ずるり、とロキの身体の上半分が傾き、そのまま地面へと落下する。それを見届けても尚、椎名もケルベロスも、そして不意の闖入者も動こうとはしなかった。椎名がロキの身体を両断した体勢そのままに、刀の切っ先を闖入者の眼前に突き付けている。
「――お前、この間の盗賊の仲間だな」
倒れずに残っているロキの下半身を間に挟んで、椎名が目の前の人物に問いかける。いや、人でないことは明らかだ。今もまだ、その誰かの右腕は異形のままなのだから。
無論のこと、椎名にもそれが見えていないはずはないだろう。舌打ちするのが聞こえた。
「ったく、プランクだけかと思ってたらこれかよ。どうやら例外ってヤツは、俺の思ってた以上に多いみたいだな」
忌々しげな口調だった。確かに椎名本人を別とすれば、プランクにロキ、そしてそこにいる誰かと、椎名の張った壁を無視して入り込んだ悪魔の数は決して少なくない(まあロキの場合は厳密には異なるのだが)。
と、顔を隠したその悪魔が立ち上がった。椎名が素早く反応して刀を押し出すが、尋常でない身のこなしでそれをかわしたかと思うと、彼の背後へと移動する。
「ちっ!」
椎名の切り返しも恐ろしく速いとしか言いようのないものだったが、しかしその場で半回転しつつ振り抜いた刀が悪魔の身体を捉えることはなかった。悪魔は一瞬で椎名から数メートル程離れた場所まで移動している。
――その足元に、引きずったのだろう、ロキの上半身が転がっていた。
「おい、なんの――」
つもりかと、そう尋ねるつもりだったのだろう。だが悠介は予期していた。悪魔がどうするつもりなのか。
悪魔は整列した刃物のような指を大きく広げると、腕を伸ばしてロキの頭に掴みかかった。先程耳にしたばかりの音と同じものが響き、ロキの頭があった場所から血飛沫が飛び散る。
「お前、なにを――!?」
椎名は驚いているようだったが、悠介は得心していた。
あれは、口だ。指に見えていた刃物のようなものは牙で、ロキの頭を噛み砕いたのだ。恐らく先程のテンプルナイトの頭部も、こうやって喰われたのだろう。
(つまりこの場にちょっかいを出してきたのは、食事のためか)
すぐにロキの肩へと牙を突き立て、今度は腕を引き千切った。明らかに悪魔自身の腕よりも太いそれを、圧縮でもしているのかと疑いたくなるくらい一瞬で、掌に開いている喉へと吸い込む――いや、飲み込む。消化だとかそういった概念はないのだろうか、などと悠介は考えた。
「ゆ、悠介……」
と、背後から有紗が声をかけてくる。悠介はそちらへと首を向け――
「有紗?」
彼女の顔が青ざめていることに気づき、眉をひそめた。よく見れば肩も小刻みに震えている。
有紗はこちらを見ていなかった。真っ直ぐに――椎名の対面にいる悪魔の姿を見据えている。
「あの、あくま……!」
尋常な様子ではなかった。彼女の形相にただならぬものを感じつつ、もう一度悪魔の方へと振り返る。
悪魔の食事はあっという間に終わろうとしていた。嚥下するのに一秒とかけていないのだから、時間などかかるはずもないが。
そして、最後の一片へと悪魔が手を伸ばした瞬間に。
先に飛び掛かったのはケルベロスだった。椎名の背後から飛び出すようにして直進するが、悪魔はそれを見越していたのかロキの肉片をケルベロスへと投げつける。それでケルベロスの視界を塞げたのは一瞬だけだろうが、十分だったらしい。ケルベロスが着地した時には既に、そこに悪魔の姿はなかった。更に後方へと移動している。
矢のような速さで、そこへ椎名が迫っていた。突進しつつ真横に振り抜かれた刀を、悪魔は真後ろへと跳躍して寸でのところで避けた――避けたつもりだったのだろう。
椎名の振るった刀の切っ先は、悪魔の肉にも肌にも触れなかったが、しかし届かなかったわけではなかった。
はらり、と。悪魔の顔を覆っていた布が、解けて地面に落ちる。
それを見て、悠介は。
「………………え?」
途方もなく間の抜けた声を、思わず上げていた。
この期に及んで、人類の智慧に疑問符を付けるような酔狂な輩というのもいないだろう。その是非はさて置いて、人類は賢しい生き物だ。それだけは間違いない。
与えられたものを、あるいは偶然手にしたものを、ただ享受するだけでは終わらせない。そこで満足してしまうことはない。ならばどこに至れば終わりと言えるのか、どうすれば満足するのか。
終わりなどないと言うものもいる。満足などしないと、そう言い張るものもいる。人間はいつか死ぬのだから、ならばそれが終わりだと、死を迎えるその瞬間にこそ満足を得るのだと、そう言うものだっている。
結局のところ、悪魔召喚プログラムと共にもたらされたテクノロジーとノウハウにしても同じことだ。人はどこまでも解き明かさずにはいられない。それによってこの宇宙を構成する情報と因子にまで手を届かせたとしても、やはり終わらないのだ。歯止めをかけるようなことはない。
そこに是非はないのだろう。智慧とはそういうものだ。
とは言え、現実へと目を向ければ。
高々プログラムひとつから得られる知識に、限界がないわけはない。調べ尽くしてしまえば、今度はその知識を応用して別の分野へと手を伸ばす。
シュバルツバースから現れた悪魔という脅威を一旦乗り越えた人類が、与えられた知識を動員して次になにを考えたのか。想像に難くないだろう。
即ち、悪魔を利用すること。