診療所までの道程が安全であるかも確認できていない。
「確実な方を選ぶとしよう……今なら、道中の獣は狩人が粗方片付けてあるはずだ」
アイリーンと共に進んだ道なら、現状で判断できる中では、一番安全だろう。
「決まりだな……まぁ、すぐに向かう必要もないだろう」
Ⅱ世も疲れているはずだ。
見張りは俺がやるので、他の奴らも交代で休むことにしよう――。
そう提案され、移動の準備を進めながらも、
一行は互いに寄り添うようにして、暫しの休息を取ることにした。