露わになったその顔に、見覚えがあったと言い切ってしまっていいものか。悠介は微妙に判断がつかなかった。
というのも、自分が彼女を彼女だと認識していた一番の要素が見当たらなかったからだ。既に記憶の中からも薄れかけていたものを無理に引っ張り出したところで、思い出せるのはその外見的特徴が占める割合が大きい。にも関わらず、今の彼女にはそれが欠落してしまっていた。
だが、それでも。
「相澤……さん?」
椎名の前に立つその誰かの顔――眼鏡をかけていない――を見た瞬間、悠介はその名を口にしていた。
顔を覆っていた布が解けて落ちたことに、無論気づいていないはずはないだろう。だが菜緒は改めて顔を隠そうとはしなかった。落ちた布に気をかけた様子もなく、眼前に対峙している椎名の姿を見据えている。
「……お前だったのかよ」
刀の切っ先を向けたまま、椎名がつぶやく。彼も憶えていたらしい――眼鏡がなくとも。菜緒の眉が僅かに動いた。
「え……もしかして、椎名くん?」
少しだけ驚いたような表情で、菜緒もまた呻く。まあ彼の方も顔を隠しているので、わからなかったのも無理はないが。
椎名が刀を下ろすのと、菜緒の腕が人間のそれへと戻るのはほぼ同時だった。見覚えのある――というわけでもないが、まあ誰の肩からもぶら下がっていておかしくない、普通の腕だ。どちらかと言えば細い部類にすら入るだろう。少なくとも、自分や椎名のそれよりは確実に。
「そうか……生きてたか。だが、どうやらお前も――」
と、椎名は菜緒の足元に広がるロキの血を見やり、
「――悪魔に、なっちまったか」
その言葉を聞いて、悠介は。
(……そうだ。そういうことだ)
ロキを、そしてテンプルナイトの頭を彼女の鋭すぎる指が砕いたのを思い出す。人間に出来る芸当ではないし、そもそもほんの数秒前まで、彼女の腕は見紛いようもなく悪魔のそれに変じていたのだ。
(椎名さんやプランクと、同じ――?)
デジタル・デビルに生体マグネタイトを喰われたのだろうか。しかも外見までは変化していない椎名と違って、彼女の方の変質は完全に肉体にまで及んでいる。一応今は人間の姿を取っているが、それが単なる擬態でないとは言い切れないわけだ。
「わたしも、って……ひょっとして、椎名くんもなの?」
菜緒が眉をひそめる。包帯の上からでも椎名が人間の姿をしていることは間違いなく見て取れるので、怪訝に思ったのだろう。椎名が肩をすくめた。
「まあな。死んでたところを、得体の知れないデジタル・デビルに叩き起こされた」
「…………そう。わたしと、同じなんだ」
ぽつりと、そんなことを言ってくる。それを聞いて、悠介は口を開いた。
「死んだ……んですか、相澤さんも」
恐らくはあの夜、教会を襲ったという悪魔の手にかかって。
菜緒はこちらからも椎名からも視線を外し、なにやら言いにくそうな様子で、
「うん……その、まあね」
と、居心地悪げに視線を逸らしているのは彼女だけではなかった。椎名もなぜか、どことも知れぬ方へと顔を向けている――いや、背けているのか。
が、椎名はすぐにかぶりを振ったようだった。下ろしていた刀を再び上げ、菜緒へと向ける。
「――で、だ」
声色が変わる。この街の治安を預かる聖堂騎士団の頭目としての声だった。
「そうだな。弁解くらいは聞いてやる。それ次第で、叩き出すかこの場で即刻斬り捨てるか、選ぶ余地くらいはあるかもしれん。なにしろたったさっき、悪魔の脅威に対する措置を取り決めたところなんでな」
「椎名さん?」
なにを言い出したのかと、しかし疑問に思ったのは一瞬だった。すぐに理解する。
――恐らく菜緒は、先日この街に入り込んだ盗賊達に紛れ込んでいたのだろう。それは彼女の格好を見ればあまり疑問も湧かないし、なによりたったさっき、間近で目撃したばかりなのだ。彼女がテンプルナイトを殺すところを。
だから、椎名の態度も言い分も、まあ理解できないことではない。それでも相手は菜緒なのだと、見知った相手なのだと、そう告げようとも悠介は思ったのだが、他でもない菜緒自身に遮られた。
「弁解って、なんの?」
あっけらかんと。
本気で椎名がなにを言っているのかわからないといった様子で、菜緒は首を傾げて見せた。
流石に、椎名も沈黙を挟んだ。が、少なくともこちらよりは動揺は長く続かなかったらしい。
「……尋問中の脱走。テンプルナイトの殺害。それから、明らかな戦闘行為に関して。この街じゃ全部犯罪だ。それからたったさっき、悪魔による脅威を持ち込んだことに対する罪状も加わった」
「はあ?」
またしても菜緒の眉が傾く。今度は理解できないというより、単純に不快を顔に表しただけのようだった。
「なにそれ。この街のルール? どうしてわたしがそんなものを守らないといけないの?」
「お前がこの街にいるからだ。いるからにはルールに従え。従えないなら、罰則を適用することになる」
椎名の口調に淀みはない。変化もない。恐らく菜緒以外の相手にも何度となく繰り返してきた言葉なのだろう。そしてそのほとんどが、似たような反応を示したのだろうと予想できる。つまり、納得できなくとも頷くしかない。
が、菜緒は頷かなかった。どころか益々顔色を険しくする。
「……あなた、本当に椎名くん? どうしてあなたがそんなこと言うの?」
「お前こそ――いや、そんなことはどうでもいい」
なにかを言いかけたものの椎名はすぐにそれを振り払い、更に告げた。
「従えないなら、排除するしかないな。この街からも――俺の作った法からも」
「作った? 椎名くんが?」
目を丸くする菜緒に、しかし椎名はそれ以上答えなかった。代わりに刀を構えたまま、地面を蹴っている。菜緒の方はと言えば、間違いなく反応が遅れた――はずだったが、それでも椎名が突き出した切っ先を後方に跳んでかわしていた。椎名よりも後に跳び、そして後ろ向きだったにも関わらずだ。
「椎名さん! やめてください!」
叫んだのは無論こちらだ。それが二人に聞こえなかったはずはないが、しかし動きを止めた理由になったのかどうかも怪しいところだった。菜緒と椎名は互いに視線を交わしており、こちらを見てはいない。
椎名と対峙したまま、菜緒が怪訝な様子でつぶやくのが聞こえた――恐らく、目の前の椎名以外に聞かせるつもりはなかったのだろうが。
「……本当に、どうしたのよ椎名くん。ルールだなんて、あなたが嫌いそうな言葉なのに」
ぎり、となにかが聞こえた。椎名が歯噛みでもしたのだろうか。続けて聞こえてきた椎名の声も、独り言かと思うような小さな声音だった。
「自分の間抜けっぷりを思い知っただけだ。そういうお前こそ、なにらしくねえこと口走ってやがる」
「らしい、ね。ものを知らない小娘だったっていう意味のらしさなら、まあ否定のしようもないけれど」
と、菜緒が右手を横に差し出したかと思うと、その肘から先が再び悪魔のそれに変わった。彼女の本来のものとはかけ離れた土気色――比喩ではなく、文字通りに乾いた土のような色だ――の肌に、刃物と化した指。そして掌に開いた口腔。こうして改めて観察すると、腕というよりそれ自体が蛇かなにかの頭部に見えないこともない。
「弁解ね。まあ、なくもないかしら」
「言ってみろ」
挑発でもなんでもなく、やはり淡々とした声音で椎名が告げる。菜緒の表情もやはり変わらなかった。
「わたしは食事をしに来ただけ。この街は食事をするのに都合が良かった。わたしに殺されたひともさっきの悪魔も、わたしを止められなかったのが悪い。こんなところよ」
「……相澤、さん」
彼女の口から告げられた内容に、悠介は思わずつぶやいていた。控え目に言っても、信じられない。
椎名の返事は、それでも平坦なものだった。
「そうか。弁解としちゃ最悪の部類だ」
「でしょうね。弁解じゃないんだから」
そんな必要などないとでも言いたげな様子の菜緒に、再び椎名が踏み込む。菜緒も今度は避けようとはせず、僅かに腰を落とした。椎名の持っている刀の切れ味は知っているはずだが、あれを受け止めるつもりでいるのだろうか。
が。
「やめてくださいって言ってるでしょう、二人とも!!」
腹の底から絞り出した声は、自分でも意外な程の音量となって辺りに響いた。叫んだ自分が驚いたくらいだ。一体自分の身体のどこにこんな大声を出すための器官があったのかと。
だが取りあえずは、椎名の足を止める程度の効果はあったようだ。それを待ち構えていたらしい菜緒の方には、これといった変化もなかったが。
いや、違った。変化ならばある。皆――菜緒と椎名だけでなく、先程から黙ったままの有紗と白木、テンプルナイト達もだ――の視線がこちらへと集中していた。見ていないのはケルベロスだけだ。
居心地の悪さをどこかへ押しやるような心持で軽く咳払いをしてから、悠介は対峙している二人へと口を開いた。
「――やめてください。折角また会えたのに、そういうのは」
菜緒も椎名も明らかにこちらの言い分に対して賛同した様子ではなかったが、しかし反論もしてこなかった。
菜緒が腕を元に戻し、その手を軽く振って見せる。
「繰り返すけれど、わたしは悪いことをしたつもりはないわよ。今のわたしにとって人間は餌で、たまたま通りがかった先に餌が集まってるところを見つけた。だから食べただけ。食べないと飢え死にだもの。あなたが勝手に作ったルールなんてものを押し付けないで」
「どこから指摘してやればいいのかわからんくらいにつっこみどころだらけだが」
こちらも刀を下ろしながら、椎名が半眼を――見えないが、そうなのだろうと確信している――菜緒に向ける。
「たまたま通りがかったってのは、流石に苦しいな。わざわざ盗賊連中に紛れてこの街に入って来たんだ。少なからず事前に知っていたはずだな?」
「こっちに向かったのは本当にただの偶然。そうしたら、この街に侵入しようとしているひとたちに出くわしたのよ。うまく利用できると思ったから利用しただけ」
「食事のために、か?」
「そうよ。わたしは悪魔になったから、生体マグネタイトを摂取しないと。椎名くんだって悪魔になったのなら、わかるでしょう?」
どこか挑発的な笑みを浮かべて見せる菜緒にしかし、
「俺は違う」
椎名が即答すると、菜緒はきょとんとした表情になった。そしてそんな顔を見て、やはり彼女は自分の知っている相澤菜緒なのだと改めて理解する。
椎名が後を続けた。
「デジタル・デビルと融合したのは確かにそうだが、俺の身体は人間のままだ。少なくとも、把握できている範囲では。人間も悪魔も、喰う必要はない」
メシは喰うけどな、と続ける。菜緒はまだ理解が及んでいない様子で、
「え……だって椎名くん、あの時に――」
と、そこで軽く首を振る。なにかを振り払おうとでもしたのか。
「あの時、確かに死んだじゃない。どうやってあそこから元に戻ったのよ」
――その口振りからすると、彼女は椎名が一度死亡した際、その場に居合わせたのだろうか。確か椎名が死んだのは、教会が悪魔に襲われるよりも前だと言っていたような気がするが。
椎名の声音はあくまで淡白なものだった。
「俺に憑依したデジタル・デビルは、俺を死なせなかっただけだ。傷を塞いだのは、あくまで人間としての治癒力に過ぎない」
「だって! 椎名くん、あんなことになったのに――それだけで元通りになんて」
「誰が元通りになったなんて言った?」
その言葉に、菜緒がはっとなったように口を開ける。見えていなかったはずはないが、しかし改めて彼の顔に巻かれた包帯の存在に思い当たったのだろう。
全員の見ている前で、椎名は片手で包帯を解いた。こちらの立っている位置からは見えないが、菜緒には見えたはずだ。傷のない箇所を探す方が難しい程に変わり果てた、彼の顔が。
「生身の人間に備わっている治癒力じゃ、これが限界だった。なんなら、顔以外も見るか? いや見せねえけど」
言って、解いた包帯を再び巻き直そうとする――が、片手が塞がっている上に鏡もないので元通りにするのは無理だと判断したらしく、結局丸めた包帯をポケットに突っ込むと、上着のフードを被った。
菜緒はしばし、彼の顔をじっと見つめたまま黙っていたが、やがて口を開いた。
「……生体マグネタイトを補填すれば元に戻るかもしれないって、そうは考えないの?」
それを聞いて悠介は、椎名の方へと視線を向けた。
(――言われてみれば)
一理ある。椎名の中にデジタル・デビルが潜んでいることは事実で、それが彼の命を繋ぎ止めた(あるいは引き戻した)のも確かだろう。そしてプランクが――恐らく菜緒もだ――生体マグネタイトを確保することで傷の治療ができた以上、椎名も同様である可能性はないとは言えない。
椎名は軽く肩をすくめて見せた。
「そのためには、人間を喰っても文句を言われないようにルールを作り直す必要があるが、さて、自信はないな」
そんなルールが罷り通る社会が実現するのなら見てみたいもんだ、とでも言いたげな態度だった。つまりは皮肉でしかない。
「本当に……変わったわね。椎名くん」
と、菜緒が少しだけ疲れたような口調でこぼす。椎名が面白くもなさそうに言い放った。
「お互い様だろ。お前だって変わった――いや、マジで変わり果てたよ。自分が生きるために他人を餌と見做せるようになったか」
「……ええ。一体誰の影響かしら」
「それこそお互い様だ。俺はお前の生き方を矯正した憶えはねえし、お前だってそうだろう」
椎名のその言葉に、菜緒は一瞬だけ口籠もったようだった。ついでにその顔がなんとも言い表し難い複雑な形に歪んだようにも見えたが、しかしすぐに不敵な笑みを浮かべて見せる。はっきり言って彼女には似合わない類の笑みだが。
「まあ、椎名くんがわたしとは違う形で悪魔になったからって、別に関係ない話よね。わたしはわたし。生きるためには食べるわよ。人間だろうと悪魔だろうと」
「だが、この街でそれは許可できない。お前の犯した罪も看過できない。抵抗するなら制圧する。場合によっては処刑だ」
「できれば、の話でしょ? 無理だと思うわよ、たぶん」
言うと、菜緒はその場から跳躍した。椎名から大きく距離を取るように――どころか近くにあった建物の屋根にまで、ほぼ一瞬で移動している。
「あ――相澤さん!」
慌てて悠介は彼女の飛んでいった方へと駆け出した。見ると菜緒は更に別の建物の屋根へと移動しており、そこからも飛び移ろうとしている。
「追跡しろ! 街中で悪魔を野放しにするな!」
背後から椎名の声が聞こえてくるが、悠介は振り返らなかった。菜緒の姿は既に豆粒くらいに小さくなっており、いつ見失ってもおかしくない。
案の定、数分と経たずに見失った。
「悠介、まって!」
菜緒の後を追って駆け出した悠介を更に追う形で、有紗が走っていく。傍らにはケルベロスの姿も見えた。しかしケルベロスならばともかく、悠介と有紗ではどう考えても菜緒には追いつけないだろう。無論それはテンプルナイトにしても同じことだ。
無事だったテンプルナイトに追跡の指示を出しはしたが、菜緒があの速度のまま街の外へ向かっていたとすれば、追いつくことも見つけることも不可能だ。ついでに言うなら、街の外に出た相手の捜索は聖堂騎士団の役目ではない。彼等の――いや、自分達に課せられた役割はあくまでこの街の治安を維持することであり、街の外までは管轄外だった。
菜緒の飛び去っていった方から、ロキの死体(ただし下半身のみ)へと視線を移す。
(……不本意な最期だったろうな、萌衣)
胸中でつぶやく。不本意でない死に方などあるものか、とも思うが。死ぬ時を人間は予測できないのだから、終わり方というのは常にそうなる。満足できる死など存在しない。遺恨の残らない終わり方などあるはずがない。人生の幕引きは遺恨以外のなにも残さない。
「……団長」
と、白木がこちらへ歩み寄りながら声をかけてくる。椎名はそちらへと振り返った。
「いろいろと、聞きたいことはあるんですが……とりあえず、さっきの悪魔はなんなんです? お知り合いだったんですか?」
「お前には関係ないし、聞きたいこととやらの中にそれは含まれていないだろう。前置きは要らん。聞きたいことだけを聞け」
即答すると、白木は押し黙った。
見ればわかる。聞こうとしたことをはぐらかされて面食らったのではなく――いや、それも多少はあるかもしれないが――単なる反感だ。こちらの物言いに引っかかるものを覚えたというような表情だった。
「――いや、やっぱり後にしてくれ。負傷者を運ぶ方が先だった」
ロキに腰から下を凍らされたテンプルナイトが転んだままなのを思い出し、訂正する。これには白木も反論してくることはなかった。
やがて駆けつけた他の団員達に負傷者の世話と菜緒の追跡を命じてから、椎名は詰所へと移動した。
部屋に戻って椅子に腰かけ、目の前に立っている白木へと視線を向ける。
「で、聞きたいことと言うのは?」
「これからどうするつもりなんです?」
今度は少しの間も挟まず、白木が聞いてくる。椎名はポケットから丸めた包帯を取り出し、それをデスクの上に置きながら、
「どうとは、どれのことを聞いてるんだ? 心当たりが多すぎるんだが」
「シスター・メイのことです。住民や他の団員たちに、どうやって説明するつもりなんですか?」
「どうもこうもあるか。シスター・メイは死んだ。生き返らせることができない以上、そう発表するしかない」
「当然、聞かれますよ。なぜ死んだのかって」
「まあそうだろうな。それでお前は、俺が彼女を見殺しにしたのが理由だと、そう伝えたいわけだ」
「それは……!」
出鼻を挫かれたように、白木が言葉を詰まらせる。図星だったのか、あるいはそこまではっきりとこちらを責めるような意図はなかったのか。ただ、あの状況で誰の目にも明らかに被害者でしかなかった萌衣の境遇に同情し、生き延びた誰かにその責を負わせたかったというだけで。
椎名は包帯を指で摘み上げ、どの程度汚れているかを見やりつつ答えた。
「公表は、当然する。隠そうと思って隠し通せるものでもない。機密を機密のままにしておけるほど、聖堂騎士団は成熟した組織じゃないからな」
「――シスター・メイの死の責任は、誰が負うんです?」
指摘されたことで却って自覚したのか、今度はきっぱりとそう聞いてきた。
「誰に負わせたい?」
間を置かずに問い返す。
白木はまたしても言葉に詰まったようだった。
「誰に、って――」
「責任の所在は明白だろう。聞くまでもないはずなんだがな。――まあいい。シスター・メイに関しては言った通りだ。他に質問は?」
新しいものに取り替えるしかないと判断し、包帯を丸めて部屋の隅のゴミ箱へと放り投げる。と言っても傷の治療が目的ではないので、いっそのこと覆面でもかぶった方がいいのではないかと考えないでもなかった。この顔を隠し続けるのであれば。
白木は真っ直ぐにこちらの顔を見据えながら、次の質問を寄越してきた。
「さっき言っていた、悪魔に関する新しいルールですが――本当に制定するつもりなんですか?」
「しない理由がない。加嶋は欠けたが、悪魔召喚プログラムの解析は今後も続ける。必要な法だろう」
「それは否定しません。確かに、悪魔による脅威は野盗の類とは比べ物になりませんし、それを人間が操作する方法があるかもしれない以上、取り締まる必要はあるでしょう。ですが――」
その先を聞く必要はなかった。うんざりして片手を振る。
「そこは加嶋と同じ意見か。俺の一存でそれを決められるのがおかしいと」
「……そんなことはしないと思ってますよ。いえ、仮にそうだったとしても、それが全体にとって有益なものになると信じてます」
どう見ても納得しているようには見えない顔で言ってくる白木に、椎名はにやりと笑って見せた。包帯を巻いていれば表情を隠せていたところなのだが。
「信じてはいるが、言いたいところは別にあるといった様子だな。この際だ、差し支えなければそれも言ったらどうだ? 俺の定めたルールは、本音を漏らすなとは決めてないんだからな」
本音は所詮本音に過ぎない。建前さえきっちりしていれば、そしてそのポーズさえ崩さなければ、本音がどうあろうと関係ないのだ。そして、その逆はあり得ない。建前も用意できないようなら本音がどれだけ真っ当であっても意味がない。本音が建前に優るなどということはないし、優ったこともない。世の中は常に建前で動いている。
「――あなたの思想は高潔に過ぎる。一歩間違えれば独善だ」
白木の台詞はそんなものだった。
「市民はそれだけではついて来ませんよ。今まではあなたの掲げる方針と、シスター・メイの寛容さの両方があって、なんとかやってこれた。けど、我々はシスター・メイを失ったんです。この街のシンボルとも言える存在を。おまけにその理由が聖堂騎士団の失態となれば、風当りは今まで以上に強くなる。これまでと同じようにやっていては、あなたの理想を独善と呼ぶ人間は増えるでしょうね」
「独善でない善があるとでも思ってるのか。偽善でも独善でもない善がどこかにあって、それだけが唯一正しい真の善に他ならないとでも?」
「そうは言いません。けど、そう思うものは必ず出てくるということです。そしてそれをシスター・メイを欠いたまま今までと同じように押さえつけるなら、それはもうあなたがこの街を支配しているも同然だ」
「ふむ」
肯定も否定もせず、唸っておく。もっとも否定する理由はなにもないが。
白木はそこまで見抜いた上で口にしたのではないだろうが、自分がこの街を実質的に支配しているというのはまったくもってその通りだ。この街が街として成り立っているのは悪魔の侵入を防いでいるからこそであり、そしてそれを為し得ているのが自分である以上、むしろそうとしか言えない。
自覚はあった。自分がこの街の支配者であると。同時に、だからこそ危ういのだとも言える。自分が死ねばそれだけで破綻するようなシステムでは。
自覚した上で、しかし椎名は告げた。
「独善が住民を支配するという形式には、メリットもある。議論に割く手間を省けるという点だ。そして悪魔に殺される危険性に常に怯えざるを得ない状況で、このメリットは何物にも代え難いと思うがな」
「あなたのそういう考えがシスター・メイを殺したのかもしれないとは、思わないんですか!?」
どん、と白木がデスクを叩く。
「誰も彼もがメリットだけを優先して生きていけるものか! 不満は必ず募る! ルールを守った挙句、理不尽に死ぬことだってあるんだ。あなたはそれを残らず、必要な犠牲だったと切って捨てるんですか!?」
その言葉に、椎名は。
「ルールを守るとは、そういうことだ。当たり前だろう」
白木の顔を見返しながら、躊躇なく答えた。
「この街のルールがなんのために存在すると思っている? 一人よりも二人、二人よりも三人が生きながらえるためだ。最初から、それを目的としたルールだ。わかっていないならはっきり言ってやる。この街では個人の生命より、法が優先される」
白木は反論してこなかった。そのつもりがなかったのではなく、単にできなかっただけだろう――つまりは、絶句している。
「ここには大勢の人間が集まっていて、そしてルールがある。それを知りながらこの街に住むという選択をした以上、当然弁えているはずだ。そんなつもりはなかったというなら、今からでも遅くない、考え直せ」
「……考え直せ、とは?」
反論のタイミングを逸したのか、白木は聞き返してくるだけだった。
「この街の法から逃れたいのなら、今からでも好きにしろと言っているんだ。ルールに殉じて死ぬ覚悟をしろとは、俺だって言わないさ。そういった手合いは、ルールから外せばそれで済む話だ」
「――出て行くのなら、引き止めないということですか」
「そうなるな」
答えて、椎名は椅子の背もたれへと体重を預けた。元々がどこで使われていたのかもわからないような中古品なので、それだけで軋む音が聞こえたが。
白木はデスクへと視線を落としたまま、黙り込んでいた。迷っているのだろうとは見ればわかるし、そしてその理由にも見当はついている。
椎名はふうと息を吐き出し、
「家族に相談でもしたらどうだ? 俺としてはお前が出て行こうが、覚悟を決めて残ろうが、どちらでも構わん」
「……そうですか。寛大な処置をありがとうございます、とはとても言えませんけど、それも別に構わないんですよね?」
「ああ。寛大になったつもりも、高潔になったつもりもないからな」
白木は踵を返すと、そのまま部屋を出て行った。その後ろ姿を見送ってから、嘆息を漏らす。
(……まあ、あれが普通の反応なんだろうな)
ルールだけでは生きていけない。少なくとも人間が営みを続けていこうとするなら、もう少しだけなにかがいる。それは感傷だとか同情といった、つまりは無駄だ。人生には無駄が必要になる時というのが――おかしな言い方だが――確かにある。
(だがそれが他人の命より、それを保障するルールより優先されるなんてことはない。そんな都合は認められない)
優先順位を履き違えるわけにはいかない。いつの間にか支配する側に立ってしまっている自分は特にだ。
――白木が再び部屋を訪れたのは、それから数時間後のことだった。
追いつけるなどとは元から思っていなかったが、それにしても菜緒の跳躍力と速度は異常としか言いようがなかった。辛うじて視界に捉えられていたのは僅かな間のみで、今は完全に見失ってしまっている。それは後からついて来たテンプルナイトも同じようで、既に追うのは諦めているらしかった。
「非常招集をかけろ! 既に街の外に出ているかもしれんが、それならそれで確認を取っておく必要がある!」
立ち止まって呼びかけているテンプルナイトの声を背後に聞きつつ、しかし悠介は足を止めなかった。最後に菜緒の見えた方へ向かって走りながら、もう間もなく街の敷地を――つまり椎名の張った見えない壁を――越えようとしている。
流石にこれ以上はまずいと思い、悠介は立ち止まった。見えないのだから具体的にどこに壁があるのかはわからないが、しかし聖堂から相当離れてしまっていることだけは確認できる。
(……どうする?)
菜緒が街の外へ出たのは間違いないだろう。彼女が悪魔になろうとなるまいと、街の外よりは中の方が安全に決まっている。にも関わらずあっさりと外に出たということは、壁の存在を知らないか、あるいは悪魔など既に彼女にとって脅威ではなくなっているのか。
今の彼女にとって、悪魔とは。
(餌に、過ぎない……?)
先程聞いた菜緒の言葉を思い出す。
(生きるためなら、人間だろうと悪魔だろうと――本気なんですか、相澤さん)
はっきりと耳にしたにも関わらず、それでもまだ信じられない気持ちだった。かと言って疑うにも値しない。現に彼女は人間も悪魔も、自分の目の前で喰っているのだ。
椎名達と同様、菜緒と行動を共にしていたのはほんの一月程度だ。とは言え比較的話し易い相手だったこともあって、彼女の人となりはそれなりに把握していたつもりだった。
普通の少女、という印象だった(仮にも年上の相手に少女という呼び方をしてしまうのは抵抗もあるが、しかし彼女の年齢を考慮すれば間違ってはいないだろう)。捻くれたところなどなにもなく、かといって世間ずれしていないわけでもない。恐らくは年齢相応に世の中というものを見知っており、そしてやはり年齢相応に社会というものを知らない。やや真面目過ぎるきらいはあったものの、それは家庭環境の影響だろうと悠介は踏んでいた。裕福というか、厳格な家柄で育ったのだと思わせるものが態度や言動の端々に見受けられたのだ。出会った時点では高校生だったわけだが、携帯電話の類を持ったことがないと聞いた時は流石に耳を疑った。
後はまあ、身体を動かすのは苦手なようだった。本人もそう言っていたし、あの細い身体に尋常でないスタミナを秘めていたりしたのなら、それはそれで驚くべきところではある。代わりに、と言ってしまうのも憚られるが、物事を理解することにかけてはそれなりに聡かったように思えた。
記憶の中の彼女の印象を引っ張り出しながら、しかし悠介が脳裏に思い浮かべていたのは一年前に立ち寄った駐屯地での出来事だった。いや、厳密にはその時に見た菜緒の顔だが。
――自分の言動を偽善だと椎名に切り捨てられ、涙を流す菜緒の顔だった。
(卑しくなりたくないから、だからあの時、泣いたんじゃないんですか?)
無論、この一年の間に彼女の身になにがあったのか――どうやってこれまで生き延びて来たのか、自分はそれを知らない。彼女の考え方を根本から覆すような出来事があったのだとしても不思議はなく、実際にあったからこそ先程の彼女の言葉に繋がるのだろうとも理解している。
が、それでも。
(椎名さんに会った時も思ったことだけど……)
抱いていた印象とまったく別のものを突き付けられれば、どうしたところで抵抗を覚えるのは当然だろう。あるいは、自分が変わってしまったからこそ、彼等には変わっていて欲しくはなかったのかもしれない――眉ひとつ動かさず人を撃ち殺せるようになってしまった自分としては。
と。
「悠介!」
背後から声と足音が聞こえ、悠介は振り向いた。有紗とケルベロスがこちらへと駆け寄って来ている。どう考えてもケルベロスは有紗どころかこちらよりも足が速いはずなのだが、わざわざ有紗の歩調に合わせて来たのだろうか。
必死に追いかけてきたのだろう、有紗はこちらの目の前で立ち止まると、胸に手を当ててぜえはあと呼吸を整えていた。悠介は菜緒の跳んでいった方を気にしつつも、彼女の息が戻るのを待ち――
やがて、有紗が顔を上げた。
「悠、介――さっきの、なお、だよね?」
こちらではなくこちらの背後を見ながら聞いてくる。悠介は頷いた。
「うん。相澤さんだよ。有紗も憶えてたんだね」
名前だけでなく、ちゃんと菜緒の顔を――眼鏡がなかったにも関わらず――記憶していたのだろう。あの時の同行者の中では誰よりも有紗の面倒をよく見ていたのが彼女なのだから、不思議なことではないが。
「なお……あくまだった」
見えているはずはないがそれでも彼女の去っていった方角を見ながら、有紗が言ってくる。
「そう、だね。椎名さんと同じように、デジタル・デビルに――」
言いかけて、しかし。
「ちがうの、悠介」
有紗がぶんぶんと首を横に振る。
そしてこちらの顔を見据え、言ってきた。
「あのときの、あくまだった」
「……は?」
彼女がなにを言っているのか。悠介は理解できなかった。
こちらのリアクションが予想外だったのか、あるいは自らの言葉不足を悟ったのかはわからないが、有紗が繰り返す。
「なお、あのときのあくまだったの。ありさおぼえてる」
「…………あの時?」
有紗の繰り返した言葉を、自分でも口にして。
(あの時の……悪魔?)
思うところは、なかったわけでもない。というかもっと冷静になっていれば、彼女の言わんとするところを察していただろう。いや、結局思い当たる節に行き当たっていたのだから、それなりに頭は冷えていたのかもしれないが。
それでも、悠介は聞き返していた。
「有紗、なにを言ってるの? あの時ってどの時?」
「だから!」
有紗が声を張り上げる。言いたいことがすんなりと伝わらないことにもどかしさを覚えたのか、両手を左右に広げながら、
「あのときだってば! きょーかいで、みんなころされちゃったときの!」
(……ああ、そう言えば)
有紗はあの時の悪魔を目撃していたんだっけ、などと考えつつ。
「あのときは、わかんなかったけど……さっきみて、わかったの。あのあくまが、なおだったんだよ!」
「…………え」
短く呻き、それと同時に。
瞬時に思い浮かんだのは、死体の山だった。あの日、目覚めた自分の視界に即座に飛び込んできた光景でもある。
どの死体も、損壊が著しかった。複数の鋭利な刃物で胸を刺されたようなのはまだましな方で、大半は身体の一部が欠損していたものばかりだ。それは四肢のいずれかであったり首であったりしたし、ものによっては残っている部位の方が少ないものすらあった。巨大なミキサーか何かに死体を次々と放り込めばどうにかこうなるのではないかと思えるようなあの惨状は、今もって忘れ去ることができない。夢にまで何度も現れるくらいだった。
悪魔に襲われた結果だと、それは聞いていた。あんな殺し方をできるのは悪魔くらいしかいないのだから、聞いていなかったとしてもそう結論付けていただろうが。
(その悪魔が……)
一夜にして百人近い人間を惨殺し、そして喰ったであろう悪魔が。
(……相澤さん、だって?)
普通の少女、という印象だった。既にうろ覚えになりつつある当時の彼女の顔をどうにか思い起こし――
それをあの死体の山と結びつけるのは、悠介にはできそうになかった。