おかしい、とは思っていた。実際に辿り着くよりも前から――遠目に見えていた時点で、その光景がおかしなものであると、それはわかっていた。
――思い起こしてみれば、最初からそうだったのだ。出発したあの日から、頭のどこかで予測を打ち立てていた。考えないようにしていただけで、しかし常にその可能性は付きまとっていた。拭い去れなかった。
近寄って、目の当たりにすると。なにがおかしいのかは即座に理解できた。
「…………マジ、かよ」
漏れたのは敏樹のつぶやきだった。敷地内へと踏み入れたところで、全員が足を止めている。が、似たような心境には違いなかっただろう。呆然とその光景を眺めている。
敷地内は相当な広さだった。建物もひとつやふたつではなく、グラウンドらしきものまで見える。場合によっては避難所代わりにも使われると言うし、ここで本来扱われているものの規模を考えれば、まあ広大なのは当然なのだが。
だが、その広大さに反して。
――人間の姿が、まったく見当たらなかった。代わりに見えるのは、あちこちが崩れている建物と――石像のみ。
菜緒はなにを言うのも忘れて、眼前に広がる光景をぽかんと眺めていた。が、それと同時に。
(覚悟は、してたつもりだけど……)
ずっと払拭しきれなかった可能性が的中してしまったことに、沈鬱な思いが過る。
考えてはいたのだ――こうなっているのではないか、と。間に合わないか、あるいはそもそも見当外れだったか。どちらにせよ、駐屯地も悪魔に襲われているのではないかと、その危惧はずっと抱いていた。抱かないわけにはいかなかった。
「おい……どうなってんだよ」
誰に向けたものか、敏樹が声を上げる。
「どういうこったよ……ここなら安全じゃなかったのかよ!?」
いや、誰に向かって言ったのかは明らかだった。間違いなく、彼の視線はこちらへと向けられている。
「オイ! てめえ、ここなら安全だっつったよな!? 自衛隊の連中が残ってるはずだって、だからここに来れば安全だって――そう言ったよな!?」
剣幕と共に、胸倉を掴み上げられた。慌てて口を開く。
「い、言ったけど、それは……」
「どこがだオイ!? ここもきっちり悪魔に襲われてんじゃねーか!」
「散々歩かされて、悪魔にも襲われて、その挙句がコレとか……詐欺ってレベルじゃねえって、マジで」
言いながら、千晴がその場にしゃがみ込むのが見えた。
菜緒はどうにか敏樹の腕から逃れようともがいたが、単純な腕力では到底及ばないのか、振り解くこともできなかった。襟を締め上げられ、息が詰まる。
「は、離し……」
「ざっけんなよクソが! どうすんだ!? どうしてくれんだよ! てめえのせいだろうが!」
「……好き勝手なことぬかしてやがるな」
と、口を開いたのは椎名だった。もっとも菜緒は敏樹に襟を引き寄せられているので、そちらを見ることはできなかったが。
「じゃあなにか? お前、あのまま学校に残ってた方がよかったか? あそこでじっとして、来るかどうかもわからない救助を待ってた方がよかったのか?」
「……こんだけ歩いて、死ぬような目にまで遭って、なのに無駄だったってんなら、その方がマシだったかも」
と、京香が愚痴をこぼす。
「アタシらさー、みんなアンタの言ったこと信じてついて来たんだよね。ここならきっと安全なはずだって。自分の言ったことくらい、きっちり責任持てよな」
「う……」
そう言われてしまっては、なにも返す言葉がない。学校で自衛隊員から聞いた言葉を鵜呑みにして、駐屯地を目指そうと言ったのは確かに自分だ。本当に安全かどうかはわからない、とも言ったが、先導してしまった責任が誰にあるのかと問われれば、それは間違いなく自分にある。
「寝言は寝て言えよ、クソが」
と。
こちらを締め上げている腕を、椎名が掴んだ。
「自分の決定を全部こいつひとりに押し付けといて、今更なに言ってんだ。信じたんだから責任持て、だ? お前らが勝手にあてにして、そのあてが外れたってだけだろ。馬鹿の集まりだとは思ってたが、まさかここまで救いようのない馬鹿共だったとはな」
「うるせえよ! だったらてめえだって馬鹿ってこったろうが!」
敏樹の叫びに、ぎり、と椎名が彼の腕を掴んだ手に力を込めるのが見えた。
「俺は自分で決めたんだよ。あそこでじっとしてるより、少しでも可能性のある方に移動した方がマシだってな。お前らみたいに、あてが外れたってわかった途端に誰かのせいにするような真似はしねえよ」
椎名が更に手に力を込める。そのまま握り潰してしまうつもりなのではないかとさえ思える程だったが、その前に敏樹がこちらの襟を放した。
ようやく気道を解放され、菜緒は盛大に咳き込みながらその場に座り込んだ。
「なお、くるし?」
こちらに近づいてきた有紗が心配げな様子で聞いてくる。菜緒はどうにか片手を上げ、
「ごほっ……大丈夫よ、有紗ちゃん。ありがとう」
まだ咳き込んでいるこちらの姿を見て、有紗はきょろきょろと首を動かしていたが、どうすればいいのかは思いつかなかったらしい。結局何をするでもなく、こちらの顔を覗き込んでくる。
「おい相澤、お前もだ」
と、頭上から椎名が告げてくる。え? と菜緒は顔を上げた。
「お前、本気でこの状況が自分のせいだとでも思ってんじゃねえだろうな? だとしたらとんだ自意識過剰だ。少なくとも俺は、お前なんぞの決定に俺の命を預けた覚えはねえよ。勝手に勘違いすんな」
「オレだってそうだよ、兄ちゃん!」
勢いよく手を真上に伸ばしたのは亮だった。
「別に姉ちゃんのせいだなんて、思ってねえもん! だから、姉ちゃんが気にすることないって!」
「そうだよな。自分がどうするかくらい、自分で決めるって。兄ちゃんたち、カッコわりいよ」
明確な侮蔑の色を込めた明の言葉に、敏樹達が表情を歪めるのが見えた。
「ガキの分際でクソ生意気なことほざいてんじゃねえ! オレらがこの女に騙されたのは事実だろうが!」
「だから姉ちゃんは騙してなんて――」
敏樹に向かって明が反論しようとした、その時に。
「黙ってください」
問答無用な口ぶりで告げたのは悠介だった。口元に人差し指を当て、視線をどこかへと向けている。
「……なにか、聞こえませんか?」
「あ?」
悠介の表情を見て、全員が押し黙った。
確かに、なにかが聞こえる。それ程離れていない場所から――鳴き声のような。
「あ、悪魔か?」
動揺したのか、千晴が立ち上がった。首を振り、声の出処を探そうとしている。
声は徐々に大きくなっていき――やがて。
「……犬?」
呻いたのは浩一だったが、その時には既に全員の耳にはっきりと届いていただろう。聞こえているのは、犬の吠え声らしきものだった。無論、それが本当に犬のものなのかどうかはわからないが。たまたま声が似ているだけの悪魔という可能性も十分にある。
あった、のだが。
「あ」
建物の陰から飛び出してきた小さな姿を認めて、菜緒は反射的に口を開いていた。間違いなく、犬だ。
その犬は頻りに吠え立てながらこちらへと駆け寄ってくると、数メートル程の距離を置いたところで立ち止まった。こちらを睨みつけながら、尚も警戒するように唸り声を上げている。
「……いぬ?」
と、有紗が犬の方へと歩き出した。
「ちょ、有紗! 危ないって! 興奮してるみたいだから!」
慌てて手を掴み、悠介が有紗の身体を引き戻す。
「いぬー」
有紗は犬の方へと手を伸ばし、じたばたともがいていたが。
はあ、と千晴が息を吐き出した。
「んだよ、ただの犬かよ……びっくりさせんなよ、ったく」
同じく安堵の息を漏らして、菜緒もまた立ち上がった。未だ警戒を解いていないらしい犬を見やる。
(……シベリアンハスキーかしら?)
見た限り、仔犬というサイズでもない。大型犬に分類される犬種だが、流石にもう成長期は過ぎているだろう。有紗であれば、押し倒されてしまってもおかしくなさそうな大きさだった。
と。
「おいプランク、どうした?」
また別の場所から、声が聞こえた。今度ははっきりと人間の声だと判別できる。
全員の視線が、声の聞こえてきた方向――建物の入口へと向けられる。そこに、声の主の姿があった。迷彩服姿の男。
こちらが男を見ているのと同じように、男の方もまたこちらを見返していた。呆気に取られている。
「これは……驚いたな」
言いつつ、こちらへと近づいてくる。右脚を負傷しているらしく、松葉杖をついていた。
菜緒はそちらへと歩み出ると、声をかけた。
「あの、あなた……ここの、自衛隊員さんですか?」
「ああ、見ての通りだ。そういうあんたらは……」
言って、じろりと菜緒達の姿を見渡す。
近くで見てみると、男の負傷は右脚だけではなかった。身体のあちこちに包帯が巻かれ、左腕も吊るされている。邪魔だからなのだろうが、上半身は上着を肩にかけているだけだった。
「わたしたち、自衛隊員のひとに言われて、ここに避難して来たんです」
菜緒が告げると、男は顔を歪めた。
「そいつは……残念だった、としか言いようがないな。見ての通り、ここはこの有様だ」
と、首の動きだけで周囲を示す。
男の他に、人影らしい人影は見当たらなかった。あちこちにぽつぽつと石像――自衛隊員のものが多いが、そうでないのもある――が立っているだけで、後は男の脇でまだ警戒を解いていない様子の犬くらいしか姿が見えない。
「悪魔に襲われたのかよ?」
敏樹の問いに、男が頷いて見せる。
「ああ。もう十日ほど前になるか……ここに避難しに来た民間人も大勢いたんだが、みんなあの怪物にやられるか、逃げ出してしまった」
「それじゃ、あの石像はやっぱり……?」
気になっていたことを尋ねる。やはり、男は頷いてきた。
「ここを襲ってきた怪物の中でも、特にとんでもないのがいてな。蛇みたいなやつだったんだが、大概がそいつに石にされた」
「……蛇?」
と、なにか思い当たる節でもあったのか、悠介が声を上げる。
「どんな蛇でした?」
「どんなって、うーむ……そうだな。こう、蛇と人間が合わさったような……蛇女、という感じだったか」
思い出している様子で男が答えると、悠介は。
「……メデューサだ」
その場の全員に聞こえる声で、はっきりとそう告げた。
「……あ、これですね」
言いながら悠介がノートPCのモニターを指し示す。ノートPCには電源コードが挿し込まれており、その先は部屋のコンセントへと繋がれていた。一応まだ電力源が生きているらしく、敷地内に存在する機器のいくつかも使えないわけではないらしい。ただし、悪魔が出現した二週間前からずっと繰り返している外部への交信に対しては、まったく反応がないとも聞かされたが。
案内された部屋の中には、犬を除いた全員が集まっていた。その中心に置かれた悠介のノートPCを、皆で覗き込む。
そこに映っていたのは、腰から下が蛇の身体のようになっている半裸の(というか実質的に全裸の)女性の画像だった。頭からは頭髪の代わりに赤い蛇が複雑に絡み合いながら生えており、両目は爛々と輝いている。
「おお、そうだ。こんな感じの……悪魔? だったな、確かに」
男が納得したように言ってくる。両手の自由が利けば、ぽんと柏手を打っていたかもしれない。
菜緒は画像に添えられた文章に目を通した。曰く、メデューサとは。
(ギリシャ神話に見られる悪魔。二人の姉と共に、ゴルゴンとも呼ばれる。元は美しい少女であったが、女神パラスアテナの怒りを買い怪物へと変えられてしまった。その眼光を見たものは石にされてしまうが、英雄ペルセウスによって討ち取られる――)
なんとなく、どこかで聞いたような気もする。
「あ、ゲームとかでたまに見るやつだ」
「ゴルゴンってのも、聞いたことあるよな。へー、コイツのことだったんだ」
亮と明が揃って声を上げた。どうやらこちらよりもあっさりと心当たりを突き止めたらしい。
同じように、千晴もモニターを覗き込みながら、
「ギリシャ神話ね。これなら俺でもわかるっつか、聞いたことくらいはあるな」
「まあ、日本だとよくモチーフとかに使われてるよね、ギリシャ神話は。下手したら日本の神話よりもさ」
浩一の反応も似たようなものだった。つまりこのメデューサという悪魔は、それだけ有名な存在ということなのだろう。
「へび? へびおんな?」
画像はともかく文章を読めているのかいないのか、モニターを指差して有紗が興味深そうな声を上げる。
「……そーいや、あのミノタウロスってのもそっち系だったよな?」
京香の言うそっちというのは、ギリシャ地方という意味なのだろう。悠介が頷いた。
「ギリシャ神話は日本に限らず、有名どころの神や悪魔が多いですからね。例えば他に、冥府の――」
言いかけて。
なぜか、悠介ははっと口に手を当てた。そのまま、モニターを凝視したまま動きを止める。
「ゆうすけ?」
横から有紗が声をかけるが、悠介は答えなかった。よく見ると、かすかに口が動いている――なにかをぶつぶつとつぶやいていた。
「そっか……あれはギリシャ語の……なら、日本では……」
よく聞き取れない。と、悠介ははたと顔を上げ、
「すみません。ここの電源なんですけど、しばらくお借りしても構いませんか?」
「うん? ああ、まあ別に構わんが」
「ありがとうございます」
男が答えると悠介は軽く頭を下げ、続いてノートPCへと向き直った。そのまま、なにやら手早く操作を始める。
「あ、すみません。ちょっとこっちの作業に没頭したいので、しばらく話しかけないでもらえます?」
モニターから顔を放さずに言ってくる。指はかたかたと忙しなくキーボードを叩いていた。割といきなりなその様子に、ひとりを除いた全員が呆気に取られている。
「……ゆうすけ? はなし、しない?」
有紗が不満げな表情を浮かべながらくいくいと悠介の肘を引っ張るが、彼は見向きもしなかった。今の言葉が聞こえていたのかどうかも怪しい。
「有紗ちゃん。悠介くんは今ちょっと忙しいみたいだから、邪魔しないであげてね?」
言いつつ、有紗の身体をこちらへと引き寄せる。彼女はううーと不服そうな声を発していたが。
「……場所変えるか」
なんとなく威勢を削がれたような声音で椎名が告げると、誰からともなく立ち上がり、部屋を出た。悠介だけを室内に残して、隣の部屋へと移動する。扉の前で待機していた犬を有紗が触りたがったが、それはやんわりと制止して。
菜緒は歩き辛そうな男の移動に手を貸し、ソファへと座らせた。恐らく応接間かそれに準ずる部屋なのだろうが、流石にこの人数が一度に座れる程に大きなものではない。まず有紗を座らせ、続いて亮と明、残ったスペースに敏樹と京香が腰を下ろした。自分を含めた残りは適当に突っ立ったままだ。
口を開いたのは椎名だった。
「……で、あの蛇の悪魔にここが襲われたってことか?」
「あの悪魔だけじゃない。他にも大勢いたさ。……というか、最初は蛇の悪魔はいなかったんだ。だからそれなりに持ち堪えていたんだが……」
はあ、と男が大きく息を吐き出す。苦いものでも喉につっかえているように。
「あれが現れて、どうしようもなくなってしまった。そもそも、ほとんどの隊員は出払っていたし、ここには避難してきた民間人も大勢いた。抵抗しようにも、次第に立ち行かなくなって――」
「出払ってたって、一体どこに行ってんだよ?」
敏樹の言葉に、男が顔を上げる。
「可能な限り、あちこちにさ。なにしろ他の部隊との連絡は、怪物が出現したらしいというのを最後に、まったく取れていないんだ。通信ができないなら、直接行って確かめるしかない――もちろん、各地への救援も兼ねていたし、なによりも欲しかったのは、情報だった」
もう一度、男は嘆息して見せた。疲労の色が濃い。あるいは、ここまで歩いてきた自分達よりも。
「考えたくはないが――恐らく、他の基地や駐屯地も、似たようなものだろう。通信ができないのはなんらかの電波障害の類だと踏んでいるが、それがこの辺り一帯だけのことだとすれば、他所から救援なり来ているはずだからな」
「連絡が、取れない……」
つぶやきながら、改めてその意味を噛みしめる。目と耳を封じられたのは、自衛隊も同じだったということか。
「つまり、自衛隊はあてになんねーってことかよ」
身も蓋もなく、敏樹が言い放つ。男はそれに特に気分を害したようには見えなかったが、単にこれ以上気落ちのしようがないだけかもしれない。
「それどころか、場合によってはもっとひどいことになっているかもしれない」
「も、もっとですか?」
浩一が尋ねると、男はああと頷き、
「考えてもみてくれ。国内が軒並みこの有様なら――」
「あ、外国ね」
千晴が口を開く。菜緒もまったく同時に同じことを考えていた。
「そうだ。我々が知り得ないだけで、ひょっとしたらとっくに米軍辺りが動き始めているのかもしれないが――その逆の可能性も、当然ある」
「つまり――」
口を開く。考えたくはないが、しかし考えないわけにもいかないその可能性を、口にする。
「日本どころの話じゃ、ないかもしれない……?」
「そういうことになるな」
認めたくないのは、きっと同じだったはずだ。それでも言い淀むことなく答えてきたのは、ことここに至ってようやくそれを考慮に入れた自分達と、ずっと考えていたものとの違いなのだろう。いきなり突き付けられたものと、覚悟していたものとの違い、とも言える。
「オッサン。ひとつ、確認しておきたいことがある」
「なんだ?」
椎名の言葉に、男が聞き返した。椎名は彼の顔を見据えながら、
「その、蛇の悪魔だ。もうここにはいないみたいだが……仕留めたのか?」
(あ)
菜緒は思わず口を開けていた。言われてみれば確かにそうだ。その悪魔に石にされてしまったという像こそあちこちで見かけたものの、肝心の悪魔自体を目にしていない。ここにいたことは確実なようだが、今は姿が見当たらなかった。ならば――
「生憎だが、生きている。どこぞで野垂れ死んでいるようなことになっていなければな」
はっきりと、男は告げてきた。
「我々も当然抵抗したし、それなりの手傷も負わせはした。だからあの蛇がここから去った後にどこかで死んだ可能性も、ないとは言いきれん。だが少なくとも、ここにあのバケモノの死体はない」
あるのは人間の死体と、石像だけだ。
男がそう告げたように菜緒には思えた。口にはしなかったとしても。
「いぬー、いぬー」
壁に背をもたれさせた恰好のまま、菜緒は同じ単語を繰り返しつつ犬の身体をぺたぺたと遠慮なく触っている有紗の姿をぼんやりと眺めていた。犬の方もあまり人間を警戒していないのか、吠えるようなことはしない。ただし、少しばかり嫌そうな顔はしていたが。
「……これ、軍用犬ですか?」
ソファに座ったまま(簡単には立ち上がれないのだろう)こちらと同じように有紗と犬を眺めている男に尋ねる。彼はかぶりを振ってきた。
「いや、違う。というか、陸自で軍用犬を調教していたのは昔の話だ。そいつはここに避難してきた民間人の飼い犬だよ」
「……あ、首輪してますね」
かなり年季の入ったものらしく、あちこち剥げかけている革製のベルトが犬の首に巻き付いていた。
「名前はプランクだそうだ。いぬじゃなくて、名前で呼んでやってくれ」
と、これは有紗に向けたものらしい。有紗は男の方を見た後、すぐに犬へと向き直り、
「ぷらんく……? ぷらんく! ぷらんくー!」
わふ、と返事なのかなんなのか、犬――プランクが妙な声を漏らす。えらく人間に馴染んでいるというか慣れているように見えるのは、人間に飼われていたからなのだろうか。
「飼い犬だったって……その、飼い主の方は……?」
「死んだよ、悪魔にやられてな。まだ若い夫婦だった。その犬を実の子供のように可愛がっていたんだが……」
「……そう、ですか」
視線を有紗とプランクの方へと戻す。有紗のスキンシップ――というか、悠介がいないのでその捌け口のようなものだが――は次第にエスカレートしているようで、プランクの上から圧し掛かろうとしているらしかった。プランクの方は、先程よりも更に鬱陶しそうな表情に見える。
「生き残ったのは私と、そいつだけだ。と言っても私はこんな有様で、そいつは犬だからな。またここに悪魔が来るようなことになれば、なんの抵抗もできん」
ばう、とプランクが男の言葉に応えるように短く吠えた。同意したのか抗議したのかはわからなかったが。
「……まあ、番犬代わりにはなるが」
男がぽつりと付け足す。
「ばんけんぷらーんく!」
声を上げながら、有紗が完全にプランクの上に乗っかろうとする。そこで忍耐が底を突いたらしく、プランクはさっと横に移動して有紗の体重から逃れた。目標を見失い、べちゃりと有紗が床に落下する。
「……とうそうぷらんく?」
菜緒は壁から離れ、恨めしそうにプランクの方を見ている有紗の手を取って立たせてやった。プランクはと言えば、ソファの上まで移動し、男の隣で欠伸をしている。
プランクの背を撫でながら、男は言ってきた。
「……それで、あんたらはどうするつもりだ? 見ての通り、ここにはあんたらが期待していたような安全はない。まあ、一度襲われた場所だから、またあんな大群が攻めて来るようなことはないと思うが」
「悪魔は、もうここを壊滅させたつもりってコト?」
先程から黙って有紗とプランクのじゃれ合い(有紗が一方的にじゃれついていただけだが)を眺めていた京香が男に尋ねる。
「そういうことだ。まあそういう意味では、安全とは言えるかもしれんが……人間の気配を察知すれば、また襲って来るだろう」
この広い敷地と、あちこち崩れてはいるもののそれでも大きな建物の中に、負傷した自衛隊員ひとりと犬が一頭だけでは、悪魔にも見つかりにくかったということだろう。そこに人数が増えれば、話は変わってくる。
(ここも、安全じゃない……)
ようやく辿り着いた場所だった。少なくとも、そのはずだった。だが、蓋を開けてみればこの有様だ。安全とは程遠いどころか、自分達の来訪により辛うじて保たれていた男と犬の安全までもが崩れようとしている。
数秒程の沈黙を挟んだ後に、菜緒は口を開いた。
「……わたしたちは出て行きます」
「はあ!?」
即座に、京香が信じられないといった様子で声を上げる。目の前の男も、やや意表を突かれたような顔をしていた。
「ちょっと待てよ! 出て行ってどーすんの!? ようやくここまで来たってのに!」
「でも、ここは安全じゃない。身を隠すことくらいはできるかもしれないけど、このひとに迷惑がかかる」
「……それは」
男がなにかを言いかけたが、すぐに京香の叫びに掻き消された。
「じゃあどこ行くんだよ!? 今度はどこを目指すっての!?」
「自衛隊の駐屯地はここだけじゃないでしょう? 他の様子がわからないのなら、無事な可能性だってある」
「そんなあるかどうかもわからない可能性に賭けて、また延々歩き回れってのかよ……」
言いながら、次第にその声音が落ちていく。そのまま京香はソファに座り込んだ。
「……いいのか? 本当に、出て行っても」
男が聞いてくる。菜緒はきっぱりと頷いた。
「はい。元々わたしたちは、避難するために駐屯地を目指していたんです。でも、ここはもう避難できるような場所じゃない……ですから、他を当たるしかありません」
男に背を向け、扉へと歩き出す。周囲の見張りに出ている椎名達を呼びに行くつもりだった。それとまだ隣室でノートPCをいじっているはずの悠介も。
が、背後から。
「待て」
呼び止められて、菜緒は振り向いた。男がこちらの顔を見返してきている。
「どうしてもと言うのなら止めんが――そう焦る必要もないだろう。見たところ、あんたらも相当に疲れ果てているようだしな。それなりの寝床と、それから多少の物資くらいは提供できる」
「え――?」
思わず聞き返す。彼はどうということもないような口調で続けてきた。
「食料の蓄えはそれなりにあるし、弾薬ならば更にある。私はこんな有様だからな、銃など撃ちたくとも撃てん」
男の言葉に、菜緒はしばし考え込み――
「田村さん」
「……なんだよ」
「みんなを呼んで来てくれる? わたしは少し、話があるから」
「わかったよ……クソ、人使いが荒いっつうかなんつうか……」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながらも立ち上がり、京香が部屋を出て行く。
――有紗がソファの下から、ぷらぷらと揺れているプランクの尻尾に狙いを定めている姿が目に入った。
「――というわけで、今日はここに泊まらせてもらうことになったわ」
悠介を含めた全員の前で菜緒がそう告げると、いくつかの安堵の声が聞こえた。が、それは一部だけの反応だ。
「今日は、って……」
「もしかして、ここに留まるつもりはねえってこと?」
浩一と千晴が聞いてくる。菜緒は頷いて見せた。
「ええ、あくまでも今夜だけの話。ここにいたらあの隊員のひとに迷惑がかかるし、そもそもここはわたしたちが目指していた安全な避難場所とは言えないもの」
「なら、どこにあんだよ。その安全な避難場所ってのは」
疑惑を通り越してはっきりと非難の色を込めた視線を敏樹が向けてくる。また騙すつもりじゃねえだろうな? と雄弁に語っている目だった。
菜緒はゆっくりと首を横に振り、
「どこが安全かなんてわからないわ。でも自衛隊の駐屯地はここだけじゃないんだから、とにかく他の場所に行ってみるしかないの。行ってみないことには、安全かどうかわからないから」
告げると、千晴が益々げんなりとした声を上げた。
「なんだよそりゃ……行ってみてそこも駄目だったら、また別の場所を探せってか?」
「ええ」
「ふざけんな!」
と、敏樹がテーブルを叩く――いや、殴りつける。その音にびくりと肩を震わせ、有紗が悠介の服を握り締めるのが視界の隅に見えた。
「そんなんじゃ、いつになったらまともなトコに避難できるかわからねえじゃねえか!」
「そりゃそうだ。当たり前だろ。なに言ってんだ、今更」
と、敏樹の後ろから椎名が冷ややかな声を浴びせる。
「どことも連絡が取れないってのは、行ってみなけりゃ確認のしようがないってこった。安全かどうかを確かめるなら、直接行くしかないんだよ。それが嫌なら、ここに残って悪魔に見つからないよう祈ってるか?」
「それは……」
敏樹が押し黙る。見ると、千晴や浩一も同じようになにかを考えているようだった。見つかるかどうかわからない安全な場所を探しに行くか、ここに残るか、どちらがましなのかを秤にかけているのだろう。
が。
「ここに残るのは駄目よ」
菜緒が告げると、京香と有紗以外の――椎名も含めた視線がこちらに向けられた。
「なんでだよ。それじゃ選択の余地がねえじゃん」
千晴が口を尖らせて言ってくる。
「ここに残ったら、あの隊員のひとはどうなるの? 大勢になればその分悪魔に見つかりやすくなるし、かと言ってあの怪我じゃ移動だってできないでしょう。自由に歩けるわたしたちと違って、ね」
こちらの説明に、納得したような表情を見せたのは悠介と亮と明、浩一の四人だけだった。椎名は呆れたような顔を、そして敏樹と千晴は目の前に置かれた食事をいきなり下げられたような、そんな顔をしている。
「わたしたちは動ける。けど、あのひとはここに留まるしかない。選択の余地がないのはあのひとの方でしょう。わたしたちの方がまだましな状況なのよ」
「なっ……いや、でもそれは……」
反駁しようとして、しかしそのための言葉が見つからなかったらしい。敏樹が忌々しげに口を噤む。どん、と、再びテーブルを叩いた。
「幸いというか、銃の弾を分けてもらえることになったから、それだけでもよしとしましょう。それから、これも」
言いつつ、菜緒は足元に置いておいた箱を取り上げた。元は野菜かなにかが詰められていたようだが、今はまったく別のものが入っている。
テーブルの上に箱を置き、蓋を開ける。中に入っていたのは、拳銃だった。
「お、なにこれ?」
さっと亮が身を乗り出し、箱の中を覗き込む。興味津々といった様子だった。
菜緒は箱の中身を取り出し、テーブルの上に並べていった。革製のホルスターに弾倉、そして先日菜緒が撃ったものとは明らかに形状の違う拳銃――全部で四セットだ。
「これも分けてもらったの。正直、あまり気は進まないんだけど……」
と、亮と明、そして悠介と有紗を順に見やる。
「これは、あなたたちが持つ分よ」
「え? マジで?」
目を輝かせて明が聞いてくる。亮の方は既に拳銃を手に取り、歓声を上げながらじろじろと眺め回していた。
「使い方は後で説明してもらうけど、くれぐれも護身用以外には使わないでね。弾だって限られてるんだから」
忠告しておくが、亮と明は完全に拳銃に意識をやっており、聞こえているのかどうかは怪しいものだった。なので仕方なく、悠介を見やる。
「……わかってますよ。というかこんな小口径の代物じゃ、それくらいの役にしか立ちませんからね」
言って、彼も拳銃を手に取り――
「って、ちょっと待ってください。これ、有紗にも渡すんですか?」
悠介が言うと、全員――はしゃいでいたはずの亮と明もだ――が有紗の方を見た。彼女は銃ではなく、なぜかホルスターを手に取ってまじまじと眺めていたが。
「えー……それはちょっと、どうかと思うよ、姉ちゃん」
「ふざけてこっち撃ってきたりしねえだろうな」
亮と敏樹が不安そうな声で言ってくる。
言うまでもなく、その点は菜緒も大いに頭を悩ませたところだった。そもそも使い方を説明したところで理解できるかどうかもわからない。そしてその不安は、全員の視線に曝されながら尚も気にせずホルスターを見つめている(気に入ったのだろうか)有紗の様子からも的中しているように思えた。
「……いえ、残りのひとつは椎名くんに持っててもらうわ」
「ん? 俺か?」
椎名がこちらを見やる、菜緒は拳銃と弾倉を彼に向かって差し出し、
「やっぱり、そんな刀だけじゃ危ないでしょう? ないよりはましだと思って」
「んー……まあ、そういうことなら」
椎名は腰から吊るした刀を見やった後、頷いて拳銃と弾倉を受け取った。特に説明もしていないはずだが、素早く拳銃に弾倉を挿し込むと、それを制服の内側に入れる。先程から有紗がホルスターを手放そうとしていないので、そうするしかないのだろう。
「……って、あれ?」
と、京香が声を上げた。こちらを向き、眉をひそめて聞いてくる。
「わけてもらうのって、武器だけ? あのオッサン、食料もくれるっつってたじゃん」
「お、ホントか?」
千晴がこちらに向き直りながら言ってくるが。
菜緒はかぶりを振った。
「いえ、それは断ったわ」
告げると。
沈黙は数秒程だったか。有紗を除く全員が、動きを止めてこちらを見ていた。
――やがて。
「はあ!? おま、なに言ってんの!?」
「くれるっつーもんを、なんで断るんだよ!?」
こちらがなにを言っているのか理解できないとばかりに、千晴と敏樹が猛烈な剣幕で詰め寄ってくる。他の皆も概ね似たような表情を見せていた。それらを見返しながら、菜緒は、
「ここにある食料を持ち出したりしたら、あのひとが困るのはわかりきってるでしょう? そんなことは駄目」
「……相手がいいっつってんじゃねえのか?」
椎名がこちらを見ながら言ってくる。その視線は明らかにこちらを非難しているか、そうでなければ馬鹿にしているか、呆れ返っているように見えた。が、それでも構わずに告げる。
「それでも駄目よ。わたしたちはあのひとになんのお礼もできないんだもの」
有無を言わせぬ口調で、菜緒は言い放った。
――誰ひとり、納得しているようには見えなかったが。