自分の身体が人間のものでなくなったという実感が湧いたのは、しばらく経ってからのことだった。
というのも、悪魔になったあの夜のことは今もって記憶がおぼろげなままで、細かいところまでを憶えていないからだ。その理由も今となってはある程度を把握しているが、だからと言って記憶までが戻ってきたりはしない。まるで夢でも見ていたような心地のまま、ただ人を殺して喰らったのだという事実だけをどこか他人事のように受け止めていた。
(……それこそ、夢みたいな話だけど)
自覚して悪魔へと姿を変え、そして人を喰らった時点で、夢は悪夢へと変わった。忌まわしくも逃れられない楔として、記憶の中にそれを縫い止めた。より深く食い込むことはあっても、消えることは決してない。あれから自分は、喰い続けているのだから。
真っ先に気付いたのは(それでも目覚めてしばらくは気付かなかったのだから、我ながら抜けているとは思う)、目だった。というか視力だ。裸眼では目の前の人物の顔を辛うじて識別できるかどうかという程度には近視だったはずなのだが、眼鏡なしでも十分な視力を取り戻している。なのでどこかに紛失してしまった――考えるまでもなく、悪魔へと変化したあの時に外れるか壊れるかしたのだろう――眼鏡を探す必要はなくなった。ただし長年の習慣というのはなかなか抜け切らないもので、今でも眠りから覚めた時にはつい付近を手で探ってしまうのだが。
人間の姿を維持している時でも、以前の自分とは比べ物にならないほどの身体能力を有しているのだとは、やはりすぐに思い知らされた。これも当然悪魔になってしまった影響であり、つまるところ人間の――生前の、と言ってもいいかもしれない――姿というのは、今の自分にとっては仮初めのものでしかないということだ。そもそもそう見えるというだけで、中身の方がどうなっているのかは知れたものではない。少なくとも生理は止まってしまったし、髪や爪もまったく伸びる気配を見せない。子宮以外の内臓も、ちゃんと体内に残っているのかどうか、疑わしいところだった。
(その割に、怪我をすれば血はちゃんと出るのよね。どういう仕組みになってるのかしら)
実際には血などではなく、まったく違う液体が流れているという可能性もある。体内を循環しているのは間違いなさそうなので、ならばそれを血液と呼んでも差し支えはないのかもしれないが。
そして、最もわかりやすく、且つ痛烈に。自分が人間でないことを思い知らせてくれたのは。
(……また、か)
菜緒は視線を夜空へと上げて、げんなりと胸中で呻いた。割と定期的に訪れる感覚だ。飢餓感だった。
どれだけ生体マグネタイトを得ていようとも、この感覚はある周期に則ってやって来る。初めのうちはその規則性に気付かなかったのだが、三度目でまさかと思い、四度目で確信した。
月だ、と。
生体マグネタイトが不足しているかどうかとはまったく無関係に、この飢餓感は月の満ち欠けとシンクロしているのだと、菜緒はやがて気づいた。満月の時に最も強くなり、そうなると思考のほぼすべてを侵食されてしまい、まともに理性を保っていられなくなる。とにかくなにかを――生体マグネタイトを含んだなにかを――喰わずにはいられなくなり、その他のことは考えられなくなるのだ。
思い返してみれば、自分が死んだあの晩もそうだった。教会にいた人間を殺して回ったというのに、理性がどこかへ飛んでしまっていたせいで記憶らしい記憶も残っていない。まあ、憶えていたかったと思ったことなど一度もないのだが。
言うまでもないが、理性が消し飛ぶということは肉体の変化に対しても抑制が効かなくなるということだ。その結果として――
(……こう、なるのよね)
こちらの意思をまったく無視して悪魔のそれへと変じた右腕を見下ろし、苦々しくつぶやく。肉体の悪魔化は生体マグネタイトの消耗を促す為、必要な時でない限りはなるべく人間の姿を保っていたいのだが、その抑えが効かなくなりかけていた。満月が来るといつもこうだ。
時刻は既に真夜中であり、周囲の見通しは悪い。一年前から夜間に出歩く人間というのはめっきり減ってしまったため、この餓えを満たしてくれる相手を求めるなら悪魔を探す方が手っ取り早いだろう。山奥でもないので、動物という線もあてにできない。
(街に、行けば……)
理性なのか別のなにかなのかはわからないが、頭の中で獲物を得るための手段を提案してくる。が。
(……いえ、悪魔は近づけないんだったわね。人間の姿に戻れればいいんだけど……戻れないし)
それを却下したのは、間違いなく理性の声だった。聞いただけで本当に阻まれるのかどうかを試したわけではないのだが、確かにあの街へ入る時、なにか妙な感覚を――水の中に潜るような――覚えた気がする。
どちらにせよ、街からは既に離れてしまっている。今から取って返したとしても時間がかかるし、その僅かな時間ですら耐え難いほどに飢餓感は膨れ上がっていた。
(食べ、たい……なんでもいいから……)
右手をだらりとぶら下げたまま、歩く。神経は研ぎ澄まされているというより明らかに過敏になっており、自分の足音ですら耳障りに思えた。
「あ……ああっ!」
まったく意味のない唸り声を上げ、右腕を地面に叩き付ける。かつては舗装されていたのであろうアスファルトが易々と抉れ、飛び散った破片がこちらの身体を叩いた。が、鋭くなっているはずの神経は痛みをまったく伝えてこない。これは単純に麻痺しているか、あるいは錯覚だろうと思うが。
(なにか、食べないと……誰か……)
神経は目と耳、そして鼻へと集中させていた。獲物の影を、物音を、匂いを、一片たりとも逃すまいと意識を注ぎ込む。
だからだろうか。
恐らくは、かなりの距離があったはずだ。それこそ平時であれば気づかないほどの。
――聞こえてきた物音に、菜緒は即座に反応していた。
(……足音!?)
極度の餓えがもたらした幻聴である可能性を、菜緒は疑えなかった。そんな余裕は微塵もなかった。聴覚以外の神経も総動員して、音の聞こえてきた方へと向ける――足音は、まだ聞こえていた。
(やっぱり……! 誰かいる!)
胸中で快哉を上げると同時、脚は勝手に走り出していた。足音はこちらへと近づいているわけではなく、むしろ遠ざかっているように聞こえる。恐らくはこちらの存在に気付かないまま、付近を通り過ぎようとしているのだろう。
気付かれていないということは、抵抗される心配もないということだ――そう考えるだけの余裕すら、菜緒にはなかった。というより、そんなことはどうでもよかった。考えていたのはもっとシンプルな事実のみだ。ここに餓えた悪魔がいて、そして獲物がいる。それだけだった。それ以上を考える必要はなかった。
数秒ほど走って、すぐに見えてきた。人数は――六人ほどか。後ろを走るこちらには気付いた様子もなく、全員が同じ方向へと走っている。
(いた……いた! 人間が、いた!)
視界に捉えた時点で、理性は完全に吹き飛んだ。更に速度を上げ、前方を走る一団のうち最も後ろにいた男の背中に狙いを定める。
と、そこで男が振り向いた。流石に気づかれたらしい。
「あ? あんた――」
男がこちらの姿を認めてなにかを言いかけるが、菜緒は聞いていなかった。男の首目がけて、右手を振り抜く。
「うおっ!?」
振り返ろうとしていたせいか、ぎりぎりのところでこちらの指は男の首を捉え損ねた。男が首を押さえて立ち止ま――ろうとしたのだろうが、しかし勢い余って盛大に転倒する。
バランスを崩したのはこちらも同じだった。おまけに目の前で倒れた男に足を取られ、倒れこそしなかったものの立ち止まらざるを得ない。
「なんだオイ!?」
背後での異変に気付いたらしく、前を走っていた男達が振り返ってくる。いや、よく見ればその更に先を走っていた三人――眼鏡をかけた男に、恐らく自分よりは年上と思しき女、そして悠介や有紗よりも幼い子供――も立ち止まっていた。
男達はともかく、女性と子供は既に体力の限界に近づいていたのだろう、立ち止まったのもこちらに気付いたからというより、単にこれ以上走れなかったからなのではないかと思うほどに青ざめていた。
が、そんなことはどうでもいい。
「……あれ? お前確か、この間――」
男のひとりがなにかを言いかけたが、無視して菜緒は転んだままの男に向かって再び手を伸ばした。
「へ?」
転倒したままでは先程のような反射神経を働かせることはできなかったのか、男は目の前に突き出された手――それを手と認識できたかどうかはともかく――を眺め、そして。
そのまま、こちらの掌に開いた口に、顔の半分を削り取られた。
どさりと男の身体が倒れ、そのまま動かなくなる。呆気に取られてその様子を眺めている別の男へと、菜緒は即座に詰め寄った。
「おいお前、なにをぅっ!?」
男の言葉は途中で悲鳴へと変わった。腹を貫通されれば無理もないと言えるが。
耳障りな喚き声を上げる男の身体から腕を引き抜き、また別の男の方へと移動する。そちらの男は事態にまったく理解が追いついていないのか、顔面を失って倒れた男の姿を見下ろしたまま、なにやら言っているようだった。
「お、おい。なにふざけてんだよ。お前その顔、どうし――」
その背後から、菜緒は右腕を叩き付けるようにして振り下ろした。男の頭が弾け、周囲に血が――あと他にも色々と――散乱する。
振り下ろした腕を上げ、菜緒はそこにこびりついたものを舌先で舐め取った。旨いはずはないし、実際のところそう思ったこともないのだが、強烈な飢餓感はそんなことも容易く忘れさせる。歯応えのあるものを噛み千切りたくてたまらず、男の肩から肉を抉って口(掌のではなく、顔にある方だ)へ放り込んだ。人間だった頃の名残なのか、やはりこちらの口で咀嚼する方がものを食べているという気になる。
更にもう一掴み、男の肩から肉を引き千切ったところで。
「あ、あの……助けて頂いて、ありがとうございました」
背後からかけられた声に、菜緒は手の動きを止めた。ちらりと、肩越しに視線だけを向ける。
立っていたのは女だった。その背後に隠れるようにしながら、子供――五歳か六歳くらいの少女がこちらを見ている。残るひとり、眼鏡の男性はやや離れたところで、なにやら首筋を押さえていた。怪我でもしたのだろうか。
(……助けた?)
聞こえたような気がしたその言葉を、菜緒は声には出さずにつぶやいた。誰が誰を助けたというのか。
――口にものを入れたおかげか、申し訳程度に理性が戻っていた。女と子供の姿を軽く眺めた後、こちらに腹を貫かれてものも言えずに倒れている男へと視線を移す。
(…………あ、そっか)
恐ろしく鈍重になっている思考力をそれでもどうにか奮い起こして、菜緒はようやく理解に至った。
たった今自分が殺したのは、野盗だ。それもここにいたのが偶然などではない、先日街への潜入を計った連中の仲間なのだろう。そう言えばさっき、こちらの顔に見覚えがあるようなリアクションを取った男がいたが、確かに街の中へ入る為にあの連中に紛れ込みはした。街の外で待機して、潜入組の帰還を待っていたというところか。
(で、そこにたまたま――)
通りがかってしまったのが、この三人というわけだ。いや、ひょっとしたら三人ではなく四人か五人だった可能性もあるが、ここまで減らしてしまったのは自分なのだから、数えるのは残っている人数だけでいいだろう。
「……ん? きみ、もしかしてあの時の」
と、首を押さえたままこちらへと近づいてきた男が声を上げる。先程の男と似たようなリアクションだったので、こっちも野盗かと菜緒は思ったのだが。
「ああ、やっぱり。団長や悠介くんと話してたよね。――
と、眼鏡の奥の目をすっと細め、男が女と少女に向かって手招きをする。
「え、お父さん?」
「お知り合いなんですか、あなた?」
二人――妻と子らしい――が男の方へと顔を向け、尋ねる。彼は立ち止まってこちらへは近づこうとしないままに、繰り返した。
「いや、知り合いというほどじゃないよ。いいから、早くこっちへ来なさい。そこにいるのは人間じゃない。悪魔だ」
「……えっ?」
男の言葉に驚いたのは、女と少女だけではなかった。菜緒もだ。
「どこかで……会ったかしら」
男の顔がさっぱり思い出せず、菜緒はつい口に出していた。こちらの素性をある程度把握している様子で、おまけに悠介の名前まで知っている――あるいはもう少し理性が戻っていれば、思い当たっていたのかもしれないが。
戸惑いつつも女と少女がこちらから離れ、そしてそれを庇うように(もちろん、こちらから庇うためだろう)男が一歩進み出た。悪魔だとわかっている相手を前にしているせいか、その表情には緊張の色が見て取れる。
「団長がロキと交戦している時に、横槍を入れてきただろう? 私はあの場にいたんだ。きみが団長や悠介くんと話していたのも聞いた。どうして私達を助けたんだ? いや、そもそも助けたのか?」
こちらの質問に答える形でそんなことを言ってきた彼の思惑は、まあ明白と言えば明白ではあった。後ろの二人を逃がそうとしている。つまりは時間稼ぎだ。無論、これがただの悪魔であれば彼のしていることは無謀どころかただの阿呆でしかないが、自分が相手ならば多少は話が通じる余地があると踏んでいるのだろう。それでもこちらは一向に彼が誰なのかを思い出せなかったが。
まあ思い出せないものは仕方がないと、菜緒はさっさと諦めることにした。そもそも餌になる相手と以前にどこかで会っていたからと言って、なにが変わるものでもない。それで餌としての機能が損なわれたりはしない。
こちらが完全に身体ごと振り向くのと、男の背後で母子が駆け出すのとは、ほぼ同時だった。こちらの姿(というか、たぶんべったりと血が付着した口の周りだ)を見て、男の顔が軽く引きつる。
が、それでも彼は短く叫んだ。
「逃げろ!」
菜緒はほんの少しだけ戻りかけていた理性を再び手放すことにした。思い出すまでもなく先程から脳髄を支配して已まない飢餓感に衝き動かされ、一直線に男に向かって躍りかかる。
男の体躯はさほど屈強には見えなかったが、しかし自分よりは確実に身長も恰幅もある。正直、以前の自分なら力任せに組み伏せようなどとは夢にも思わなかったはずだ。が、今は違う。そもそもそんなことを考慮するような余裕もない。
男は避けようともしなかった。目的を考えれば当たり前の話なのだが、その場に立ちはだかったまま、肉薄しようとするこちらを真正面から見据えている。いつの間にか、その手には拳銃が握られていた。
菜緒はまったく躊躇することなく――する理由がない――銃口をこちらへと向ける男に向かって腕を伸ばした。ほぼ同時に男が発砲し、弾丸が脇腹へとめり込む。
苦痛を感じなかったということはない。右腕のように悪魔化しているのならともかく、そうでない限り肉体の強度は人間だった頃のそれと大差はないのだ。弾丸は貫通したようだったが、恐らく血も流れ出しているし確実にこちらの運動能力の何割かを削ぎ落としたには違いない。
だが、菜緒は立ち止まらなかった。その発想が湧かなかったと言ってもいい。考えていたのは一秒でも早くこの飢餓感から解放されることのみで、目の前の肉の塊がそれを為してくれるのだという事実を、およそ理性などとは呼べない部分で理解している。
弾丸が命中したにも関わらず動きを止めなかったこちらを見て、果たして男がどう思ったのか、それはわからない。予期していたのか、あるいは諦めていたのか。どちらにせよこちらの指が男の肩に突き刺さるその瞬間まで、その場から動こうとしなかった。
「うぐっ!」
男が悲鳴を上げる。狙ったのは銃を持っている右手の方だったのだが、男は数歩たたらを踏みながら、しかし伸ばしたこちらの腕に掴みかかってきた。動きを止めようとしているのだろう。
菜緒は間髪入れず、男の脇腹へと膝を叩き付けた。
「がっ!?」
鈍い音と共に、何本か骨が折れる感触が伝わってくる。同時にこちらの腕を掴んでいた手からも力が抜けた。
即座に腕を翻す。流石に狙いをつけるような余裕はなかった――ただの偶然だろう――が、こちらの指は男の首を深々と抉った。ぶしゅう、と音すら立てて勢いよく血が吹き出す。
ぱくぱくと口を動かす男の姿を、菜緒は返り血をまともに浴びながら眺めていた。ぐらりと男の頭が傾き、そのまま倒れ込もうとする――よりも早く、男の肩に思い切り歯を突き立てる。
最早悲鳴もなく(聞こえなかっただけかもしれないが)、抵抗もしない男の肩から肉を噛み千切り、それを咀嚼する。完全に力の抜け切った男の身体を支えながら、もう一度かぶりつこうとしたところで。
「お父さん!」
前方から甲高い声が聞こえ、菜緒はほぼ無意識にそちらへと視線を向けていた。
「明日香! 駄目!」
少女が立ち止まってこちらを振り向き、その手を取って女が叫んでいる。既にそれなりの距離が開いてはいるが、それでもこちらと男の姿が見えないということはないのだろう――血塗れになった男とこちらを見て、二人とも愕然としている。
「お母さん! お父さんが!」
「駄目よ! 逃げないと――!」
泣き喚いてこちらへと駆け出そうとしている子供と、それをどうにか押し止めようとしている母親と。
迷いなく、菜緒は男の身体から手を離し、地面を蹴った。背後で支えを失った男の身体が地面に倒れ込む音が聞こえたような気もするが、一顧だにせず前方に見える二人の元へと駆ける。
女が少女の手を強引に引っ張り、こちらに背を向けるのが見えた。少女はまだなにかを喚いていたが、しかし母親に引きずられるようにして走り出す。
遅い、と考えたわけではなかったが、実際遅かった。
数秒とかからずに二人へと追いつき、菜緒は少女の手を掴んでいる女の腕に向かって、腕を振り抜いた。
「えっ!?」
なにが起こったのかわからなかったのだろう。女の表情が驚愕のまま固まり――そして盛大にバランスを崩し、その場に転倒する。
「え……?」
こちらもバランスを崩しながら、しかし転びはしなかった少女が呆けたような声を上げるのが聞こえた。彼女が見ているのは、自分の手だ。母親の手を握っていたはずの。
「……お母さん?」
自分が握っているのが、母親の肘から先だけなのだと、果たして少女が理解できたかどうか。
地面に倒れた母親がなくなった左腕を押さえながら悲鳴を上げるのを聞いても、まだ少女は呆然としたままだった。やがてゆっくりと、掴んでいる母親の腕からこちらへと視線を移し――
こちらの突き出した腕に、胸を貫かれた。
「明日香っ!!」
一際大きな絶叫が女の口から漏れる。少女はまだ状況を理解できていないといった表情のまま、母親の方を見た。
「お母……さん?」
つぶやきながら、握っていた母親の腕を地面に落とす。胸から生えたこちらの腕を見下ろしたが、やはりそれがなんなのか理解が追いついていないようだった。
「あああああああああああああああっ!!」
最早獣じみた叫びを上げて、女が起き上がるのが見えた。そのまま、髪を振り乱してこちらに駆け寄ってくる――叫びだけでなく、その形相も獣のようになっていたが。
残った右手で掴みかかるように突進してきた女に、菜緒は回し蹴りを叩き付けた。まともに顔面に受けた女がもんどりうって倒れ込むも、すぐに地面に手をついて上体を起こす。鼻骨が砕けたらしく、ぼたぼたと鼻血が流れ落ちていた。
菜緒は少女の胸を貫いた腕に軽く力を込め、そのまま持ち上げた。碌に抵抗することもなく――しようもないだろうが――少女がだらりと四肢を垂らし、こちらと同じ目線まで浮き上がる。
左手で少女の頭を鷲掴みにし、右腕を引き抜く。壊れた蛇口のような勢いで少女の胸から血が流れ出し、こちらの身体を濡らした。もっとも、既にこれ以上ないくらいに血塗れだったが。
右腕を横に伸ばす。そこから前方へと振り――少女の首から下を切り落とした。
「――っ!!」
地面に落下する少女の胴体を見て、またしても女の口から悲鳴のようなものが漏れる。悲鳴というより、マイクのハウリングのようですらあった。
菜緒は掴んでいた少女の頭部を引き寄せ、首筋にかぶりついた。子供のものとは言え、流石にこの大きさだと一口で丸呑みにするというわけにはいかない。噛み千切った肉を飲み込み、続いて顎に歯を立てようとしたところで。
「殺すっ!!」
再び女が立ち上がり、その勢いのまま突進してきた。先程と同じ結果になるなどとは考えてもいないのか、策もなにもあったものではない、ただの体当たりだ。
菜緒は今度は自分から女に向かって軽く跳躍し、腹目がけて爪先を突き出した。女の突進の勢いがそのままカウンターとなって、下腹へと叩き込まれる。
「かっ――!」
まともに血を吐き出して、女は背中から地面に倒れ込んだ。そちらへと歩み寄り、上から女の腹を踏みつける。
「う――げほっ! げはっ!」
何度も口から血を撒き散らしながら、それでも女は憎悪に滾った目をこちらへ向けていた。
「殺す……絶対に、殺してやる!! よくも、あのひとを――娘を――!!」
呼吸すらままならないはずだが、しかしそんなものは知ったことではないといった形相でこちらに呪詛の言葉を投げかけてくる女に、菜緒は。
「無理よ」
知らず、返事をしていた。
「あなたには無理。わたしは悪魔だもの。あなたはわたしを殺せない。あなたは殺されるだけ。なんの力もないあなたは、ただ殺されて餌になるだけ」
無意味な問答だと。そう理解できるだけの理性はまだ戻っていなかった。だからこれを言っているのは、理性とは別の部分だ。まったく理性的でない自分だ。
「殺されるしかない、あなたが悪い。殺せずに餌にしかなれない、あなたが悪い」
不必要なまでに腕に力を込め、気が付けば少女の頭蓋を握り潰していた。飛び散った血と脳漿と頭蓋骨が、女の顔とこちらの身体を汚す。
「こんなところにいた、あなたが悪い」
腕を振り下ろす。この距離では外しようもなく、女の胸を貫いた。
悲鳴はない。少なくともこちらの耳には聞こえなかった。仮に声を出せたとしても、彼女が口にしたのは悲鳴ではなくこちらを呪う言葉だったかもしれないが。
ほどなく女が絶息し、それを確認してから菜緒は腕を引き抜いた。踏みつけたままだった女の腹から足をどかし、腕なり脚を切り落とそうと――した瞬間に。
びくん、と、女の身体が跳ねた。
(……!?)
それをおかしいと察知したのは、恐らく勘か、あるいは本能に近しいなにかだろう。理性は先程からずっとどこかへ遊離しているのだから、それしかない。
だが所詮、勘は勘だ。論理的ではない。察知した違和感の正体を掴むことも望めない。なので菜緒はそれがなんなのか理解できず、予測することもできなかった。
再び、女の身体が跳ねる。と同時に、異変が起こった。女の下腹部の辺りに、なにかが見える。
(……あれ、は)
服の上からでも見て取れた。模様だ。それが浮かび上がり、光を放っている。
むくりと、女が起き上がった。顔から服に至るまで血だらけのままだが、しかし表情だけが先程までとはまったく違う。呆然とした様子で自分の身体を見下ろしながら、右手で下腹部を擦っていた。
「……え……? なにこれ……私、死んだんじゃ」
彼女はまったくと言っていいほど事態を把握していないようだった――こちらと同じように。血に塗れた己の身体と下腹部に現れた奇妙な模様を、呆気に取られた様子で見比べている。
……いや、違う。同じではない。彼女はともかく、自分はあれがなんなのかを知っている。身を以て味わったのだから、知らないはずがない。
緊張感がほんの僅かに理性を呼び戻した。そして戻って来るや、全力で警告を発してくる。
殺せ、と。一秒でも早く息の根を止めろ、と。
その警告を聞き遂げたのか、それともやはり本能が察したのか。ともあれ菜緒は即座に、女に向かってもう一度腕を振り下ろしていた。
が。
(…………!?)
狙い違わず振り下ろしたはずの腕が盛大に空を切り、菜緒はバランスを崩した。爪はそのまま地面を抉り、拳大の穴を穿つ。
「な……」
わけがわからず、女の方を見る。しかし目の前にいる彼女の顔には、恐らくこちらと似通っているのであろう色が浮かんでいた。
「どうなってるの……? 私、一体……」
聞かれたところで、こちらに答えられるはずもない。振り下ろした腕が、彼女の身体を素通りした理由など。
菜緒は地面にめり込んだ腕を引き戻し、後方へと跳んだ。女との距離を取る。これも理性的とは言い難い判断だった。
女が再び自分の身体を見下ろし――そこで、彼女も気づいたようだった。いつの間にか、彼女の着ていた服が違うものになっている。
いや、服だけではない。模様から広がった光は全身を包み込み、最早先程までの彼女の姿はどこにも見当たらなくなっていた。
――生前の、彼女の姿は。
(わたしと……同じ?)
人間だった頃の彼女は既に、そこにいなかった。
悪魔へと生まれ変わってから、敢えて見ないようにしていたものがある。鏡だ。
いつだったのかはもう憶えていないが、全身を悪魔へと変えた自分の姿を鏡で見た時、即座にはそれが誰なのかわからなかった。映っていたのは無論、異形としか呼びようのないものであり、正直なところ生物と認識することすらできなかった。人間として生きていたはずの自分はもうどこにもいないのだから、生物でないというのはむしろ正しい認識だったのかもしれないが。
その鏡は即座に叩き割った。どう見たところで化け物としか呼びようのない姿に生理的な嫌悪感を覚えたというのもあるし、単に初めて見た悪魔の姿を本能が敵だと判断したという可能性もある。自分以外の悪魔は残らず殺して喰らうべき対象なのだから、衝動としては間違っていないだろう。
鏡を見たのは、つまり悪魔になった自分の姿を見たのはその一度きりだった。それがいつの出来事だったかは憶えていないというのに、映っていた悪魔の姿だけは鮮明に焼き付いている。その時から、悪夢のバリエーションがひとつ増えた。
気付いた――と言うほど明確なものではないが――のは、それからしばらく経ってからのことだ。なにかが違う、と。
それをはっきりと表現する語彙は持ち合わせていない。勘違いだと指摘されればそんな気もする。そして当然、自分の記憶違いという線も疑って然るべきだろう。ただ、なんとなくそう感じただけなのだ。
悪魔になった自分の姿と、これまで目にしてきた悪魔とは、どこかが違うと。
その奇妙な違和感を、菜緒は改めて想起していた。目の前にいる悪魔から。
「悪魔……?」
つぶやいてから、理解が及ぶ。
人間ではない。目の前にいるのは、もう人間ではなく――誰の目にも明らかな悪魔だった。
背丈は恐らく、先程までの彼女と大して変わっていないだろう。こちらと同じくらいか、やや低い程度だ。服のように見えるのは実際のところ服ではなく、肌の一部だった。異様に裾の長いレインコートを頭からすっぽりと被ったような格好をしており、体型だけは人間の女性に見えなくもない。ただし顔の部分には口を除いた感覚器官が存在しておらず、その口からは牙が覗いている。切り落としたはずの左手も生えているだけでなく、五指がいずれも1メートルくらいの長さになっており、それが手首から肘にかけて巻き付いていた。
どこがどう、というわけではない。説明しろと言われてもしようがない。だが、似ている、と菜緒は感じていた。完全に悪魔化した自分の姿と、なにかが似通っている。
女は――女だった悪魔は、自分の姿を見下ろしていた。身じろぎひとつしていない。
……なにを考えているのか、手に取るようにわかる。わかってしまう。
(なにが起こったのか、さっぱりわからないでしょうね)
自分もそうだったのだ。まったく理解が及ばないまま、手当り次第に周囲の人間を殺して回った。殺して、喰い散らかした。
「なに、これ……? 私、どうなって……」
悪魔の口から困惑の言葉が漏れる。ただそれだけでも、自分が初めて悪魔になった時と比べれば随分と理性的な反応のように菜緒には思えた。自分の場合は疑問すら湧き上がらなかったのだから。
彼女の疑問を、自分は解消してやることができる。彼女の身に何が起こったのか、それを話して聞かせてやることができる――場合によっては、自分の体験談も交えて。
が、当たり前だがそんなことをしてやる義理はないし、なにより飢えがそれを許さなかった。説明など、今ここで殺して喰らってしまえば必要なくなる。
菜緒は再び腕を振り下ろした。
「えっ!?」
声を上げ、悪魔がこちらの腕を避けようと身をよじる。しかしどう考えても遅かった上に、動きそのものも鈍いとしか言いようがなかった。人間だった時と大差ないようにすら思える。
躱しようがない、はずだったが。
振り下ろした腕はまたしても彼女の肉体を切り裂くことはなく、なんの手応えも寄越してこなかった。
(また……!)
今度は姿勢を崩すようなことはなかったものの、菜緒は後方へと跳んで悪魔との距離を取った。彼女はと言えば、やはり訳がわからないといった様子で自分の身体を見下ろしている。
(どうなってるの……?)
彼女の姿を見据えたまま、菜緒は眉をひそめた。こんな状態でまともに思考も分析もできるとは到底思えなかったが、それでも考える。
(彼女は悪魔になった……つまり生体マグネタイトを喰われて、デジタル・デビルを実体化させた)
そう、実体化させた。だから本来目には見えない存在であるはずの悪魔が見える。そもそもその為に、デジタル・デビルは生体マグネタイトを求めるのだ。
だがそれならば、触れることができないというのはおかしい。実体化した以上は、接触できる存在になっているはずだ。単なる情報ではなく、物理的なものになっているはずなのだ。
考えている間に、彼女が立ち上がった。
「そう……私」
自分の両手と、そして身体を見下ろしながら、彼女がつぶやく。
「人間じゃ、なくなったの。悪魔になったのね」
(……流石に、気付くわよね)
姿を見れば一目瞭然だろう。自分だってそうだったのだ。鏡に映った姿を見て、それを人間であるなどとまったく考えなかった。異形の怪物であるとしか思えなかった。
――つまり、悪魔だ。
彼女の肩が僅かに揺れた。どうやら笑ったらしい。
「ふふ……きっと夢ね。死ぬ前に夢を見てるんだわ。走馬灯みたいに」
夢だとすれば悪夢だ。そんなものは自分だって何度も見ている。死ぬまで終わらない悪夢だ。
「夢なら、悪魔にだってなるわよね。だって……悪魔なら、あなたを殺せるもの!」
彼女が地面を蹴った。同時に、腕に巻き付いていた指が解ける。巻き付いていた時点でわかっていたことだが、こうして見るとやはり長い。どの指も軽く1メートル以上はあるだろう。
彼女はこちらに向かって走りながら左腕を振りかぶると、そのまま鞭のように指を叩き付けてきた。
菜緒はもう一度後ろへと跳躍し、五本同時に飛来する指を避けた。直前まで立っていた地面が代わって指の打擲を受け、アスファルトの破片を飛び散らせる。
追撃はなかった。着地するこちらの姿を悠然と(というのは気のせいかもしれないが)眺めながら、悪魔は再び左手を振りかぶる。
「……ひょっとして、あなたも同じかしら? 私みたいに、人間から悪魔になったの?」
彼女自身が言った通り本当に夢だと思っているのか、聞いてくるその口調はどこか愉しげですらあった。まあ、そう思い込まなければ発狂してもおかしくない事態なのだから、無理もないかもしれない。
(いえ、とっくに発狂してる、のかも)
だが、それを疑ってしまえば自分にも同じことが言える。少なくとも今は月の影響で理性が飢餓感に焼き切られてしまっているし、そうでなくともとうの昔に狂っている可能性は否定できない。と言うか、誰もがそうだ。自分が狂っているのかいないのか、それを判断できる者などいない。証明できない。
「よかったら、名前を教えてくれないかしら」
彼女はそんなことを言ってきた。菜緒は無視するつもりでいたが、しかし続いて女の発した言葉は、少しばかり意外なものだった。
「あなたも悪魔になったのなら、知っているでしょう?――自分が、どんな悪魔になったのか」
(……!)
微かに眉を動かす。
悪魔とは、人類史が始まった時から延々と語り継がれてきた情報だと、悠介はそう言っていた。故にそういった文献や創作物はそれこそ世界中のどこにでもあるし、古いものほど数も多いだろう。そして情報が多いということは、それだけ内容が克明ということでもある。
それがデジタル・デビルだ。そういった情報こそが、即ち悪魔の正体に他ならない。
なのだが、菜緒自身はそういった知識に関してそれほど造詣があるわけでもないので、自分と融合したデジタル・デビルがどの地方でいつ頃から伝わっている悪魔なのか、よくわかっていなかった。わかっているのは漠然とした特徴のみだ。
「名前なんて知らないけど、蛇の悪魔よ」
「蛇? 蛇っていうと、いくつか有名な悪魔がいるけれど」
自分が知っているのは以前に遭遇もしたことのあるメデューサくらいだが、あれとは違う。それくらいは断言できる。
「ちょっとがっかりしたわ。ギリシャ神話とか、そういうメジャーどころならわかりそうだったのに――私みたいに」
肩をすくめると、彼女は自分の胸元に手を当てた。
「私はヘカーテ。月と夜の女神、トリウィア・ヘカーテ」
彼女はそう名乗ったが。
やはり、菜緒には聞き覚えがなかった。