「……なるほど。やっぱりこうなったか」
「予想してたみてえな言い方だな、オッサン」
男の言葉に、椎名はなにか途轍もない徒労感のようなものを覚えつつ答えた。だが、無理もないとは思う。どう考えても、明らかに二度手間なのだ。
「……あんたは?」
と、男がこちらの隣に座っている菜緒へと視線を向ける。彼女は今にも消え入りそうな様子で、
「本当に、すみません……みんなで話し合った結果、こういうことに……」
まともに相手の顔を見ることもできないのか、俯いて恥じ入っているようだった。
――話し合った、という程のものでもない。全員の意見を聞くことなく勝手に返答してしまった菜緒の判断を、主に敏樹と千晴がこれ以上ないくらい全力で非難し、改めて多数決を取ろうということになっただけだ。その結果は、賛成が五票、条件付き賛成が三票、反対が一票、無効が一票というものだった。言うまでもなく反対したのは菜緒のみで、無効とされたのは有紗の分だ。
「まあそういうわけだ。一度断ったところを悪いが、やっぱ食料分けてくれ」
「ああ。まあそれは構わんのだが……」
「こいつは放っといていい」
菜緒の方を指差し、きっぱりと言い放つ。この件に関して、彼女に擁護できるような部分はなにもない。いやそもそも、これまでを思い返してみてそんな前例がひとつでもあったろうか、とも思うが。
ふう、と男が嘆息した。
「まあ話し合ってそう決まったのなら、仕方がないだろうさ。そういうものだと割り切ることだ」
「はい……」
男の言葉に、菜緒がか細く答える。
「だがな」
と、男が僅かに声色を変えた。なにか、年長者が若年のものへ忠告を与える時の特有の気配だ。
「こんな状況に置かれて、それでも自分以外の誰かを気遣えるというのは、それはそれで大した資質だと私は思う。自分の身をなによりも優先して考えるのは至極当然だが、その当然から一歩抜け出すのは、並大抵のことじゃないからな」
「はあ……」
菜緒が項垂れたまま力なく返事をし――
「……えっ?」
はたと、顔を上げた。
男の言ったことが理解できていないのかとも思ったが、彼女に限ってそれはないだろう。つまりは単純に、驚いただけか。
「だから、あんたのそういう考え方は得難いものだと言ってるんだ。少しばかり周囲から否定されたからと言って、それを恥じたり卑下したりするようなことはない」
「え……え? そ、そういうものですか?」
当惑しきっているらしく、落ち着かない様子で首を動かしながら菜緒が答える。その姿を見ながら椎名は、
(……つまりこいつにとっては、それこそ当たり前のことなんだろうな。誰かに褒められたりするようなもんじゃなく)
だから男の言葉を聞いて戸惑っている。ましてあの日からというもの、彼女のそういった部分を正面から肯定するような相手はいなかったのだ。むしろ逆の意見ばかりを聞いていたと言っても良く、自分の言葉もそのひとつなのだろう。
(なるほど……確かに、育ちは良かったってことだな)
どう反応すればいいのかわからないらしく、わたわたと表情を二転三転させている菜緒の姿を横目で眺めながら、椎名はこっそりとため息をついた。
ともあれ男から食料が保存されている場所を聞くと(案内してもらおうかとも思ったし、男の方もそう提案してきたのだが、歩くだけでも一苦労だろうと菜緒が辞退を申し出た)、椎名と菜緒はソファから立ち上がり、明かりの灯っていない廊下へと出た。悪魔に見つからないためには仕方のないことなのだが。
日はとっくに落ちていた。建物の中なので星明りも見えず、一メートル先すら判然としない闇だ。壁に手を当てて隣室の扉を探しつつ歩き、やがてドアノブを発見した。なるべく光が外に漏れないよう、素早く開けて中に入り、やはり素早く扉を閉める。部屋の中の窓は板で塞いであった。
「……まだやってんのか」
久々に目にする室内灯の下で、ノートPCを操作している悠介の姿を確認し、椎名は声を上げていた。
「あ、お帰りなさい。見張りお疲れ様です」
悠介が一応答えてくるが、顔は動かそうとしない。
「悠介くん? 適当なところでやめないと、目が悪くなるわよ?」
「ゆうすけ、めがねー」
菜緒もやや呆れているのか、どこか小言のような口調で告げる。有紗の言っていることは相変わらず意味がわからなかったが、菜緒のかけている眼鏡を指差しているところを見ると、悠介の視力と眼精疲労を心配しているつもりなのかもしれない。
亮と明は渡されてからというもの、ずっと拳銃を弄っているようだった。一応使い方のレクチャーは受けたものの、実際に撃ったわけではない――それが不満なのだろう。弾倉の入っていない銃のトリガーに指をかけ、何度もなにかを狙い撃つような仕草をしている。
「つか、なにやってんだ?」
ずっと気にはなっていたことを聞いてみる。今日までにも菜緒と何度か話していたことは知っているが、具体的になにをしているのか、しようとしているのかは聞いていなかった。まあ彼のことなので、無駄なことではないのだろうとも思うが。
「えーと……なんだっけ? 悪魔召喚プログラム、だったかしら?」
明らかに自分もよくわかっていないといった様子で、菜緒が説明してくる。椎名は眉をひそめて聞き返した。
「なんだよ、その思いっきり怪しい名前」
「いや、わたしもわかんないんだけど」
と、そこでようやく悠介が手を止めた。ふう、と息を吐き出す。首をこちらへと向け、
「……とりあえず、少しはわかりましたよ」
悠介の顔には疲労が色濃く浮かんでいたが、同時になにかを掴んだような達成感らしきものも垣間見えた。
「この悪魔召喚プログラムですけど――まあ、わかってみれば存外につまらないものでした」
「つまらない? やっぱただのイタズラだったのか?」
銃をいじりながらも話は聞いていたのか、明が悠介の方へと顔を向ける。
「名前そのままの代物ってことだよ。つまらないっていうのはそういう意味」
「名前、そのまま……?」
菜緒がおうむ返しにつぶやいた。
悪魔召喚プログラム。その名前通り、ということは。
「――悪魔を召喚するためのプログラム、ってことか?」
聞くと、悠介はどこか曖昧な表情で頷いた。彼自身それを信用できていないのだろう。
「少なくとも、このプログラムを組んだ誰かはそのつもりらしいです」
「んなバカな」
間髪入れずに、椎名は口にしていた。他に言いようもない。
「悪魔を召喚だ? それじゃ完全にオカルトじゃねえか。悪魔の正体が結局なんなのかって点に関しちゃわからんが、流石にオカルトはねえだろオカルトは」
「おっかるとぅー?」
「まあ、そうですよね。僕もそう思います」
悠介はえらくあっさりとこちらの言葉を肯定してきた。有紗の言葉は完全に無視している(無論、椎名もだ)。
「悪魔が出現してるのは事実ですけど、だからってオカルトまでは認められません。ないです。断言できます」
「……? でもそのプログラム、そういうものなんでしょう?」
きっぱりと言い切る悠介に、菜緒が首を捻る。
「ええ。繰り返しますが、これは悪魔を召喚することを目的に組まれたプログラムです。それは間違いありません」
「……なら、やっぱただのイタズラってことじゃねーの?」
悠介の言わんとしているところを掴みきれていない様子で、亮が尋ねる。こちらとしても同じ心境だった。
「おい、結局なにが言いたいんだ。もったいぶってねえで、結論だけ言え」
多少苛立ちを覚え、椎名は告げた。悠介は。
「……悪魔の召喚という行為は、オカルトじゃないってことですよ」
そう言ってきた。
思わず、菜緒と顔を見合わせる。ひょっとしてこの少年は頭でもおかしくなったのだろうかと、本気で疑った。
「えっと……悠介くん? どういうこと?」
こちらと同じ疑念を抱いているであろうことが容易く窺える表情で、菜緒が尋ねた。あるいは、悠介の思考を心配しているのかもしれない。
「そのままの意味です。悪魔の召喚は超自然的なことじゃない。理不尽で道理のないものなんかじゃない。だからこのプログラムで、実際に行うことができる」
悠介はすらすらと、なにかを読み上げてでもいるかのようにそう言ってきた。当然の解答を生徒に言い聞かせる教師のように。
「――と、このプログラムの製作者は思ってるみたいです」
「…………は?」
すっと表情を変えて言ってきた悠介に、椎名は間の抜けた(と自分でもわかる)声を上げていた。悠介が肩をすくめて見せる。
「ま、一応それらしいと言うか、理論立てて組み上げられたものらしいっていうことはわかるんですけどね。なにせ実践する方法がありませんから、所詮机上の空論と言うか、皮算用ですよ」
「は?……え? つまり、どういうことなの?」
悠介の態度の変わりように面食らったのか、菜緒が混乱したような声を上げた。というか、混乱しているのだろう、実際に。
「本物だとも偽物だとも断定できないってことですよ。このプログラムを正しい手順で操作して、それで本当に悪魔を召喚できるのか、それともできないのか。証明する方法がないんです」
「あってたまるか、そんなもん」
椎名は思い切り断言した。ですよね、と悠介が苦笑を浮かべる。まあ眉唾な代物ではないらしいと判明しただけでも解析の甲斐はあったのかもしれないが、無意味には違いない。
「……ですが、問題なのはそこじゃありません」
と、またしても悠介が声のトーンを変える。モニターを指し示し、
「重要なのは、このプログラムが悪魔の出現とほぼ同時に送信されてきたってことなんです。このプログラムの中身はともかくとして、送信者が悪魔の出現を関知していたということは、ほぼ確実になったと言えます」
「悪魔の出現と……? マジなのか、それは?」
そこは聞いていなかったので、尋ねる。あ、と悠介が短く声を上げた。
「椎名さんには話してませんでしたっけ。ええ、このプログラム、あの日の朝に勝手に送信されてきたものなんですよ」
「……その送信者は、すぐに悪魔が現れることを予測していた?」
菜緒の問いかけに、悠介が首肯する。
「誰なんだよ、その送信者ってのは? お前の知り合いなのか?」
「まさか。どこの誰なのか――いえ、誰かまではわかりませんよ」
なぜ悠介が言い直したのか。こちらよりも早く、菜緒がその理由に気付いたようだった。
「誰かはわからない――なら、どこから送信されたのかは、わかったのね?」
「……はい。どうにか、特定できました」
悠介が再びノートPCを操作する。それまでモニターに映っていた謎の図形――円の中に六芒星と判読不能な文字、そして奇妙な模様が描かれている――が消え、代わりに世界地図が表示された。悠介がその中から、ある箇所を拡大させる。
(……なに?)
知っている場所だった。というか、知らないはずがない。少なくとも、小学校までの義務教育を受けたものであれば。
「発信元はここ――南極です」
悠介の言葉に。
「……南極?」
「あれ? そう言えば南極って……」
亮と明が顔を見合わせる。その単語を聞いて、なにかが引っかかったというように。椎名もまた、彼らが感じているであろう違和感と似たようなものを覚えていた。
(南極……? そういや少し前に、ニュースで――)
「…………あ!」
声を上げたのは菜緒だった。彼女はこちらや明達とは少し違った表情を浮かべている。違和感を持て余しているのではなく、その正体に思い当たった、というような。
菜緒は悠介を見た。そして、
「確か……そう、シュバルツバース!」
その単語を口にする。
そして悠介は、
「正解です。このプログラムはそこから発信されたものなんですよ。それも恐らくは、無差別に」
なにかを宣告するように、そう言った。
果たしてどれほど前だったか。あれから二週間が経過している以上、少なくともそれ以前には違いない――一月か二月、といったところだろう。
南極大陸にて観測された、奇妙な空間。それがシュバルツバースと呼ばれるものだった。誰が名づけたのかは知らない。少なくとも、報道されなかった。
――というか、報道されたのはそこまでだった。観測機の故障か、大気の成分が様々な要因によって変質したものか、はたまた地球規模の災害の前触れか。そういった議論をワイドショーに出演しているコメンテーター達が交わしていたのは本当に短い間だけのことで、続報は来なかったのだ。だから人々はすぐにその存在を忘れて別のニュースに関心を寄せていったし、それは菜緒も同じだった。よくわからないが、よくわからないのだから別にどうでもいいと、誰もが納得することすら忘れ去っていた。
「……あったっけ? そんなの」
「んー、聞いたような、聞いてないような……?」
だから亮と明のこの反応は至極真っ当なもので、思い出せなかったことを誰に責められる必要もない。自分が思い出せたのは本当にたまたまだった。
「……いや、俺もよく思い出せん。聞いたような気はするんだが」
視線を泳がせながら、腕組みして椎名が言ってくる。菜緒は悠介へと向き直り、
「っていうか、結局あれってなんだったの? あの後なんの説明もされなかったけど」
「僕だって知りませんよ。報道されてないんですから」
悠介がかぶりを振りながら言ってくる。まあそれはそうだ。
「けれど報道されなかったというのは、なにか隠したいものがあったからでしょう。つまり民間に対して公開されては困るようななにかが、あのシュバルツバースという現象に関わっていた」
「隠したかった……? なにを隠そうとしてたのかしら」
言いながら、口元に指を当てて考える。報道を規制したとすれば、それは国家だろう。日本に限っての話か、それとも他国でも同様だったのかはわからないが、どちらにせよ情報の開示が少なくとも国民のためにはならないと判断した、ということだ。例えばそう、あの現象は公害の一種で、その原因となった企業かあるいはプロジェクトか、そういったものを隠蔽するため、だとか。
「まあ報道されてないんですから、そこは考えても仕方ありません。憶測ならいくらでも立てられますけど、どれも根拠がありませんしね。実は国連辺りが画策して、最新技術と装備で身を固めた調査隊が秘かに派遣されたらしい、なんて噂もあったくらいですから」
「へ? そんなのいたのか?」
「最新技術ってなんだ? 超兵器でも作ったのか?」
悠介の言葉に好奇心を刺激されたのか、亮と明が身を乗り出す。悠介は苦笑いを浮かべていた。
「いや、ただの噂だよ。ネットで流れてた、根も葉もない流言の類」
「ねっしー? なっしー?」
先程からずっと首を傾げたままの有紗がなにやら言ってくるが、悠介は相手にしなかった。誰もしなかった。
「シュバルツバースという現象に関しては、残念ながらまったくと言っていいほどなにもわかっていません。あれが自然現象だったのか、そうでないのか。わかるのは、あの現象には報道を許さないなにかが関わっていたということ。そして――」
と、そこで一旦言葉を切る。テーブルの上に置いたノートPCの方へと振り返り、
「今、僕らが直面している悪魔の出現という事態に、なんらかの関わりがある、ということだけです」
この、悪魔召喚プログラムも。
悠介はそう締め括った。
柔らかい寝床というのも、久しぶりに味わう感触だった。例えそれが何週間も干した形跡のない、どころかあちこちに汚れの目立つベッドであっても。そして自分の着ている服の汚れを落とせないままであっても。昨夜までのことを思えば雲泥の差であることには違いない。ただ、欲を言えば。
(……お風呂に入りたかった)
ベッドの上に横たわりつつ、この二週間程お預けを喰らっているもののことを考える。
当たり前だが、ここには入浴用の施設もある。菜緒達はそれを借りられないかと頼んだのだが、返ってきた答えは、壊れてしまって使えないというものだった。仕方なく、昨日までと同じように濡らしたタオルで身体を拭くに留まっている。
(ひょっとして、もう二度と入れないなんてことも……)
考えて、しかし菜緒はすぐにその不吉過ぎる夢想を振り払った。そんなことはない。ないはずだ。根拠なんてないけれども。
明かりを消すかどうか迷ったが、結局点けておくことにした。電力がもったいないが、いざという時に真っ暗闇では困る。窓には板が打ち付けられているので、外に光が漏れるような心配もない――恐らくこの部屋を使っていた誰かが、悪魔への対処として施したのだろう。
目を閉じる。身体は疲れ切っていた。このまま疲労感と睡魔に身を委ねれば、すぐに眠りに落ちるだろう。そしてそうしない理由はなにもない。明日になればここを発つのだから、疲れを残しておくわけにはいかなかった。
だがそれはそれとして、頭は勝手にものを考えようとしてしまう。
(シュバルツバース……)
先程の悠介達との会話で出てきたその単語を、菜緒は思い出していた。
ニュースで取り上げられたのは一度だけで、菜緒も見たのはその時だけだ。テレビに映っていたのは、衛星から南極大陸周辺を撮影した映像だった。
――奇妙な光景だった。まるで墨で塗り潰したかのように、南極大陸の一部が円形に広がる黒い幕のようなもので覆われていたのだ。しかもそれは徐々に広がっていたらしく、仮に今もまだ発生しているのだとすれば、果たしてどれほどの大きさになっているのか見当もつかない。もしあれが衛星の誤認を誘発する規模の黒雲でなかったというのなら、一体なんだというのだろうか。
だがあれがなんだったにせよ、地球規模での環境異常には違いないだろう。そしてその発生源である南極から無差別に送信されたという、悪魔の出現を予測していたと思しきプログラム。悪魔召喚プログラム。
(さっぱり、わからない……)
頭が半ば以上眠りかけている状態だからというわけではなく、理解が及ばなかった。ひとつひとつを結び付けられず、そもそも結びつくのかどうかすら判然としない。
いや、考えても仕方がないのだ。考えたところでお前の頭で答えなど出るはずがないし、悪魔の蔓延っているこの現状になにか変化が訪れたりもしない。だから今は、なにも考えずに寝ろ――
睡魔の猛烈な誘惑に、菜緒はさっさと白旗を掲げることにした。目を閉じてから一分も経っていないということには、もちろん気付くはずもなく。
目が覚めたのは、叩き起こされたからだった。
(……なに?)
お世辞にも快適な目覚めとは呼べない状況に、胸中で苛立ちの声を上げる。まだ眠りかけている頭では扉の外から聞こえている音の正体を判別することもできず、ただ眠りを妨害されたことに対する憤りしか湧いてこなかった。そのまましばし、ベッドの上でぼーっと音に聞き入り――
(……鳴き声……?)
外から聞こえているのが犬の吠え声なのだと気付くまで、たっぷり一分ほどはあった。そして更にもう一分程かけて、そんな声を上げるのはひとり――もとい、一頭しかいないのだという事実にも思い当たる。
(……プランク!?)
ようやく思い出す。そうだ、あの犬だ。確か隊員の男の言いつけを守り、建物の入口辺りで眠っていたはずのプランクだ。そのプランクの声が、扉一つだけを隔てたすぐ近くから聞こえている。
(まさか……悪魔!?)
完全に目が覚め、菜緒はベッドから身を起こした。扉も窓も締め切ったままで眠っていたので室内の空気が淀んでいるが、気にせずに立てかけておいた小銃を手に取り、廊下へと飛び出す。
プランクの姿はすぐに見つかった。廊下を走り回りながら、けたたましく吠え立てている。どうやら間違いなく、自分達を起こそうとしているらしかった。
「プランク! どうしたの!?」
考えてみればそれはかなり間抜けな問いかけだったのだが、そこまでは考えが至らなかった。プランクの方へと駆け寄り、一体なんのために自分達を起こして回っていたのかを確認しようとする。
プランクはこちらの姿を認めて更にもう一度吠えると、廊下を走っていった――先程までとは違い、明らかにどこかを目指そうとしている。そして――
(ついて来いって、言ってる?)
言ってはいないが、そうとしか思えなかった。
廊下を見渡しても、自分以外の姿は見当たらなかった。見張りに出ているはずの敏樹達や歩くのが困難なあの隊員の男はともかく、椎名達の姿が見えない。まだ眠っているのだろうか。
「みんな起きて! なにかあったみたい!」
菜緒は声を張り上げると、扉からの反応を待たずにプランクの後を追った。今ので椎名達が起き、後をついてきてくれることを祈りながら。
プランクは明らかにこちらよりも速かったが、幸いその姿を見失うようなことはなかった。それ程の距離を走るよりも先に、プランクが立ち止まったからだ。
プランクは建物の入口近くで立ち止まり、こちらを振り返っていた。早く来い、と急かしているのだろうとは、言葉が通じずとも理解できる。
菜緒はプランクの元まで駆け寄ると、そこで足を止めた。そして。
(…………!)
そこにあったものを見て、絶句する。
――隊員の男の、死体だった。
(う、嘘……どうして……?)
男の目は驚愕に見開かれていた。頭部から流れ出したのであろう血で顔と上半身がどす黒く染まっており、相当な出血量だったと知れる。うつ伏せに倒れ、すぐ傍には男が使っていた松葉杖が転がっていた。
くうーん、とプランクが男の死体に向かって小さく吠える。その姿を見ながら菜緒は、
(と、とにかく、みんなに伝えないと――)
建物の中へと引き返そうとしたところで――突然プランクが顔を上げ、別の方に向かって吠え出した。つられてそちらを見やると。
「オイ、どうした!? なにがあった!?」
駆け寄ってきたのは、敏樹と千晴だった。続けて反対側、つまり後ろから更に別の足音が聞こえる。振り返ると、浩一と京香がこちらへと駆け寄ってきていた。
「え、ちょ――し、死んでんの、そのオッサン?」
男の死体を見つけたのか(見つけられない道理もない)、京香が恐る恐る聞いてくる。菜緒はなにか苦いものでも噛みしめるような心持で頷いた。
「マジかよ、クソ……やっぱここも、安全じゃねえじゃん……」
千晴が嘆くようにつぶやく。菜緒は彼らの顔を見渡し、
「あなたたち、見張ってたんでしょう? 悪魔に気付かなかったの?」
「いえ、僕らはなにも……敏樹たちの方は?」
浩一が首を振りながら答えてくる。聞かれた敏樹もまた、忌々しげにかぶりを振った。
「こっちも見てねえよ。……まさかとは思うが、中に悪魔が潜んでたんじゃねえだろうな?」
「そんな、まさか――」
言いかけるが、しかしその可能性がなかったとも言い切れない。
と。
「おい相澤!」
椎名の声だ。振り向くと、建物の中から椎名達が走り出てくるところだった。そしてすぐに男の死体に気が付いたらしく、息を飲む。
「……やられたのか?」
押し殺した声音で椎名が聞いてくる。菜緒は無言で頷いた。
椎名は男の死体まで歩み寄ると、その様子をじろじろと見やり――
「……お前ら、見張ってたはずだろ。どこに目ぇ付けてんだ」
敏樹達へと視線を向け、責めるような口調で言い放つ。当然、敏樹は反発して声を張り上げた。
「見張ってたに決まってんだろ! だけど悪魔なんざ見かけなかったんだよ!」
「やっぱ、中にいたんじゃねえの……?」
千晴のつぶやきに、椎名は建物の方へと首を動かした。
「……中だと?」
彼の視線を追って、こちらも建物を見やる。
ないとは言い切れない。建物の中を隅から隅まで見て回ったわけではないし、隊員の男ですら気づかなかったという可能性もある。こうして外側から眺めている限り、悪魔の姿などどこにも見当たらないが――
「本当に悪魔が潜んでるんなら、さっさと移動しないとヤバくね?」
京香が言ってくる。敏樹や千晴、浩一も同じようなことを考えているのだとは、顔色から察することができた。
「……そうね。なんにせよ、近くに悪魔がいることは間違いないんだから、早くここを離れた方が良さそう」
「わかりました。じゃあ、荷物を取ってきます」
言って、悠介が建物の中へ戻ろうとする。その背中に、椎名が声をかけた。
「待て。悪魔がどっかに潜んでるかもしれねえんだ、全員で行くぞ」
特に反対の声も上がらず、全員で部屋まで戻る。荷物を回収し、再び廊下へと出たところで――
「おい、食料はどうすんだよ」
言ってきたのは敏樹だった。一瞬、菜緒は彼がなにを言っているのかわからなかったが。
「あのオッサン死んじまったし、余らせとくのはもったいなくね?」
「え?……なにを」
「食料がある場所は聞いてんだろ? 案内しろよ」
千晴に同調して、敏樹までもが言ってくる。彼らがなにを言っているのか――どうしようとしているのか。それを理解するのに、少しばかり頭の中を整理する必要があった。
そして、理解が及んだ時に。
「ちょっと待って――まさかあのひとが死んだからって、全部を持ち出すつもり!?」
思わず声を張り上げたこちらに、皆の視線が集中する。
「当たり前だろ? もうオレらしかいねえんだ。持ち出さなくてどーすんだよ」
「手分けすりゃなんとかなるだろうしさ」
敏樹と千晴はこちらの反応こそ理解できないといった様子だった。だがどうしてもその意見に賛同することができず、食い下がる。
「やめてよそんなこと! 少し分けてもらうだけっていう話だったでしょう!? それなのに、あのひとが死んだってわかった途端にそんな――恥ずかしくないの!?」
「今更なに言ってんだよ。んなコト言ったら、そもそもアタシたちが使ってる銃だって、死体からひっぺがしたヤツじゃん?」
「それは――!」
京香の反論に、言葉が詰まる。だが次の言葉を探しているうちに、椎名が心の底から鬱陶しそうな目でこちらを見ながら言ってきた。
「お前も本当に、わかんねえやつだな――食料があるってわかってんのに、むざむざ捨て置く気かよ? んなことしたところで誰の得にもならねえ。バカのやるこった」
「椎名くん……!」
反射的に抗弁しかけるが、椎名が舌打ちした。僅かに表情を変えて言ってくる。
「恥なんぞのために生き延びる可能性をわざわざ減らすのは、バカだっつってんだ! それともお前は、この先一切メシ抜きでやってけるってのか!?」
「…………」
苛ついたのか声を荒らげる彼に、菜緒は言い返すことができなかった。彼の剣幕に気圧されたというのもあるし、反論するだけの材料が見つからなかったというのもある。
「卑しい真似したくねえってんなら、さっさと悪魔にでも殺されればいいだろうが! それもできねえくせに、いい加減お前の偽善的な科白は聞き飽きたんだよ!」
(…………!)
言葉を失う。頭を鈍器で殴られたような感覚だった――あるいは、鋭い刃物を胸元に刺し込まれたような。
指先が震え出した。ついでに視界もだ。涙が出そうになっている。だが、際どいところでそれだけは堪えることができた。泣くのは駄目だ。それだけは絶対にいけない――
「……まあ、卑しいですよね、実際」
口を開いたのは悠介だった。
「相手が生きてる間はそれなりに配慮して、死んだとわかったら掌を返す――普通の神経で考えれば、これは恥だと思いますよ」
全員の視線がこちらから悠介へと移っていた。それに気付いていないはずはないだろうが、構わずに悠介は続ける。
「こんな状況で恥を気にすることに意味があるのかどうか、それは僕にはわかりませんけど。恥だと思うこと自体は、当然の反応じゃありませんか?」
告げて、悠介は――こちらの思い違いでなければ――挑むような視線を椎名に向けた。
「そんな当然のことまで否定して――そうまでして生き延びて、その後はどうするんです? 恥を恥と思わないような人間に、他人を踏みにじってまで生きる資格があるんですか?」
「…………」
悠介の言葉に、椎名は答えなかった。いや、彼だけではない――誰も口を開こうとしていない。しばし、椎名と悠介が視線を交錯させ――
やがて、悠介が小さく息を吐き出した。
「……すみません、少し言い過ぎましたね」
どこか自嘲気味につぶやく。椎名からついと視線を逸らし、
「別に、生き延びることを最優先に考えるのは良いと思いますよ。それだって当然というか、普通の反応ですから。でも、相澤さんの感じ方だって、やっぱり普通なんですよ。誰だって思うことです。個人差はあるでしょうけど」
「……ああ、もういいよ」
悠介と似たような仕草で息を吐き、椎名がこちらに背を向ける。
「よく考えりゃ、食料持ち出すのにわざわざお前の許可なんざ取る必要もなかったな。おい、行くぞお前ら。どこにあるかは聞いてる」
「あ? あ、ああ」
すたすたと歩き出した椎名に続いて、敏樹達も彼の後を追う。途中でプランクに吠えられ、しっしっと追い払うように手を振っているのが見えた。
その場に残ったのは、自分と悠介と有紗、そして亮と明だけだった。亮と明がこちらへと顔を向け――ぎょっと目を剥く。
「き、気にすんなよ姉ちゃん! 別に姉ちゃんが悪かったってわけじゃないんだからさ!」
「そうそう! どう考えても椎名の兄ちゃんたちが悪い――わけでもねえけど、とにかく元気出せって! な?」
こちらの目からぼろぼろとこぼれているものを見て焦ったのか、亮と明が泡を食ったように言ってきた。それを見ながら、菜緒は。
(……情けない)
正論――正論だとも――をぶつけられて何の反論もできず、せめて泣くまいとだけは思っていたのにそれにも失敗して、挙句こうして子供に心配されている。情けないし、みっともない。先程の悠介の言葉を思い出す――そうだ、これこそ恥というものだろう。
さっさと泣き止んで気にしてなどいないと二人に言ってやりたかったが、どうにも涙は止まってくれそうになかった。頬を伝って落ち、床に小さな水滴の跡を作っている。
「……なお?」
と、有紗がこちらの顔を見上げて声をかけてきた。
「なお、ないてる。なんで?」
不思議そうな表情を浮かべている。駄目だ。これ以上子供に心配されるわけにはいかない。年長者の威厳だとか、ひょっとしたらあったかもしれないそういったものが揺るぎかねない。
菜緒は袖で目を擦り、涙を拭った。そのまま瞼にぐっと押し当てて、強引に涙を堰き止める。
手を放すと、どうにか涙は止まってくれていた。恐らく目は赤くなっているだろうが、流石にこれは消そうと思って消せるものでもない。
「……いえ、大丈夫よ有紗ちゃん。あなたたちも、ごめんね」
鼻声になっていたに違いないだろうが、無視して笑みを浮かべる――引きつっていたかもしれない。
菜緒は顔を上げた。
「恥ずかしいところ見せちゃったわね。椎名くんたちには内緒にしておいてくれる?」
言うと、亮と明がこくこくと何度も首を縦に振って見せた。有紗は首を傾げているが。
ともあれ、ここでじっとしていても仕方がない。まだ気は進まなかったが、椎名たちが向かったはずの食料の保存場所へ行こうと歩き出したところで――
「ぷらんく!」
男の死体に寄り添っていたプランクを見かけた有紗が、躊躇なくそちらへと近づいていった。そのままプランクの背後からしがみつこうと腕を伸ばすが、さっと避けられる。
(そっか……もう、ここには……)
自分達が去れば、プランクしか残っていない。人間はいない。この広大な駐屯地に――駐屯地だった場所に、たった一頭だけになってしまう。
菜緒は向きを変えて、有紗とプランクの方へと歩いて行った。再び飛びかかろうとタイミングを見計らっている有紗とそれをかわすべく待ち構えているプランクの姿を見下ろし、
「ねえ、有紗ちゃん」
「なお?」
有紗がこちらを見上げる。菜緒は視線をプランクへと向けながら、尋ねた。
「プランクのこと、気に入ったの?」
「いった!」
即答してくる。なぜかファイティングポーズのようなものまで取りながら。
「じゃあ、プランクと一緒にいたい?」
「たい!」
言って、プランクへと再び腕を伸ばす。プランクはそれを避けようとしたが、今度は有紗の方が一枚上手だった――伸ばした腕はフェイントで、プランクが動いた方へ回り込んでいたからだ。
「姉ちゃん? ひょっとして、つれてく気?」
背後から亮が声をかけてくる。
「もちろん、プランクが嫌がるようなら駄目だけど。あなたたちは、嫌?」
「オレはいいけど」
「僕も構いませんよ。有紗が気に入ってるみたいですから」
「なら、後はプランク次第ね」
こちらのやり取りを理解していた、ということはないだろうが。
有紗にしがみつかれたままの体勢で、プランクはこちらと彼女の顔を何度か見比べているように見えた。なにを考えているのかなど、わかるはずもない。
やがて、ばう、とだけ吠えた。