痛みはかなりしつこく身体に残っており、正直なところ今すぐにでも横になって意識を手放してしまいたいところではあった。とは言えわざわざそうしなくとも、メデューサの尾に跳ね飛ばされる度に意識が飛びかけてはいたが。
気が付けば制服もずたずたになっており、あちこちから下着が見えてしまっていた。だが着替えをどうしようかということよりも、散々打たれてできた痣の方が気になる。これ以上痛みが増えれば、恐らくもう次の攻撃を避けられまい。
震える腕で、それでも菜緒はメデューサへと銃口を向け――
弾かれたように、メデューサが顔を動かすのが見えた。こちらでも椎名でもなく、あらぬ方を向いている。
(なに――?)
彼女の向いている方へ、菜緒は視線を向けた。
悠介と有紗が、先程メデューサが崩した建物の傍に屈み込んでいるのが見えた。どういうわけか、この状況で悠介はノートPCを開いている。
その、すぐ傍に。見慣れない悪魔がいた。
(……冗談でしょ?)
まさかここで新手が来るとは、正直まったく想定していなかった――よくよく考えてみればそれはそれで迂闊だったとしか言いようがないのだが、とにかく菜緒は誰かに文句を言いたい気分になった。メデューサだけでも手一杯を通り越しているというのに、この上更に別の悪魔など、相手にもできない。しかもその悪魔は悠介と有紗のほぼ目の前におり、ここからではどれだけ全力で移動したところで間に合いそうになかった。
が、次の瞬間。
その悪魔は悠介と有紗にはまったく構わず、一直線にメデューサへと飛びかかっていた。メデューサが反応する暇もあらばこそ、前肢から伸びた鋭い爪が彼女の喉を深々と抉る。
メデューサは悲鳴を上げなかった。喉を切り裂かれたのだから、上げられなかったのだろうとはわかる。しかし菜緒は混乱していた。一体、目の前でなにが起こっているのか。
メデューサの血を爪にべっとりと付着させたまま、その悪魔はこちらのすぐ近くに着地した。が、菜緒には一瞥もくれず、ぺろりとメデューサの血を舐める。
(な、なんなの、この悪魔……?)
ライオンか、そうでなければ狛犬か――って、狛犬はライオン扱いだったかしら?――その悪魔はそんな姿をしていた。ただし全身の獣毛は白く、また鬣は銀色という、極めて珍しいはずの色合いだ。そんな中で尻尾だけはアクセントのように真っ黒で、しかも先端に房のついたライオンのそれではなく、なぜか爬虫類を想起させるような形状だった。全体的に見て似てはいても、少なくともライオンでないことだけは間違いない。
悪魔が舐めていた前肢を地面へと下ろし、ちらりとこちらを見る。その瞳は黄金色だった。
襲ってくるのかと菜緒は身構えたが、悪魔はすぐにこちらから視線を逸らし、今度は椎名の方を見た。彼の方もいきなり現れてメデューサを攻撃したこの悪魔に戸惑っているらしく、どうしたものか迷っているように見える。だが結局、悪魔は椎名にも襲い掛かったりはせず、視線をメデューサへと戻した。
メデューサの喉からはどくどくと血が溢れ出しており、それを止めようと両手で首を押さえていた。唯一自由の利く尾を振り上げ、突如この場に闖入して来た獣のような白い悪魔へと叩きつけようとするが――飛来したそれを、白い悪魔はあろうことか口で受け止めていた。と言っても流石に衝撃をすべて受け流すことはできなかったようで、勢いに押されて数メートル程の距離を押しやられたが。
と、メデューサの表情が歪んだ。喉を裂かれた時から苦悶に歪んではいたが、更に豹変しようとしている。菜緒は反射的にメデューサへと銃口を向け――
生々しい音が聞こえ、菜緒はそこでようやくメデューサの表情が歪んでいた理由に気付いた。彼女の尾を口で受け止めた白い悪魔が、そのまま牙で噛み千切ったのだ。地面に落ちた尾の先端部分が、切り落とされたトカゲのそれのように跳ね回っている。
白い悪魔は陸揚げされた魚のようにぴちぴちと動く尾を前肢で踏みつけて黙らせると、なにやら唸り声のようなものを上げ始めた。なにをするつもりなのかと、菜緒は状況も忘れてその姿に見入っていたが。
メデューサが白い悪魔に顔を向け、凄絶に歪みきった目を見開こうとしているのを見て、慌ててそちらに銃口を向けた。躊躇せずに発砲するが、流石に都合よく彼女の目を潰せるようなことはできず、弾丸は彼女の頭から生えた蛇のうちひとつを貫いたのみ。
白い悪魔に気を取られてこちらの存在を忘れていたのか、メデューサが思い出したように顔を向けてくる。首から再び血が溢れ出すのも構わずに、腕を放してこちらへと伸ばすが――その腕を、走り込んできた椎名が斬り飛ばした。
最早これ以上歪みようがないのではないかと思える程に、メデューサの表情が変形する。正しく神話に伝わる怪物であることを思い出させるその形相に、菜緒は戦慄すら覚えた。
――白い悪魔の唸り声が止まった。そして、メデューサに向けて大きく口を開く。
(…………!?)
白い悪魔がなにをしようとしているのか、それを半ば本能のようなところで理解し、菜緒は咄嗟にその場へと屈み込んでいた。同じように椎名もまた、頭を押さえて伏せている。
そして――白い悪魔の開かれた口から、炎が放たれた。
いや、それは炎というより熱線とでも呼ぶべき代物だった。一直線に伸びた尋常でない熱量がメデューサの上半身を貫いており、こちらにまで熱さが伝わってくる。火傷しそうな程の熱に、菜緒はしばらく黙って耐え――
数秒程で、熱線は消え去った。ちりちりと肌を焼きつけていた熱が完全に引いたのを確認してから、恐る恐る顔を上げる。
メデューサの上半身は焼け爛れていた。皮膚と肉の焦げ付いた臭いが辺りに漂っており、こちらの胃の辺りを刺激してくる。
(う、ぷっ――)
慌てて口に手を当てる。どうにか吐くことは堪えたが、悪臭が消えない限り吐き気も治まりそうになかった。せめて少しでも臭いが弱まるようにと、菜緒は立ち上がってその場を離れようとしたが――
「……相澤っ!」
椎名の声が響き、菜緒は振り返った。
メデューサの身体が動いていた。信じられないが、まだ生きている。流石に今のダメージは相当なものだったらしく、その動きは緩慢なものだが――それでも振り下ろされた腕は、油断してしまった自分が避けられるほど遅いわけでもなかった。
と、その腕に。
どこからか飛来した弾丸が減り込んだ。腕の動きが止まる。
その隙に菜緒はメデューサから距離を取り、銃口を向けた。セレクターはフルオートに合わせたままだ。躊躇なく、トリガーを引く。
炭化しかけているメデューサの肌に、いくつもの弾痕が刻まれた。メデューサの身体がぐらりとよろめき――こちらの銃撃が止むのを見計らっていたのか、そこへ白い悪魔が飛びかかる。ぎらりと光る爪が今度はメデューサの腹を抉り取った。
完全にバランスを失ったらしく、メデューサの上半身が前のめりに傾き出した。そのまま地面に向かって倒れ込んでいき――
待ち構えるように立っていた椎名が、刀を振るのが見えた。そして、まるで神話の再現であるかのように。
椎名の刀が、メデューサの首を刎ねた。
宙を舞った首が、どさりと音を立てて地面に落ちるまでどれほどだったか。冷静に考えてそう長かったはずはないのだが、しかし菜緒はその光景が妙にゆっくりしたものに思えてならなかった。きっと放心していたのだろう。
ともあれ、メデューサの身体が完全に倒れ、そしてその首が地面に転がるのを見届けてから。菜緒はその場に膝をついていた。もう無理だ。指一本だって動かせそうにない。痛みと疲労と緊張感と、あと他にも色々と。そういったものがどっと押し寄せ、潰されてしまいそうなくらいだった。
椎名の方もこちらと似たような状況だった。地面に片膝をつき、何度も息を吐き出している。
(後は――)
菜緒は白い悪魔に視線を向けた。
一体この悪魔はなんなのだろうか。いきなり現れたかと思ったら、まるで自分達に助勢するかのようにメデューサを攻撃し始めた。そのおかげでこうしてどうにかなったわけだが、気を緩めるにはまだ早いのかもしれない。身体はちっとも言うことを聞かないものの、それでも菜緒はなんとか警戒心を身体の奥から呼び起こそうとした。
しかしやはり白い悪魔はこちらにも椎名にも興味はないようだった。先程自らで噛み千切ったメデューサの尾の元まで歩いて行き、それに齧り付く。
(……え?)
この上なにをしようとしているのかと、菜緒は一瞬理解しかねたが――しかしすぐに察知した。メデューサの尾を、喰っているのだ。
(う、うわあ……)
なにか見てはいけないものを見てしまったような気がして、菜緒は慌てて目を逸らした。悪魔が人間を食べるところは何度か目にしたものの、同じ悪魔を餌にするというのは、一度も見たことがなかった。共食い――と呼ぶには、外見に違いがあり過ぎるか。
と、逸らした視線の先に、悠介と有紗の姿が見えた。こちらへと近づいている。
「あ、悠介く――」
白い悪魔のことを気にして、近づかないよう警告するつもりだったのだが。
悠介の放った言葉は、こちらの理解を完全に振り切ったものだった。
「……もう、いいかい? ケルベロス」
――なにを言っているのか。
さっぱり意味がわからず、菜緒は聞き返すことも忘れていた。なにを、というか誰に対して言っているのか。
尾を平らげた白い悪魔が、悠介へと近づいていった。菜緒はなにか言おうとしたが(もちろん止めるためだ)、それよりも早く。
「じゃあ、戻すよ。ご苦労さま」
悠介は言うと、持っていたノートPCのキーを叩いた。すると。
白い悪魔の姿に、変化が起こった。額の辺りからなにか白い光の筋のようなものが何本も伸びたかと思うと、それが瞬く間に全身へと広がっていく。元々白かった身体が直視できない程の白い光に覆われ――徐々に、縮んでいた。顔を覆っていた鬣が短くなっていき、同様に尻尾も身体へと吸い込まれていく。やがて全身を包んだ光が消え失せると――
そこにいたのは、知っている相手だった。
(…………な)
絶句する。
悪魔ではなかった。それが悪魔などでは断じてないと、よく知っている。犬だ。
白い悪魔が変じたのは、プランクの姿だった。
「ぷらんくー!」
いきなり現れたプランクに、有紗が抱きつく。プランクの方は最早見慣れてしまった迷惑そうな表情を浮かべているが、しかし振り解いたりはしない。
「……どうなってんだ」
同じように呆然と見ていた椎名が言ってくる。まったく同じことを菜緒も言いたい気分だった。
有紗に抱きつかれている犬は、間違いなくプランクだった。一週間程度の付き合いとは言え、流石に見間違えるようなことはない。だが、なぜあんな姿になっていたのか。そもそもプランクは、先程メデューサに壁に叩きつけられて瓦礫に埋もれていたような。
菜緒は説明を求めて悠介へと視線を向けたが、彼は特になにを言うでもなく別の場所へと移動していた。倒れたまま動いていない明の元へ。
(……あ!)
失念していたことを思い出し、菜緒はどうにか立ち上がった。痛む身体に鞭打って、倒れた明のところへ駆け寄る。
「悠介くん! 明くんは!?」
「……大丈夫、息はあります」
こちらには振り返らず、悠介が答えてくる。菜緒はほっと胸を撫で下ろしたが、しかし悠介の使った言い回しに引っかかるものを覚えた。息『は』ある、ということは――
「けど、頭を強く打ってるみたいで……目を覚ます様子がありません」
「……え」
先程の様子を思い出し、菜緒は呻いた。恐らく頭だけでは済んでいないはずだ。こうして外から見ているだけではわからないが、骨の一本や二本は砕けていてもおかしくない吹き飛ばされ方だったのだから。
「椎名くん!」
呼びかけると、彼は既にこちらの背後にまで近づいていた。
「お願いできる? その、わたしたちじゃ……」
「仕方ねえな。おい、そっと動かせよ」
背を向けてその場に屈み込んだ椎名を見て、菜緒は悠介と共に明の身体を持ち上げた。頭を動かさないよう慎重に、椎名の背へと負わせる。
彼にしても、無傷などということはないのだが――明を背負って立ち上がる瞬間、表情が歪むのを菜緒は見逃さなかった――それでも椎名は、泣き言も愚痴もこぼそうとはしなかった。こちらとは違い、しっかりとした足取りに見える。
(本当にタフよね、椎名くんは……わたしなんかとは大違い)
などと思いつつ、有紗とプランクのいる方へと歩いて行き――その途中で、足を止めた。示し合わせたわけではないが、椎名と悠介も立ち止まっている。
――足のみを残して粉々に砕かれてしまった亮の石像が、なにを言ってくるでもなく散乱していた。メデューサが死ねば元に戻るのではないかと、そんな淡い幻想を抱いてはいたのだが、やはり幻想に過ぎなかったらしい。
「亮、くん……」
堪えきれずに、呻く。椎名と悠介はなにも言ってこない。なにを考えているのかもわからない。椎名は顔を背けているし、悠介は俯いているので、表情を窺うこともできなかった。あるいは二人とも、見られたくなかったのかもしれないが。
数秒程、その場に立ちつくし――
「おーい! 無事か!?」
どこからか聞こえてきた声に、はっと顔を上げる。聞き覚えのない声だった。
辺りを見渡すと、見えた。誰かはわからないが、小銃を持った男がこちらに向かって手を振りながら近づいてきている。更にその向こうには――敏樹達の姿もあった。
「あいつら……!」
椎名が忌々しげに声を上げる。予想していた通りの反応だった。
先頭にいた男はこちらへと駆け寄ってくると、椎名に背負われた明に目を止めた。
「……ん? その子、どうしたんだ?」
「あ、いえ――あの悪魔にやられて、意識が戻らないんです」
「なんだって? それは……まずいな。急いで医者に診せた方がいい」
さらりと無茶なことを言われ、菜緒は面食らった。
「それは、そうしたいのはやまやまですけど、医者なんてどこに――」
「ん? いるじゃないか」
またしても、さらりと言ってくる。どこにいるんですか、と聞こうとしたが、それよりも早く。
「あれ? ひょっとしてきみたち――余所からこっちへ来たのか?」
「こっち、って……?」
「ああ、やっぱりそうか。いや、見覚えがないとは思ったんだ」
勝手に納得している様子だったが、こちらとしてはさっぱり意味がわからない。
「もしかして」
と、悠介が口を開いた。
「この近くに、ひとが集まっている場所があるんですか?」
「ああそうだ。あの悪魔……いや失礼、怪物が現れて、避難する羽目になった人間が集まってきてね。そこで生活しているんだ」
(……うん? 今……)
悪魔、と。言い直しはしたが、確かにそう言った。自分達にとっては既に呼び慣れてしまったものだが、なぜこの男性はまるでそれが当然とでも言わんばかりの自然さで口にしたのだろうか。そして、言い直したのか。
疑問が顔に出てしまっていたのだろう、男がこちらを見て聞いてくる。
「……どうしたんだい? 難しそうな顔して」
「いえ、その……今、悪魔って言いました?」
「あ、すまないね。何度も聞いているうちに、そう呼ぶようになってしまったんだよ」
はは、と笑いながら頭を掻く。
「いやね、私たちが避難している先にシスターがいるんだが、そのひとが言うには、あの怪物は悪魔に他ならないということらしいんだ。なので私たちも、それにつられてね」
「そ、それは……そうですか」
言いつつ、思わず悠介の方を見る。彼もこちらを見返し、苦笑いを浮かべていた。そう呼ぶに至った経緯は自分達とまったく違うのだとは思うが、こんな偶然があるとは。先程言い直したのは、その呼び方ではこちらに通じないと判断したからなのだろう――以前の自分がそうしていたように。
と、男がきょろきょろと辺りを見回しながら、
「……おや? もう一体、悪魔がいたように見えたんだが、逃げたのか?」
「あ、それは……その、はい」
どう説明すればいいのかわからず、というか説明などしようもなく、菜緒はとりあえず肯定しておくことにした。まず自分達こそ説明してもらっていないのだから。
「……さっきあの悪魔を撃ったのは、あんたか?」
椎名が尋ねる。ん? と男は彼の方を見、続いてこちらを指差した。
「ああ、そこの娘さんが危ないようだったからね。無事で良かったよ」
えらく簡単に言ってくるが、メデューサとの距離は相当開いていたはずだ。にも関わらずこちらへ伸びようとしていた悪魔の腕を狙い撃てたというのなら、とんでもない偶然か、とんでもない腕前か、そのどちらかには違いない。
こちらが呆気に取られていると。
「よう、生きてやがったか」
途中から走るのではなく歩いていたらしい敏樹達が、こちらに軽く手を上げていた。
「……ああ、お前らのおかげで助かったよ」
よく悠介達を寄越してくれたな、と椎名が盛大に皮肉めいた声を上げる――と言うか、皮肉以外のなにものでもない。
「あれ? そいつら、俺らより役に立ったとか?」
椎名の皮肉が通じたのか通じていないのか、千晴が言ってくる。これには流石に、菜緒も反論しかけたが。
「……明くんが重傷よ。それに、亮くんは」
声を張り上げるのを寸前で押し止め、低く告げる。どしたん? と京香が気楽な(菜緒にはそう思えた)声で聞いてきたので、菜緒はさっきまで亮だったものが散らばっている場所を指し示した。
「え、まさか……」
そこにあるものを見て察したのか、浩一が神妙な声でつぶやいた。
「……死んだ、のかよ」
菜緒は頷かなかった。認めたくなかったというのもあるし、あの少年が――泣いていた自分を必死に慰めようとしていた、あの少年が――死んだのだと、その実感が湧いてこないというのもある。せめて残ったものが石片などではなく、ちゃんと人間の死体と呼べるものであったのなら、もっと実感が伴ったのかもしれないが。
(……ない方がいいのかしら、そんな実感なんて)
あった方がいいとも、ない方がいいとも言えない。誰かが死ぬのは、もちろんない方がいいが。
「そうか……その、なんだ。なんと言えばいいのかわからないが、とにかく、気落ちしないようにな」
黙り込んでしまったこちらを見かねてか、男が声をかけてくる。
「その子、早く医者に診せないといけないだろう? ここからならそう遠くないし、私たちのところまで案内しよう」
男の提案に、菜緒は椎名へと顔を向けていた。椎名は一瞬だけなにかを考え込んだようだったが、すぐに頷いてくる。
菜緒は目を覚まさない明と、そして亮の立っていた場所へ視線を移し――男へと向き直った。
「すみませんけど、お願いします」
ぺこりと、頭を下げた。
「あの悪魔――メデューサと言うのかい? 私たちの中には、あの悪魔に遭遇したものも何人かいてね。聞いた話なんだが、自衛隊の駐屯地を襲ったこともあるらしい」
歩きながら、男は誰に対して話しているのかわからないもののそう言ってきた。まあ先導役である彼が先頭に立つのは当然であり、そして後ろを向いたままでは歩けないのだから、誰の顔も見ずに話すことになるのは当然なのだが。
誰も返事をしようとしなかったので、仕方なく菜緒は口を開いた。
「たぶんその駐屯地って、わたしたちが寄ったところだと思います」
「え、そうなのかい? じゃあきみたちは、そこからここまで歩いてきたのか?」
「いえ、もう少し前から、ですけど」
「そうか。それは大変だったな」
「マジで、死ぬほど大変だったぜ……」
敏樹が愚痴るのが聞こえてくる。
「しかし、そのメデューサを返り討ちにしてしまうとはね……仲間割れだったのかもしれないが、あの悪魔は一体なんだったんだろうな?」
と、男が首を傾げる。こちらからは彼の後頭部しか見えないが。
「……そうね。そろそろ、説明してもらいましょうか」
と、菜緒は悠介へと視線を移した。椎名もだ。腑に落ちていない様子で悠介を見ている。
「どういうコト?」
京香が聞いてくる。無論、それに答えることができるのは自分でも椎名でもない。
悠介が嘆息するのが聞こえた。
「わかりました。どうせ説明はしなくちゃいけないんですから、しましょう」
「せつめー?」
有紗の言葉は当然のように聞き流して、悠介は彼女の隣を歩いているプランクへと視線を移した。
「答えは簡単です。あの悪魔は、僕が召喚したものですよ」
悠介のその言葉に。
「は?」
何人かが同時に声を上げた。ひょっとしたら自分と椎名を除く全員のものだったかもしれない。
彼らの疑問は聞かずともわかる。こいつは一体なにを言い出したんだ? といったところだろう。実際唐突だったので無理もないが。
自分の疑問は――そして恐らく椎名の疑問も――それとは別のものだった。その疑問を口にする。
「……まさか、あのプログラム?」
「ええ。この間はああ言いましたけど、やっぱり本物だったんですよ、あれ」
「本物って、お前……」
んな馬鹿な、と椎名が漏らす。が、悠介はそれに対しては返事をせず、
「まず、あの悪魔の名前はケルベロスです。ご存知ですか?」
「まあ……聞いたことくらいは」
浩一が曖昧に頷く。
「ギリシャ神話に伝えられる冥府の門の番犬として、日本でもそれなりに有名な悪魔です。まあどちらかと言うと、英雄ヘラクレスの難行に登場したエピソードの方が知られてるかもしれませんけど」
言ってくるが、菜緒はどちらにも聞き覚えがなかった。ヘラクレス、という単語くらいはどこかで耳にしていたかもしれないが。
「……で、それをお前が召喚したってのは、どーゆーコト?」
京香が首を傾げながら尋ねると、悠介は自分の荷物を指差した。
「相澤さんと椎名さんには話したんですけど、これです」
「……鞄?」
浩一の問いに、悠介は頭を振った。
「悪魔召喚プログラム、というものです」
言って、悠介は先日自分と椎名に語った内容と同じことを話し出した。悪魔召喚プログラムというものと、それが悪魔の出現とほぼ同時に南極から送信されてきたこと。そして――
「じゃあそのプログラムで、マジに悪魔が呼び出せちまったってコトなのか?」
心なしか興奮気味に敏樹が言うが、しかし菜緒は納得がいかなかった。
「でもあなた、この間はそんなこと証明できないって言ってたじゃない」
「ええ、言いました。別に嘘をついたわけじゃありませんよ? あの時は本当に証明なんてできなかった――するわけにはいかなかったんです」
「いかなかった、って――?」
「えーとですね。その辺りを説明するにあたって、まず基本的なところに立ち返りましょう」
と、まるで教師が生徒に対してそうするように、あるいは弟妹に話して聞かせる兄のように、悠介は人差し指を立てて見せた。
「悪魔ってなんでしょう?」
悠介の言葉に。
「……そこまで戻るの?」
以前に学校で話した話題を再び持ち出され、菜緒は少しばかりうんざりして呻いた。あの時横から茶々を入れていた少年二人は、もうそんなことはできなくなってしまったが。
「安心してください。僕がしようとしてるのは正解を模索するための議論じゃなくて、あくまで説明ですから。僕がなんとか辿り着いたと言えなくもない、まあ正解のひとつですよ」
「ほう。んじゃ、悪魔ってなんなんだ?」
「情報です」
敏樹の言葉に、悠介は迷いなく即答した。
――誰も返事をしない。悠介も特にリアクションを期待していなかったのか、すらすらと後を続ける。
「神話、伝承、口伝、噂話、おとぎ話、都市伝説――言い方はなんでもいいですし、全部ひっくるめたって構いません。そういったもの自体が、つまりは悪魔そのものなんですよ。実体がないからこそ悪魔なんです」
そこで言葉を切る。別に言い淀んだわけではなく、単に空気を吸っただけだった。息が続かなかったのだろう。
「誤解しないでもらいたいんですけど、情報っていうのは物理的なものなんですよ。この世に存在するあらゆる物体は、際限なく細かくしていけば――分子とか、原子とか、素粒子とか呼ばれるようになるわけですけど、それをどこまでも突き詰めたら、どう呼べばいいと思います?」
「――量子、とか?」
答えたのは先頭を歩いていた男だった。悠介が頷く。
「それも正解ですけど、僕は物理量で量れるものとそうでないものと、そのどちらもの根幹を形成しているのが――つまりは情報に他ならないと、そうとしか呼べないものだと考えたんです」
「なるほどねえ」
男がなにやら感心したように唸った。
(……よく、わからないんだけど)
自分だけでなく、ほぼ全員がこちらと似たような表情を浮かべていた。違うのは男と、悠介本人だけだ。
「宇宙のあらゆるものは、情報で構成されているっていうことか。限界まで細かくすれば――できるかどうかは別としてだけど、確かにそれはもう情報としか呼べないかもしれないな」
「ええ。そして悪魔という概念も、根幹のところは情報に違いないと思うんですよ。その点で言えば――つまり情報でできているという意味では、実体のあるものと同列に扱えるってことです」
「扱える、って、んなもんどうやって……」
千晴が不満げに言う。不満というか、単に理解が追いついていないだけなのかもしれないが。こちらがそうであるように。
「――それが、悪魔召喚プログラムです」
と、再び自分の持っている荷物を指差す。
「まあプログラムなんですから当然ですけど、これは結局のところ、情報を扱うためのものなんです。悪魔という情報、情報体としての悪魔――差し詰めクォンタム・デビル、もしくはデジタル・デビル、ってところでしょうか」
「デジタル・デビル……?」
おうむ返しにつぶやく。しかし理解が追いついていないためか、どうにもしっくり来ないというか、据わりの悪い響きだった。
「このプログラムは悪魔という情報と、実際に存在するものを構成する情報と――両者を同列で処理するわけです。ただそれでも、悪魔の情報、即ちデジタル・デビルには、実在しているものと比較して、決定的に足りない要素があるんですけどね」
「いや……そりゃそうだろ。実在してねえんだから」
なにを馬鹿な、とでも言いたげな敏樹の言葉に、悠介がにやりと笑みを浮かべた――ような気がした。気がしただけであって、実際には彼は表情を変えていなかったが。
「悪魔と、実在するものと。その両者に決定的な差があるのなら、その差を探し出し、情報に変換して――悪魔の情報に書き込んでやればいいんですよ。足りない分を補ってやればいいわけです。情報を処理する、なんて言いましたけど、悪魔召喚プログラムっていうのは要するに、ただそれだけのもので」
悪魔と、そうでないものとの違い。それは実在するかどうかという点なのだろう。もしその差を補ってしまったのなら、それはもう悪魔とは呼べないような気がする。
「そしてその差こそが、さっきも言った証明できない、するわけにはいかないものだったんです。このプログラムはその差、つまり悪魔が実体化する上で足りないものを、便宜的にでしょうけど、こう名付けてました――生体マグネタイト、って」
「生体マグ……なんだって?」
敏樹が聞き返すと、悠介は繰り返した。
「生体マグネタイト、です。自然界にも存在するものらしいんですけど、取り分けこの生体マグネタイトを多く持っているのは、生物なんだそうです」
まったくぴんと来なかった。生物ということは当然人間も含まれるはずだが、人体からそんなものが発見されたなどという話は聞いたことがない。
こちらの疑問を察したのか、悠介が付け足してくる。
「一応言っておきますけど、この生体マグネタイトっていうのも、情報としての存在ですからね? 蛋白質とかアミノ酸とか、そういったものと一緒には考えないでください」
「あ、そうなのね」
納得したわけではないが、菜緒は頷いておいた。聞いたことがなくて当たり前だったらしい。そもそもその生体マグネタイトという呼び名も、そのプログラムの製作者が仮にそう呼んでいたというだけの話なのだ。
と、そこで。
「…………え?」
菜緒は小さく呻いていた。悠介の説明を、自分なりに頭の中で整理する。
実体を持たない、情報でしかない悪魔――悠介曰くデジタル・デビル――が実体のある存在と同列になる、つまり実体化する上で必要なのが、生体マグネタイトというものなのだという。それを補うことで、悪魔は情報ではなく実際に存在することになる。そしてその生体マグネタイトは、特に生物が多く持っている――と、いうことは。
「悠介くん……? まさか、証明できなかったっていうのは」
「気付きましたか?」
そうです、と悠介は言ってきた。
「生物の持つ生体マグネタイトを、デジタル・デビルに与える――それは言い換えれば、生体マグネタイトを持つ生物を、悪魔に『喰わせる』っていうことなんですよ」
「――なに?」
椎名が眉を動かすのが見えた。彼も気付いたらしい。
菜緒は視線をプランクへと移し、
「じゃあ――あの悪魔は」
「……はい」
目を伏せ、悠介は言ってきた。
「あれはデジタル・デビルとしてこのプログラムの中にいたケルベロスが、プランクの生体マグネタイトを喰らうことで実体化し、召喚されたものなんです」
「……へ? 喰ったって……だってその犬、そこにいるじゃねえか」
敏樹がプランクを指し示す。それを見て首を傾げたのはプランクではなく有紗だったが、それはいいとして。
「……あのまま放っておいたら、間違いなくプランクは死んでいました。だから――ただ死ぬのを待つだけなら、それならいっそって、そう思ったんです」
顔を上げ、悠介もまたプランクを見た。今度ははっきりと、表情を変えている――詫びるような顔をしていた。
「今のプランクは、ケルベロスの情報で傷ついた身体を補っている状態なんです。このプログラムを使えば、プランクからケルベロスの情報を消し去ることはできますが――」
「そうしちまったら、死ぬってことか」
「……はい」
椎名の問いかけに、悠介が頷く――項垂れたようにも見えた。
「その、ケルベロス? から、プランクの姿に戻ったのは、どういうことなの? これもあなたがやったことなの? その、プログラムで」
「はい。デジタル・デビルが実体化しているには、絶え間なく生体マグネタイトを必要としますから。プランクの生命を維持するための最低限の情報だけを残して、ケルベロスの情報をプログラムの中に戻したんです」
「……そんなこともできるの、それ」
思わず感心して言ったのだが、悠介の表情は変わらなかった。まだ言いたくないことを言い残している、という表情のままだ。
「そうですね……このプログラムがあれば、そういったことができたんですけど」
(……?)
どこか、引っかかる言い方だった。まるでそうでない前例を知っていて、それを悔やんでいる――あるいは惜しんでいるような。
「ねえ……ちょっと、いいかな」
と、浩一が悠介に向かって声をかけた。
「つまりさ、悪魔っていうのは情報に過ぎないもので、それが実体化するには、生物の持つ生体マグネタイトっていうのを食べないと駄目ってことなんだよね?」
「……はい」
「じゃあ、さ」
と、一拍を置いてから。
「今、実際に現れてる悪魔は全部――プランクと同じように、デジタル・デビルに食べられちゃった生き物ってこと?」
(……あ)
浩一の科白を聞いて、菜緒ははっとなった。
そうだ。ここまでの悠介の説明を聞いた限り、そういうことになる。
こちらも含めた全員の視線を集めて、悠介が嘆息して見せた。
「……おかしい、と思ってたんですよね」
なにかを白状するような口振りだった。そして同時に、それを黙っていたことに対する後ろめたさのようなものも見える。
「あの日からずっと――いくらなんでも、少なすぎると思ってたんです」
「……なにが?」
問いかけると、悠介は。
「人間の数が、です」
きっぱりと、そう言った。
「あれからもう三週間経ちますけど、おかしいんですよ。悪魔に殺されたり、石にされたり――もちろんそういったことはあったに決まってますけど、それにしたって人間が少なすぎます。会うのは悪魔ばっかりで、僕たち以外の人間なんて、ちっとも見かけなかったじゃないですか」
誰も返事をしなかった。彼の言う通りであり、そしてそれが意味するところを薄々と気付いているからなのだろうと思うが。
「デジタル・デビルは生物の持つ生体マグネタイトを摂取することで実体化する。それはほぼ間違いありません。そしてあの日、突然悪魔が大量に実体化して――逆に、人間の数が目に見えて減った。これが意味するのは、つまり」
もうわかっていた。その先は、言われなくてもわかる。
病院にいたゾンビの群れも。
学校を襲った悪魔達も。
体育館ごと多くの人間を押し潰した、牛頭の巨人も。
亮を石に変え、明の意識を奪った蛇の悪魔も。
今日までに目にした悪魔のほとんどが、つまるところ――
「悪魔に喰われて、悪魔になった……人間だってことかよ」
ぽつりと放たれた、椎名のつぶやきに。
しかし悠介は頷きもかぶりを振ることもしなかった。その必要がないと判断したのだろう。
実際、必要なかった。その反応こそが答えを語っていた。