『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』   作:丹波りん

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第七話 残された夢

 夜も、かなり更けていた。

 

 診療所の窓から見えるヤーナムの街は、すでに深い闇に沈んでいる。

 

 遠くの尖塔だけが月明かりを受けて、ぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせていた。

 

 病室を利用した拠点にも、先ほどまでの話し声は残っていない。

 

 机の上には、この日集めた資料が並べられている。

 

 院長の手記。

 

 血の医療に関する記録。

 

 調査の途中で見つかった品々。

 

 そして、その中央に置かれた黒い箱。

 

 蓋はすでに閉じられている。

 

 中に収められているものについては、誰もまだ明確な答えを出せていなかった。

 

 人間の頭蓋骨。

 

 その頭頂部は大きく割れ、内部には青白い、蛞蝓のようにも見える軟体状のものが蠢いている。

 

 生物なのか。

 

 死体に寄生している何かなのか。

 

 それとも、魔術的な存在なのか。

 

 現時点では、どの可能性にも決め手がない。

 

「……これ以上は、明日に回した方がいいでしょうな」

 

 パッチが黒い箱を眺めながら言った。

 

 普段と変わらない軽い口調だったが、視線だけは箱から離れていない。

 

「そうだな」

 

 Ⅱ世も頷く。

 

「今日一日で得た情報が多すぎる。これ以上続けても、整理する前に新しい疑問が増えるだけだ」

 

「私も賛成ですわ」

 

 ルヴィアが腕を組む。

 

「特に、あの中身については慎重に扱う必要がありますもの」

 

 獅子劫は椅子に腰掛けたまま、黒い箱へ視線を向けた。

 

「問題は、これを今夜どうしておくかだな」

 

「そのままにしておくのは避けるべきだろう」

 

 Ⅱ世が答える。

 

「かといって、今から本格的な封印を施すのも現実的ではない」

 

 少し考えてから、Ⅱ世は箱へ手を伸ばした。

 

「簡単な封印だけ施しておこう。少なくとも、明日まで不用意に開けられない程度にはな」

 

 グレイが箱を見る。

 

「拙も、その方がいいと思います」

 

「では、決まりですわね」

 

 Ⅱ世は箱の表面へ魔力を通していく。

 

 複雑な術式ではない。

 

 箱そのものを固定し、蓋が簡単には開かないようにするための簡素な封印だ。

 

 魔力が表面を薄く走り、蓋の継ぎ目へ集まっていく。

 

 しばらくして、Ⅱ世が手を離した。

 

「これでいい」

 

「明日になったら、また調べるわけですな」

 

 パッチが言う。

 

「ああ」

 

 Ⅱ世は黒い箱を見た。

 

「今の段階では、分からないことが多すぎる。正体についても、危険性についてもな」

 

「それでも、あのような状態で残されていた以上、何かしらの意味があるのでしょうね」

 

 ルヴィアが呟く。

 

「そうだろうな」

 

 Ⅱ世が答える。

 

「だからこそ、焦って結論を出すべきではない」

 

 それ以上、箱について話す者はいなかった。

 

 夜はすでに深い。

 

 明日も調査を続ける以上、今夜は休む必要がある。

 

「では、私はキャンピングカーへ戻りますわ」

 

 ルヴィアが立ち上がった。

 

「今日はもう十分頭を働かせましたし、あとは寝るだけですわね」

 

「拙も行きます」

 

 グレイが言った。

 

「夜食の片付けをしておきますので」

 

「お願いします」

 

 ルヴィアが微笑む。

 

 パッチも席を立った。

 

「では、あっしも外へ戻るとしますか」

 

「テントの方か?」

 

 獅子劫が尋ねる。

 

「ええ。残念ながら」

 

「自業自得だろ」

 

「旦那は手厳しいですなぁ」

 

 パッチは笑いながら、ルヴィアとグレイとともに病室を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 三人の足音が廊下の向こうへ消えていく。

 

 診療所の中に残ったのは、Ⅱ世と獅子劫だけだった。

 

 Ⅱ世は机の上へ目を戻す。

 

 資料はまだ整理しきれていない。

 

 今日の調査結果を頭の中で反芻しながら、何枚かの手記を重ね直していく。

 

 獅子劫は懐から煙草を取り出した。

 

「一服するか?」

 

「私はいい」

 

「そうかい」

 

 獅子劫が火を点ける。

 

 小さな炎が、暗くなり始めた病室を一瞬だけ照らした。

 

 煙がゆっくりと上がっていく。

 

 しばらくの間、二人とも口を開かなかった。

 

 やがて廊下から足音が聞こえてくる。

 

「戻りました」

 

 グレイだった。

 

 彼女は手にしていた小さな布巾を片付けるように置いた。

 

「夜食の片付け、終わりました」

 

「ご苦労だったな」

 

 Ⅱ世が答える。

 

「はい」

 

 グレイが寝床へ向かう。

 

 獅子劫も煙草を消した。

 

「じゃあ、俺たちも寝るとするか」

 

「ああ」

 

 Ⅱ世は立ち上がった。

 

 その前に、もう一度だけ黒い箱へ目を向ける。

 

 簡易封印に異常はない。

 

 箱から感じられる魔力にも、先ほどまでと変わったところはなかった。

 

「……明日だな」

 

 Ⅱ世はそう呟くと、病室の入口へ向かった。

 

 夜のヤーナムで無防備に眠るつもりはない。

 

 入口。

 

 窓。

 

 廊下へ通じる場所。

 

 Ⅱ世は要所へ簡単な術式を施していく。

 

 侵入者を完全に阻むような強固な結界ではない。

 

 何者かが近づけば、その気配を知らせる程度のものだ。

 

 最後の術式を結び終えると、病室全体を薄い魔力の膜が覆った。

 

「これでいい」

 

「師匠、ありがとうございます」

 

 グレイが頭を下げる。

 

「念のためだ。過信はするな」

 

「はい」

 

 灯りが落ちる。

 

 病室は暗闇に包まれた。

 

 窓の外から、風の音が僅かに聞こえる。

 

 それ以外には、何もない。

 

 やがて獅子劫の気配も静かになり、グレイも眠りについた。

 

 Ⅱ世も目を閉じる。

 

 長い一日だった。

 

 明日もまた、調査が待っている。

 

 そう考えながら、意識がゆっくりと沈んでいった。

 

 静かだった。

 

 Ⅱ世は、ヨセフカ診療所の廊下に立っていた。

 

 見覚えのある廊下だった。

 

 昼間に歩いた場所と、ほとんど変わらない。

 

 壁も。

 

 扉も。

 

 診察室も。

 

 病室も。

 

 ただ、夜だった。

 

 窓から差し込む月明かりは弱く、廊下の奥までは届いていない。

 

 照明もなく、昼間には感じなかった暗さが建物全体を覆っている。

 

 それでも、不思議と歩くことはできた。

 

 Ⅱ世は何も考えず、廊下を進んでいく。

 

 なぜここにいるのか。

 

 どうやってここへ来たのか。

 

 そのことに疑問を抱かなかった。

 

 自分が眠っているという認識もない。

 

 まして、これが夢だなどとは思いもしない。

 

 ただ、歩く。

 

 それだけだった。

 

 足音が響く。

 

 コツ、コツ、と乾いた音が廊下に落ちていく。

 

 他には何も聞こえない。

 

 獅子劫の声もない。

 

 グレイの足音もない。

 

 誰かが後ろからついてくる気配すらない。

 

 だが、それを不自然とは思わなかった。

 

 しばらく進んだところで、一つの病室に気付いた。

 

 扉が少しだけ開いている。

 

 その隙間から、淡い光が漏れていた。

 

 Ⅱ世は足を止める。

 

 なぜか、その部屋が気になった。

 

 理由は分からない。

 

 ただ、そこへ行く。

 

 それが当然のように思えた。

 

 扉へ近づく。

 

 指先で押す。

 

 ギイ、と小さな音がした。

 

 部屋の中へ入る。

 

 そこには、昼間見た医療器具が並んでいた。

 

 そして、その奥に――担架がある。

 

 拘束具のついた担架。

 

 その上には、何かが拘束され寝かされていた。

 

 白いシーツが全身を覆っている。

 

 顔も見えない。

 

 身体の輪郭もはっきりしない。

 

 ただ、動かない。

 

 Ⅱ世は担架へ近づいていく。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 距離が縮まる。

 

 その時、シーツの端から何かが垂れ下がっていることに気付いた。

 

 腕だった。

 

 そう思った。

 

 しかし、近づくほどに違和感が増していく。

 

 肌は青白い。

 

 血の気がないというだけではない。

 

 人間の皮膚とは違う、冷たい色をしている。

 

 腕そのものも異様に細い。

 

 骨の形が浮き出るほど痩せているのに、長さだけは人間のものとは思えない。

 

 Ⅱ世の視線が、ゆっくりと腕を辿る。

 

 肘。

 

 前腕。

 

 手首。

 

 そして手へ。

 

 指が見える。

 

 細い。

 

 長い。

 

 あまりにも長い。

 

 一本。

 

 二本。

 

 三本。

 

 四本。

 

 五本。

 

 そして――六本。

 

「……」

 

 Ⅱ世は息を呑んだ。

 

 心臓が激しく鳴り始める。

 

 ドクン。

 

 ドクン。

 

 耳の奥まで響く。

 

 何なのか。

 

 分析しなければ。

 

 そう思う。

 

 だが、考えがまとまらない。

 

 これは人間ではない。

 

 それだけは分かる。

 

 では、何なのか。

 

 生物としての異常なのか。

 

 魔術による変質なのか。

 

 あるいは――。

 

 そこで思考が途切れた。

 

 頭の奥に、妙な感覚が走る。

 

 何かが蠢いている。

 

 脳の奥を、柔らかなものが這っているような。

 

 自分の頭蓋の内側に、見知らぬ何かが入り込んでいるような。

 

「……っ」

 

 息が苦しい。

 

 冷汗が頬を伝う。

 

 止まらない。

 

 視線を逸らしたい。

 

 ここから離れたい。

 

 そう思っているのに、身体が動かない。

 

 六本の指が、僅かに動いた。

 

 その瞬間。

 

「見てしまったのね」

 

 背後から声がした。

 

 若い女の声だった。

 

 驚くほど穏やかで、優しい。

 

 泣いている子供をあやすような声音。

 

 Ⅱ世は振り返ろうとする。

 

 だが、身体は動かなかった。

 

「大丈夫よ」

 

 女が近づいてくる。

 

 足音は聞こえない。

 

 それでも、距離が縮まっていることだけは分かる。

 

「怖くないわ」

 

 耳元で囁かれる。

 

 そして、何かを差し出す気配。

 

「これを打てば、何も怖くなくなる」

 

 視界の端に、細い金属が映った。

 

 注射器。

 

 そう認識した瞬間、頭の奥でまた何かが蠢いた。

 

 女の手が、ゆっくりと近づいてくる。

 

「大丈夫」

 

 その声は、あまりにも優しかった。

 

 だからこそ。

 

 Ⅱ世は、初めて恐怖を感じた。

 

 そして女は、まるで大切なものを慈しむように囁く。

 

 「そうして、私の大事な患者になるの」

 

 ――暗闇が、すべてを覆った。

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