出し抜けに訪れた鈍痛の正体を探る。発信源は背中から後頭部にかけてだった。なにか固いものをぶつけられたらしい。
要するに背中から床へと倒れ込んだだけなのだが、痛覚はともかく、頭の方がなかなかそれを理解しようとしてくれなかった。突発的な事態に直面するといつもこうだ。反射ばかりが真っ当に機能して、理性が追随しない。認識することを拒もうとする。
自分が倒れた音を自分の耳は確かに聞いたはずで、ついでに言うならもうひとつ、重いものが倒れ込む音も捉えていた――と思う。まったく同時に自分と似たような格好で、隣にいた椎名も倒れていた。彼との距離を考慮すれば、まあ聞こえていない方がおかしな話だ。
……まだ、事態を理解できない。目の前の光景について行けていない。神経だけが律儀に機能を果たして、それを脳に伝えてくる。
「…………へ?」
聞こえたのは少女の声だ。ということは有紗か。多少離れた位置にいるらしい。自分が倒れる直前に見た彼女は、地上へと這い上がろうとしているところだったはずだ。
違う、と。ようやく理性が声を発した。が、一体なにが違うというのか。
――倒れる直前に目にしたのは、それではない。自分はそちらを見ていなかった。
少しずつ――本当に少しずつ、頭が回り始める。自分でも苛立ってくるほどの緩慢さだ。なにが起こったのかは残らず目の当たりにしていたというのに、それらを繋ぎ合わせて処理することができない。
まず、なぜ自分は倒れているのか。隣の椎名もだ。
ゆっくりと思い出す。身動きの取れなくなっていたところを押し倒されたからだ。誰に?
悠介に、だ。
既に地上に出て有紗を引っ張り上げようとしていた悠介が、こちらの立っていた場所に向かって飛び降りてきた。そして落下の勢いそのままに自分と椎名を突き飛ばし――それから。
「……悠介くん!!」
上体を起こし、菜緒は全力で叫んだ。
自分と椎名を赤い光の外側へと突き飛ばし、そして。
目や鼻、口に耳――どころか全身のあらゆる箇所から、水風船が破裂するように一斉に血を噴き出した。
――菜緒はようやく、目の前で起こったことの始終を把握することができた。というか、せざるを得なかった。前方に血塗れの悠介が倒れている以上、最早理解を拒もうとしたところで無意味だ。
「……悠、介」
呆けたような声音でつぶやきながら、椎名が立ち上がった。彼の方も大概血塗れだが、それでも倒れた悠介に比べれば軽傷というしかない。
血塗れ、というには語弊があった。悠介の身体は血管という血管が内側から皮膚を貫いて破裂しており、辺り一面に血をぶち撒けているのだ。広がった血溜まりの中に、ずたずたに引き裂かれた悠介の身体が転がっている、という方が正しいだろう。できれば正しくなくて良かったが。
血の巡りを考えれば当然だが、最も原形を留めていないのは頭部と胸だった。顔は一目で彼だと、どころか人間だと判別することもできないほどくしゃくしゃに歪み、心臓のあったはずの場所には風穴が空いている。
――即死だっただろう。それだけが唯一、幸いだったと言える点だ。
床を覆う赤い光は、急速に消えようとしていた。その中央にいるヘカーテは悠介の方を眺めたまま、動きを止めている。彼女だけでなく、地上にいるテンプルナイト達も、ケルベロスも、誰もが一点を見つめたまま硬直し、押し黙っていた。
ただひとり。
「…………悠介?」
――有紗を除いて。
「悠介」
登ろうとしていた壁から手を離し、有紗は床に降り立った。そのままヘカーテとこちらの間を通り過ぎ、悠介の方へと歩いていく。
「悠――」
飛び散った血にも構わず、有紗は悠介の隣にしゃがみ込んだ。悠介だったものに触れようとしたのか、手を伸ばし――指先が触れる寸前で、止める。
全員が黙って見つめる中で、有紗は。
悠介の名を叫んだ。
シュバルツバースの後に人類を襲った脅威に対して、しかし人類は決して無力ではなかった。それは間違いない。なにしろ人類は先の災害から、悪魔という存在に対する認識を持ち得ていたのだ。
それが人類に、そして地球にどういった影響を及ぼすのか、人々は即座に研究を始めた。だからと言って容易に正答に至ったはずはなく、またその為に余計な惨劇がもたらされることもあったのだが、まあそれはいい。誰もが賢くはなれない。
ともあれその過程で悪魔召喚プログラムの果たした役割がどれほどのものだったかは、今更述べるまでもないだろう。人類が悪魔を制御する術の起点にして基点となったそれは、手の届かない距離から降り注ぐ有害な情報に対する明確な対処法を生み出した。
幸運だった、と言っていいものか。皮肉だったと言えば恐らく誰もが納得するだろうが。
しかし少なくとも、効果的ではあった。それは認めるしかない。人類を襲った新たな脅威から逃れる為に、悪魔を制御するという禁忌に手を伸ばし、そして導き出された――人間に悪魔の力を付与するという、その対処法が。
災厄から逃れる為に、人類は悪魔になる道を選んだ。その方法しか見つけられなかったのだから、選択の余地がなかったと言えばなかったのだが。
――そもそもの原因を取り除けばいいのではないかと、そう思ったものもいる。悪魔などに姿を変えるよりも、地上に有害な情報をもたらす、その発生源をどうにかすればいいのではないかと。そう思ったものは当然いる。
実際のところ、その研究は進められていた。そしてそれなりの結果を出してもいた。
だがどういうわけか、彼等は。
地上に緩やかな死を振り撒くそれを、神と呼んで憚らなかった。