「いやはや、恐れ入ったっつーか。まさかホントにやっちまうとはねえ」
誰かの声が聞こえる。聞き覚えのないものだ。
だが続けて聞こえてきた声の主には、憶えがあった。
「お前、なんてことを……!」
これは見えなくともわかった。あの夫妻の、夫の方だ。すぐに続けて、妻の声も聞こえてくる。
「――これでいいでしょう。そのひとを離して」
絞り出すような声音だった。今にも反吐を出しかねない、苛立った声。
ゆっくりと、菜緒は目を開いた。周囲の光景が視界に飛び込んでくる。
(えー……と?)
見えたことによって僅かながらにも理解が進むだろうかと思ったものの、そんなことはなかった。わけがわからない。まず、夫妻以外の人間――五人おり、全員が男だ――は一体誰なのだろう。そしてその中のひとりが地面に這いつくばっている夫の頭に猟銃を押し付けているのはどういうことなのか。なぜ夫の腿からどくどくと血が流れ出しているのか。根拠はないが、あれは放っておいたら死ぬ出血量のような気がする。
「お、起きたか」
男のひとりがこちらの姿を見下ろし(地面に倒れているのだ)ながら言ってくる。にやにやと、有り体に言って不快な笑みを浮かべていた。
状況が飲み込めず、菜緒はすぐ傍に立っている妻の顔を見上げた。しかし彼女はこちらには目もくれず、夫の方へと視線を注いでいる。睨みつけているようにも見えた。
「おいおい、薄情な女だな。せめて説明くらいしてやれよ。お前がやったんだぜ?」
更に別の男が、夫の背中を踏みつけたまま笑いながら口を開いた。というか、彼等は揃って同じような表情を見せている。なにがそんなにおかしいのかは知らないが。
ぎり、と妻が激しく歯を鳴らす。
「あなたたちさえ来なければ、こんなこと――!」
「おいおいおーい。なに言ってんだコイツ。オレたちはその女のことなんざ知らなかったんだっつの。わざわざ教えたのはお前だろ?」
「そうそう。旦那の命よりは軽いと思ったんだよなあ? 引き換えにするには安い買い物だってか」
別の男も笑いながら言ってくる。
男の足の下で地面に顔を触れさせたまま、夫が口を開いた。
「なんでそのまま、シスターを連れて逃げなかったんだ……! こいつらが約束なんか守るはずないだろう!」
「黙れよ」
短く告げて、男が夫の背中へと押し当てていた靴の位置をずらす。血の流れ出している傷口へと。
「あぐ――ああっ!?」
そのままぐりぐりと踏みにじられ、夫の口から苦悶の声が漏れた。どれほどの激痛なのか想像もつかないが、額には脂汗が浮かび、両目もきつく閉じている。
「やめて!」
妻が悲鳴を上げ、駆け寄ろうとする――が、猟銃を持った男がその先端で夫の頭を軽く小突いたのを見たのか、すぐに足を止めた。
(えっと……つまりこれは)
この男達が野盗、ということで間違いないだろうか。夫が警戒していた方向とは真逆の位置にあたるはずだが、あるいは別口という可能性もある。
状況を把握する。自分を置いて先に行ったはずの二人。そのうちのひとりは持っていた猟銃を取り上げられ、負傷して踏まれている。そしてもうひとりはわざわざ自分の方へ戻ってきたかと思えば問答無用にこちらを殴り倒し、夫と野盗の待つ場所へと連れてきた。彼女だけの膂力で自分をここまで引っ張ってこれたとは考えにくいので、気絶した自分を運んだのは野盗の方かもしれないが。
(……なるほど)
把握が済み、そして理解にまで至る。つまり自分は夫を助けるために妻が差し出すことにした、身代わりというわけだ。男達の口振りからするにそれを提案したのは妻自身のようだったが、他でもない夫がそれを責めている。
「お?」
菜緒がその場で立ち上がると、男達の誰かがすぐにこちらへと近づき、腕を掴まれた。試そうとも思わないが、振り解くには腕力の差がありすぎる。掴まれている腕が痛む程だった。
「そーゆーわけだから、オレらを恨むのは筋違いだ。そっちの女を恨めよ」
必要以上に顔を近づけて言ってくる。菜緒は首を逸らそうとしたが、どうにもならなかった。
「んー……でもまあ、いいセンいってるな」
と、夫の傷口から靴を離すことなく男が口を開いた。
なにが、とは自分も妻も尋ねなかった。夫の方は痛みでそれどころではないのか、顔を上げてもいない。
「なかなか、悪くない読みだな。オレたちが約束なんか守るわけがない? はっは――」
男が乾いた笑いを上げ、そして。
銃声が響いた。
「――!!」
妻が目を見開く。菜緒は、正直なところあまり驚かなかった――頭を撃ち抜かれた夫がびくんと身体を震わせ、そしてそのまま動かなくなるのを見届けても。
「あなたっ!!」
妻の絶叫が耳を劈くが、それで表情を変えたものはひとりもいなかった。男達はやはり神経に障る類の笑みを張り付けたまま、死体を見下ろしている。
なにやら聞き取れない悲鳴を上げながら、妻が銃を持ったままの男へ飛び掛かろうとしたようだった。しかし踏み出してすぐに横合いから別の男に足を払われ、転倒する。更に間を置かず、彼女の顎をまた別の男が蹴り上げた。
地面を転がってから、妻が顔を上げる。悔しさと怒りからかその表情は凄絶に歪んでいたが、男のひとりに髪を掴まれ、そのまま引っ張り上げられた。
「まったく、ホントになあ。さっさと旦那なんざ見捨てて逃げてりゃよかったのに。自業自得もいいトコだよ、オバサン」
からかうような口調で告げる男に、妻はなにも言い返さなかった。顎の骨が折れているのかとも菜緒は思ったが、そこまで酷い怪我でもないらしい。でなければ歯を噛みしめて男の顔を睨み付けるなどできないはずだ。
「あんたも災難だったな。ま、全部このオバサンが悪い」
と、これはこちらの腕を掴んでいる男が自分に向かって言ったものらしい。菜緒はそちらを見ていなかったのですぐには気づかなかったが。
――菜緒が眺めていたのは、夫の死体だった。頭と腿を撃たれ、最早動くはずもない死体。
抗しようもなく、別の死体が脳裏に浮かんだ。自分のせいで無抵抗のまま嬲り殺された椎名の死体が。
そうだ、あの時も。これと似たような状況だった。自分は身動きが取れず、目の前で行われる殺人をただ見ているしかなかった。
……振り解くことが、できていたら。
あの時、自分が浩一の手を、振り解くことができていたら。
そんなわかりやすい形での力が――腕力があれば。
と、その時。
右の肩が、熱を帯びたような気がした。
その時の自分が、なにを見ていたのか。そして聞いていたのか。
恐らくなにも見ていなかったし、聞こえていなかった。そのはずだ。だからその光景を目の当たりにしていたのはきっと自分ではなく、別の誰かということになる。自分はその時――既に、死んでいたのだから。
地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。
「……あん?」
完全にこちらに背を向けていた四つの人影のうち、真っ先に気づいたのは誰だったのか。わからなかったが、別に理解する必要はない。
「なにやってんだよ京香。そいつ、まだ生きてんじゃねーか」
「はあ? そいつって――」
京香、と呼ばれた少女がこちらへと振り返り、そして。
「…………は?」
こちらの姿を見て、頓狂な声を上げる。それにつられたのか、他の三人も同じくこちらを見た。そして、それぞれ顔をしかめる。
「え……?」
「お、お前――なんだよ、ソレ」
少年達が口々に訝しげな声を上げてくる。なにやらこちらを、というかこちらの身体の一部を見て驚いている様子だったが、彼等の疑問に対して返事をするという発想が、恐らくこの時の自分にはなかったのだろう。
答える代わりに、右腕を動かした。顔の高さまで持ち上げ、左から右へすっと振る。すると、ごとんと重いものが地面に落ちる音が聞こえた。
「へ?」
ごく短い疑問の声は、恐らく落下したそれ自体が発したものだ。
なにが起こったのか、即座に理解できたものはいなかっただろう。無論、自分も含めてだ。というかこちらに至っては、立ち上がる前の時点からずっと理解が追いついていない。自分がなにをしているのかわからなかった。そして、それを疑問にも思わない。
――当然だ。死んだはずの人間がなにかを思うことなどないし、自分の行動に疑問を持つこともない。
地面に落ちたそれは、数秒ほど呆気に取られたようにこちらを見ていた。そして、そのまま動かなくなる。というかこちらを見ていたと思ったのは気のせいで、落下した瞬間から既に動かなくなっていたのかもしれない。判別する方法などないが。
直後に、なにかの倒れ込む音。わざわざ見て確認するまでもなくわかっていたが、首から上を失った少年の身体だ。切断面からぶしゅうと血を噴き出している。
「おい……浩一? ナニしてんだ」
倒れて動かなくなった少年の名を呼びながら、別の少年がその傍らに屈み込む。
「――敏樹! 待て!」
「は?」
更に別の少年がなにを制止しようとしたのか声を張り上げるが、その時には既にこちらの伸ばした手が敏樹と呼ばれた少年の頭を背後から掴んでいた。
途端。
「うっ――あ、あが」
みしみしとなにかの軋む音がするが、恐らくそれを聞くことができたのは自分と、そして自分よりももっと近い位置でそれを耳にしているはずの敏樹だけだっただろう。聞こえないはずがない。自分の頭蓋骨が軋む音である以上は。
「あ、が、が、がが、が――」
引きつったような声が敏樹の口から漏れる。自分の立っている場所からではその表情を見ることはできないものの、どんな顔をしているのかは見当がつく――立っている他の二人の様子から嫌でも知れた。
「おいコラ、なにやってんだよテメエ。ふざけてんのか?」
京香の放ったその科白が自分に対してのものかあるいは敏樹に対してだったのかはわからないが、とりあえず自分の方はふざけてなどいない。ただ、思うように手に力が入らないだけだ。自分の腕のはずなのだが、そうでないような気さえする。
敏樹の口からは既に悲鳴も出ておらず、ただ頭全体がかくかくと震えているだけだった。こちらの指が徐々に頭皮を貫通して頭蓋骨にめり込んでいき、隙間からじわりと血が滲み出す。
「…………お前、ソレ」
と、京香がなにかに気づいたように妙な声を上げた。こちら――ではなく、敏樹の頭を掴んでいる腕の方に視線を向けていた。
京香の視線はこちらの手から腕、そして肩へと上っていき――止まった。当然、見えただろう。破れた修道衣の隙間から、こちらの右肩に浮かび上がるなにかの模様が。
右肩の模様からは何本もの光の筋が伸びており、こちらの全身へと広がりつつあった。着ているというよりは辛うじて身体にぶら下がっているだけの服が一部を覆っているものの、それが光の筋を阻むわけでもない。位置的に模様から最も近い右手――敏樹の頭を掴んでいる手だ――が真っ先に光に包まれ、次いで顔が、胸が、左腕が、腰が、脚が、そして爪先までもがすっぽりと覆われる。
その時点で、右手で掴んでいたものの感触が消失した。敏樹の頭蓋骨が砕けて、こちらの指の隙間から飛び散ったのだろう。無論、頭蓋骨の他にも色々と。なにかの倒れるどさりという音が聞こえる。
全身へと広がった光は数秒程で消え去った。同時に右腕の違和感も消え失せる。いや、右腕だけではなかった。身体の至る箇所を、自分の身体として思い通りに動かせる。
間違いなく自分の身体であると、そう認識できる。
血に塗れた右手を顔の前まで持って来る。軽く握ると、指同士が擦れ合って乾いた音を立てた。金属音のような。
「……お前」
呆然と、京香がつぶやくのが聞こえた。
隣の少年もまた。完全に放心したような様子で譫言のように言ってくる。
「悪魔だった、のかよ」
そして即座に踵を返し、走り出した。
なかなか素早い反応だったと言える。彼等も彼等で、今日までの生活で悪魔というものにある程度は慣れていたのだろう。悪魔と相対した時に考えられ得るいくつかの選択肢のうち、最も正解に近いものを即座に採用したのだから。
ただし最適な解を汲み取ったと言ったところで、最初から選択肢の中に正解が含まれていなければ意味がない。走り出して一秒と経たずに、二人は前のめりに転倒した。
「あだっ!」
「な、なん――」
転んだ原因を探ろうと視線を落としたところで、二人は言葉を失ったようだった――脹脛にがっちりと食い込んだ刃物と、そこから伸びるなにかが、こちらの両肩へと繋がっているのを見て。
痛みのせいか驚きのせいかわからないが、とにかく二人は悲鳴を上げた。こちらの腕を振り払おうと脚を動かすものの、離れない。離す気はない。
二メートル程にまで伸ばしていた腕を引き寄せる。当然、二人の身体ごとだ。引っ張られていることに気づいた二人が更にもがくが、やはり振り解けないようだった。すぐにこちらの目の前まで引き摺り、そして。
両手を握り込み、刃物となった指で二人の片足をそれぞれ切り落とした。
「ああああああああああああああああっ!?」
耳障りな悲鳴はどちらのものだったのか。あるいは、どちらのものでもあったのか。まあどうでもいいが。
二人が痛みでのたうち回っている間に、掌の口へと切り落とした足を二つ同時に放り込む。咀嚼する必要もなく、飲み込んだそれは一瞬で分解され、そして滋養となった。確か、生体マグネタイトと言ったか。
余韻に浸る間もなく、少年の方へと向き直る。
「ひっ!――ま、待てよ。喰うのかよ」
少年の顔面は恐怖に引きつり、激痛のせいか脂汗を流していた。だが構わずに、無事なもう一方の脚へと腕を伸ばす。
「ま、待てって。やめろよ。頼むからさ、マジで、やめ――」
懇願の言葉はそこで途切れ、悲鳴へと変わった。腿の付け根から引き千切った脚を先程と同じように飲み込み、体内で生体マグネタイトへと変換する。
脚の次は腕だった。最早のたうつこともできないらしい少年の身体から左右順番にもぎ取り、これも嚥下する。
――ここまでは問題なかった。が、残っているのは頭と胴体だ。頭はともかく、胴体の方はこのまま飲み込むにはやや大きすぎる。口を精一杯開いたとしても、丸呑みというわけにはいかないだろう。やや面倒だが、細かくするしかない。
指を突き立て、こそぎ取るようにして肉を抉る。それを即座に飲み込んでから、また一掴み。そうして何度も少年の身体から肉を削っていき、ようやく頭以外のすべてを飲み込んだ。あるいはもう少し自分が人体の構造に詳しければもっと効率的な手段を採ることもできていたのかもしれないが、じっくりと味わうというのも、これはこれで悪くない。
最後に残った頭を両手で挟み込むようにして一息に飲み込んでから、京香の方へと振り返る。こちらが少年を喰っている間に這って逃げようとでもしたのか、やや離れた場所にいた。
そちらへと歩み寄ると、京香は完全に腰を抜かしているようだった。顔は涙と洟でくしゃくしゃになっており、かちかちと歯を鳴らしている。失禁もしているようで、地面が濡れていた。
「や、やめて。許し、て。悪かったから。アタシが悪かった、から。だから」
歯の根が合わないまま、こちらの姿を見上げて京香が言ってくる。
無論構わずに、彼女の残っている方の脚へと手を伸ばす。
「や、やだ。やめて。なんでも、なんでもするから。喰わないで。殺さないで。お願いだから。許して。お願い――」
と。
手を止め、彼女の顔を見た。
「……なんでも?」
びくりと京香が身体を震わせる。声の聞こえてきた位置に驚いたのか、こちらの顔ではなく手の方へ視線を向けているが。
「本当に、なんでも?」
更にずいと顔を近づけると、京香はひっと喉を鳴らしながら視線を上げた。こちらの顔を見据え、何度も首を縦に動かす。
「な、なんでも。なんでもする。だから、許して」
その言葉を聞いて、恐らく自分は笑ったのだろう。が、京香はこちらの表情の変化に気づかなかったようだった。顔面を引きつらせたまま、壊れた玩具のようにこくこくと首を動かしているのみ。
「……じゃあ、食べさせて」
告げて、脚を引き千切った。
京香の口から絶叫がこぼれる。脚のあった場所を押さえて地面をのたうち回ろうとするが、腰から上だけでは無理があったのだろう、海老かなにかのように僅かに跳ねただけで、すぐに動きを止める。口から漏れる嗚咽は止まっていなかったが。
千切り取った脚を膝の部分で二つに分け、左右の口でそれぞれ飲み込む。肉だろうが骨だろうが、消化にかかる時間に差などない――一瞬で済む。
すぐに今度は手首へと掴みかかろうとしたが、彼女はすんでのところで手を胸元へと引き寄せた。こちらの伸ばした指が空を切る。
一瞬だけ動きを止めたものの、すぐに考え直した。敢えて拘る理由などどこにもない。どうせ相手は動けないのだからと、別の箇所へ手を伸ばす。
「……?」
こちらがなにをしようとしたのか、理解できないようだった――とは言え、その不理解は恐らく二秒と続かなかっただろう。すぐに理解したはずだ。こちらの指が、彼女の腹に突き立てられた時点で。
「うああああああああああっ!?」
再び盛大に悲鳴を上げて、京香が身を捩った。だが構わずに、指をぐいと奥へ押し込む。悲鳴のトーンがもう一段階上がるのも無視して、肉と内臓を引きずり出した。
「あっ……! あ、ぎ……」
最早声も上げられないのか、口の端から涎を垂らす彼女の姿を見つつ、抉り出した肉塊を口の奥へと流し込む。
次はどこを食べようかと、再び手を上げたところで。
「な、悪魔か!?」
まったく唐突に、声は背後から聞こえてきた。手を止めて、そちらを振り向く。
見えたのは、十人近い男達の姿だった。残らず銃を持っており、こちらと京香の姿、そして周囲に転がる三つの死体――そう、三つだ――を見て目を丸くしている。
「なんという、ことを……!」
首から上を失った死体が二つと、血溜まりに浮かぶ死体とすら呼べないただの食べ残し、そして切り刻まれた死体。あとまあ、まだ死体にはなっていないものの両脚を失い腹から血と腸をこぼれさせている死体未満の女。それらを一通り眺めて、果たして彼らがなにを思ったのかは、直後の反応から察することができた。その必要性があったのかどうかはさて置いて。
「くそ! どこから入って来やがった!?」
複数の銃口が一斉にこちらを向く。が、すぐに撃たなかったのはこちらの眼前にいる京香に息があるのが、彼等にも見て取れたからだろう。咄嗟の局面であるにも関わらず、判断を誤ったというしかない。
地面を這う大蛇のように伸ばした片腕が、最も近いところにいた男の足首を噛み千切った。
「うがっ!?」
悲鳴を上げてその男がバランスを崩し、他の面々に動揺が走る。いや、動揺ならこちらの姿を目にした時点で既にしていただろうから、これは混乱だろうか。
その間にこちらは走り出している。正直なところ、高揚を抑えられなかった。
恐らくこれで終わりではない。駆けつけたのはほんの一部で、周囲には外からの悪魔の侵入を警戒している者達がまだいるはずだ。敷地内に悪魔が入り込んだとなれば彼等もこちらを優先するだろうし、建物の中には更に多くの人間が避難している。言うまでもなく、次はそちらへ向かうつもりだった。
――だって、餌がこんなに。
右肩から湧き上がる熱を、菜緒は最初は錯覚だと思った。思っていた。ほんの一瞬前までは。
(……あ、そっか)
だが違う。瞬時に脳裏に蘇った光景も含めて、錯覚でも妄想でもないことはすぐに理解できた。
(わたしだ)
そしてそれはすぐに視覚的なものへと取って代わった。右肩から、光の筋が伸びている。
(教会を襲った悪魔って、わたしのことだったんだ)
言うまでもなく、こちらの身体に訪れた変化に気づいているのは自分だけではなかった。男達も、そして地面に這いつくばっている妻も、呆気に取られた様子でこちらを見ている。
(わたしが……)
そもそもが大して上等な生地でもないのか、寝間着越しにでもかなりはっきりと見て取れた。広がっていく光の筋と、その発生源である右肩の模様。
(みんな、殺したんだ)
指先も、爪先も、髪の一本一本にまで光は伸びていき、やがて全身を覆った。そして理解する。体内を駆け巡る――あるはずのない情報の存在を。把握し、そして知覚する。
(殺して、食べたんだ。わたしが)
変化は数秒で終了した。光が消える。内側からの圧力であっさりと裂けた寝間着を剥ぎ取り、地面に投げ捨てる。
「な……あ、悪魔だと!?」
こちらの姿を見て、男達から悲鳴じみた声が上がった。腕を掴んでいた男がざっとこちらから離れようとするが。
掴まれていた腕を、菜緒は即座に振るった。鈍色のナイフのような形状となった指が男の背中を抉り、そのまま中へと潜り込む。
「げはっ!」
肉と背骨を掻き分けて、指は呆気なく男の胸板を貫通した。そのついでに摘出しておいた血の入った塊――確証はないが、たぶん心臓だと思う――を掌にある口で飲み込む。男の動きが止まり、突き刺していた腕を引き抜くと呆気なくその場に倒れた。
複数の悲鳴が聞こえたかと思うと、男達はほぼ同時に駆け出していた。無論、こちらから逃げるように。
思考を巡らせたのは一瞬だった。男達はてんでばらばらの方向へと逃げており、全員を仕留めるとなると少々難しい。残りは四人だが、自分の腕は二本しかないのだから――
菜緒は渾身の力で地面を蹴っていた。一瞬で男のひとり――猟銃を持っていた男だ――の背中を捕捉し、そこへ跳躍の勢いを乗せた膝を叩き込む。恐らく反応できないような速度でもなかったはずなのだが、そこは背を向けていたのが悪かったのだろう。為す術もなくその男はうつ伏せに倒れ込んだ。膝に返ってきた感触からするに骨は一溜まりもなく砕けたようだが、それでこちらが困るようなことはない。
倒れ込む男の身体を踏み台にして、更に跳躍する。同時に両腕を伸長させた。はっきり言って博打でしかなかったが、こちらの目論見は奇妙なほどにかっちりと嵌り――伸ばした両腕が二人を、そして飛び掛かりざまの蹴りがもうひとりを捉えていた。三箇所から同時に悲鳴が上がる。
右腕は標的の脇腹に、そして左腕は標的の太腿に喰らいついていた。一瞬の躊躇も挟まずにそれぞれを噛み千切り、背中から踏みつけるようにして倒した男はそのまま頭を踏み潰す。
――恐らくは時間にすれば、十秒にも満たない程度だっただろう。だがすべてがうまくいったおかげで、その間に取り敢えずは妻を除く全員の動きを止めることができた。自分でも信じられない想いだったが。
そしてその間、倒れた妻はただ呆然とこちらを見ていた。伸ばした腕を元の長さに戻し、彼女の方へと歩いて行く。
「あ……」
妻が上体を起こす。だが彼女が立ち上がるよりも先に、菜緒はその目の前に立っていた。
「シ、シスター……なんですか? あなたは……」
尻餅をついたような体勢で、彼女はこちらの姿を見上げていた。その表情には怯えとも驚きとも取れる色が浮かんでいるが、しかしそれだけではないようにも思える。なんなのかはわからないが。
「驚きました?」
声をかけると、彼女ははっとしたように視線をこちらの顔から手へと落とした。まあ顔ではなくそちらから声が聞こえたのだから、自然な反応ではある。
「わたしも驚いてます。たったさっきまでは忘れてたんですから。あなたが驚くのも、無理はありませんよ」
彼女は視線をこちらの右手と左手の間で彷徨わせていたが、やがて再び顔を見上げてきた。表情でも読み取ろうとしたのかもしれない。目も口もない顔からなにを読み取れるのかと聞かれれば、さあとしか答えようがないが。
「本当に、たったさっきです。思い出せたのは。あの夜――なにがあったのか」
その一言で。
はっと、妻の表情が変わった。なにかに気づいたように口を半開きにし、そしてそのまま蒼白になっていく。
つまりは、思い当たったのだろう。その可能性に。
「わたし、あの晩に死んだんです」
「え――?」
告げると、再び彼女の顔に疑問が浮かんだ。直前に考えたはずの事態とこちらの言葉の内容が噛み合わなかったからだろうとは、想像に難くない。だからそれもすぐに解消してやることにする。
「殺されたんですよ。悪魔に、じゃありませんよ? あなたたちが考えていた通り、わたしを――わたしたちを襲ったのは、人間です。人間に殺されたんです」
とは言え、彼女と夫がそう判断した根拠というのが結局はまったくの的外れだったわけだ。二人が見つけた時の自分が裸でいたのは、先程の寝間着と同じ理由でしかない。それをここで話してやるつもりはないが。
「死んで、その後です。……悪魔になったのは」
「悪魔に……なった?」
「そうです。知らなかったんでしょうけど、悪魔って元は普通の生き物なんですよ。わたしにも詳しいことはわかりませんが、悪魔に身体を乗っ取られた生き物が、悪魔になるそうなんです」
デジタル・デビルだったかしら、と菜緒はその単語を自分に伝えた少年の顔を思い起こしながら告げた。
――京香に胸を刺されて、自分は確かに死んだ。あの傷で死なない方がおかしいのだから、それは間違いない。椎名もそうだが、刀で刺されれば人は死ぬのだということを、身を以て証明したことになる。別に誰に強いられたわけでもないが。
だが恐らくは、完全に絶息するよりもほんの少しだけ先に――デジタル・デビルが体内に転移したのだ。そして自分の生体マグネタイトを喰らい、肉体を作り替えた。
……悪魔になった。
「あの夜のことは、まだはっきりと思い出せたわけじゃないんです。憶えてるのは、とにかくお腹が空いていたっていうことだけで」
「……! じゃあ、やっぱり……?」
妻が目を見開く。菜緒は頷いた。
「そうです。あの夜、教会を襲った悪魔っていうのは、わたしなんです。わたしがあそこにいた人間を殺して、食べちゃったんです」
今度こそ完全に、妻の顔面から血の気がひいた。尻餅をついた体勢のまま、こちらから僅かに距離を取る。
「悪魔の気配がなくなるまで、隠れてたんですよね? だからあなたたちは、悪魔の姿を見てないはず。せめて一目でも確認しておけば、わたしを助けようなんて思わなかったでしょうね」
満腹になったからか殺すのに疲れたのか、あるいはそのどちらでもない理由か。それはわからないが、とにかく気を失って人間の姿へと戻るところを彼女達が目撃してさえいれば、少なくともこうはならなかった。そうでなくとも、倒れていた自分を助けようなどと考えず、見捨てていれば。
「ち……違うんです、シスター」
ずりずりとこちらから距離を取り続けながら(座ったままなので遅いが)、彼女はそんなことを言ってきた。
「違う? なにがです?」
指摘した内容に、なにか事実と異なる部分でもあったのだろうかと思い、聞いてみる。彼女はぎこちない動作で首を横に振りながら、
「私は……あなたを見殺しにしようとしたわけでは、なくて。夫を助けるために――」
「…………はい?」
菜緒は首を傾げた。いきなり話がおかしな方向へ逸れてしまったような気がする。
が、すぐに思い当たった。彼女がなにを口走っているのか。
「し、仕方なかったんです。夫を救うには、ああするしか――」
青ざめているだけでなく、よく見ると肩も小刻みに震えている。だがそれでもこちらから離れることをやめようとはせず、少しずつ距離を開きつつある。
その距離を数歩だけ歩くことでほぼゼロにしつつ、菜緒は言ってやった。
「あ、さっきのことですか。別に気にしてませんよ」
「……え?」
彼女の表情が少しだけ変わる。
「わかってますから。ああするしかなかったんですよね? ご主人を助けるためには――身代わりにわたしを差し出すしかないって、そう判断したんですよね?」
「え……え、ええ。そうです。その、シスターには本当に申し訳ないと――」
「馬鹿なことをしましたね」
彼女の言葉を遮って、菜緒はきっぱりと言い放った。妻の表情に再び動揺が走る。
「確かに、仕方がないことでした。それはわかります。でもそれ以上に、無駄なことでしたよ。ご主人が仰っていた通りです。助けようなんて思わず、見捨てて逃げる以外に、あなたに選択肢なんてなかったんですよ」
ぴしゃりと告げると、妻は押し黙った。こちらの言葉に納得していないのだということは、その表情を見ればわかる。
「ご主人を助けるには、それしかなかった? 違います。そんなもの、あのひとたちに捕まってしまった時点で、もうどこにもなかったんです。なのにあなたは履き違えた。手段さえ選ばなければまだ助けられると、そう思い込んだ。まあ、思い込みたかったんでしょうけどね」
「助けようとしなければ……見殺しにすればよかったって、そういうの?」
不満そうな物言いだった。誰かを――親しい誰かを見捨てて自分だけが助かるなど、あり得ないとでも言いたげな。
だが、菜緒は断言した。
「当たり前です。あなたが助かる道はそれしかなかったんですから。選択の余地なんてなかったんですよ」
たったひとつしかない道を、それでも踏み外した。誰かを助けようとするあまりに、より優先すべきものから目を離してしまった。それは断じて美徳などではない。単なる迂闊か、あるいは愚行だ。
「あなた自身が助かって、尚且つご主人も助かる。そんな高望みをするべきじゃなかった。無理だって、その事実をはっきりと受け止めるべきだった。それができなかったから、あなたがしたのは馬鹿なことなんですよ」
「…………」
彼女は答えなかった。黙ったままこちらの顔を見上げつつ、やはり後ろへ下がっている――既に三メートルほど地面の上を滑っていることになるが、そろそろ服が擦れて破れるのではないだろうか。
などと、菜緒が割とどうでもいいことを考えたところで。
ふと、彼女の表情に小さな色が走った。なにかに気づいたか、あるいは思い出したとでも言うような。
「……? どうしました?」
彼女の視線の向いている先、つまりこちらの後ろへと首を向ける。一体なにが見えたのだろうかと思ったのだが――気になるようなものはなにもない。菜緒は再び彼女の方へと向き直り――
瞬間、眼前から銃声が響いた。
見えたのは一瞬だ。とは言え見えていなかったとしてもあまり関係がない――誰が撃ったものかなど、考えるまでもないのだから。
恐らくは背中越しに、地面に落ちていた猟銃――元は彼女の夫のものだ――が指に触れたのだろう。彼女が撃ったのはそれだ。尤も咄嗟のことだった上、背後から前へと持ち替えながらの発砲だったので、ろくに狙いもつけられなかったはずだ。
事実、彼女の撃った弾は、こちらには当たらなかった。
「…………あ」
それが彼女にとっての賭けだったのだろうとは、一目瞭然だった。それに負け、そして彼女がその事実をゆっくりと理解しているのだろうという点も。
一歩、菜緒は彼女へと近づいた。
それで十分だった。もう一歩を踏み出す必要はない。
「た……助け、て」
ぱくぱくと呼吸に喘いでいるかのように口を動かしながら、彼女が言ってくる。
「言ったでしょう? 別に怒ってるわけじゃないって」
彼女の姿を見下ろしながら、告げる。
「だってあなたは、自分が生きるためにわたしを殺そうとしただけなんですから」
それは当たり前のことなのだと。
面と向かって、自分にそう言ったのは果たして誰だったか。悪魔の蔓延るこの状況で、それでも生きていたいのなら、卑しくなるよりほかないと。
「そんなことで、わざわざ怒りはしませんよ。いえ、あなただけじゃない。あなたたちを襲った野盗のひとたちだってそうです。自分のために、他人を犠牲にする。それは普通のことなんです。誰だってやってることなんです」
自分や椎名を殺した、あの少年達も。
彼等が生きる為に、あるいは彼等の欲望を満たす為に。自分や椎名を踏み台にしたに過ぎない。
当たり前のことなのだ。誰もがやっていることなのだ。それこそ、悪魔が現れるよりも以前からずっと。
特別な誰かだけがそうなるのではない。目の前の彼女が特別な人間なのかと聞かれれば、違うと断言できる。有り触れた人間が、妥当な判断を下した結果に過ぎないのだと、そう言える。
(結局、椎名くんの言ってたことが正しかったのよね)
わかっていなかったのは自分の方だ。状況の変化を受け止められず、益体のない外聞などに拘っていた。そんなものはもうどこにもないとわかっていたのに、それでも以前の社会が保障していたものを後生大事に抱えていた。そんなものが人を救うのだと、そう思い込んでいた。
だが自分の信じていたはずのものは、自分も椎名も救わなかった。誰も救わなかった。まったく無意味な死体を二つ、転がしただけだ。
――踏みにじられたのは、自分が弱者だったから。
単純な答えだ。わかってしまえばこれ以上ないほどにシンプルな答えなのだ。
そしてわかったからには、理解したからには、もう肯定するしかない。認めて、受け入れてしまうしかない。
「だからわたしも――自分の餌は、自分で狩ります」
悲鳴は上がらなかった。
ひとつだけ、訂正すべき点があるとすれば。
誰もがやっていることなのだから、それは卑しさではない。卑しさとは呼べない。そんなところか。
七人分の死体を平らげてから、菜緒はぼんやりとそんなことを考えていた。