「……なるほどな。まあ、大体の事情はわかった」
椎名が敢えてそんな言い方をしたのは、つまるところ大体の事情しか説明しなかったこちらを非難しているのではないだろうかと、悠介は勘繰らざるを得なかった。あながち被害妄想でもないような気はする。
「で、なんだ?」
デスクの上の書類を捲る手を止めぬまま、椎名が先を促してくる。こちらを見てもいなかったが、悠介は構わずに告げた。
「相澤さんを助けるために、協力してほしいんです」
「具体的に言え。俺になにをさせたい?」
応とも否とも言わず、椎名は更に質問を寄越した。少しだけ考え込む。
(といっても、できることと言えば――)
月の光が届かないような場所に、菜緒を匿うくらいしか思いつかない。もちろんそれは彼女を箱に入れておけば良いといった問題ではなく、それなりの大きさと屋根を持った建物が必要ということだ。当然、そんな建造物は限られる。
「……場所と、あとできれば人員を貸してもらえませんか?」
「その場所ってのがこの街の中で、人員が聖堂騎士団のことを指してるんなら、却下だ。どっちも貸すわけにはいかない」
にべもなく即答する椎名に、悠介は反射的に前へと進み出ていた。彼のデスクへと手をつきながら、
「どうしてですか!? 相澤さんを助けようって思わないんですか!」
「思う理由がないだろう。聞いた限り、明らかに自業自得だ」
詰め寄るこちらに、それでも椎名は顔を上げなかった。視線を書類から動かしもしない。
「この街の住人でもないしな。聖堂騎士団の持つ役割と権限に関しちゃ、今更説明するまでもないだろ?」
「そんな建前を聞いてるんじゃありません。椎名さんは、相澤さんを助けたいと思ってないのかって、そう聞いてるんです!」
告げると、そこでようやく椎名が顔を上げた。なにやらうんざりしたような目でこちらを見上げてくる。
「まったく、どいつもこいつも建前だなんだと……アレか、本音を引き出せば建前なんざ無意味になるとでも思ってんのか。本音だけが真実で建前は嘘だと、そう言いたいってのか」
したようにと言うか、心底からうんざりした様子だった。書類をデスクに置き、その上に両肘をつく。
「真っ当な建前も用意できないヤツに限ってそんなことを言うんだ。相手に意見を通したけりゃ、まず正論を持ってこい。俺の知ってる限り、お前ならそのくらいは用意できると思ってたんだがな」
それが、彼にしては珍しく――本当に珍しい話だ――相手のことを評価している物言いなのだと、悠介は即座には気付けなかった。落胆を窺わせる口調と、包帯に覆われて表情が見えないのが主な原因だろうが。
なので、悠介は聞き返していた。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。本音がどうこうなんてくだらん口上に逃げるんじゃなく、誰が聞いても明らかに正しい理由さえあれば、この街のルールがそれを許容するってこった」
言われて、悠介は言葉に詰まった。再び黙考する。
(つまり――椎名さんも、相澤さんを見捨てたいと思ってるわけじゃないってことか)
本音と建前が乖離していると暗に認めたようなものだし、そして結局こちらの質問には答えていない。彼の論調からすれば建前のみが全てで本音などどうでもいいということになるはずだが、そのどうでもいいはずの本音を口にしていないのだ。
(ちゃんとした理由さえあれば椎名さんは、相澤さんを助けるのに協力してくれる――?)
そして自分なら、その理由を思い付くだろうとも言っている。
(買い被り過ぎだ。そんなもの、あるわけがない――思い付くはずがない)
建前すら用意できない。椎名の言った通り菜緒が命を狙われているのは擁護のしようもなく自業自得で、ならばそれを助けようとしている自分の行動にしても同じことなのだ。そこにこの街のルールと――そして椎名の建前と――噛み合う要素などなにひとつない。
黙り込んでしまったこちらを見て、椎名が口を開く。
「どうした? 話は終わりか?」
終わりではない。終わらせてしまうわけにはいかない。そう理解してはいても、口にすることはできなかった。建前を用意することができなかった。
「僕は――」
だから、言えるのはただの本音だ。道理も是非もない、ただの本音でしかないものだ。
「勘違いかもしれないけど、あなたと相澤さんは決して仲が悪いわけじゃないんだって、そう思ってました」
椎名は答えなかった。理由はわからない。その価値がないと判断したのか、それとも他の理由か。黙ったまま、そして手も止めたまま、こちらを見上げている。
「傍目に見ても、あなたたちの考え方は正反対だった。僕はどちらか一方が正しいとは思わなかったし、口を挿むことじゃないとも思ってた。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないけど、なんて言うか――正反対だからこそ、そのうちお互いが歩み寄って、ちょうどいいところに収まるんじゃないかなって、そう思ってたんです」
勝手な妄想だと言われればそれまでだし、自分でもそう思ってはいた。なんの根拠もない。だが自分の目から見ても、二人は決して鈍くも物分かりが悪いわけでもなかった。相容れなかったとしても、しかし相手の考えを理解できないような阿呆ではなかったように思えたのだ。
そして互いが互いのことを理解しているのなら――それができるのなら、都合の良い着地点を見つけるはずだと、そう思っていた。互いに妥協できる部分と譲れない部分の一線を見極めて、そこにすとんと収まるだろうと、そう思っていたのだ。あの日までは。
「それで、たぶん――そう、なってほしかった」
椎名はやはりなにも言ってこなかった。だが構わない。これはただの本音で、であればこそ、誰に肯定も否定もされる必要はない。
「だけど今のあなたたちは、歩み寄るどころかすれ違って、そのまま行き過ぎてるように見える。二人とも以前の自分を頭から否定して、相手の言ってたことこそが正しいんだって――向きは真逆ですけど、やってることはもの凄く似通ってるんですよ」
「……だからなんだ?」
ようやく椎名が口を開く。どこか挑発的な目でこちらを見ている。
悠介はかぶりを振った。問われたところで答えられない。思っていることをただ吐き出しているだけなのだから、質問に対する返答にはなりようがない。
「どうして、なんて言いませんよ。考え方なんて変わるものです。僕もそうですから。ただ、あなたも相澤さんも、以前の自分が間違ってたって思ってるみたいですけど――僕は、そうじゃないと思ってます、今でも」
デスクから手を離す。ついでに椎名の方へ詰め寄っていた身体を引き戻し、悠介は息を吐き出した。
恐らく、もう言うべきことはない。いや、そんなものは最初からなかった。結局椎名を納得させられるだけの理由を用意することはできず、口にしたのは返答に困るであろう本音だけだ。言おうが言うまいがなにも変わらない、無意味な言葉だけだ。
背を向けようとしたところで。
「……間違ってたさ」
ぽつりと、椎名がつぶやくのが聞こえた。振り返る。
「俺は、どうしようもなく間違えてた。だからあんな結果を招いた。俺が間違えてなかったってんなら、あんなことになったはずがない」
それは本当に、ただのつぶやきだった。こちらに聞かせる為でも、返事を期待するものでもない。
つまりは、自分が口にしたものと同じ――単なる、本音だった。
「あいつの方が正しかった。俺の方だけが間違ってたんだ。あれはそのせいだ。あんなことになったのは、俺が間違えてたせいだ」
椎名はこちらを見ていなかった。かと言って無論、書類を見ているわけでもない。ならばなにを見ているのか――それはこちらには推し量りようがなかった。椎名の言う結果というのがなんなのかわからない自分には、彼が見ているものの正体など掴めるはずがない。
「……そうですか」
そうとしか言えず、悠介は改めて椎名に背を向けた。そのまま、部屋の入口に向かって歩き出す。
と。
「ひとつだけ、言っておく」
明らかに先程までのつぶやきとは異なる口調で、背後から椎名が言ってくる。悠介は足を止めた。
「相澤にも伝えておけ。お前たちがこの街のルールを侵すようなら、そしてそれがこの街を危険に晒すような事態になるなら、俺は躊躇なく聖堂騎士団を動かす。悪魔が相手なら、抹殺することにも異論は出ない」
抑揚を感じさせないその言葉に、悠介は振り向かず、
「わかってますよ」
とだけ答えて、部屋を後にした。
菜緒に服を調達してくると言ったことを、忘れたわけではなかった。椎名の部屋から退出し、聖堂騎士団の詰所から出た時点でどうにか思い出せたのだから、それは嘘ではない。
だがそれまで忘れかけており、そして思い出せた時には既に日没が迫っていたのも事実だ。慌てて立ち寄った建物が聖堂で、そこでどうにか一着だけ持ち出すことができた――という説明を、悠介はしたのだが。
「……まあ、ないよりはマシだけど」
こちらが差し出した修道衣を猛烈に渋い顔で眺めていた菜緒だったが、やがて口にしたのはそんな台詞だった。
(気に入らなかったのかな……)
それは彼女の反応を見れば嫌でもわかる。わかるのだが、実を言えば予想外なリアクションでもあった。同じものを菜緒が着ていたところを悠介は見た憶えがあり、そしてその姿は周囲の誰も――椎名ですら――否定しなかったほどに似合っていたからだ。知らない人間にはほぼ確実に本職のシスターと誤解されていたし、面倒になったのか彼女自身もいちいちそれを訂正しようとしなかった。内心では腹に据えかねていたのだろうか。
それでも一応それ以上の文句を言ってくることはなく、菜緒が修道衣を受け取ろうと手を伸ばし――途中で引っ込めた。
(あれ、やっぱり嫌なのかな?)
とも思ったが、違ったらしい。菜緒は着ていた上着――悪魔の返り血があちこちに付着している――をこちらの目の前で脱ぎ捨てると、改めて差し出した修道衣を受け取った。その間に悠介が見ていたのは脱ぎ捨てられた自分の上着だったが(無論、彼女の肢体から目を逸らすためだ)。
「いいわよ、こっち見ても」
着替えはすぐに終わったらしく、菜緒が声をかけてくる。悠介は視線を元の位置に戻し――見えたのは、約一年前に目にしたのとほぼ変わらぬ彼女の姿だった。誰の目にも違和感なく映るであろう、シスターの擬態だ。違う点と言えば眼鏡をかけておらず、下着も着けていないということくらいか。
「なんか……懐かしいですね、その格好」
喜んでいる様子ではなかったので褒めるべきではないと理解していたつもりだったが、このくらいの感想は許されるだろう。現に菜緒も、こちらの言葉をわざわざ否定したりはしなかった。
「あんまりいい思い出はないんだけどね、この服」
流石にフードまでは面倒だったのか着けておらず(足元に落としていた)、襟首から髪を引っ張り出しながら菜緒が言ってくる。思い出などできるほど長いこと着ていたわけでもないのではなかろうかと悠介は思ったが、口には出さないでおいた。
「それで、どうするの? もうすぐ日が暮れるけど、方針は決まった?」
「……それなんですけど」
ばつの悪い気分になりつつ、悠介は椎名の協力が得られなかったことを話した。
が、菜緒は特に驚いた様子もなく、
「そう。でも、別に関係ないじゃない?」
あっさりとそう述べた。くい、と親指で街の方を指し、
「許可なんて要らないわ。勝手に入るから」
「……へ」
言葉に詰まったこちらにそれ以上なにを告げるでもなく、菜緒は街の方へと歩いて行く。悠介は思わず有紗と顔を見合わせたものの、すぐに彼女を追いかけた。
「ちょっ、ちょっと待ってください。まずいですよそれは。テンプルナイトに見つかったら――」
時間が時間なので外を出歩いている市民はもうあまりいないだろうが、警備の聖堂騎士団は別だ。今の菜緒の姿を見て悪魔だと見抜けるかどうかは別にしても、夜間の外出が禁じられている以上彼等に見つかるのは避けた方がいいに決まっているし、なにより――
(下手をすれば、ここの住民を巻き込むことになる)
手前勝手な理由で彼女を助けると決めはしたが、流石にそれは許容できない。
だがこちらの懸念を余所に、菜緒は足を止めることもなく振り向き、
「それも関係ないわね。邪魔になるようなら殺すだけのことよ」
やはりあっさりと言ってのける。悠介は返答に詰まった。
(……殺すだろうな、本当に)
はったりでも虚勢でもない。今の彼女ならばそれができる。それだけの力があるという意味でも、躊躇しないという意味でも。
思い留まらせることはできない。椎名を納得させられなかったのと同じように、自分は彼女を止めるだけの言葉を持っていない。ならばせめて、できることは。
「――とにかく、どこか建物に入りましょう。月の光が届かなくて、それなりに大きさのある」
いっそのこと条件さえ満たしていれば街の外という選択肢もあるにはあるのだが、その場合は当然ヘカーテ以外の悪魔にも襲われる危険性を考慮しなくてはならず、流石にそれは手一杯どころの話ではない。となると、テンプルナイトに見つからないうちに、且つなるべく街の中心部からは離れたところで、適した建物を探し出すしかないだろう。
「あれなんかどうです? 入口もひとつしかないですし、待ち伏せるにはちょうどいいかも」
「駄目。狭すぎるわ。もうちょっと広さがないと、思うように立ち回れない」
「あれでも狭いんですか? もっと広い建物って言ったら、体育館とか屋内スタジアムとか、そういうのしか思いつきませんよ」
「そうね。そういうのが理想的かしら」
「無理ですって、そんな都合よく……」
「ねー悠介、なお。あれとかは?」
「……有紗。あの建物、なんだかわかってる?」
「わかんないけど、だめなの?」
「うーん。駄目か駄目じゃないかで言えば、ちょっと駄目っぽいわね」
歩きながらそんなやり取りを交わしているうちに、日は沈んでいた――ほどなくして、満月から少しだけ欠けた月が姿を見せる。
「……月が、出ましたか」
真弓の約束していた刻限になってしまった。とは言え周囲に彼女の姿は見えず、そもそもどこから現れるのかもわからない。
(こっちは半日かけて移動したんだ。ひょっとしたら、とっくに見失ってる可能性だって十分に考えられる)
もっとも、ならば去り際にあんなことを言い残すだろうか、という疑念もあるのだが。
「……相澤さんの方は、大丈夫なんですか?」
満月ではないものの、欠けているのは僅かな面積だけだ。昼間の彼女の言葉を思い出し、悠介は菜緒の顔を見やった。
「――大丈夫。満月でさえ、なければね」
彼女はそう答えたものの、しかし先程までとは明らかに様子が違っていた。なにかを堪えているかのように表情を歪ませ、呼吸も若干荒い。
「なお、だいじょぶ? くるしそーだけど」
「苦しいのとは、ちょっと違う、かな」
下から菜緒の顔を覗き込みながら声をかける有紗に、そこはかとなくやけくそじみた笑みを見せている。
満月ではないと言っても、やはり月の影響は彼女にもあるのだろう。ともすれば手放してしまいそうな理性を、どうにか繋ぎ止めている――そう見えた。
「……相澤さんも、月の光が遮られる場所に移動すれば、少しは楽になるんじゃないですか?」
「どうかしらね。試したことは――」
言いかけて。
「あうっ!?」
なんの前触れもなく、菜緒が悲鳴を漏らした。前屈みになったかと思うとそのままバランスを崩し、地面に倒れ込む。
「相澤さん?」
小石にでも躓いたのか、と思ったのは一瞬だけだった。菜緒は倒れたまま起き上がろうとせず、右脚を押さえている。
「なお? どしたの?」
こちらと同じく倒れた菜緒の顔を覗き込みながら問う有紗に、菜緒が声を絞り出した。
「あ、脚、が……」
「脚?」
腕の時と同じように、そこだけが悪魔のものに変わっているのかと思い悠介は視線を動かし――押さえつけた手の下、菜緒の右の太腿から血が滲んでいるのに気付いた。
「相澤さん!? 血が――怪我したんですか!?」
着替えたばかりの服に血が染み込み、どす黒く変色していく。悠介は菜緒の傍らに膝をつくと、悪いとは思いつつも修道衣の裾を捲り上げた。
「すみませんけど、手を離してもらえます? 傷口を確認しますから」
言うと菜緒が手を離し、彼女の太腿が露わになる。出血自体はそれほど酷いものでもないが――そこにある傷口を見て、悠介は息を飲んだ。
「……なんだこれ」
傷そのものは、すぐに思い当たった。昼に菜緒が痣が残っていると言っていた箇所だ。言うまでもなく、ヘカーテに付けられたものでもある。
問題は、その形状だった。鞭で付けられたのだから線状になるのは当然だとして――なにか、文字のように見える。
(なんだ、梵字……? っぽい、けど)
無論、読めるわけがない。いや、そもそもそれっぽく見えたというだけで、本当にそうなのか定かでもないのだ。辞書でもあれば少なくとも判別くらいはできたかもしれないが、どちらにせよ単なる偶然という可能性もある。
が、悠介は即座にかぶりを振った。
(馬鹿か! この傷は真弓さんに付けられたものだ。偶然なものか。なにか意味があると考えるべきだろう!)
自分に喝を入れる。この傷の出所がはっきりしている上に、目の前で菜緒が苦しんでいるのだから、少なくとも無関係でないことだけは間違いない。ならば文字のように見えるという事実も、勘違いや偶然で済ませてしまうのは迂闊に過ぎる。
「なにこれ……字?」
自分の脚に浮かんだ傷を見下ろしながら、菜緒がつぶやく。こちらと同じことを思ったらしい。
「やっぱり、そう見えますよね。ついでに言うと、僕には梵字に見えます」
「ぼんじ?」
「インドの方の文字……よね、確か。読めるの?」
「読めるわけないでしょう」
首を傾げた有紗に、説明も兼ねてか菜緒が聞いてくるが、当然否定するしかない。
「詳しいことはわかりませんけど、これが真弓さんの仕業であることはほぼ確実です。早いところ移動しましょう。立てますか? 立てないようなら肩を貸しますけど」
「いえ、大丈夫」
答えて、菜緒が立ち上がる。傷のついた脚はかくかくと揺れていたが、それでも再び倒れ込むようなことはなかった。
とは言え、移動するにしてもまだ目ぼしい建物は見つかっていない。さっきまではなんともなかった(のだろう、恐らく)傷が急に異変を発したということは、近くにその原因がいる可能性が高く、最早一刻の猶予もない。
(やっぱり、真弓さんは相澤さんを見失ってなんかいない。たぶんだけど、この傷が目印なんだ)
原理などわかったものではないが、今はそう考えておくべきだろう。歩きながら、注意深く周囲の気配を探る――そんなものを感じ取れたことなど今までに一度もないのだから、無駄なことだとは自覚していたが。
「……ねえ、悠介」
と、有紗が立ち止まるのが見えた(傍らを歩いていたプランクも立ち止まっている)。こちらでも菜緒でもない別の方へ視線を向け、聞いてくる。
「つきがみえないばしょなら、いーんだよね?」
「そうだよ。なにか良さそうな建物でも見つかった?」
日が落ちている以上、探すのも困難になってきている。人が住んでいると思しき建物から漏れ出る光と、そして月くらいしか光源がなかった――街の中心部から離れているせいか、この辺りは街灯も点いていない。
そんな中で、有紗がある一点へと指を差し向けた。
「あそこじゃ、だめ?」
彼女がなにを言っているのか、悠介は一瞬ならず理解できなかった。それなりの大きさを持つ建物を探していたはずなのだが、その割に有紗の伸ばした指の角度は妙に低い。訝りつつ、悠介はそちらへと視線を向け――
「……あ」
声を上げたのはこちらではなく菜緒だったが、似たような心境だったのだろうと思う。有紗が示していたのは、下りの階段だったのだ。
(地下か!)
今では使われているはずもないが、その先が地下鉄の駅へと続いているのだろうとは容易に知れた。
「……呆れた。そんな盲点にも気づかなかったのね、わたし」
菜緒が自嘲するが、やはり同じ心境だった。悠介は彼女の顔を見、
「どうなんです、相澤さん? あそこなら――」
「十分よ。中が崩落してないことを祈るわ」
「まったくですね」
言いつつ、階段へと向かう。有紗がこちらの隣へと並び、
「ねえ、あそこでいいの? ありさ、おてがら?」
「うん、お手柄だよ。金星だ」
「わたしたちが間抜けだったのを差し引いてもね」
こちらと菜緒の言葉に、有紗が相好を崩す。それを見やってから、悠介はもう一度周囲に視線を向け――
「……でも」
思わず、足が止まる。止めるべきではないとわかっていたつもりだが、肉体の反応は理性の声よりも反射を優先してしまったらしい。
「もう少しだけ早ければ、言うことなかったかな」
「へ?」
有紗の声を聞きながら、しかし悠介はそちらを見ていなかった。
菜緒とプランクもまた、同じように立ち止まっている。見ている方向もこちらと同じだった。目指していた階段でも有紗でもなく――街の外へと。
無論、見ていたのは街の外に広がる景色ではない。それよりももっと手前だ。三十メートルほど離れた場所に立っている、女の姿。
真弓だった。
(追いつかれたか)
理解するのと、そして自分の脚に命令を下すのは同時だった。それが理性によるものか再び反射的なものだったのか、それはわからないが。
「有紗、走って!」
踵を返しつつ叫ぶ。有紗は戸惑ったようだったが、すぐにこちらが階段に向かって走り出すのを見て意味を理解してくれたのか、同じように階段へと駆け出す。菜緒はそもそもこちらより先に階段へ向かっており、最後にプランクが続いた。
階段までは十メートルと離れていない。自分や有紗は当然として、脚を負傷している菜緒でも余裕で間に合う距離だ――ヘカーテの身体能力が、今朝方見た通りのものであるならば。
が。
「うっ!?」
あと数メートルというところで、またしても菜緒が脚を押さえて転倒した。走っていた勢いも手伝って、そのまま階段の手前までごろごろと転がっていく。
「相澤さん!」
慌てて方向転換し、悠介は倒れた菜緒の傍らで立ち止まった。見下ろすと、菜緒の脚の傷が赤い光を放っている。刺すような強い光ではないが、しかし服の上からでもはっきりと見て取れる――いや、傷というより、むしろ血が光っているのだろうか。
「逃がさないわよ」
背後から声。誰のものかは考えるまでもなかった。
「まさか、こっちに逃げてくるなんてね。悪魔の姿のままじゃ入れなかったから、どうしようかと思ったわ」
振り返ると、真弓は特に急ぐでもなく、こちらに向かって歩いていた。
――外見は、人間のままだ。身体の一部が悪魔のそれになっていたりはしない。彼女も菜緒と同じく元々着ていた服を失ったのか、今は胸と腰に布切れを巻いているだけだった。なので下腹部に刻まれた模様がうっすらと光を放っているのも、はっきりと確認できる。
(……なるほど。ヘカーテだけに、か)
思わず納得する。真弓の身体に現れているその模様は、見様によっては確かに、月が牙を剥いているような意匠に見えなくもない。
「この街が悪魔に襲われないことは知っていたつもりだけど――あんなものがあったなんてね。一体どういう仕組みなのかしら」
椎名の張った壁のことを言っているのだろう。悪魔の姿でそれを通り抜けようとしたものの阻まれて、初めて気づいたということか。椎名は萌衣以外の誰にもそのことを話していなかったようなので、当然と言えば当然だが。ただの人間にあの壁が視認できないことは身を以て知っている。
「……真弓さん」
ゆっくりと近づいてくる彼女に向かって、悠介は口を開いた。真弓が足を止める。
「悠介くん? それに有紗ちゃんも。どういうつもりかしら? まさかとは思うけれど、その悪魔を庇うつもり?」
ほんの少しだけ、真弓の眉が不快げに吊り上がる。
彼女の質問には答えず、悠介はまったく違うことを口にした。
「あなたも昨日まではこの街の住人だったんだ。ここのルールは知ってますよね? 相澤さん――このひとを殺せば、それを破ることになりますよ?」
我ながら的外れなことを口走っているとは思っていたが、それでも一応言ってみる。真弓は、
「私はもうここの住人じゃない」
こちらの予想を寸分も違えることなく、あっさりとそう言ってきた。
「それに、そこにいるのは悪魔よ。人間じゃない。知らないとは言わせないわ」
「ええ、もちろん知ってます」
あなた以上にね、と言いそうになったが、やめておいた。どう考えても真弓の神経を逆撫でするに決まっているし、本当に自分が彼女以上にそれを理解しているのかどうかも怪しい。なにしろ自分と違って、彼女も菜緒と同じく悪魔になっているのだ。先程の壁の話ではないが、正に身を以て体感しているということになる。
「敵討ち――ですか。白木さんと、娘さんの」
「そういうことよ。私が殺したいのはそこの悪魔だけ。どきなさい、悠介くん、有紗ちゃん。私はその悪魔とは違う――無関係な人間を殺したりはしない」
射るような視線をこちらへと寄越しつつ、断言してくる。
と。
「あ、あはは――」
いきなり笑い出したのは菜緒だった。痛みを堪えているせいか多分に引きつった表情ではあるものの、僅かに肩も震わせている。
菜緒はゆっくりと立ち上がり、真弓の方を見据えた。
「人間を殺したりしない?――無理よ、そんなこと。あなただってわたしと同じなんだから、わかるはず。人間なんて、ただ動き回るだけの餌にしか見えない。軽く捻っただけで手足や首が千切れてしまう、脆い生き物としか思えない。それが悪魔よ。それが、わたしやあなたがなってしまったものよ」
引きつった表情はともかくとして、菜緒が見せているのは――真弓に見せつけているのは、嘲笑だった。相手の認識不足を嘲笑う、そういった類のものだった。そしてそれは、以前の彼女を知らないものにとってはそれなりに効果的なのだろう。真弓の眉が更に傾くのが見えた。
「ここでわたしを殺したって、あなたもすぐにわたしと同じになる。まったくなにも関係のない、見ず知らずの人間を殺す。餌にするためにね。その口は飾りじゃないでしょう? 生き物を食べるためにあるものでしょう?」
「一緒にしないで! あなたみたいな、見境なく意地汚い悪魔なんかと!」
聞き捨てならなかったのか、真弓はとうとう声を張り上げた。が、菜緒はこれと言って怯んだような様子もなく、
「すぐにわかるわ。自分もその見境のない、食い意地の張ったものに変わったっていう事実が。なんなら、この子たちを食べてみる? 敵討ちなんかとはまったく無関係に人間を殺せば、その時に必ず思い知る。自分に喰われるしかない、無力な相手が悪いって」
こちらと有紗を示しながら言う菜緒に、悠介はぎょっとして視線を向けた。が、言った本人はこちらを見てもおらず、今の言葉が本気なのかどうかを確かめることはできそうにない。
真弓はと言えば、菜緒に対してありったけの嫌悪を込めた表情を見せていた。
「喰われる方が悪い? 無力で、抵抗もできない相手が悪い? やっぱりあなたは悪魔だわ。人間なんかじゃない」
菜緒の姿を睨みつけながら、吐き捨てる。
「人間なら、生き物を殺して食べる時にそんなことは考えないもの。少なくとも、人並みに想像力があればね。あなたは姿こそ人間っぽくはあるけど、中身は完全に悪魔よ。それもただひたすら血に飢えた、薄汚い悪魔!」
真弓がそう叫ぶよりも僅かに早く、菜緒は地面を蹴っていた。矢のように、どころか撃ち出された弾丸を想起させるほどの速度で、真弓に向かって突進している。
恐らく、小細工など考えてもいないだろう。最短の距離を最速で駆け抜けて、最大の威力を乗せた一撃を相手に叩き込もうとしている。それで十分だ。相手が見た通りのものであるなら、それで殺せない道理はない。
距離で言えば、十メートル以上は離れていた。それを菜緒が駆け抜けるのに、一秒とかかったかどうかすら怪しい。そのごく短い時間、真弓はリアクションらしいリアクションも見せずに棒立ちしていた。そんな暇もなかったのかもしれない。
菜緒が拳を突き出すのが、辛うじて見て取れた。どこを狙っているのかは一目瞭然――というより、狙いなどつけていなかったのだろう。とにかく叩き付ければそれで殺せるのだから、なにも考えずに相手の身体の中心へと向けたに違いない。相手に避ける暇も与えず、菜緒の拳が真弓の腹へと突き刺さる。
(……!)
突き刺さり、そして――通り抜けた。拳どころか菜緒の身体ごと、真弓の背後へと移動している。
真弓の姿は、悪魔のそれへと変わっていた。
「相澤さん! 早くこっちへ!」
言うまでもなく菜緒は、あの妙な能力を使われる前に仕留めようとしたのだろうが、失敗に終わった。ならばヘカーテの鞭の届く範囲にいるのは危険以外のなにものでもない。菜緒もそれはわかっていたのか、即座に踵を返してヘカーテの脇を通り抜けようとした。
「殺すと言ったでしょう!」
ヘカーテが菜緒の首を刎ねるような高さで鞭と化した指をまとめて振り抜く。が、菜緒は直前に上体を沈ませ、その一撃をやり過ごした。そのまま立ち止まることなくヘカーテの脇を潜り抜け、こちらへと駆け寄ってくる。
その背に向けて、更にもう一撃。変則的としか言いようのない軌道を描いて五本の鞭が振り下ろされるが、菜緒は見もせずに(こちらを向いているのだから見ようがない)そのすべてを躱しきった。
(凄い!)
思わず快哉を上げそうになるものの、しかし流石に回避に専念した為か、菜緒の速度が落ちていた。悠介は階段を指差し、
「有紗、先に降りてるんだ! 早く!」
「うえ? う、うん、わかった」
いきなり怒鳴ったこちらに驚いたようだったが、しかしすぐに頷いて有紗が階段を駆け下りていく。その足音を聞きながら、悠介は今度は菜緒に向かって叫んだ。
「相澤さんも、急いで!」
答える余裕など当然ないだろう。菜緒は脚の怪我などなかったかのように――そんなはずはないのだが――鞭を避けながらこちらへと近づいている。
「逃がさない! あなたは今夜、必ず殺す!」
ヘカーテが叫んだかと思うと。
「くっ!?」
菜緒の身体ががくんとバランスを崩し、脚の傷がより一層輝き出した。最早完全に服の上からでも傷の形を見て取れるほどだ。
転びはしなかったものの、しかし菜緒はその場に立ち止まってしまっていた。右脚の付け根を両手で押さえ、苦しげに歯を食いしばっている。
その背後から、ヘカーテがゆっくりと近づいていた。
「あなたの血の味は憶えたと言ったでしょう。その傷は私が刻んだ呪い。文字通りに、あなたを呪ったという印よ」
歩きながら、ヘカーテが口を開く――他のあらゆる感覚器官が存在しない顔にあって、たったひとつだけ残っている口を。
「どこへ逃げたって無駄なの。もっとも、逃がすつもりは――」
と、言いかけて。
ヘカーテは少しだけ顔の角度を変えた。目がないのでどこを見ているのかは判断が難しいところだが、菜緒の後ろに立っているこちら――も通り越して、有紗の下りて行った階段を見つめているように見える。
「なに――地下鉄?」
小さくつぶやいてから、ヘカーテは弾かれたように顔を動かした。今度はどこを見ているのかは明白だ。
「あなたたち、まさか月の――!」
(気付かれたか)
こちらの目論見に思い当たったらしい。そしてそれは同時に、自分達の読みが外れていなかったことを意味し、更にこちらがその事実に気付いていたのだと相手に悟られた、ということでもある。
(なら、隠す必要はないな)
むしろ一秒でも隙を稼ぐ為に、相手の動揺を利用すべきだろう。
「やっぱり、あなたのその特質は月によるものでしたか」
「……!?」
ヘカーテがこちらを向く。口でしか表情を読み取れないというのは不便と言えば不便であるものの、驚いているのだとは疑いようがない。
「悠介くん? まさか、あなたが気付いたの?」
「ええ、まあ。伊達に悪魔召喚プログラムの解析を任されていたわけじゃありませんよ」
所詮は素人の半可通に過ぎないわけだが、はったりを利かせておいて損をする状況ではないし、まるっきりの嘘というわけでもない。
「悪魔……なんですって?」
白木が話していたはずはないので、当然彼女は知らないのだろう。自分や加嶋も、椎名から他言無用と厳命されていたのだ。だからというわけでもないが、今ここで説明する必要はない。
「すみません、真弓さん。あなたの言い分はきっと正しい。誰が聞いても、正当な敵討ちだって言うでしょうね。でも、僕は嫌なんです。相澤さんは殺させない」
「悠介くん――」
こちらを見据え、ヘカーテがつぶやく。悠介もまた、彼女の姿を見返しながら、
「ケルベロス!」
叫ぶと同時、横へと飛び退いた。こちらの背後にいたプランク――いや、既にケルベロスへと変化を遂げている――とヘカーテの間に、一切の遮蔽物がなくなる。
ケルベロスの吐き出した炎がヘカーテの姿を包み、こちらの視界から消失させた。悠介はすぐに菜緒の方へと向き直り、
「相澤さん、今!」
返事を待たずに階段へと走り出す。と言うか、返事はなかった。
こちらとまったく同時に、菜緒も階段へと駆け出していた。