悪魔召喚プログラム、とは言うものの。
それが本当に悪魔を召喚しているのかと問われれば、少々疑わしいところではある。悪魔とは何か、それを召喚するとはどういうことか――そんな根本的な疑問が湧かないでもないのだ。
あるいはもっと単純に、悪魔を召喚するための儀式魔術――魔法円だとか黒山羊の生け贄だとか――をプログラム内部でエミュレートしているのだと言われた方が、まだすんなりと納得できたかもしれない。科学とオカルトの邂逅であり融合だ。素晴らしい。ただ一点、ありえないという問題点にさえ目を向けなければ。
しかし現実として、この胡散臭いにも程があるプログラムが処理しているのは結局のところオカルトなど入り込む余地のない代物であり、それどころかオカルトとテクノロジーの境目を曖昧にしかねないものだった。それらすべてをひっくるめて「情報」として同列に扱い、計算した後に出力する。演算機としては至極当たり前の機能を備えているに過ぎない。敢えて特異性を挙げるとすれば、およそ現代に生きる人間の発想により組み上げられたものではない、ということくらいか。
(本当に。誰が作ったんだろ、こんなの)
最先端を行き過ぎた――とは言え、延長線上にないわけではない――技術を用いて組まれたプログラムで、やっていることは大昔から人間が捨て切れないでいる幻想の具現だ。迷信を迷信のままで終わらせまいとする、偏執的な意思すら感じ取れる。単に毒を以て毒を制しようとしただけかもしれないが。
だがこれを組み上げた誰かの意思がどこにあったにせよ、プログラムは所詮プログラムに過ぎない。つまりは利便性を追求した結果の産物なのであって、それをどう扱うかは担い手に委ねられるべき領域だった。そして無論、自分としてもそれなりの方策は見つけてある。実現するための要素が今のところ皆無に等しかったが。
なので、というわけでもないが、とりあえずは。製作者の思惑に沿う形で、プログラムを起動することにする。
眼前のモニターに、以前にも見た一文が表示された。微妙に英語とは違うような気がするそれを、なんとはなしに読み上げる。
(――『我は汝を召喚す。精霊よ、天主の至言なる力を持ちて汝に命ず』――?)
適当な意訳だが、まあ大体間違ってはいないだろう。
悠介は苦笑した。
(こんな方法で悪魔なんてものを実体化させようとしてるのに、わざわざ神様に許しを請うなんてね)
ひどく気の利いたジョークだった。敢えてこの一文を差し込んだプログラム製作者のセンスに敬服する。ジョークでないのだとしたら尚更だ。およそ尋常な発想ではない。
最初の一文が消えると、すぐに別の文章が表示される。今度は明確に英語ではないと断言できるが、神の名を借りようとしている点では大差ない。
(……こんなものを組み上げられるひとでも、倫理を犯す領域に踏み込むような事態になれば、思わず祈りたくなっちゃうってことなのかな)
そうなのだとすれば、少々意地の悪い見方をしてしまったとも思うが。逃げ道はいつだって必要だ。自分にも、このプログラムの製作者にも。
ずらずらと神の名を並べ立てた文章が消えるのを確認してから、悠介はキーボードを操作した。と言っても、それほどの手順を必要とするわけではない――仕様によればこのプログラムは複数の悪魔を同時に召喚することも可能なようだが、今のところ登録されているのはひとつだけなのだ。選択の余地はなく、モニターに最終的な決定を確認する一文が表示されるまでに三秒とかからない。
エンターキーを押すと、次に見えたのは光だった。ただしモニターに映し出されたものではなく、発生源は自分のすぐ近くだ。
伏せたまま傍らで待機していた犬、プランクの額のマークが一瞬だけ強烈な光を放ったかと思うと、間を置かずそこから無数の光の筋が全身へと伸びていった。まるで繭のようにプランクの身体を包み込んだ光はしかしすぐに消え失せ――召喚が完了する。
プランクだったものが咆哮を上げた。全身を白い獣毛と銀色の鬣に覆われた、魔獣ケルベロス。ギリシャ神話――あとまあ、日本でもフィクションの類でちらほらと――に名を残す冥府の番犬は実体化を果たすと、即座にその場から駆け出していた。
細かな命令を下す必要はない。少なくとも自分よりは遥かに、あの魔獣は獲物の狩り方を知っている。その知識が果たしてケルベロスとしてのものなのかプランクとしてのものなのか、それはわからないが。
視線の先にいた悪魔が一瞬だけ怯むのが見えた。迫ってくるケルベロスにどう対処すべきか迷ったのだろうが――その躊躇を、白い魔獣が見逃す理由はなかった。なんの迷いも躊躇もなく悪魔への最短距離を駆け抜け、その首筋へと爪を振り抜く。
それでも悪魔はぎりぎりのところで身を捩り、ケルベロスの爪を避けたようだった。が、明らかに体勢を崩しており――ケルベロスの爬虫類じみた尾が、悪魔の腹を打ち据える。
悪魔がくぐもった声を漏らし、同時に銜えていた包丁を落とした。金色の髪の隙間から覗く両目は苦悶に歪んでいるが、しかし完全に戦意を失ったようにも見えない――全身と同じく浅黒い指をケルベロスへと向け、なにやらつぶやくように口を動かすと。
悪魔の眼前に、なにやら氷の塊のようなものが複数出現した。そのままケルベロスに向かって直進し――ケルベロスの吐き出した炎によって、瞬時に蒸発する。無論、射線上にいた悪魔自体も焼かれているが。
炎が消えると、悪魔の上半身は炭化していた。がくりと膝を折り、そのまま仰向けに倒れ込む。
数秒程、悪魔が完全に動かなくなったのを確認してから、悠介はそちらへと近づいていった。最早人相もわからなくなった悪魔の死体を上から覗き込み、焼け焦げた臭いに顔をしかめる。
「ケルベロス……炭になっちゃってるけど、これ、食べられるの?」
一応尋ねる。ケルベロスはふんと鼻を鳴らし――たりはせず、無言のまま倒れた悪魔の傍らへと歩み寄った。それでも確認のつもりか、あるいはプランクの犬としての習性が残っているのか、鼻先を近づけて臭いを嗅いでいる。
それも僅かなことで、すぐに悪魔の死体へとかぶりついた。炭化していることなどまったくお構いなしに、ドッグフードかなにかのように平然と飲み下している。
「……おいしいの、プランク?」
こちらの背後から近づいていたらしい有紗が声をかけるが、答えるつもりがないのか食事に忙しいのか、ケルベロスは振り返りもしない。そのまま数分と経たずに、悪魔の死体を綺麗に平らげてしまった(流石に包丁は残しているが)。
ケルベロスが悪魔を捕食することで生体マグネタイトを得るところを見るのはこれが初めてではない。あるいはデジタル・デビルが生物の肉体に転移して実体化を図るのは、こうして喰らうことで取り込む方が効率がいいからなのだろうか。
(食べるために肉体が必要……って、それじゃ本末転倒のような気もするけど)
デジタル・デビルが実体化を維持するには、絶え間なく生体マグネタイトを必要とする。もし肉体を構成するだけの生体マグネタイトを失えば――死ぬのだろうか。それとも実体化できなくなって情報体に戻るだけなのか。どちらでも大差はないが。
無論、どちらもプランクにさせるつもりはない。悠介は再びキーボードを操作した。
「ご苦労さま。戻って、ケルベロス」
ケルベロスの身体が再び光に包まれ、元のプランクの姿へと戻る。その傍らに有紗が屈み込んだ。
「プランク、だいじょぶ? からだおかしくない?」
つんつんとプランクの頬をつつきながら尋ねるが、プランクは鳴くでも吠えるでもなく、ただ迷惑そうな表情を浮かべているだけだった。つまりはいつも通りの表情ということだが。
なんにせよ、悠介は胸を撫で下ろした。
(よかった……ちゃんと動いてくれて)
左腕に着けたウェアラブルコンピュータを見下ろす。どうにか見つけることのできたパーツを寄せ集めて組み立てた急造の代物で、テストは何度も行ったものの、悪魔召喚プログラムを起動したのは初めてだったのだ。問題なく動いたようなので、とりあえずは成功だったらしい。
左目に装着したモノクル型のヘッドマウントディスプレイも、まずまずの出来だと言えた。流石に商品として店先に並べられるようなものでは断じてないが、自分で使う分には問題ない――と言うか、誰に文句を言うものでもない。
ディスプレイを上にずらし、プランクの身体のあちこちをつつき続けている有紗と心の底から鬱陶しそうな顔をしているプランクへと視線を向ける。プランクは助けを請うようにこちらを見ているが、悠介は敢えて気付かない振りをした。心の中で詫びるだけに留めておく。
と、左手に拳銃を握ったままだったことに気付く。ウェアラブルコンピュータを操作するために持ち替えていたのだが、結局撃たずに済んでしまった。まあ、撃ったところで当たらなかっただろうが。
それなりに練習はしたつもりなのだが、なかなか射撃の腕は上達しなかった。止まっている的ならばともかく、相手が動いているとまず当てられないし、そもそも当てるイメージすら湧いてこない。そして銃を持っている相手に、わざわざ立ち止まって的になるような相手はいない――人間だろうと悪魔だろうと、それは同じことだ。
(でも……躊躇は、しなくなったかな)
腕前こそ大して変わっていないものの、少なくとも人間や悪魔相手に銃口を向けることを躊躇わなくなった。トリガーを引くことにもだ。
そうすることが必要だった。あの日からずっと。
身を寄せた教会が悪魔の襲撃を受けてから、そろそろ一年になろうとしていた。
実を言えば、悠介は教会に避難していた人間を軒並み殺し、喰らって回ったという悪魔の姿を直接は目にしていない。その前夜に色々あって気を失い、そのまま翌日まで目を覚まさなかったからだ。
有紗の呼びかけとプランクの鳴き声で気が付いた悠介が見たのは、原形を留めないまでに損壊した死体の山だった。たった一晩でよくもここまでと思わずにはいられないほど、血の臭いが充満していたのを覚えている。あるいは有紗の声ではなく、その臭いで目が覚めたのかもしれない。
皆殺しだった。教会にいたはずの百人近い数の人間が、一夜にして死体に変わっていたのだ。生き残ったのは自分と有紗を含めても数人程度だったらしく、その中に悠介の知っている顔はなかった。殺されたか、殺された上で喰われたか、それはわからない。死体の顔を確かめて回る気にもなれなかった(そもそも顔のない死体も少なくなかった)。
生き残ったとは言え無傷で済んだのは自分だけで、他の数人は悪魔がいなくなってから程なくして息を引き取った。有紗もやはり怪我をしていたが、比較的軽傷だった――放っておけるようなものでもなかったが。
――それなりに安全だと、そう思っていた。だからこそ留まろうという気にもなった。その見通しが、一週間程度で呆気なく崩れ去った。百人近い人命を道連れにして。
涙は出なかったし、それを不思議にも思わなかった。ただ、またか、と思っただけだ。最初に避難した学校も、その後に辿り着いた駐屯地も、似たような末路を辿った。だからここもそれらと同じようになったのだ、と。そう思っただけだった。
少し離れた場所でノートPCを見つけたが、落とすかなにかして衝撃を受けたらしく、故障していた。それは取りも直さず悪魔召喚プログラムを起動できないということに他ならず、悠介が大いに焦ったのは言うまでもない。しかし修理の為のパーツを揃えることもできず、なによりその場を離れることが最優先だった。いつまでも死体の山に囲まれていたくはなかったのだ。
どこをどう歩いたのか、よく覚えていない。冷静になって思い返して見れば子供の足で(しかも片方は怪我人だったのだ)それほど遠くまで歩けたとは考えにくく、そうでなければ悪魔に襲われていたはずだ。一月近く歩き回っていたかもしれないし、あるいは二、三日程度かもしれない。
やがて人間のいる場所を見つけ、有紗と共にそこへ向かったのだが――その選択が果たして正解だったのかどうか、悠介は今でも判断がつかない。
そこにいたのは十人程の集団で、それなりに食料の蓄えがあり、どこから調達したものか武器も持っていた。まあどうやって手に入れたのかは、なんとなく予想はついていたのだが。
果たして悠介の予測した通り、彼等の持っていた食料と武器は略奪によって得たもののようだった。人の集まっている場所をバイクで襲撃したらしい。
なぜか自慢げにそう聞かされた時点で、既に悠介はそこから出て行くことを決めていたものの、しかし有紗の体調が戻らなければそれもままならなかった。仕方なく悠介は彼等に取り入り、有紗の傷が癒えるのを待つことにしたのだが――それから四日目の晩、悠介は有紗を強姦しようとした彼等のうちのひとりを、たまたま近くにあった散弾銃で撃ち殺した。
綺麗に吹き飛んだ男の頭を眺めながら、悠介は自分が色々な意味で取り返しのつかないことをしたのだとぼんやりと理解してはいたものの、しかし幸いにも深く考え込むような時間的余裕はなく、彼等の使っていたバイクを盗んですぐにそこから逃げ出した。当然免許など持っていなかったので、バイクはすぐに使い物にならなくなったが(見様見真似で動かしただけだったのだ)。
彼等が襲ったという場所を見つけるのに大した手間がかからなかったのも僥倖と言えた。恐らく辿り着いた時には自分も有紗も飲まず食わずの状態で死にかけていたはずで、実際に行き倒れていたらしいのだが、通りがかった誰かに見つけてもらうことができたのだ。
悠介は丸一日で、有紗は一週間程度で回復した。その間に悠介は自分が野盗――としか呼びようがない――の元から逃げて来たことをそこの住人達に話し、そして彼等が悪魔や同じ人間からの略奪に怯え、息を潜めてひっそりと生活しているのだと聞かされた。そこを守っていた元警官や自衛隊員といった面々は、既に悪魔や野盗の類に殺されたらしい。
そこでの生活は、一月程続いた。その頃になってようやく悠介は自分が人を殺したという事実を実感し、ついでに悪夢や幻聴などにも苛まれるようになったが、しかしPCを修理する為のパーツ探しに没頭することで忘れようとした。というより、考えないようにしていた。それが功を奏したのかどうかはわからないが、思っていたよりも早く修理は終わった。悪魔も略奪を行う人間も、この状況下でわざわざPCのパーツに目を付けたりはしなかったらしい――当たり前だが。
そこでの生活の終わりは、割と呆気なくやって来た。悠介と有紗が離れていた間に、野盗の襲撃を受けたのだ。気がついて駆けつけた時には既に遅く、そこにいたのは悠介にとっても見覚えのある野盗の連中だった。
悠介は一切の躊躇なく、悪魔召喚プログラムを起動させた。そしてはっきりと、明確な意志でもって、ケルベロスに命じた。あいつらを全員喰い殺せ、と。
プランクの変身したケルベロスはこちらの命令を忠実かつ迅速に遂行した。武装した数人の男達を瞬く間に返り討ちにし、その死体を喰らった。ケルベロスの姿を見て逃げ出したものもいたが、悠介は見逃す気はなかった。ケルベロスに後を追わせ、悠介自身も彼等のうち二人を射殺した。
死体の数を確認して、間違いなく全員を殺したのだと確信した後。悠介はその場に膝をつき、胃の中のものを残らずぶち撒けた。そしてすぐに、大声を上げて思いきり泣き喚いた。驚いた有紗がわたわたと慌てふためいていたが、悠介は構わずに泣き続け――やがて涙も声も枯れた頃に立ち上がり、ふらふらとした足取りで歩き出した。
あてなどあったはずがない。目的地などもうどこにもないのだと、それはわかっていた。恐らくどこへ行ったとしても、ここと大して変わらない状況のはずだ。どうにか生き延びている人々も、悪魔はもちろん人間にすら怯えて息を潜めている。これまで当たり前のように自分達を守っていたはずのものが完全に失われたのだと、もう誰もが思い知っている。この先なにかの拍子に悪魔がいなくなるようなことがあったとしても、もう以前と同じようには暮らせないのだと。
自分も同じだ。自分と、そして有紗も。
もう目指すべき場所などない。安全な場所などどこにもない。それを保証していたはずのものがないのだから。
だが、違う点もある。
自分には悪魔召喚プログラムがある。まだ完全に解明できたとは言えないものの、しかし悪魔に対して一矢報いるための手段が、間違いなく手の中にある。たったひとつの武器が。
目指すべき場所はない。目的地と呼べるようなものはもうない。だが、目的はある。死なないこと。可能な限り、生きあがくこと。死にたくないのならそうするしかない。生きたくともその術がなかった、それを許されなかった菜緒や椎名達のことを考えれば、当然の結論だ。
吐き気を堪え、無様に泣き喚き、人を殺し、悪夢と幻聴に苛まれながら、それでも、生きるしかない。生きようとするしかない。
果たしてこうして歩いていることに本当に意味があるのかどうか、悠介は微妙に判断しかねていた。
もっともそんなこちらの思惑にはまったく気付いていない様子の有紗とプランクは特に文句を言うでもなく黙々と(いや、有紗はそうでもない)歩いており、時折振り返ってはこちらに尋ねてくるだけだ。
「ね、悠介。あとどれくらいでつくかな?」
既に何度も繰り返された質問であり、なのでこちらの返答も決まっている。悠介は肩をすくめながら、
「まだ、もうちょっとかかるよ」
「そっかー」
いい加減こちらの返答に聞き飽きてもいい頃なのだが、有紗にそんな様子はまったく見受けられなかった。聞いているその度に前回の返答を忘れているのではないかとさえ思える程だ。少なくとも悠介はすっかり言い飽きていたし、有紗の隣を歩くプランクもうんざりしているように見える――この犬が他の表情を見せたところを悠介はあまり憶えていなかったが。
(元からこうなのか、それともケルベロスの影響を受けてるのか――)
それはわからないし、なんとなく追求しない方がいいような気もする。
変わったのはプランクだけではない。自分も当然そうだが、有紗もだ。記憶を失ってからそろそろ一年程になるわけだが、今や意思の疎通にはまったく問題ないレベルにまで言葉を覚えてきている。行動を見る限りでは、むしろまったく変わっていないのだとも言えるが。
(あと、変わったものと言えば――これか)
視線の先に人間の石像を認めて、悠介はため息を吐き出した。これも変わっていないと言えば変わっていないし、変わったと言えば変わったことのひとつだ。
やはり一年近く前、初めてケルベロスの召喚に成功した際、メデューサという人間を石化させる悪魔と交戦し、そして撃退した。彼女の視線の被害にあったものは相当に多かったらしく、あちこちで石像になった人間のなれの果てを見たものだ――どころか、間近で石に変えられていくところも目の当たりにしたのだ。
そう、一年近くも前の話だ。それもこことはまったく違う場所で。にも関わらず、あれからも悠介は各地で人間の石像を目にしていた。
(バジリスクに、コカトライズ……人間を石に変えると言われてる悪魔は、それなりに多いけど)
そもそもメデューサにしたところで、撃破したあの個体だけだったとは限らない。だがそれならそれで、該当する悪魔の目撃情報くらい耳にしていてもおかしくはないはずだ。悪魔や盗賊紛いの真似をしている人間に怯えてひっそりと生きているとは言え、実際に被害が出ている以上、どこかでその悪魔に出くわしているはずだった。
(盗賊紛いっていうか、盗賊だけどさ)
はあ、ともう一度ため息をつく。そう、これも一年前と比べて大きく変わってしまったことのひとつだ。
悪魔が現れてなにが一番変わったかと言えば、要するに人間だ。まさかこの現代日本で略奪行為が横行するとは一年前の自分は考えてもいなかっただろうし、常にその危険性にさらされる事になるなどとはもっと考えていなかったに違いない。今やそういった連中は悪魔と大して変わらない脅威になっており、実際これまでに何度も襲われた。
(でもまあ、そんなもんかな。人間なんて)
達観するつもりも悲観するつもりも(あまり)ないが、仕方のないことなのだろう。なにしろ、彼等の行為を止めさせる根拠がない。悪魔は息を潜めて隠れているものだろうがそういった人々から簒奪する連中だろうが、区別なく襲うのだ。悪魔という危機に直面しているのは彼等にしても同じだった。
――無論、自分達を狙ってやって来たものであれば、悠介は可能な限り返り討ちにするつもりでいるが。実際これまでに何度もそうして来たのだ。悪魔ではなく人間すらも、その生体マグネタイトをケルベロスに喰らわせた。場合によっては自ら撃ち殺しもした。
「……悠介、かんがえごとしてる?」
と、有紗がこちらの顔を覗き込んで聞いてくる。これも変わったことのひとつだろうか。妙にこちらの表情や胸中の変化に鋭くなったような――いや、これは元々だったか?
悠介は反射的に手で顔を覆おうとしかけたが、ぎりぎりのところで自制が働いた。まったく無意味な行動だ。
「いや、有紗と同じことを考えてたんだよ。あとどれくらいで着くんだろうってね」
「そっかー。悠介とありさ、いっしょいっしょ」
なにがそこまで嬉しいのか、ぺしぺしとプランクの背中を叩きながら言ってくる。プランクの恨みがましい視線は有紗ではなくこちらに向けられていたが、やはり気付かないことにしておいた。
後ろめたさはもちろんあったが、しかしまったく口からでまかせを言ったわけではない。多少は事実も交じっている。
この一年、ほとんど当てどもなくあちこちを渡り歩いていたが――今の自分達には目的地があった。あるいは教会を後にしてから初めてのことかもしれない。
きっかけは半月程前のことだ。もう何度目になるかもわからない武装した強盗団を(主にケルベロスが)返り討ちにした悠介達は、彼等に襲われていたと思しき数人の男女も同時に発見した。彼等は既に手遅れだったものの、そこで気になることを聞かされたのだ。
街を目指している、と。
厳密には目指していたというべきなのだがそれは敢えて指摘せず、悠介はどういう意味かと問い質した。人が寄り集まっている場所というのは当然いくつもあるが、それらにしたところで街というよりは単なる避難所に過ぎないというのが実態で、およそ街などと呼べるような規模ではない――少なくとも悠介はこれまでに見たことも聞いたこともなかった。
こちらの質問に、相手は息も絶え絶えに答えてきた。詳細は知らないが、以前教会だった場所に人が集まり、街と呼んで差し支えのない規模の集落になっているらしい、と。
それを聞いて悠介は即座に有紗と顔を見合わせていた。逸る内心を抑え付けつつ、具体的な場所を聞くと――一年前に自分達が身を寄せ、そして悪魔に襲撃された、あの聖堂に間違いないようだった。確か、カテドラルとか言ったか。
正直なところ、目的地と呼べるようなものではないかもしれない。単に確認に行くに過ぎず、なにかを期待しているわけでもないのだ。そういった類の期待には、何度も裏切られている――悪魔が出現した時からずっとそうだ。
が、有紗はそうは思っていないようだった。
「ねえねえ悠介。まちってなーに? ひとがいっぱいいると、まちになるの? ひとからまちにしんかするの? ばーじょんあっぷ?」
なにやら勘違いしていたようだが、考えてみればそれも仕方のないことだ。なにしろ彼女は、悪魔が出現する以前のことを知らない。それまでこの国で人間がどんな暮らしを営んでいたのかという知識がないのだ。こちらとしてもうまく説明することができず、実物を見ればわかるよ、としか言い様がなかった。
(見られるかどうかはわからないけどね)
それを考えると気が重くなる。自分としては半信半疑だった。頭から疑ってかかるわけではないが、しかし精々が他の集落と同じ程度のものだろうと踏んでいる。以前――つまり自分達があそこにいた頃と同程度の規模でしかないだろう。というより、そうでない理由が見つからない。
そうして歩き始めて、約二週間。初めのうちこそまだ見ぬ街というものに対して期待を膨らませている有紗の姿を眺めるのがそれなりに面白くはあったものの、流石にもう見飽きている。今はまったく別のことを考えていた。いざ辿り着いたその時に、他の集落となにが違うのか? あるいは、どこに人が集まっているのか? そう尋ねられるような気がしてならない。
悠介は空を仰いだ。そうすれば多少なりとも気が紛れるのではないかと思ったからだが、それは概ね的外れな目論見でもなかった。
(――あれも、変わったもののひとつだよね)
ただし、他のものとはやや趣が違う。具体的にいつ変わってしまったのか判然とせず、そもそも悪魔の出現との関連性すらわからない。気が付いたらそうなっていたのだ。そしてその変化は、ゆっくりとではあるが今もまだ続いている。変わっている真っ最中ということだ。
果たして、いつからだったか――空に浮かぶ太陽が、徐々に黒くなっているように見え出したのは。
悪魔というのは、つまるところ情報だ。人間が大昔から繰り返し語り継いできたおとぎ噺の中にのみ登場し、そして存在する――あるいは存在しない。悪魔とはなにかと聞かれれば、そうとしか答えようがなかった。実在しない、いないものだと。
かつては当たり前だったはずのその認識を、果たして今でも忘れずに持っている人間が一体どれだけいるものか。悪魔が人を襲い、殺し、そして喰らっているこの状況で、それでも覆されることなく悪魔の実在を否定できるものが。
情報に過ぎない悪魔だが、ならば人間を始めとした実在する生物がそれとどう違うのか――悪魔召喚プログラムはその疑問に対して、明確な答えを導き出してしまった。実体を持たない情報と、実体として存在する情報と、その差異を。
生体マグネタイト、と呼ぶらしい。誰がそう名付けたのかはわからないが。
つまり情報体である悪魔と存在する生物との差とはこれを有しているかどうかの違いに過ぎないのであって、悪魔の情報――悠介はデジタル・デビルと呼んでいた――がなんらかの形で生体マグネタイトと結合することで、それは実体化を果たす。悪魔と生物との間の差はなくなる。そうして現実に肉体を持って現れたのが、今もどこかで人間を喰らおうとしている悪魔というわけだ。
(――あの日、デジタル・デビルは突然現れた)
ほとんどの人間にとって前触れらしい前触れもなく(自分には一応、悪魔召喚プログラムという前触れがあった)、悪魔の情報が少なく見積もっても日本中に放たれた。そして多くの場合は人間の持つ生体マグネタイトを喰らって、実体を持った悪魔になった。
(でも、デジタル・デビルが生物の生体マグネタイトを取り込むには、なにかしらの条件が必要なはずなんだ。そうでなきゃ僕や有紗が悪魔になってないのはおかしいし、大昔から知られていた悪魔が今になって出現したことも説明できない)
何度も考えたことだった。デジタル・デビルは無条件に生体マグネタイトと結合してしまうわけではない。それこそ悪魔召喚プログラムのような外的な要因がない限り、デジタル・デビルはただの情報に過ぎないはずなのだ。
(……悪魔召喚プログラム、か)
腕に巻いたPCを見た。以前に使っていたものから移し替えて、今はこちらに悪魔召喚プログラムをインストールしてある。
(ひょっとしたら、これなのかな。あの時に日本中でデジタル・デビルを召喚したのは)
確証はない。そこまで多くのデジタル・デビルを一度に処理するとなると相当な規模の演算能力を要求されるだろうし、そもそも自分が使っているこのプログラムはそこまで万能な代物でもないのだ。少なくとも、遠く離れた場所に悪魔を召喚するような機能は付随していないようだった。
(もっとちゃんとした設備があれば、このプログラムを本格的に解析することもできるのに)
そうすれば、前々から考えていたいくつかの案を実践できるかもしれず、またそれに伴って憶測の裏付けも取れるかもしれないのだ。我ながら高望みのしすぎだとは思うが、しかし発想というのは実現可能かどうかという点を置き去りにして勝手に湧き上がってくるのだからどうしようもない。
(悪魔の情報は、あくまで生体マグネタイトと結合することで活性化する――それは実体化だけに限らないはずだ。悪魔召喚プログラムがデジタル・デビルを演算処理するためのものだって言うなら、やりようによっては――)
「……悠介? どうしたの?」
と、すぐ隣から聞こえてきた声に思考を中断する。見ると、寝息を立てていたはずの有紗がこちらに顔を向けていた。起こしてしまったのだろうかと思い、悠介は彼女の頭の上にぽんと手を置き、
「いや、なんでもないよ」
「ほんとに? 悠介、たまーにうそつくよね」
眠たそうに瞼を擦りつつも、ぎくりとするようなことを言ってくる。
(……疑うことを覚えてくれたか)
これも変わってしまったことに入るだろうか。だとしても、それなりに歓迎すべき変化ではある――自分だっていつ死ぬかわかったものではなく、そしてそれが彼女よりも先でないなどという保証はどこにもない。もしそうなってしまった場合、彼女は誰に頼ることもなく生きていけるのだろうか。
(たぶん、まだ無理だ)
ようやく意味の通じる程度に言葉を覚えたばかりの、赤子と大して変わらない存在だ。誰かの庇護がいる。今のところは自分がそれをしているが(できているかどうかはさておき)、この先もずっとそうしていられるかどうかはわからない。
(……街、か)
あてにしているわけではないし、信じているわけでもない。だが少しだけ、悠介は望みを託してみたい気分になりかけていた。
安全な場所が、そう思える場所が、やはり必要なのだ。自分はともかく、有紗にとっては。今までははっきりと安全であると断言できる場所が見つからず、ただ彷徨っているだけだった。そのせいで死にそうな憂き目に遭ったのは一度や二度では足りず、結果として有紗にまでトリガーを引かせるような事態に陥ったこともある。まともな言葉よりも先に、彼女は銃の撃ち方を覚えてしまったのだ。同時に、撃った相手を殺すことも。
(それも、仕方のないことなのかもしれないけど――)
できることなら、彼女にそんなことはさせたくなかった――というのは、自分勝手な考えなのだろうか。とは言え一般的なものの見方には違いない。菜緒だって、自分達に銃を握らせることをぎりぎりまで反対していたのだ。誰が好んで年端もいかない子供に銃を撃たせたがるものか。
必要な時に撃てなければもちろん困るが、必要な時とそうでない時を見極められないのもやはり厄介だろう。そしてそれは、子供の目に見極められるものでもないような気がする。
(……僕は、どうかな)
ふと考える。この一年で背こそそれなりに伸びたものの、年齢で言えば自分だってまだまだ子供には違いないのだ。撃つべき時と撃つべきでない時、両者の垣根を見分けられるだろうか――見分けられているのだろうか。その判断を正しくできているのか――
そこまで考えて、悠介は堪えようもなく苦笑いが浮かんでくるのを止められなかった。
(撃つべきか否かを見極める、だって?)
湧き上がってくるのは自嘲だった。そんなことが自分にできるものか。
(何人撃ち殺したと思ってるんだ。明らかに殺す必要のない相手にだって、撃ったじゃないか、僕は)
威勢よく襲い掛かってきたもののケルベロスの姿を見るや逃げ出そうとし、しかし逃げ切れずに命乞いをしてくる相手というのは、何人か目の当たりにした。悪かった、もう二度とこんな真似はしない、命だけは助けてくれと、怯えきった顔で懇願するそういった手合いを、悠介は例外なく射殺している。その中には先にケルベロスによって動けない程に痛めつけられていたものもおり、わざわざ殺す必要があったかどうかと問われれば、それなりにはっきり答えられる。殺す必要はなかった、と。
(それでも、僕は撃った。躊躇なんてこれっぽっちもせずに、撃ち殺した。当たり前のことみたいに)
選択肢ですらなく、それが当然の帰結であるというように。
悠介は有紗の顔を見た。やはりまだ眠かったのか、彼女の瞼は開いているのかいないのか極めて微妙なラインを漂いながらこちらを見返してきている。
(有紗も、いずれは)
自分と同じになるかもしれない。撃つことに見極めを必要としなくなるかもしれない。彼女自身がそれに後ろめたさを覚えないというのならそれはそれでいいのかもしれないが、やはり自分としては承服しかねるところだ。エゴだろうとなんだろうと、そうはなってほしくないという想いが、間違いなくある。
撃つべき時と、そうでない時。はっきりと見極められるようになってほしいと、そう思わない時はないのだ。だがそんな願いも、今のような生活を続けている限りは望むべくもない。殺さざるを得ないような状況のままでは。
(……本当に、街があるなら)
絶対とまではいかなくとも、それなりの安全が手に入る場所が本当にあるのなら。そして、たとえその為になんらかの代償を払うことになるとしても。
(……あったらいいな、本当に)
街の噂を聞いてから、そして今まで。決して楽観的な予測は打ち立てるまいと思っていたが、悠介はここへ来て初めてそれを放棄することにした。
「あ」
目の前から声。
寝直したと思っていた有紗が、再び目を開いていた。こちらを見ている。
「悠介、わらった」
「え?」
彼女にそんなつもりはなかったろうが、それでも不意を突かれて、聞き返す。
「悠介、わらったよ。すっごいひさしぶりにみた」
「え……そう?」
そこまで陰鬱な表情ばかりしていただろうかと思い、首を捻る。少なくとも有紗に愚痴の類をこぼしたことはなかったはずなのだが。
だが有紗ははっきりと、もう一度言ってきた。
「悠介、ずっとわらってなかった。えっと、いつからかはわかんないけど、とにかくずうっと、わらってなかったよ」
「……そう、だったかな」
思い出せたわけでもないが、なんとなく頭を掻きながら呻く。
――わざわざ思い返すまでもなく、笑う理由などなかったのだ、あの日から。だから心当たりこそなくとも、きっと彼女の言う通りなのだろう。自分は笑っていなかった。笑い方と言うのを忘れかけていた。
だが。
彼女の言葉を信じるなら――完全に忘れていたわけでもなかったらしい。それでなにが変わるというわけではないが。