いつの間にか涙が止まっていることに菜緒が気付いたのは、それくらいしか考えることがなくなったからだった。
「うわ、やっぱコイツ処女じゃん! ありえねーって、この年齢で」
「マジか。とっくに椎名にやっちまったんだと思ってたけどな」
果たしていつ止まったのだろうか、と考える。切り刻まれた椎名の身体を、敏樹が最後の一発とばかりに蹴った時か。借り物の服を破られた時か。下腹部の痛みに堪えきれず叫ぼうとして、横腹を殴られた時か。
「大体、取っといてどーすんだって話だよな。誰も欲しがらねーのに」
「金でも払えば、OKするようなのはいるんじゃね? 物好きなヤツがさ」
「……それ、普通は逆じゃない?」
考えたところで特定することはできず、できたとしても今度はそれを確認する方法がない。まあ当然と言えば当然のことだ。なので菜緒は特定も確認もしようとは思わず、ただ考えるだけに留めておいた。自分の涙などにそれほどの価値があるとも思えない。
「っかし、もうちょっと反応してくれねーと、張り合いがないっつーか」
「もう一発殴っとく?」
「死んだらどーすんだ。流石に死体相手は引くって」
顔を殴られたのは一度だけだったからだろうか、眼鏡は無事だった。涙が止まったこともあって、それなりに夜空がはっきりと見える。というか、他に見るべきものはなかった。なので椎名だったものの方へ首を動かしたら、また殴られた。骨が折れていないのは驚嘆すべき事実だが、錯覚ではないとも言い切れない。
「……ちょっと殴り過ぎじゃない? なんかもう死にそうな顔してるよ?」
「うわ。ひっでえツラだなオイ。もともと大したツラでもなかったけどよ」
「つか、ここまで来ると笑えるよなー」
夜空には月と星以外、なにも見えない。雲のひとつも浮かんでいなかった。街の灯りがなければ夜空が美しく映えるというのは割と耳にすることだが、それは正しかったらしい。まさかそんなものを確かめられる機会があるとは、思っていなかった。
「お前ら、いつまでやってんだよ。アタシそろそろ飽きてきたんだけど」
「俺も飽きてきた。おい浩一、それ寄越せ」
「え、これ?」
「あ、ちょいタンマ。それアタシに貸せよ」
――そうして、気付いた時には。
菜緒は倒れたまま、胸元に刀の切っ先を突き付けられていた。椎名の身体に何度も突き立てられたそれは、血を拭われることもなくどす黒い膜に刀身を覆われている。
「……おい、聞いてるか?」
刀の柄を握っているのは京香だった。こちらの顔を上から覗き込み、汚物でも見るような視線を寄越している――なんの比喩にもなっていないが。
「聞こえてねえんじゃねーの?」
「別に、それならそれでいいんだよ」
敏樹の指摘をどうでもよさそうに受け流すと、京香は少しだけ顔の位置を下げた。僅かに顔を歪める――臭いが鼻を突いたのだろう。
「最後くらい、選ばせてやるよ。――殺してほしいか?」
嬲るような口調とは裏腹に、彼女の顔は笑っていなかった。かと言って無論、憐れんでいるわけもない。もっと単純に、ゴミを見る目つきだった。邪魔でしかない、というような。
――ひどく億劫だったが、それでも。
京香の質問に、菜緒は答えた。
「――て」
唇も喉もまともに動かなかった。声が眼前の京香に届いたかどうかすら怪しい。答えたような気がしただけで、実際には答えられなかったのではないかとも思った。
だが、京香は言ってきた。
「わかった」
そして。
ずぶりと、刀の先端がこちらの胸を貫いた。
喉の奥、あるいはもっと内側から、なにかが込み上げてくる。菜緒は咳き込みながら、少年達の体液が混ざった血を吐き出した。
同時に、視界が急速に暗転していく。京香がなにかを言っているような気がしたが見えず、そして聞こえなかった。地面に倒れているという感触もあっという間に消えていき、なにもわからなくなる。
いや、それはきっと今に始まったことではない。とっくにわからなくなっていたのだ。それがいつからなのか、ということも含めて。
なにもかも。
もう、わからなかった。
地上に対する悪魔の侵攻になにかの意思が働いているというのは、益体のない夢想に過ぎない。真っ当な価値観を持ったものならばそう考えるだろう。そうでないのなら、悪魔はそのなにかの意思に従っているということになり、その意思の持ち主は誰なのかという話になってしまう。
そうなった場合、候補としてはいくつかが挙げられる。ただしそのどれもが、呼び方を変えただけで同じものだった。違うと言い張る人間は当然いるだろうが、それは個人の主観と言うか、解釈の違いに過ぎない。
つまりは、神だ。
戯けた答えだと一蹴するのは簡単だが、実を言えばあながち的外れでもないというのが厄介なところだ。なにしろ、神というのは『いない』のだから。存在しないものならばいくらでもそのせいにできるし、責任を押し付けることができる。そして神の存在を否定したのが科学である以上、それを覆すことはできない。覆すのならまず科学から否定しなければいけなくなってしまう。
そんな誰の目にも明らかに無益な思考に対してそれなりの方向性をもたらしたのは、やはりシュバルツバース調査隊からの報告だった。つくづく、彼らの功績は大きいと言わざるを得ないだろう。
――だが、それによって得られた方向性というのは、決して好ましいものでも、まして楽観視できるようなものでもなかった。調査隊の報告は、それまであやふやだったはずのものに明確な形を、あるいは名分を与えてしまったのだから。
つまり存在などしなかったはずの神に、それなりに相応しい名を付けてしまったのだ。
これは相当に厄介な問題だったと言える。幸いにも宗教戦争などという形には至らなかったが(はっきり言ってそれどころではなかったからだ)、それでもなにか根本的な部分が突き崩されたのは間違いない。いないはずのものにいきなりやって来られては困るというのは、誰にとっても同じだろう。
シュバルツバース調査隊からの報告によって与えられた神の名というのは、それほど突拍子もないものでもない。地球意思という、有り触れていると言えばまあ有り触れた名前だ。
つまり悪魔とシュバルツバースを生んで人類をどうにかしようとしているのはその地球意思なる高次の存在であって、判明した以上それに文句をつけることはできない。いるとわかったものをいなかったことにしてしまうことはできない。できるのは精々、地球意思なる名前がついたという理由で、神ではないと断定することくらいだ。
――地球意思であって、神ではない。
人間にできたことと言えば、そんな屁理屈を捏ね回すくらいだったのだ。
とは言え、そんな屁理屈であっても。
地球意思をとりあえず神の座から引きずり下ろしておいたのは英断だったのだと、人類はもう少し後に思い知ることになる。
地球意思とは別のものを神と呼ぶようになる、その時に。