予感があった――と言えば、それは嘘になる。断言してもいいが、こんな事態は予測の埒外だった。自分の想像力はそこまで逞しくも豊かでもない。
……仮に想定の範囲内だったとしても、適切な対応を取れていたとは思えないが。
ともあれ、
冷静?
その言葉を意識する事で、少しだけ――本当に少しだけだが――冷静にはなれなくとも、眼前の光景を理解すべきであるという思考が働いた。自分の理性に這いつくばって礼を言いたい気になりつつ、しかし同時に恨みがましくも思う。ああ、どうしてわたしの頭はこんな事態を受け止めようなんて思ってしまったのだろう。
落胆は一瞬で、理解は更に短い一瞬で済んだ。とりあえず菜緒は。
「きゃあああああああっ!」
悲鳴をあげることにした。ついでに腰から力が抜け、その場にすとんと尻餅をつく。我ながら情けない反応だ、と先程冷静になった頭の僅かな部分が指摘してくるが、聞いていられない。立ち上がれないままずりずりと後ずさる。
「なな、な、なにを……?」
疑問を口にして、即座に浮かんだのは、昔友人の家で見たことのあるゲームの一場面だった。タイトルは忘れてしまったが、似たような光景だった、と思う。いや、映画だったろうか?
とするとこれは、あれだろうか。ゲームか映画のワンシーンを、脳が勝手に再生しているのだろうか。最近の3D技術は凄まじい勢いで進歩していると聞くし。
いつまで経っても現実逃避をやめようとしない頭を持て余している間にも、目の前のそれはゆっくりと立ち上がった。その口には、今の今まで咀嚼していたものがべっとりと付着している――人間の血が。
「ひっ……」
胸の下、胃の辺りが引きつる。生理的な嫌悪感からか、恐怖からか。あるいはもっと別の感覚に引きずられてか。
――男、だろう。それは自分の記憶を辿ってみても間違いないと断言できる。ちょっとそれはやり過ぎではないかと思えるほど日焼けしているが、恐らく日焼けではなく単に土気色になっているだけなのでどうでもいい。
見覚えは、あった。いや、随分と面変わりしているので確信を持ってそう断言することはできないものの、それでも面影はある。よく知っている顔と言ってもいい。
「む、
恐る恐る、呼びかける。しかし返事はなかった。
「そ、その人に、なにを……?」
菜緒が示したのは、彼の足下に倒れている看護士だった――喉の形が少しばかり歪になり、しかもそこからどくどくと血を流し続けているが、まあ看護士だったことには違いないだろう。
と、それらを完全に視界に入れたところで。
ようやく、頭が状況を整理してくれた。してほしくはなかったのだが。
「せ、先生……? まさか、その人……先生が……?」
やはり返事はない。男は妙に落ち窪んだ眼窩にこれも奇妙な色の眼球を覗かせたまま、こちらを見据えているのみ。
つまりこれは……あれだろうか。
目の前の男が。あの看護士の喉笛を。噛み切ったのだと、そういうことなのだろうか。
そして、その男が。口元に看護士の血を付着させたままの男が。
こちらに、一歩を踏み出した。
――失禁しなかったのは、我ながら大した自制心だったろう。代わりに菜緒が、というか菜緒の身体が取った反応は、思い切り後ろに下がるというものだった。一瞬だけ遅れて、直前まで自分が座り込んでいた場所へ男が倒れ込む。というか、飛びかかったのか。
「ひっ!」
ああ、悲鳴というのは、別に意識しなくても勝手に漏れるものなのだなあ、などとぼんやりと思いつつ、菜緒はそのまま部屋のドアに背中から激突するまで後退していた。見ないままに手を伸ばして取っ手を探ると、それを掴んで立ち上がる。
「だ、誰か……」
男から目を離すことはできなかった。ひどくゆっくりとした動作で立ち上がろうとするその姿を見ながら、後ろ手に取っ手を回し――
「……誰か! 助けてください!」
叫び、菜緒は病室を飛び出した。そのまま廊下をひた走り――
「助けて――助けて! ひと、人殺しです! 誰か――」
ぴたりと、足を止めた。廊下の角から、人影が現れたのだ。先程の男と同じく全身土気色で、更には口の周りのどす黒い液体までもがそっくり同じな。
いや、違った。よく見れば口だけでなく、両手にも血が付いている。なぜそんなところにそんなものが付いているのか、想像したくはないが。
「…………」
もう一つ、新発見だった。悲鳴というものには残量があり、底をつくのは意外と早いものらしい。
菜緒は即座に踵を返し、たった今走ってきた廊下を逆走し始めた。すぐに先程の男が視界に入る――ちょうど病室から出ようとしているところだった。
立ち止まるつもりも、振り返るつもりもなかった。恐らくこれまで生きてきた中でも自己最速ではないだろうかと思える程の速度で病室の前を横切り、階段の手前まで一気に走り抜ける。
そこまで来てやっと立ち止まり、菜緒は振り返った。廊下には――人影が、四つ。
(増えてる!?)
増えた二つの人影は、先の二人と限りなく似通った様子だった――土気色の肌に、どこを見ているのか判然としない視線。そして、ひどく緩慢な動作であるものの、こちらに向かってきているという点。菜緒は躊躇わずに階段を下りた。
(なんなの!? なんなの、これは!?)
わけがわからず、おまけに疑問を明確な形にすることもできず、胸中で叫ぶ。
(だって、先生……死んだって言ってたじゃない!)
あの男――村中は、菜緒の通う高校の教師だった。それが交通事故に遭ったという連絡が入ったのは、昨日の事だ。病院に運ばれたが、その日のうちに息を引き取ったと聞いており、自分は生徒の代表としてこの病院を訪れた。
そして待っていたのが、先程の光景だった。別人かと思える程に、というか別人としか思えない程に面変わりした村中と、その村中に喉を噛み千切られていた看護士の姿。
思い出すと共に吐き気が込み上げてくるがどうにか堪えて、菜緒は階段を下り終えた。まずどこに駆け込むべきか――などと考える余裕もなく。
「…………」
今度こそ、菜緒は言葉を失った。
視界に飛び込んできたのは、自分が本当に階段を下りたのか疑わざるを得ない光景だった。土気色に染まった干物のような肌をした人影。それがいくつも、廊下を徘徊している。恰好も様々だった。入院患者や医師、看護士が多いが、そうでないものもいる――よく見れば(よく見たくはなかったのだが)警官の制服姿もあった。
足が止まる。止めざるを得ない。
(ゾ……)
そしてようやく、菜緒はその単語を記憶の片隅から引っ張り上げることができた。
(ゾン、ビ……?)
断言できなかった理由は簡単で、それが本当にそういったものであるのか、確証がなかったからだ。本物と並べて比較してみれば確実なのだが、生憎と生粋のリビングデッドに知り合いはいないので却下するしかない。あるのはサブカルチャーの類から仕入れた漠然としたイメージだけで、それにしたところで歩き回る死体という以上の認識を、菜緒は持っていなかった。
ともあれゾンビ(仮)の群れがこちらの存在に気付くのは、間違いなく菜緒の身体の硬直が解けるよりも早かった。幽鬼のような足取りで(なんの比喩にもなっていない)一斉にこちらへと向かってくる。それを認めたところで、金縛りが解けた。
(に、逃げないと……!)
だが、どこへ逃げればいいのか。一瞬だけ考えると、とりあえず菜緒は最もゾンビの少なそうな通路に向かって走り出した。だが、確かこっちは――
(……行き止まり!?)
ではなかった。見えたのは二つ並んだトイレの入り口だ。
――それだけだった。出口も通路も、一切見当たらない。
振り返ると、案の定と言うかなんと言うか、ゾンビ達がこちらへ迫ってきている。トイレに隠れようにも既に丸見えだった。ならば個室に籠もって鍵をかけるか――?
(…………窓!)
逡巡の果てに、菜緒はその単語に行き着いた。そうだ、トイレなら窓くらいあるはずだ。ここは一階だし、抜け出すことができるかもしれない。自分が通り抜けられないほど小さな窓しかないかもしれない、とは敢えて考えなかった。
(ダイエットしておけば良かった、なんてことがありませんように……!)
祈りながら、女子トイレの扉に手をかける。そして。
凄まじい音を立てて、扉が開かれた。
――隣にある、男子トイレの扉が。
(へ?)
思わず動きを止め、そちらを見やる。男子トイレの中からいきなり誰かが転がり出てきたのだ。白衣を着た、ゾンビが。
仰天し、慌ててその場から遠のくが、そのゾンビはこちらを見ていなかった。たった今転がり出てきた向こう――男子トイレの中へ顔を向けている。
その直後、男子トイレの中から、もうひとつの人影が飛び出してきた。
(……え!?)
再び驚いて、目を見開く。後から飛び出してきた誰かは倒れた白衣姿のゾンビの頭に向かって靴底を叩きつけ、そのまま脚を振り抜いた。為す術もなく蹴倒され、ゾンビが床に転がる。
まともな人間であれば頭蓋骨が陥没なりしていてもおかしくない衝撃だったはずだが、しかし白衣のゾンビはすぐに顔を上げた。自分の頭を蹴り飛ばした相手を見据えながら、ゆっくりと起き上がろうとしている。その姿を見て、後から出てきた人影が舌打ちをするのが聞こえた。
「なんなんだ、こいつ……なんで平気なんだよ」
言いながら、ゾンビに向かってなにやら構えのようなものを取る。と、そこで視線を逸らした。
「……ん? おい、お前……」
こちらの存在に気が付いたらしい。菜緒は口を開こうとしたが。
「……危ない!」
飛び出したのは、言おうとしていたものとは違う一言だった。それに反応したのかどうかはわからないが、その少年――そう、少年だった――は即座に白衣ゾンビの方へ向き直ると、先程から手にしていた消火器をゾンビの脇腹へと横殴りに叩きつけた。さっきのものよりも更に強烈な一撃を受けて、ゾンビが奇妙な姿勢のまま壁際まで吹き飛んでいく。
――見ると、少年の持っている消火器は微妙にひん曲がっていた。つまりはそれほどの勢いで叩きつけられたということなのだろうが、あれではぶつけられた側の肋骨がぐしゃぐしゃになっていたとしても不思議ではない。そしてその予測を裏付けるように、白衣のゾンビは身体をくの字に折り曲げながら立っていた。
……立っていた。間違いなく肋が悲惨な状態になっているにも関わらず、表情を変えもせずに、傾いた顔を少年へと向けていた。
「こいつ……本当に、ゾンビかなんかか?」
うんざりしたような声音で、少年が呻く。ゾンビから一歩離れながら、
「おい。あんたはゾンビじゃねえな?」
それが自分へと向けられた言葉であるとすぐに気付けなかったのは、少年が視線を動かさなかったからだろう。
「……えっ?」
状況に思考がまったく追いつかず、間の抜けた声を上げる。少年は繰り返してきた。
「あんたは、こいつらとは違うな? 人間……だよな?」
僅かに言い淀んだ理由は、目の前にいる相手を人間でないと断じてしまってよいものかどうかわからなかったからだろう。それは菜緒としても同じ心持だった。
ともあれこの少年が、周囲のゾンビのようなものとは違い、少なくとも会話が通じる相手らしいと菜緒はようやく気が付いた。慌てて口を開く。
「あ、あの、はい。って言うかあなた、その制服、うちの学校の……?」
「あん?……あ、そういやその制服、うちの女子のか」
菜緒の指摘に少年の方も気付いたらしく、ちらりとこちらへ視線を向けながら言ってくる。
「いや、話してる場合じゃねえな。こいつらをなんとかしないと……」
再び近づいていた白衣姿のゾンビの顎を消火器で打ち据えながら、少年がつぶやく。すくい上げるような一撃にゾンビが仰向けに倒れていくのを眺めながら、菜緒は少年の背中に向かって声をかけた。
「こ、この人たち、一体なんなの? なんでこんな……」
「俺が知るか。ヤバい実験でもやってたんじゃねえのか、この病院?」
吐き捨てるような少年の言葉に、そんなゲームじゃあるまいし、という反駁が思い浮かんだが、それを口にするだけの余裕はなかった。というか、口にしたところで説得力などなかったに違いないのだが。
「とにかく逃げるぞ。突っ切るから、走る準備しろ」
「え?」
彼の言葉の意味が即座には理解できず、聞き返す。
「突っ切るって……まさか、あっちを?」
自分が先程走ってきた方の廊下を指差す。言うまでもないが、ゾンビ達がひしめいていた。
「出口は向こうにしかねえんだから、当たり前だろ。あいつら動きはトロいみたいだから、立ち止まらなけりゃなんとかなる」
「ト、トイレから出られないの!? 窓とか――」
「格子がはまってるよ。見てねえのか?」
「そ、そんな……」
顔面から血の気が退散していくのが自分でもわかった。
――突っ切る? あの中を?
たちの悪い冗談かなにかとしか思えなかった。少年の提案も、目の前の光景も。だが抗弁しようと考えている間にも、既に少年は走り出す体勢を取っている。
「あ、あのわたし、走るのはあまり得意じゃ――」
「……行くぞ!」
こちらの言葉が届いていたのかいないのか、言うや否や少年は駆け出していた。彼がすぐ目の前にいた白衣姿のゾンビを再び消火器で殴り倒すのを見てから、こちらも後に続く。倒れたゾンビのすぐ横を祈るような心持で駆け抜けた――実際、祈るしかないのだが。
群がるゾンビ達に肉薄するまで、数秒とかからなかった。彼らはこちらの進路を妨害するという発想には至らないのか、緩慢に腕を伸ばして掴みかかろうとしてくる。ただしその動きもそれぞれバラバラで、連携を取ろうというつもりは皆目見られなかった。
(こ、これなら、いける、かも――?)
一番近いところにいたゾンビの腕を頭を下げて避け、少年の背中を追う。見た限り彼は明らかに自分より健脚のようだったが、進行方向にいるゾンビに向かって消火器を振り回しながら走っているため、追いつけない程の速度は出していない。消火器を持ったまま走ることができている時点で、菜緒にとっては信じられないのだが。
ともあれ少年が先んじてかき分けてくれているおかげで、菜緒は覚悟していたよりはゾンビに接触せずに済んでいた。横から伸びてくる腕を避けるために何度も速度を落とす羽目になったが、それでも少年の背中を見失うほどではない。
と、思っていた矢先に。
がくん、と身体が引っ張られ、菜緒は足を止めてしまった。背後から伸びてきたゾンビの腕に肩を掴まれている。
「ひ……!」
慌てて振り解こうとするものの、ゆっくりとしたゾンビの動作からは信じ難い程の力だった。痛みすら覚えるほどに。
「た、助け――」
「自分でなんとかしろ!」
思わず漏れ出た悲鳴に、しかし少年がきっぱりと吐き捨てる。
(なんとかって――)
考えようにも纏まらず、菜緒は身を捩った。しかしゾンビの腕力は明らかにこちらのそれよりも強く、このままでは動けないどころか肩が外れてしまうかもしれない。
そして足を止めている間にも、周囲のゾンビが近づいて来ていた。もう何秒も持ちそうにない――
と、思った瞬間。
前触れなく、轟音が響いた。
「……っ!?」
真横から聞こえた破裂音のようなものに耳をつんざかれ、菜緒はバランスを崩した。こちらの肩を掴んでいるゾンビに向かって倒れ込みそうになる。どうにか転ばないように踏ん張ると――呆気なく肩から手がするりと離れ、ゾンビだけが仰向けに倒れていた。
(……え)
倒れたそのゾンビを呆然と見やる。額になにか、黒っぽい斑点のようなものができていた。
「……い! さ……と来い!」
妙な声らしきものが聞こえてそちらを向くと、少年がなにやら口を動かしているのが見えた。のだが、なぜか声がよく聞き取れない。
が、少年が何を言っているのか、ということよりも。菜緒は彼が消火器ともうひとつ、手に握っているものを見て目を剥いた。
拳銃だったのだ。
(あれで、ゾンビを撃ったの……!?)
となると、先程聞こえたのは発砲音だったのだろうか。菜緒は慌てて彼の方へと駆け寄り、
(あなた、どうして拳銃なんて持ってるの!?)
と尋ねたつもりだったのだが、なぜか言葉にならなかった――いや、聞こえなかっただけだ。一時的なものだろうが、どうやら先程の音で耳がどうにかなっているらしい。
少年は答えずに(答えたのかもしれないが、聞こえなかった)さっさと踵を返し、再びゾンビの只中を走り始めた。こちらもその後を追う。
「……あなた、どうして拳銃なんて」
聴覚が戻ってきたのを確認してから、改めて問い詰める。少年は煩わしげな口調で、
「警官のゾンビからパクったって言ったろうが!」
ああ、そう言えば。菜緒は思い出していた。あのゾンビの中に、制服姿の警官も紛れていたような。
少年は再び行く手に見えるゾンビに向かって消火器を振り上げようとして、しかしちっと舌を鳴らした。
「おい」
「な、なに?」
「両手が塞がってちゃやりにくい。お前が持ってろ」
「え?」
なにを? と聞く間もなく。少年は小銭でも放るような手つきで、拳銃を投げてよこした。
「――ええっ!?」
反射的に掴みはしたものの、ずしりとしたその重さに取り落としそうになる。言うまでもなく、触ったのも持ったのも初めてだ。
「こ、こんなの、持っててどうしろって言うのよ!?」
「撃つに決まってんだろうが! 寝ぼけてんのか!?」
「撃ったことなんてないわよ!」
「ゴム外してあるだろ!? トリガー引くだけだ!」
ゴムというのがどれの事かはわからなかったが、説明はそれだけだった。
「そんなこと言われたって……」
迂闊に触ったら暴発するのではないかと思いつつ、グリップに手を添えてみる。幸いなことにそれだけでは暴発しなかったが、なるべく銃口を自分から遠ざけるように、菜緒は腕を伸ばして拳銃を構えた。
(走ったら、振動で弾が飛び出たりしないかしら……?)
目の前で少年の消火器に殴り倒されているゾンビも脅威だが、生まれて初めて触れる武器もまた、菜緒にとってはこの上ない脅威だった。脚だけでなく全身に力を込めているような心持で、慎重に走る。
と。
「……っ!?」
少年が息を飲むのがわかった。続いて、がきん! と金属的な鈍い音が響き渡る。驚いてそちらを見やると――
(……え?)
思わず、菜緒は足を止めてしまっていた――少年もだ。ただし彼の場合は、止めざるを得なかったというのが正しいか。
少年は消火器を振り回していなかった。むしろ盾代わりに前方へと突き出している。そしてその消火器の中程に、なにか細い金属の棒のようなものが食い込んでいた。
――言葉を失う。理解が追いつかない。意味が分からない。つまりは、呆然としていた。少年の目の前に、少年が立ち止まらざるを得なかった原因が立っている。
有り体に言うならば、それは。
剣を構えた、骸骨だった。
「な……」
信じられないといった様子で、少年が呻き声を上げるのが聞こえた。まあ、無理もない。自分も似たような心境なのだ。
ゾンビの次は、骸骨ですって?
頭のどこかが麻痺してきたのか、思わず愚痴がこぼれてしまう。これじゃもう、B級映画の世界じゃないの。
少年の前に立つその骸骨は、手にした剣を消火器へと減り込ませていた――菜緒のそれよりも更に細いその腕の、一体どこにそんな力があるのかと疑いたくなる勢いで。力負けしているのか、少年が骸骨を睨みつけたまま後ずさる。
咄嗟に、菜緒は腕を上げていた――拳銃を持ち上げ、銃口を骸骨へと向ける。
「撃――」
少年がなにかを言いかけ、しかし口を噤んだ。撃て、と言おうとしたのか、それとも撃つな、と言おうとしたのか。だがどちらにせよ、菜緒はそこで動きを止めてしまった。
……骸骨までは、二メートルもない。当てる自信などまったくなかったが、しかしまぐれ当たりくらいは期待しても許される距離だろう。そう、骸骨のすぐ前に、少年がいなければ。
(まずい、まずいまずい……)
冷や汗が流れた。周りにはゾンビがいる。一秒だって立ち止まっていたくなどない。それは少年にしても同じことだろう。だがこの距離でまったくの初心者である自分が発砲して、少年を避けて骸骨にだけ命中させるなどと、そんな芸当は到底期待できない。ついでに言うなら、向こう側が透けて見えるほど隙間だらけの骸骨の身体(というか、骨格)は、およそ銃弾を命中させるのに向いている代物とは言い難いように思えた。
(撃たなきゃ、撃たなきゃ、撃たなきゃ……!)
指が震える。汗が止まらない。心臓が早打ちを始める。一刻も早く行動を起こさなければならないのに、起こすべき行動に成功する確率がこれっぽっちも見当たらない……!
ぐ、と引き金にかけた指に力を込める。震えているので、本当に力を込められているのかどうかは怪しいものだが。それでも動いていることを信じて、菜緒は指を――
と、その瞬間に。
勢いよく空気が漏れ出しているような音が辺りに響き、同時に少年が体勢を崩すのが見えた。
(……!?)
仰天し、その拍子に銃のトリガーを引いてしまいそうになったが、なんとか堪えた。見ると――少年が持っていた消火器から、猛烈な勢いで薬剤が噴き出している。骸骨の剣が減り込んだ箇所から、漏れ出しているのだろう。余りの勢いに少年は倒れそうになっていたが、どうにか持ち直したようだった。その正面に立っていた骸骨はと言えば、まともに薬剤を浴びたらしく、上半身が真っ白に染まっている。
そこで、少年が動いた――正直菜緒には、彼がなにをどうしたのか、即座には理解できなかったのだが。
わかったのは、少年が消火器を持ったまま体勢を変え――そして消火器が、その場で円を描くようにぐるりと一回転したように見えたことくらいだ。噴き出す薬剤の勢いをそのまま推進力に変えて、少年が掴んでいる部分を支点に、バランスを崩した骸骨の脳天へと消火器が振り下ろされる。
それらすべてがほぼ一瞬のうちに展開され、そして続けて見えたのは、骸骨の頭部と消火器が、揃って砕ける光景だった。
文字通り糸の切れた人形のようにその場に倒れ込む骸骨と、破裂しながらもなお薬剤を噴出する消火器と。そのどちらにも視線をやることなく、少年は消火器のなれの果てをゾンビの群れに向かって投げ捨てた。
「……まあ、こっちの方がマシか」
言いながら、倒れた骸骨が握っていた剣を拾い上げる。握ったままで一緒についてきた骸骨の手の骨を外してやはり投げ捨てると、即座に走り出した。
「あ、待って……!」
呆気に取られて少年を眺めていた菜緒は、そこで我に返った。骸骨の残骸を跨いで、少年の後を追いかける。
(……なんだったのかしら、今の)
直立歩行し、剣を振り回す骸骨の姿を思い起こす。そもそもゾンビの時点でこの上なくおかしかったのは間違いないのだが、更におかしな存在だったこともまた間違いのないところではある。どちらがよりおかしいか、というのは、考えても詮のないことなのだろうか。
視線を前方へと向けると、少年がゾンビの胴に剣を叩きつけているところだった。が、切れ味が悪いのか振り方が悪いのか、ゾンビは斬られたというより殴られたような勢いで仰向けに倒れるのみ。少年の舌打ちが聞こえた。
「ナイフとは勝手が違うか……どう振りゃいいんだ?」
なにやら物騒なことをつぶやいている。消火器とは違って、ただぶつけるだけでは駄目ということなのだろう。
そんなことを思いつつも、もう何度目になるかわからないゾンビの腕をかわしたところで――
「……あ! あれ!」
菜緒は思わず声を張り上げていた。廊下の先に、広い空間が見える。ロビーだった。
「出口だな。けど……」
少年が言葉を濁す。なにを言おうとしたのかは、菜緒にもすぐにわかった。
ロビーの中は、殊更にひどい有様だった。いくつもの椅子が引っくり返され、床には至るところに血溜まりが広がっている。そのほぼすべてに明らかに生きていない様子の人間が倒れ伏し、そしてそれにこれも生きているようには見えない人間のようなものが群がっていた。なにをしているのかは、あまり考えたくない。
そして、その中の一角に。よくわからないものが見えた。
「あれって……」
恐る恐る、それを示す。少年が顔をしかめた。
「……もう、バケモンと呼ぶしかねえな」
つまり、そういうものだった。
大きさは、菜緒の腰くらいまでしかないだろう。ぱっと見ただけなら、以前テレビかなにかで目にした、栄養失調の子供のようにも思える。が、断じてそんなものではないだろうことは一目瞭然だった――紫色の肌をした子供というのも、あまりいないだろう。そもそも人間の頭蓋骨というのは、あれほど歪ではないはずだ。
そして言うまでもないことだが、ゾンビに囲まれた中で死体を貪る子供というのも、そう滅多には聞かない話ではある。
――三度目ともなれば、流石に驚きは少なかった。自分が冷静でないことは間違いのないところだが、それでも最初に村中のゾンビを目にした時のような感覚は湧き上がっていないと、自覚できる。
無視してロビーを突っ切り、一目散に入口へと駆け抜けたいところだったが、それは不可能なようだった。その紫色のなにかは既にこちらに気付いているらしく、なにやらかくかくと不自然な挙動で首を回しながら、飛び跳ねるような動きで近づいてきている。
「撃て」
あっさりと、少年が言ってきた。え? と、思わず聞き返す。
「まだ四発残ってるだろ。撃て」
「え。でも、当てる自信なんて――」
「んなモン期待してねえよ。いいから撃て。んで、撃ったら走れ」
有無を言わせぬ口調でそう言うと、少年は剣を腰溜めに構えた。
――言っていることは理解できる。先程のように少年がゾンビなりあの紫色なりと接近している状況になってしまえば、菜緒は撃とうにも撃てなくなるのだ。そうなるくらいなら、当たる確率がどれだけ低かろうと、リスクの少ないうちに撃っておけ、ということなのだろう。
問題があるとすれば、自分に撃てるのかどうか、という点だけだった。
(撃つ……撃って、走る)
胸中でつぶやきながら、菜緒は拳銃を構えた。紫色のなにかは頻繁に頭を揺すりながら近づいている――笑っているようにも見えた。
(撃つ……撃つ……)
引き金に指をかける。ぐっと力を込め、そして――
(撃つ……!)
思い切り、指を引いた。
刹那、破裂音と共に両肩をもの凄い力で殴られた。いや、実際にはそれは発砲の反動だったのだろうが、菜緒は正面から突き飛ばされたように錯覚していた。体勢を崩す――当たり前だが、走るどころではない。
「馬鹿野郎――!」
少年の罵声が聞こえたが、菜緒としてもそれどころではなかった。転倒こそしなかったものの、こちらがバランスを取り戻そうとしている間に、紫色の人影は大きく跳躍している――言うまでもなく、菜緒の撃った銃弾は当たらなかった。
「クキェエエッ!」
紫色のなにかが、鳴き声を上げた。跳躍の勢いそのままに、こちらへと踊りかかってくる――が。
「クキィッ!?」
菜緒とそれとの間に割って入ってきた少年が剣の切っ先を向けているのに気付いたのか、驚いたような声を上げた。しかし落下の軌道を変えることはできず、更に少年が床を踏みしめて思い切り剣の先端を突き出す。
吸い込まれるように、剣の切っ先は紫色の人影の腹に突き刺さっていた。
「クキャアアァァッ!?」
甲高い絶叫が響き渡り、菜緒は思わず竦み上がった。状況であるとか道理であるとか、そういったものは一切顧みず、無条件の恐怖が背筋を突き抜ける。苦痛を堪えきれずにこぼれた悲鳴。たった今菜緒が耳にしたのは、そういうものだった。
「走れ!」
剣の根本まで深々と突き刺さった紫色の身体を振り落としながら、少年が叫んだ。こちらの返事を待たず、また払い落とされて床の上でのたうつものも一顧だにせず、ロビーの入り口へと駆け出している。
いよいよもって考える余裕がなくなり、菜緒は同じように走り出した。入口までは二十メートル程だが、その間に紫色の人影が三つ、ゾンビが二体、行く手を塞いでいる。
最も近くまで近寄っていた紫色の身体を、少年が走りながら剣で薙ぎ払った。紫色のものは寸前で真上に跳躍してかわしたが、着地した時には少年は既にその場を走り抜けている。代わりに見えたのは、少年の数メートルほど後ろを走っている菜緒の姿だっただろう。
(……!)
考える余裕はなかった。紫色がこちらに腕を伸ばそうとしてくるよりも早く、思い切り前方へ腕を突き出す。
「クケッ?」
それの鼻先に銃口を突き付ける形になり――間を置かず、菜緒は渾身の力を指先へと込めた。
ぱんっ、と乾いた音を立て、それの後頭部の辺りでなにかが弾けた。同時にそれ自体も仰向けに引っくり返り、そのまま動かなくなる――のを見届けることはできなかった。口と頭から奇妙な色の液体を流している紫色の死体を飛び越えて、更に走る。
(う、撃てた……)
撃てた。殺した。間違いなく、自分の手で。重い引き金を引いた感触と、発砲の反動が両腕に残っている。それに付随する、奥歯が軋むような感覚も。一言で述べるなら、それは怖気だった。
なにかに縋るような心持で視線を前へと向けると、ちょうど少年が紫色のものを剣の腹で跳ね飛ばしているところだった。そのまま一瞬たりとも立ち止まらずに、ゾンビの首筋へと剣を叩きつける。
ゾンビの首から上が、真横へスライドするように胴体から離れた。
「……よし!」
手応えを掴んだように少年が快哉を上げる。しかし動きを止めることなく、奥にいたもう一体のゾンビの首も同じように刎ねた。
(……凄い)
思わず感嘆を漏らす。ほんの数分の間に、コツでも見出したのだろうか。
入口の自動ドアとの間にいるのは、あと一体だけだった。両手を突き出して飛びかかってくる紫色のそれに、少年は欠片も躊躇することなく突進し――顔の上半分を、綺麗に斬り飛ばす。
べちゃり、と力なく床に落ちたそれをやはり見向きもせず、少年はそのまま自動ドアへと直進していた。一瞬、そのままぶつかってガラスを割る気なのかとも思ったが、立ち止まってドアを開ける。
ちゃんと開いてくれるだろうか? と菜緒は考えたが、杞憂だった。ドアは何事もなく左右に開き、その向こうには駐車場が見えている。
(……外!)
ほとんど跳ぶような歩幅で、菜緒はそちらへと走った。一応こちらを待ってくれているらしい少年の隣へと並び――同時に、外へと飛び出す。
駐車場へと出ても、足はまだ止まらなかった。背後に自動ドアが閉まる音を聞きつつ、病院の敷地外へと更に走る。時間にすれば十秒にも満たなかっただろうが、菜緒は呼吸をすることも意識から追い出して足を動かした。門の外へと出て――そこでようやく、立ち止まる。
「は……は、あ……」
止まっていた呼吸を再開させると、どっと汗が噴き出してきた。疲労もだ。膝に両手をつき、思い切り酸素を吸い込む。
「なんとか、逃げられたか……」
こちらよりは格段に平気そうな様子で、少年がつぶやくのが聞こえた。どういう体力をしているのだろうか。いや、確かに自分はあまり運動が得意な方ではないけれども。
顔を上げる。追ってくる気配はないようだった。その理由を考えるところまでは頭が回らず、菜緒はともかく疲労の回復を最優先することにした。たっぷり三十秒ほどかけて呼吸を整えてから、
「な、なんだったの、あれ……?」
少年に問いかける。
「俺が知るかっつっただろ。警察に聞けよ」
うんざりした様子で言ってきた。まあ確かに、およそ理解の及ばないものだったことは間違いない。
――ゾンビに、骸骨。そして怪物。お化け屋敷か、さもなければ3D映像の類だったのなら納得できるラインナップだ。病院で敢えてそれを行う理由は見当もつかないが。
「とにかく、警察に――」
言いかけて、菜緒は気付いた。様子がおかしい。なんの様子がおかしいのかは、まだ理解が及んでいなかったが。
――真っ先に把握できたのは、音だった。ありふれた街の喧騒。それが、違和感のあるものに変わっている。
車の走る音がほとんど聞こえてこない。代わりに聞こえるのは、なにかの燃えるような音と、そして悲鳴と怒号。
続いて、あちこちから煙が上がっていることに気付く。嫌な予感が全身を駆け巡った。
「まさ、か――」
気が遠のいていくような錯覚を覚える。いや、錯覚ではなかったのかもしれないが、それでも隣の少年が放った言葉だけは、はっきりと聞くことができた。できてしまった。
「……街中に、いるのかよ」
どこからか、サイレンのような音が聞こえた。