見えたのは、光だった。
たったさっきまで床一面に広がっていた赤い光とは違う。白い光だ。規模にしても、部屋を覆い尽くすほどのものではない。そのすべてを視界に収めることも容易な、小さな光だった。
月の光、だろうか?
いや、そんなはずはない。月ならばついさっき自分が隠したばかりなのだ。少なくともこの街から出ない限りは、月が見えるはずはない――月の光がここに届くはずはない。
テンプルナイト達に設置させた照明によるものでもなかった。数人がかりで運ばせた器具だが、ここまではまったくもって無意味だったと断言してしまっていいだろう。なにしろ周囲の壁が燃えているので、明かりには事欠かない状況なのだ。だから目の前にあるそれも、照明に頼るまでもなくはっきりと視認できる。
見えたのは、光だ。見えるはずのない光だった。
(……馬鹿な)
その光を、自分は知っている。なんの光なのか、その正体を知っている。
それが決して今、この場で見えるはずのないものだということを、椎名は知っていた。知っているはずだった。
小さな光だった。無理もない。恐らくこの場にいる誰よりも――ケルベロスと比較してさえ――それを発しているものは、小さいのだから。
「…………え?」
こぼれたつぶやきは、隣で倒れている菜緒のものだった。倒れているというか、まだ起き上がり切っていないというか。
彼女の考えているところは椎名にも即座にわかった。こちらと同じだろう。見えるはずのないものが見えた。あるはずのないものが、そこにある。まあそんなところだ。
こちらも菜緒も、見ているのは同じものだった。ぼろくずのようになった悠介の死体の傍らに跪いている有紗の、その背中。
服の上からでもはっきりとわかるほど、その光は強烈に輝いていた。自分やプランクにもある――そして恐らくは菜緒やヘカーテにもあるはずの、デジタル・デビルの情報痕。
自分の左肩にある模様と比較して、それは相当に大きなものだった。如何に有紗の体躯が小さいとは言え、背中全体に浮かび上がっているのだ。ここからでもその形状がはっきりと見て取れる。スノーノイズ――サンドストームとも呼ばれ、アナログテレビで番組を受信していない時に映るあれだ――を彷彿させる微細な点で形成されているそれは、中心に向かって渦巻きながら集う雷のように見えた。無論、その形状にどういった意味があるのかなど知ったことではないが。そもそも自分の身体にある情報痕の形すら、なにを表しているのかよくわからないというのに。
だがそんなことはどうでもいい――形状など、さしたる問題ではない。捨て置けないのは、有紗の背中にそれがあるということだけだ。
「なんで――」
お前が、と言おうとしたところで。
なにか強烈な勢いで、頭を殴られた――と思ったのは錯覚だった。
(……!?)
なぜそんな勘違いをしたのかと言えば、簡単だった。実際にそう思えるような衝撃が走ったからだ。ただし、鈍器のような重量は感じられなかったが。
――頭がふらつく。視界が揺れ、思考もままならなくなる。全身からするりと力が抜けていく。
(なんだ――?)
立っていられなくなり、椎名はその場に膝をついた。貧血だろうか。そう言えば身体のあちこちから血が出ているし、ロキと交戦した際のダメージもまだ抜け切っていない。確かに、万全とは言い難い状態には違いないのだが――
「…………うっ!?」
瞼を閉じそうになっていることに気付き、椎名は慌てて目を見開いた。と言っても実際にはほんの少しだけ、辛うじてこじ開けただけだったが。
(これ、は……生体マグネタイトが……)
急激に失われている。身体の不調の原因はそれだと、咄嗟に理解したのは自分の意識ではなく自分の中にいるデジタル・デビルであり、同時に警告も寄越してきた。
――この街に張っている壁を、維持できなくなる。
(駄目だ……それだけは、駄目だ……!)
意識だけで抗おうとするが、それで身体に力が込められるわけではない。失われた生体マグネタイトが戻るわけではない。
と、その時。
有紗の背中の模様から、無数の光の筋が伸びるのが見えた。
「有紗ちゃん!」
菜緒が叫ぶのが聞こえたが、それで光が消えるようなこともなく。
伸びた光の筋は瞬く間に有紗の全身を包み、すぐに彼女の輪郭すら見えなくなる。光の繭となった有紗の身体は更に輝きを増していき――そして、膨れ上がった。
「有紗ちゃ――」
菜緒の声と重なって、ケルベロスの吠え声が聞こえたような気がした。
現れた時と同じく唐突に、光が消える。彼女の姿を覆っていた幕が取り払われる。もっとも、そこにいたのは既に有紗などではなく、似ても似つかないなにかだったが。
――それが有紗ではないという根拠は、いくらでも挙げることができた。まず大きさが違う。彼女は菜緒や悠介と比較しても一回り背が小さく、元から発育不足気味だったように思えた。それが今や、見上げなければならない位置に頭がある。肌の色も違った。黒い。それも色黒などというレベルではなく、完全に墨汁のような黒さだ。指先から頭の天辺に到るまで、ほぼ隙間なく塗り潰したような黒に覆われている。
そしてなにより――それは、人間の形をしていなかった。
頭そのものよりも長い、不自然に伸びた首。腕の代わりに生えている翼。無数の鰭が棘のように付いている尾。爬虫類のような顔。
明らかだった。有紗ではなく、人間でもない。創作物に登場する竜か、あるいは翼を生やした鰐のように見えた。
「りゅ、竜……?」
有紗の変じたそれを見上げながら、呆然と声を上げたのはヘカーテだった。やはりそう見えるらしい。
「有紗ちゃん……この子も、悪魔だったの……?」
ヘカーテのつぶやきに、しかし自分も菜緒も答えなかった。答えようがなかったというのもあるし、自分の場合は朦朧とする意識のせいでそれどころではなかったというのもある。
と、黒い竜――もしくは鰐か蛇――の顔に、小さな変化が現れた。顔の一部に、なにかが浮き上がったのだ。宝石のように見えなくもない、金色の丸いなにかが。
それの正体は、即座に理解できた。目だ。閉じていた瞼を開いたというだけのことだ。
ゆっくりと、それは長い首をもたげた。顔を動かし――金色に輝く瞳を、ヘカーテへと向ける。
「あ――」
ヘカーテがなにかを言おうとしたようだったが、次の瞬間。
人間の上半身と同じくらいの大きさはあろうかという黒い竜の顎が、真っ直ぐにヘカーテへと打ち下ろされた。
ヘカーテは身じろぎもしなかった。反応しきれなかったのだろうとは想像に難くない。一瞬にして、竜の開かれた口に飲み込まれた――噛み千切られた。
ように、見えたのだが。
時間にすれば数秒程度か。ヘカーテの腰から上を食い千切った体勢のまま動きを止めていた竜が、首を上げた。心なしか、目の形が変わっているように思える。なにかを訝るような。
先程までと変わらずに、ヘカーテの姿はそこにあった。上半身が消えてなくなっていたりはしない。竜の顎が迫ってきたせいだろうが、頭を庇うように両腕を上げてはいたが。
竜の口から、低く唸り声のようなものが聞こえた。
「え――?」
菜緒の困惑したような声が聞こえる。有紗の背中に光が見えたその時から、理解が追いついていないのか。だがこちらはそれよりもう少しだけ、理解が及んでいた。
(壁が……消えた)
舌打ちしようにも力の入らない状況ではそれすらもままならず、胸中で苦々しく――ただひたすらに苦々しく、椎名は呻いた。
――壁を展開する為の情報操作は、常に自分の中のデジタル・デビルを介して行っていた。そしてそのデジタル・デビルは実体化していない以上、生体マグネタイトの供給も基本的には気を使う必要がない。人間として生命を維持できる程度でさえあれば、それで十分だった。
だが、今やその情報操作すらままならないほどに、生体マグネタイトが足りなくなっていた。それはつまり生命維持に支障を来すレベルということであり、自分は今、疑いようもなく死にかけている。
それでも力を振り絞って、椎名は視線を上げた。夜空が見える。星と、そして月が見える。阻んでいたはずのものが消え失せているのを理解する。
「あ――月、が」
当然、それを察知したのだろう。ヘカーテがやはり空を見上げながらつぶやくのが聞こえた。
ヘカーテが眼前の竜へと向き直るのが見えた。
「有紗ちゃん……そう、私を殺すつもりなのね」
有紗だったはずの悪魔は返事をしなかった。唸り声も上げていない。黙ったまま、ヘカーテを見返していた。
「悠介くんを殺すつもりなんてなかった。本当よ。私が殺したかったのは、そこの二人だけだもの。なのに、助けようなんてするから――」
竜の巨大な影に隠れて見えないだろうが(こちらからもだ)悠介の死体が転がっているはずの場所へ顔を向けて、ヘカーテが告げる。その声音に、悠介を非難するような色は感じ取れなかった。彼女にとっても、悠介の行動とその結果は不本意なものだったということか。無関係な人間を殺すつもりはなかったのだと。
竜の口から、再び唸り声が漏れた。威嚇するような――あるいはごく単純に、怒り狂っているような。
その口が開かれ、そして。
雷光のようななにかが、ヘカーテに向かって放たれた。轟音と振動が地下を僅かに揺るがし、ただでさえ立っていられないこちらのバランスを更に奪おうとする。
それでもどうにか転倒することだけは堪えて、椎名は竜の吐き出した光がヘカーテの身体をすり抜け、彼女の背後の床を陥没させるのを見届けていた――なにを吐き出したのか知れたものではないが、尋常な威力ではない。
「ごめんね、有紗ちゃん。私は私の仇をこの手で殺すまで、死に直すわけにはいかない」
自分の身体を光が素通りしたことも気にしていないのか、ヘカーテが顔をこちらへと向けてくる。それに反応するように、菜緒が立ち上がるのが気配でわかった。自分は立ち上がるどころではないが。
「いいえ、あなたは死ぬ。もう一度、今度こそ死ぬ。わたしが殺す」
菜緒が低く告げる。感情を無理矢理に押し退けているのだとは、わざわざ顔を見なくともわかった。というか、押し退けようとして見事に失敗している。激昂しかけているのだろう。その理由も、考えるまでもなかった。
「――殺したわね。仇でもなんでもない、人間を殺したわね」
人間のものではなくなっている彼女の右腕が、不自然に盛り上がっていた。異様なまでに力を込めているのだろう。目に見えないなにかを握り潰そうとでもしているように。
ぎり、とヘカーテが歯噛みする。
「あの子は――」
「わたしを守ろうとした? 仇討ちをする上で障害になった? だから殺した、なんて言い張るつもりなら、それはあなたの言う悪魔の考え方よ。無関係な人間を巻き込まないことよりも、わたしを殺すことを優先したんじゃない!」
ヘカーテに悠介に対する殺意が本当になかったのであれば、菜緒の叫びはほとんど言いがかりに近い物言いだ。だがヘカーテはなにか痛みでも堪えるように口を引き結び、なにも言い返さない。菜緒から顔を逸らすのみだった。
椎名は。
「お前に……非難する資格なんざ、あるか」
鉛でもへばりついているのかと思えるほどに重い口を、それでも開いた。弾かれるように菜緒がこちらへと向き直ってくる。
「お前の、言う通りだったとしても……そいつは、お前と同じになったってだけ、だろうが。お前が責める筋合いじゃない……怒る資格すら、お前にはない。違うか?」
資格があるとすれば、それはひとりだけだ。椎名は菜緒とヘカーテからは目を逸らして、有紗だった悪魔へと向き直り――そこで、動きを止めた。
先程までヘカーテを睨みつけていたはずの竜が、あらぬ方を向いていた。自分を見ているのでも菜緒を見ているのでもない。まったく別の方向だ。
こちらの様子を訝ったのか、菜緒とヘカーテが同じように竜へと視線を向け、そしてやはり同じように訝ったようだった。意味を推し量りかねているのだろう。
首を真っ直ぐに伸ばし、竜は空を仰いでいた。真上に向けて口を開き、そのまま静止している。大きさと色合いのせいもあるだろうが、なにかの彫像のようにも見えた。
「有紗、ちゃん?」
菜緒の呼びかけに応えることもなく、竜はやはり微動だにしない――と、思った直後。
開かれたその口の奥から、光が溢れ出した。それは徐々に大きく、そして強くなっていき、牙と牙の隙間から周囲へと漏れ出している。
それでも竜とその首は動かなかった。光が更に膨らんでいき、口の中には収まりきらない(質量があれば、の話だが)ほどにまで大きくなった、その瞬間に。
竜は大きく顎を開き、空に向かって光を吐き出した。
(な――!?)
物理的な反動があったわけではないが、それでも空へと伸びていく光によって周囲が照らし出され、椎名は倒れないよう踏ん張っていた。
吐き出された光の筋――というか、柱だ――は竜の口から遠ざかるほどにその太さを増しているらしく、先端を見失うということがなかった。とはいえ無論、その軌道を目で追えたはずもない。一秒か二秒か、そのくらい遅れて光の進んだ先へと視線をやり――
(…………は?)
完全に、呆気に取られた。質の悪い冗談でも聞かされたような心境だ。
――それがなにを目指して空を進んでいたのかは、簡単に把握することができた。当然だ。光の柱が伸びていった、その先を見ればいいだけなのだから。
恐らくは菜緒もヘカーテも、こちらと似たような心持ちと、そして表情だったろう。見なくともわかる。地上にいるテンプルナイト達もそうだ。ケルベロス――は、どうにも自信がないが。
竜の口から伸びた光の柱が目指していたのは、上空に浮かぶ月だった。直進する間に果たしてどれだけ太くなっていたのかは知らないが、少なくともここから月の表面に光の柱が届いたのが視認できる程度ではあったらしい。月の直径とほぼ同じくらいに見えたのだから、既に柱というレベルではないが。
光の柱が完全に月を覆い隠してから、そして消えるまで、数秒くらいだったろうか。
地上と三十万kmも離れた天体とを結ぶ線が消え、その後には。
なにも残っていなかった。先程まで間違いなく見えていたはずのものが、見えなくなっていた。
完全に、跡形もなく。
空に浮かんでいたはずの月は、消し飛んでいた。
(……冗談、だろ?)
誰かに許しでも請うような気分になりながら、胸中でつぶやく。
誰もがこちらと似たような顔で、信じられないといったように空を見上げていた。無理もない。信じられないのは自分も同じで、なにかに騙されているような気すらするのだ。あまりにも現実離れした光景だった。
こんなことはあり得ないと、そう思わされたのは一度や二度ではない――一年近く前のあの日から数えたとしても、指が足りないくらいだ。悪魔が出現し始めてからというもの、あり得ない事や考えられない事のオンパレードだった。そういった出来事と比較して、たった今目の前で――数十万km以上離れた場所を目の前と呼ぶのは無理があるが――起こった出来事は、規模という点で群を抜いている。
「う、そ……月が」
呆けたようなヘカーテのつぶやきが聞こえてくる。それに反応したのかどうか、竜が空へと伸ばしていた首を下ろし、彼女の方へ視線を向けた。
「……あ」
明らかに彼女自身の身長より高い位置から見下ろされ、ヘカーテは短く声を上げた。意味などなにもないのであろう、単なる呻き声だ。
ヘカーテの姿を見下ろしながら、竜は低く唸り声のようなものを喉の奥から鳴らしていた。声というよりは、呼吸の音なのかもしれない。
「有紗……ちゃん。私を、殺すの?」
ヘカーテの問いかけに、竜は答えなかった。黄金色の双眸を向けるだけで、首を動かしもしない。
だがそれには構わず、ヘカーテは更に尋ねた。
「私が、悠介くんを殺したから。だから、私を殺すの?」
一歩。ヘカーテが足を後ろへと下げる。それと同時だった。竜が再び口を開くのは。
「私はまだ、死ねない。そこの二人を殺すまで、死ぬわけにはいかない……!」
ヘカーテがその場に屈み込み、床に手をつくのが見えた。それがどういったつもりの行動なのか、即座に理解したのは自分だけではなかったらしい。だが身動きの取れないこちらと違って、菜緒は咄嗟に腰を落とし――
竜の口から、光が放たれた。
悲鳴も、そして避けるような余地もなく、ヘカーテの姿が光に覆われて影すらも見えなくなる。
駆け出そうとしていた菜緒も動きを止め、そちらを見ていた。吐き出された光はすぐに消え失せ、後には。
直前に見えた体勢のまま、ヘカーテの姿があった。だが完全に動きを止めており、床についた手から赤い光が広がるようなこともない。その顔は竜を見ているのか、あるいは床を見つめているのか、判別できない角度だった。
異変は、すぐに訪れた。
「あ……」
ヘカーテの身体から、なにか細かな粒子のようなものが浮き上がった。それは瞬く間に数を増していき、それに伴ってヘカーテの身体が消しゴムで擦られたようにその質量を失っていく。
「あ……ああ!」
ヘカーテの口から悲鳴が漏れる。向こう側が透けて見えるほどに薄くなっている自分の両腕を見下ろしながら、それでも声を張り上げる。
「待って……待って! 私はまだ、誰も殺してない――殺したい相手を、誰も殺してない! それなのに死んだら、私は本当に、ただ死んだだけじゃない!」
ヘカーテが顔を上げる。目も眉もないその顔では、彼女の表情を読み取ることはできない――ただ声音だけで、彼女の感じている絶望を推し量るしかない。
「殺させて! 仇を取らせてよ!! あのひとと娘の、仇を――まだ、死にたくない! 消えたくないのよ!!」
それが最後の言葉だった。
数秒程でヘカーテの身体は完全に光の粒へと変わり、そのまま真上へと――空へと消えていった。文字通りに消滅したのか、それとも粒子が広がったために見えなくなっただけなのか、それはわからないが。
――なにも残らなかった。可能な限りに細かく、恐らくは最小の単位まで分解され、ヘカーテの肉体は視認できない状態になった。
(情報として、分解されたのか)
いつだったか、悠介の言っていたことを思い出す。分子や原子、そして素粒子といったものを経て、物質を際限なく細かくしていけば――それはもう情報としか呼べないものだ、と。単なる情報と同列にしか扱えないものだと。
自分も含め、誰もがヘカーテのいた場所を見つめていた。誰も、なんの言葉も発さない。言葉を失っていた。
沈黙を破ったのは、一際大きな竜の鳴き声だった。
「……有紗ちゃん!?」
菜緒が叫び、そしてすぐにその意味を悟る。
竜は翼を広げていた。それがどういった行動なのかは、考えるまでもない。一度だけ空打ちしたかと思うと、竜の身体が僅かに浮き上がり――そして、完全に地面を離れた。
悪い夢というか、馬鹿げた光景だった。象と比較しても遜色ないであろう巨体が、空中に浮いている。翼を羽ばたかせる度に周囲には小さな振動が走り、椎名はまたしても転ばぬよう踏ん張らざるを得なかった。
竜は空に浮いたままもう一度だけ遠吠えのように声を上げると、そのまま移動を始めた。流石に鳥のような速度とまではいかないらしく、容易に目で追うことのできる動きだったが。
「有紗ちゃん! 待って!」
と、菜緒が叫んだかと思うと、竜の飛んでいった方に向かって駆け出した。壁を蹴ってあっさりと地上へと上り、そのまま飛び去っていく竜の後を追おうとする。
「相澤……!」
椎名は彼女を呼び止めようとしたが、聞こえなかったのか聞くつもりがなかったのか、菜緒は振り向かずに走っていった。竜の飛行速度がそれほどでもないとは言え、それでも人間が走って追いつけるような速さではないのだが、彼女はほぼ遅れることなく追走している。
程なくして、竜はともかく、菜緒の姿は見えなくなった。できることならこちらも追いかけていきたいところだったのだが、まったくもって身体が言うことを聞かないのだからどうしようもない。
(クソ……なんだってんだ、これは)
僅かな時間に目の前で起こったことを思い起こしながら、毒づく。理解が追いついていない。デジタル・デビルに丸投げしようにも、それさえ生体マグネタイトが涸れかけているためか死につつある状況だ。もっとも、無事だったところでそれが理解を後押しする要素にはならなかったと思うが。
気絶しろ、という誘惑は極めて強烈なものだった。瀕死の身体は意識を保つことを放棄したがっており、先程からずっと瞼を下ろそうと躍起になっている。そしてそれは恐らく、無駄な努力などではないだろう。もう間もなく、自分は意識を手放す。
だが、その前に。
そう思ったのが果たして気紛れではなかったのかと問われれば、応とは言えないだろうと椎名は自覚していた。無論それだけではないが――例えばケルベロスがそちらに歩み寄っていたからだとか、別の理由もある――ともあれ椎名は、気を失う前にせめて一目だけでも焼き付けておこうと、悠介の死体の方へと視線を向けていた。自分と菜緒を助けようとして死んだ彼の姿を。
(…………あ?)
見やり、そして訝る。それがどういう意味なのかを理解することは当然として、考えることすらもできなかったが。
いつの間にかそちらへと近づいていたケルベロスのことは、まあいいとする。周辺に広がり早くも乾き始めている悠介の血も、問題ではない。
問題なのは、原形を残していないほどに破壊された悠介の死体が、その形状のまま――石になっていることだ。
意識を失う寸前で思い出したのは、一年ほど前の出来事だった。メデューサの視線に晒されてやはり石にされた挙句、粉々に吹き飛ばされた少年の姿だ。
その少年の名を思い出すことも、そもそもなぜそんな記憶が蘇ったのかと疑問に思うこともなく、椎名はそこで意識を手放した。
恐らく地面に倒れ込んだはずだとは思うが、その衝撃を味わうこともなかった。
見失うことへの心配は、それほどしていなかった。なにしろあれだけの巨体で、飛ぶ速度自体もそれほどではないのだ。体表が黒いために夜闇に紛れ易くはあるだろうが、走ってさえいればいずれ追いつけるだろうと菜緒は踏んでいた。
だから空を飛ぶ黒い竜の後を追いながら、菜緒が考えていたのはまったく別のことだった。
(さっきの、背中の――)
実を言えば、完全に忘れ去っていた。たったさっき目の当たりにするまで、本気でそのことを記憶の中から追いやってしまっていた。
――有紗の背中に浮かんだデジタル・デビルのシンボルを、自分は以前に一度だけ目にしている。
もう一年近く前の話だ。一緒に入浴した際、痛々しい傷痕が彼女の肌を抉っていたのを見た憶えがある。タイミングを鑑みて、悪魔によるものではなくそれ以前に負った傷なのだろうとその時は思ったのだが。
(形まではっきり憶えてるわけじゃないけど――でも、間違いない)
先程光を放った彼女の背中の模様は、あの時の傷だった――塞がっていたはずの傷口だったのだ。
(じゃあ、あの時もう、有紗ちゃんは――?)
デジタル・デビルに感染していた、ということなのだろうか。本人に自覚症状はまったくなかったようだが、潜伏していたそれがたったさっき、なにかのきっかけで発現した――そういうことなのだろうか。
(……いえ。なにかの、じゃない)
きっかけは明白に過ぎる。悠介の死だ。他にあのタイミングで発生したきっかけになり得るものなど存在しない。精神的なショックというのが果たして、潜伏していたデジタル・デビルを喚起させるに足るものなのか、という疑問は残るが。
だがそれを問うなら、そもそもデジタル・デビルが「潜伏」しているという時点で異例としか言いようがなかった。デジタル・デビルが生物との融合を図るのは、その生物が持つ生体マグネタイトを横取りするために他ならない。デジタル・デビル側の情報量が不足しているために悪魔化に至っていない(少なくとも外見の上では)椎名とは違い、こうして目の前で実体化もしている――なので情報に欠損があるということでもなかったのだろう。つまり有紗と融合し、その上で生体マグネタイトを喰わずにいたということになる。
(――そんなこと、あるのかしら)
ない、と断言することに躊躇いはなかった。そのためのデジタル・デビルだ。生まれ落ちることを拒否する生命などいない。生まれたことを後悔する生物がいるだけだ。
あるいは。
(有紗ちゃんが、デジタル・デビルの実体化を食い止めてた、とか)
それならば多少の自覚があって然るべきなので、益々考えにくい。なにかしていたというのなら、悠介の手によるものだと仮定した方がまだ説得力があるだろう。彼には他の人間にはない力があったのだから。即ち、悪魔召喚プログラムが。
(…………でも)
彼は死んだ。
自分の目の前で、疑問など抱ける余地もないほどにはっきりと、明確な死を迎えた。それも――
(わたしと椎名くんを……助けようとして)
無謀だった。悪魔が悪魔を殺そうとしているところへ、生身の人間が立ち入ってきたのだ。無事で済むはずがなく、そして事実、無事では済まなかった。生命を落とすという、最悪の結果しか待っていなかった。
誰の目にも明らかな死の危険に、それに抗う術を持たない者が飛び込んだのだ。正気を疑われるか、思い切り笑われるか、どちらかは免れないだろう――奇妙なことに、どちらもあの場で実践した者はいなかったが。
賭けですらない、失敗することを前提とした愚かな行為だ。しかもその失敗が、自らの死という最も取り返しのつかない事態に直結していたのだから、錯乱していたのだとしか思えない。真っ当な判断力を失っていたのだとしか思えない。
ぐるぐると、頭の中であの時の彼の行動を非難する言葉が駆け巡る。愚かで無謀で、そして無意味なことをしたのだと、自分の中の最も冷静な部分がそう主張している。同時に、馬鹿なことをした馬鹿な少年がひとり、意味もなく死んだだけなのだから、そんなことはどうでもいいと、取り合う必要のないことなのだと、そう客観的に捉えてもいる。
だが。
(馬鹿だわ、本当に……どうしようもない馬鹿。あなたが死んでどうするのよ)
湧き上がってくるのは嘲りでも侮蔑でもなく、悔恨だった。彼があんな馬鹿げた真似をしでかした、それ自体を悔やむ念だった。
人間である彼が死んで、血に飢えた悪魔である自分が生き延びてしまった。人間を食い殺す悪魔を助けた、ということだ。
(椎名くんだけを、っていうなら、まだわからないでもないのに)
やはりどう考えても、割に合わない。彼の採った選択肢は、それこそ誰もが納得するほどに間違っているだろう。大袈裟な物言いではなく、すべての人間に彼を非難する資格がある。
――人間でなく、なにより彼に助けられてしまった自分にのみ、その資格がない。彼を非難することができない。彼の行動がどれだけ愚かしく、無益なものであろうが、自分だけはそれを責めることができない。その事実が一層に苦々しいものをこちらの胸中に鎮座させていた。
(……いえ)
走る速度を危うく落としそうになり、菜緒はかぶりを振った。気を取り直す――というより、考え直す。
(わたしはもう悪魔なんだから、どうでもいいことよね。勝手に死んだ人間に負い目を感じる必要なんてない)
だが、それならばこうして悪魔に変じた有紗を追っているのはなぜなのか。なんのためなのか。
悪魔ならばいくらでもいる――自分も含めて。目の前で飛んでいるのはそんな悪魔の中のひとつに過ぎず、こちらに危害を加えるのでなければ無視するか、あるいは生体マグネタイトを奪うための獲物にするだけだ。わざわざ追いかける理由などないはずだった。
そう、少し視線を向ければ、悪魔などいくらでも見つけられるのだ。現に今も、いくつかの影が空を――
「――え?」
思わず、声が漏れる。何の気なしに動かした視線の先で、目の前にいる竜よりも明らかに小さな影がいくつか、街の中へ降り立つのが見えた。
悪魔、だろう。パラシュートもなしに空から降下してくる人間というのは、およそ考え難い。
(そういえばさっき、街の壁が――)
悪魔を阻むために椎名が築いていたという壁が、消失したようだった。その後に竜が月を消し飛ばしたインパクトが強烈過ぎて忘れかけていたが、この街は今、悪魔に対してまったく無防備な状態なのだ。そしてそれを見逃すはずもなく、呆れるほど迅速に悪魔がやって来たということか。この街に集っている人間を喰らうために。
だが、こちらを狙ってくるようなことがない限りは、どうでもいい存在だった。向かってくるなら返り討ちにすればいい。街の住民が悪魔に襲われて殺されようと、知ったことではない――まあ、餌を減らされるのは困るが。
悪魔は次第にその数を増していき、やがて街のあちこちから悲鳴も聞こえ始めた。
(……一年前を思い出すわね)
言うまでもなく、悪魔が出現した直後の出来事だ。あの頃はまだ人間が集まっている場所というのがそれなりにあったし、避難先の学校が夜になって悪魔の集団に襲われた時などは、正しくこれと似通った状況だったと言える。今となっては数百人規模で人間が暮らしている場所など皆無に等しいので、この街が他と比べて異常なのだと言うこともできるが。
――あの頃の自分は、ただ悲鳴を上げるしかない人間達のひとりだった。悪魔に抗し得る手段など持ち合わせているはずもなく、逃げ惑うしかなかった。そして逃げた先で、今度は自分が殺して喰らう側になった。
(いや――違う、か)
なったのではない。無力で矮小で狭量な小娘でしかなかった人間の相澤菜緒は、それを最後まで改めることなく、あの晩に死んだのだ。なんの力もないくせに思い上がっていたがために、この上なく無様な死に様を晒したのだ。死んだのだから、もうどこにもいない。
ここにいるのはそれと同時に生まれた、ただの悪魔だった。惨め且つ無意味に死んだ女とは別人だ。断じて、同じなどではない。
などと、こちらが夢想じみたことを考えていると。
(――!)
街へ降りようとしていた悪魔の影が二つほど、向きを変えるのが見えた。どちらも人間に蝙蝠の翼が生えたような悪魔だ(肌の色は明らかに人間のそれではないが)。
――こちらに向かっている。
(人間よりも、こっちの方に狙いをつけたの?)
悪魔にまともな思考など期待するだけ無駄だろうが――自分が良い例だ――それでも判断を誤ったと言うしかない。人間より狩り易い相手だとでも思ったのだろうか。
が、すぐに気づく。方向転換した悪魔達が狙っているのはこちらではなく、前方を飛ぶ竜の方だった。
「――有紗ちゃん!」
思わず、少女の名を呼ぶ。今となってはそれが正しいのかどうかも怪しい名前だが。
こちらの声に反応したのか、もしくは呼びかけるまでもなく気づいていたのか、竜はゆらりと首を上げ、飛来する悪魔へと視線を向けた。
菜緒はその顔を窺ったが、なにを考えているのかなど読み取れるはずもなかった。爬虫類じみた造作であり、口しかなかったヘカーテのそれよりも更に表情を把握しづらい。黄金色に輝く目を細めるようなこともなく、無造作に口を開き――
光が奔った。
(え!?)
一瞬だった。竜の口から走った音を伴わない雷光のようなものが、空を飛ぶ悪魔の身体を飲み込むまで。といってもまったくの無音だったわけではなく、稲妻にしては控え目な音だったというだけのことだが。
光に撃ち抜かれた悪魔は空中に浮いたまま、細かな粒子となって溶けるように消失した。先程のヘカーテと同じだ。それ以上細かくできないところまで分解されたのだろう。つまりは情報に。
もう一体の悪魔がそれを見て、動きを止めた。怯んだのかとも思ったが、しかし悪魔にそんな機能――恐怖を感じる本能、という意味で――があるのかどうかは怪しいところだ。単にこの黒い竜を餌にするのが不可能であると、その事実を冷静に理解しただけなのかもしれない。
まあ、だからと言って結果が違ったりはしなかったが。
身を翻して街へと降りようとしたところを、先程と同じように竜の吐き出した光に背中から貫かれた。羽ばたかせていた翼を止め、そのまま落下しつつ周囲の景色に紛れ込むようにして消失する。
――街へと降りようとした悪魔を狙い撃ったのだから、至極当然の話ではあるが。
竜の吐き出した光は悪魔だけでなく、その向こう側にあった建物をも打ち据えていた。
(な……)
その建物自体に、取り立てて目を引くような要素があったわけではない。この国のどこにあったとしてもおかしくない、ただの家屋だ。人が住んでいたかどうかまでは、この位置からでは判別できないが。
それが。
今の悪魔やヘカーテと同じように、なんとも形容のし難い粒子へと分解されていった。粒子は空へと上っていき、やがて見えなくなる。家屋が一軒、丸ごと消えて無くなるまでに、十秒もかからなかった。
それを呆然と見届けながら、菜緒は。
(生き物だけじゃ、ない……?)
背筋にうすら寒いものを感じつつ、空中の竜へと視線を移す。
やはり、竜はこちらを見ていなかった。しかし消滅させた建物の方を見ているわけでもない。天を仰いでいた。
がすぐに顔を下ろし、眼下の街を睥睨する。なにを考えているのかなど、わかるはずがない――わかりようがない。絶望的なまでに、その表情から思考を読み取ることができない。
そして、翼をはためかせたまま、ゆっくりと。
自分の下に広がる街並みに向かって、再び口を開いた。