言葉を失っていたのはどれくらいだったか。計ったわけではないが、多目に見積もったとしても一分程度だろう。それ以上の沈黙には耐えられそうになかったのだから。
「どうなってるの……?」
呆然と。つぶやく以外にすることも思い浮かばなかったので、ただつぶやく。
「宇宙人かなんか、攻めてきたってのか?」
少年の呻きに、しかし反論すら湧いてこない。そうかもしれない、と思ってしまったからだ。
と、少し離れた場所から、なにかを引きずるような音が聞こえた。
少年とまったく同時に振り向く。が、視線を向けた先には誰もいなかった。
(……?)
眉をひそめ――すぐに、自分の勘違いに気付く。なにかは、いた。振り向いた先、その路面に。
……どう形容すれば良いものか。とりあえず聞こえた音の正体だけは判別できた。なにかを引きずっていたのではなく、それ自体が這いずっていた音だったのだ。濁った緑色のゼリーのような、あるいはコラーゲンのような何かが。
「…………」
沈黙したまま、じりじりと後退する――それから距離を取る。見ると、少年も自分と同じように下がっていた。あれが断じて下水道から流出してきた汚泥などではないと、即座に判断したのだろう。まったくもって同感だった。
「……おい」
後退しながら、少年が言ってくる。菜緒はゼリーから視線を離さずに聞き返した。
「なに?」
少年もこちらを見てはいないようだった。
「とりあえず――どこに逃げればいいと思う?」
聞かれて、考えを巡らせる。
……最寄りの交番へ向かうつもりだった。事故なり犯罪なりに巻き込まれた際の対処としては、至極真っ当な部類に入るだろう。だが、事故と呼べるだろうか? 犯罪――とは呼べるのかもしれないが、それはさて置いて。
事態が病院の中だけでなく、本当に目に見える全域に及んでいるのなら――事故というより、災害だ。この街全体が、災害に見舞われているということだ。ならば、採るべき選択肢は――
「……避難、しましょう」
「避難?」
「そう、避難場所に」
「避難場所ってーと……」
「学校」
思い当ったのはそこだけだった。ここからならば、菜緒達が通っている学校が一番近いはずだ。
少年が少しだけ声色を変えた。
「学校ね……安全だと思うか?」
「でも、他に避難場所って知らないから……」
「……まあ、俺も知らん」
それだけ言って、菜緒は一瞬だけ少年と視線を合わせた。互いに小さく頷き、そして。
同時に踵を返し、全力でその場から駆け出した。
緑色の影が完全に見えなくなるところまで全力疾走して、菜緒は細い路地へと飛び込んだ。少年の方はと言えば、こちらのかなり前方を走っていたためか、既に立ち止まって周囲に視線を向けている。
「い、いる? 近くに」
「いや、この辺にはいねえな。学校に向かうなら、足が欲しいところだが……」
「足?」
「徒歩で行くよりゃマシだろ」
「……タクシーでも走ってる?」
見渡してみるが、タクシーどころか車も人影も見当たらない。
「どっかにバイクでもねえかな」
「……免許、持ってるの?」
「ねえ」
「それじゃ運転できないじゃない。しかも勝手に乗ったら犯罪よ」
「こんな状況でそんなコト気にしてどうすんだ」
「するわよ、普通は」
呆れたように言ってくる彼に、ややむっとして言い返す。
「なら自転車でもいい」
「だからそうじゃなくて、人の物を勝手に……」
「歩いてけってのか?」
「そんなに遠いわけじゃないし、そうするしかないんじゃない?」
「あーそうかよ」
不機嫌そうに言い放つと、少年はさっさと歩き出した。慌てて菜緒もその後を追う。
彼のやや後ろを歩きながら、菜緒は声をかけた。
「あの、あなた……確か、
少年は無言だった。一応返事を待ってみるが、無駄らしいと判断して後を続ける。
「その、すぐには思い出せなかったんだけど……前に、先生から聞いたことがあって」
「先生から、ね」
少年――椎名が肩をすくめる。苦笑したようだった。
「なんて聞いたかは、言わなくても大体わかる。素行が悪いだとかなんとか、そんな感じのことだろ?」
「え? え、いえ、それは……」
返答に詰まる――まあ、概ね彼の言う通りだったのだが。しかしそれをそのまま口にするわけにもいかず、菜緒は僅かに視線を外した。
「その、あなた、あまり学校に来てないみたいだって――」
「あまりじゃねえな。三年になってからは、二日しか行ってねえ」
「えっ?」
校内でほとんど見かけないらしい、としか聞いていなかったので、つい聞き返してしまう。
「あの、それは、どうして……」
「どうでもいいだろ」
吐き捨てられる。菜緒は不躾な質問をしてしまったことに後悔を覚え、視線を落とした。確かに、個人的な事情に単なる好奇心から口を挟むというのは、褒められたものではなかったかもしれない。
そのまま、黙って歩く。彼が気分を害したのかどうかは窺い知ることができないが、それを確認するのも無遠慮な行為だろう。
ややあって。
「……あんたは?」
と、彼の方が口を開いた。
「え?……わたし?」
「だから、名前。それとも『あんた』呼ばわりでいいのか?」
いいならそうする、と続けてくる。
……そういえば、自分の名前を言っていなかった。菜緒は更に失態を重ねてしまった事実に打ちのめされつつ、
「あの、わたし、A組の
「ふーん。知らねえな」
あっさりと、彼は興味を失ったようだった。初めからなかったようにも思えるが。
今度こそ本当に、会話が途切れた。椎名は既に話すべきことは残らず話したとでも言いたげな様子で、なにかを言ってくるような気配もない。
――もっとも、会話がないから静かなのかと言えば、断じてそんなことはなかったのだが。やや遠くなってはいるものの、先程からずっと周囲の混乱が様々な音に乗って伝わってくる。悲鳴、足音、サイレン、発砲音、ぱちぱちとなにかの爆ぜるような音、重量のあるものが転倒する音――そしてやはり悲鳴。菜緒は耳を塞ぎたくなった。
病院で目の当たりにしたものを思い出す。動く死体に、剣を持った骸骨、紫色の肌をした小柄な何か。それと、たったさっき見た緑色のゼリーのような半透明の塊。あんなわけのわからないものが、本当に街中に現れているのだろうか?
馬鹿げている。そんな事態はフィクションか、夢の中だけで充分だ。いや、夢だとしたら悪夢としか言いようがないので、それも願い下げか。だがいくら馬鹿げていたところで、手の中の拳銃の重みは間違いなく本物だし、あの紫色の化物を撃ち殺した時の感覚はしっかりと腕にも脳裏にもこびりついたままだ。自分がこれまで無条件に信じていた常識を疑えばいいのか、それともこの不快な感覚を疑えばいいのか、菜緒には判断がつかなかった。
そういえば、と手の中の拳銃に視線を落とす。先程は緊急事態だったとはいえ、これをこのまま持ったままというのはまずいのではないだろうか。どう考えても椎名がこれを警官の許可を得た上で借り受けたとは思えないし、彼が今持っている剣も含めて、銃砲刀剣類の不法所持になりかねない。既に撃ってしまったのはまあ、正当防衛として認めてもらうとしても。
とりあえず警察官に会えたら返せばいいだろうと思い、制服のポケットに入れておく。暴発したりしませんように。
……視線を前に戻す。椎名の背中へと。
彼に対して言った通り、教師達から何度か、彼に関する評判は聞いたことがあった。まあ有り体に言ってしまえば、校内に何人かいる問題児のうちの一人といった程度のもので、生徒の間でも噂らしい噂になったこともない。目立ったところで問題を起こしたのであれば当然後ろ指を指されるなりなんなりするのだろうが、彼の場合はまず登校してくる機会そのものが少ないらしいのだ。だから菜緒も教師達から問題児と称されている他の生徒と比べて、印象に残っていなかった――実際、辛うじて思い出せたのは苗字だけで、下の名前が出て来ない。割と珍しい名前だったような気がするのだが。
(なんていったかしら――確かこう、不良っぽくない感じの)
不良っぽい名前というのがどんなものかはさて置き、首を傾げる。役職上、在校生の名前はなるべく記憶していたつもりだったのだが――
と、前を歩いていた椎名が立ち止まっているのに気づき、菜緒は同じように歩みを止めた。
「どうしたの?」
彼の視線はこちらと反対側に向けられていた――この路地の先、大通りへと。
「……あれ、何に見える?」
「あれ?」
彼の隣まで移動し、前方を見やる。そこにあったのは――
「バス、に見えるけど」
見たままを答える。青と白のカラーリングをしたバスがこちらに腹を見せて横転していた。
少年の声音に、どこか神妙な色が混じった。
「……ありゃ、機動隊の人員輸送車だ」
「えっ?」
一瞬、彼の言葉がまったく未知のものに思えて、菜緒は思わず彼の顔を見やった。
「見たことがある……こりゃ、警察もどうなってるかわかんねえな」
「え、機動隊って……ええ?」
「警察があの有様ってことは、相当の数がいやがるな……自衛隊が出張ってくるのも、そんなに先のことじゃなさそうだ」
言うと、椎名は再び歩き出した。返事らしい返事も思い浮かばず、菜緒もその後に続く。
大通りに出る手前で立ち止まった。首だけを覗かせ、周囲を見渡す。
「……いる?」
反対側を見ている椎名に小声で尋ねる。
「少し遠いが、いる。無視した方がいい」
「無視、できそう?」
「デカい音立てなけりゃ、大丈夫だろ」
彼の見ている方へと視線を動かすと――五十メートルくらい先に、いた。青い肌をした子供のような人影。ただし人間でないことは間違いない――尻尾が生えているし、なんに使うのかはわからないが巨大なスプーン(スコップかと思えたほどだ)を持っている。よく見るとスプーンの先端が燃えているようにも見えた。油でも乗せているのだろうか。
椎名と目配せしてから、物音を立てずに、且つ素早く、通りの反対側へ向かって駆け抜けた。横転したバス――ではなく、機動隊の人員輸送車?――の陰へと飛び込み、再び先程のスプーンを持った青い人影の方を見やる。
「……気付いてねえな。さっさと行くか」
「よかった……」
胸を撫で下ろし、輸送車の陰へと首を引っ込める。そのまま輸送車のドアの方へと回り込み――
「……おい、なにしてやがる」
「え?」
背後から椎名が声をかけてくる。菜緒は横転しているせいで上を向いてしまっているドアに両手を伸ばしたままの体勢で、首だけを彼へ向けた。
「なにって、中に警察の人がいるかもしれないじゃない」
「…………」
椎名が沈黙する――意表を突かれた、というような表情だった。菜緒としてはむしろ彼がそういった表情を見せたことに意表を突かれたが。
彼はなにかを考えているように見えた。ただしほぼ一瞬で結論は出たようだったが。その結論なのだろう、端的に言ってくる。
「あー……お前、アホなのか?」
「どうしてよ」
聞き捨てならず、即座に言い返す。今まで誰にも自慢したことなどないが、これでも中学の頃から学業だけは疎かにしていないつもりなのだ。ほぼ唯一と言っていい、自分が他人に対して胸を張れる部分である。
が、椎名にとってはそんなことはまったくもってどうでもよかったのか、あるいは知ったことではないのか、毛程にも表情を変えずに言ってくる。
「いるわけねーだろ。いたとしてもバケモンにやられた後だろうし、生きてたところで動けない状態だろうよ」
「いるかもしれなくて、生きてるかもしれないなら、出してあげないと。助かるものも助からないじゃない」
「……助けてどうすんだ?」
聞かれて、少しの間考える。もし怪我をしているなら、しかもそれが重傷だったりするなら、自分達に治療の手段などない。となれば――
「えーと、一緒に避難場所まで」
「お前、アホなんだな?」
こちらの科白を遮って、椎名がきっぱりと言ってくる。菜緒は再び反論しようとしたが、それよりも早く椎名は後を続けてきた。
「学校まで連れてくって、お前がか? 背負ってくつもりかよ? 機動隊員を? 仮に背負えたとしても、一メートルも進めないと思うがな」
「え、それは……」
「俺はごめんだ。そんなもん背負ってたら、バケモンの餌にしかならねえ」
それだけ言い募ると、彼は踵を返した。そのまますたすたと歩いていってしまう。
「あ――」
呼び止めようとするも、あまり大きな声を上げれば通りの向こうの怪物に聞こえてしまうかもしれないと思い出し、菜緒は口を噤んだ。そのまま、動きを止める。
間違ったことは、言っていない。もしこの車の中にまだ人が残っているとして、そして生存しているとしても。恐らく装備に身を固めた屈強な機動隊員であり、その人物が自力ではこの中から出られないような怪我を負っているとしたら、自分ひとりでは到底運び出すことなどできないだろう。無論、椎名が手を貸してくれるのであれば、その限りではないのだが――
(わたしひとりじゃ、なにもできないかもしれない……けど)
菜緒は両腕に力を込め、懸垂の要領で身体を引っ張り上げた。輸送車の腹から突き出したなにかのパーツに足をかけ、ドアのある側面へとよじ登る。
ドアは開いていた。とりあえず上半身だけをその中へと突っ込ませ、車内を覗き込む。
「……ひっ!?」
思わず悲鳴が漏れた。ほぼ目の前に、つまりは運転席のところに、死体が転がっていたのだ。警察官――だろう、間違いなく。喉から流れ出たと思しき血がどす黒く変色し、シートとその周辺を盛大に汚している。慌てて視線を逸らすと、フロントガラスが割れていた。
反対側へと顔を向ける。運転手以外には――その死体以外には、車内には誰もいないようだった。
「あの……だ、誰かいますか? いたら返事を……」
声をかけてみるが、返事はない。やはり無人なのだろうか、と思ったところで。
(……?)
菜緒は違和感に気付いた。なにかがおかしい。と言っても車内の様子ではなく、異変が起こっているのは自分の方だ。自分の身体――膝と腿の裏に、なにか妙な感覚がある。熱のような。
なにかと思い、菜緒はドアの中に突っ込んでいた上体を引き上げた。後ろを見やる。
「……!」
否応なくそれが目に入り、菜緒は言葉を失った。スプーンを持った青い人影が、腕を伸ばせば届きそうな位置から首を傾げてこちらを見上げている。
――これ以上ないほどの驚きで、腕が滑った。為す術もなく車体から落下し、その場に尻餅をつく。
こちらの行動を見て、スプーンの持ち主はやはり首を傾げていた。なにがそんなにおかしいのかはわからないが、即座に襲い掛かられなかったのは僥倖だったと言うしかない。菜緒は立ち上がろうとし――目の前の青い怪物が、不自然に裂けた口の端を歪めるのが見えた。
(……っ!?)
咄嗟に立ち上がるのを中断して、菜緒は横に転がった。およそ食器には似つかわしくない音を立てて、燃えるスプーンの先端が一瞬前まで自分がいた路面に叩きつけられる。
転がった勢いそのままに立ち上がる。スプーンを振り下ろしたままの体勢で、怪物はこちらを見据えていた。再びスプーンを振り上げ――
微塵の躊躇もなく、菜緒はその場から走り出した。今日二度目の全力疾走だ。倒れた輸送車を回り込んで、先程椎名が歩いて行った方へと向かう。
振り向くべきではない、と本能的ななにかが告げているのはわかっていが、振り向かずにはいられなかった。肩越しに、後ろへと視線をやる――
(いる!)
案の定、スプーンの持ち主はこちらを追いかけて来ていた。ただし流石にコンパスの長さの差か、こちらに追いつきかねないほどのスピードではなかったが。このまま走り続けていけば、振り切ることは不可能ではないだろう。
(このスピードが続けば、だけど)
恐らく二十秒ももたないだろう。自慢ではないし自慢にならないが、体力にはそれほど自信はないのだ。
が、体力の心配は無用そうだった。再び後ろに視線を向けると、青い怪物は走りながらスプーンを振りかぶっている。
(え、ちょっと――)
振り下ろしたところで、届く距離ではない。だがその怪物の目的がスプーンを叩きつけることではないことは、考えるまでもなかった。慌てて上体を思い切り屈める。
ごうっ! と、なにかが屈めた背中を掠めて通り抜けていった。そのまま前方の地面へと落下し、火柱を上げる――スプーンの中身を投げつけたのだろう。
当たりこそしなかったものの、避けるために随分と速度を犠牲にしてしまった。背後の気配はすぐそこまで迫っている――見なくともわかる。のだが、菜緒は再び振り返ってしまった。
怪物は、真後ろにいた。既にスプーンを伸ばせば届く距離だ。考えるよりも先に、菜緒はポケットに手を突っ込み――どう考えてもそれより早く、スプーンが振り上げられた。
次の瞬間、真横からなにかが飛び出してきた。
(――!?)
なにかが宙を舞う。続けて、からんという金属的な音。急に小さくなった怪物の身体が地面に倒れ込んだのは、それから二秒ほど後のことだった。
あまりにも突発的な事態に理解がまったく追いつかず、菜緒は思わず足を止めていた。
――順を追って、状況を飲み込む。まず怪物は、既にこちらを追いかけていなかった。その場に倒れ、ぴくりとも動いていない。スプーンも取り落とし、地面に転がっていた。そして怪物の身体が若干小さくなっているように見えたのは、首から上が分離して別の場所に落下しているせいだ。そして最後に――胴体から離れた怪物の首のすぐ近く、菜緒の腹辺りの高さに、横手からなにかが伸びていた。その根元へと視線を動かすと――
「……椎名くん」
物影に隠れたまま剣だけを突き出した格好で立っている彼に、菜緒は声をかけた。ようやく理解が及ぶ――こちらが通り過ぎるのを見計らって剣を突き入れ、怪物の首を刎ねたのだろう。
途端に全身から力が抜け、菜緒はその場にへたり込んだ。ついでに、全力疾走の反動か一気に疲労が湧き上がってくる。が、それでも礼だけは言っておかなければならない。
「あ、ありがとう……助けてくれて」
「後ろから襲われたらたまらんからな。ひとりで人助けするのは勝手だが、俺の方にバケモン連れて来るんじゃねえよ」
剣に付着した怪物の体液――なのだろう、たぶん――を振り落としながら、椎名が忌々しげな口調で言ってくる。まったくもって返す言葉もなく、菜緒は項垂れた。
まだ立ち上がれそうにはなかったが、椎名はこちらを待つつもりはないようだった。さっさと先へ進んでいる。脚はまだ震えていたが、菜緒はどうにか立ち上がり、椎名の後を追った――なんだか病院から、何度もこうして彼を追いかけているような気がする。自分と彼とでは歩幅が違うので仕方がないことなのだが。
いや、それだけではない。歩幅だけの問題ではない。
――つまりは、自分は彼に助けてもらっているが、彼の方は恐らくこちらの助けなど必要としていないだろうということだ。だから彼はさっさと先に進もうとするし、自分は彼の後ろについていくしかない。当然と言えば当然の構図だ。
とは言え、異常事態なのだ。これ以上ないくらいに。であれば、自分の反応はそれほど常軌を逸したものではない……はずだ。むしろ彼の方がこの状況に適応しすぎているような気もする。自分と同じ年齢のはずなのに、なぜこうも落ち着いていられるのか。このわけのわからない状況下にあって、なぜ必要なものとそうでないものをきっぱりと区別することができるのか。
(……そういうふうに育った、とか)
そういう育ち方というのが具体的にどんなものなのかは、およそ考え付かないが。
恐らく自分は相当に平凡な家庭で育ったのだろうという自覚が、菜緒にはあった。貧困に喘ぐでもなく、かと言って余分な資産があるわけでもなく。一人っ子なので学費にはそれほど苦労してはいないはずだが、母親は専業主婦だ――父親の収入だけで賄っている以上、それが限界だったのだとも言える。菜緒自身、自分で自由になるお金が欲しいのなら自分で稼ぐように言いつけられていた。と言っても特に欲しいものも思いつかず、また生徒会の仕事に時間を取られがちなので、バイトなどしたことはないのだが。
(あ、でも……)
いつだったか、家庭事情をクラスメイトに話した時に、眉をひそめられたことを菜緒は思い出した。あれは――そう、確か携帯電話を持っていないと話した時だ。あの時の周囲の反応は控え目に言っても驚天動地といった様子で、なにか両親から深刻な虐待でも受けているのではないかと心配すらされた。無論それは大いに勘違いであり、我が家では昔からそういう教育方針だったのだと弁明したのだが、それに対する評価は、これも心外なものだった――ちょっと菜緒の家、厳しすぎるんじゃない?
言われたその時は、そんなことはない、うちは普通だ、と言い張ったのだが。
と。
(あ、そうだ)
ふと思い当り、菜緒は椎名に声をかけた。
「あの、椎名くん……携帯、持ってない?」
「あん?」
いきなりなにを言い出すのかといった様子で、椎名が肩越しに振り向いてくる。
「だから、携帯。ほら、最近の携帯ってニュースとかも見られるし、地図代わりにもなるんでしょ? 交通情報とか」
「あー……言いたいことはわかった」
こちらの言わんとしていることを察してくれたらしく、椎名は頷いた。視線を前方へと戻す。
……そのまま、待っていたが。
「椎名くん?」
彼がそれ以上のリアクションを寄越してこなかったので、菜緒はもう一度呼びかけた。椎名はこちらに背を向けたまま、
「いや、わかったっつったろ」
「ええ。だから、携帯」
「おう、わかってるぞ。あれば便利だよな、携帯」
「……椎名くん?」
やはりこちらを見ないままの彼に、菜緒は眉根を寄せた。もしやと思い、聞いてみる。
「もしかして……携帯、持ってないの?」
椎名がようやく振り向いた。こちらを非難するような表情だったが。
「持ってねえよ。そんな余裕ねえんだよ」
「ええ? だって、みんな持ってるのに……」
「うっせえよ! だったらお前の使えばいいだろが!? 人ばっかアテにすんな!」
「わたしも持ってないから言ったんじゃない!」
「だったらみんな持ってるとか言うな!」
「持ってるのが普通だと思うじゃないの!」
「お前だって普通じゃねーじゃねーか!」
「そうよ! 悪い!?」
「だったら俺も悪くねーだろ!?」
そう言われては反論の余地もなく、菜緒は返答に詰まった。が、椎名の方もこのやり取りが恐ろしく不毛なものであると気付いたのか、嘆息してみせる。
「……とにかく、俺は携帯なんて高級品は持ってねえ。学費だけでもカツカツだってのに……」
「え?」
彼の言葉の意味を反芻し、次いで湧き上がった疑問を口にする。
「あなた、自分で学費稼いでるの?」
「……独り暮らしだからな。学費だけじゃねえよ」
「え……生活費まで?」
「いや、流石に全部は無理だ。指導員のオッサンから、いくらか援助を……」
そこまで言ってから、しまったというように口に手を当てる。
「……指導員?」
「いや、なんでもねえよ。とにかく携帯にゃ頼れねえから、さっさと学校行くぞ」
菜緒の言葉に、しかし椎名はこの会話はもう終わりだと言うように手を振ると、視線を前方へと戻した。
(指導員? って、ひょとして……)
彼が口走った単語に、記憶のどこかで思い当るものがあった。そうだ、聞いたことがある――が、それは。
(これは、ちょっと聞けない、かな)
流石に不躾というレベルではないし、なにより彼自身がこの話題を避けたということは、触れられて喜ばしいものではないのだろう。またしても失態を犯すところだった。
周囲に視線をやる。話しているうちに、いつの間にか目的地へと近づいていた。
校門が見えた時点で、尋常な様子でないことはすぐにわかった。と言うか、校門は見えなかったのだが。
「あれって……」
「……なるほど。ま、こうなるわな」
校門の前には、校内の備品などを寄せ集めたのだろう、即席のバリケードが築かれていた。そしてその手前には、ちょっとした人垣が出来上がっている。恐らくは自分達と同じ理由でここへ来たのだろうが――
「落ち着いて! 一斉には無理ですから、順番にですね――」
「いいから早く中に入れろよ! 死ぬ思いで来たんだぞ!?」
「子供だけでも、先にお願いします! この子だけですから!」
「怪我人がいるんだ! 放っといたら死んじまうよ!」
バリケードの内側で両手を広げているのは教師だろう。その手前に、およそ二十人ほどが殺到している。菜緒はそちらへと駆け寄って行き、声を張り上げた。
「みなさん、気持ちはわかりますけど落ち着いてください! 慌てるとその方が危険ですから!」
「あ? なんだ?」
人垣の中の何人かがこちらへと振り返ってくる。教師もこちらに気付いたらしく、
「おお、相澤か? すまんがちょっと手伝ってくれ! 俺だけじゃなんとも――」
「
積み上げられた即席バリケードを指差して尋ねる。教師は渋い顔を浮かべた。
「いや、どかすとまた積み直すのがな……とにかく並んで! 並んでください! 入れますから! 大丈夫です!」
「みなさん、お願いします。一列に並んでください。椎名くん、ちょっと手伝って――」
助けを求めて椎名の方を見ると、彼は軽く肩をすくめたようだった。
「……やってられるか」
あっさりとそう言い放ち、バリケードと校門からやや離れたところの壁に手をつく。そこから僅かに助走をつけて壁を一蹴りしたかと思うと、次の瞬間には大きく跳躍し、壁の上へと身を躍らせていた。そのまま向こう側へと飛び降り、敷地内に入っていく。
「あ、ちょっと椎名くん――!」
呼び止めるが、彼は振り向きもせずに校舎の方へ歩いて行ってしまった。
「なんだ、だったら俺も――」
その様子を見ていたのか、誰かが思いついたように声を上げる。菜緒は慌てて静止した。
「ちょ、ちょっと待ってください。無理ですってあんなの! 上れませんよ!」
「今のガキは上ってたじゃねえか!」
「彼が普通じゃないんですよ! 見ればわかるでしょう!?」
実際、壁は菜緒が精一杯手を伸ばしても先端に届かないほど高いのだ。それを壁を蹴った反動を利用したとはいえ、脚力だけで平然と飛び越えた椎名の運動能力は尋常でないとしか言いようがない。
「とにかく並んでください! 木暮先生、先頭の人から早く――」
「おお、すまんな相澤。それじゃここから入れますから、くれぐれもひとりずつでお願いしますよ。それと、敷地内に入っても慌てて走らないように!」
そもそもがそれほど多い人数でもなかったからだろう。整列してもらった上で順に誘導していき、全員が中へ入り終えるまで五分とかからなかった。
「……ふう」
最後のひとりが校門を潜るのを見届けてから、菜緒もまたバリケードの隙間から中へと入る。
「いやあ、すまんな相澤。おかげで助かった」
「あの、木暮先生。これってやっぱり……」
「ああ、あの怪物達が入って来れないようにな。まったく、なんなんだあれは……一体どうなっとるんだ」
その疑問には答えることができず、菜緒は黙って学校の敷地内へと視線をやった。恐らく避難して来たのは今の一団だけではないだろう。校舎と体育館の両方の入り口で、教員や生徒、そして警察官らしき人影が忙しなく動き回っている。
「たぶん……ここだけじゃ、ないんですよね」
「他の避難場所も似たようなものだろうな。まったく、あの怪物どもはどこまで広がっとるのか……とにかく相澤、体育館の方も頼む。俺はここを見張っとるからな」
「あ、はい。わかりました」
頷いて、菜緒は歩き出した。
と。
「あー……ところで相澤。さっきの、椎名だよな?」
背後から声をかけられる。菜緒は振り返った。
「え? ええ、そうですけど」
「あ、やっぱり見間違いじゃなかったか……いや、珍しい組み合わせだったからな。お前と椎名が一緒っていうのも」
「病院で会ったんです。わたし、村中先生の件で――」
「病院にいたのか? 椎名が? あいつ、どこか悪くしとったのか?」
「え? いえ、そこまでは聞いていませんけど」
「そうか……ああいや、呼び止めてすまんかった。行ってくれ」
「はい」
もう一度頷き、改めて体育館へと向かう。
体育館の手前まで来たところで、入口に立っていた女子生徒がこちらに気付いたようだった。手を振ってくる。
「あ、会長! 無事だったんですか!」
「ええ。心配かけちゃった?」
「そりゃもー心配しましたよ! だって外、あんなじゃないですか!」
あんな、の一言ですべてを表現したつもりらしい。確かに、他に言いようもないかもしれないが。彼女はなにかを値踏みするようにじろじろとこちらを眺め、
「でも会長、よくここまで無事に戻って来られましたね。あの変なのに襲われなかったんですか?」
って言うかどうして生きてるんですか? と続けてくる。まあ悪気がないのはわかっていたので、菜緒は安心させる為に軽く笑みを浮かべて見せた。
「襲われたわよ。病院でも、ここに来る途中にもね。けど、なんとか逃げて来られたわ」
「そうだったんですかー。運が良かったんですね。あの変なのに襲われて、死んじゃった人もいっぱいいるみたいですよ?」
「……そう、みたいね」
病院と、そしてあの輸送車の中と。間近で見た死体が脳裏に甦る。一歩間違えれば自分も椎名も、ああなっていてもおかしくはなかったのだ。
「連絡しようとしたんですけどー、会長、携帯持ってないじゃないですか。だからゼッタイ持ってた方がいいって、いつも言ってるのにー」
「……そうね。それは今日、思い知ったわ」
「まあ持ってたところで、通じなかったんですけどねー」
さらりと言ってくる。え? と菜緒は聞き返した。
「通じなかった、って……携帯が?」
「そーなんですよ。回線がパンクしたらしいんですけど、ちっとも復旧しないんです。もーサイアクですよ。家にも連絡つかないし」
「え……あなた、御家族は避難して来てないの?」
「来てないみたいですー。あ、会長の家族の人も来てませんよ」
「…………そう」
短く答える――自宅とこの学校とは、一駅程度しか離れていない。会社に行ったはずの父親はともかく、自宅にいる母親と祖母が避難場所として選ぶのは、ここしかないはずなのだが――
「あ、その、だ、大丈夫ですよ! ちょっと遅れてるのか、ヨソに避難したんですって、きっと!」
なにやら慌てた様子で言ってくる。気を遣わせてしまったらしい。菜緒は気付かぬうちに退散させてしまっていた笑みを再び浮かべて、
「ええ、ありがとう。あなたの御家族こそ、無事だといいわね」
「あー、ウチのは……どーでしょね。どっか遊びに行ってるだけってセンもあるしー」
ばつが悪そうに言ってくる。と、そこで菜緒は思い出し、
「……そう言えばさっき、椎名くんが来なかった?」
「……はい? 誰ですか?」
「だから、椎名くん。こっちに来なかった?」
「えーと……ウチの生徒、ですか? ちょっと、聞き覚えがないんですけどー」
本気で思い当たらないらしく、首を傾げている。まあ、この反応も仕方がないといえば仕方のないところではあるだろう。
菜緒はかぶりを振った。
「いえ、知らないのならいいわ」
「そですかー」
特に気にした様子もなく、彼女は納得したようだった。
(まあ、学校のどこかにはいるわよね)
こちらも納得しておくことにして、菜緒は体育館へと入って行った。