出発する前から薄々と予測していたことではあったのだが。
「……なあ。その駐屯地って、いつんなったら着くんだよ?」
歩きながら、敏樹が誰にともなく言ってくる。
目的地への到着が当初の見立てよりも大幅に遅れているのだとは、全員がわかっていた。まあ、無理もないと言えば無理もない。最寄りの駐屯地の場所を悠介に調べてもらった時には三、四日もあれば着くと思っていたのだが、それは街並みがいつも通りであった場合の話だ。今は悪魔が徘徊しているためあまり大きな通りをぞろぞろ歩いて行くわけにはいかないし、日が沈めば立ち止まらざるを得ない。なにより皆、普段は徒歩だけでこれほどの長距離を移動するようなことはないので、歩き慣れていないのだ。菜緒自身、いい加減靴と靴下を履き替えたいところではあった。
(って言うか、お風呂に入りたい……)
一応汗と汚れだけは可能な限り毎晩拭き取っているものの、着替えがないので限界がある。せめてジャージなり体操着なりを持っていれば、まだましだったのだが(どこかの店から盗み出すという案が上がったものの、当然棄却した)。
「……おいガキ。今どの辺にいるんだ?」
敏樹が尋ねると、悠介はノートPCを開かずに答えた。
「大体、半分くらいまで来てると思います」
「まだ半分とか……もう歩きたくないんだけど」
京香が不服を微塵も隠さない声音で呻く。
「なあ、ちょっと休憩しね? そろそろぶっ倒れそーだよ、俺」
「ぼ、僕も……」
千晴の提案に、浩一が青ざめた顔で同意の声を上げる。あまり体力がある方ではないのか、喋るのも億劫そうだった。菜緒も似たようなものだが。
と言うか、疲労の色はほぼ全員に見て取れた。亮と明も口数が明らかに減っているし、有紗に到っては元々少ない語彙が完全に鳴りを潜めている。不平こそ口にしないものの、悠介の顔も心なしかやつれて見えた。
慣れない徒歩での移動に、それ以上に慣れない悪魔との遭遇と撤退、場合によっては交戦と、ここ数日で異様なまでに神経を擦り減らしている。愚痴を言いたくなる気持ちは痛い程わかるし、休みたいという気持ちは更にわかる。
唯一疲労も不満も顔に浮かべていないのは椎名だったが、彼にしても平気であるはずがない。菜緒は先頭を歩いている彼へと声をかけた。
「……椎名くん。少し休まない?」
「ああ?」
立ち止まり、椎名が全員を振り返る。続いて視線を空へと向け、
「……駄目だ。日が暮れるまではまだまだ余裕がある。進めるだけ進んどかねえと、それこそいつになったら着くかわからねえ」
「それは、そうだけど……」
言いつつ、皆の顔を見渡す。敏樹と千晴、京香の三人は一目でわかるほど不服そうな表情を浮かべていた。他のものは――それ以上に疲労の色が濃く、反論をするだけの気力もないように見える。
菜緒はもう一度椎名の方へと向き直り、
「でも、みんな疲れてるのよ。わたしもだけど。ここで無理したって――」
「姉ちゃん、オレなら平気だよ。な、明?」
「そうそう。なんだったら、有紗背負ってやったっていいぜ?」
亮と明が言ってくるが、それが強がりであることは顔を見なくともわかる。
「僕は、どっちでもいいですよ。確かに休みは必要かもしれませんけど、急げばそれだけ早く着くっていうのも、その通りですから」
なるべく疲労の色を見せないようにだろう、悠介が微かに笑みを浮かべながら言ってくる。痛々しい笑顔だったが。
ちっ、という音は、恐らく椎名が舌打ちしたものだろう。前方へと向き直りつつ、言ってきた。
「……せめて、休むのに都合のいい場所が見つかるまでは待て。それとお前ら」
と、肩越しに敏樹達四人の方を見やり、
「見張りはお前らからだ。ガキ共を先に休ませろ」
「はあ!?」
敏樹と千晴、京香が同時に聞き返した。
「ちょっと待てよ! オレらだって疲れてんだっつってんだろーが!」
「休みたいって言ってんのに、それじゃ休めねーじゃん!」
猛烈な剣幕で敏樹と京香が食って掛かるが、椎名は煩げに首を振りつつ、
「うるせーよ。足手まといの分際がえらそうにモノ言ってんじゃねえ」
「な……!」
「ちょっと、椎名くん」
敏樹達から剣呑な雰囲気を感じ取り、菜緒は慌てて椎名に声をかけた。
「そんな言い方ないでしょ。足手まといなんて――」
「てめえコラ椎名! 足手まといってんなら、このガキ共の方がよっぽど足手まといだろうが!」
それは恐らく売り言葉に買い言葉というか、つい勢いで口を滑らせてしまったのだろうが。
敏樹の放った言葉に、亮が真っ向から反論した。
「おいちょっと待てよ兄ちゃん! 足手まといっつーけど、銃持たせてくんねーじゃん! 武器さえあればオレらだって――」
「ガキは黙ってろよ! お前らに銃なんか持たせたって、見張りも出来ねーだろ!?」
食って掛かる亮に向かって、京香がぴしゃりと言い放つ。
敏樹が椎名の背中へと挑みかかるような視線を向けた。
「おい椎名。テメー少しばかり悪魔殺してるからって、イイ気になってんな? あ?」
「そう思うってことは、自分たちが足手まといだって自覚してるんだろ、お前ら」
「だから足手まといはこのガキ共だって言ってんだろ!」
「大体こいつら、邪魔なんだよね。なんの役にも立たねーし、置いてっちまった方がイイんじゃねーの?」
千晴の言葉に、明が弾かれたように叫んだ。
「あんだと!? 自分たちだけ武器持ってるクセに、そーゆーこと言うのかよ!」
「セコいってゆーか、汚えよ! だったらオレらにも武器よこせよ!」
「お前らにこんなもん扱えるわけねえって言ってんだろ!」
銃を奪い取ろうと飛びかかる亮の身体をさっとかわしつつ、京香が罵声を上げる。
――そこで。
「いい加減にしなさい!」
菜緒は思い切り声を張り上げた。ぴたりと、全員が動きを止める。
沈黙したままこちらへと向き直ってくる複数の視線に晒されながら、菜緒は小さく咳払いをすると、
「……お願いだから、こんな状況で喧嘩なんてやめて。苛々してるのはわかるけど、余計に到着が遅れちゃうでしょ」
と、視線を椎名に向ける。
「それと椎名くん。あなたが強いのはわかるけれど、だからってみんなを足手まといなんて呼ぶのはやめて。あなただって、ひとりじゃどうにもならないのはわかってるでしょう?」
「事実を言ったまでだ。まあ……ひとりでここまで来れたかどうかってのは、別問題だけどな」
「あなたたちも」
今度は敏樹達に向き直る。
「邪魔だから置いて行くなんて、二度と口にしないで。自分が同じことを言われたら、どうするつもり?」
「……はっ。そん時は、オレたちだけで勝手にやるさ」
小さく鼻を鳴らして敏樹が言ってくる。
「ええ、そうするしかないでしょうね。でも、人数が減ればそれだけ出来ることも減るの。この子たちは確かに銃を持ってないけど、だからってなにもしてないわけじゃない。この子たちが持ってる荷物、今からでもあなたたちで持つ?」
「ふざけんなよ。なんでアタシらが」
「そのつもりがないなら、二度と言わないで」
言い放ち、菜緒は止めていた歩みを再開した。やや遅れて、他の皆も歩き出す。
――しばし、誰も口を開かなかった。
(足手まとい、か……)
椎名の口にした言葉を反芻する。
そんなことはない、と。足手まといなど誰もいないのだと、そう口にしたのは嘘ではない。間違いなく本音だった。これは確信をもって言える。
いや、自分だけではない。全員がそれはわかっているはずなのだ。悪魔が徘徊する中を歩く上で、協力できる人間は大いに越したことはない。
(みんな、疲れてるし……苛立ってる)
それでもあんな言い合いになってしまったのは、結局のところこの状況が原因なのだ。いつ悪魔に襲われるかわからず、襲われたとして切り抜けられるかどうかわからず、切り抜けたところでいつ目的地に着くかもわからない。見通しはあっさりと崩れ去り、先行きが見えてこない。フラストレーションが募るのも無理はないと言えた。
(わたしだって)
同じなのだろう。ただ、それを口にしてはいけないという理性が働いているだけで。そしてその有無を、責めることなどできない。たまたま残っているだけのものが他人にはないからと言って、それを責め立てるのは筋違いだ。たまたま残っているということは、いつ底をついてもおかしくないのだから。
できることなら、擦り切れてしまう前に目的地に着いてほしい。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて椎名が休憩するのに適した建物を発見したらしく、全員に立ち止まるよう声をかけた。
悪魔から身を隠すのに適した建物の条件というのは、概ね二つだった。
ひとつは窓がないこと。夜ともなれば明かりを灯さないわけにはいかないのだが、しかしその光が漏れればこの上なく目立ってしまう。悪魔だからといって特に夜目が利くということはないようだったが、それでも発見されてしまうリスクは減らしておくに越した事はない。
もうひとつは、出入口があまり多くないことだ。建物の中にいる時に襲われたことは何度かあったが、扉があるのにそれを無視して壁を突き破ってくるような悪魔はいなかった。であれば見張りを配置しなければならない箇所は少ない方がいい――もっとも、小さな出入口がひとつしかないような建物の場合、そこを封じられるだけでほぼ身動きが取れなくなってしまうため、極端に少ないのも考え物なのだが。
そういった意味で、内外を繋ぐのがシャッター一枚というこの倉庫らしき建物は、うってつけだったと言える。シャッターを開きさえすればほぼ一面が出入口になるので余程多くの悪魔でなければ少なくとも塞がれることはないし、見張りの配置も最低限の人数で済む。まあ倉庫なので、居住性という点においては最悪と言わざるを得ないのだが。
椎名は足元に置いておいた腕時計(千晴のものだ)を見やった。そろそろ時間だ。
「おい相澤」
「なに?」
すぐ隣で自分と同じようにシャッターに背を預けて座り込んでいる菜緒へと声をかける。
「お前、そろそろ交代の時間だろ」
「ええ」
自分と同じように先程からちらちらと時計を見ていたので、気付いていないはずはなかった。
「起きて来る気配がまったくねえ。……叩き起こして来い」
「……うーん」
彼女は少し困ったような様子で、顎に手を当てた。そのまま数秒程考え込んでいたが、やがて顔を上げ、
「まあ、もう少しだけ寝かせておきましょう。椎名くんが交代する時に、一緒に起こせばいいでしょ?」
「……なに言ってんだ、お前」
彼女の言葉に意表を突かれ、顔を向ける。
今回に限った話ではなく、見張りの際のシフトを組み立てるのは菜緒の役目だった。だからというわけでもないのだろうが、交代時間の厳守を皆に言い聞かせていたし、無論彼女自身それを破ったことは一度としてない。そういう性分なのだろう、と椎名は納得していたのだが。
その彼女自身の口から、自分の決めた時間を無視するような言葉が飛び出したのだ。らしからぬ、と言える程彼女の性格を理解しているわけではないが、それでも椎名はどこか居心地の悪いものを感じた。
「交代の時にしろ起きる時にしろ、時間にゃきっちりしてるじゃねえか、お前」
「うん、まあそうなんだけどね」
言いつつ、どこか困ったような笑みを浮かべて見せる。
「……お祖母さまが、ね」
「うん?」
いきなり脈絡のない単語が出てきたので、思わず聞き返す。
「わたしの、お祖母さま。一緒に住んでるんだけど」
彼女は視線を虚空に向けていた。なにかを――誰かを思い出しているのだろうことは、想像に難くない。
「時間にはすっごい厳しいひとで……朝寝坊なんて、一度もさせてくれなかったの」
「……それで?」
他に言いようもなく、それだけを聞く。菜緒はかぶりを振った。
「ううん、それだけよ。ただそれだけ。なにか、関係のあるお話だと思った?」
と、彼女にしては珍しく――少なくとも椎名にはそう思えた――悪戯げな表情で言ってくる。
「なんだそりゃ。関係ないんなら話さなくてもいいだろ」
「そうなんだけど。……でも、別に話したっていいじゃない?」
「…………」
彼女がなにを言わんとしているのか微妙にわからず――これも珍しいと言えば珍しいことだ――椎名はしばし、返答に詰まった。数秒程の沈黙を挟んでから、
「……まあ、暇潰しにはな」
というか、暇潰しにしかならないだろう――他人の家族の話など。
「にしても、お祖母さま、ときたか」
「なーに?」
「いや、いいトコの育ちなんだろうと勝手に思ってたが、間違ってなかったみてえだな」
言うと。
菜緒はきょとんとした表情を浮かべた。なぜか左右へと視線を移した後、再びこちらを見て、聞いてくる。
「それって、わたしのこと?」
「お前以外に誰がいるってんだ」
彼女のリアクションにむしろこちらの方が面食らいそうになりつつ、半眼で告げる。菜緒ははたはたと手を振った。
「別に、普通よ。父さんはただの会社員だし、母さん専業主婦だし。まあ、貧乏っていうわけじゃなかったとは思うけど……」
それが謙遜なのか、あるいは本当にそう思っているのか、それはわからなかったが。
と、彼女ははっと口元に手を当てた。
「え、もしかして……わたしが勝手にそう思ってただけで、うちって裕福な方だったの? お金持ちだったの?」
「……金持ちかどうかの基準なんて、場合によるだろ」
まあそれでも、自分より恵まれていることだけは間違いない。だからと言って彼女を羨むようなことはないし、自分を卑下するつもりもないが。
「うーん。でも、友達から羨ましがられたりとか、そういう思い出がさっぱり……なんか不憫に思われたことはあるんだけど」
「ああ、それは少しわかる気がする」
「へ? どうして?」
「さあな。なんとなくだ」
適当に手を振りながら答える。菜緒は微妙に腑に落ちていないような顔をしていたが。
と、彼女は顔を逸らした。やや俯き気味に言ってくる。
「……疲れてるのよ、みんな」
「それはわかってるけどな」
こちらも彼女からは視線を外し、答える。
「邪魔だとか足手まといだとか、きっと本心からそう言ってたわけじゃないと思う――椎名くんだって、そうでしょう?」
それは確認というより、そうであってほしいという懇願のように聞こえた。自分がそうなのだから、他人にもそうあってほしいという、身勝手な言い分だ。
「さあな」
だから、というわけでもないのだが。椎名は彼女の望んでいるであろう答えを返してやる気にはならなかった。菜緒がこちらに顔を向けてくる。
「だって、こんな状況なのよ? いつ悪魔に襲われるかわからないから、寝る時には絶対に見張りが必要だし、荷物だって持って歩かなきゃいけない。悪魔にひとりだけで立ち向かえるはずもない。誰かをあてにしないと、やっていけるわけないじゃない」
「それはわかってる。別に否定する気もねえよ」
責めるような口調で言ってくる菜緒に、椎名は答えた。
「必要だから、相手をあてにするし、利用する。自分が生き延びるためにな。それだけだ。俺たちはただそれだけの集まりだ」
「……そうだけど」
「余計な馴れ合いはいらねえし、あいつらだって別にそんなもん望んでねえだろ。助かりたい、生き延びたい、さっさとこの状況から抜け出したい――考えられるのはそれだけだ。後は余分でしかない。邪魔だし、面倒くせえ」
どうでもいいことに思考を割く必要はないし、そのつもりもない。どうでもいいのだから。皆がどう思おうと、目的のために互いを利用するという、その一点だけを見失っていなければそれでいい。生き延びたいのであれば――菜緒の言った通り――それだけは蔑ろにするわけにはいかない部分なのだから。
「……そう、だけど」
納得がいかないのか、菜緒は同じ言葉を繰り返した。だが、こちらの言葉を頭から否定する気もないのだとは、彼女の表情を見れば窺い知れる。理性では納得できても、感情が追随して来ない――そんなところだろう。
「……でも」
と、反駁を口にする。
「みんながみんな、そんなふうに割り切って考えることは、できないと思う。馬鹿にされて、腹を立てて、相手のことを信用できなくなったら、それでおしまいじゃない」
「信用なんざいらねえよ」
きっぱりと告げる。
「どうしたところで――信用できなかろうが、生きたいなら利用するしかねえんだ。そんな単純な計算もできないほどの馬鹿だったら、そもそもここまでついて来たりしねえ。それでいいんだよ。それだけでな」
言うと、菜緒は口を噤んだ。納得したのか、単に反論の余地を見失っただけなのか、それはわからなかったが。
椎名の交代する時間になるまで、彼女はそれ以上なにも言ってこなかった。
更に三日が経った。
皆の口数もすっかり減り、悪魔と遭遇しなかったこともあって、日の出ているうちは黙々と歩くだけだった。疲労もそろそろピークに達しているらしく、歩くペースも落ちてきている。それでも僅かずつ目的地に近づいていることには違いないので、足を止めるようなものは誰もいなかったが。
――最初にそれを見つけたのは、一体誰だったのか。順当に考えれば戦闘を歩いていた椎名のはずだが、声を上げたのは彼ではない。
「…………ん?」
誰かの声が上がり、続いて椎名が立ち止まるのが見えた。俯いて歩いていた何人かが顔を上げ、そしてすぐに全員が――菜緒もだ――続けて足を止める。
「……おい、あれ」
それを指差して言ってきたのは千晴だった。だが無論、全員が気付いている。
「誰か、いる?」
明がその後を継ぐ。
――全員の視線の先に、人影らしきものが見えた。
「悪魔か……?」
「いや、どうだろ……人間に見える、けど」
背後から敏樹と浩一の声が聞こえてくる。
まだ距離があるので判然とはしないものの、少なくとも人間の形をしているのは間違いない――だからと言って悪魔でないとも断言できないのだが。
人影は動いていないようだった。確認するには、こちらから近付いていくしかない。全員が顔を見合わせた。
「……おい、どっちなんだよ。悪魔なのか? それとも人間か?」
全員が抱いているであろう疑問を、敏樹が代弁する。悪魔なのであればとっくにこちらに気付いていてもおかしくはなさそうだし、また襲い掛かってきてもおかしくはない。が、それは人間だったとしても同じことだ。こちらが気付いている以上、向こうも気付いていておかしくない距離だった。
ふん、と椎名が小さく息を吐き出した。
「……お前ら、ここで待ってろ」
「え?」
「確認してくる」
菜緒が聞き返すと、椎名は返事も待たずに人影に向かって歩き出した。
――相手が悪魔なのであれば、いくらなんでもひとりで行かせるのは危険過ぎる。菜緒は皆へと振り返り、
「わたしも行くから、あなたたちはここにいて。悪魔じゃなかったら呼ぶわ」
言って、椎名の後を追う。
こちらも当然そうだが、椎名の足取りは慎重なものだった。警戒するように刀を構えたまま、人影に向かって近づいている。菜緒は無言でその後に続き――
「…………あ?」
椎名が妙な声を上げるのが聞こえた。彼の背後から首を動かし、視線をやると――
「…………なに、これ?」
恐らく椎名と似たような表情を浮かべているのだろうと思いつつ、菜緒は呻いた。人影までは――人影だと思っていたものまではまだ数メートル程の距離を残しているが、ここまで近づけばそれがなんだったのか、判別できる。
とりあえず、悪魔ではなかった。それはたぶん間違いない。だが、人間でもなかった。
そこに立っていたのは、極めて精巧に人間の姿を模した、石像だった。思わず、椎名と顔を見合わせる。
「これ、石……よね?」
「そう見えるな」
椎名は石像に向かって近づいていくと、軽く手で叩いた。当たり前だが、なんの反応も返ってこない。
「……石像、だな。なんでこんなところに」
菜緒もそれへと近寄り、まじまじと観察した。
人間の――女性、だろうか。本当に細かなところまで忠実に彫り込まれたその石像は、背丈までが等身大だった。美術品や調度品にはまったく詳しくなどないが、これだけ精巧なものとなると結構な値が張るのではないだろうか。まあ、なにかに驚いているように顔を歪めた彫像というのが、インテリアに相応しいかどうかは疑問符の付くところだが。
表面に触れてみる。ざらっとした感触に、間違いなく石だと確信した。服まで巻き込んだ大仰なボディペイントということはない。
取り敢えず危険な代物ではないとわかり、菜緒は後ろに向かって手を振った。すぐに全員が駆け寄ってくる。
「……なにそれ?」
京香の口にした疑問は、先程のこちらのものとまったく同じだった。敏樹と千晴がこれも椎名と同じように石像を軽く叩き、よくわからないといった表情を浮かべている。
「なにこれ? 誰かがどっかの美術館から持ち出したとか?」
「火事場泥棒するにしても、こんなの持ち出さないと思うけど……」
千晴の言葉に、浩一が曖昧な笑いを浮かべながら答える。それもそうだろう。ならばこれは――
「人間じゃなくて、悪魔が持ち出したってこと?」
自分と同じことを考え、そして口にしたのは京香だった。が、敏樹が即座に言ってくる。
「悪魔がなんでこんなもん持ち出すっつーんだよ。人間と間違えて喰おうとでもしたのか?」
「それは……なくもないですけど、どっちにしろ外に持ち出す必要はないと思います」
悠介の指摘に、全員が口を閉ざした。
つまるところ、意味がわからない。なぜこんなところにこんなものがあるのか。人間の仕業なのか、悪魔の仕業なのか。
周りを見渡してみるが、建物以外に目立ったものは見当たらない。せめてトラックでも転がっていれば、美術館なりなんなりに運ぶ途中で投げ出された、と考えることもできたのだが。
「しかし、すげえなコレ。ホントに人間そっくりだ」
「人間を石にしちまうモンスターとか、ゲームじゃよくあるけどな」
ぺたぺたと石像に触りながら亮と明が放った言葉に。
「あー……うん。そう考える方が自然かも」
納得したように、悠介が頷いた。全員が彼の方を見る。
「あん? じゃあやっぱこれも、悪魔の仕業だってことか?」
「っつか、人間を石化させるって、どうすんだよンなもん。コンクリでもぶち撒けてんの?」
疑わしげな表情で敏樹と千晴が悠介に尋ねる。
「そうですね、具体的な方法まではわかりませんけど……そういう逸話を持った悪魔っていうのは、割とあちこちに見られますよ」
「まーた神話とか伝説とか、そういうハナシ?」
悠介の言葉に、京香がうんざりしたような声を上げる。
「ずっと思ってたけど、なんか胡散臭いんだよな、ソレ。要するにおとぎ話とか、作り話じゃん?」
「それは勿論、そうですよ。そう言い伝えられてるっていうだけで、神話にしろ伝説にしろ、全部作り話です。実在したはずはありません」
「ああ?」
敏樹が顔をしかめた。
「オイ、どっちなんだよ。っつか、実際にいるじゃねえか、悪魔が」
「そこら辺が全部作り話だってんなら、あの悪魔どもはどっから湧いて出たっての?」
揃って悠介に非難のような目を向ける敏樹と千晴の言葉を聞きながら、菜緒は。
(生物兵器……?)
何度も考えたその可能性を、もう一度思い浮かべていた。
そもそも生物兵器という単語の定義だのはこの際さて置くとして、自分達が悪魔と呼んでいるあの異形の群れは、バイオテクノロジーだとかそんなような技術を使って誰かが人為的に生み出したもので、その外見をデザインする上でそういった類の文献を参考にしたのではないか――以前はそう結論を下したし、今でも半分以上そう思っている。というか、他に考えようがないのだ。超自然的なものの代名詞とも言える悪魔などという存在が、当時の人々の想像そのままに実在したのだとは、およそ考えにくい。そしてそれは、悠介にしても同じ考えだったはずだ。
(……けど)
と、再び石像に視線を向ける。
だが、そうなのだとしたら。人が作り出したものなのだとしたら。目の前のこれは、どう説明すればいいのだろうか。これが悪魔の仕業であると断定するならば、果たして人間を石に変えてしまうような現象を、人の手で起こし得るものか――
「いっそ、本当に悪魔がいたっていうことにすれば、悩まなくても済んだんですけどね」
なにかを諦めるような声音で悠介が言ってくる。
「あくま、いる。みた」
くいくいと悠介の袖を引っ張り、有紗が口を開く。いや、そうじゃなくてね、と悠介はやんわりと彼女の手を離させながら、
「おとぎ話に出てくるような悪魔なんて、いないんですよ。いないと考えないとおかしなことになる。だから僕たちが目にしている悪魔は、そういったものとは別物と考えるべきです」
文句でも言うように京香が口を尖らせる。
「別物って、じゃあなんだよ?」
「……やっぱり、生物兵器とか?」
菜緒の言葉に、何人かがぎょっとしたようにこちらへと視線を向けてくる。まあ突拍子もない単語には違いないが。
悠介が首を横に振った。
「その可能性は、以前にも話した通りです。一番妥当そうな答えですし、矛盾もないように思えます。けど」
と、石像へと視線を向けつつ、
「これを見て、少し考えを改めることにしました。どう考えたって、こんなのは今の人間の科学で実現できるようなことじゃない」
「だったら、結局なんなんだよ? はっきりしろって」
いらついたように千晴が言うが、悠介は答えなかった。答えようがないのだろう。
確証がなにも存在しない以上、答えなど考えても出るはずがない。そのための材料が決定的に足りていない。
そのはず、なのだが。
あるいは、悠介は違うのかもしれない。自分達には理解し得ないなにかを、彼は掴んでいるのかもしれない。あのよくわからないプログラムもそのひとつだ。
黙ったまま石像を眺めている悠介の横顔を見ながら、菜緒はそう考えていた。
そして、更に三日が過ぎた。
「……ヤベーな」
弾倉を交換しながら、千晴が神妙な声音で呻く。
「おい相澤。予備の弾倉、あといくつだ?」
「……ひとつだけ」
椎名の質問に、菜緒はやや躊躇いつつ答えた。
自分はともかく、敏樹達四人の弾薬の消耗が激しい。まだ底を突いてこそいないものの、このペースでは明日にでも弾倉の交換ができなくなりそうだった。
「……お前ら、無駄弾撃ちすぎなんだよ。バラ撒きゃいいってもんじゃねえぞ」
呆れ気味の椎名の指摘に、敏樹が反論した。
「っつったってよ。悪魔相手に一発や二発程度じゃ、効きゃしねえじゃねえか」
「数撃ちゃ当たるってヤツ。ちまちま撃ったってしょうがねえじゃん?」
敏樹に続いて千晴も抗弁する。椎名はちらりとこちらに視線を向け、
「相澤は単射でもそれなりに当ててるけどな」
「へ? わたし?」
いきなり話を振られ、菜緒は当惑した。
(……そうだったかしら?)
思い返してみるが、それほど命中させてはいない気がする。セレクターを単射に合わせているのは単に弾薬を節約するためであって、敏樹の言う通り一発や二発では駄目だと判断した場合は即座に切り替えている。弾丸の節約を心掛けてこそいるものの、命中させた回数で言えば自分も他の四人も大した差はないように思えた。
「でもさ。目的地まで、もうすぐなんでしょ?」
と、浩一が言ってくる。それはその通りだった。学校を出発してからそろそろ二週間になろうとしているが、目指していた駐屯地まではもう然程の距離もない。
「自衛隊の駐屯地なら、まず間違いなく予備の弾薬はあるだろうし――って言うかそもそも、もうこんなもの持たなくていいだろうし。弾の心配なんて、あまりしなくてもいいんじゃないかな」
ひどく楽観的な意見だが、一理ある――と考えたのは自分だけではなかったようで、反対意見は上がらなかった。椎名でさえ、特に文句も言ってこない。
(このまま、悪魔と遭遇しなければ――)
恐らく、日が落ちる前には辿り着ける見込みだった。
面倒の種になりそうなものは意識から追いやって、目前にまで迫っているゴールに飛び込むことを優先すべきであると、誰かがそう口にしたわけではないが。それ以上誰がなにを言うでもなく、歩みを再開した。
と。
「……あ、まただ」
明が声を上げ、全員が立ち止まった。理由はわかっている。石像が立っていた。
「またコレか……マジでなんなんだよ、こいつ?」
最初の発見から数えて、これで四つ目だった。いずれも背格好や性別などはバラバラだが、動き出すのではないかと思えるほど精巧に作られているという点は共通している。そして、なにかに驚いているというか、怯えているような表情も。
「なあ。コレ、悪魔の仕業だとしたらさ」
と、京香が全員に向けて口を開く。
「こんだけ見つかるってコトは……これをやった悪魔が、近くにいるってコトじゃね?」
その言葉に、全員が押し黙った。
本当に人間を石に変えてしまうような悪魔がいるのだとすれば、確かにその可能性は決して無視できるほど低いものではない。そして人間を石にしてしまうというのがどういう方法でもって行われているのか見当もつかないので、警戒のしようもない。
「……急いだ方がよさそうだな。ここからはもう、休憩はなしだ」
椎名の言葉に、異を唱えるものはいなかった。再び歩き出す。
その後も、更に石像は見つかった。中には何かの衝撃を受けたのか、崩れ落ちていたものもある。
「……アレ、元に戻んねーのかな」
誰にともなく放たれた明の言葉に、亮が答える。
「悪魔を倒したら呪いが解けるってのは、お約束だけど……あんな状態で戻ったら、ひでえよな」
その言葉を聞いて、思わず想像してしまう。同じことを考えたものが何人かいたらしく、不快そうな表情を浮かべていた。
(悪魔を倒せば、呪いが解けて――元に戻る)
よくある話だ。少なくとも、おとぎ話の類であれば。だからこそ物語の主人公は悪魔の打倒を目指し、そしてそれに成功する。悪魔さえ退治してしまえば万事解決するとわかっているから、なんの疑問もなくそれを実行する。
おとぎ話であれば、その通りだ。だが。
(……どうすれば、元に戻るのかしら)
仮に人間を石にした悪魔に遭遇し、そして運よく撃退できたとして、更に期待通り石化が解けて――そこまで都合よくいったとしても、崩れた石像が元通りにはなるまい。
石像だけの問題ではなかった。今、自分達を取り巻く環境の全てが、悪魔を撃退したからといってそれで元に戻るようなものではない。悪魔に殺された人間が生き返ることも、消費された弾薬が戻ってくることも、倒壊した建築物が再び耐震構造を取り戻すこともない。以前と変わらぬ生活に戻れるのだと、そんな保証はどこにもない。
ならば、一体どうすれば元に戻るのだろうか。どうなれば元に戻ったと言えるのだろうか。
(きっと、そんなのはもう……)
無理なのだろう。元に戻すことができないものが多すぎる以上、元になど戻れない。まだ以前と同様の生活に戻れるはずという幻想を捨てることこそできていないものの、それだけはぼんやりと理解できる。あの崩れた石像と同じだ。呪いが解けたからと言って、生き返りはしない。
そんなことを考えているうちに。
「あ……」
誰かが声を上げた。続けて。
「見えた……」
なにが見えたのか。それを問いかける必要はなかった。自分にも見えている。
目指していた場所が、見えたのだ。