なによりも真っ先に驚いたのは、目が覚めたという事実そのものだった。
そんなはずがないと。目覚めるはずなどないと思っていた。なぜそう思っていたのかは、自分でもよくわからないが。
なので菜緒が気が付いて最初にしたことと言えばよくわからないまま驚くというものだったのだが、まあ理由がないのだから長続きするはずもない。数秒程――そう思い込んでいただけで、実際にはもっと長いこと驚いていたのかもしれない――ぽかんとしてから、すぐに疑問へと取って代わった。
(……どこ?)
考えられた疑問はそれだけで、しかしすぐにどうでもいいことのようにも思えた。それ以上を考えられず、疑問を解消しようという気にもならない。眼前にあるのがなんなのか、それすらもどうでもいい。一度開いてしまった瞼を再び閉じることもだ。
(だるい……)
全身を猛烈な倦怠感が覆っていた。身体だけではなく、頭の中もだ。思考にベクトルを持たせることができない。かと言って考えないようにすることすらできなかった。
(だるい…………)
意味のある思考ができない。まったく無意味なつぶやきをただ頭の中で漏らすことしかできず、そしてそれを無意味だと判断することさえ脳が放棄している。できないのではなく、する気にならない。同じことかもしれないが。
完全に無為な時間を、そのままどれくらい過ごしていたのか。少なくとも短い時間ではなかったようにも思えたが、なんの根拠もない。ともあれ文字通りなにもせずにいると、やがてそこにノイズが走った。音が聞こえたのだ。扉を開く音だった。
「え……?」
続いて声。どこまでも無意味に続く思考の静寂をかき乱す雑音だった。それを煩わしいと思うこともなかったが。
「あなた! シスターが……!」
するつもりなどなかったのだが、反射に限りなく近いなにかが勝手に理解していた。扉を開けて入ってきた誰かが、振り返って声を張り上げたのだ。
すぐにどたどたと足音のようなものが近づいてくる。しかしそれもすぐに止み、再び声が聞こえた。
「起きたのか!?」
先程とは別の声。そのまま二人分の足音がこちらへと近寄り、すぐ傍で止まった。向けていた視線の先に、男と女の顔がそれぞれひとつずつ現れる。
(……誰?)
ノイズに対する抵抗を意識が勝手に行ったのか、菜緒はようやくそれだけを考えることができた。どちらも知らない顔だ。もっとも記憶の中から思い当たるものを探そうとはしなかったのだから、誰の顔であってもわからなかっただろう。
「シスター、気が付かれましたか?」
上からこちらを覗き込み、女の方が言ってくる。更にその顔が動き、こちらの顔の真上にやって来た。相手が移動したのではなく、自分の眼球がそちらへと向いたのだと、そう理解するのに数秒を要した。
「……シスター?」
目を向けて、しかしそのままなんの反応も見せようとしないこちらに不審を抱いたのか、女が眉をひそめる。その女に向かって、男が問いかけた。
「本当に起きてるのか? いやまあ、確かに目は開いてるが」
「あの、シスター? わかります? もしもし?」
こちらの眼前でひらひらと手を振って見せる。それは正直言って多少煩わしかったので、菜緒は止めるよう頼んだ。口から出たのは、まったく違う言葉だったが。
「誰……?」
こちらが反応を見せたことになにやら安堵したように息を吐き出し、女が手の動きを止める。そして再び聞いてきた。
「気が付かれましたか、シスター? あの……私たちのこと、わかります?」
「いや、わかってないんじゃないか?」
こちらが返事をするよりも先に(返事などするつもりはなかったが)男の方が女に告げる。
「どうも、まだぼんやりしているようだ。記憶が混乱しているのかもしれないし」
「……それは、そうね」
神妙な面持ちで女が頷く。続けてこちらへと向けられた視線は、ひどく同情的なものだった。
(……?)
意味がわからない。彼女はなにを哀れんでいるのだろうか。というか、これは本当に哀れみの類なのだろうか。視線に込められた意味が変わったということ自体、錯覚に過ぎないのではないか。
「ここは……どこ」
またしても、違う言葉が口から出る。どうやら自分のまったく把握していないところで、制御を離れた理性だけが彼等の言葉の意味をどうにか汲み取ろうとしているらしい。だるいからなにも考えさせるな、と訴える理性以外のものを無視して。
無論その訴えは目の前の二人にも届くことはなく、返事は理性の放った言葉に対してのものだった。
「大丈夫、もうあの悪魔たちはいません」
「教会からは結構離れてるんだ。あの悪魔たちがどこに姿を眩ましたのかはわからないが、しばらくは見てない。もう立ち去ったんだと思う」
「悪魔……?」
余計な雑音だ。自分はなにも考えたくなどない。
そう思うものの、外部からの情報に理性と思考は嫌でも反応してしまう。そして口が利けないわけでもないので、それを疑問として口に出してしまう。
女が驚いたような表情を見せた。
「それも、憶えてないんですか?」
「だから憶えてないというより、混乱したままなんだろう。その……なあ? 無理もないとは思うが」
男がなにやら言葉を濁らせながら視線をあらぬ方へと動かす。その意味は頑なに思考を拒否している部分と、それに抗って勝手に思考しようとする理性と、そのどちらでも理解することはできなかった。
だが、女には男の言わんとするところが理解できたらしい。たったさっき見せたばかりの色を再び視線に込めてくる。
「そう……よね。無理ないわ」
女が言ってくるが、まるっきり意味がわからない。これはこちらが思考することを拒絶しているからなのではなく、単純に二人がこちらの与り知らぬ事柄について話しているせいだと、先程からまったく言うことを聞こうとしない理性が擁護してくる。わからなくて当然だ、と。
疑問が表情に出ていた、などということはないと断言できる。なので女はそれを解消しようとしたわけではなく、単純にその必要性を勝手に感じただけなのだろう。なにひとつ把握していない自分へ、説明することの必要性を。
「……教会が、悪魔に襲われたんです。一昨日の夜に」
沈痛な面持ちで女が告げてくる。
教会。悪魔。襲われた。
聞こえた内容を理性がたっぷりと時間をかけて咀嚼する。もうそれを咎めるのも億劫になっていた。理解したいのなら勝手にすればいいと、思考の手綱を放り出す。
(……教会が、悪魔に、襲われた?)
それでもまだ倦怠感がまとわりついているのか、理解には時間がかかった。それを察しているのか、目の前の二人はこちらが理解に至るまで待つつもりのようだ。続きを口にしては来ない。
どれほど黙っていたのか。数分か、あるいはもっと短かったのか。自分の理性が普段通りの機能を取り戻すのに要した時間ということだが、気にならないことなのでどうでもいい。
「あなた、たちは……?」
理解したのか理解することを放棄したのかはわからないが、どちらにしても理性は次の疑問へと向かったようだった。再び女が口を開くのが見える。
「私たちは、ずっと身を潜めていたんです。それで悪魔がいなくなった頃合を見計らって、逃げ出そうとしたところで――」
「シスターを見つけた、ということだな。もっとも、すぐにはあんただとわからなかったし、生きてるとも思わなかったんだが」
男の方が続けてくる。やはり、意味を理解するのは難しかった。
と、男が女へと視線を向けた。なにやら妙な表情を浮かべているが、今の自分の頭ではそれがどういった意図によるものなのかを推し量ることはできない。ただ表情を変えたことが見て取れるだけで。
その視線を受けて、女もまた似たような(たぶん似たような)表情を見せた。
(…………?)
理性は律儀に疑問に対して眉をひそめる。二人の表情になにか意図があるのだと、しかしそれがなんなのかまではわからないと、そう読み取ってしまう。そしてそれを顔に出してしまうことを抑えられるものはどこにもいない。
こちらの怪訝な顔を見てか、女は小さく嘆息したようだった。
「あの、落ち着いて聞いてくださいね。あなたは……その、倒れてたんです」
言いにくそうな様子だった。理性が益々疑問を深める。
「ぱっと見た瞬間は、悪魔の手にかかったんだって、そう思ったんです。周りには実際に悪魔に殺されたひとたちの死体がたくさんあって、あなたもそうだろうと思いました。でもあなたは……その、様子が違って。近づいて見てみたら、気を失っているだけだったんです」
理性は疑問を抱くが、しかし矢継ぎ早に湧いてくるものに関してそのすべてを別々に処理しようとはしない。歯切れ悪く言ってくる女の言葉に対して、浮かんだ疑問はひとつだけだった。それのなにがおかしいのか。
女は更に表情を歪めた。のみならず、明らかにそれを口にすることを躊躇っている――ように見える。が、やがて意を決したように口を開いた。
「シスター、あなたはその……裸で、倒れてたんです」
その言葉を聞いて。
(……裸?)
繰り返す。恐らく表情には出なかった。だからその意味を理解していないと思ったのだろう――実際理解できなかったのだが――男が言ってきた。
「なんて言うか、悪魔に襲われたっていう感じでは、なかったんだ。悪魔じゃなくて、その……その、な」
人間に襲われたように見えたのだと。
なんの前触れもなく、男の、というか二人の言おうとしていることを頭が理解した。
(…………あ)
目の前に見えていたはずの二人の顔が消失する。それは錯覚だとわかっていた。消えたのではなく、単に見えなくなっただけだ。脳裏に浮かんできた光景に意識を一瞬で持っていかれたせいで。
(………………あ)
見えたのは――思い出せたのは、人の顔だった。複数だ。少年達のものと、少女のもの。そのうちのひとつは夥しい血で薄汚れ、それ以外の顔は残らず笑っていた。こちらを見て、笑っていた。他にも夜空と星と、そして真円に近い月が見える。
一瞬でそれらの情景を脳裏に浮かび上がらせて、菜緒は――恐らく、なにかを叫んだ。
「シスター、落ち着いて!」
まったく唐突に豹変したこちらの様子に、しかし女はそれを予想していたような速さで覆いかぶさってきた。
「落ち着いて、落ち着いてください! ここには私たちしかいません!」
こちらの口からは意味不明な叫びが漏れ続けていた。言葉にはなっていないし、ただ喉を鳴らしていただけかもしれない。叫びにすらなっていなかっただろう。
「もう安心していいんです! だから、どうか落ち着いて――!」
こちらの耳元で言い聞かせるように女が何度も同じ言葉を繰り返す。上から覆いかぶさっているのは暴れるのを心配してのことだろうが、そんな体力は最初からなかった。なので喉を鳴らせていたのも、ほんの数秒程度だ。
喉に痛みを覚えたのと息が続かなかったのと、菜緒が叫びを止めたのは概ねそんな理由だった。要するに、叫べなくなったからやめたというだけだ。
代わりに、なのかどうかはわからないが。
目から涙が溢れ出していた。
仰向けのまま泣き続けている間、男と女はなにも言わずにこちらの姿を眺めていた。
とは言え、それほど長い時間だったわけでもない。体内の水分も涸れかかっていたのか、すぐに涙も出なくなった。そして止まってしまえば、無理に流そうとも思わない。
こちらが泣き止んでから、それでも二人は数分ほど沈黙していたが、やがて女が声をかけてきた。
「……落ち着きましたか、シスター?」
答える気にはならなかった。その体力もない。二人が顔を見合わせる。
「……に……」
口からなにかが漏れ出た。え? と女が聞き返してくる。
途轍もない重労働だったが、菜緒はどうにか唇をこじ開けた。
「ひとりに……して」
相手に聞かせようという配慮をまったくしなかったので、蚊の鳴くような声にしかならなかった。それでも一応届いたらしい。女が戸惑ったように言ってくる。
「……それは」
無理もないと言えば無理もないが、承服しかねるようだった。こちらとしても、先程のように取り乱して喚き散らさないと確約などできるはずがない。彼女達の懸念は至極当然のものだ。
だが。
「おねがい……ひとりに、して」
もう一度、懇願する。二人は尚も渋っていたが、しかしやがて男の方が観念したように息を吐き出し、部屋を出て行った。それを見て女の方も踵を返す。
「……後で、食事を持って来ます。なにかあったら呼んでくださいね」
こちらの返事がなかったので彼女は扉の前でもう一度躊躇したようだったが、それも長くは続かなかった。足音が遠ざかり、扉の閉まる音が聞こえる。
――部屋に取り残されて。
菜緒は自分がベッドに寝かされていることに、その時点でようやく気付いた。まったく見覚えのない場所で、大して広くもない部屋だ。どうにか動かせた視線を室内に巡らせると、扉とベッドの他には本気でなにもないのが確認できる。天井からぶら下がる電灯だけが弱々しい光を放っていた。
しかしここがどこなのか、と考えるよりも早く。
(わたし……)
先程脳裏に浮かんだ光景が再び見え、疑問も倦怠感もどこかへ失せた。
(わたし、あの時……)
目覚める前、恐らく最後に目にしたのであろうものを思い出す。思い出すな、となにかが告げているような気もしたが、なんの抑制もできない。浮かんでくる顔を押し止めることができなかった。
出尽くしたはずの涙がまたしても目に滲んだ。流石にもう流れはしなかったが、涙が出ないというだけで泣いているのには違いない。
声も出なかったので、菜緒は目を閉じて黙ったまま泣いた。出ていたのであれば、恐らくまた泣き喚いていただろう。
どうやら本気で衰弱しているらしく、すぐにそれもできなくなった。泣き過ぎて酸欠になっているというのもあるかもしれないが、なんにせよ身体が言うことを聞かない。かと言って眠いわけでもなく、結果として頭の中だけがぐるぐると思考を巡らせていた。
(……どうして、生きてるの)
否応なく蘇ってくるあの晩の記憶は、京香がこちらの胸に刀を突き立てたところで途切れていた。そこから先は思い出せないというより、憶えている方がおかしいだろう。
致命傷、だったはずだ。
自分の胸を見下ろそうと首を動かす――まずそれがとんでもない労力を必要とした――が、見えたのは服の襟とかけられた毛布だけだった。毛布は恐らく先程の二人が被せてくれたものだとして、服もそうなのだろうか。やや大き目なサイズの寝間着のようなものを着ている。当然、見覚えのないものだった。
毛布を捲るにも襟をずらすにも腕を動かさないわけにはいかないのだが、それすらできない程に力が入らなかった。首を傾けるのもすぐに限界を迎え、頭の位置を元に戻す。
(……わたし、生きてる)
ようやく、その自覚が湧いてくる。できればそんなものはなくて良かったし、また勘違いであるという可能性も捨て切れないのだが、ともあれ頭はそう認識し始めていた。
(夢……だったの?)
自分が目の当たりにしたものが現実でなかったのだとしたら、死んでいないことにも説明がつく。もっとも辻褄が合うのはその一点のみでしかないが。
夢であってほしい、とは今更思わなかった。そんなことは既に散々考えたのだ。椎名が殺され、そして少年達から暴行を受けていたあの時に。だが結局その夢は胸を刺されるその瞬間まで醒めることはなく、つまり夢などではなかった。
だが、夢でなかったのだとすると。
(生きてる……どうして?)
それがわからなかった。とは言え自分は医者でもなんでもないし、医学的あるいは解剖学的な知識を持っているわけでもない。刺された箇所がたまたま即死には至らないところだったのかもしれないし、また先程の二人が迅速かつ適切な処置を施してくれたおかげで一命を取り留めたのかもしれない。それを感謝する気にはどうしてもなれなかったが。
(どうして……生きてるの。どうして、まだ生きてるの……!)
疑問はそのまま不満へと取って代わった。不満と、そして痛烈な悔恨に。
椎名は死んだ。間違いなく。自分を盾にした少年達に手を出そうとせず、一方的に嬲り殺しにされたのだ。ずたずたになるまでその身体を切り刻まれ、最後に目にした彼は最早人間としての形を保っていなかった。
――自分と言う枷がなければ、椎名は彼等を叩き伏せることができていただろうか。それはわからない。正面から殴り合えばもちろん彼の方が上手だったとは思うが、しかし相手は四人だったのだ。結果はそう大差ないものだったかもしれない。
だが少なくとも、無抵抗のままやられっ放しなどということはなかっただろうと、それは断言できる。もちろん四人全員を叩きのめしていた可能性だってあるし、いずれにせよ自分を盾にした千晴の選択は効果的だったということだ。
つまり、自分のせいで椎名は死んだ。
――それは違うと、理性は即座に否定の言葉を寄越してきた。責任の所在を履き違えるべきではないと。
無論、そんなことはわかっていた。だから椎名だって羽交い絞めにされていたこちらに文句など一言もこぼさなかったのだ。無言のまま、悲鳴らしい悲鳴を上げることすらなかった――息を引き取る、その瞬間まで。
それはわかっていたが、それでも。
(どうしてわたしだけが、生きてるの……!?)
そう考えずにはいられなかった。
(椎名くんが殺されて――わたしのせいで殺されて! わたしは、あんなことされて……どうしてわたしだけが、生きてるの!?)
全身を支配する気怠さはまったくもって健在だったものの、湧き上がる感情がどうにかそれを押し退けた。ぶるぶると震える腕をそれでもなんとか胸元まで上げ、寝間着の襟をずらす。
これも震える首を無理にもう一度起こして見やると――やはり、あった。胸元に、なにかで刺されたような傷痕が。
(やっぱり……夢じゃなかった)
傷自体は既に塞がっていたが、痕跡ははっきりと見て取れる。菜緒は首と腕から同時に力を抜き、ぼすんと枕に頭を落とした。
(夢じゃなかった……全部、夢なんかじゃなかった)
刺されたことは間違いない。あの瞬間は確かに死んだものと思っていたのだが――死ななかった。生き延びてしまった。
――その必要もないのに、生きながらえてしまった。
菜緒はもう一度泣いた。涙も声も出なかったが、泣くことはできた。
動けるようになるまで、五日程かかった。といっても数えていたのは自分ではなく自分を助けた二人――教会に避難していた夫婦らしく、こちらの顔を見知っていた――の方で、菜緒としては日数など気にも留めていなかったのだが。
自分の身体には胸元のものを除けば怪我らしい怪我もなく、なかなか体力が戻らなかったのは単に食事を摂っていなかったからだった。目覚めてから丸二日の間はなにを口にする気にもなれず、夫妻の用意してくれた簡素な食事にようやく口をつけたのは、業を煮やした妻の方に強引に押し込まれたからに他ならない。それはすぐに吐き出してしまったのだが。
「なあ、食べたくないってものを無理に食べさせなくても……」
こちらが胃液と共に吐き出した食事の残骸を掃除しながら言う夫に対して、しかし妻は譲らなかった。
「お腹が空いてると、なにかとネガティブな考えになるものなの。とにかくまず元気になること。色々と考えてしまうんでしょうけど、まずはそこからですよ、シスター」
シスターではない、と否定するだけの気概は当然なかった。恐らく彼等は修道衣を着ていた自分の姿しか目にしていなかったのだろうが、明らかに自分より年上(二人とも三十歳前後だろう)の人間に敬語を使われるというのは慣れるものではない。
ろくに返事もしないこちらを、しかし彼等は見放すようなことはなかった。四日目になってようやく菜緒は食事は要らないと声に出して伝える気になったものの、無意味だった。更にその翌日からは口に押し込まれるのもあれこれと言われるのも煩わしくなり、黙って食べることにした。どんな味だったかは憶えていない。まあ、不味いとは思わなかったが。
夫妻――特に妻の方――は頻繁に部屋を訪れ、自分に向かってなにかを話していた。その内容はほとんど頭に入って来なかったのだが、いくつか憶えていることもある。そもそも話題などそう多くもないのか、同じことを何度も聞かされていたのかもしれない。
まず教会が悪魔に襲われたというのはどうやら自分と椎名が少年達を引き留めようとした(そう言えば椎名は別に引き留めてはいなかったか)あの晩のことらしく、つまり自分が胸を刺されて意識を失ったその後の出来事ということだ。避難していた人間のほとんどが殺され、そして喰われたのだという。明け方近くに悪魔の気配は失せ、じっと息を潜めていたこの夫妻はそれを見計らって逃げ出したらしい。そしてその際に、倒れていた自分を見つけた。
「ひょっとしたら私たちの他にも、生きてるひとはいたのかもしれないんですけど……」
いたのだとしても、同じように隠れていたことだろう。だからこそ隠れもせずに倒れていた――しかもほぼ裸で、だ――こちらの姿が目についたのだと彼女は言ってきた。
ここは教会から離れた建物の一室で、自分達以外には誰の姿も見当たらないらしい。今や悪魔だけでなく人間の襲撃も警戒しなくてはならず、食糧の調達にもかなりの難儀が伴うようだった。自分が着ている寝間着も、どこかの店から持ち出してきたものだと夫の方が言った。
「仕方のないことなのかもしれないがね。悪魔があちこちにいる、こんな状況じゃ――生きるために他の人間から奪おうと考えるのは、むしろ自然なことかもしれない」
どこから調達したのか猟銃の整備をしながら(当然、見よう見まねだろう)夫はそう言ってきた。
「だが、人間は野生動物と同じにはなれない。殺し合って勝ったものだけが生き残れるような、そんな状況に投げ出されてもだ。理性なんていう、捨てきれない厄介なものを抱えているからな」
そんなことを敢えて言ったのはもちろん、こちらの身に降りかかった出来事を察しているからなのだろう。とは言え、彼がなにを思ってそれを自分に告げようとしたのかまではわからない――その時には、わかろうともしなかった。
「シスター……なにがあったのか、詳しく聞くつもりはありませんけど」
夫に続けて妻の方も、相変わらず返事らしい返事もしないこちらを見据えて言ってきた。
「死んだら、もうどうしようもないんですよ。悪魔が現れてからというもの、何度も死にそうな目に遭って、この間のことだってそうです。いつ死んでもおかしくなかったけど、その度に幸運を拾って、今こうして生きてる」
運、だろうか。確かに今日まで生きて来られたのは、それによるところが大きい――というか、ほぼそれだけだ。多少は生きようと足掻いたものの、結局は偶然が味方をしなければどうにもならなかった場面の方が圧倒的に多かっただろう。そしてあの時、運は自分にも椎名にも向かなかった。足掻くだけではどうにもならなかったのだ。
「死にたいって、そう思ってます? シスター」
はっきりと、口にされて。
菜緒は頷かず返事もしなかったが、しかしようやく思い当たっていた。この部屋で目覚めてからというもの、ずっと頭の中をぐるぐると回っていた何かの正体を。
生きているとわかって、落胆と後悔が去来した理由。恐ろしく単純だ。子供でもわかりそうなものだが、つまりそんな簡単なことさえわからない程に、自分は考えることを放棄していたのだろう。
またしても、目から涙がこぼれた。もう何度泣いたかわからない。
「……まあ、どうしてもそうしたいというのであれば、無理に止めはしませんよ。死んだ方がマシだと思えるようなことなんて、決して多くはなくても、それでもないとは断言できませんからね」
喚くことこそしなかったものの、ぼろぼろとこぼれる涙で毛布に沁みを作っているこちらに、妻が言ってくる。
「それこそ少し前までなら、死ぬことに比べればなんだってマシだろうって、そう思ってたんですけどね。死ぬより耐え難いものなんてあるはずがないって。でも、世の中がこうなってしまうと――それもひとつの選択肢なのかなって、思わないでもありません」
どこか諦観を滲ませたような声音だった。彼女自身が口にした通り、どうしてもとあれば止めるつもりはないと、つまりそういうことなのだろう。最終的にはこちらの望むようにすればいいのだと。
だがそれでも、彼女は告げてきた。
「でもシスター。それでもやっぱり……死んでしまったら、そこで終わってしまうんですよ。ひょっとしたらなにもかも帳消しにしてしまえるくらいの幸運がこの先待っているかもしれないのに、その可能性がゼロになってしまうんです。死にたいって――死ぬっていうのは、そういうことなんですから」
彼女が自分に対してなにを言いたいのか、流石にそこまでわからないわけではない。正直なところ話そのものは半分も頭に入っていなかったのだが、しかし言わんとするところは辛うじて理解できる。
死ぬよりは、生きている方がいいに決まっているのだと。
どうしたいかという点を脇に置けば、それが当然の帰結なのだと。
それくらいは、菜緒にも理解することができた。あるいは言われるまでもなく。
夫妻は自分が自殺でもするのではないかと心配していたようだったが、しかしそれは無用なものだったと言える。その理由は単純で、その為の手段と体力が足りなかったからだ。
自殺の仕方など、テレビなどで見知った方法しか知らない。首を括ろうにも紐はないし、刃物の類も当然ない。毒など論外であり、舌を噛み切れるような体力も戻っていない。窓が見当たらないこの部屋からどこかへ飛び降りるというのは物理的に不可能だ。
他にも方法はあるのかもしれないが、思いつかない。どうせ死ぬのなら苦しまない方法がいいと思うのは当然の反応だろうし、その点は自分も同じだ。だがそれを考えるのも酷く億劫だった。
なにも考えずにいると時間というのは割と早く過ぎるものらしく、菜緒がこの部屋で目覚めてから十日程が経過していた。
口にこそ出さなかったものの、夫妻がこちらを厄介な腫物のように思い始めているのだとは流石に気が付いていた。まあ無理もない。助けたことへの礼も述べないまま何日もベッドを占有し、貴重な食糧をただ浪費するだけの存在を、誰が歓迎したいなどと思うだろうか。外の状況を鑑みれば尚更だ。
二人が部屋を訪れる回数も徐々に減っていき、恐らくそう遠くないうちに食事を持って来ることもなくなるだろう、と菜緒がすることもなくぼーっと天井を眺めながら考えていると。
恐らく自分が目覚めてから一度もなかっただろうと断言できる。音を立てて、かなり乱暴に扉が開かれた。
「まずい。野盗がこっちに来る」
入ってきたのは夫の方であり、即座にそう告げてきた。
「すみませんがシスター、寝ていられる状況じゃなくなったみたいです。すぐにここを離れないと」
荷造り用にだろう、妻の方はリュックらしきものを持っていた。元々彼等の私物と言えるようなものなど大してなかったはずだが、あるものは可能な限り持ち出そうということか。
(……ああ)
その時点でようやく、菜緒は察することができた。もちろんベッドを持ち出すことなどできるわけがないので、せめて毛布だけでもということなのだろう。どこへ逃げるつもりなのかはわからないが、なんにしても凍え死ぬ危険性は減らしておくに越したことはない。
上体を起こしてベッドから下りると、すぐに夫が毛布を畳んで荷物に縛りつけた。久しぶりに二本の脚で立ったせいかふらついているこちらには構わず、リュックを背負う。
扉を潜って隣の部屋に移動すると(これも初めてのことだ)、辺りに散らばっていた日用品の類を妻が手当り次第にリュックに詰めていく。大した量でもなかったので五分とかからずにすべてを入れ終え、彼女もまたリュックを背負った。
外へと続く扉を押しやり、夫が様子を窺う。声もなにも聞こえないが、そんなに近くにいるのだろうか。
「……よし。今のうちに」
扉に張りついたまま夫が手招きをしてくる。すぐに妻がそちらへと歩いて行き、菜緒もそれに続いた。扉を潜って外へ出る。
日が沈みかけていた。それを見て、夫が舌打ちするのが聞こえる。
「まずいな。悪魔の方も警戒しなけりゃならないし……あまり遠くへは移動できそうにない」
それは日中にしても同じことだろうが、しかし夜間となるとその危険性は跳ね上がる。悪魔が現れるようになってからというもの、それは誰もが弁えている認識だった。そう、恐らくは野盗すらも。
「あの連中も、日が落ち切る前にどこかで足を止めるはずだ。できる限り距離を取っておこう」
言うと、夫は歩き出した。周囲に自分達以外の人影などまったく見えないのだが、彼の言うことを信じるならば、つまりは歩いているその反対方向から野盗が迫っているのだということになる。
――歩き始めてすぐに、問題が露呈した。
言うまでもなく、そして予めわかっていたことでもあるが、菜緒の歩みが遅いのだ。
たったさっきまで横になっていたというだけでなく、何日も脚の筋肉をほったらかしにしていた。そうでなくとも元々体力がある方でもない上に、まともな食事を摂っていなかったのでおよそ万全とは言い難い体調なのだ。おまけに裸足だった。
数分と経たないうちに下半身が悲鳴を上げ始めた。息もだ。小石を避けながら歩いているつもりだがそれでも足の裏には細かな石が食い込み、一歩を踏み出す度に痛みが走る。
いっそのこと背負ってもらった方が早いのではないかとすら思ったが、夫妻は共に荷物を背負っているのでそれもできそうにない。空手なのは自分だけだ。もっとも荷物など持たされていれば、更に歩みは遅くなっていたに違いないだろうが。
明らかに遅れているこちらに二人は苛ついているようだった。何度も振り返ってはその度に速度を落とし、ある程度追いつくのを待ってから再び歩き出すものの、すぐにまた振り返る。そんなことを何度か繰り返したところで。
「先に……行って、ください……」
肺の奥から呼気を捻り出すような心地で、菜緒はどうにかつぶやいた。息も絶え絶えだったが、それでも一応聞こえたらしく前方の二人が足を止め、こちらを振り返る。
「構いません、から……先に……」
もう一度つぶやくと、二人は顔を見合わせた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに再びこちらへと振り向くと、小さく頷いてくる。
そして、こちらを置いて先へと歩いて行った。先程までとは打って変わった速度で、すぐにこれまで以上の距離が開く。
(……まあ、最初からそのつもりだったんだろうけど)
だから自分にはなにも持たせなかったのだろう。そろそろ余計な荷物を置いて行くいい機会だとでも考えたのかもしれない。今の自分はなにをしたところで誰かの足を引っ張る存在でしかないのだから、賢明な判断だと言える。
無理に足を速める理由もなくなり、菜緒はその場に座り込んだ。足の裏に食い込んだ小石を払いのけ、ついでに揉み解そうかとも思ったが、血が滲んでいたのでやめておく。
(……野盗、か)
正直、ぴんと来ない言葉だった。確かに状況を鑑みればそういった輩というのは現れておかしくないのだろうが、それにしても時代錯誤な感は否めない。無論これが現代の日本という環境で育ったからこその思考なのだという自覚はあったが。
(でも……そうね。むしろ自然なことなのかも)
嫌でも思い出すのは、椎名を殺し自分を犯した少年達の顔だ。法と言う強制力が取り払われてしまえば、そういった人間が現れるのは無理からぬことなのかもしれない。なにしろそれを罰するものが存在しないのだ。身を以て思い知った今となっては、そう認めるしかない。
そしてそんな状況に放り込まれてしまえば、自分などただ搾取され凌辱されるだけの無力な存在に過ぎなかった。誰かを殴り倒せるだけの腕力も、陥れるための小賢しさも持ち合わせていない。今となっては大して役にも立たない知識を少しばかり詰め込んだだけの小娘だ。悪魔に対しては最早言うまでもなく。
疲れはまだ取れたとは言い難かったものの、そろそろ歩き出そうかと思い菜緒は立ち上がった。できれば足の裏になにかを巻きつけたかったが、余分な布など持っていない(着ているのは寝間着だけで、下着は身に着けていなかった)。
先に行ったはずの二人の姿はもうどこにも見えなかった。先行したというより完全にこちらを置き去りにするつもりで行ったのだろうから当たり前なのだが、ともあれこれで行先がなくなってしまったことになる。歩き出すにしてもどちらへ向かったものか――と、考えたところで。
(……あら?)
菜緒は眉をひそめた。視線の先――先程夫妻が歩いて行った方から、誰かがこちらへと近づいてきている。
野盗かとも一瞬だけ思ったものの、すぐに判別できた。先に行ったはずの妻だ。どういうわけか背負っていたはずの荷物がなく、しかも彼女ひとりだった。
彼女はなにやら全力で疾走しており、すぐにその表情まで見て取れる程に近づいてきた。一言で済ませてしまえば、必死の形相だ。なにかから逃げているような――あるいは、なにかを追い立てているような。
「どうし――」
たんですか、と聞こうとするよりも早く。
彼女は一直線に駆け寄って来ると、勢いそのままにこちらの腹へと拳を叩き込んできた。
(――っ!?)
呼吸が止まる。あまりの勢いで、足が一瞬だけ地面から離れたかもしれない。痛みをあまり感じなかったのは、意識が頭からどこかへと遊離していたからだろう。
急速に白んでいく視界のどこからか、声が聞こえたような気がした。
「悪く、思わないで――」
そう言われても、そもそも一体なにを悪く思えばいいのか。いや、思わなければいいのか。
それを判断するだけの猶予もなく、菜緒は意識を失った。