選ぶというのは、つまるところ見つけ出すことだ。選択肢の中から正解を見つけ出す。正解だと思うものを見つけ出す。が、見つからないこともある。見つけたと思ったが見当違いだった、なんてこともある。むしろ見つけられないことの方が圧倒的に多く、なので選ぶというのは、極めて高い確率でハズレを引くということでもある。人生は選択の連続だと誰かが言ったような気がするが、ならば人生というのはハズレを掴まされ続けることだろうか。たぶんそうだ。
たまに当たりを引くこともある。少なくとも、当たりだと思うことがある。人生に勝ち負けをつけるなら、当たりとハズレの比率で決まるのだろう。当たりを多く引くか、あるいは選ばないか。勝率は大体そうやって上がる。選んでしまっていることに気付かないというのは、だからきっととても幸せなことなのだ。
(わかってはいたが……ロクなもんがねえな)
強がりではなく、椎名は胸中でそうつぶやいた。そうだ、この結果は予測して然るべきだったし、事実予測していた。
だが、していたつもりに過ぎないと指摘されれば、そうなのだろうとも思う。本当に予測できていたのなら、そもそもこんなことをしているはずがない。
予測していたと言い張れる根拠は、いくつかある。ひとつは時間だ。あれから既に一週間が経過している。その間に自分達と同じことを考えたものがひとりもいなかったという確率は極めて低く、考えた以上は実行に移しただろう――これも自分達と同じだ。つまり、先を越された。
もうひとつは、ここが主も客も失ったとはいえ、コンビニであるということ。最近のコンビニであれば多少の防災用品は扱っていてもおかしくはないし、実際懐中電灯を並べていたのだと思しき棚も見つかった。だが、流石に小銃の部品や弾薬の類を扱っていたりはしない――よく考えればこれらは防災用品でもないが。
「ロクなもんがねーな、クソ」
聞こえてきた敏樹の声に、少しばかりうんざりする。まったく同じことを考えてしまった。違いと言えば声に出したかどうかという点だけだ。
「食い物がホンットになんもないなー……悪魔に喰われちまったのかね?」
「店員か客が持ち出したんじゃね? パン齧ってパックのジュース飲んでる悪魔とか見たことねーし」
棚の反対側から上がった千晴の声に、化粧品のケースを足で転がしながら京香が答える。彼女は早々に見切りをつけたのか、既に店内を探そうとはしていなかった。
「なー椎名の兄ちゃん。これ残ってるみてーだけど」
言いながら明が示しているのは、アイスが並べられた冷蔵庫の窓だった。椎名はそちらを見もせずに、
「そうか。溶けずに残ってるといいな」
「へ?……うわ! くっせえ!」
冷蔵庫の扉を開けたのだろう、悪臭がこちらにまで伝わってくる。
「おいガキ! さっさと閉めろ! 息できねえだろが!」
「もう閉めたよ!」
「うっわ、こりゃダメだわ。アタシ外に出てる」
口元を押さえて京香がそそくさと店外へ出て行く。窓を開けて換気をしようかとも思ったが、コンビニの窓の開け方がわからない――コンビニでのバイト経験はないのだ――し、そもそも危険だ。椎名は陳列棚からマスクの入った袋を手に取ると、中身を出して顔に着けた。が、あまり意味はなかったかもしれない――臭いは遮断できたが。
(つまり、ハズレしかねえってことか?)
素通りするか、店内に踏み入るか。選ぶ余地があったのはその時点だったのだろう。僅かな可能性に賭けたつもりだったが、見事にハズレを掴まされたということだ。店内には選ぶことができる程の選択肢がそもそも存在していなかったのだから。
ふと、レジの向かいに並べられた新聞紙へと視線をやる。どの紙面の日付も一週間前のものであり、当然悪魔が見出しを飾っているようなことはない。
(毛布の代わりに……ならねえか)
一瞬だけ考えるが、あまり意味がないだろうと思い即座に却下する。ならないことはないかもしれないが、そこまでして嵩張るものを持ち出す必要性がない。夜間の寒さをしのぐならどこかの建物に入れば良く、実際今日まではそうしてきた。悪魔は人間を襲いはしても建物を破壊する事には大して関心を払っていないらしく、無人となった家屋やビルがいくらでもある――ただし、住処にしていないとまでは言い切れないのだが。
(あの牛野郎を除けば、だけどな)
学校の体育館を根こそぎ破壊した牛の悪魔を思い出す。そもそも体躯のある悪魔には近づかないようにしているからなのだが、あれ程強力な悪魔には今のところ出くわしていなかった。仮に遭遇していたら、全員が無事に済むなどということはなかったに違いない。
と、なにやらがたがたという音が聞こえ、椎名はそちらに目を向けた。敏樹がレジを揺らしている。
「クソ、開かねえな。ぶっ壊しちまった方が早えか?」
「……なにしてんだ、お前」
聞かなくとも一目瞭然ではあったのだが、それでも一応聞いておく。
「レジが開かねえんだよ。っつかこれ、どうやって開けんだ?」
「開けてどうすんだ。どうせ金なら店員が持ち出してるだろうし、そもそもこの状況で金を盗み出したって意味がねえ」
「金なんざ、いくらあったって困らねえだろが。後のことを考えりゃな」
「ドサマギの火事場泥棒で手に入れた金ですって、とっつかまるか?」
「わざわざ言わなきゃバレねーし」
「……わざわざ言うやつがいる、っつってんだよ」
「あー。言いそうだよな、あのいい子ちゃんならさ」
横から千晴が口を挟んでくる。敏樹が手を止め、心底から面倒臭そうな表情で顔を上げた。
「あのクソアマ、ほんっとウゼえよな。あれはよくないこれはよくないだの、決めつけやがってよ。苦労知らずのお嬢って感じがしまくるっつーか」
「苦労知らずのお嬢なんだろ、実際。どっちにしろ、開かねえもんに挑んでも時間の無駄だ。さっさと諦めろ」
椎名が告げると、存外にあっさりと敏樹はレジから離れた。叩き壊して中を確認してやろうとまでは思わないらしい。ハズレを引く公算が高いと判断した、ということか。
彼だけでなく、千晴の方も既に店内の物色をしていなかった。そして無論、椎名自身もだ。額に手を当てて、嘆息する。
「……やっぱ、なんもねえか」
「無駄足だったよなー。誰だよ、なんか残ってるかもとか言い出したヤツ」
明らかにその答えを知っている、というか忘れていない表情で千晴が敏樹を見ながら言う。が、敏樹はそれには答えず、店の外へと出て行った。もう一度嘆息して、椎名も店を出る。
「……それで、収穫はあったのかしら?」
出るや否や、概ね予想していた通りの反応がこちらを出迎えた。いや、予想していたよりは少し早いか。椎名はマスクを外して適当に放り投げつつ、
「いや、役に立ちそうなもんはなかった。わかってたことだけどな」
小銃を構えた恰好がとにかく似合わない少女に向かって答える。そもそも学校指定の制服姿のままというのも無論あるが、それ以前にこの少女に武器というものが徹底的なまでに不釣り合いなのだ。文庫本かなにかを持って眼鏡の位置を直しているとか、そういった姿であればおそらく万人が納得したことだろう。椎名もそのひとりだった。
改めて、少女の姿をなんとなく観察する。身長は――この場に比較対象が京香くらいしかいないのでなんとも言えないが、年齢からすれば平均的か、あるいは少し低いくらいだろう。体格はと言えば、これは疑いようもなく細いと断言できる。不健康ではないが、スポーツや格闘技に打ち込むには決定的に向いていないように思えたし、事実向いていない。これについては本人も自覚があるようだった。生まれてこの方一度も染めた方も脱色したこともないのが窺い知れる黒髪は、ここ一週間ほどろくな手入れもされずにいたことを思えば自慢くらいはしてもいいのではないかと思える程度には、真っ直ぐに腰の辺りまで伸びている。まあ、これといって外見的な特徴を見出すのが難しい少女ではあった。
その少女が――なんの変哲も見出せない少女が、両手で小銃を構えたまま不機嫌そうな表情でこちらを見ているという絵面は、有り体に言って不自然だった。もう見慣れたはずなのだが、それでも違和感は拭い切れない。
「あっそう、それはご愁傷様。これに懲りたら、もう二度と火事場泥棒みたいな真似はしないでね」
みたいな真似ではなく紛うことなき火事場泥棒なのだが、それを指摘すれば恐らく彼女はこう返してくるだろう――火事じゃないんだから、みたいなものよ。
ともあれ反論しても意味がないことはわかっていたし、椎名自身彼女に責められる筋合いなど微塵も感じていなかったので、特に言い返すようなことはしなかった。しなかったのだが。
「こんな時にまでどーでもいいコト気にしてさー。バッカじゃね?」
彼女の方は見ぬままに、京香がぽつりと漏らす。無論、聞こえないように言ったつもりはまったくないのだろうが。
言われた少女、菜緒は素早く京香の方を振り向き、
「こんな時って――」
「うっせーなホント。警察に見張られてるワケでも監視カメラが動いてるワケでもねーのに、なんでそんなに気になんだよ」
「大体、こんな状況じゃなにしたって犯罪なんかにゃならないって。いちいち俺たちのやることに文句つけんの、やめてくんない?」
と、こちらははっきりと菜緒に向けて、敏樹と千晴が口々に言う。はあ、と、菜緒が息を吐き出すのが見えた。
「警察だとか犯罪だとか、そういうことじゃなくって、モラルの問題よ。わかる? 犯罪じゃないからなにをしてもいいなんて、理屈にもなってないじゃない」
「なんで? 犯罪じゃない限りはなにやったっていいじゃん。犯罪じゃないんだし」
菜緒の言葉が本気で理解できないというような顔で、京香が答える。
「犯罪はするなって、みんな言ってんじゃん。それって、犯罪にならないコトをしろってことじゃねーの?」
「……ええっと、どう言ったらいいのかしら」
子供に向かって言い含めるための言葉を選んでいるかのように、菜緒がこめかみに指を当てる。が、結局はなにを選んだところでハズレを引くしかないだろう――椎名は菜緒の顔を見ながら、内心でそう思っていた。彼女は既にそれよりも前の段階でハズレを引いているのだから、正答などどこにもあるはずがない。
(こいつらに言ったところで、わかりゃしねえよ)
だからと言って直接告げてやるような義理もないが。
尚も言葉を探そうとしているらしい彼女からはさっさと視線を外して、椎名は空を見上げた。正確な時間はわからないが、日が落ちるまであと二、三時間といったところだろう。それまでに今晩の寝床を見つけておかなくてはならない。
一週間程人気のない街を歩いていて、わかったことがあった。悪魔は基本的に、夜になると凶暴性が増す。まあそうでなくともわざわざ夜間の移動などしたくないのだが、ともかく彼らの餌になってしまう危険性を少しでも減らすべく、風雨をしのぐことができ、かつ悪魔から身を隠せるような建物を見つけるのは必須と言えた。そして幸いというか、今のところそれは大した苦労もなく成し得ている。なにしろここは街中で、建築物には事欠かない。
椎名は周囲へと視線を向けた。多少崩れているものこそあれ、街の景観そのものが以前と大幅に変わっているわけではない――悪魔は人のいない建物をわざわざ攻撃したりはしていないからだ。違うのは、人気がほとんど感じられないということ。いや、感じられないだけではなく、実際に見当たらない。避難したか、悪魔に殺されたか、そのどちらかなのだろう。
(にしても……ホントに、綺麗さっぱりいなくなっちまったな)
清々する、と思える程に他人を疎ましく感じていたわけではない――顔も名前も知らない大勢の人間より、すぐ傍で不毛な言い合いを繰り広げている、まだ一週間程度の付き合いでしかない数人の方が余程鬱陶しいくらいだ。
だが、それはそれとして。
雑音の存在しない街並みというのは、存外に悪くない。椎名はそんなことをこっそりと考えていた。
(…………はあ)
見張りを交代して建物の中へと入りながら、菜緒はもう何度目になるかもわからないため息を吐き出した。今日だけでも何度吐き出したかわからないし、あの日から数えれば更にわからない。学校に避難していたもの達が悪魔の襲撃でほぼ全滅し、まったくの素人である自分がこうして銃を手に取らざるを得なくなってしまったあの日から。
あれ以来、悪魔とは何度も遭遇している――撃退するか、あるいは全力で逃げるかは、その時の状況次第だったが、若干後者を選択することの方が多かった。なにしろ自分達はひとり残らず素人で、おまけに武器を持たない子供が四人もいる。とはいえ悪魔の目から完全に逃れるというのは至難の業であり、逃げるにしても少なからず交戦を余儀なくされることがほとんどだった。結果として菜緒もまた否応なく撃つ必要性に迫られ、それなりに銃の扱いにも慣れてしまってきている。
が、ため息の原因はそこではない――そこだけではない。
(まったく、椎名くんもあの子たちも……)
これももう何度思ったかわからない。ことあるごとに、彼らと自分の価値観の違いというものを思い知らされた。
口煩い存在であると、そう認識されているのはわかっていたし、自覚もないわけではない。生徒会の活動の際に頭が固いと評されたのは一度や二度ではなく、周りの生徒からは近寄り難く思われていたのも知っている。
ついでに言えば、彼らの言い分にまったく納得できないというわけでもない。自分達の身の安全を考えるだけで精一杯であるこの状況にあって、モラルだの分別だのを持ち出したところで一文の得にもならない――それは、まあわからないでもないのだ。素直に頷けるかどうかは別として。
だがどうしたところで、完全に納得しきれるものでもない。それは十数年間生きてきた上で培われた性分なので、どうしようもないものだ。両親と祖母の教育の影響などと言い逃れをする気もない――それが正しいと思ったからそれを受け入れたのだし、今もそう思っている。
(それに――)
本当に他者を慮る必要がないなどとは思えない。むしろこんな状況だからこそ、ひとりではどうにもならないことに誰かと対処しなければならないのではないか――少なくとも、菜緒はそう思っていた。
「……疲れてますね」
と、苦笑しながら声をかけてきたのは悠介だった。もうすっかり見慣れた姿だが、ノートPCに視線を落としたままこちらを見ていない。
菜緒は彼の隣に腰を下ろしながら、
「まあね……もう慣れたけど。結局、見つかったのってそれだけ?」
それ、と言って視線を向けたのは悠介の操作しているノートPCだった。
「まあ、バッテリーはありがたいですよ。もう残りがきわどかったですからね」
「よくわからないんだけど、コンセントに挿して充電しなくてもいいものなの?」
「いえ、もちろんそうできるならそうしたいところですけど」
「……前から思ってたんだけど、一体なにしてるの?」
言いつつ、横からモニターを覗き込む。相変わらず表示されているのは奇妙な図形と文字だけで、菜緒にはさっぱり意味がわからない。自分よりその方面には多少詳しいらしい千晴や浩一ですら、なんなのかわからないようだった。わかっているのは操作している悠介本人だけだ――と思っていたのだが。
「いえ、まだ僕にもよくわかってないんです」
あっさりとかぶりを振りながら、悠介が言ってくる。菜緒は首を傾げた。
「どういうこと? あなたにもわからないって――」
「これなんですけど」
と、悠介がモニターを指差す。
「なんだと思います?」
「わたしに聞かれても」
菜緒は即答した。わかるはずがない。
悠介は少しだけ間を置いて、
「実はですね、このプログラム――あの日、勝手に送信されてきたものなんです」
「あの日?」
「ええ。悪魔が現れた、あの日の朝に」
よくわからないが、そういうものは勝手に送られて来るものなのだろうか。それとも、それが不自然だからこそ気にしている、ということなのか。
「最初はまあ、ゴミだと思いましたよ。それかウイルスか。だから無視してたんですけど――そのすぐ後に、悪魔が現れたわけです。それで、ひょっとしたらなにか関係があるんじゃないかなって」
「……うーん?」
コンピュータウイルスというものは、流石に菜緒でも耳にしたことのある単語だ。だがなぜそれを悪魔の出現と結び付けようと思ったのか、そこは腑に落ちない。
悠介はもう一度間を挟んでから、言ってきた。
「名前は、DDSプログラム。デジタル・デビル・サモニング――悪魔召喚、プログラム」
「…………はい?」
言い返すべき言葉がなにも見つからず、それだけを口にする。
が、悠介はこちらの疑問に取り合うつもりがないのか、あるいはそれだけで理解できたものと思っているのか、後を続けてくる。
「送信者はわかりませんけど、流石に無関係だとは思えませんでした。それで、ひょっとしたら今回の件に少しでも――」
「ちょ、ちょっと待って。お願いだから待って」
慌てて静止をかける。悠介はそこでようやくこちらを見た。
「なに? 悪魔……召喚? プログラム?」
もうその呼び方をするのにもすっかり抵抗がなくなり、自分や悠介だけでなく、椎名達も怪物のことをそう呼んでいる――悪魔、と。なのでそれはわかる。悪魔、という単語は理解できる。だが、その後に続くものがまったく理解の範疇を越えていた。
悠介が頷いて見せる。
「ええ。悪魔召喚プログラム、です。怪しいと思いませんか?」
「いや、それは怪しいって言うか……」
怪しいのを通り越して、意味がわからない。悪魔と、召喚と、プログラム。前の二つはともかく、最後のひとつがどうしたところで菜緒の中でおよそ組み合わさらない単語だった。儀式であるとか魔法であるとか、そういったものであればまだ多少は納得できたのかもしれないが――無論その場合は、完全にただの与太話として切り捨てることができただろうし、悠介だってそれは同じだろう。
「ええっと……どういうものなの、それって?」
どう足掻いたところで自分の頭だけでは結論など出せそうにないと判断し、菜緒は尋ねた。
しかし悠介はもう一度首を横に振りながら、
「まだよくわかってないって言ったじゃないですか。怪しいからどうにか調べようとはしてるんですけど、バッテリーが気になってなかなか思うように進まないんですよね」
「ただのイタズラじゃねーの?」
と、悠介の後ろで有紗の相手をしていた亮が会話に入ってくる。同じように有紗も悠介の脇からモニターに視線を向けていた。
悠介が肩をすくめる。
「もちろん、その可能性もあるよ。ただ、偶然にしてはタイミングが良過ぎるし、それに――」
「それに?」
なぜか言葉を切った彼に問いかける。悠介はそのまましばし、なにかを言おうと口を開いたまま動きを止めていたが。
「……ゆうすけ?」
有紗の言葉に、はっとなって顔を上げた。喋っている途中に考え込んでしまっていたらしい。
「いえ、ひょっとしたら――僕の推測を裏付けるものになるかもしれない、と思っただけです」
「推測? なんのだよ?」
「悪魔に関して、だよ」
「……? なにか、わかったの?」
悪魔に関しての情報であれば、自分達と同じ程度のものしか掴んでいないはずなのだが――つまり、ほぼなにもわかっていないということだ――にも関わらず、この少年は自分達とは違うなにかに思い当たっているのだろうか。だとすればそれはそれでおかしな話ではある。
が、やはり悠介は首を横に振った。
「いえ、繰り返しますけど、まだなにもわかっていないに等しい状況です。ここから一歩進むには、やっぱりこのプログラムを解析しないと……」
「ぷろぐらむ?」
再び有紗が口にして、悠介の顔を覗き込む。悠介はそれに対して適当に頷いているだけだったが。
「ゆうすけ?」
有紗はもう一度悠介に呼びかけるが、最早聞いているのかいないのか、彼はモニターから視線を離そうとしない。
「むー……なお。ゆうすけ、こっちみない」
彼に対して話しかけるのを諦めたのか、有紗は不満をこちらにぶつけてきた。菜緒は有紗に手招きをしつつ、
「そうね。わたしにもよくわからないけど、なんだか大事なことみたいだから――こっちにいらっしゃい、有紗ちゃん」
有紗は不機嫌な表情のまま悠介から離れると、こちらに近づいてきた。ぼす、とあまり軽いとは言えない体重をこちらの膝の上に乗せてくる。
「どう? なにか、思い出せた?」
有紗の身体を抱きかかえやすいように脚の位置を変えつつ、尋ねる。それに答えてきたのは亮だったが。
「ぜーんぜん。オレらの名前は言えるようになったみてーだけど、これは思い出したわけじゃなさそうだしな」
「……そうみたいね」
有紗の顔を見ながらつぶやく。
初めて会った時は、言葉らしい言葉を話すこともできなかった。記憶を失ってしまったと聞いたが、それは文字通りの意味であり、彼女は赤子とほぼ同じだったのだ。違ったのは、赤子であれば言葉を話すどころか立ち上がって歩き出すまでに数ヶ月はかかるところだが、彼女は歩くのも食事をするのもさほど問題なく行えたという点だった。そしてこの一週間、自分や悠介、明に亮が辛抱強く言い聞かせた結果、たどたどしいながらもどうにかこちらの名前といくつかの単語を話せるようにはなっている。これは亮の言う通り、以前の記憶を思い出しているというより、新しく覚えたのだろう。
菜緒は有紗の頭をゆっくりと撫でつつ、こちらを見上げている彼女の顔を見返した。
「うーん……記憶喪失なんてなったこともないし、実際になったひとにも会ったことがないから、なんとも言えないけど……こういうのって、なにかのきっかけで思い出したりするものなのかしら?」
有紗に向かって尋ねたわけではなかったのだが、彼女は不思議そうに首を傾げている。
「ショック療法とか、よく聞くけどなー。なくした時と同じようなショックを受ければ、その衝撃で思い出す、ってヤツ」
「なくした時のショック、って……無理でしょ、そんなの」
気楽な口調で言ってくる亮に、菜緒はやや呆れて答えた。なにしろ有紗が記憶を失う原因となったのは、恐らく目の前で悪魔に両親を殺害されてしまったことなのだ。その時と同じショックをもう一度与える、つまり体験させるというのは物理的に不可能だし、物理的でない理由からもおよそ賛同しかねるところだった。
(目の前で、家族を失うなんて……)
そのショックがこの少女にとってどれほど大きなものだったのかは、正に今のこの姿が如実に表している。そんなものが、二度も三度もあっていいはずがない。
――のだが、当の有紗はやはりよくわかっていないようだった。
「しょっく?」
「ううん、焦らなくてもいいのよ。ゆっくり思い出していけば――」
思い出す保証などどこにもないのだと、それはわかっていたが。きょとんとこちらの顔を見上げている有紗を見ながら、菜緒はそう告げた。
眠りについてからどれくらいの時間が経過したのか、無論のこと数えていたわけではない。だが、それほど経っていないのだとはすぐにわかった――まったく眠った気がしないのだから。
「起きろ! 悪魔だ!」
外から聞こえてきた声に、菜緒は即座に反応していた。これももう慣れてしまったことだが、素早く身を起こし、すぐ傍に立てかけておいた小銃に手を伸ばして引っ掴む。
見ると、同じように眠っていた悠介達もやはり起き上がっていた。ここ数日の生活で、こんなことにも慣れてしまったのだろう――ただし有紗だけは、まだ半分眠っているのか瞼がほとんど開いておらず、横になったままだったが。
「……あくまー?」
「有紗! ちゃんと起きて!」
彼女の手を引っ張って強引に立たせながら、悠介が声を張り上げる。それでもまだ有紗は眠たそうに目をこすっていた。
彼女を起こすのは任せて、菜緒は建物の入口へと駆け寄った。すぐ近くにいるであろう見張りの誰かに声をかける。
「どれくらいいるの? 距離は?」
「ひとつだけだ! 距離は――もう見えてる!」
「っていうか、見つかってます!」
聞こえてきたのは敏樹と浩一の声だった。顔だけを外に出して見やると、二人とも建物の壁に背を預けるようにしながら銃を構えている。
二人が視線を向けている方へ同じように目をやると、何十メートルか先(暗いのであまり正確にはわからない)に動く影が見えた。距離がある上に夜闇に紛れているので判然としないが、人の形をしていないことだけははっきりと断言できる。
「……どうする? 撃つか?」
迷いを感じさせる口調で、敏樹が聞いてくる。
影は徐々にこちらへと近づいていた。ここから狙って撃ったところで当てるのは難しいだろうし、当たったとしてもそれで息の根を止められる公算は低いだろう。むしろ距離があるうちにさっさと逃げてしまった方がいいかもしれない。
「……椎名くんたちは?」
「反対側です。さっき呼びましたから、聞こえていれば――」
浩一の科白を遮って、
「ヤベ!」
敏樹が叫ぶ。その理由は聞かずともわかった――悪魔が、こちらへと向かって走り出したのだ。しかも尋常な速度ではない。
逃げるのは不可能だと即座に判断を下し、菜緒は銃口を上げつつ声を張り上げた。
「悠介くんたちは中にいて! 撃つわよ!」
こちらの声に反応し、敏樹と浩一も同じように銃口を悪魔へと向けた。間を置かずに発砲する――が、当たらなかった。
「速え!?」
敏樹の悲鳴が上がる。悪魔は特にかわすための動作を取らなかった。つまり、こちらが的の動きに追いつけなかったというだけのことだ。そしてそこでようやく、悪魔の姿を視認する。
速いのは当然だった――その悪魔は、四肢のすべてを地面を蹴ることに費やしていたのだから。どう見ても、それは馬にしか見えなかった。白い鬣を生やし、肌の色は漆黒。敢えて馬としては不自然な点を挙げるとすれば、山羊のような角が二本、頭から背中に向かって伸びていることだろうか。
黒馬は見る間にこちらへと近づいており、数秒と待たずに接触しそうな勢いだった。するつもりはないが。
合図をするまでもなく、敏樹と浩一はそれぞれ左右へと散っていた。こちらも黒馬の正面から逃れるべく横へと跳びながら、再び発砲する。
狙いをつけていたわけではないが、弾丸が黒馬の角に命中した。それで折れ飛ぶようなことこそなかったものの黒馬がバランスを崩し、同時に速度もがくんと落ちる。
「今!」
この好機を逃す手はない。菜緒は敏樹と浩一に向かって撃つよう叫んだが。
「えっ!?」
聞こえたのは浩一の声だけだったものの、ともあれ菜緒はすぐに仕損じたことを察知した。二人とも菜緒が予想していたよりも悪魔から距離を取っており、しかも背中を向けている――全力で逃げ出していた最中だったらしく、銃口を向けていなかった。
二人が慌てて立ち止まり、悪魔に向かって銃口を向けるが、既に遅かった。黒馬は体勢を直し、再び――言うまでもなく、最も近い位置にいた菜緒の方へ――駆け出そうとしている。
後ろに跳んではかわせない。かと言って横に跳ぶにしても、距離があるうちに跳んでしまっては方向転換されるだけだ。
黒馬の突進をぎりぎりまで(あくまで菜緒の感覚で、だが)引き付けてから横に跳び、すれ違いざまに撃つ。そんな無茶な体勢で当たるとは思っていなかったが、案の定当たらなかった。突進をかわされた黒馬はブレーキをかけ、再びこちらへと向き直る。
(闘牛士じゃないんだから……!)
相手は牛ではなく馬だが、心境としては似たような心地だった。ただし、相手の目を眩ませられるようなものは一切持っていない。
いっそのこと制服の上着を脱いで闘牛士の持っている赤い布――なんだっけ、カポーテだったかしら?――代わりにしようかとも思ったが、自分の反射神経ではうまく活用できそうにないし、相手がそんな時間を与えてくれるとも思えない。あるいは椎名であれば、うまく活用したかもしれないが――
「おい、ジャマだっつーの! 撃てねえだろが!」
と、見えない位置から敏樹の罵声が飛んでくる。
(そう言われたって……!)
菜緒は歯噛みした。悪魔がこちらを狙っている以上、安易に背を向けて逃げ出すことはできそうにないのだ。せめてあの機動力を削ぐことさえできれば――
黒馬が蹄を鳴らし、再びこちらへと突進してきた。今度も引き付けてから避けるつもりだったが、先程よりも悪魔からは近い。間に合うかどうかは更にシビアだろう。
(なら……!)
菜緒は後ろに跳んだ。と同時に、トリガーを引く。
一応、狙った通りの結果ではあった――それでも偶然としか思えなかったが。弾丸は黒馬の左前肢に命中し、悪魔がぐらりとバランスを崩した。そのまま体重を支えきれずに、前方へと座り込むように倒れ込む。
が、菜緒が着地して再び銃を構えた時には、黒馬は既に立ち上がろうとしていた。左前肢が中程から折れ、力なくぶら下げているが、構わずに残りの脚だけで身体を起こそうとしている。
そこに。
一体どこから走ってきたのか、本気で一瞬わからなかった――刀を突き出した恰好で、椎名が黒馬の側面にぶつかったように見えた。
黒馬の嘶きが、無人となった夜の街に響き渡った。駆け寄った勢いそのままに突き込まれた刀はほぼ根本まで黒馬の胴体に減り込んでおり、ぼたぼたとどす黒い液体が止め処なくこぼれ出している。が、それでも黒馬は倒れなかった。ぐるりと首を回し、肉薄している椎名に向けて口を開き――
ばきん! と。菜緒の撃った弾丸が再び角に命中し、今度こそ折れ飛んだ。それでダメージがあったのかどうかはわからないが、黒馬は椎名の方へ向けようとしていた首をあらぬ方向へと曲げている。
そこで椎名が刀を引き抜いた。手の中でくるりと刀の向きを変え、黒馬の首へと突き立てる。
再び、悪魔の嘶きが響く。椎名の刀は黒馬の首を反対側まで貫通していた。
椎名は刀を掴んだまま黒馬の胴に靴の底を押し当てると、そのまま刀を引き抜きつつ蹴り倒した。胴体と首から盛大に体液を流しつつ、黒馬が地面に倒れ込む。
椎名はそのまましばらく、悪魔が起き上がって来ないかどうかを警戒していたようだったが――やがて刀に付着した血を払い落とし、息を吐き出した。
「馬の悪魔か……喰えねえかな?」
「冗談。こんなヤツ、どんだけ腹減ったって喰いたかねーっつの」
椎名の本気とも冗談ともつかないつぶやきに答えたのは、彼の後ろから近付いてきた京香だった。更にその後ろには千晴の姿も見える。
「か、片付いたのか……?」
言いつつ、敏樹と浩一もこちらへと近づいてくる。建物の方からは悠介達も出てきていた。
菜緒は悠介へと顔を向け、
「どう、悠介くん? この悪魔、どんなものかわかる?」
彼のノートPCの中のデータを当て込んだ質問のつもりだったが、しかし悠介は持っていたPCを開きもせずに、
「角が二本の黒い馬、ですか……たぶん、バイコーンってやつですね」
すぐに見当がついたらしく、あっさりと答えてくる。明が悠介へと驚いたように顔を向け、
「え? 山羊じゃねえの? 角生えてるじゃん」
「……そうだね。ただの山羊がこんなところにいる理由さえ説明できれば、それでもよかったんだけど」
「やぎうー?」
「野牛じゃなくて山羊ね、有紗ちゃん。いえ、山羊じゃないみたいだけど」
角の生えた馬と山羊の違いをどう説明すればいいだろうかと一瞬だけ考えたものの、即座に諦める。
「……これも、文献とかに名前がある悪魔ってことか?」
椎名が悠介に疑わしげな視線を向ける。
「ええ。あの牛の悪魔もそうでしたけど、それなりに有名な……でもないかな。ユニコーンの方は有名だけど」
牛の悪魔――後から悠介に聞かされたところでは、あれは恐らくミノタウロスという名の悪魔だろう、ということだった。もっとも牛頭の悪魔というのは世界各地の伝承に見られるらしく、獄卒の鬼だとかなんとか天王だとか、そういった悪魔である可能性もある、とも言っていたが。
「ユニコーン? それって、白くて角一本じゃなかったっけ?」
首を傾げて、浩一が尋ねる。菜緒もそちらの方は聞き覚えがあった。
「そうですね、そっちは有名なんですけど……このバイコーンの方は、ちょっと知られてないみたいです」
「んなこたあどーでもいいんだよ。マニアックな話してんじゃねえ」
と、敏樹が鬱陶しげに手を振りながら口を開く。
「それよりどーすんだよ。他の寝床探すのか?」
――全員が顔を見合わせた。
夜間の移動はなるべくなら避けたいところではある。だが、先程まで盛大に響いていた銃声やら悪魔の嘶きやらで、周辺の他の悪魔に感づかれていないとも限らない。移動するリスクと、移動しないリスクと、果たしてどちらが大きいのか――
考えながら、菜緒は口を開いた。
「……どうする? 多数決とかで決める? このままここで夜を明かすか、他の場所を探すか」
再び、皆の視線が交錯し――
反対を唱える声は上がらなかった。菜緒は頷いて、
「じゃあ、決めましょうか。まず――」
結局、移動せずに一晩を過ごすことに決まった。ただし当然と言えば当然だが、見張りを増やすことになったため、菜緒は眠らぬまま夜明けを待つことになってしまった。