「悠介! しーな!」
部屋の扉を開けると、待ち構えていたのではないかと思える程の反応速度で有紗はこちらの鳩尾に顔面から突っ込んできた。避けようにも意識と反射神経が追いつかず、黙って彼女の額がこちらの呼吸を塞き止めるのを受け入れる――というか横隔膜を打擲されて喋れなかったのだが。
有紗とプランクのいる部屋は、自分が通されたものと大差ない内装だった。つまりは彼女の興味を惹くようなものも暇を潰せるようなものもなく、その代替としてなにが犠牲になったのかは考えるまでもない。悠介は止まった呼吸に喘ぎながら、部屋の片隅でケルベロスがぐったりと顎を床につけているのを確認していた。生体マグネタイトが足りなくなっているのか、それとは別の理由で疲れているのかは区別のつけようがない。
プランクならともかく、ケルベロスの姿でこうも無防備な格好をしていることに新鮮さすら覚えつつ、悠介は深呼吸してからPCを操作した。ケルベロスの姿が光に包まれ、プランクへと戻る。
「――やっぱり、内側に入られると反応しないか」
その様子を眺めていた椎名がこちらの背後から言ってくる。悠介は振り返り、
「デジタル・デビルに感染していても、実体化していない限りは椎名さんの張った《壁》に反応しないってことですか?」
「そういうこった。入った後で実体化されちゃお手上げだ。もっと扱い方を理解する必要があるな」
「悪魔召喚プログラムが天敵っていうことになりますね。……だから解析をしたいと?」
「もちろん、それもある」
つまりそれだけではないということだが、そちらはまだ説明されていない。もっとも、椎名の方も別に隠すつもりはないようだったが。
「悠介? なんのはなし?」
こちらの息の根を止めかけたことなどまったく気にしていない様子で有紗が聞いてくる。まあ彼女に殺意があったわけではないので、こちらとしてもわざわざ指摘する必要はない。なので彼女の質問にだけ答えておく。
「いや、ちょっとね――って、有紗?」
ふと気づき、有紗の顔を見下ろす。ついでにやんわりと彼女をこちらから引き剥がしながら、
「さっき、椎名って言った?」
「なにが?」
こちらの質問の意図を理解していないのか、それとも先程の自分の発言そのものを忘れているのか、有紗が首を傾げる。
「いや、だから。――椎名、って」
フードと包帯を元通りに身に着けている椎名の姿を示しながら尋ねる。有紗はこちらの肩越しに彼の姿を見やり、
「……しーながどしたの?」
聞き返される。悠介は辛抱強く尋ね直した。
「うん、だからさ。このひとが椎名さんだって、気づいてたの?」
「……? 悠介は、しらなかったの?」
「まあその、話してみるまではね」
不思議そうな顔で聞き返されて、悠介は少しばかりばつの悪い心持ちで頬を掻いた。
「実際、俺も驚いたんだが――見た瞬間から気づいてたみたいだぞ、そいつ」
椎名が補足してくる。驚いているというよりは呆れているような口調だった。
悠介は彼女の顔を見返し、
「そっか……明だけじゃなくて、椎名さんのこともちゃんと憶えてたんだ、有紗」
「おぼえてたよー。おぼえてちゃまずかったの?」
「まずくないよ、ちっともね」
頭を撫でてやりながら言うと、有紗は気を良くしたのか満面の笑みを浮かべ、
「ありさはちゃんとおぼえてるよ! りょーも、なおも、きょーかも、こーいちも! あとほかのふたりも!」
「……最後がちょっと惜しいね」
敏樹と千晴の名前だけは思い出せなかったのか思い出す気がなかったのか省略する彼女に、悠介は苦笑した。思い起こしてみればあの二人が有紗と話していた記憶というのもないので、無理もないだろうとは思ったが。
「明の墓は……見たんだったな」
と、椎名が聞いてくる。悠介は顔を上げた。
「ええ。萌衣さんに見せてもらいました」
「そうか」
短く答えたかと思うと、そのまま押し黙る。彼がなにを言わんとしているのかを察して、悠介は告げた。
「他の――相澤さんたちがどうなったのかは、聞いていません。僕たちも、死体の確認とかしなかったもので」
「生きているかどうかはわからない、か」
「ですけど、可能性はあります。現にこうして僕たちや椎名さんは生きてるわけですし。あ、いえ、殺されたんでしたっけ、椎名さんは」
訂正するが、椎名はかぶりを振った。
「ここが悪魔に襲われたって俺が知ったのは、デジタル・デビルに感染した後だ」
「……はい?」
彼の言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。考えて、それを口にする。
「あれ? それってつまり……椎名さん、ここが悪魔に襲われた時には」
ここにいなかったんですか、と続けるよりも先に。
「ああ、もう死んでた」
椎名は答えを寄越してきた。
……こちらの予想とは異なる答えだった。
「え? てっきり、どうにか悪魔から逃げ延びたんだと思ってたんですけど――僕たちみたいに。死んだのはその後なんだとばかり」
「違う。俺はここが襲われた時にはもう死んでたんだ。その直後にデジタル・デビルと融合したはいいが、しばらくは目覚めなかった――なにしろ身体がぼろぼろだったもんでな。まともに動けるようになるまで、一月近くかかった」
しかもそれは完治したわけではない――消えてなくなったわけではない。彼の顔に刻まれた生々しい傷痕を思い起こしながら、悠介は視線を別の方へと動かした。
「……プランクとは、違いますね」
「まあ、それも俺と融合したデジタル・デビルが不完全だったからだ。俺の身体を変質させるには足りなかったんだろうな」
なにが足りなかったのかは知らんが、と続けて、椎名は踵を返した。部屋を出ようとしている。
「ついて来い。約束通り、案内する」
「有紗とプランクは?」
こちらに背を向けて歩き出そうとした彼の背中へと尋ねると、椎名は踏み出しかけていた足を止めた。首だけをこちらへと向け、
「プランクはともかく……ま、いいか。その様子だと、置いてったら文句言われそうだしな」
有紗の姿を見ながら言うと、椎名は今度こそ歩き出した。その後をこちらもついて行く。更にこちらの後ろに有紗とプランクも続いていた。
聖堂騎士団の詰所を出て、椎名は教会から離れるように歩いて行った。やがて、テンプルナイトが入口を見張っている建物の前で立ち止まる。
「団長、その子たちは?」
「先程の騒ぎの――」
椎名とこちらの姿を交互に見比べながら、テンプルナイトが怪訝な声を上げる。
「当分の間、俺が保護観察を務める。異論はないな?」
包帯の隙間から覗く目にじろりと睨みつけられ、二人のテンプルナイトは互いに顔を見合わせた。
「団長自ら、ですか?」
「他のものにやらせれば良いのでは……」
恐る恐るといった様子で口々に言ってくる。椎名が声音を変えるのがわかった。
「悪魔のことは聞いているだろう。それに関する調査も兼ねている。――通してもらうぞ」
「あ、は、はい! どうぞ!」
慌てた様子で道を開ける。悠然とした足取りで(そう見えた)建物の中へと入って行く椎名の後にこちらも続いた。見張りのテンプルナイトがちらちらと横目で見てくるのには気づいていたが。
「……椎名さん」
「気づいたか?」
後ろを歩きながら声をかけると、椎名は即座に聞いてきた。悠介は頷き、
「今、ちらっとですけど見えました……アンテナですよね、屋上にあったのって」
「そうだ。一応言っておくが、あれ自体は活きてる」
どこか含みを持たせた言い方だった。
(アンテナ自体は活きてる……使うに使えない状況ってことか)
悪魔が出現した時から変わっていないのだろう。だが、引っかかると言えば引っかかる。使えないとわかっているものを、なぜわざわざ設置しているのか――口振りからするに、椎名があのアンテナに関与していないなどということはないはずだった。
大して長くもない廊下を歩き、椎名はその先にあった扉を押しやった。その後に続いてこちらも中へと入る。
「団長、お待ちしてました」
部屋の中には三人の人物と、大小様々な電子機器が並んでいた。部屋自体の広さもそれなりで、恐らくはIT企業かなにかのオフィスだったのではないだろうか――実際にそういったオフィスの中を見たことがあるわけではないので、あくまでただの想像だが。
「その少年が――?」
部屋の中にいた人物のひとりがこちらの姿を見て椎名に尋ねる。こちらと言うか、正確には悠介の身に着けているPCを見ているようだったが。
「そうだ。以前から話していた、あのプログラムを持っている」
「悪魔召喚プログラム、ですか……本当にあったんですね」
もうひとりの眼鏡をかけた男もこちらのPCに視線を向けながら、驚いてはいるもののしかし興味を隠しきれない様子でつぶやく。
「椎名さん。その様子ですと、悠介さんたちは協力を――?」
残りのひとりは萌衣だった。彼女だけはこちらのPCではなく、はっきりと椎名の方を見ている。
「ああ、承諾してもらった。このプログラムを解析することで、俺たちは悪魔に対してより深く知ることになる」
「では早速、その悪魔召喚プログラムを――」
椎名の言葉に、男のひとりがこちらへと踏み出しながら言ってくるが。
「早まるな。予てから言っていた通り、これは本来情報体である悪魔を処理する代物だ。下手を打てばどうなるかわからない。そうだな?」
椎名の最後の一言はこちらへと向けられたものだった。頷いて、前へと進み出る。
「その通りです。僕がこのプログラムを手に入れたのは一年前ですけど、なにもかもを解明したわけじゃありません。人間が組み上げたプログラムとは到底思えない、有り体に言ってブラックボックスの塊なんです。これから解析するに当たって、まずはそれを肝に銘じておいてください」
「おいおい、脅かしてくれるなよ。もちろん、危険性は百も承知さ」
こちらの言葉に特に怯んだ様子もなく、男が言ってくる。
本当にわかっているのだろうかと疑問には思ったものの、しかし危険性だけを説いていたところで話は前に進まない。悠介はPCを腕から外しながら、
「わかりました。じゃあ、実際に見てもらいながら説明します。どれでもいいですから、僕のPCと接続させてください」
周囲の機器を見回して告げる。即座に萌衣を除いた二人が近くにあったデスクトップPCを立ち上げる。
(脅かすのは、説明しながらでもできるし)
その方が効果もあるだろう。
悠介はこっそりと、そんなことを考えていた。
「――とまあ、こんなところですかね。僕が調べられたのは」
実際に悪魔召喚プログラムを起動し、それが映し出されたモニターを示しながら、悠介はそう締め括った。視線をモニターからこちらの説明に聞き入っていた皆へと動かす。
誰も、なにも言わなかった。椎名から聞かされたところによれば以前はソフトウェア関連の技術者だったらしい男二人も、椎名も萌衣も、そして有紗とプランクも。誰もが口を閉ざしている。自分もだ。一通りの説明を終え、むしろ誰かの反応を待っている。
椎名は特に表情を変えていなかった――包帯のせいで読み取れないだけかもしれないが、しかし特に驚いているようには見えない。まあ以前に彼に説明した時よりもそれ程多くのことを解明していたわけではないので、彼からすればわかっていたことの再確認でしかなかったのだろう。
萌衣はぽかんと口を半開きにし、呆気に取られているようだった。心なしか、理解が追いついていないようにも見える。あるいは単に信じられないのか。二人の男は彼女よりはもう少し冷静に、こちらの説明した内容を反芻か、あるいは吟味しているように見えた。どう納得すべきか考えている、といった様子だ。
有紗とプランクはいつも通りだったので、悠介はそこで待つのをやめてこちらから反応を促すことにした。
「僕はまあ、少しばかり知識があるだけの素人です。できれば専門家の観点から話が聞きたいんですけど」
取りあえずは、技術者の男二人に的を絞る。彼らは互いの顔を見合わせてから、
「いや、持ち上げられたところをすまないんだが――」
「団長から聞かされた時と、感想は同じだよ。こんなプログラムが実在しているなんて信じられない、としか言えないな」
一方は苦笑いを浮かべ、もう一方は椅子の背もたれをぎしりと鳴らしながら言ってくる。概ね予想した通りの反応だ。
「そうだな。言えるのは、このプログラムを組んだのは人智を越えた天才か、頭のおかしい狂人かのどちらかだ」
「むしろ人間が作ったものじゃないと言われた方が、まだ納得できるよ」
「僕が最初にこれを解析した時とまったく同じ感想で、安心しました」
こちらの言葉に、二人揃って苦笑を見せる。
「――プログラムに関する説明は終わりか?」
椎名が聞いてきた。悠介が頷いて見せると、彼は男達へと向き直り、
「ならば次はこちらが説明する番だ。おい、あれを出せ」
「わかりました」
椎名の指示に、男達は別のコンピュータをそれぞれ起動させた。それを眺めながら、こちらに向かって言ってくる。
「恐らくお前が把握していないだろう事実を、こちらはいくつか掴んでいる」
「……と言うと?」
椎名へと向き直って聞き返す。彼はやはり包帯に覆われて表情の読み取れない顔で、言ってきた。
「その様子じゃ、気づいてないというより、試してなかったんだろうな。実は何か月か前に、僅かな時間だけだが――外部との通信が回復した」
「……え」
椎名の言葉に、悠介は短く呻いた。
確かに彼の言う通り、通信ができるかどうかを試してはいなかった。電波の類を阻害しているものがなんなのかは見当がついていたので、それがいきなり消えてなくなることはないだろうと踏んでいたのだ。どうせ繋がるわけがないと、そう決めつけていたということだが。
「こちらとしても、気づけたのは偶然だ。まさか回復するとは思っていなかったからな。しかもそれは短い時間だけで、すぐにまた通信は繋がらなくなった。戻ったのはその時だけで、以後まったく回復する様子はない。試し続けてはいるがな」
「……一度だけ、電波を妨害していた情報が途切れたってことですか」
屋上のアンテナを思い出しながら聞く。そうだ、と椎名は頷き、
「その一度きりのチャンスに、俺たちは可能な限り多くの情報を集めようとした。そしてその結果、重要そうなものもそうでないものも併せて、それなりの情報を手に入れた」
と、そこでタイミングを見計らっていたかのように眼鏡をかけている方の男が椎名に声をかけた。
「……団長、出ました」
椎名がそちらへと向き直り、モニターを見ながら更に言ってくる。
「まず、これは予想ができていたことだが、悪魔の出現は完全に世界規模の災害だった。この国だけじゃなく、地球上の至るところで出現している」
椎名の後ろからモニターを覗き込むと、世界地図となにかの分布図のようなものが映し出されていた。なんの分布なのかは、考えるまでもなかったが。
「……広いですね、尋常じゃなく」
地図上に記された悪魔の出現地域を眺め、悠介はつぶやいた。無論、これで全部ではないはずだ。この分布図はあくまで判明している最低限の範囲でしかない。
「次は写真だ」
椎名の指示に男がキーボードを操作し、画面が切り替わる。衛星写真かなにかだろう、地上を写した画像だった。
「これは通信が回復した直後の写真だ。ここに写っているのがなんなのかは、わかるな?」
無論わかった。なのでその答えを口にする。
「南極大陸、ですね」
モニターに写っているのはそれだった。南極大陸のある位置を撮影した写真、ではなく。
間違いなく、南極大陸そのものを写している。
「そうだ。見ての通り、シュバルツバースは写っていない」
「……最初から、あれが誤認だったっていう可能性は?」
こちらの指摘に、椎名は首を縦にも横にも振らなかった。
「当然真っ先に考えた。だが――おい」
「ええ、わかってます」
椎名の指示に男達が答え、再び画像を切り替える。次に映し出されたのは――
「なんですか、それ?」
「米軍の報告書だ。どうやらこれが公式見解ということらしい」
どうということもなく、さらりと言ってのける。悠介は眉をひそめた。
「そんなものまで手に入ったんですか? 機密とかそういうのは?」
「別にハッキングとかしたわけじゃない。俺もすぐには信じられなかったが、これはそもそも機密でもなんでもなく、米軍から国内への正式な通達として発表されたものだ。とは言っても、流石にこの内容が真実すべてを語ってるとは思わないがな」
こちらの疑問を即座に否定して、椎名が映し出された文書の一部を読み上げた。
「『南極大陸にて発見されたシュバルツバースという未知の空間は、国連の主導により送り込まれた調査隊の活躍によってその消滅が確認された』――だそうだ」
「……調査、隊?」
「ああ。シュバルツバースもそうだが、それを調査するために国連が組織していたらしいって噂も、出鱈目じゃなかったわけだ」
椎名はモニターに向かって親指を向け、
「これが発表された時期は、まだまだ情報が錯綜してたんだろうな。シュバルツバースに関してはあまり詳しいところまではわからなかった。特にシュバルツバースの中が具体的にどんなものだったのかはさっぱりだ。わかったのは――」
再びモニターの画像が切り替わる。それを見て、悠介はもう一度眉をひそめた。
「……なんです? 箱……いや、戦車?」
棺桶に車輪をくっつけたようなデザインの箱がモニターに映し出されている。運ぶのには便利かもしれないが、棺桶に機銃は必要ないような気もする――などと考えていると、椎名がこちらの勘違いを訂正してきた。
「次世代揚陸艦レッドスプライト号。シュバルツバース内部の調査のために編成された、プロジェクトのフラグシップらしい。要するに移動基地だ」
「揚陸艦……こんなもの作ってたんですか」
「同型機が他に三艦あったらしいな。ともかくこの発表がデマでないとすれば、シュバルツバースが実際に発生していたことは事実だろう。そして、今はもう消失しているということもな」
再び画像が南極大陸のものへと変わる。やはり、それらしきものはどこにも写っていない。
「米軍と政府がシュバルツバースに関する情報をすべて公表したはずがない。なにしろ発表したのは消滅した後で、それまでは大規模なブリザード現象と言い張っていたんだからな。そして消滅した後も、なぜシュバルツバースが発生して、なぜ消滅に至ったのかという点には一切触れていない。『実はこんなものを見つけていて、そしてそれはもう解決しました』――明かしたのは、ただそれだけだ」
「……少なくとも、公表するわけにはいかないなにかを知ってしまった。だからそれを伏せている、そう考えるのが自然ですね」
「ああ、恐らくな。今はどうなってるのかわからんが」
椎名がモニターから視線を上げた。こちらを見やる。
「――さて、ここからが本題だ」
ここまでの内容は本題ではなかったということか――恐らくは本題に入るための前提だったのだろうが。
「シュバルツバースは発生していた。その内部を調べるために、国連は調査隊を送り込んだ。一方で地球上の至るところに悪魔が出現し始め、通信も繋がらなくなった。そしてしばらく前に調査隊が帰還し、ほぼ同時にシュバルツバースも消失。地上では通信が一時的とはいえ復旧した。ここまでの状況からわかることはなんだ、悠介?」
挑むような、もしくは試すような口振りだった。しかし同時に、確信しているようにも見える――わからないはずがない、と。
「デジタル・デビルの発生源は、シュバルツバース」
彼の期待に応えようと思ったわけではないものの、悠介は即答していた。椎名がどことなく満足げに頷くのを見ながら、更に告げる。
「まあ、なんとなく予想はついてましたよ。悪魔召喚プログラムの発信源を突き止めた時点で。偶然とは思えませんでしたから」
とは言え、たった今知り得た情報が無駄だったということも無論ない。推測に裏付けを得られたし、それ以上のこともわかったのだから。それを口にする。
「シュバルツバースが観測されてから、すぐに悪魔が現れたわけじゃない。それが引っかかってたんですけど、その謎も解けましたよ。地上にデジタル・デビルや悪魔召喚プログラムがばら撒かれたのは、恐らく調査隊がシュバルツバース内部へと侵入した、正にその時です」
「だろうな。具体的にどうやったのかはわからんが、とにかくレッドスプライト号と他の三艦はシュバルツバースへ入ろうとして――言わば、繋がっちまったわけだ。地上と、シュバルツバースの中が」
「やがてシュバルツバースは消失し、溢れ出していた情報も途絶えた。だから通信が回復した――そういう図式だと思います」
椎名だけでなく、二人の男も萌衣も特に驚いた様子は見せていなかった。得られた情報から導き出した答えがこちらと同じものだったということだろう。さっぱり理解が追いついていない様子なのは有紗だけだ。
「ただ――」
と、そこで悠介は僅かに口籠もった。視線をモニターへと動かし、
「通信が回復した、つまり情報による阻害がなくなったのが一時的なものだった理由に関しては、ちょっとわかりません。消失したはずのシュバルツバースがすぐにまた発生したのか、それとも今度は別の要因なのか――」
「そこは俺たちにもわからん。あれ以来、一度も復旧していないからな。直接南極に渡って確かめるくらいしか手がない」
つまり不可能ということだ。椎名はひょいと肩をすくめて見せた。
結局のところ、シュバルツバースがなんなのか――なんだったのかという点に関しては謎のままだ。わかったのはそれがデジタル・デビルや悪魔召喚プログラムといった迷惑極まりない情報の発生源であるということのみで、なぜそんなものが現れたのかという疑問にすら明答を得られていない。通信障害が完全に解消されない限り、今後もずっと答えを知る機会はないだろう。
悠介は大きく息を吐き出した。やや陰鬱な気分になりつつ口を開く。
「……どうしたところで、鍵を握るのはこのプログラムなんですよね」
デスクの上に置いたPCを見下ろす。なにからなにまで確証と言えるものを得られない中で、これだけが唯一、シュバルツバースからもたらされて自分達の手の中にあるものなのだ。単純な真相の解明にも、そして悪魔に対する具体的な対抗手段の模索にも、このプログラムの全容を詳らかにするのが最優先であるという事実は動かしようがなかった。
「ここの機器は全部、好きに使え。人員が足りなければ補充する。他にも、可能な範囲でバックアップするつもりだ。そのプログラムを今のところ一番理解しているのは、お前なんだからな」
椎名の言葉に、男達も頷いて見せた。萌衣だけはどこか複雑そうな表情を見せていたが、それがどういった思惑によるものかは推し量りようがない。見るまでもないので、有紗の方は見なかった。
悠介は有紗を除く全員の顔を見渡しながら、告げた。
「わかりました。じゃあ早速」
用があったら呼べとだけ言い残して、椎名は部屋を後にした。できることならあのプログラムの解析には立ち会いたいところなのだが、なにしろこなさなければいけない仕事が山のようにあるのだ。専門的な部分は悠介達に任せるしかない。
「少しくらい、話をすればいいのに……久しぶりに会ったんですから」
こちらの後ろを歩く萌衣が声をかけてくる。答えるべきかどうか椎名は一瞬だけ迷ったが、とりあえず彼女が誤解している部分だけを訂正することにした。
「別に話すことなんざねえよ。大して親しかったわけでもない。一月程度の付き合いだ」
振り向かずに言い放つ。だが萌衣は抗弁してきた。
「それでも、会えて嬉しかったのではないですか?」
「……そう見えるか?」
「はい、見えます」
「そうか。視力が落ちてるようだな」
もう、と背後で萌衣が拗ねたような声を上げる。それを聞き流しながら、椎名はまったく違うことを考えていた。
(……人を殺したか、悠介のやつ)
尋問室――とは名ばかりの簡素な部屋だが、しかし取り調べを行う場所というのはそういうものかもしれない――で聞かされた彼の言葉を思い出す。
人を殺せるようになった、と。そう言っていた。
自分の知っていた彼は、割と普通の少年――ではなかったようにも記憶しているが、ともあれ殺人という行為に躊躇を覚えないような人間には思えなかった。ならばどんな人間がそういったことを躊躇わないのかと聞かれれば、返す言葉もないが。
(いや、そうでもないか)
思い出したくもない顔が脳裏を過る。自分を殺した少年達の顔が。
何度思い出したところで、記憶の中の少年達は顔面に笑みを張り付けていた。それ以外の顔が思い起こせない。あれからそれなりの時間が経っているので忘れかけているというのもあるが、それ以上に――笑いながら人を殺したのだ、あの少年達は。
悠介はどうだろうか、と椎名は考えた。殺すその時に、笑っていたのだろうか。確かめたわけではないが、違う気がする。
(だが、人は笑いながらでも人を殺せる。それを愉しむことができる)
自分を殺そうとしていた時、少年達は心底からそれを愉しんでいた。あの時笑っていなかったのは自分ともうひとりだけで、そちらの顔は今となっては思い出せない。自分が殺されようとしているのを目の当たりにさせられ、果たして彼女はどんな顔をしていたのか――確認しているような余裕がなかっただけかもしれないが。
(……クソが)
苦々しく、胸中で呻く。
どれだけ時間が経ったところで、あの時の記憶は忌々しいものでしかなかった。苦痛の記憶が薄れても、味わった苦渋と辛酸は消えようとしない――だからこそ、自分は今、こうしている。
身を以て思い知ったと、悠介に言った科白を思い出す。それは言葉通りの意味だった。以前の自分がどれだけ愚かだったのか、それを文字通りに骨の髄まで叩き込まれたのだ。自分と似たようなことを考えていた、あの少年達によって。
他者と価値観を共有することはできず、どこまで行っても自分に制御できるのは自分だけだと。自分が生き延びる為ならば他人を踏みにじる行為も非難されるようなものではないと。そう考えていたのは自分だけではなく、あの少年達も同じだった。
だが、それを実際に目の当たりにし、そして自身が踏みにじられる側になって、ようやく思い知らされたのだ。それがどれだけ醜悪で、下劣な考え方であったか。
(ああ、思い知った――人間に必要なのは、ルールだ。絶対に守るしかない、従うしかない法だ。俺はそれを作る。このおかしな力を最大限に利用して)
人が生きるにはルールがいる。それは考えてみれば当たり前の話で、そんなことはずっと昔から繰り返し証明され続けていたのだ――歴史の授業を真面目に聞いたことなどなかったような気がするが、それでもその程度のことはわかる。教えられなくとも、考えればわかるはずだった。つまり以前の自分は考えていなかったということになる。
――そうなのだろう、と思う。恐らく以前の自分は、考えれば自ずとわかるはずのことを考えていなかった。くだらないことだと切り捨てて、考えることを放棄していた。他者の敷いたルールに迎合することを惰弱だと唾棄し、目を背けていた。果たしてどちらが惰弱だったのかは、今となっては考えるまでもないが。
(つまり、あいつの言っていたことの方が正しかったわけだ)
以前はどうしてもそれを受け入れられず、認められなかった。面と向かって偽善者呼ばわりしたことすらある。つまらないにも程がある理由で、意固地になっていたのだ。
そんな意地に、価値などないと。
ルールというものが人が生きるために築き上げたものならば、それを犯してまで生き延びる程の価値など、誰の生命にもないのだと。
自分が殺されるような事態になるまで気付かなかったのだから、つくづく愚かとしか言いようがない。
(馬鹿は死なないと直らないってやつか。まさか自分でそれを体現することになっちまうとはな)
考えているうちに、聖堂の手前まで来ていた。ここから先は萌衣とは行先が違う。椎名は聖堂騎士団の詰所へと向かおうとし――
「椎名さん」
背後から呼び止められた。足を止めて振り向く。
「なんだ?」
萌衣はその場に立ち止まり、こちらを見ていた。胸の前で両手を握り、顔にはなにかを案じるような表情を浮かべている。
「その、本当に……よかったんですか?」
萌衣の言葉に、椎名は思わず舌打ちしかけた。
「くどいぞ。別にあいつらとは――」
「そうではなくて」
こちらの言葉を遮り、言ってくる。
「悠介さんたちのことだけじゃないんです。あなたがこの街を守り始めてから、今日までずっと。私、あなたが自分のためになにかをするところを見た憶えがありません」
彼女の顔を見返しながら、椎名は。
(……なにを言い出すのかと思えば)
呆れつつ、同時に既視感のようなものも覚えた。こういうところは似ている。性分なのだろうとは理解しているが、煩わしいことには変わりない。
「……つまらんことを聞くな。俺のやってることは全部、この街にルールを作るための行動だ。それはお前も納得してるはずだろ」
そういう約束だった。最初に言っておいたことであり、彼女がそれに頷いたのもはっきりと記憶している。
だが、彼女の顔色は変わらなかった。
「もちろん、それは承知しています。でも、だからと言ってあなたが犠牲になる必要はないでしょう? そのうち無理が祟って――」
「犠牲? 俺が?」
今度はこちらが彼女の科白を遮る番だった。萌衣の目を見据えながら、告げる。
「勘違いしてるな。この街のルールを作ることと、俺が俺のために行動することは、イコールだ。別物じゃない。俺は誰の犠牲にもなってないし、なるつもりもない」
「それは建前です」
彼女の方も退かなかった。怯むことなくこちらを見返しながら、
「休みたいとか、羽を伸ばしたいとか、そういった当たり前のことまで考えないわけではないでしょう? 私が言っているのは、あなたがそういう当たり前のものまで建前で押し退けようとしているということです」
「まあ、考えないわけじゃない。人間だからな」
それも今となっては少し怪しいが、と口には出さずに付け足す。
「だが、それがどうした?」
「……え?」
萌衣の表情が少しだけ変わる。こちらの言葉を掴みかねているのか、自分の耳を疑っているのか。
「お前の言う人間として当たり前の考えとやらは、果たして建前よりも優先するようなものか?」
「…………」
萌衣は答えてこなかった。表情が更に変わったのが見て取れるが、構わずに後を続ける。
「建前は建前だ。本音とは常に別なところにある。それは当然そうだろうよ。だが、だからこそ建前ってのは常に正しいんだ。本音はいつでも正しいとは限らないが、建前はいつだって正しい。そうでなきゃ建前とは呼べないからな」
萌衣は黙ってこちらの言葉を聞いている――納得してないのは表情からも明らかだが、しかし反論のための言葉も思いつかない。そんなところか。
「俺は曖昧な本音なんぞよりは、正しい建前を優先する。他人に従わせるためのルールを作ろうってんだ。そうでなきゃ駄目だろ」
建前よりも本音を優先するような惰弱は必要ない。というより、それではそもそも正しい建前など用意できない。そしてルールというのは常に、建前をこそ規制するものなのだ。そこに本音などというあやふやなものが介在する余地はない。
「そう……かも、しれませんけど」
萌衣はこちらから視線を逸らしながら、それでも肯定の言葉を寄越してきた。積極的な肯定ではなく、否定できるだけの要素がないというだけの理由だろうが。
「でも、それでもやっぱり、いつか無理が来ます。そうなった場合、困るのはあなただけじゃない――あなたは、この街に欠かせない存在なんですから」
それだけ言うと、萌衣は聖堂の方へと去って行った。その後ろ姿を見つつ小さく息を吐き出してから、こちらも詰所へと歩き出す。
(この街に欠かせない、か)
萌衣の言葉を胸中で繰り返す。
(今のところこの街の治安の根幹にあるのは、悪魔が入って来ないって点だ。だからこそこの街は成り立っている)
そしてそれを行っているのが自分である以上、確かにこの街は自分が――自分の力があってこそのものだと言える。というか、そうとしか言えない。
(……それはそれで、問題なんだよな)
つまりもし、それが失われたら。この街の治安構想はたちまち根本から崩れ去るだろう。なにかの拍子に自分が死ぬか、そうでなくとも元々わけのわからない力なのだ。同じようにわけのわからない理由で突然失われることだって考えられる。
(あやふやなまま、それに寄りかかってるわけにはいかない。少なくとも俺は、この力をもっと具体的に把握する必要がある)
だが、それには限界がある。自分だけですべてを掴むには。
その為にも、悪魔召喚プログラムの解析は急務だと言えた。