『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 封印都市ヤーナム』   作:丹波りん

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第八話 月の香り

 頭が、ぼんやりとしている。

 

 何をしているのか、よく分からない。

 

 ただ、誰かに手を繋がれている。

 

 大人の手だった。

 

 大きくて、少し硬い。

 

 その手に引かれるまま、拙は大通りを歩いていた。

 

 視線が、いつもより低い。

 

 周囲を歩いている人たちの顔が、普段よりずっと高い場所にある。

 

 何処かで、大人たちが喧嘩をしている。

 

「だから、あいつは――!」

 

「知ったような口を利くんじゃねぇ!」

 

「そんなもの信じられるか!」

 

 怒鳴り声。

 

 罵声。

 

 嘲笑するような笑い声。

 

 大きな声が響くたび、拙の身体が小さく跳ねる。

 

 そのたびに、繋がれていた手が少し強く握り返された。

 

 大丈夫。

 

 そう言われているような気がした。

 

 だから、拙も歩く。

 

 何処へ向かっているのかは分からない。

 

 でも、この人について行けばいい。

 

 それだけは分かっていた。

 

 やがて、大通りから少し外れた場所に出る。

 

 見覚えのある建物が見えてきた。

 

 知っている場所。

 

 ヨセフカ診療所。

 

 悪い病気を治してくれるところ。

 

 そう聞いていた。

 

 拙は何度か、この場所に来ている気がした。

 

 でも、いつ来たのかは思い出せない。

 

 大人に手を引かれたまま、建物の中へ入っていく。

 

 扉が閉まる。

 

 外の喧騒が少し遠くなった。

 

 その瞬間だった。

 

 繋いでいた手が、僅かに震えていることに気付いた。

 

 拙ではない。

 

 手を繋いでくれている大人の手が震えていた。

 

 どうしたのだろう。

 

 そう思って顔を上げる。

 

 前から、誰かが歩いてくる。

 

 綺麗な女の人だった。

 

 知っている人。

 

 ヨセフカのお姉ちゃん。

 

 以前、飴を貰ったことがある。

 

 優しい人。

 

 お姉ちゃんは拙を見ると、微笑んだ。

 

「こんにちは」

 

 優しい声。

 

 その声を聞いて、少しだけ安心する。

 

 お姉ちゃんと大人が、拙の目線よりずっと上で難しい話をしている。

 

 何を話しているのかは分からない。

 

 病気。

 

 血。

 

 治療。

 

 そんな言葉が聞こえた気がした。

 

 でも、難しい話は分からない。

 

 しばらくすると、大人がしゃがみ込んだ。

 

 そして、拙を抱きしめてくれた。

 

 人のぬくもり。

 

 優しい匂い。

 

 拙は、その胸に顔を埋める。

 

 安心する。

 

 けれど。

 

 その身体は震えていた。

 

 泣いている。

 

 どうして泣いているのだろう。

 

 拙には分からない。

 

 それでも、その人は力いっぱい拙を抱きしめてくれる。

 

 少し苦しい。

 

 でも、嫌ではなかった。

 

 ずっと、このままでいたかった。

 

 けれど。

 

 ぬくもりが離れていく。

 

 さみしい。

 

 行かないでほしい。

 

 そう思った。

 

 けれど、代わりにお姉ちゃんが手を握ってくれた。

 

「大丈夫よ」

 

 優しい声。

 

 そして、拙の頭を撫でてくれる。

 

 その手が心地よかった。

 

 だから、拙は黙ってついていく。

 

 お姉ちゃんと一緒に、廊下を歩いていく。

 

 廊下は薄暗かった。

 

 昼間よりも、ずっと暗い。

 

 知らない場所へ連れていかれるようで、少し怖い。

 

 けれど、お姉ちゃんが手を握っている。

 

 だから大丈夫。

 

 やがて、一つの部屋へ辿り着く。

 

 扉が開く。

 

 中から、嫌な匂いがした。

 

 消毒の匂い。

 

 お薬の匂い。

 

 拙の嫌いな匂い。

 

 逃げたい。

 

 そう思った。

 

 でも、お姉ちゃんに抱きかかえられる。

 

 そのままベッドへ寝かされた。

 

 背中に冷たい感触。

 

 身体を起こそうとする。

 

 けれど、その前に何かが身体へ巻きついた。

 

 ベルト。

 

 胸。

 

 腕。

 

 脚。

 

 身体が動かない。

 

 少し苦しくて、身じろぎする。

 

 でも、動けない。

 

「大丈夫よ」

 

 また頭を撫でられた。

 

 その手に触れられると、少しだけ安心した。

 

 お姉ちゃんが離れていく。

 

 そして、何かを持って戻ってくる。

 

 大きな瓶。

 

 その中で、赤い液体が揺れていた。

 

 何なのかは分からない。

 

 でも、嫌な感じがした。

 

 お姉ちゃんが拙の腕を取る。

 

 チクッ。

 

 小さな痛みが走った。

 

「……っ」

 

 涙が滲む。

 

 けれど、お姉ちゃんは優しく笑っていた。

 

「すぐ終わるからね」

 

 その声を聞いているうちに、瞼が重くなっていく。

 

 眠い。

 

 凄く眠い。

 

 身体がどんどん重くなっていく。

 

 お姉ちゃんは、後でまた見に来ると言っていた。

 

 だから、安心して目を閉じた。

 

 目を覚ます。

 

 お部屋の中は、真っ暗だった。

 

 窓から差し込む月明かりだけが、優しく拙を照らしている。

 

 静かだった。

 

 誰もいない。

 

 拙は身体を動かそうとする。

 

 動かない。

 

 それよりも。

 

 身体が痒い。

 

 とても痒い。

 

 掻きたい。

 

 でも、腕が動かない。

 

 身体を捻ることもできない。

 

 痒い。

 

 痒い。

 

 どうしてこんなに痒いのだろう。

 

 その時。

 

 扉が開いた。

 

 暗い部屋の中へ、ランタンの明かりが入ってくる。

 

 お姉ちゃんだった。

 

 拙は声を出そうとする。

 

 痒い。

 

 痒いと伝えたい。

 

 でも。

 

 声が出ない。

 

 口を動かしているはずなのに、何も聞こえない。

 

 お姉ちゃんは拙の方を見る。

 

 それから、何かを書き始めた。

 

 紙にペンを走らせる音だけが聞こえる。

 

 時々、拙の方へ顔を向ける。

 

 でも、笑っていない。

 

 いつもの優しい笑顔がない。

 

 身体が、熱くなってきた。

 

 最初は少しだった。

 

 けれど。

 

 だんだんと。

 

 熱い。

 

 アツイ。

 

 あつい。

 

 身体の中から燃えているようだった。

 

 痒い。

 

 熱い。

 

 怖い。

 

 拙は必死に身体を動かした。

 

 逃げたい。

 

 お姉ちゃんに助けてほしい。

 

 でも、動けない。

 

 ベルトが身体を押さえつけている。

 

 何かが身体から流れ出る。

 

 赤いもの。

 

 透明なもの。

 

 何なのか分からない液体。

 

 それでも止まらない。

 

 頭の奥が、おかしい。

 

 何かがいる。

 

 何かが蠢いている。

 

 脳の奥を、何かが這っている。

 

 気持ち悪い。

 

 怖い。

 

 でも、声が出ない。

 

 お姉ちゃんは、ただ記録を書いている。

 

 やがて。

 

 何も感じなくなった。

 

 目が薄っすらと見えてくる。

 

 熱もない。

 

 痒みもない。

 

 身体も痛くない。

 

 ただ、頭がふわふわする。

 

 何かが遠くなったような気がする。

 

 扉が開いた。

 

 誰かが入ってくる。

 

 こちらへ歩いてくる。

 

 よく見えない。

 

 目の前にシーツが掛かっている。

 

 邪魔だった。

 

 腕を少し動かす。

 

 シーツがずれる。

 

 そのまま、床へ落ちた。

 

 その向こうに。

 

 人が立っていた。

 

 師匠。

 

「……師匠?」

 

 声は出なかった。

 

 でも、間違えない。

 

 師匠だった。

 

 安心した。

 

 やっと見つけた。

 

 駆け寄りたかった。

 

 助けてほしかった。

 

 けれど。

 

 師匠は、拙を見ていた。

 

 そして。

 

 驚いていた。

 

 どうして?

 

 拙は何か変なのだろうか。

 

 頭が、ふわふわする。

 

 考えがまとまらない。

 

 その時。

 

 どこからか、何かの香りが漂ってきた。

 

 不思議な香り。

 

 甘いような。

 

 冷たいような。

 

 遠い場所から流れてくるような香り。

 

 それはまるで――

 

 月の香りのような。

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