『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』 作:丹波りん
森の奥へ進むにつれて、道は次第に荒れ、足場も悪くなっていった。
高く伸びた木々が空を覆い、湿った土と腐葉土が重なった地面からは、
靴底へまとわりつくような感触が伝わってくる。
木の幹に魔術の印を施しながら、一行は慎重に進んでいた。
獣の気配は絶えない。遠くで唸り声が響いたかと思えば、
近くの茂みで枝が折れる。姿を見せることはなく、
ただ森そのものがこちらの動きを窺っているようだった。
しばらく進んだところで、木々の間に人工物が見え始めた。
朽ちた柵、その向こうには幾つもの粗末な家屋が並んでいる。
屋根は崩れ、壁板は腐り、草木が窓や戸口から入り込んでいた。
「……村、でしょうか」
「そのようだな」
Ⅱ世も足を止め、周囲を見回した。
森の中に取り残された、小さな集落。
だが、人の気配はない。
村の中心へ進むと、地面が大きく崩れ落ちた場所が現れた。
Ⅱ世が松明を掲げても、その明かりは途中で闇に呑まれてしまう。
大穴の底はこちらからでは確認できそうにない。
その周囲には、幾つもの死体が転がっていた。
衣服は人のものだが、身体は既に獣へと変わり果てている。
肥大した四肢と毛に覆われた身体が、
かつてここに暮らしていた者たちの末路を物語っていた。
「……」
「酷い有様ですわね……」
獣となった住民同士で争ったのか、それとも別の獣に襲われたのか。
ここに残された死体だけでは判断できない。
「……この村も、獣の病に呑まれたということか」
Ⅱ世は大穴から視線を離し、周囲を見渡した。
村には簡素な柵や罠が幾つも残されている。森から来る獣を警戒していたのだろう。
しかし、守る側だった住民自身が獣になってしまえば、それらは意味を失う。
村の奥へ進むと、崩れた家屋の間からさらに先へ続く一本道が見えてきた。
両壁は岩が剥き出しになっており、地面は黒く濡れている。
先に進むには、この道を通る他なさそうだ。
足首まで浸かりそうな泥濘が何処まで続いているのか、ここからでは判別できない。
「……これは」
ルヴィアが足を止めた。
裾を僅かに持ち上げたまま、黒くぬかるんだ道を見つめている。
「この中を進むのですの……?」
足元だけならまだいい。
問題は、その先だ。
泥濘は森の奥まで続いており、どこまで行っても抜けられる様子がない。
「お嬢様には厳しそうだな」
獅子劫が苦笑する。
「笑い事ではありませんわ!」
ルヴィアが振り返る。
「そもそも、替えの服すらないのですわよ!
あの男がキャンピングカーごと持ち去ったせいで!」
「……まあ、そりゃそうだ」
今の一行には、汚れた服を着替える余裕などない。
「本当に……見つけたら絶対に許しませんわ!」
ルヴィアが泥濘を睨みつける様子を横目に、
グレイは近くに落ちていた枝を拾った。
「少し、調べてみます」
枝の先端を泥濘へ差し込み、そのまま持ち上げると、
黒い液体が糸を引くように枝先へ纏わりついている。
鼻を近づけ、匂いを嗅いだグレイの顔が途端に顰められた。
「……変な臭いがします」
土や腐葉土とは明らかに違う。
鼻の奥を刺激する、重く油のような匂い。
黒い液体は泥とは違い、光を鈍く反射している。
その臭いと粘り気を考えれば、単なる泥とは思えなかった。
やがて、その匂いがⅡ世のところまで届く。
「――全員、下がれ!」
鋭い声が飛んだ。
何事かと振り返る一同に、Ⅱ世は手で制するようにして距離を取らせる。
「おいおい……まさか、タールか?」
「……危なかったですわ」
二人の顔にも冷や汗が浮かんだ。
原因は明白だった。
一行はそれぞれランタンを携え、さらにⅡ世は松明まで手にしている。
これが可燃性のものなら、何かの拍子に火が移れば全員が巻き込まれかねない。
Ⅱ世はすぐさま松明を泥濘から遠ざけ、その火を消した。
辺りは先ほどまでより暗くなったが、
各自のランタンがあるため、完全に視界を失ったわけではない。
「……このまま進むのは危険すぎるな」
Ⅱ世は黒い道の先を見つめる。
この道を進むのであれば、火気を消しておく必要がある。
だが、ランタンまで消してしまえば、
今度はこの薄暗い森の中を十分な視界なしに進むことになる。
姿の見えない獣に襲われる可能性を考えれば、それも安全とは言えなかった。
「他に道がないか探そう」
Ⅱ世の判断に、誰も異を唱えなかった。
一行は黒い泥濘を避け、村の周辺へと探索の範囲を広げていった。
***
崩れかけた家屋の中には、住民が暮らしていた痕跡がまだ残されていた。
倒れた家具や割れた食器、埃を被った棚。
壁際には幾つかの瓶が並んでいる。
「……酒か?」
獅子劫が一本を手に取った。
瓶そのものは古びていたが、封は残っている。
獅子劫は周囲を確認してから、慎重に封を切った。
瞬間、瓶の口から濃密な臭気が立ち上った。
「……っ!」
思わず顔を背ける。
酒の匂いではない。
鼻を突き抜けるような、生々しい血の臭いだった。
「……ひどい匂いです」
「ええ……これは流石に」
グレイが鼻をつまみ、ルヴィアが口元を覆う。
Ⅱ世は瓶を受け取り中を確認すると、途端に顔を顰めた。
「……血を、酒として飲んでいたのか」
治療として血を活用するのとは違う。
嗜好品として血酒を日常的に求める者たち。
医療教会に所属しているアデーラから聞かされた
カインハーストの一族も、血を常飲していたのだという。
その文化が、どこまでこの街に影響を及ぼしているのかは分からない。
だが少なくとも、血を嗜好品として口にすることそのものが、
異常な行為として認識されているわけではないのだろう。
Ⅱ世の視線が瓶へ落ちる。
医療のために血を利用することと、酒として常飲することでは意味が大きく異なる。
まして、それが長く続いていたのだとすれば……。
「……獣化との関連も、考えておくべきかもしれんな」
血を飲むことそのものが原因なのか。
それとも、獣化を引き起こす何かが別にあり、血を求める習慣もまたその結果なのか。
今の段階では判断できない。
ただ、この街で血がどのように扱われていたのかを知る上では、無視できない品だった。
「一応持っていこう」
Ⅱ世が瓶を獅子劫へ渡す。
「獣を誘導するのに使えるかもしれん。遠くへ投げれば、血の臭いに反応する可能性がある」
「なるほどな」
獅子劫は瓶を背嚢へ収めた。
「捨てるよりは使い道があるってわけか」
***
付近の探索を続けていると、獅子劫が足を止めた。
何事かと視線を向けると、木々の間に幾つかの檻が見つかった。
大型の犬なら十分に収まりそうな大きさの、錆び付いた檻。
鉄格子には、内側から引っ掻いたような傷が残っている。
「……見覚えがあるな」
「以前話していた森のことか?」
「あぁ……確か、この先に」
獅子劫の後に続き、細い道を抜けた先には、
岩壁を刳り貫くようにぽっかりと穴が開いている。
以前、ヨセフカの診療所の地下を調べた際に辿った場所。
その地下から続いていた洞窟と、目の前の景色が記憶の中で重なった。
「間違いねぇ。あの洞窟だ」
獅子劫が道の先を指す。
「診療所の地下から洞窟を抜けた先が、ここに繋がってる」
「では、この洞窟を使えば診療所へ戻れるのか」
「ああ。帰りは、来た道を戻るよりかなり短くできそうだ」
「それは助かりますわね」
森を抜けるだけでも相当な時間を要する。
帰路を短縮できる道が見つかったことは大きい。
「位置を記録しておこう」
Ⅱ世は手帳を取り出し、檻と洞窟の位置を書き込んだ。
帰路の候補として残しておけば、必要になった時に迷うこともない。
記録を終えると、一行はさらに周辺の探索を続けた。