まだこの場所に腰を落ち着けると決まったわけではないものの、しかし自分達が労働力になれることに変わりはなく、である以上与えられる仕事というのも他の人間のそれと特に違うものではなかった。結局のところ人手などはいつだって足りないのであり、それは生徒会の仕事をこなしていた頃から変わっていない。仕事というのは常に、用意できる人員と比較して多めに存在するものだ。
ここに避難しているのは大体百人程度らしく、学校に避難していた人数に比べれば明らかに少なかった。それを支えているのはシスターと何人かの自衛隊員であり、滞在を始めてまだ一週間も経っていないが、彼女達の指導はそれなりにうまく機能しているように見える(不平不満の声は専ら敏樹や千晴、京香から上がるばかりで、自分達より以前から避難しているものの口から菜緒は聞いたことがなかった)。本物のシスターではないことを本人は恥じている様子だが、少なくとも彼女は周囲から求められる役割を果たしていると言えるだろう。本物であるかどうかなどという問題よりもそちらの方が重要に思えてしまうのは、あるいは彼女の信じる教義を冒涜する行為なのだろうか。
けどまあそんなものかもしれない、とも菜緒は思った。知らない人間からすればシスターであるかどうかなど、外見から判断するしかないのだ。それは自分が彼女に最初に会った時、疑いなくシスターだと断定したことからもわかる。この服装が記号的に過ぎる、というのもあるだろうが。
なので菜緒自身、自分の格好を見てここのシスターだと勘違いしてくる相手にわざわざ文句を言うつもりはなかった。というか最初のうちはこの服が借り物であることを説明していたのだが、あまりにも間違われるのでそろそろ訂正する気もなくなってきている。
自分はこの教会の教義など一片たりとも知らないのに、そもそもどうして疑いもせずにシスターだと思い込まれるのだろうかと菜緒がこぼすと、椎名は「そうとしか見えねえからだろ」と言い放った。そして誰もそれを否定しなかった。やはりこの服装に問題があるのだろう。こうなったら服でも自作してやろうかしら、と本気で考えたが、時間がないのでやめた。
時間が足りないのは自分に限った話ではなく、ここにいる誰もがそうだ。いつ悪魔に襲われるかわからない状況で、常に可能な限りの備えをしようとしている。そのための物資はどれだけあっても足りることはなく、ないのなら別の方法で補わなければならない。悪魔という脅威が払拭されない限りそれは続き、そして払拭されるかどうかなど誰にもわからない。
有り体に言って、それほど先が見えているわけではなかった。ただ、それを気にしている余裕もない程に忙しいだけで。
それでも、四六時中悪魔のことだけを考えているよりは余程いい。菜緒はそう思っていた。
「シスター、戻ってきましたよ」
洗濯をしていたところに背後から声が聞こえ、菜緒は振り向いた。この場には自分以外にそう呼ばれる可能性のある人物がいないので、消去法で考えたのだ。自分のことを呼んだのだろうと(消去法など用いるまでもない、とは考えないようにした)。
「はい、すぐに行きます」
手を拭いてから立ち上がり、ちょっとお願いね、と周りの人間に声をかける。
「なんかもう、すっかり板についちゃってますね」
悠介が苦笑しながら言ってくるが、彼に反論しても詮のないところだ。ひょっとしたら自分ではない方のシスターも、こんなふうに着々と既成事実を積み重ねてしまったのかもしれない。
外へ出ると、ちょうど敷地内の駐車場に一台の車が停まったところだった。扉が開き、自衛隊員の二人と椎名が降りてくる。菜緒はそちらへと近づいて行き、声をかけた。
「おかえりなさい。どうだったの?」
「取り敢えずは、運んでからだ。数なんざいちいち数えてられなかったからな」
と、車のトランクを指し示す。自衛隊員達がそちらへと回り、確認するようにトランクの中を覗き込んでいた。
が、菜緒は首を横に振り、
「そうじゃなくて。悪魔に襲われなかった?」
「襲われたに決まってんだろ。どうにか振り切って来れたけどな」
どうということもなく言い放ち、椎名も車のトランクの方へと移動する。三人がかりで中からいくつもの段ボールを出すと、それを地面の上に並べていった。
そうしている間に建物の中から何人かが出てきた。並べられた段ボールをこちらの指示した場所へと手早く運んでいく。トランクの中が空になるまで、十分とかからなかった。
「……意外と早く済みましたね」
と、自衛隊員の男が声をかけてくる。
「これなら、今日中にもう一度くらいは往復できそうですが。どうします、シスター?」
「確かに、時間の余裕はありますけど……」
呼び方には反論せず、菜緒は車の方に視線を向けた。普通の乗用車で、自衛隊の車両ではない。一応本来の持ち主は別にいるのだが、悪魔に破壊されることなく残っていた貴重な移動手段として、物資の搬送に使わせてもらっているものだった。
「燃料はあったんですか?」
「はい。ですが、量が――」
「なら、無理はしないでおきましょう。今回は無事に済みましたけど、いつ悪魔に襲われても不思議じゃないんですから」
「あー……それなんですが」
と、なにやら微妙な口調で、
「悪魔には、襲われたんですよ」
それは知っていた。というか、たったさっき椎名から聞いたばかりだ。
「それは聞きました。逃げて来られたんですよね?」
「いえ、移動中の話ではなく、駐屯地で物資を探している最中にです」
「……えっ?」
思わず、聞き返す。
車中から手を伸ばして物資を拾うことができたとは到底思えないので、当然その際には車を降りただろう。そして、その最中に悪魔に襲われたのならば。
「それは……その、本当に無事でなによりです」
「ええ、まあ……無事だったんですがね。その悪魔を撃退したのは、彼なんですよ」
言って、椎名の方を指差す。彼は建物に向かって荷物を運んでおり、こちらのやり取りには気づいていないようだった。
「悪魔と交戦するような事態になった場合は、我々がそれを行うと事前に話していたんですが。彼はひとりで悪魔を仕留めてしまったんです」
「それも、刀一本でですよ?」
もうひとりの自衛隊員が近づき、話に加わってくる。こちらはなにやら、どこか興奮気味だった。
「いや、大した度胸ですよ、あの少年は。あの蛇の悪魔を撃退してしまったという話も、肯けるというものです」
メデューサのことだろう。この教会も以前に襲われたことがあるらしく、彼女の眼光の被害にあったのだろう石像がいくつか見受けられた。もっともメデューサを撃退できたのはケルベロスという加勢によるところが大きかったのだが、悪魔召喚プログラムの存在はひとりを除いて誰にも話していない。悠介曰く「ケルベロスに余計な餌を与えたくないんです」ということらしく、椎名や敏樹達、そしてここへ案内してくれた自衛隊員にも黙っていてもらえるよう頼んであった。
「……まあ、確かに。彼の腕っ節というか度胸というか、そういうのは認めますがね」
と、こちらは幾分冷静に言ってきた。
「どうにも彼は、他人と歩調を合わせることに無頓着というか、自分だけでどうにかしようとするきらいがある。今まではそれでどうにかなったのかもしれないが、この先もそんな真似を続けるようなら、少し考えなければならなくなります」
「…………はい」
神妙に、菜緒は頷いた。
予想はしていた。いずれこういった話を聞かされることになるだろう、と。いや、ひょっとしたら他でもない椎名自身がそう思っていたのかもしれない。だからこそ、まだここに留まるかどうかの最終的な返事を保留しているのではないだろうか。煩わしくなった時に、いつでも出て行けるつもりで。
だが。
「……わたしの方から、椎名くんに話してみます」
菜緒はそう答えた。なんの根拠も裏付けもなく、それは自分の役目だと思ったからだ。
「――椎名くん、少しいい?」
扉をノックする音に続いて、聞き慣れた声がする。元々鍵などついていない部屋なので開けようと思えば開けられるのだが、その気配がない。律儀にこちらの返事を待っているということか。
「なんだ?」
答えると、扉が開いた。菜緒が顔を見せる。
「……あら? 椎名くんだけ?」
部屋の中を見渡して聞いてくる。
「あの馬鹿共は夜間警備だ。悠介は知らん」
扉の向こうから呼んだのは自分の名前だったので、他の誰かに用があったわけではないのだろう。それはわかっていたので、椎名はなんの用かと尋ねた。
菜緒は少しだけ声を抑え、
「その……そろそろ、決めてくれたかなと思って」
ここへ来て、今日で一週間になる。あの日から数えれば、もうすぐ一月になるということだ。それはつまるところ、彼女と出会ってからそれだけの時間が経ったということでもあった――いや、それ以前から同じ学校に通っていたわけだが、椎名は彼女の顔など知らなかったし、彼女の方も同じだろう。
(確かに、頃合いか)
椎名は立ち上がると、傍らに置いておいた刀を取り上げた。それを見て菜緒が驚いたような顔を見せるが、構わずに扉の方へと歩いて行く。
「え? ちょ、椎名くん?」
答えを聞くつもりでいたらしい彼女を押し退けて、椎名は部屋を後にした。そのまま廊下を歩き、建物の外まで来る。
「椎名くん、ちょっと待って!」
すぐに菜緒が追いついてきた。あの服装では走りにくいはずだが、その辺りは既にコツでも掴んでいるのだろうか。
「夜間の外出は駄目だって、聞いてるでしょう? それに、その刀も――」
「安心しろ。もう関係なくなる」
言い放ち、敷地内を進んでいく。周囲に灯りはほとんどなく、地面を照らしているのは月の光くらいだった。幸いその月の大きさが十分なので、足元に気を配る必要はないが。
「……出て行くつもりなの?」
菜緒の声のトーンが変わった。
足を止め、振り返る。
「そういうお前は、止めるつもりか?」
「椎名くんが出て行かないなら、その必要もないけど」
つまり、出て行くのなら引き留めるということだ。まあ、予想していた通りではある。
椎名は嘆息した。
「なんでお前に止められなきゃならない? 別にお前たちを誘って行くわけでもない。俺ひとりが勝手に出て行くだけだ」
「自分の勝手だろう、って?」
「俺が出て行くことでお前に迷惑がかかるか? 関係ねえんだから、放っとけよ」
こちらの言葉に彼女は食い下がってくるだろうと、椎名はそう予測していた。が。
少し、違う反応だった。
「じゃあ――関係があれば、考え直してくれるのね?」
取っ掛かりを見つけた、という口調だった。あるいは交渉の余地か、付け入る隙か。どれでも同じだが、なんにせよ菜緒はそれを活かそうとしているつもりらしい。
「どういうことだ?」
彼女が果たして自分のどこに活路を見出したのか、少しだけ興味をひかれた。この少女が他人の弱点をわざわざ攻撃しようとするなど、これまでには考えられなかったことなのだ。
菜緒は、なにやら決意を固めたような顔をしていた。言ってくる。
「椎名くんがずっと答えを出さなかった理由――確かめたかったんでしょう? ここが安全かどうか、じゃなくて……ここにいるひとたちに、自分が受け入れられるかどうか」
椎名は。
(……なに言ってんだ、こいつは)
呆れていた。見当違いにも程がある。
が、菜緒は続けてきた。
「前に言ってたでしょう? お互いを信頼なんてできなくてもいい。必要があれば利用する。それができればいいって」
「まあ、言ったな。それは」
「ここに来るまでわたしたちと一緒だったのは、そうする必要があったからよね? 必要があったから、わたしたちを利用した――それは間違いないわよね?」
「……ああ」
彼女がなにを言おうとしているのかがわからず――これも相当に珍しいことだ――椎名は短く答えた。
「だったら」
と、菜緒が周囲を示す。
「ここのひとたちと、それにここも。椎名くんにとって、利用できるものじゃないの? ここにいるよりひとりで出て行く方が、そっちの方が生き延びられる選択肢なの? 椎名くんにとって」
「………………」
椎名は答えなかった。
そうだ、と言うことはできる。ここにいるよりもひとりの方が安全だと、そう言ってやることはできる。だが――なんの説得力もない。彼女はそんな答えに納得しないだろう。
「ここは利用できる。ここにいた方が、間違いなく生き延びられる。それはわかってたけど、でもここのひとたちがそれを許すかどうか。それを、確かめたかったんじゃないの? それで――きっと拒まれるって、そういう結論を出した」
「…………」
椎名はまだ黙っていた。頭の中ではぐるぐると、彼女の言葉を否定できるものを、説得力を探している。
と、菜緒の声のトーンがまた変わった。
「でも、椎名くん。他人のことなんてどうでもいいって、自分の身を守ることが第一だって、本当にそう考えてるのなら――それしか考えてないなら、そもそも確かめる必要なんてなかったじゃない」
気がつくと、彼女は笑っていた。なにも言い返さないこちらに対する勝利の笑みではない。そういった類の笑いではない――
だが、ならば彼女が微笑んでいるのはなぜなのか。どういうつもりなのか。椎名にはわからなかった。
「さっきだってそう。わたしには関係ないって――自分が出て行くことでわたしに迷惑はかからないって、そんなことを、わざわざ気にかけてくれたのよね?」
そんなことはない。思い違いだ。自分はそんなふうに考えていたわけではない。そう断言できるのだが、しかし反駁の言葉がどうしても見つからなかった。
――観念して、椎名は嘆息した。じとりと彼女を見やる。
「……俺に、どうしろってんだ」
「簡単よ。拒まれないようにしながら、利用すればいいの。それはきっと、誰でもやっていることだから」
えらくあっさりと、菜緒は言ってきた。
「わたしたちだってあなたを利用することになるもの。だって、あなたは強いから。悪魔から守ってもらうつもりで、あなたに頼ることになる。だから――」
彼女は自分の胸に手を当てた。
そして、はっきりと。宣言するように。
「わたしは、あなたを拒まない」
そう告げてきた。
椎名は彼女の姿を見ながら。
(――本当に、天職なんじゃねえか?)
彼女を説得するのは無理なのだという結論に至った。そもそもそんな必要があったのかどうか、それもわからなくなっていた。
なぜだか妙に上機嫌な菜緒と別れて、部屋に戻ると。
「――あ」
部屋の中は、よくわからないことになっていた。いつの間に戻って来たのか、敏樹と千晴、それに浩一と悠介がいる。聞こえた声は浩一のものだったが、悠介以外の三人はこちらを見ていた。
が、すぐに椎名は思い出した。
「お前ら、警備に出て――」
言い切るよりも早く、敏樹と千晴がこちらを突き飛ばし、部屋を出て行った。残された二人のうち、浩一が慌てたように声を上げる。
「え? ちょ、待ってよ二人とも!」
同じように部屋を出て行こうとするが、椎名は腕を伸ばして彼の襟を後ろから掴んだ。浩一は苦しげな声を上げるも、構わずに尋ねる。
「サボりか?」
「ち、違――あ、いや、その」
浩一が否定しかけて、しかしすぐに言い淀む。椎名は眉をひそめ――
「……おい、悠介?」
ようやく、先程からひとりだけなんの反応も示していない悠介のことに思い当たった。床にうつ伏せに倒れ込んでいる。
――扉を開けた時、浩一達は悠介の周りを取り囲むようにしていた。椎名は浩一の襟を引き寄せ、
「おいお前ら、あいつをどうした?」
「ぼ、僕じゃない! 殴ったのは敏樹だ!」
「殴っただと? お前ら、一体なにを――」
言いかけて。
(……そういうことか)
ようやく、椎名は思い当たった。警備に当たっていたはずの彼らがここにいる理由。そして悠介が倒れている理由も。
椎名は浩一の襟を掴んだまま、部屋を飛び出した。
「――だから、なんでもねえっつってんだろ。いちいちアタシらのやるコトに口出してくんなよ、うっぜえ」
部屋に戻ったはずの菜緒が京香となにかを言い合っているのが見えた。
「相澤!」
「え?」
「こいつを見てろ!」
驚いている様子の菜緒の返事は待たずに、浩一を彼女の方へと突き飛ばす。椎名は即座に外へ出た。
(あいつらは……)
辺りを見回すと、すぐに見つかった。まだそれほど距離は開いていない。椎名は全速力で彼らの後を追った。
(クソが。なんでよりによって、俺と同じタイミングなんだよ)
これじゃ俺とあいつらの思考が似てるみてえじゃねえか、と胸中で毒づく。あるいは先程の菜緒との会話を聞かれていた可能性もあるが。
二人はこちらの接近に気付いているようだったが、だからといってどうなるものでもない。速いのはこちらの方なのだ。
一分とかからず、椎名は二人に追いついた。先程浩一にしたのと同じように後ろから襟を引っ掴み、ただし今度は容赦なく引きずり倒す。
「だっ!?」
悲鳴を上げて転倒する二人を見ながら、椎名は足を止めた。もう少しで教会の敷地を出るところだったが、ぎりぎり間に合ったらしい。
「クソ、なんなんだよ……なんで追っかけてくんだよ!?」
倒れたまま敏樹が悪態をつく。椎名は、はあ、と息を吐き出した。
「ったく、わかっちまうのも気分が悪いな」
「あ!?」
こちらの言葉の意味がわからなかったのか、千晴が聞き返してくる。椎名は二人の姿を見下ろし、
「出て行くつもりだったのか? ここから」
言うと、二人は黙り込んだ。こちらからは視線を逸らしているが。
(……図星か)
二人の様子から断定して、椎名はもう一度嘆息した。
「あいつに残るって言っちまった後だからな……一応、理由を聞いておこうか」
「あ? 理由?」
「出て行く理由だ。なんでわざわざ、ここより明らかに危険な方を選ぶ?」
それを自分が尋ねるというのも、おかしな話ではある。菜緒にああ言われるまでは、自分も正にそうするつもりだったのだから。
「だ、だってよ……」
「めんどくせえんだって、ここ」
やはりこちらは見ないまま、二人は言ってきた。
「確かに、ここは安全なのかもしんねえけど……なんつーか、息苦しいんだよ。やらなきゃいけねえコトはありまくるし、ちょっと休んだくれえでぎゃあぎゃあ言われるし」
「今日なんか、俺ら仕事サボってたワケじゃないんだって。呼ばれたから手伝いに行ってただけだってのに、後から文句言ってくんだよ? ふざけんなって感じ」
「……ほう」
とりあえず、言いたいことはあったが。しかし椎名はそれを口にせず、二人に尋ねた。
「要するに、ここでの生活が――というより、ここでの仕事やら規則やらが、煩わしくなったってことか?」
「まあ、はっきり言えば」
臆面もなく、千晴が肯定してくる。
再び言いたことが喉の奥からせり上がってくるが、椎名はそれも飲み下した。
「なるほどな。それでここでの安全よりも、外での自由を選んだ、か。……お前ら、相当の阿呆だな」
きっぱりと、椎名は断言した。二人が弾かれたように顔を上げてくるが、なにを言わせるよりも先に後を続ける。
「お前らだけでここを出て、それでやっていけると思ってんのか? 外には悪魔がいる。そりゃここだって安全の保障があるわけじゃねえが、少なくとも外よりマシなのはお前らの頭でもわかるはずだろ」
言いながら、しかし椎名は自覚していた。これは菜緒から言われたことをそっくり繰り返しているだけだ。彼らの愚行を指摘するというのは、つまり自分のそれを掘り返しているのと同じなのだ。まったくもって、忌々しいと言うほかない。
だがこちらの言葉に、二人の表情にはこれと言った変化は現れなかった。なにか、こちらの見落としを嘲っているようにも見える。こちらが気付いていないなにかを、隠し持っているような。
――しかしそれにも、椎名は見当がついていた。
「悪魔召喚プログラムか」
はっきりと。二人の顔色が変わる。
椎名は更に続けた。
「あのプログラムがあればどうにかなる――そう考えたんだろ? ま、着眼点は良かったと思うがな」
二人は答えない。打って変わって、気まずそうに目を逸らしている。
「悠介からパソコンごと奪おうとしたってところか。で、抵抗されたからぶん殴った――違うか? 違うならはっきりそう言え」
否定も肯定も、どちらの声もなかった。別に構わない。裏付けなど必要ない。
「プランクはどうするつもりだったんだ? 一緒につれてくつもりだったか? だとしたら、お前らは救いようのない阿呆だ。手の施しようもないくらいのな」
「……どういう意味だよ」
ようやく、千晴が反応した。ただし、少しばかり意外な反応だったが。
「まだ気付いてなかったのか。あの犬が、お前らにのこのことついて行くとでも思ってんのか? 断言するが、ねえよ」
「だから、そりゃどういう意味だっての」
まだわかっていない。だが椎名は彼等の理解を待つつもりもなかった。わからないというのなら、わからせてやるのが手っ取り早い。
「駐屯地にいた自衛隊員を殺ったのは、お前らだな?」
「――!?」
二人の顔が驚愕に歪む。いきなり喉元に刃物でも突き付けられたような、そんな表情だった。
「気付いてないとでも思ってたのか? 確かに相澤は気付いてないみたいだが――俺だけじゃない、気付いてるのは」
そこで、千晴がはっとしたように口を開いた。ようやくこちらの言おうとしていることに理解が及んだらしい。敏樹の方はまだわかっていない様子だったが。
盛大に舌打ちして下を向く千晴の姿を見下ろしながら、椎名は言い放った。
「プランクもだよ。あいつは最初っから気付いてた。だからずっとお前らに気を許さなかったし、見張ってやがったんだ」
と、敏樹の方を見やる。
「お前が感じてた視線ってのは、プランクのだったんだ。悪魔なんかじゃなくな。……あの男が死ねば、食料を全部持ち出せる。そう考えたわけだな?」
「……ああ、そうだよ」
千晴がばっと顔を上げた。
「けど、それがなんだってワケよ!? お前だって散々言ってたじゃん! 他人のことなんざ知ったこっちゃない、自分の身を守るだけで手一杯だって! それと同じことだよ! お前に文句言われる筋合いはねえだろ!」
「自分が生きるために他人を殺しただけ、って言いたいのか?」
椎名は聞き返し――視線を二人の後ろへと向けた。
「だそうだ。どう思う、相澤?」
「――!――!!」
椎名の眼前で座り込んだままこちらを見ている敏樹と千晴に、菜緒は叫ぼうとしたが。
「ちょ、お願いですから静かにしてください! 見つかっちゃうじゃないですか!」
背後からこちらを羽交い絞めにしたままの浩一が、慌てた様子で口を塞いできた。なので言葉にならない。
「……なにやってんだよ」
椎名が心底から呆れたような視線と言葉を向けてくるが、口を塞がれているので反論もできなかった。
別に好きでこうしているわけではない。騒がれると面倒そうだし、という理由でこうするよう浩一に命じたのは京香だったが、それほど体格がいいわけでもない彼にこんな腕力があるとは思っていなかったのだ。まあ自分が浩一よりも腕力と膂力に優れているのかと聞かれれば、かぶりを振るしかないのだが。
が、それはともかく。
「なに? バレてたん?」
こちらの後ろを歩いていた京香がしれっと言うのを聞いて、菜緒はもう一度驚く羽目になった。
――駐屯地で、あの自衛隊員を殺害したのが、悪魔ではなくこの少年達であると。
はっきりと自分の耳で聞いたにも関わらず、菜緒はまだ信じられなかった。それも食料をすべて持ち出すという、ただそれだけの理由で。
「――相澤は、見ての通りの反応だが」
と、椎名が敏樹と千晴へと視線を落とす。
「ま、そこはお前の言い分も正しい。確かに俺にお前らのやったことをどうこう言う資格はねえし、別にそのつもりもない」
(椎名くん!?)
信じられない思いで菜緒は目を見開いたが、彼は気にした様子もなく、
「ついでに言うと、俺はお前らがここを出て行こうが、まったく構わん。ここが嫌だってんなら勝手にしろよ」
「――!?」
菜緒は再び声を上げようとしたが、やはり言葉にならなかった。お願いですからホントに、と背後から浩一の声が聞こえる。
僅かに、椎名の表情が変わった。
「……お前らが本当に、ここの安全よりも外の自由を求めるなら、その覚悟があって出て行こうっていうのなら。俺は止めるつもりはない」
椎名が再びこちらに視線を寄越す。
「相澤、お前はどうなんだ? 結局のところこいつらの生き死にを決めるのは、こいつら自身だ。ここに残るのも出て行くのも、こいつらのことを決めるのはこいつらだ。俺たちが口出しするようなことじゃない」
(……それは)
「言っとくが、俺は俺が自分で決めたんだからな? 別にお前にああ言われたからってわけじゃない……こともないが、だからってお前に俺の決定の責任を取ってもらおうなんざ思ってねえ。――って、これは前にも言ったか」
駐屯地でのことだろう。確かにあの時にも似たようなことは言われた。
「こいつらの決定の責任は、こいつらに取らせる。それだけだ。お前はどうなんだ? こいつらの保護者面して、なにも決めさせないつもりか?」
我知らず、菜緒は視線を下げていた。
――自分は彼らの保護者などではないし、彼らだって自分にそんな役割は求めていないだろう。ここに残るのは確かに出て行くよりも安全な選択肢に違いないが、しかしそれを押し付けることはできない。押し付けてしまうのなら、自分はそれに対する責任を取らなければならなくなる。そんなことは、きっと不可能なのだ。自分以外の誰かの決定の責任を負うなど。
浩一の手が、こちらの口元から離れた。返事を聞こうとしたのだろう。
菜緒は口を開いた。
「……わたしは、やっぱり反対」
項垂れたまま、ゆっくりと告げる。
「出て行きたいなら出て行けなんて、そんなことは言えない。外には悪魔がいるんだもの。あなたたちは悪魔に殺されるかもしれないし、逆にあなたたちが、生きるためにこの先も誰かを殺すかもしれない」
人を殺すなど、想像もつかない行為だった。だが――この少年達は、既にそれをしてしまっている。
「だから、送り出すことなんてできない。できないけど」
目を閉じる。いつの間にか涙がこぼれていた。なにに対する涙なのかはわからなかったが。
「でも――止める資格が、わたしにはない。わたしにも、椎名くんにも。きっと、誰にもない」
それが悔しいのだろうか。だから自分は泣いているのだろうか。だとしたら、それは理不尽な涙だ。そんな資格など誰にもないと自分で言っておきながら、わかっていながら、それを悔しいと感じているのなら。
こちらの言葉を返事と受け取ったのだろう、椎名がつぶやくのが聞こえた。
「……行けよ」
敏樹と千晴が立ち上がった。そのまま無言で歩き、こちらを羽交い絞めにしたままでいる浩一に敏樹が声をかける。
「おい、離して――」
その時。
敏樹の背後にいた千晴の表情が、僅かに動いたように見えた。
「――いや、離すな浩一」
「え?」
なにを言われたのかわからなかったのだろう。敏樹の言葉に従って腕を放そうとした浩一の動きが止まる。次の瞬間。
「――っ!?」
不意に千晴の腕がこちらへ伸びたかと思った直後、呼吸が止まった。同時に、視界が白む。平衡感覚が速やかにどこかへと失せる。吐き気も込み上げてくる。
――腹を殴られたのだと理解したのは、椎名の声が聞こえた時だった。
「おい!? なにを」
「動くな」
彼の言葉を遮り、千晴が告げるのが聞こえた。こちらは殴られた衝撃で身体をくの字に折り曲げているので、見ることができない。
「おい浩一。絶対に、離すなよ」
「ど、どういうことなの千晴?」
戸惑う浩一には答えず、千晴はこちらの頭を掴んできた。そのまま強引に前を、椎名の方を向かされる。
「あ、あなた、なにを……」
辛うじて声を絞り出すが、直後に今度は頬を思い切りはたかれた。
「おい!」
「だから動くなっつってんだろ椎名。お前がそこから一歩でも動いたら、こいつにもっと痛い目に遭ってもらうからな」
――なにを、言っているのか。
さっぱりわからない。だが椎名が踏み出しかけていた足を止め、千晴に対して凄まじい形相を向けているのだけはどうにか理解できた。
「おい敏樹」
「あ?」
ぽかんとした表情で千晴の行動を眺めていた敏樹が、名を呼ばれて我に返る。彼も状況に理解が追いついていなかったらしい。
千晴は薄ら笑いを浮かべていた。一体なにがおかしいのか、菜緒にはやはり理解できなかったが。
「思えば、椎名の野郎には世話んなったよな? 色々と」
「あ、ああ……?」
「俺らがここから出て行くとなりゃ、もう会うこともねえよなぁ?」
千晴の、その言葉で。敏樹の表情も変わった。はっと息を飲み――そして、千晴のそれと同じ笑みを見せる。
彼らがなにを言っているのか、やはり理解できない。こちらの見ている前で、敏樹が椎名に近づいて行き――唐突に、殴り倒した。
「椎名く――」
叫ぼうとした口を、横から塞がれた。浩一のものではない。京香だった。
「黙ってろよ。また殴られたいか?」
ぞっとするような声色だった。彼女の口からは一度も――いや、生まれてから一度も耳にしたことのないような。
敏樹に顔面を殴られて転倒した椎名が立ち上がるのが見えた。それを待ち構えていたように、再び敏樹が今度は椎名の腹に拳を減り込ませる。
「……っ!」
椎名は悲鳴を上げなかった。先程と違って倒れもしない。歯を食いしばりつつ、敏樹の顔を凄絶な表情で睨みつけている。
「なんだよ、そのツラ。うぜえ」
椎名の顔に向かって、またしても敏樹が拳を叩きつけた。椎名が仰向けに倒れる。
その様子を見ながら、千晴がこの上なく楽しそうな声を上げた。
「おいおい、どうしたんだよ椎名? なんで抵抗しねえの? もしかして、コイツのこと心配とかしちゃってる?」
再び頭を掴まれる。千晴はこちらの頬――先程叩かれたのとは反対側だ――に手の甲をぴたぴたと当てながら、
「コイツが殴られるのがイヤだっての? うわダッセえ。死ぬほどカッコわりいよ、そーゆーの」
椎名は何も言い返さなかった。と言うより、できないのだろう。倒れたまま何度も敏樹に蹴られ、起き上がれないでいる。
椎名の顔は既に別人かと思えるほどに変形し、口と鼻から流れる血が止まる気配を見せなかった。何度目になるかわからない敏樹の蹴りを受けた後、一際大きく喀血する――内臓をやられたらしい。
「――!!――!!」
口を塞がれていようと構わずに、菜緒は何度も叫んだ。浩一の腕からも逃れようともがいているが、振り解けない。
甚振られる椎名の姿を、ただ見ているしかない。涙を止めようなどとは思わなかった。
……何度も、何度も蹴られ、何度も地面を転がされて。
やがて、椎名の身体が動かなくなった。
「――!」
塞がれたまま叫び続けていたせいで、喉から血の味を感じる。だがそんなものにはまったく構わず、菜緒はもう一度叫んだ。倒れた椎名がそれに反応することはなかったが。
「おーい、うさぎちゃん。もうくたばっちまったか?」
倒れた椎名を見下ろし、敏樹が呼びかけた。蹴るのに疲れたのか、若干息が荒くなっている。
「おい、うさぎちゃんよ。……返事くらいしろよ、クソが」
椎名はぴくりともしなかった。吐き出した血と流れ出した血で広がったどす黒い血溜まりに横たわったまま、呼吸すらしていないように見える。
「……んだよ。もちっと楽しませろよ。散々大口叩いてたクセにコレかよ」
敏樹は倒れた椎名に唾を吐きかけると、その場に屈み込んだ。そして――彼のベルトから外れて転がっていた刀を拾い上げる。
(――やめて!!)
なにをしようとしているのかは明白だった。
敏樹は刀の切っ先を下に向け――なんの躊躇いもなく、椎名の首に突き立てた。
(……!!)
刀はすぐに引き抜かれ、そして今度は胸へと突き立てられた。それもすぐに引き抜き、次は腕へ、更に次は腹へ、顔面へと、敏樹は椎名の身体を切り刻んでいく。既にどちらも、人間のそれとは思えない――椎名の身体も、愉悦に歪んだ敏樹の顔も。
(…………)
もう言葉にならなかった。なにを叫べばいいのかわからない。なにも思いつかず、考えられない。
――なにも、考えられなかったので。
「……つまんねーの。おい京香、見張りの交代まであと何時間ある?」
「ん。四時間ってトコ」
「まだまだ余裕ってこったな。……つーワケよ。うさぎちゃんはさっさとダウンしちまったみてーだしさ」
千晴の手がこちらの襟を掴んでも、菜緒はなんの反応もできなかった。
「てめえは、もうちょっと楽しませろよ?」
彼の顔面に張り付いた下卑た表情の意味も、わからなかった。
わかりたくなかった。