当たり前だが、月の光も届かない地下へと続く階段を駆け下りるというのは、無謀以外のなにものでもなかった。転ばなかったのは奇跡に近いというかそう呼ぶ他なく、先に下りたはずの有紗を心配したほどだ。
「有紗! 明かりを!」
「えっ? うん、ちょっとまって」
本気でなにも見えない空間に向かって呼びかけると、すぐ傍から有紗の返事が聞こえてくる。やがてぱっと明かりが閃き、懐中電灯を手にした有紗の姿が浮かび上がった。
自分達が立っているのは、階段の踊り場だった。階段自体はまだ下へと続いているものの、踊り場を境に向きが反転している。立ち止まらずに直進していたら、壁に正面から激突していたところだ。
すぐにケルベロスが後を追ってきた。踊り場まで一気に飛び降りてきたらしく、有紗のやや前方に危なげなく着地する。
振り返ると、入口付近にヘカーテの姿が見えた。わかっていたことだが特に傷を負った様子もなく、ケルベロスの炎は目くらましにしかならなかったのだろう。だがその場に立ち止まったまま、こちらを見下ろしている――追って来ない。
(流石に躊躇するか。でも)
長くは続くまい。彼女の目的ははっきりしている。すぐにでも地下へと降りてくるだろう。
それは菜緒もわかっていたらしく、さっさと階段を下りていった。明かりもないのによくもあれだけ平然と進めるものだと悠介は感心したが、そういった機能でも備わっているのかもしれない――菜緒にしろ真弓にしろ、悪魔の姿では目と思しき器官が見当たらないのだから。
ともあれ悠介は有紗を促し、すぐに菜緒の後を追った。明かりは有紗の持っている懐中電灯のみで心許ないにもほどがあるが、だからとぐずぐずしているわけにもいかない。
菜緒の倍以上の時間をかけて下まで辿り着き、視線(と有紗の手)を前方へと向ける。あまり広いとは言えない通路が伸びているが、その先までを照らし出すことはできていない。改札にまで行けば、少なくともここよりは広いスペースを望めるのだが。
と、頭上から足音が聞こえた。
(追って来たか!)
菜緒はすぐに走り出していた。その後方から道の先を照らしつつ、こちらも後に続く。ケルベロスはその気になればこちらや菜緒よりも速く走れるはずなのだが、有紗のやや後方にぴたりとついていた。後備を固めるつもりなのだろうか。有り難いが。
全力疾走というわけにもいかず、後ろから聞こえてくる足音との距離はまったく広がらなかった。しかも正確な距離を測ることもできないため、既にヘカーテの鞭の射程内に入っている可能性を考えないわけにはいかない。この暗闇の中、しかも狭い通路であれを避けるというのは不可能でしかなく、自分や有紗ならば一撃で身体のどこかを持っていかれるだろう。
(こんな狭い場所じゃ、鞭なんてろくに振れないだろうけど)
そう考えれば多少はこちらのアドバンテージになるかもしれないが、しかし菜緒はここで立ち回るつもりはないらしかった。狭苦しい場所での不利は彼女にしても変わらないということだろう。
「この――!」
と、背後からヘカーテの声が聞こえる。通路の内部に反響して具体的な位置を特定することはできなかったが、しかしなにをしたのかは明白だ。
「つっ!」
菜緒が呻き声を上げ、目に見えて速度を落とす。またしても、脚の傷が輝き出していた。思わずこちらも立ち止まりそうになるが。
菜緒はすぐに体勢を戻し、再び速度を上げた。痛まないはずはないが、敢えて無視しているのだろう――今はなによりも、空間の確保が最優先ということか。
あてが外れたのか、背後から忌々しげな舌打ちが聞こえてくる。菜緒は(当然こちらもだ)構わずにそのまま通路を駆け抜け――やがて、広い空間に出た。
改札ではないようだった。やや離れた位置に更に下へと続く階段があり、周囲には店舗だったと思しきガラス戸がいくつか並んでいる。看板もそのまま残っていたが、暗いのでなんの店だったのかまでは読み取ることができない。
走ってきた通路と下に続く階段との中央辺りで菜緒は立ち止まり、振り返った。こちらは菜緒よりもう少し先まで走ったところで停止し、同じく振り返る。ケルベロスは菜緒のすぐ隣だ。
ヘカーテは通路の入口で立ち止まっていた。菜緒との距離は五メートルほどか。鞭を届かせるには、もう二、三歩近づく必要のある位置だ。
「……なるほどね。月が見えなくなる場所を探してたというわけ」
「少し違うわ」
ヘカーテの言葉を、菜緒が即座に否定する。右側の袖を捲り上げたかと思うと、肘から先が悪魔のそれに変わった。
刃物へと姿を変えた指を握って拳を作り、菜緒が言い放つ。
「あなたを返り討ちにする場所よ」
「殺す!」
ヘカーテが叫び、鞭を振り上げる。届かない、とは思わなかった。ほぼ同時に、菜緒がヘカーテに向かって踏み込んでいたからだ。
菜緒の脚の傷は依然として赤く光っており、彼女の集中力を奪っているには違いない――あれだけの傷が常に開いている状態なのだから、激痛に苛まれているはずだ。にも関わらず、菜緒は眼前からそれぞればらばらのタイミングで飛来する鞭をあっさりと(悠介の目にはそう映った)躱して見せた。まず人差し指と中指の隙間を潜り抜け、少しだけ遅れて届く薬指と袈裟懸けに振り下ろされた小指を、足首が捩じ切れるのではないかと思えるほどの急激な方向転換でやり過ごす。最後に腰の高さで横から迫ってきた親指は、右手を振って中程から切り落とした。
「うぐっ!?」
小さく呻くヘカーテに向かって、菜緒は更に踏み込んでいく。ほぼ一瞬の出来事だったが、ヘカーテの右側、手を伸ばせば届く距離にまで迫っていた。
慌ててヘカーテが身を引こうとするものの、遅かった。菜緒の突き出した拳が脇腹のやや上へと叩き込まれる。
「かっ――」
殴ったというより、巨大な鉄塊でもぶつけたような鈍い音だった。もっとも、ヘカーテの受けた衝撃はそれ以上のものだったかもしれない――打ち出されるパチンコ玉のような勢いで吹き飛び、先にあったガラス戸にぶち当たる。けたたましい音を立てて、ガラスが粉々に砕けた。
菜緒は追撃しようとはしなかった。咳き込みながらもヘカーテがすぐに起き上がったというのもあるが、それ以上に――
「はっ……あ!」
僅かに右膝を折り、バランスを崩す。倒れることこそ堪えたようだが、やはり脚の傷から広がる痛みが無視できないのだろう。
一方で、ヘカーテの方のダメージも決して軽いものではないようだった。殴られた辺り――人間ならば肋骨があるはずの部位だ――を右手で押さえ、親指だけが極端に短くなった左手はだらりと垂らしている。
「悪魔が……! そうまでして生きたいの!? 人間としての理性も尊厳も捨てて、浅ましく貪るだけの化け物になったのに! それでもまだ、意地汚く生きていたいの!?」
憎悪と侮蔑と呪詛と――考えられ得るあらゆる否定を存分に込めて、ヘカーテの口から罵倒が漏れる。その言葉でこそ呪い殺そうとしているのだと言われれば、思わず納得してしまえそうな。
菜緒は。
「ええ、あなたの言う通りよ。浅ましくて、意地汚くて、どこまでも醜い。それが悪魔。理性や尊厳なんて必要としない。欲望と、それを満たすための手段、つまり力のことしか考えない――そういうものよ、悪魔って」
笑っていた。先程見せたものと同じ、やけくそじみた笑みを浮かべていた。
一歩、ヘカーテの方へと進み出る。
「……でも、それは悪いことかしら?」
菜緒の顔から笑みが消える。
「浅ましさも、意地汚さも、醜さも、欲望も。人間なら当たり前に持っているものでしょう。悪魔と大差ない。そしてそれは、別に悪いことでもない」
笑みだけではない。苦痛を堪える表情も、飢えを満たす愉悦も、なにもない。なんの色も浮かんでいなかった。
「誰でもそうなの。欲望を満たすためなら殺しもするし犯しもする。理性や尊厳なんて、あってもなくても大して変わらない。そんなものが身を守ったりはしない。自分を守るのはそんなものでも、ましてルールでもなくて、欲望を満たすための力だけ」
気が付けば、悠介はヘカーテからは完全に視線を外し、菜緒の方だけを見ていた。恐らくは自分だけではない――有紗も、そしてヘカーテも、菜緒の姿を見つめている。
「それが人間であり、悪魔。なにも変わらない。だからわたしはそれを肯定するし、受け入れもする。わたしが死んだのはわたしが無力だったからだって、思い知ったもの。わたしひとりが救いようのない馬鹿だったって、理解したもの」
「……相澤、さん」
知らず、悠介は彼女の名を口にしていた。呼びかけたわけではない――返事を期待したわけではない。ただ、口にしただけだ。
それを読み取った、というわけでは無論ないだろう。単純に聞こえなかっただけかもしれない。菜緒はこちらに返事をせず、
「無力こそが、愚かなのよ。愚かで、度し難い悪」
告げて、床を蹴る。痛みのせいだろうが、先程よりも明らかに勢いが足りない。
が、それはヘカーテの方も同じだった。と言うか、ヘカーテの方が深刻のようだった。打撃のダメージが足にでもきているのか、ほぼ棒立ちのまま迫っている菜緒の姿を見据えている。タイミング的にも、既に回避できる距離ではない。
菜緒が再び拳を突き出し、今度はヘカーテの鳩尾へと滑り込ませる。
「うっ!?」
悲鳴を上げたのはヘカーテではなかった。彼女は鳩尾を痛打されているのだから、上げようにも上げられなかったのだろう。なので、声を発したのは菜緒の方だ。
ヘカーテの右脚が、菜緒の太腿の傷を蹴りつけていた。避けることよりも反撃することを選択したらしい。堪えきれなかったのか、菜緒がその場に倒れ込む。がヘカーテも追撃はままならないらしく、打たれた鳩尾を押さえて苦悶に喘いでいた。
――どちらが先に快復するかはわからない。ならば。
「ケルベロス!」
悠介が叫ぶと、こちらと有紗を守るように身構えていたケルベロスが地を蹴った。真っ直ぐにヘカーテへと向かっていき、そのままヘカーテの足元を狙うように飛び掛かる。
「くっ――!」
痛みと呼吸困難に苛まれながら、それでもヘカーテはケルベロスの動きに反応して見せた。しかし躱しきれたわけではない――身を捻るのが精一杯だったのか、ケルベロスの振るった爪が彼女の膝を浅く切りつける。
身を翻した勢いを殺すこともできず、ヘカーテは転倒した。そのままごろごろと床を転がり、菜緒とケルベロスから距離を取ったところで起き上がる。
「――ぶはっ!」
そこでようやく呼吸することができたらしく、大きく息を吐き出す。菜緒はまだ立ち上がっておらず、傍らのケルベロスが今度は彼女を守るような形でヘカーテを睨みつけていた。
「……真弓さん」
悠介は拳銃をヘカーテへと向けながら、口を開いた。有紗も同じようにヘカーテへと腕を向けているが、彼女が手にしているのは銃ではなく懐中電灯だ。
「さっきも言いましたけど、あなたに非がないことはわかってるつもりです。だけど僕は、相澤さんを殺されたくない。ついでに言うと、あなたにだって死んでほしいわけじゃない」
「一度死んだ身だけどね。それで、何? 殺すのを諦めろ、とでも言うつもり?」
「率直に言えば、そういうことです。もしあなたが相澤さんを殺したら、次は僕の番ですよ」
「あなたの?」
意味がわからなかったのか、ヘカーテが少しだけこちらに顔を向ける。
「僕があなたを許さない。だから僕の番です」
ヘカーテは答えなかった。ようやく起き上がったもののまだ片膝をついている菜緒と、そしてこちらとを見比べる。もう一度、息を吐き出し――
こちらへと向かってきた。菜緒の方ではなく。
「真弓さん!」
即座に狙いを定め、悠介は発砲した。弾丸がヘカーテのこめかみ辺りを掠めるが、動きを止めるには至らない。ヘカーテの後ろでケルベロスが走り出そうとするのが見えた。
が、ヘカーテはこちらの横を素通りし、更に有紗ともすれ違い、そのまま二メートルほど階段の方へと走ったところで立ち止まった。慌てて振り返ると、彼女もまた振り返ってこちらを向いている。
(……?)
なんのつもりだったのか、と悠介は眉をひそめ――すぐに理解した。ヘカーテの右手に拳銃が握られている。
確認するまでもなく、自分の銃は手の中にあった。ということは。
「あ、あれ?」
困惑した様子で有紗が腰のホルスターを見下ろしている。そこに彼女の拳銃はなかった――今はヘカーテの手の中だ。すれ違った際に抜き取られたのだろう。
「なんの真似ですか」
銃口を向けたまま尋ねる。彼女が銃の扱いに長けているかどうかなど知る由もないが、少なくとも扱い方まで知らないということはないだろう。
ヘカーテは。
「残念だけど悠介くん、私は諦めるつもりなんてこれっぽっちもないの」
手の中の銃を弄びながら、そんなことを言ってきた。
「その悪魔を殺すこと以外はどうでもいいのよ。他に目的なんてない。これを諦めたら、私は本当にただの悪魔になってしまうの――それこそそこの悪魔が言うような、単なる悪魔にね」
目的があるうちはそうではない、と言いたいのだろうか。欲望と力に溺れることさえなければ、まだ人間のままだと。
「にしても、よくわかったわね。私を守っているのが月だって」
やや口調を変えて、ヘカーテが言ってくる。悠介はちらりと菜緒の方へと視線を投げながら、
「あなたはまだ悪魔になったばかりだ。だから気付いてないんでしょうけど、元から悪魔と月には関係があるんですよ。そこから推測したまでです」
こちらとしても気付いたばかりで、しかも菜緒に聞かされるまでまったく考えなかったことではあるのだが、それをここで口にしても仕方がない。知ったような顔をしていた方が都合がいいだろう。
「ふうん。なるほどね――あなた、悪魔に関してはひとより詳しいみたいね」
「あなたや相澤さんよりは、詳しくないと思いますけど」
挑発のつもりはなかった。単なる事実だ。
くすりと、ヘカーテが笑ったように見えた。
「でもね、この街に関しては、私の方が詳しいと思うわ。あなたはこの街に来て、まだ日が浅いでしょう?」
「……はい?」
いきなり話題を逸らされて、悠介は返答に詰まった。しかしヘカーテは構う様子もなく、続けてくる。
「私が夫と娘とこの街に来たのは、半年くらい前かしら。それ以来、この街で暮らしてきたの。当然、ここの地下鉄のことだって知ってたわ」
「そうですか」
なんと答えていいのかわからず、とりあえず相槌を打っておく。
「改札はこの階段の下にあるの。ここにあるのは見ての通り、飲食店だったみたいね。もちろん、私たちが来た時点でもう無人だったわ」
と。
ヘカーテはこちらでも菜緒でもなく、あらぬ方向へと右手の銃を向けた。悠介はそちらへと視線を向け――
(――!!)
ようやく、彼女の狙いを悟る。
「そこのお店、焼肉屋さんだったみたいよ」
既に彼女の話は聞いていなかった。
ヘカーテが銃口を向けているのは、プロパンガスのボンベだった。有紗の身長と同じくらいの大きさのものが二つ、なにかの店舗の壁際に並んでいる。
ヘカーテの銃を持つ手が微かに動くのと、悠介が咄嗟に有紗の方へ腕を伸ばすのとは、ほぼ同時だった。
銃声が立て続けに二度聞こえ、そして。
爆音が、地下を揺るがした。
気を失っていたのは一瞬だった――と理解できたのは、単にそれ以上長ければ無事で済んでいたはずがないという理由だ。菜緒は目を開いた。
事態を把握するのには一瞬よりももう少しかかった。視界が赤く染まっている。ちりちりと肌を焼き付ける熱も感じられた。なにかが燃えている。
身体の上に覆いかぶさっていたものを押し退けて、上体を起こす。判然とはしないが、瓦礫のようだった。
周囲を見渡すと、酷い有様だった。至るところに元はなんだったのかわからない瓦礫が落下しており、ガラスはことごとく割れている。ヘカーテの撃ったボンベの周辺は完全に一面が炎に包まれており、延焼するのは時間の問題だろう。
(悠介くんと、有紗ちゃんは――?)
立ち上がり、二人の姿を探す。すぐに見つかった。二人とも瓦礫の直撃は避けられたようで、悠介が有紗を押し倒すようにして倒れている。ボンベからはそれなりに距離があったからか、炎に巻き込まれてもいない。
ケルベロスの姿もすぐに見つけることができた。というか悠介と有紗よりも近い場所にいた上、既に起き上がっていたのだが。
こちらをまとめて吹き飛ばそうとした、というわけではないだろう。あわよくば、くらいには思っていたかもしれないが、ヘカーテの目的は――
(こっち、よね)
空を見上げる。崩れ落ちた天井の穴と、そこから見える月を。
当然、ヘカーテも無事だった。他の誰よりもボンベから近い位置に立っていたので、いくらか爆風を浴びたのだろう。あちこちが煤けている。
「う――」
呻き声を上げて、悠介が身体を起こすのが見えた。大して怪我も負っていないらしく、傍らに倒れている有紗を揺り起こしている。有紗は完全に目を回していたようだが、悠介に起こされてどうにか立ち上がろうとしていた。
それらを順に眺めてから、菜緒は口を開いた。
「……やってくれたわね」
ヘカーテに向かって告げる。彼女はにやりと口を笑みの形に変え、
「しょ――けほっ、けほっ!」
なにかを言おうとしたようだったが、立ち上る煙を吸い込んで咽せた。がすぐに気を取り直し、こちらへと向き直ってくる。
「正直に言えば、一か八かだったのだけど。うまくいったようでなによりだわ」
持っていた拳銃をその場に捨てて、空いた右手で煙を払いながら顔を上へと向ける。つられたわけではないが、菜緒はもう一度天井へと視線を向けた。
流石に、天井が丸ごと抜け落ちたわけではない――そんなことになっていれば、自分も悠介達も生き埋めになっていたはずだ。だがところどころに穴が空いており、そこから月も見える。ヘカーテにとってはそれで十分なのだろう。更に言えば壁の火は今にも天井にまで延焼しそうであり、残っている部分が焼け落ちるのは時間の問題だと思われた。
辺りには黒煙が立ち込め、見通しは悪い。落ちてきた瓦礫が散乱しているので足場も良いとは言い難い。そしてヘカーテだ。月の守りを取り戻している。
(詰み、かしら)
そうでもない。何度か立ち回ってわかったことだが、彼女は自分と違って、悪魔になったからといって身体能力が大して強化されているわけでもない。殴りつけても内臓が破裂したりはしていないようなので(内臓があればの話だ)、生前よりも頑丈にはなっているだろうが。
(逃げれば、振り切れる)
追いついては来れないだろう。右脚の傷のせいでこちらを見失うことはないらしいが、それも追いつくことができなければ無意味な話だ。
だが、それをすれば。
(わたしはこの先ずっと、この悪魔の追撃に怯えながら生きていくの?――冗談じゃない)
そんなものは御免だった。眠る暇のない生き方も、常に激痛が付き纏う生き方もだ。
どうあっても、ここで殺しておくしかない。
「――そこまでだ」
と。
その声は頭上から聞こえた。はっとして顔を上げる。自分だけでなく、全員が似たような仕種で頭上を見上げていた。
炎がとうとう天井にまで及び、呆気なく崩れ落ちた。幸いというか自分にも悠介達にも直撃したりはせず、床に激突して砕け散る。
崩れた天井の向こう、つまり地上に、複数の人影が見えた。ぽっかりと空いた穴を取り囲むように立ち、こちらを見下ろしている。
「点けろ」
その中のひとり、顔を包帯とフードで隠した男が言うと、なにか重たげなスイッチを動かすような音が聞こえた。次いで、周囲が照らし出される。一瞬なにごとかと思ったが、すぐに理解した。全部で四つの巨大な照明が周囲に設置されており、それがこちらのいる地下を照らしているのだ。
「椎名さん!」
悠介が叫ぶのが聞こえた。包帯の男――椎名がその場から一歩進み出る。
「また派手にやってくれたもんだな。なにが爆発した? ガスか?」
「ええ、まあその」
別に彼に非はないはずだが、なぜか言いにくそうに悠介が言葉を濁す。だがその理由もすぐにわかった。
「っていうか椎名さん、どうしてここに?」
なにかまずいところを見られたとでも言うように、悠介が尋ねる。まあ、見られて困る状況には違いないが。
「俺の言ったことを忘れたのか?」
椎名がどこか呆れたように言ってくる。
「この街が危険に晒されるような事態になれば、俺は躊躇なく聖堂騎士団を動員する。そう言っただろう。悪魔が二体も入り込んでいるこの状況が危険でないなら、俺はいつあの言葉を実行すればいい?」
だとしても、爆発が起こったのはたったさっきだ。準備はそれ以前からしていたのだろう。ということは――自分達がこの街に許可なく入り込んだ時点で、既にテンプルナイトに見つかっていたということか。
返事に詰まっているらしい悠介から視線を動かし、椎名がこちらを見下ろしてくる。菜緒もまた、彼の方を見返していた。視線が交錯する。
それも一瞬だけだった。椎名がすぐに再び視線を移動させ、今度はヘカーテの方を見やる。
「その悪魔か? 相澤を殺そうとしてるのは」
「え、ええ」
悠介が頷くがそちらを見ることなく、ふむ、と椎名は唸った。
「月、だったか。なるほどな。それで地下におびき寄せたのか」
悠介がどこまで話したのかは知らないが、その辺りの事情は把握しているらしい。
「そのつもり、だったんですけど……」
「失敗したか」
「ええ、その」
答えつつ、しかし悠介の顔に少しずつ不信の色が浮かんでいるのを菜緒は見逃さなかった。というか、自分も同じだ。大まかな事情を把握しているのなら、つまりこの場に聖堂騎士団を動員するのが如何に無謀且つ無意味な行動なのか、それもわかっているはずなのだ。
黙って椎名の方を見上げていたヘカーテが、そこでようやく口を開いた。
「……私は余計な人間を殺すつもりはありません。退かせてください、団長さん」
椎名は即答した。
「街に入り込んだ悪魔を見逃す理由はない。既に具体的な被害も出ている。お前も、そっちのお前も、ここで殲滅する」
「椎名さん!」
非難の声を上げる悠介に、椎名はじとりとした目を向けた。
「言っとくが悠介、お前もだ。相澤を街へ招き入れたのはお前だろう。結果的にもう一体の悪魔もな。十分過ぎるほど処罰の対象だ」
「う……それは、そうですけど」
許可など取る必要はないと言って勝手に中へ入り込んだのはこちらだ。だと言うのに、悠介はなぜか反論しなかった。菜緒は椎名の方へと身を乗り出し、
「ちょっと椎名くん。悠介くんは関係ないわよ。この街に勝手に入ったのもそこの悪魔を呼び寄せたのも、わたしがやったことなんだから」
「無関係だとは言わせん。悠介がお前を庇おうとしているのは明白で、その時点で大問題だ。今は悪魔の対処を優先するが、看過できることでもない」
言い放つと、椎名はもう一度ヘカーテの方へと向き直った。そのまま悠介の方は見ずに、告げる。
「捕まりたくなかったら、この街から出て行け。二度と近づくな」
その言葉に。
「…………わかり、ました」
少しの沈黙を挟んで、悠介がゆっくりと頷く。その表情には、迷いか、それとも別のなにかか――言い表せないが、しかし決して椎名への非難とは違う色が浮かんでいた。
「椎名くん……!」
彼の横顔を睨み付け、菜緒は声を荒らげた。だがやはり、椎名はこちらを見てもいない。ヘカーテの方を向いたままだ。
「……なるほど。あのひとがあなたのやり方についていけないって言っていた理由、わかった気がします」
「そうか」
ヘカーテの言葉に、椎名がこれと言った関心もなさそうに答える。そのやり取りの意味は、こちらにはわからなかったが。
そこで、なんの前触れもなく。椎名が片腕を上げた。
それになんの意味があるのか、菜緒にはわからなかった。悠介や有紗もわかっていないらしい。ヘカーテもだ。おまけに椎名の周囲にいるテンプルナイト達までもが眉をひそめて彼の方を見ているので、彼等への合図の類というわけでもないらしい。
「――えっ!?」
そしてこれも前触れなく、妙な声を上げたのはヘカーテだった。慌てた様子でまず自分の身体を見下ろし、続けて空を見上げる。そして。
「そ、そんな! なにをしたんですか!?」
(……なにを、って)
椎名とヘカーテ、それぞれの挙動と反応の意味がさっぱり飲み込めず、菜緒はヘカーテの視線を追ってみた。が、なにもない。見えるのは空だけだ。
空だけ、だった。
(……え)
見上げた先には、空しかなかった。他にはなにも見えない。たったさっきまで見えていたはずの星も、そして月も。ただひたすら広がる闇に塗り潰され、どこにも見当たらなかった。
「し、椎名さん? 今、なにを――」
「簡単なことだ。壁を見えるようにした」
こちらと同じように呆然とした様子で空を見上げている悠介の言葉に、椎名があっさりと答える――驚いていないのは彼とケルベロスくらいで、他の全員が目を丸くしていた。
「団長、これは一体……?」
テンプルナイトのひとりが椎名に尋ねる。が、椎名が顔を向けているのは悠介の方だった。
「今までこの街に張っていた壁は、目に見えなかった。それを可視状態にしただけだ。別に難しいことでもない。光を遮るには、これで十分だろう」
その説明を理解できたものが、果たしてこの場にどれだけいたのか。恐らく最も椎名の意図に近い形で理解したのが悠介で、そこまでではなくともそれが意味するところだけを辛うじて理解したのがヘカーテなのだろう。後はまあ自分も含めて、さっぱり理解できなかったに違いない。
――自分に理解できたのは、この場を照らし出している照明の意味だけだ。爆発と炎は椎名にとって予想外の出来事だったらしいので、月と星の光を遮れば明かりが足りなくなると危惧して運んできたのだろう。
慌てふためくテンプルナイト達に、椎名が落ち着き切った声を上げる。
「悪魔の殲滅は俺がやる。お前たちは消火活動を優先しろ」
「え? あ――はい」
戸惑ったままの部下を見ることもなく、椎名が上着から刀を取り出すのが見えた。鞘をその場に投げ捨て、こちらのいる地下へと飛び降りてくる。
ぎり、となにかが聞こえた。ヘカーテの方からだ。見ると、歯を噛みしめている。
「団長さん……私が殺したいのは、そこの悪魔だけなんです。邪魔をしないでもらえませんか?」
「白木の敵討ちか」
「娘もです。私の目の前で、その悪魔に殺されたんです!」
ヘカーテが右手を手近な壁に叩き付ける。既に炎が燃え移っていたのだが、熱さを感じていないのかどうでもいいと思っているのか、気にした様子もない。
「私も殺された! 殺されて、悪魔になったんです! 私にはもうなにもない――その悪魔を八つ裂きにしてやる以外、なにもないんですよ!」
「知ったことか」
ごく短い返事だった。ヘカーテが言葉を切る。
「白木や娘と共にこの街を出て行った時点で、お前はこの街の住人じゃなくなった。今は悪魔で、あろうことかこの街に損害を出している。俺が気にするのはそれだけだ。お前がこの街にとって単なる害悪でしかないという、ただそれだけだ」
椎名の持っている刀に、模様が浮かび上がった。あれは――自分の右肩やプランクの額にある、デジタル・デビルのシンボルだろうか。
「悠介、有紗。巻き添えになりたくなかったらさっさと失せろ。もう戻ってくるな」
「――相澤さんも、ここで殺すつもりですか」
「殺さない理由がない。それが嫌だってんなら――言ったはずだな? そうせずに済む理由を持ってこい」
疑問など差し挟む余地もなく。椎名の言葉が本気であると、菜緒は理解していた。こちらも僅かに腰を落とし、椎名とヘカーテ、どちらにも飛び掛かれるように、あるいはどちらから飛び掛かられても対処できるように構える。
「相澤さん――」
「ありがとう、悠介くん。でも、もういいわ」
こちらを見て力なくつぶやく悠介に、菜緒は告げた。
「ふ――ふ、ふふふ」
不意に。
低い笑い声を漏らしたのは、ヘカーテだった。見ると、小刻みに肩を震わせている。
「そっか――考えてみれば」
目のない顔で、ヘカーテが椎名を見る。睨んでいるのかと思ったが、違うようにも見えた。
「そもそもあなたが、あのひとを追い出したりしなければ――私たちがその悪魔に殺されることも、なかったんですよね」
(……あら?)
ふと、菜緒は自分の右脚を見下ろした。ヘカーテに刻まれた傷が、いつの間にか収まっている。傷そのものは残っているのだが、先程まで発していた赤い光が消えていた。痛みも大分和らいでいる。
怪訝に思い、再びヘカーテへと視線を向ける。彼女はやはり椎名を見ていた。
「あのひとは、あなたのやり方にはついていけないって言ってました。シスター・メイが死んだのも、あなたが見殺しにしたも同然だって」
「ああ、面と向かって言われたな。だから俺は選ぶ機会をやった。街を出て行く選択をしたのはあいつ自身で、それについて行くことを決めたのはお前だろう」
椎名のその言葉が、果たして引き金となったのかどうか。
「あなたも――殺す! 私が!!」
ヘカーテの口から咆哮とも絶叫ともつかぬ声が響いた。
同時に、床を蹴る。跳躍するような勢いでヘカーテへと突進する。同じタイミングで椎名も駆け出していたが、距離が近かった分こちらの方が早かった。
がむしゃらに――としか言いようがない――振り回される鞭を掻い潜り、ヘカーテの懐へと飛び込む。彼女は足元に落ちていた火のついた瓦礫をこちらへ蹴り飛ばすと、少しだけ後ろへ下がった。つまり燃えている壁の方に。
飛んできた瓦礫を右手で叩き落とし、構わずに前進する。ヘカーテは既に壁際におり、これ以上後ろへは下がれない。菜緒は更に踏み込んだ。握った拳を突き出す。
寸前で、ヘカーテが身を翻した。彼女の代わりに燃え盛る壁がこちらの眼前に立ちはだかり、前髪に触れようとする。
壁にぶつけようとしたのだろうが――つもりが甘かった、としか言いようがない。菜緒は激突する寸前で方向転換し、即座にヘカーテの避けた方へと跳んだ。追い縋られたヘカーテに動揺の色が浮かぶ。
そこへ、椎名の刀が振り抜かれた。
「くあっ!?」
ヘカーテの悲鳴が聞こえるよりも早く、菜緒は立ち止まって身を屈めていた。ヘカーテ諸共に切り伏せようとしたらしい椎名の刀が、こちらの頭上を通り過ぎていく。
すぐに身体を起こし、二人の状況を視認する。ヘカーテは左肩を切られたらしく、傷口を押さえながら椎名から距離を取ろうとしていた。椎名は振り抜いた刀を構え直し、同じように少しだけ――一呼吸で詰め寄れる程度だ――距離を取る。
(どっちを狙えばいいか――)
考えるまでもない。御するに易い方だ。即座に決断して、菜緒はヘカーテへと迫った。
「くっ!」
こちらの動きに対応しきれなかったのか、ヘカーテは避けようともしなかった。勢いを乗せて振り抜いたこちらの左脚を、右腕で受け止める――そして受け止めきれずに、そのまま吹き飛んだ。
「うぶ――はっ!」
受け身を取り損なったのかごろごろと床を転がり、結果的にこちらや椎名との距離をどうにか取ったようだった。立ち上がろうとするも、しかしがっくりと膝をつく。
「ふふ――ふ、ふふ」
その体勢のまま、ヘカーテはまたしても笑い出した。
「殺す――二人とも、私が殺す。殺して、殺す――」
床に手と膝をついたまま、なにやらぶつぶつとつぶやいている。椎名がそちらへと近づいていき――
「……なんだ?」
足を止め、視線を落とす。
――そして、菜緒も気付いた。
床一面に、赤い線が走っている。自分の立っている場所は炎から近い為に見えにくいが、ヘカーテのいる場所はかなりはっきりと見て取れた。見覚えのある、赤い光だ。
(あ――!)
自分の右脚を見、すぐにヘカーテへと視線を戻す。赤い光の正体は明確だった。さっきまでこちらの脚に浮かんでいた、あの文字だ。悠介によれば梵字に近いらしいが、しかしこちらの脚に刻まれていたものとは比較にならないほど大きく、ヘカーテが右手をついている場所を中心に、半径にして五メートルほどはあった。つまり床をほぼ覆っている。
「相澤さん! 椎名さん!」
悠介の声が聞こえた。彼と有紗(とケルベロス)は瓦礫を伝って地上へ出ようとしていたところだったらしく、床一面に広がった梵字には触れていない。触れているのは――自分と椎名だけだ。
「ちっ!」
椎名の舌打ちが聞こえる。菜緒は後ろへ跳んで床の文字から逃れようとしたが、しかし足の裏が赤い光に吸い付いたように離れなかった。
「ふふ――死になさい。死んで――死ね!」
ヘカーテの言葉に呼応するように、床一面に広がった赤い光が輝きを増す。同時に、右脚の傷から血が噴き出した。
「ぐっ!」
血の勢いは尋常でなく、見る見るうちに服を染めていく。が、それだけではない。傷口どころか全身を巡る血液が沸騰したのかと思えた。心臓があるはずの箇所も、なにか内側から途方もない圧力のようなものを感じる。
自分にまだ心臓が残っていて、その上でそんなことがあり得るのなら、の話だが――破裂しようとしている、ような。
「がはっ!?」
胸を押さえた椎名の口と鼻から、血が流れ出した。よく見ると顔に巻かれた包帯も含めて、服のあちこちに血が滲んでいる。恐らくは彼の全身にある傷口が、一斉に開きかけているのだろう。皮膚の下から溢れようとする血に、内側からこじ開けられる形で。
視界が揺れ始める。全身を舐め尽くす熱の正体は、決して炎によるものだけではない。身体の内側から沸いているのだ。血流が文字通りに氾濫していた。
弾ける、と思った瞬間。
「やめろっ!!」
悠介の絶叫が聞こえた、ような気がした。
床から伸びる赤い光が、一際強く輝いた――これも、そんな気がしただけだったが。