たかだか十数年程度生きてきた中で、わかったことというのは少ない。それはきっと世の中がこんな有様になっていなかったとしても同じで、ついでに言うなら十数年が数十年になってもずっと変わらないのだろう。人に掴める真理はほんの一握りだ。それも概ね、あまりありがたくない真理が大半を占める。
他者のことはわからない、というのもそのひとつだ。恐らく若い時分は悲観的にそう捉える。他者への不理解を嘆き、他者から理解されないことに憤る。老境に差し掛かれば、また違った感慨でもってそれを受け止めるのかもしれないが。だがどちらであっても、理解が及ばないことには変わりない。何十年生きようが、そしてどんな世の中を生きようが、理解に至ることはない。わかったつもりになることすらないのだろう。それすらも弁えない程、人間は愚かには出来ていない。愚かになりきれない。
だが、それはそれとして。
わかることもある。誰の目にも明らかなことというのは、稀に存在する。
「……プランク?」
普段からなにを考えているのかまったくわからないその犬は、やはり今もなにを考えているのかわからなかった。だが足を止めて前方を睨み付け、威嚇するように歯を見せているその姿は、どう見てもなにかを警戒しているようにしか思えない。これがもし不理解による勘違いや思い過ごしだと言うなら、自分のこれまでの人生を残らず否定しても構わなかった。
つられて足を止めつつ、悠介はプランクの視線を追った。だが、見るまでもなくそこになにがあるのかはわかっている。直前までその場所を目指して歩いていたのだから、わからないはずがない。屋上にアンテナの設置された、先日からずっと自分達が通い詰めている研究棟だ。
明らかだった。プランクが警戒しているのは、自分が向かおうとしていたその建物だ。
「プランク? 一体なにが――」
無駄とは知りつつももう一度問い質そうとした、その時。
建物の入口から見覚えのある人影がふたつ、飛び出してきた。白木と加嶋だ。なにやら泡を食った様子でこちらへと駆け寄ってくる。
「おふたりとも、どうしたんです? そんなに慌てて――」
近づいて悠介は尋ねようとしたが、二人は聞いていないようだった。建物から十分に離れたところで立ち止まり、白木が加嶋へと食って掛かる。
「……っの馬鹿! なんだよあれは!?」
白木に襟首を掴み上げられながら、しかし加嶋の視線はこちらへと向いていた。ひたすら慌てふためいている様子の白木とは違い、笑みすら浮かべている。
「はは――やった! 成功した! プログラムは起動したんだ!」
堪えきれなくなったのか、加嶋は哄笑すら上げた。襟を掴まれているにも関わらず、それに気づいてすらいないかのようにおかしくてたまらないといった様子だ。
「悪魔合体システムは完成した! だから召喚されたんだ! お前も見ただろう!?」
「ああ、確かに見たよ! はっきり言って、あんなものを見ることになるとは思わなかった!」
白木が更に加嶋の襟を引き寄せる。ほとんど顔が触れそうな位置にまで引っ張られながらも、加嶋の表情は変わらなかった。
「お前、寝ぼけてるんじゃないだろうな。あれで成功したなんて言い張るつもりか!?」
「成功だろ! 現にデジタル・デビルが実体化したんだ!」
「……なんですって?」
加嶋の言葉にはっとなり、悠介は聞き返していた。
「どういうことです? あのプログラムは僕にしか――」
「こういうことだ! 見ればわかる!」
加嶋が白木の腕を振りほどき、こちらに向かってなにかを投げて寄越した。悠介のウェアラブルコンピュータだ。
素早く腕に着けて、プログラムを起動すると――異変は、すぐに察知できた。
(ケルベロスと……なんだこれ)
召喚可能な悪魔のリストに、ケルベロスとは別のデジタル・デビルの名前が載っている。
弾かれたように、悠介は視線を加嶋へと向けた。彼はやはり笑みを浮かべたまま、
「そうだ! 俺が作ったんだ! 大量のデジタル・デビルを掛け合わせて、足りない情報を補って――完全なデジタル・デビルを生み出したんだよ!」
「な……」
思わず、絶句する。
――不可能では、ない。そもそもプログラムの解析をしていたのはその為でもあるし、自分にしたところで似たようなことを実行しようとしていたのだ。最初からそのつもりでいた以上は、いずれ到達するところだったと言ってもいい。
だが。
「ちょっと待ってください。このデジタル・デビルを作り出したのはいいとして――召喚までしたんですか?」
実体化させたと言った以上はそうなのだろう。だが、だとすれば不可解な点が多すぎる。
「どうやって召喚したんですか? このプログラムは僕にしか扱えないものなのに。それに、どこに召喚したって言うんです?」
「中さ」
「中?」
くい、と加嶋は研究棟の方を親指で示した。悠介はそちらへと首を動かし――
「よせ! 近づいたら駄目だ!」
横から白木が鋭く叱責してくる。悠介は反射的に足を止めていた――元より近づくつもりなどなかったが。
と、そこで。
(……ん?)
またしても、悠介は異変に気づき――直後に、白木がこちらを制止した理由にも思い当たった。
(…………なんだ、あれ)
即座には、それがなんなのか理解できなかった――目の錯覚かと思った程だ。
だがゆっくりと、それは視線の先――研究棟の中から湧き出していた。そうとしか言いようがない。扉と床の僅かな隙間から、なにか赤い液体のようなものが漏れ出ている。
液体としては不自然な程に緩慢な速度で、それはじわりと扉から建物の入口へと広がっているようだった。不定形のなにかが這いずっている、と言った方が正しいかもしれないが。
「あれが……悪魔、ですか?」
他に聞きようもなく、呆然と尋ねる。返事はなかった。白木は苦々しい様子で舌打ちし、加嶋はやはり笑っている。
二人が気づいているかどうかはわからないが――赤い液体が扉から出てきた直後、明らかにプランクの唸り声が大きくなった。どう見たとしても、プランクが警戒しているのはあれだ。
と。
「おい、どうした!?」
背後から聞こえてきた声に振り返ると、椎名の姿が見えた。有紗と萌衣、更には数人のテンプルナイトを引き連れている。様子を見に来たのだろう。
「いや、それが……僕にも、なにがなんだか」
即答することができず、口籠もる。代わりに口を開いたのは加嶋だった。
「団長! シスター・メイ! やりましたよ! 新しいデジタル・デビルの召喚に成功したんです!」
「なに?」
本当なのか? と椎名が視線で問いかけてくる。
「私には、到底成功したようには思えないんですがね」
続けて白木が言うと、椎名の目が不信の色を帯びた。悠介は研究棟の方を指差し、
「……あれがそうです」
「あれ? って……なんだ、あれは」
先程の自分がそうしたように、椎名もまた言葉を失ったようだった。いや、彼だけではない。同じように研究棟の入口から広がる奇妙な液体を目にして、有紗や萌衣も眉をひそめている。
無論、ただ見せられただけでは椎名達は納得しないだろう。説明を求めているはずだ。むしろ自分の方こそ誰かに説明してもらいたい気分だったが、恐らく白木にしろ加嶋にしろ見たままのこと以上を説明できるとは思えない。ならば――考えるしかなかった。
とは言え、目に見える状況から推測できる範囲などたかが知れている。思索には大した時間もかからなかった。
「……恐らく、生体マグネタイトの不足です」
どうにか導き出せた答えを口にすると、白木と加嶋を除く全員の視線がこちらへと向いた。二人は同じことを考えていたのだろう。
「加嶋さん。召喚の際に生体マグネタイトの供給先を設定したはずですね? 何から抽出したんですか?」
「ネズミだ。今朝捕まえておいたやつをな」
加嶋が即座に答えてくる。なるほど、と悠介は頷き、
「あのデジタル・デビルが実体化するのに、その程度の生体マグネタイトじゃ足りなかったんでしょうね。そのせいで実体化し損ねて――ああなってる、ってことだと思います」
研究棟の方を指し示す。加嶋にはまったく驚いた様子はなく、やはり予測済みだったらしい。
赤い液体は既に建物の外にまで達しようとしており、研究棟の廊下は隙間なく埋め尽くされている。液体というより、もっと粘性のある物質のようだった。
「実体化し損ねたデジタル・デビルか。生体マグネタイトが足りないということは、更に補ってやれば完全に実体化するのか?」
「……それは」
椎名の質問に、悠介はもう一度口籠もらざるを得なかった。わからないのだ。あの状態から更に生体マグネタイトを供給してやれば改めて実体化するのか、あるいはそうはならないのか――つまりあれはあれで、本来の情報通りではなくとも、既に実体化してしまっている状態なのか。
こちらが言い淀んでいる間に、椎名に答えたのは加嶋だった。
「安心してください団長。生体マグネタイトさえ補ってやれば間違いなく実体化します。ケルベロスの召喚時のログを徹底的に調べた上で組み上げたものなんですから、間違いありません!」
余程自信があるのだろう、勢い込んで断言する。そしてそれを否定するだけの根拠を、自分は持ち合わせていない。
――そうだ、実体化はするかもしれない。足りない生体マグネタイトさえ補ってやれば。
だが。
「いえ……ちょっと、待ってください。早まらないで」
「悠介さん?」
制止の声を上げると、聞き返してきたのは萌衣だった。いや彼女だけでなく、全員がこちらを見返している。
「確かに、実体化はするかもしれません。ですが――それを制御できるかどうかは、わかりません」
「なに?」
椎名が眉をひそめる(見えないが)。悠介は自分のPCを指し示した。
「大体おかしいんですよ。僕はあのデジタル・デビルを召喚した憶えはないんです。なのに、不完全とは言え召喚されてる。なんらかのアクシデントがあったと考えるべきです」
「あくしでんと、って?」
「それはわからないよ。でもまだこのプログラムを完全に解析できたわけじゃないんだから、なにが起こったって不思議じゃない」
首を傾げながら聞いてくる有紗に向かって答える。この場にいる全員への警告でもあったが。
(……それにさっきから、表示は召喚待機状態のままだ。悪魔召喚プログラムの方はあの悪魔を召喚してると認識していない。プログラムとデジタル・デビルとの間に情報の齟齬が発生してるってことだ)
ディスプレイの表示は、ケルベロスも含めて召喚プログラムを実行していない状態を示していた。にも関わらず、視線の先には実際に赤い悪魔のなりそこないが召喚されている。悪魔召喚プログラムの制御下を離れていると考えるのが妥当なところだろう。勝手に召喚されてしまったという点も含めて。
ふむ、と椎名が呻くのが聞こえた。
「――実体化したところで、お前の命令を聞くとは限らないということか。つまり、人間を襲う可能性があると」
「そうなります」
頷く。加嶋がなにか文句を言いたげな様子だったが、すぐに椎名が口を開いた。
「確かに、そんな危ない橋は渡れんな。あの悪魔モドキ、引っ込めることはできるのか?」
「いえ、それが」
そもそもプログラムの方が召喚を認識していないので、当然帰還させることもできない。悠介がそう説明すると、
「じゃあアレ、あのまま出しっ放しか? それはちょっと、問題あるだろう」
見ている間にもじわじわと拡がり、既に研究棟の周囲の地面を赤く染めている液体を見ながら、椎名が声を上げる。
悠介はかぶりを振った。
「いえ、恐らく長くは保ちません。さっきも言ったように生体マグネタイトが不足してああいうことになってるわけですから、すぐに枯渇するはずです。そうなればもう、あんな不安定な実体化すら保てなくなる」
「放っておけば、勝手に消えるってことか?」
「そのはずです。これ以上生体マグネタイトさえ与えなければ――」
言いかけて。
「馬鹿な!」
突然、加嶋が声を張り上げた。こちらと椎名に向かって信じられないといった表情を向けている。
「なにを言っているんですか!? 俺の組み上げたプログラムに問題はありません! 折角この街を守るための力となるべく作ったというのに、それをむざむざ消すなんて!」
猛烈な剣幕だった。萌衣や有紗、それに他のテンプルナイト達が後退する程の。
が、椎名は特に驚いた様子も見せず、聞いてきた。
「……組み上げた本人はこう言ってるが、どうなんだ?」
「僕の考えは言った通りですよ。問題なく実体化するかもしれませんし、実体化すれば制御だってできるかもしれません。けど、そうはいかない公算だって決して無視できない」
「私も同じ意見ですね」
こちらに続いて白木も言ってくる。加嶋が盛大に舌打ちするのが聞こえた。
「そうか。ならやはり、このまま生体マグネタイトが枯れるのを待つのが最善のようだな。おい、誰も近づかないようにバリケードを――待て、加嶋」
椎名がテンプルナイトへと指示を飛ばそうとし、しかしすぐに加嶋へと顔を向け直す。
――彼は、椎名やこちらに背を向けていた。
「一応聞いておこうか。なにをするつもりだ?」
加嶋の背中に向かって、椎名が鋭い口調で問いかける。反論を許さないなにかが込められたその質問に、しかし加嶋は振り向きもせず言ってきた。
「あれは俺が作ったデジタル・デビルです。だから、身を以て証明してやる」
「証明だと?」
「生体マグネタイトを与えるんですよ! そうすれば必ず実体化する! 制御だってできる! 俺はそのためにあれを生み出したんだ!」
首だけをこちらへ――というか椎名へ――向けて、加嶋が声を張り上げる。
「って、お前まさか――」
白木が呆然とつぶやくのが聞こえた。恐らくは自分と同じことを考えたからだ。悠介はそれを口にした。
「あなた自身の生体マグネタイトを、喰わせるつもりですか?」
「……そんな!」
小さく上がった悲鳴は、恐らく萌衣のものだろう。彼女も他のテンプルナイトも、息を飲んでいる――当然、意味がわかったからだ。生体マグネタイトを喰わせるというのがどういうことなのか。
加嶋の口の端がつり上がった。
「あいつを生み出したのは俺だからな。面倒は、最後まで見るさ。俺の生体マグネタイトを使って、証明してやる――!」
明らかにやけくそじみた笑みを顔面に貼り付かせたまま、加嶋が駆け出そうと――するよりも、僅かに早く。
「それを本気で言っているなら、失望したと言うしかないな。加嶋」
(……え?)
思わず振り返る。誰の放った言葉かわからなかったからだ。
いや、考えるまでもなく、それは椎名の言ったものだった。疑いようもない。だが、聞いたことのないような声音だった。
「お前のつまらん意地のために、この街に悪魔を出現させるつもりか? 勝手な真似は許さんぞ」
「団長……!」
踏み出しかけていた足を止めたまま、加嶋がぎしりと歯を鳴らす。
「信じてくださいよ……! あの悪魔は必ず、この街のための力になる!」
「それを信用するには根拠が足りないと言ってるんだ。どうしてもと言うなら、この場で取り押さえる」
椎名がさっと手を上げると、テンプルナイト達が加嶋に向かって一歩を踏み出した。椎名の言った通り、力づくで彼を取り押さえるつもりなのだろう。
「……信じては、もらえませんか」
諦めの混じった声で呻き、加嶋が項垂れる。
椎名がテンプルナイト達へと目配せした。その意味を察したのだろう、彼等は加嶋に向かって更に近づこうとし――
それよりも先に、動いたのは加嶋の方だった。虚を突かれたテンプルナイト達の脇をすり抜け、誰かの腕を掴む。
「え――」
「動くな!」
ほぼ一瞬の出来事だった。萌衣の腕を掴んだ加嶋はそのまま彼女の身体を引き寄せ、喉を圧迫するように腕を押し当てている。そのまま椎名やテンプルナイト達に向かって萌衣の身体を押し出しつつ、距離を取った。
「シスター・メイ!」
テンプルナイトのひとりが声を上げるが、萌衣は喉を抑えられて返事ができないようだった。更に片腕を背後から加嶋に掴まれており、身動きも取れなくなっている。
萌衣の姿を見て足を止めるテンプルナイト達を眺めながら、加嶋が口を開いた。
「すいません、シスター・メイ。こんな手段に出てしまって――すぐに、解放しますから」
「……なんの真似だ、加嶋」
椎名の声には明らかな苛立ちが含まれていた。それに侮蔑もか。
加嶋はゆっくりとこちらから距離を取りながら、
「別にシスターに危害を加えるのが目的なんじゃない。近づけるところまで近づいたら、解放しますよ。だからそれまでは、誰も俺の邪魔をするな」
彼がなにを目指しているのかは、考えるまでもなかった。彼の背後には、まだ拡がり続けている赤い蟠りがある。
誰も返事をしなかった。そのまま数秒程、加嶋と萌衣が離れていくのを見やり――
やがて。
はっきりと、椎名が告げるのが聞こえた。
「――構わん、撃て」
まるで示し合わせたかのように、萌衣を除く全員の表情が驚愕に染まった。それまで加嶋と萌衣へ向けられていた視線が、弾かれたように一斉にこちらを向く。
――なにを言っているのかわからないと。一様にそう語っていた。
わからないのなら、理解を拒んでいるというのなら、何度でも言ってやるしかない。椎名は確認するようにもう一度告げた。
「なにをしている。撃て、と言ったぞ」
それが自分達への命令だとどうにか認識できたのか、テンプルナイト達が互いに顔を見合わせる――が、銃を構えたりはしなかった。
「は……あ、いえ、しかし。その、シスターが」
「構わんとも言った。意味がわからないか? 一から説明してやらんと命令を理解もできないか?」
テンプルナイトが押し黙った。だがそれでも、銃を構えない。
椎名は最も近い位置にいたテンプルナイトから銃を奪い取ると、加嶋に向かって歩み出た。銃口を突きつける。
「だ、団長……まさかとは思いますが、シスターが見えないってんじゃないでしょうね」
向けられた銃口に怯えているのか、あるいはもっと別のものに対する戦慄か、加嶋が声を震わせる。表情は引きつっていた。
「お前の馬鹿な行動が招いた結果だ。俺は、お前を撃つ」
「シ、シスターがどうなっても」
「構わん、と何度言わせるつもりだ」
トリガーに指をかける。加嶋の顔が更に引きつった。
「じょ、冗談はやめてくださいよ! 俺はシスターに危害を加えるつもりはないんだ! それなのにあんたが――」
「寝言を吐くな。今この瞬間、萌衣に危害を与えているのはお前だ。俺が撃つ弾丸を萌衣に当てるのは、お前だ。お前以外の誰でもない」
「う……」
加嶋が言葉を切る。が、すぐに言ってきた。
「だ、だけど俺を撃つのは、この街では犯罪のはずだ! そうだろう!? 他でもない、あんたが決めたルールだ! それを、あんた自身が破るのか!?」
恐らくそれを口にしている彼自身、説得力のある言葉だとは思っていなかったのだろう。多分にやけくそな声音だった。藁にも縋るような。
が。
「――その通りだ。俺がこれまでに決めたこの街の法は、例え武装盗賊行為に対しても、処刑までは許していない」
加嶋の表情が少しだけ変わる。まさか通じるとは思っていなかった苦し紛れの言い分をこちらがあっさりと認めたことに対する、驚きと安堵の色に。
きっぱりと、椎名は言い放った。
「だから、新しく制定する。今ここで」
「え?」
言っている意味がわからない、という表情を見せているのは加嶋だけではなかった。誰もが事態に理解を追随させられていないように見える――そして、理解が及ぶのを待ってやる理由はない。
「悪魔による脅威を街の中に持ち込んだ場合の、量刑を新たに制定する。予想される被害の程度によっては――処刑も辞さない」
「……あ!」
短く声を上げたのは悠介だった。先日の件を思い出したのだろう。
加嶋が悲鳴にも似た声を上げた。
「無茶苦茶だ! そんな横暴が許されるものか!」
「別にこれまでの規律に抵触するものじゃないだろう。悪魔を誘致してはならない、なんてルールは定めていなかったからな。だが今、その必要性ができた。だから決めた。それだけのことだ」
「そんなものが罷り通るなら、この街はあんたが支配しているということじゃないか! あんたにとって都合のいいルールの元で暮らせと、住民たちにもそう言うつもりか!?」
「悪魔召喚プログラムの解析に本腰を入れる以上は、いずれ定めておく必要のあるものだ。今のお前のように、自分の都合で悪魔の脅威に街をさらすような真似を取り締まるためにな」
「それをあんたの一存で決められるのがおかしいと言ってるんだ!」
気が付けば、ほとんどの視線は加嶋ではなくこちらへと向けられていた。中には明らかな不信の色を含ませているものもある――わかっていないのは、加嶋だけではないということか。
だが、それも仕方のないことだ。なにしろここが街と呼べるようになって、そして聖堂騎士団という治安維持組織がどうにか形になって、まだ一年も経っていないのだ。組織と呼ぶには若すぎる。更にそれを統率する立場にあるものが自分のような胡散臭い姿をした若輩なのだから、纏まれと言う方が無理な話だ。
そう、無理もないこと――なのだが。
(それをただ、仕方のないことで済ませてしまうような惰弱は、許さない)
歪さがあるのはわかっている。そうである理由にも見当がついている。だが、看過する理由はない。歪みがあるのなら矯正するし、わからないというならわからせる。鼻先に突き付けてやることで。
「ルールを守れない人間に価値はない。生きる資格もない。この街では」
きっぱりと、椎名は告げた。
「俺の定めた法は全て、この街の住民をひとりでも多く、長く生かすためのルールだ。例外はない。それ以外の目的も理由もない。この街で生きたいというのなら、ここの法に従わせる」
「そのルールを、あんたの都合だけで決めていないと、そう言い張るつもりか!?」
「信じろとも疑うなとも、俺は定めていない。従えとだけ言っている。従わないのなら、この街の住民ではない」
「……!」
加嶋は絶句したようだった。周囲の者も誰も口を挿んでこない。ただ、誰もが似たような表情を浮かべていた――萌衣を除いて。
「シスター・メイ」
加嶋に掴まれたまま動けないでいる萌衣に向かって、椎名は呼びかけた。彼女の表情が微かに動く。
――否が応にも、一年前の情景を思い起こさせる構図だ。あの時の少女もやはり修道衣を着ており、自分はこうしてそれを眺めていた。ただ、眺めているしかなかった。
理不尽に対して、不条理に対して膝を折った。殴られ蹴られ、無様に地面を転がった。血反吐を撒き散らし、最後には殺された。
ルールを守らなかったからだ。あの少年達だけでなく、自分も。
屈するべきではなかった。少年達の要求を飲むべきではなかった。待っていたのは最悪の結果だ。自分が死んだ後にあの少女がどうなったのか、考えるまでもない。
すべて、ルールを守らなかったからだ。あの少女の言っていたことは正しかった。彼女の言っていたことこそが正しかった。たとえどれだけ世の中が変わり果てようと、それでも守るべきルールというものが存在すると――なにもかも、彼女が正しかったのだ。
自分もあの少年達もそれを信じようとせず、その結果があれだ。だから――今度は、間違えない。
あの時にはできなかったことを、間違えてしまったことを、今度こそ間違えずに、汲み取らなければならない。
「俺は加嶋を撃つ。覚悟を決めてくれ」
告げる。萌衣は返事をしなかった。単にできないだけだろうとも思ったが、しかし彼女の顔に動揺の色は浮かんでいない。それだけで彼女の考えていることまで理解できるはずもないが。
「椎名さん……本気、ですか」
悠介が聞いてくる。冗談だとは思っていないのだろう。
「団長……あんたは」
加嶋がなにかを言おうとしたが、それを聞き届けることもなく。
椎名は発砲した。
「っ!!」
反応が間に合ったはずがない――恐らく反射的な行動だったのだろう。加嶋は萌衣の身体を突き飛ばし、踵を返そうとしたようだった。
身を捩った結果だろうが、こちらの撃った弾は萌衣の肩と加嶋の脇をそれぞれ掠めた程度だったらしく、動きを止めるには至っていなかった。ただし二人とも、撃たれた場所から血を流している。
萌衣は咳き込みながらその場で転びそうになっていたが、加嶋はこちらに背を向けて走り出していた。あの赤い液体に向かおうとしているのだろう。
その背中に向けて、椎名は再び発砲した。
「うあっ!?」
今度は狙い違わず命中し、加嶋が悲鳴を上げて転倒する。椎名は即座にそちらへと駆け寄り、倒れた加嶋に銃口を突きつけた。もう一度、トリガーにかけた指に力を込める。
「椎名さん、待って!」
背後から萌衣の声が上がり、椎名は肩越しにそちらを振り向いた。彼女は負傷した肩を押さえながら、それでも迷いなくこちらへと近づいている。
こちらの目の前を通り過ぎ、萌衣は倒れた加嶋の隣へと屈み込んだ。苦悶に顔を歪めている彼の顔を覗き込み、呼びかける。
「――助けてくれたんですね。私に危害を加えるつもりはないって、嘘じゃなかった」
「う……」
加嶋が目を開き、萌衣の姿を見上げる。痛みで朦朧としているのか、焦点は合っていないように見えた。
「どけ、萌衣。こいつに関してはこの場で処断する」
萌衣の背中に向かって告げる。彼女は振り返ることなく、言ってきた。
「……どうしても、ですか?」
「どうしてもだ。たったさっき決めたルールを、俺が破る理由はない」
「そうですか……」
背を向けたまま、萌衣が項垂れる。どんな顔をしているのかは見えない――まあ、見る必要もないかもしれないが。
「……私は」
囁くような声音で、萌衣がつぶやく。
「あなたの考えていることを、理解しているつもりです。……あなたは本当に、この街のことを考えた上で、すべてを決めている」
「…………」
返事をしなかったのは、彼女が言葉とは裏腹にこちらに対して言っているようには思えなかったからだった。他でもない、彼女自身に対して言い聞かせているような。
「ここに人を集めて街にするって、最初にあなたがそう言った時から、ずっとそうだったんです。そう思えたから、私はあなたの力になろうとした――今だってそうです」
萌衣が顔を上げる。こちらの姿を見上げてくる。
「あなたの決めることは、必ずこの街に住む人々のためになる。そう信じてます」
「信じる必要はない、とさっき言ったはずだがな。従ってさえいれば、それでいい」
こちらの言葉に、萌衣は頷かなかった。譲れない一線は、彼女にもあるということか。だがそれでも、彼女はこちらがトリガーを引こうとするのを止めたりはしなかった。
「う……シス、ター」
最早抵抗をする様子も見せず、加嶋が呻き声を上げた。ぶるぶると震える手を萌衣に向かって差し出す。萌衣はその手を取ったが、なにを言うこともしなかった。黙って彼の顔を見返している。
その、萌衣の手を。加嶋の手が、ぐっと握り返したように見えた。
「……え?」
不意を突かれたような萌衣の声。なにをされたのかわからなかったのだろう。傍で見ていたこちらでさえよくわからなかったのだ――加嶋がなにをしようとしているのか。
どうと言うことはない。加嶋はただ、自分の手を握った萌衣の手を、逆に握り返しただけだ。握手に応じた相手に対してそうするように。
だが萌衣が不思議そうな声を上げたのは、加嶋が彼女の手を軽く引っ張ったからだった――椎名がそう気づいたのは、彼女が倒れた加嶋の方へ僅かにつんのめった時点でのことだったが。
バランスを崩した萌衣を――恐らく渾身の力を振り絞ったのだろうが――加嶋の腕が、突き飛ばした。
――こちらとは反対側に拡がる、赤い液体に向かって。
「あ……」
聞こえたのはそれだけだった。ごく短い、萌衣のつぶやき。
身体が反応した時には、もう遅かった。咄嗟に伸ばした手の先で、萌衣が赤い水溜まりの上に尻餅をつく。
瞬間。
地面に拡がっているだけだった液体が、重力を完全に無視するように萌衣の身体へと上っていった。あっという間に彼女の身体の表面を液体が包み込む。
「萌衣!」
椎名は彼女に向かって腕を伸ばそうとしたが、
「触っちゃ駄目だ、椎名さん! 生体マグネタイトを喰われる!」
背後から悠介の鋭い声が響き、椎名は伸ばしかけていた手を止めた。
その間にも地面に拡がっていたはずの赤い液体はその動きを変えており、今は包み込んだ萌衣に向かって集まってきている。液体の中で萌衣はもがいているが、彼女を包む液体はむしろ次第に厚くなっていった。
「さあ……喰え、生体マグネタイトを……」
倒れたまま、加嶋が声を上げる。二箇所の銃創から血を流し顔面は蒼白になっているが、その表情は歓喜に震えていた。
「……加嶋、貴様!」
反射的に銃口を向けるが、彼はこちらを見ようともしなかった。液体に包まれた萌衣から目を逸らさず、呻き続けている。
「俺の組んだプログラムが、間違いじゃないと……証明して見せろ! ロキ!」
「加嶋っ!!」
トリガーを引く。この距離では外しようもなく、弾丸は加嶋の背中から腹を貫通して地面にまでめり込んだ。
声にならない悲鳴を上げて地面に突っ伏す加嶋から視線を移し、萌衣の方を見やる。彼女の身体に変化が起こっていた。
赤い液体はまるで生物の内臓かなにかのように蠢いており、萌衣を中心に収めた球体のようになっている。その中で、萌衣の身体の輪郭が徐々にぼやけ始めていた。彼女を包む液体との境目が、曖昧になってきている。
「く――!」
赤い球体に向かって、椎名は発砲した。が、弾丸は抵抗らしい抵抗に阻まれるようなこともなく、呆気なく反対側へと突き抜ける。なんの変化も与えられなかった。
萌衣は苦しげに表情を歪めながら、なにかを言おうとしているのか口を動かしていた。だがそれを読み取ることはできず、そして彼女の姿そのものもほとんど見えなくなってきている。
――やがて、彼女を球状に包む液体が収縮し始めた。更に色も徐々にどす黒く変わっていき、萌衣の姿が見えなくなる。
なにが起ころうとしているのか、わからないはずもなかった。デジタル・デビルが萌衣の生体マグネタイトを取り込み、実体化しようとしている。
加嶋を除く全員が呆然と眺める中で、それは既に液体とは呼べない形状になっていた。人型だ。しかし明らかに萌衣の体型ではない――もっと大柄だった。
次第に輪郭がはっきりとしていく。浅黒い肌に、白く長い髪。指先から伸びた爪は尖っており、それ自体がなにか鋭利な刃物のようだった。顔は厳つい若者のようにも老人のようにも見えるが、少なくとも女性のそれではない。
誰の目にも明らかだった。そこに立っているのは既に、萌衣ではない。この場の誰よりも巨大な体躯を持つそれを萌衣と見紛うのは無理がある。
「や、やった……!」
まだ息があったらしく、加嶋が歓声を上げる。盛大に喀血しているが、それでも現れた悪魔を目の前にして、興奮気味に目を輝かせていた。
「そら見ろ……やっぱり、実体化したじゃないか。俺の計算通りだ……!」
どこにそんな力が残っているのか、加嶋は地面を這いずって悪魔へと近づいていった。悪魔に向かって、震える腕を伸ばす。
「ロキ……! 俺は、お前を……」
その加嶋に向かって。
悪魔は躊躇なく、足を踏み抜いた。耳障りな音を立てて、加嶋の胸に大穴が開く。果実でも地面に叩きつけたかのような光景だった。肋骨の強度など知ったことではないとばかりにあっさりと。
全員が息を飲む中で、悪魔は完全に動かなくなった加嶋の頭を掴み、片手で引っ張り上げた。大きく口を開き、抵抗する素振りも見せない――身体の真ん中をぶち抜かれて抵抗できる人間などあまりいないが――加嶋の脇腹にかぶりつく。
「うっ……!」
誰かのくぐもった声が聞こえた。吐き気でもこみ上げたのだろう。
悪魔は加嶋の脇腹の肉をそのまま噛み千切ると、音を立てて咀嚼し――笑って見せた。
真っ赤な液体が、歪んだ悪魔の口から零れ落ちた。