夜間に外を出歩くというのが無謀以外のなにものでもないとは十分に理解しているつもりだったが、例外というのもある。つまり、悪魔とは別の脅威が目に見える形で迫っていた場合だ。
野盗らしき連中と出くわしたのは、街を出て割とすぐだった。当然ケルベロスに返り討ちにさせたが、銃口を突きつけて話を聞いてみると、どうやら先日街に潜入した野盗の一味だったらしい。
悠介が菜緒のことを尋ねると、街への潜入の手筈を整えている最中に接触してきた女の話を聞かされた。悠介はそれこそが菜緒だと断定したものの、足取りまでは掴めなかった――一応、彼女が街から出たところは目撃していたらしい。
菜緒が向かったと思しき大体の方角に向かって歩き出して、すぐにまた別の野盗の一団を発見した。悠介としては一刻も早く菜緒の後を追いたかったのだが、無論相手がそんなものを考慮してくれるはずもなく、どうにか撒くのにかなりの時間を費やしたことになる。それから今まで、菜緒を追うのと野盗から逃れる為と、ふたつの理由でほぼ休憩なしに歩き続けている――無論、悪魔を警戒しない理由もないが。
「悠介……ありさ、つかれたよー……ねむいよー……」
後ろを歩く有紗がそう言ってくるのも既に何度目かわからない。今は元の姿に戻しているプランクは文句を言ってくる気配も見せないが、なにを考えているのかわからないという点ならこの犬は筋金入りだ。内心では有紗に盛大に同意しているかもしれないし、あるいは何度も聞かされている愚痴に辟易しているのかもしれない。どちらでもないかもしれない。
悠介自身、疲れてはいた。だがどうしても歩みを止める気になれず、有紗に返事をするつもりにもなれない。
(早く、相澤さんに追いつかないと……)
考えていたのはそれだけ――というわけでもなかったが、まあ概ねその辺りだ。
――どうしても、直接会って問い質したかった。教会にいた人間を殺したのは、本当に菜緒なのか。有紗の言葉を疑う理由というのもないのだが、それでも無条件にそれを信じるには、いくつか引っかかる点があったのだ。
(悪魔になったからっていうだけじゃ、納得できない。確かに椎名さんと同じように、変わった様子はあったけど……他の悪魔と違って、話は通じたじゃないか。あの場で僕たちを皆殺しにしようとはしなかった)
悪魔になったのが原因ではなく、心変わりこそが原因だというなら、余計におかしな話だ。なにしろ自分は教会が悪魔に襲われる数時間前まで、菜緒と話していたのだ。あの時の彼女に、短時間で百人近い人間を惨殺するような狂気の、その片鱗でも見受けられただろうか? ほんの数時間で、人間はそこまで変われるものだろうか?
彼女が悪魔になったのは事実だし、心変わりもあったのだろう。それはそうだ。自分だって椎名だって、この一年で大きく変わった。変わらざるを得なかった。だがそれでも、あの晩のことに関しては――悠介は大人しく納得しておく気にはなれなかった。したくなかった。
そうして、どれくらい歩いた頃だったか。
ひょっとしたら菜緒の匂いを辿れるのではないかとあまりあてにせずに先頭を歩かせていたプランクが、足を止めた。
「……プランク?」
有紗が声を上げるが、プランクは振り向かずに視線を別の方へと向けていた。まさか本当に菜緒の匂いでも見つけたのかと悠介は思ったが、すぐに思い直した。
(違う。この様子は――)
なんとなくだが思い当たる。表情で読み取れないのなら、態度で察するしかない。
(……獲物を嗅ぎ付けたのか)
だがケルベロスを召喚しているならともかく、今はプランクのままだ。相手が人間であれば獲物とは認識しない――はずだ――し、悪魔であればむしろ警戒するだろう。
考えているうちに、プランクは歩き出した。その後をゆっくりとついて行きながら、銃を構える。
しばらく歩いたところで――悠介はプランクが嗅ぎ付けたものの正体を悟った。人間の血だ。
血溜まりは、複数あった。そのいずれにも人間が倒れており、そして死体になっていることは疑いようもない。腹に風穴を開けられているのはまだましな方で、巨大な金槌かなにかで真上から頭を潰されたような死体に、顔面が削り取られたように消失しているものもあった。どれもおよそ人間の仕業とは考えにくく、悪魔に殺されたことは疑問の余地もない。
(まさか……相澤さんが)
殺し方に特徴があったというわけではないが、否が応にもそう考えざるを得ない。
と、更に別の死体がやや離れた場所に転がっているのが見えた。悠介はそちらに近づき――
(…………えっ!?)
一瞬、思考が停止する。あまりにも突拍子のない事態に、理解が追いつかない。
「あれ? 悠介、このひと――」
悠介の後ろから死体を覗き込んで(ただしこちらほど衝撃は受けていないようだ)有紗が怪訝な声を上げる。
なにを言いたいのかはわかっていた。訝ったのも無理はないだろう。倒れていたのは白木だった。
「ど……どうして、こんなところで」
わけがわからなかった。ここは街からはそれなりに離れているはずで、そして白木はあの街のテンプルナイトだ。もちろん自分達がこうしてここにいる以上、物理的に移動できない距離というわけではないが、そもそも街を出る理由というのが白木にはないはずだった。聖堂騎士団の職務はあの街の治安維持であって、街の外ではその権限を使えないことになっているのだから。
(まさか、相澤さんを追って……?)
逆に返り討ちに遭った、ということなのだろうか。しかし街の外に出た悪魔を、わざわざ追跡させるだろうか。それも白木のような技術者に。
白木の死体もまた、損傷が激しかった。首には鋭い刃物で裂かれたと思しき傷が開き、尋常でない出血があったことを窺わせる。肩には噛みつかれたような痕跡と、どう見ても人間の歯と顎では不可能なほどに深々と抉られた傷口があった。悪魔に噛み千切られたのだろうが。
「ゆ……悠介」
「有紗?」
有紗の声に振り向く。彼女はまた別の方を見ていた。そちらを見やると――大方予想はしていたが、五つ目の死体が見える。他の死体よりも、一際離れた場所だった。
そちらへと駆け寄ると、すぐに気づいた。他のものと比べて、明らかに小柄な死体だ。子供のものだろうか。
間近でその死体を眺めて。
(……なんだ?)
なにか、引っかかるものを感じた。
――近くで見てみると、やはり小さい。自分や有紗よりももっと年下だろう。顔を見ればもう少し具体的な年齢を割り出せたかもしれないが、首から上がどこにも見当たらないのだからどうしようもない。傍らに、切り落とされた腕が転がっている。
(ん? 腕?)
引っかかっていたものの正体にすぐに辿り着く。おかしくて当然だ。死体にはちゃんと両腕があった。にも関わらず、腕が転がっている。単純に考えれば、これはこの子供(服装からして少女だ)とは別の誰かの腕ということだろう。
悠介は納得し――かけたが。
(……?)
それで終わりではなかった。まだ、なにかが引っかかる。転がっている誰かの腕とは別に、あともうひとつ――
(…………服?)
死体の性別を判断する材料になった、服を見やる。
……どこかで見覚えがあった。
(なんだろう。割と最近、見たような)
だが思い出せない。別に大して物珍しい服装というわけでもなく、目を惹くような特徴でもないのだが――
「ねえ有紗、この子」
と、彼女へと向き直って。
その顔が呆然としているのを見て、悠介は言葉の続きを飲み込んだ。
「……あすか」
有紗がなにかをつぶやく。この少女の名前だろうか。いや、そうだとして、なぜ有紗がそんなことを知っているのか――と、そこまで考えたところで。
(あ……!)
悠介も思い出していた。この少女の名前――白木明日香。
先日、白木の住居に招待された時に会った、彼の娘だった。
(白木さんの、子供――!? 白木さんだけならともかく、どうしてこの子までこんなところに!?)
さっぱり事態が飲み込めない。いくらなんでも子供だけでこんなところまで来たとは思えないので、白木が連れ出したということなのだろうが――やはり、そんなことをする理由が思い当たらなかった。あの街にいれば、少なくとも悪魔の脅威からは逃れられたというのに。
(これをやったのが、本当に相澤さんなら――)
悠介はプランクへと向き直り、
「プランク。相澤さんの匂いを辿れるかい? いや、相澤さんじゃないかもしれないけど、とにかく付近に悪魔がいることだけは間違いないんだ」
プランクは短く吠えると、鼻先を地面へと近づけた。そしてすぐに顔を上げ、こちらが走ってきたのとは反対方向へ走り出す。
(やっぱり、近くにいる!)
それが菜緒なのかどうかはともかく、白木とその娘を含む五つの死体をここに転がした悪魔がいることには違いない。悠介はプランクの後を追って走りながら、悪魔召喚プログラムを起動させた。淀みなく召喚が完了し、プランクの姿がケルベロスへと変わる。
物音がこちらの耳に届いたのは、走り出してすぐだった。前方になにかが見える。人間ではなかった。
「悠介、あれ!」
見えたのは二つの影だったが、その一方を指して有紗が声を上げる。悠介はすぐにはぴんと来なかったが、その悪魔の腕を見てから気が付いた。
(相澤さん!)
それは見間違いようもなく悪魔だった――が、腕の形状に見覚えがある。刃物のような、というか刃物そのものとなっている指に、掌に開いた口。ロキの死体を喰らった際に見せた、菜緒の腕だ。
悪魔のものとなっているのは腕だけではなかった。目も鼻も口も髪もなにもない顔に、身体を覆う鱗とも棘ともつかない肌。全身が土のような色をしており、更に菜緒のものよりも一回り大きな体躯だった。どう見たところで、人間には見えない。
(あれが……相澤さんの、悪魔としての姿か)
プランクがケルベロスへと変身するように、彼女もまた悪魔の姿を手に入れたということだ。その姿を今、目の当たりにしている。
悪魔の姿はもうひとつあった。こちらはまったく見覚えがない。全身黒一色で、両手の指が鞭のように伸びている。その顔には菜緒と同じく目も鼻も存在していなかったが、ただひとつ、口だけははっきりと確認できた。笑みの形に歪んでいる。
(あの悪魔は……?)
事情は飲み込めないものの、菜緒はその悪魔を殺そうとしているようだった――いや、逆だろうか。菜緒が殺そうとしているのではなく、その悪魔が菜緒を殺そうとしている。
黒い悪魔の振るう鞭を菜緒は跳躍して避けるものの、反撃しようとする気配を見せなかった。見たところ黒い悪魔の動きは菜緒のそれと比べると酷く緩慢なもので、生身の人間と大差ないようにすら思える。
菜緒がどういうつもりなのかはわからなかったが、しかしもう一方の悪魔が菜緒を殺そうとしていることだけは間違いないと判断して、悠介は銃口を向けつつ叫んだ。
「ケルベロス!」
同時に発砲するものの、悪魔はまったく怯んだ様子を見せなかった。弾丸の動きを目で追えたわけではないが、外れたのだろう。
舌打ちしている間に、ケルベロスが悪魔へと肉薄していた。が、やはり悪魔はケルベロスをまるっきり無視でもしているかのように反応を見せず、菜緒へと鞭を振るっている。がら空きになったその脇腹へ、ケルベロスが噛みつこうとし――その向こう側へ、通り抜けた。
(え!?)
なにが起こったのかわからず、目を見開く。それはケルベロスも同じだったようで、珍しく戸惑うように悪魔へと振り返っていた――表情は変わっていないが。
「あうっ!」
躱し損ねたのか、悪魔の指の一本が菜緒の背中を打ち据えた。悪魔はその隙を見逃すまいと、更に腕を振り上げ――その背中に、またしてもケルベロスが飛び掛かる。
が、やはりケルベロスの身体は悪魔の身体を擦り抜け、そのまま前方にいた菜緒のやや後方へと着地した。そこでようやく気付いたとでも言うように、悪魔が動きを止める。
「……あら?」
悪魔がこちらへと振り返り、声を上げた。
「あなたたち、この間の――悠介くんと、有紗ちゃん、だったかしら?」
(……え?)
見知らぬ悪魔に名前を呼ばれて、悠介は眉をひそめた。
(僕たちのことを、知ってる?)
と、くいくいと肘を横から引っ張られる。そちらを向くと、有紗がこちらと悪魔の姿を見比べながら、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「悠介、あのあくま」
「なに? 有紗は知ってるの?」
尋ねると有紗は、んー、となにやら自信なさげに唸った後、
「あのね、たぶんだけど……あすかの、おかーさんっぽいなー、って」
それを聞いても悠介はやはり、即座には理解できなかった――まあ、忘れかけていたからなのだが。
(……明日香ちゃんの、お母さん? ということは――)
白木の妻、ということになる。彼女とは一度だけ会っており、確か名前も聞いていたはずだ。
「――真弓さん!?」
ようやく思い当たり、ついでに顔も思い出して、悠介は彼女の名前を口にした。
「やっぱり、あなたたちだったのね。どうしてこんなところにいるの? 街にいたはずじゃ――」
「それはこっちの台詞ですよ!」
声を張り上げ、彼女――真弓と菜緒を見比べる。
「向こうで、白木さんと明日香ちゃんの死体を見つけました。あれは――」
「決まっているでしょう。この悪魔に、殺されたのよ!」
激昂したように叫ぶと、真弓は再び菜緒に向かって鞭を振るった。菜緒は避けようとするが今度も間に合わず、腰を打たれて地面に転がる。
「相澤さん!」
悠介は再び声を上げたが、真弓は更に菜緒へと指を振るいながら、
「あのひとも、明日香も! この悪魔に殺されて、餌にされたの! 私の目の前で!」
倒れた菜緒へと何度も指を叩き付けながら、悲鳴のような叫びを上げる。いや、実際にそれは悲鳴だったのかもしれないが。
「――やめろ!」
再び銃口を向け、悠介はトリガーを引いた。外しようのない距離で、しかも相手はその場から動いていないにも関わらず――やはり、命中した痕跡はどこにも見当たらない。
(また……!? 一体、どうなってるんだ!?)
さっぱり理解できなかったが、しかし意味はあったらしい――真弓が動きを止めていた。倒れた菜緒の前に立ったまま、首だけをこちらへと向けてくる。
「無駄なことはやめておきなさい。私が殺したいのは、この悪魔だけ。けれど、邪魔をするというのなら――あなたたちも、殺すわ」
言って、腕を振り上げる。悠介は反射的に、真弓へと発砲しようとしたが。
倒れていたはずの菜緒が、動いた。振り下ろされた指を地面を転がって躱したかと思うと、その勢いのまま立ち上がる。
「無駄なことだって言ってるでしょう!」
特に意に介した様子もなく、真弓が腕を振り抜く。菜緒は信じられない程の反応でほんの少しだけ後ろに下がってそれをやり過ごすと、即座に真弓の方へと踏み込んだ。そのまま、彼女の鳩尾へと肘を突き出し――
「がっ――!?」
深々と、めり込んだ。
「えっ?」
驚きの声を上げたのは、他でもない菜緒自身だった。自分で自分のやったことが信じられないといった様子で、真弓の身体に叩き込んだ自分の腕を見下ろしている。
「な……どう、して……?」
それは真弓の方も同じだったらしく、苦痛に喘ぎながら自分の腹を見下ろしている。が、すぐに視線を上げ、
「しまった――!」
小さく叫ぶと、菜緒の身体を押し退け、大きく後ろへと跳躍した。限界だったのか、菜緒がその場に膝をつく。
「少し、時間をかけ過ぎたみたいね――でも安心して。あなたは必ず、どうあっても、私が殺すから」
腹を押さえながら言う真弓に、菜緒は答えなかった。黙って彼女を見据えている――目のない顔でどうやって見ているのかはわからないが。
真弓は左手を引き寄せると、指についた菜緒の血を舐め取った。にやりと口の端を歪めて、
「これが、悪魔の血の味なのね……確かに、憶えたわ。絶対に逃がさない。今晩、また殺しに行くわ」
告げると真弓は踵を返し、そのまま走り去っていった。先程までとは打って変わって、人間とは段違いの速度で。
あっという間に見えなくなった真弓の後ろ姿から、悠介は菜緒へと視線を移し――
「相澤さん!?」
その場に倒れ込んでいるのを見て、思わず声を上げた。銃をしまいながらそちらに駆け寄り、慌てて抱き起こす。
「相澤さん! しっかり――」
言いかけて、言葉を切る。
菜緒の身体に変化が起きていた。こちらの腕に抱えられたまま、淡い光に包まれている。
やがて、光が消えると。
そこにはもう、悪魔の姿は存在していなかった。
菜緒が目を覚ましたのはおよそ三十分ほど経ってからのことで、その頃には既に夜が明けていた。
「気がつきました?」
ゆっくりと瞼を開いた菜緒の顔を上から覗き込み、声をかける。同じように彼女の顔を見下ろしている有紗の顔とこちらとを交互に眺めてから、菜緒は自分の身体へと視線を動かした。
「……これは?」
彼女の身体にかけておいた上着を示し、聞いてくる。
「いえ、その……相澤さん、裸だったものですから。それ、僕のです」
彼女の着ていたはずの服がどこかに落ちていないかと一応探しはしたのだが、見つかったのは最早服とは呼べない布きれだけだった。恐らく彼女が悪魔へと姿を変えた際に破れたのだろう。
菜緒は小さく苦笑いのようなものを浮かべると、
「そう、ありがとう。いちいち服が駄目になるから、できるだけあの姿にはなりたくないのよね。……先に脱いでおけば良かったんだけど」
冗談めかした口調だったが、つまりはそれができるような状況ではなかったということだろう。
菜緒は起き上がるとこちらの上着に改めて袖を通し、ボタンを止めた。先程までならばともかく、今の彼女の身体であれば自分の体格と大差はないのだが、流石にそれ一枚だけでは上半身を隠すのが精一杯だった。腰から下はほぼ丸出しに近い。
「すみません……後はその、有紗の替えの下着くらいしかないんですけど」
視線を逸らしつつ言うと、菜緒はやはり苦笑したまま、
「わたしはともかく、それは有紗ちゃんが嫌がるでしょう」
「……ありさが? どうして?」
本気でわかっていないのか、有紗が首を傾げる。
「え。いや、だって有紗……いいの? いいなら貸すよ?」
「そうよ有紗ちゃん。嫌じゃないの?」
「どうして? なお、ふくがないんでしょ? 悠介があげたんだから、ありさもあげる」
言うと有紗は荷物から下着を取り出し、菜緒に向かって差し出した。菜緒はなんとも言い難い表情でそれを受け取ると、
「……ありがとう」
言うと受け取った下着を穿こうとしたので、悠介は慌てて目を逸らした。有紗の方を見やるが、本人が述べた通り、まったく気分を害したような様子はない。
(まあ……いいって言ってるなら、いいのかな)
視線を菜緒へと戻すと、既に下着を穿き終えていた。自分の上着はともかく、有紗の下着はやはりサイズが合っていないようだったが。
「それで、どうしてあなたたちがここにいるの?」
適当なところに腰を下ろして、菜緒は聞いてきた。
「あの街にいたはずよね? あそこなら悪魔に襲われないってわかってて、どうして? わざわざわたしを追っかけてきたの?」
「……ええ、まあ」
特に隠す必要もないだろうと思い、悠介は頷いた。が、菜緒はその答えが意外だったらしく、
「……どうして?」
更に聞いてくる。悠介はちらりと有紗へと視線をやってから、
「聞きたいことがあったからです」
「わたしに? なにかしら」
それを真正面から問い質していいものか。今更ながら、悠介は迷った。
(……なんのために、追いかけて来たんだ)
しかしすぐにかぶりを振り、菜緒へと顔を向ける。そもそもそれを尋ねる為に夜通し歩いてきたのだ。
「……教会にいたひとたちを殺した悪魔って、あなたなんですか?」
こちらの質問に、菜緒はぴくりと眉を動かした。そのまましばし、沈黙する。
やがて、菜緒は小さく息を吐き出した。
「まさか、知らなかったとは思ってなかったわ」
(……!)
彼女の言葉の意味を即座に推し量り、悠介は小さく息を飲んだ。
「じゃあ……本当に」
「そうよ。あそこにいた人間を殺して、食べたの。わたしは……あんまり、憶えてないんだけどね」
「憶えてない、って……?」
聞き返すと、菜緒はまたしても口籠もった。言いたくないのか、それとも単に説明し辛いことなのか。
「その、ね。うまく説明する自信はないんだけど……こうなって以来、たまに自制が効かなくなるのよ」
こうなって、というのが悪魔になってしまったことを指しているのは明白だった。ただし、多分に自虐的なニュアンスを含ませた口調だったが。
「特にひどいのが、満月の時。人間か悪魔か、とにかくなにかを食べたくて仕方がなくなるの。そうなると身体の抑制もできなくて――さっきみたいなことになる」
「……満月?」
唐突に出てきたその単語を、悠介は繰り返していた。言われてみれば確かに、数十分前まで見えていた月は満月だった。
「じゃあ、教会の時も……?」
「ええ、満月だったわね。あの時が一番ひどかった。多分、死にかけてたせいでしょうね。身体が大量の生体マグネタイトを欲していたから」
あの晩も、満月だったろうか。流石にそこまでは記憶していない。
菜緒が視線を落とすのが見えた。こちらではなく、地面を見ている。
「それで……自分が悪魔になってあそこにいた人間を殺したんだって気づいたのは、ずっと後のことよ。また、別の人間を殺した時」
殺したと。
改めて彼女の口からそれを聞いても、どうにも違和感が拭い難かった。自分の知っていた彼女は、天地が引っくり返ってもそんなことができそうな人間には見えなかったからだ。冗談でもなんでもなく、誰かを殺すくらいなら迷いなく自分が死ぬことを選ぶのではないかと思えるような――それが事実かどうかは別として――そんな印象を抱かせる少女だったのだ、相澤菜緒という人物は。
だが間違いなく、今こうして目の前にいるのも彼女に他ならない。その事実を痛みと共に飲み下しつつ、悠介は尋ねた。
「さっきの悪魔は――?」
「聞いてたでしょう? わたしが殺したのよ。だけどわたしの時と同じように、悪魔になって生き延びたみたいね。……そう言えば悠介くん、知り合いだったみたいだけど?」
先程のやり取りを思い出したのか、菜緒が聞いてくる。
「知り合いっていうほどじゃありません。街にいた時に、一度会ったことがあるだけです。あのひとの夫と、それと子供も」
夫の方はもう少しだけ長い付き合いだったが、それを話す必要はないだろう。悠介は白木とその娘の死体が転がっている方へと首を向け、
「……相澤さんが、殺したんですか。あのひとの家族を」
「そうよ。あの悪魔が言った通りにね」
あっさりと言ってくる。悠介は菜緒へと視線を戻した。
「街にいればよかったのに、わざわざこんなところに来るからよ。外には悪魔がいるってわかってたはずなんだから、自業自得よね」
「相澤さん……!」
反射的に、悠介は菜緒へと詰め寄っていた――流石に、今の言葉を聞き流すことはできない。
が、彼女は怯んだ様子もなく。
「なに? わたしが許せない? わたしはもう人間じゃなくて、悪魔なの。人間と同じ倫理は当てはまらないわよ」
「それでも、以前は人間だったはずでしょう! 人間だった頃のことを忘れてるようにも見えない! それなのに、どうして平然とそんなことが言えるんですか!」
「人間だった頃のわたしなんて、ただの無力で小賢しい世間知らずだったじゃない。自分のこととは言え、思い出すと虫唾が走るくらいよ。なんの力もないくせに知ったようなことを振りかざす、馬鹿な女だったわ」
「相澤さん!」
思わず、彼女の襟へと掴みかかる。しかしそれでも、菜緒の顔色が変わることはなかった。
「……離して。殺されたいの?」
冗談ではない。それは彼女の目つきが物語っていた。そして実際に、今の彼女にはそれをするだけの力がある。一瞬でこちらの首を刎ねることができる。
「ゆ、悠介……やめて」
振り返ると、有紗がこちらの腰にしがみついていた。その腕から、微かに震えが伝わってくる――あるいはこちら以上に、菜緒の言葉が冗談ではないと感じ取っているのだろうか。
悠介はゆっくりと手を離しながら、視線を菜緒へと戻した。彼女もまたこちらを正面から見据えたまま、目を逸らすようなことはしない。
「椎名さんと言い……一体どうしたって言うんですか。以前の自分を頭から否定するようなことばかり言って」
「……椎名くんも?」
ぴくりと、菜緒の眉が跳ね上がる。
「ええ。昔の自分のことを、まるで憎んでるみたいに――方向性は真逆ですけど、その点に関してはあなたも椎名さんも、言い様がそっくりですよ」
「…………そう」
こちらから視線を逸らしてそうつぶやいた彼女の心境を、推し量ることはできそうになかった。明らかに追及を拒んでいる。これも椎名と同じだ。
(二人とも、言ってることは同じなんだ。自分は間違ってたって)
そしてそれは恐らく、互いに否定――とまでは行かなくとも、反目していた部分ではある。相容れなかったはずの考え方を、しかし二人揃って交わることなく入れ替えてしまったようにも見えた。自分の考えが間違っていて、相手こそが正しかったのだと。
そしてそれを何故かと問えば、口を噤む。しかも昨日の二人のやり取りを思い出す限り、互いが互いの変化を心底から驚いているようだった。
(なにがあったんだろう、本当に)
疑問に思うものの、この場でこれ以上尋ねたところで無駄だろう。それは彼女の表情から察することができた。なので別のことを聞く。
「さっきの悪魔――真弓さんは、一体なんだったんです? 普通の悪魔とは様子が違ったみたいですけど」
「それは、わたしにもさっぱり」
お手上げ、というように菜緒は両手を広げて見せた。
「どういう仕組みなのかわからないけど、触れないの。あ、でも、最後だけは触れたわね。あれは向こうにとっても予想外みたいだったけど――どうなってるのかしら」
口に手を当てて考え込む菜緒の姿を見ながら、悠介はケルベロスの攻撃もこちらの放った銃弾もすり抜けてしまった、先程の真弓のことを思い出した。
(あんな悪魔は初めてだ。そもそも真弓さんの生体マグネタイトを取り込んで実体化した以上、物理的な存在になっているはずなのに――触ることができないなんて)
実体化が不完全だった、という可能性もあるが、しかしそれだと最後に菜緒の放った一撃が鳩尾を抉った説明がつかない。あの悪魔の身体が物質として存在していることは間違いなさそうなのだが。
(となると――触れなかったのは、あの悪魔のなんらかの能力、と考えるべきかな。メデューサの石化の視線や、ロキの氷みたいに。そしてそれがあの時だけ、予期せぬ形で途切れた。だから撤退した)
また殺しに来る、と言っていた。彼女は菜緒の命を諦めていない。是が非でも、夫と娘の仇を討つつもりでいる。
(僕は……相澤さんを、助けるつもりなのか?)
ふと、自問が湧いてくる。悠介は菜緒の顔を見た。
「なに?」
菜緒が尋ねてくるが、悠介は答えなかった。湧き上がった疑問にのみ耳を傾ける。
(相澤さんが真弓さんに命を狙われるのは、完全に自業自得だ。同情の余地なんてこれっぽっちもない。むしろ敵討ちっていう、真弓さんの言い分こそ正しい)
そして菜緒の言い分を汲み取るなら――例え菜緒が殺されたとしても、それは力の及ばなかった彼女に非がある、ということになるのだろう。恐らくこちらが手助けなどしなくとも、文句は言うまい。その筋合いではないし、彼女にそんなことを言う資格はない。
なによりも。
(今の彼女を――助ける価値が、果たしてあるのか?)
彼女自身が言っていた通り、今の菜緒は悪魔だった。生きる為なら平気で人間だろうと悪魔だろうと構わずに殺して喰らう、捕食者だ。自分や自分以外の人間の身の安全を鑑みるなら、むしろ一秒でも早く死んでくれた方が都合のいい存在とも言える。
(いっそのこと、ここでケルベロスに始末させておくべきなのかもしれない)
そうしたところで、誰もこちらを責めたりはしないだろう。いや、仇を横から掠め取ったということで、真弓の恨みは買うかもしれないが。
――菜緒もまた、ここで殺されたとしても文句は言えないはずだ。他でもない、彼女自身がそう言っている。むざむざ殺される方が悪い、と。
(……そうだ。椎名さんや相澤さんの言うことが正しければ、そういうことになる)
これから先、菜緒の餌になるかもしれない人間を守るために、今ここで彼女を殺しておくということ。力を持たないのが悪いのだから、殺されても文句を言えないということ。おかしな話だったが、まるで相容れないように見える二人の考え方が、今この状況においてはたったひとつの答えに収斂されている。
「……悠介くん? さっきからどうしたの?」
菜緒はやはり黙ったままのこちらの顔を見返しながら、首を傾げていた。更にその菜緒とこちらの顔を交互に見比べながら、有紗も眉根を寄せている。
(椎名さんや相澤さんの言うことが――正しければ、の話だ)
ふっと息を吐き出し、悠介は視線を菜緒からケルベロスへと移した。悪魔召喚プログラムを起動し、ケルベロスの召喚を解除する。
(相澤さんは、それに真弓さんもだけど、明らかに他の悪魔とは違う。人間としての理性が残ってる。ついさっき、僕が言ったことじゃないか――人間だった頃のことを、忘れてないって)
言葉こそ通じないものの、そこにプランクを加えてもいい。完全に人間を餌としか見做していない他の悪魔とは、明確に異なる存在だった――少なくとも、悠介にはそう思えた。
(少しくらい、考え方は変わったかもしれないけど。それでも、相澤さんは相澤さんのままなんだ)
悠介は再び菜緒へと向き直った。
「とにかく、ここから移動しましょう。真弓さんは必ずあなたを殺しに来る」
告げると、菜緒はきょとんとした表情を見せた――やはりこういったところは、以前の彼女と変わっていない。
「しましょう、って……なに? あなた、わたしを助けるつもりなの?」
「つもりですよ。いけませんか?」
「だってわたし、悪魔なのよ? あなたや有紗ちゃんだって、殺そうと思えばいつでも殺せるのに」
「その時はきっちりケルベロスに迎撃させますよ。真弓さんに殺されるまでもなく、僕が殺します」
菜緒がちらりとプランクを見やる。プランクはと言えば、まあいつものようになにを考えているのかわからない顔で、菜緒を見ているのかこちらを見ているのかすら判別できなかった。有紗の方を見ていないのだとは断言できるが。
菜緒はこちらへと向き直ると、言ってきた。
「どうしてそこまでしてくれるのか、理由を聞いてもいい? なんの見返りも期待しない善意なんてものは、そう簡単に信じられないようになっちゃったのよね、生憎だけど」
「あなたが好きだからですよ。それじゃ駄目ですか?」
「うーん、駄目じゃないけど」
眉間に人差し指を当てて、菜緒はなにやら考え込んだようだった。そのポーズのまま片目だけを開いてこちらを見やり、
「まあ……それなら仕方がない、かもね。それで、どこに移動するつもりなの?」
立ち上がりながら、菜緒が尋ねてくる。悠介は少しだけ考え込んでから、
「椎名さんのいる街に戻りましょう。今のところ、あそこ以上に安全な場所っていうのも思いつきませんし」
「……あなたたちはともかく、わたしは歓迎されるとは思えないんだけど」
わかりやすい渋面を作って、菜緒が異議を唱える。予想していた通りのリアクションだったので、悠介は後を続けた。
「いざとなったら、椎名さんにも協力してもらいますよ。悪魔が来るとなれば、嫌でも対策を講じるしかないはずですし」
「対策、ね。そんなものがあるのかしら、あの悪魔に」
難色を示しつつも、しかしそれ以上反対する理由も思いつかないのか、菜緒は既に歩き出すための準備をしているようだった。こちらも有紗とプランクを呼び寄せ、ここまで歩いてきた方へと視線を向ける。
「……確かに、もう少し情報が欲しいところですね。真弓さんがなってしまった、あの悪魔に関して」
「情報? ああ、そう言えば」
ほとんど独り言のつもりで放ったこちらの言葉に、しかし菜緒はなにかを思い出したように言ってきた。
「彼女、自分がどんな悪魔になったのか把握してるみたいだったわね。たぶん、わたしなんかよりそういうことに詳しかったんでしょうけど」
「え?――どんな悪魔です?」
予想外の反応を返され、悠介は聞き返していた。これまで出会った中で、自分から名乗った悪魔というのは前例がない。
菜緒は、うーんと唸ってから、言ってきた。
「確か……ヘカーテ、だったかしら」
「ヘカーテ? って言うと――」
日本人にとってはある意味で日本の神話よりも馴染みの深い、ギリシャ神話に記述の見られた女神の名だ。月と夜を司る、魔女達の女王でもあるという。
(…………月?)
ふと、悠介は空を見上げていた。月はとうに見えなくなっていたが。