「ねえ悠介」
「なんだい?」
プランクの背中を撫でながらこちらの名を呼んでくる有紗に、悠介は顔を上げぬまま答えた。見ているのはディスプレイに表示されている画像と、ウェアラブルコンピュータのキーボードだ。
「なおって、あくまなんだよね?」
ぴたりと、キーボードを操作していた手が止まる。
「……そう、だね」
それでも顔は上げずに、悠介は頷いた。横目で有紗(とプランク)の方を見やる。
が、有紗もこちらを見ていなかった。プランクの後頭部辺りに視線を向けたまま、いつものように迷惑そうな顔をしている彼には一向に構わずに毛並みを撫で続けている。
「あくまなのに、たすけるの?」
その問いに、即答することはできなかった。理由は単純で、恐らく自分でもまだ完全に割り切れているわけではないからだ。
「悪魔だけど、相澤さんだよ」
自身に言い聞かせるような心持ちで、告げる。
「有紗も、相澤さんには色々と世話になっただろう? 忘れちゃった?」
「……ううん、おぼえてる」
有紗がかぶりを振った。と同時に、手の動きが止まる。その隙を見逃さず、プランクがそっと彼女から身を離すのが見えた。
菜緒がまだ紛うことなく人間だった頃、まともな日本語を話すこともできなかった有紗の面倒を見ていたのは専ら彼女だった。と言うより、他の誰もやりたがらなかったというのが正しい。それは悠介としても例外ではなく、有紗が自分に(なぜか)懐いていなければ、椎名や敏樹達と同じく菜緒に任せっきりにしていただろう。言わば皆で彼女ひとりに押し付けていた形だが、そんな役割であっても、菜緒が文句を言うのを悠介は聞いたことがなかった。子供好きなのか世話好きなのか、はたまた責任感が強いだけなのか――どれもありそうに思えたし、あの頃はそれを疑問にも感じなかった。我ながら薄情な話だ。
……その頃の面影が、今の彼女にあるのかどうか。
(正直、まだよくわからない)
残っているようにも見えるし、捨て去ってしまったようにも見える。どちらであってもおかしくはない。そう簡単に人間の根っこの部分が変わるはずはないと言われればその通りだと頷くしかなく、変わらない人間などいないというのも正論だろう。そんな一般論を持ち出してしまえば、それこそ菜緒に限った話ではなくなってしまうが。
(だから単純に、僕の方の気持ちだ。それを優先しただけなんだ)
見知った人間を殺したくはない。憎からず思っている相手であれば尚更だった。誰だって同じように抱くに決まっている、至極当然の思考だが、しかし一年前から今日まで、割と本気で忘れかけていたことでもある。間違っても手にかけるような事態にはなってほしくないと、そう思える相手に会うことがなかったというのが理由のひとつで、悪魔が出現する以前であればそもそもそんなことは考えるまでもないことだったというのがもうひとつの理由だ。
菜緒だけではない。椎名も有紗も、プランクだってそうだ。必要な事態にならない限りは殺したくない相手であり、必要な事態など金輪際来てほしくはない。そう思うことのできる人間(と犬)だった。
「確かに相澤さんは悪魔になってしまったけど、それでもやっぱり、あのひとは僕たちの知ってる相澤さんのままなんだと思う。僕たちが知ってる頃のことを、忘れてないんだから。だから僕は――彼女を、助けたい」
「あくまでも、なおはなおだから?」
「そう思う――いや、思いたいだけかな」
こんなことを話したところで有紗に理解できるものかどうか疑問ではあったが、しかし彼女の表情は思いのほか真剣なものだった。いつの間にか顔を上げ、こちらを見ている。
「あくまでも、なおとか、しーなとか、ぷらんくとかは、たすけるの? しりあいだから、あくまでもころさない?」
「そうだよ。普通はそうだ。知っている相手は殺したくない」
無論、見殺しにすることも含めてだ。
そーなんだ、とつぶやいてなにやら頷いている有紗からは視線を離し、悠介は菜緒が姿を消した方向を見やった。
ヘカーテから受けた傷を少しでも癒すために、生体マグネタイトの補給をしてくると言って彼女がふらりとどこかへ行ってから、そろそろ十分ほどが経過している。それが餌を探しに行くという意味だとは当然理解していたが、悠介は、あまり時間をかけないでくださいね、とだけ告げておいた。こんなところを歩いている人間などそうそういるものではなく(自分達だったり白木の家族だったりと、例外はあるものだが)、となれば彼女が餌として選ぶのは高い確率で悪魔か、そうでなければ野盗の類だ。そのどちらかならば、彼女の手にかかったところでこちらの心が痛むようなこともない。
(僕の言いたかったことを汲み取ってくれていれば、の話だけどね)
菜緒が戻ってきたのは、それからおよそ五分後のことだった。
「お待たせ」
袖を捲り上げた――腕を悪魔のものに変える際、破ってしまわないようにだろう――格好で言ってくる彼女の上半身は、あちこちに血なのかどうかわからない色の液体がこびりついていた。ということは、仕留めたのは悪魔か。
(……見つけて、殺して、食べ終わって戻ってくるのに、だいたい十五分か)
どんな悪魔だったのかは知らないが、こちらの予想よりも早かった。それだけ彼女の狩猟者としての資質が優れているということなのだろうが、どう頑張ったところでそれを喜ぶ気にも称賛する気にもなれない。
「これ、ちょっと汚れちゃったから、洗って返すわね」
「いえ、要りません。処分してください」
上着に着いた滲みを示しながら言ってくる彼女に即答しておく。そう? と大して気にした様子もなく声を上げる彼女の顔には、よく見ると口の端にも謎の血らしきものが付着していた。
(手の方じゃなくて、顔の口で食べた……のかな)
あまり想像したくない光景だったので、速やかに脳裏から追い払う。
悠介は立ち上がると、
「それじゃ、出発しましょう。なんとか昼過ぎには着きたいところですね」
有紗とプランクも立ち上がり、再び歩き始める。
「怪我は大丈夫なんですか?」
「まあそれなりに。生体マグネタイトの補給もできたし、傷は大体塞がったんだけど――あら、まだ痣が残ってるわね」
言って彼女が見下ろしたのは、右の太腿だった。つられてついそちらに視線を向けてしまうが、軽く確認してからすぐに目を逸らす。
菜緒がなにやら意地の悪そうな(そして似合わない)笑みを浮かべているのが見えた気もしたが、それは無視して悠介は尋ねた。
「……その格好、寒くないんですか? いえ、他に着るものなんてないんですけど」
「別に寒くないわよ。これも悪魔になった影響でしょうけど、自分でも驚くっていうか呆れるくらい、身体は頑丈になったから」
まあそれはわかる。ヘカーテが振るっていたあの鞭は、人間ならば肌どころか肉と骨まで切り裂いてしまいそうなものだったのだから。むしろこうして五体満足でいる方が不自然に思えるほどだ。
彼女が構わないというのであれば敢えてこちらが文句を言うことでもないのだが、目のやり場には困る。こうして見ている限り(いや目は逸らしているとも)、姿だけは以前の彼女と変わらない十代の少女のままで、着ているものと言えば自分の貸した上着と明らかにサイズの合っていない有紗の下着だけなのだ。足元も裸足なのだが、菜緒は平然と歩いていた。
(街に着いたら、人目につく前に服を調達するべきかな、真っ先に)
自分の替えの上着と、そして有紗の下着もだ。などと考えながら歩いていると。
「……ねえ、なお」
ふと、有紗が口を開いた。
「なに、有紗ちゃん?」
振り向こうにも菜緒の姿を直視したくなかったので、悠介は前方を見たまま背中越しに二人の声を聞いていた。
「ありさのこと、おぼえてる?」
「……え?」
どこか不安げな有紗の声と、なにを聞かれたのかわからないといった様子の菜緒の声。
「もちろん、憶えてるけど。有紗ちゃんよね? えっと――」
と、菜緒はしばし言葉を詰まらせ、
「ごめん。下の名前しか憶えてないわ。名字はなんていったかしら?」
「楠牟礼ですよ。楠牟礼有紗です」
振り向かずに告げる。正直、有紗自身も憶えているかどうかは怪しいところなのだが。
「あ、そうそう。聞き慣れない名字だったことだけは憶えてたんだけど。ごめんね、有紗ちゃん」
「んー……」
詫びる菜緒に、リアクションに困っているのか、有紗の唸り声が聞こえる。
「椎名くんの名前の方は、はっきり憶えてるんだけどね。あっちも変わった名前だったけど、憶えやすかったから」
「両親はなに考えてあんな名前にしたんでしょうね」
椎名の名前はこちらも憶えていたので、つい口にする。が、なにげなく発したその一言に、菜緒はなにやら黙り込んだようだった。
「――相澤さん?」
少しだけ顔の向きを変え、彼女の方を見やる。彼女の首から下は視界に収めないように。
菜緒はそのまま、数秒ほどなにかを考え込んでいたようだが、やがて口を開いた。
「たぶん……椎名くんも、それは知らないんだと思う」
「と言うと?」
――それは、我ながら迂闊な問いかけだった。考えれば十分にわかるはずだったのだ。菜緒の言ったことの意味を冷静に吟味していれば、聞くまでもないことのはずだった。
「確か椎名くん、養護施設の出身だった……はず」
結果として、その先を菜緒に言わせていた。後悔しても既に遅く、聞かなかったことにもできない。
「そうですか……確かに、それなら知らなくても不思議じゃありませんね」
なかったことにできない以上、自分の迂闊さを呪いながらそう答えるしかなかった。菜緒もこちらと似たような心境なのか、口を滑らせてしまったことを悔やむような表情を浮かべている。
わかっていない様子の有紗と素知らぬ顔の(当たり前だ)プランクへと視線を移しながら、悠介は話題を変えることにした。
「……ヘカーテって言いましたっけ。真弓さんに融合したデジタル・デビルは」
「え? あ、うん」
菜緒の方も話題を切り替えたかったのか、すぐに返事をしてくる。
「わたしはよく知らないんだけど、ギリシャ神話に出てくる割と有名な悪魔なんだって、自分で言ってたわね」
「有名……なのかな。ギリシャ神話そのものはともかく」
自分にしても、辛うじて名前を聞いたことがある程度だ。詳細はウェアラブルコンピュータの中のデータを見てようやく把握したに過ぎない。
(月と夜の女神……月、か)
実を言えば、今の今までまったく気にも留めていなかった。日に日にその黒さを増していくように見える太陽はともかく、それを悪魔と結びつけるような発想がなかったと言ってもいい。よく考えてみれば、古来から月と悪魔は割と密接に絡んでいたというか、そう語られる伝承やら物語は決して少なくなかったような気もするが。
「満月の時には、自制が効かなくなるって言ってましたよね」
「……ええ。自分でも、すぐには気付かなかったんだけどね。月のせいだって」
菜緒がどこか陰鬱な声音で答えてくる。彼女からすれば忌々しいものでしかないのだろう。
(……辻褄は合う、か)
これまでは漠然と、悪魔は夜になると狂暴性が増すと思っていた。だがそれが、厳密には夜だからなのではなく、月の影響によるものだとしたら。
(満月っていうのは要するに、太陽から見て月が地球の向こう側に位置する状態だから、日の入りと月の出がほぼ同じタイミングになる。新月なら逆だ)
つまり悪魔が月の影響を受けるのなら、満月に近づくほどその時間帯は夜に偏るということだ。これまで抱いていた認識と抵触するものではない。
「……確か、相澤さんが悪魔になったのも、満月の夜だったんですよね?」
「ええ。わたしの記憶違いじゃなければ」
菜緒の返事を聞いて、悠介は湧き上がりかけていた疑問のひとつが形を変える音を聞いたような気がした。かちりと、疑問が疑問ではなくなる。
(恐らく、椎名さんがデジタル・デビルと融合したのもほぼ同じタイミングのはずだ。そして真弓さんが悪魔になった昨夜も、満月だった)
状況証拠でしかないが、ほぼ確信していた。デジタル・デビルが人間の生体マグネタイトを奪って実体化する上で、月は大きなウェイトを占めている。
(……待てよ?)
と、思考は更に過去へと遡った。菜緒が悪魔になって教会の人間を襲ったあの日から、さらにそれ以前にまで。
(そうだ……あれはいつだった? どれくらい経過していた?)
が、流石にすぐには思い出せない。悠介は再び肩越しに菜緒へと視線をやり、
「相澤さん。悪魔が出現するようになってから僕たちが教会に着くまで、どれくらいかかったか憶えてます?」
「え。どうしたの急に?」
「いいですから。憶えてませんか? って言うか正確には、教会に着くまでじゃなくて、相澤さんが悪魔になるまでの日数の方が知りたいんですけど」
「え、えっと……」
記憶を探っているらしく、菜緒が視線を宙に這わせる。
「うーん、教会には一週間くらい滞在してたと思うから……一月くらいじゃなかったかしら? 大体だけど」
「――一月、ですか」
そう、確かそれくらいだった。
(ということは……やっぱり、そうか)
確証があるわけではない。あくまでも、その結論を導く上で都合のいい材料が揃ったというだけだ。新たに他の要素が見つかれば覆りかねない。
だが。
(それで一応の説明はつく。あの日、悪魔が出現した時も――満月だったんだ)
ずっとわからなかった。悪魔の正体がデジタル・デビルに感染した生物であるのなら、悪魔へと変化したものとそうでないものの違いはどこにあったのか。
(タイミングだ)
満月が沈む前に、月の光を浴びたかどうか。たったそれだけの違いだったのだ。
――たったそれだけが、多くの人間の運命を二分してしまったのだ。
(きっとシュバルツバースから飛散したデジタル・デビルは、それだけで無条件に生体マグネタイトと結びついたりはしないんだ。原理なんてさっぱりわからないけど、月が影響することで初めてそれができる)
つまりあの日、悪魔になってしまった人間は――ただ単純に、運が悪かったのだと言うしかない。タイミングが悪かったということでしかない。
(……いや、それだけじゃないか。もうひとつ、なにかがある)
あれから今日まで、満月の夜は何度も訪れている。だが自分や有紗は悪魔になっていないし、今日まで生き延びている人間は他にもいくらでもいるのだ。デジタル・デビルと生体マグネタイトが結合する上での条件というのは、他にもあるはずだった。
そこまで考えて、ふと。
(悪魔に……なって、いない?)
ぞくりと。心臓から背筋にかけて、妙な感覚が駆け抜けた。思わず胸を押さえる。
(本当に――? ひょっとしたら気づいてないだけで、とっくにデジタル・デビルに感染してる可能性もあるんじゃないか?)
それはただの妄想だ。そう自分に言い聞かせるも、嫌な予感と動悸はすぐには収まらなかった。なにしろ、それを証明する手段がない。
(他の条件があるなんて、僕の勝手な思い込みで――そんなものないんじゃないか? 自分でも気づかないうちに、僕や有紗も悪魔に――)
無意味な仮定だった。仮にそれが事実だったとしても、なんの意味もない。そして当然、証拠もない。
頭でそう理解しているものの、しかしそうだとすればそれこそ矛盾なく説明ができてしまうだろうという声もまた、理性の発するものだった。むしろ自分達がまだ悪魔になっていないという、その言い分にこそ根拠がないのだと。
(違う――僕は人間だ。人間のままだ。誰かを殺して喰らいたいなんて、そんな衝動はない。そんなこと、考えたことも)
ない、のだろうか。
――少なくとも、殺したいと思ったことはある。そう思える相手に出会ったことはある。そして実際に、そういった手合いに手を下したことも。
「……悠介?」
と。
いつの間にか隣に寄って来ていた有紗がこちらの顔を覗き込み、心配そうな顔をしていた。
「悠介……だいじょぶ?」
「顔、真っ青よ? 具合でも悪いの?」
菜緒に指摘され、悠介はようやく背中に汗が滲んでいることに気付いた。
軽くかぶりを振って、深呼吸する。益体のない考えを頭から追い払う。
「……いえ、大丈夫です。ちょっと考え事してただけですから」
「かんがえごと?」
まだこちらを気遣うような表情のまま、有紗が聞いてくる。悠介は彼女を安心させる為に、無理矢理に笑みを浮かべた。
「うん。ちょっとね、悪魔と月の関連性について」
「悪魔と月、ね」
菜緒が息を吐き出すのが聞こえる。彼女にとっては自分などより遥かに切実な問題のはずで、無視するわけにはいかないのだろうが。
「わたしとしても、原因が月なんだろうとはわかってるんだけど、どうしてそうなのかっていうところまではさっぱりなのよね。因果関係を把握してないっていうか」
「そんなもの、それこそ専門家でもない限りわかるはずありませんよ。例えば、この悪魔召喚プログラムを作った誰かみたいな」
ウェアラブルコンピュータを着けた腕を掲げて見せながら答える。月はともかく、悪魔の――と言うかデジタル・デビルの――専門家などというものがいるとは思えないが。
「そう言えば――」
と、菜緒がなにかを思い出したように。
「あのヘカーテっていう悪魔だけど。ちょうど、月が見えなくなるのと同じタイミングで退散したような気がするわね」
「……言われてみれば」
確かに、そうだった気がする。そしてそれはつまり、菜緒の放った一撃が真弓の鳩尾に突き刺さったタイミング、ということでもある。
ヘカーテ。ギリシャ神話に伝わる、月と夜を司る女神だという。
「なるほど……月、か」
月と悪魔が関係しているのだとは、ほぼ確信を持って言える。ならばそれが真弓の変じたあの悪魔の奇妙な特性とも関わっているのだとは、十分に考えられる線だろう。
「悠介くん? ひょっとして――」
「ええ、たぶんそういうことです」
菜緒も同じことを考えたらしい。悠介は頷いた。
「月ですね、問題なのは」
「ええ。月ね」
やはり彼女にはあまり似合わない、不敵な笑みを浮かべている菜緒と、そしてこちらを見ながら。
「……つき?」
有紗だけが、よくわかっていない様子で首を傾けていた。
「……悠介くん、ストップ」
自分達もそろそろ食事を摂るべきかと思い始めていた頃に、制止の声を上げたのは菜緒だった。と言っても口に出していたわけではないので、彼女が止めたのは食事のことではないだろう。当たり前だが。
ともあれ立ち止まって振り返ると、菜緒は後を続けてきた。
「わたしはここで待ってるわ。中には入らない方がよさそうだし」
「え」
言われて、悠介はもう一度振り返った――つまり前方へと向き直った。目指していた街はもう目と鼻の先だが、街とその外を隔てる具体的な境界線が敷かれているわけではない――いや、そういえば誰かが境界線はあると言っていたような気がするが、思えばあれはこの街を覆う壁のことを指していたわけだ。
「相澤さん? ひょっとして、見えるんですか? 椎名さんの張った壁が」
気になって尋ねるが、菜緒はかぶりを振った。
「まさか、見えないわよ。ただ、注意すれば位置はわかるの。ちょうどあなたの目の前にあるわ」
菜緒の指摘に、悠介は前方へと腕を伸ばしてみた――が、なんの感触もない。椎名曰く、ここにある壁は実体化した悪魔のみを阻む代物で、例え悪魔になっていてもデジタル・デビルが潜伏している状態では反応しないのだという。だからプランクはあっさりと通り抜けられたし、菜緒にしても人間の姿で一度中へ侵入している。
(じゃあ、プランクも気づいてたのかな)
視線を向けるが、言うまでもなくプランクはこちらを見返したりはしていなかった。思えばこの犬がこちらの行動に対してなんらかのリアクションを見せたことなど、数える程度にしかなかった気もする。未だに人間に慣れていないのか、それとも逆に慣れ過ぎてしまっているのか(元は飼い犬だったらしいので、恐らく後者だとは思う)。
「相澤さん、待ってるって――」
「方針と対策が決まったら、呼びに来て」
告げると、菜緒はくるりと踵を返した。そのまま少しだけ歩き、街の方からは見えないよう適当な物陰に座り込む。
(……決まったら、って)
こちらに丸投げするつもりなのだろうか。あるいはやはり彼女にとって、自分の手助けなどあってもなくても変わらない、どうでもいいことなのかもしれない。
(関係ない。僕がしたいからするだけだ)
気を取り直して、悠介は見えない位置にいる菜緒に向かって声をかけた。
「この間の野盗の仲間がまだいるかもしれませんから、気をつけてくださいね。そんな格好ですし」
「来たら返り討ちにするから大丈夫よ。あ、でも服はあった方がいいかしら。探して来てくれる?」
物陰から伸ばした手だけをひらひらと振りながら言ってくる菜緒に、わかりました、と返事をして悠介は壁の向こう側へと入った。やはりそれとわかるような感触はなにもないが、ここは既に街の中のはずだ。
すぐに警備をしているテンプルナイトの姿が目に入った。こちらを見て眉をひそめる。
「ん? お前は――」
「お疲れ様です。今、戻りました」
軽く頭を下げると、テンプルナイトの男は驚いたような顔を見せた。
「お前、無事だったのか? 街に入り込んだ悪魔を追いかけて行ったと聞いてたが、よく生きて戻って来れたな」
「ええ。そのことで、椎名さ――団長に報告しておきたいことが」
「団長の方もお前を探してたぞ。早いところ顔を見せた方がいい」
「そうしますよ」
告げて再び歩き出すと、すぐにまた別のテンプルナイトの姿が見えた。
(……警備の数が増えてるな。野盗対策か、それとも悪魔か)
ロキの一件は悪魔召喚プログラムを解析していたことが原因だったわけだが、流石にそこまでを公表しているとは思えないし、そもそも警備の人員を増やしてどうなるような問題でもなかった。ということはやはり、先日の野盗の方が理由だろう。
(でも相澤さんみたいに、人間の姿のまま入ってくる悪魔がいないとも――うん?)
そこまで考えて、悠介は首を捻った。
(そう言えば、プランクっていう前例があるからスルーしかけてたけど……どうして相澤さん、悪魔から人間の姿に戻れるんだ?)
プランクの場合は、そうしたのが他でもない自分だ。そしてそれは悪魔召喚プログラムというツールがあったからこそできたことであり、単純にデジタル・デビルに生体マグネタイトを喰われた生物は、悪魔になるしかない。事実、そういった悪魔は掃いて捨てるほど見てきた。
(椎名さんも人間の姿のままだけど、あっちは確かデジタル・デビルの方が不完全だったからって言ってた。それに悪魔の姿に変われるわけでもない)
どういう仕組みなのかはわからないが、人間や悪魔を喰らう必要もないらしい。つまり肉体的には、ほぼ人間のままということだ。デジタル・デビルの実体化に生体マグネタイトが必要である以上は当然の話だ。
姿だけの問題でもない。菜緒には人間としての意識も記憶もある。もちろん悪魔になった影響がそれらにまったく出ていないということはないだろうが、それでも他の悪魔と比べて異質なのは間違いない。
(……やっぱり、まだまだわからないことだらけだ)
だが、考えないわけにはいかないことでもある。悪魔の出自と生態を解明する事は、即ち悪魔から身を守る事に直結するのだから。
(真弓さんのこともあるし、一度整理してみないと。今のところ、わかっている範囲だけでも)
もっともそのわかっている範囲というのが、自分がまだ触れていない部分と比較してどの程度なのか、さっぱりわからないのだが。ひょっとしたらかなり真相に近づいているのかもしれないし、あるいは表層にすら届いていないのかもしれない。そんなことを考えるのは無意味であると理解しつつも、手の届かない領域というのがどれくらいの広さを持つのか、懸念せずにはいられないのが人間というものだろう。大昔から、人は宇宙の果てを夢見続けている。
「……悠介? きょーかい、あっちだよ?」
と、こちらの目指している方向が街の中心ではないことに気付いたらしく、有紗が声をかけてくる。
「さっきはああ言ったけど、椎名さんのところに顔を出すのは後回しだよ。その前にやることがある」
「やること?」
「真弓さん――いや、ヘカーテのあの変な特質の正体を突き止めることだよ。相澤さんも言ってた通り、方針と対策を割り出してからじゃないと、椎名さんに協力を仰ごうにもどう切り出せばいいのかわからない」
もっとも、与えられているヒントは多いとは言えない。目の当たりにした現象と、判明している(ということにしておく)事実と、あとは状況証拠から成り立つ推測に頼るしかなかった。心許ないが、時間が限られている以上は贅沢も言っていられない。
(真弓さんは、今晩こそ相澤さんを殺すって言ってた――どうやってこっちを見つけるつもりなのかわからないけど)
それこそ推測のしようもないところだが、しかし彼女がそう言い残した以上、なにかしらの方法があるのだと考えるべきだろう。場所を変えたからと楽観視すべきではない。
考えているうちに、研究棟へと辿り着いていた。残っていたロキの死体は片付けられたのか見当たらないものの、椎名達と交戦した痕跡ははっきりと残っている。
(――それだけ、か)
人間の死体はない。加嶋のものも、テンプルナイトのものも――そして当然、萌衣の死体もだ。
(あるはずがない。彼女は悪魔になったんだ。どうあがいたって、死体なんて残るはずがない――)
死ぬ時は、菜緒もそうなるのだろうか。人間としての彼女の姿はどこにも残らず、悪魔の死体だけが転がることになるのだろうか。あるいはその死体すら、他の悪魔の餌になって形も残らないのか。
悪魔の餌になることを心配するのなら、それは人間にしても同じだ。下らない妄想を振り払い、研究棟の入口へと向かう。昨日は液体として物質化したロキが床を覆っていたが、今はなんともない。屋内の機器が無事なのも確認済みだった。
室内に人影はない。加嶋も白木も死に、昨日までこの部屋を使っていた人間は、もう自分だけになってしまった。だが、彼等の残したデータは残っている。
手近なモニターのスイッチを入れる。ウェアラブルコンピュータを腕から外し、デスクトップPCと接続した。立ち上がるのを待っている間に、他のモニターもいくつか電源を入れておく。
(猶予は――二時間ってところか)
壁にかけられた時計を見やってから、椅子に座る。有紗も同じように椅子に腰かけ、その足元にプランクが寝そべるのが見えた。恐らく彼女にとっては退屈な時間になることだろうが、だからと言ってどこかで暇を潰して来てほしいとも言えない――いや、あるいはその方がいいのだろうか?
切り出すべきか迷っているうちに、PCが立ち上がった。なので意識をそちらへと移す。
(――さて)
昨日まで解析していたデータを呼び出しつつ、考える。
(ヘカーテの能力に月が影響してることは――まあ、たぶん間違いない。退散したのがちょうど日の出のタイミングだったし、今晩もう一度、なんて言い残したわけだし)
月と悪魔の間に切り離し難い関係があると、そう菜緒に聞かされていなかったら、その発想に辿り着いたかどうかは怪しかったが。
(そもそも、月と関係してるっていうのは、どういうことだろう。真弓さんに限った話じゃなく――月がなんらかの情報を発していて、それを地上の悪魔が受信なり傍受なりしてるってことなのかな?)
悪魔にのみ影響を及ぼす情報。そんなものが月から出ているなどという話は聞いたことがないし、過去に観測されたという例もないだろう。月が地上に対して与えている影響と言えば、自分の知る限りでは重力と月光くらいだ。
(月の光にしたって、元を辿れば日光だ。太陽の光が月に反射して――)
そこまで考えたところで。
キーボードを操作していた手が、ぴたりと止まった。
(…………太陽?)
反射的に、首を動かす――が、ここから太陽が見えるはずもない。
「悠介?」
つられたのか、有紗も同じように首を動かした。見えたのは壁だけだっただろうが。
悠介は返事をしなかった。動かした首の位置もそのままに、胸中でつぶやく。
(太陽……待てよ)
モニターへと向き直る。止まっていた手を再び動かしながら、
(太陽が黒くなり始めたのは、いつからだ?)
思い出せないが、悪魔が出現するようになってからなのは確かだ。
(えっと、南極に発生したシュバルツバースの観測写真は――あ、あった)
モニターに画像が表示される。南極だけでなく、かなり広範囲に渡って黒い膜のようなもので覆われた地球の写真だった。
悠介は立ち上がり、部屋を飛び出した。
「悠介!」
背後から有紗の声が響き、ついでに追いかけてくる足音も聞こえるが、構ってはいられなかった。すぐに入口が見える。
(……南極に発生したシュバルツバースは、恐らくもう消失してる。それに伴って、地球を覆っていた通信を阻害する情報も、一時的に途絶えた)
それもしばらくのことで、すぐにまた通信は不可能になった――椎名はそう言っていた。
入口のすぐ外で立ち止まり、悠介は空を仰いだ。手で庇を作り、直視しないよう気を付けながらそれを見上げる。
(考えられる原因は二つ。消失したシュバルツバースがまたすぐに再発生したのか、あるいは――)
別の場所に、別のシュバルツバースが発生したか。
空に浮かぶ太陽は、既に表面の半分近く(無論、ここから見える範囲でだ)が黒く染まっていた。にも関わらず、以前となにも変わらない――ように見える――光を地上へと降り注いでいる。
(……あれが、もうひとつのシュバルツバースか)
拡がりきる前に消失した南極のものとは違い、恐らくは今もまだ拡大を続けている。その規模は比較するのも馬鹿馬鹿しくなるほどだ。文字通りに、桁が違う。
「悠介、どうしたの?」
建物の中から出てきた有紗がこちらを見、声をかけてくる。悠介は空を見上げたまま、しばらく黙っていたが(呆然としていたのだ)、やがてかぶりを振った。
「いや、ね……なんて言うか、完全に手に負えないんだって、突き付けられたって言うかね」
「なにが?」
意味がわからなかったのだろう、有紗が首を傾げる。だが、悠介はそれ以上を説明する気にはなれなかった。
(どうしようもない……あんな規模のもの、どうにかできるはずがない)
南極に発生したシュバルツバースも、およそ人類の手に負えるような規模ではなかったはずだが、それでもまだ地球上のものだった。ついでにあの文書を全面的に信用するなら、シュバルツバース調査隊なる一団が内部へ潜入し、そして消失させることに成功もしている。なにをどうやったのかは知らないが、考えてみればとんでもないことだ。
だが今、新たに発生しているシュバルツバースは、最早地上ですらない。地球から1億5000万kmも離れた、遥か頭上に仰ぎ見る存在だ。
(なんなんだ、一体……シュバルツバースって、どんな現象なんだ)
今更ながら考える。それが明らかに遅すぎるのだとしても、考えずにはいられない。
(地球が、人間を排除しようとでもしてるのか? 悪魔はそのための抗体だとでも言うつもりなのか?)
実体化した悪魔のする事と言えば、ただひたすらに人間を殺し、喰らうだけだ。生物であれば繁殖しようとする本能と、その為の機能が備わっているはずだが――悪魔にそういったものはまるで見受けられない。生物ではなく、なにかの端末であるかのように。
(シュバルツバースの、あるいは地球の端末だとでも?)
馬鹿げた考えだとは、自分でも思った。地球にそんな意思などあるものか。生物としての意思ではなく、単なる機構なのだとしても、常軌を逸している。
(……生物としての、意思?)
と、またしても思い当たる。
(地球が、生物じゃない? いや、それはそうだ。宇宙に浮かぶ岩と水の塊に過ぎない。それは間違ってない。けど――)
生物とそうでないものの、違いとはなにか。
そこまで考えてしまえばそれは既に哲学の領域だが、しかしその答えを曖昧にしたまま、それでもその要素に名前は付けられてしまっている。どこかの誰かが便宜的に与えた呼び名だが。
生体マグネタイト、と。
(……勘弁してよ)
がっくりと肩から力が抜け、悠介はその場にへたり込みそうになった。
「悠介、さっきからへんだよ? つかれたの?」
が、有紗の声を聞いて辛うじて持ち堪える。
「……大丈夫だよ。戻ろう、有紗。早いところ対策を考えないと」
自分でもわかるほど覇気のない声音だったろうが、それでも悠介は有紗の肩を押して室内へと戻った。脱力している場合ではない。
再び椅子に腰かけ、モニターへと視線を向ける。
(どうしようもないことは、どうしようもない。やるべきことだけをやらないと)
やれるかどうかはさて置いて、やるしかない。身近な人間を見殺しにしない為には。