他人に下の名前で呼ばれることがなくなったのは、いつ頃からだっただろうか。
記憶を探ってみても、具体的な時期というのが思い出せない――それは恐らく、自分が明確に拒んだわけではないからだろうと椎名は踏んでいた。
割と珍しく、そしてそれなりに恥ずかしい名前ではある。昔は嫌ってすらいた。下の名前で呼ばれることには抵抗があった。が、そう口に出したことはない。苗字で呼ぶよう誰かに頼んだ覚えはない。
にも関わらず、気が付けば周囲に自分のことを名前で呼ぶ人間はいなくなっていた。こちらが嫌がっていることを察してくれたのか、あるいは呼ぶ側としても口にすることへの抵抗がある名前だったのか。
やがて成長して環境が少しずつ変わっていくと、そもそもこちらの名前など知らないという人間の方が多くなっていた。まあそんなものだろう。自分だって姓と名を両方記憶している相手というのは、どちらかしか知らない相手よりも圧倒的に少ない。
そんなものだ。興味のない相手の名前など、そんな程度のものでしかない。
――最近は姓ですら呼ばれることがなくなりかけていたのだが、こちらの時期はそれなりにはっきりと記憶している。聖堂騎士団を組織してからだ。
望んだわけでもなく組織の長という役職に就いてしまい、その時から自分を苗字で呼ぶ人間はほぼいなくなった。肩書きで呼ばれることがほとんどになった――即ち、団長と。それでも以前と変わらず椎名と呼んでいたのは萌衣くらいで、後は先日再会したばかりでこちらの境遇を知らなかった悠介や有紗、それに菜緒だけだった。そう言えば萌衣はこちらの下の名前など知らないが(教えていないのだ)、悠介達は知っているのだったか。一年前に、菜緒が口を滑らせたせいで。
それで良かった。この街にいる限りは、そしてこの街と聖堂騎士団が存続する限りは、自分はテンプルナイト達の長でいい。椎名兎という私人である必要はない――そうあることに、害はあっても益はない。
なので椎名は、団長と呼びかける声が自分に対してのものだとまったく疑わなかった。先程から何度か聞こえていたような気がするのだが、ようやく聞き取れる程度の声量になったらしい。まあ実際のところ、問題があったのは呼びかける声の方ではなく、それを聞いていた自分の耳だったのだろうが。
椎名は目を開いた。
「――団長! よかった、気が付かれましたか」
視界が開けると同時に、目の前には見覚えのあるようなないような顔が待ち構えていた。それですぐに把握する。聖堂騎士団の団員だ。テンプルナイトの顔をいちいち全部記憶しているわけではないので、大体の団員に対してはこういった印象になってしまう。確か、照明を持ち出させたうちのひとりだったとは思うが。
倒れていたらしいと理解するや否や、椎名は上体を起こした。それだけで途方もない疲労を感じたが、歪んだ表情は顔に巻いた包帯が隠してくれるだろう。部下に対してやつれきった顔を見せてしまうのは、聖堂騎士団の発足以来ずっと戒めてきたことだ。
「……状況は?」
それでも立ち上がることができるほどには回復していないのだとこれも即座に理解し、椎名は周囲へと視線を動かしながら尋ねた。まず気絶していたことを理解し、続いて気絶する直前までの出来事を思い出す――大して時間がかかるわけでもなく、すぐに倒れ込んだ場所からほとんど移動していないことにまで理解は及んだ。地下鉄の入口から程近い位置だ。
尋ねられたテンプルナイトの男は、こちらよりも遥かに動揺しているようだった。
「あの、どう説明すればいいのか――」
「なら質問に応えろ。俺はどのくらい気絶していた?」
しどろもどろになりかけていた男の言葉を遮り、即座に尋ねる。
が、すぐに気付いて言い直した。
「……いや、俺達が出動してから、どれくらい経っている?」
「あ、えっとそれは――十五時間、かな。それくらいだと思います」
少し考え込んだ後、男が答えてくる。
椎名は。
(……最悪だ)
胸中で毒づいた。
夜が明けているのは周囲の様子を見れば一目瞭然だったのだが、それでも何日も意識を失っていたわけではないらしい。死にかけていたことを考えれば、むしろよくその程度で目が覚めたものだとすら思う。
だがそれでも尚、状況は最悪としか言いようがなかった。有り体に言って、聖堂騎士団発足以来最大の危機であることに疑問の余地はない。
自分の迂闊さを心底から呪いながら――迂闊でなければ防ぐことのできる事態だったかどうかは、この際どうでもいい――椎名は次の質問をした。
「街に悪魔は入り込んでいるか?」
「は、はい。一体どうして急に――今まで、悪魔は入って来なかったのに」
悲嘆するような口調で言ってくる男に、しかし椎名は取り合わなかった。更に次の質問をする。
「住民の避難状況は? 相手は悪魔だが、武装盗賊に襲撃された際のプランに沿って避難させているな?」
「一応そのはずなんですが……何分、混乱していまして。避難状況までは――」
「わかった。これ以上の状況把握は自分でやる」
質問を切り上げて、椎名は立ち上がった。腿ががくがくと震えるが、筋力だけでそれを抑え込む。ちゃんと二本の脚で自立できたのはなにかの奇跡かもしれない。
苦痛に歪んだ顔は包帯が隠してくれているに違いないと期待しつつ、もう一度周囲に視線をやる。倒れているのは自分だけではなかったらしく、数人のテンプルナイトが横たわっている姿が目に入った。
「あいつらは?」
「自分もそうですが、あの時に気絶してしまったんです。何人かはもう目を覚ましたんですが、彼等はまだ――」
それを聞いて、椎名は眉をひそめた。
(こいつらも?――俺と、同じように?)
倒れているのは、昨夜椎名と共に出動した団員達だった。有紗の変じた悪魔に気を取られて気付かなかったのだが、彼等も自分と同じように気を失ったということか。
(まさか……)
猛烈に悪い予感が脳裏を過る。考えたくはないが、しかし考えないわけにもいかない。
「あ、団長、どちらへ?」
歩き出したこちらの背後から、男が声をかけてくる。しかし椎名は答えず、重くてたまらない身体を引きずるような心持ちで歩みを進めた。それほど離れているわけでもなかったので、すぐに目当ての場所が見えてくる。
昨夜の爆発で穴の開いた地面から、椎名は地下を覗き込んだ。一応消火活動はしたのか、既に火は消えている。焦げ跡の残る床の近くに――石となった悠介の残骸と、そしてケルベロスの姿があった。
「団長、危険です! そっちにはあの悪魔が!」
こちらを追って来た男の声にはやはり耳を貸さず、椎名は昨日までは悠介だったものと、その傍らに伏せたまま動かないケルベロスの姿を眺めた。流石に気付いたらしく――まあ気付かない方がおかしい――ケルベロスが閉じていた目を片方だけ開けて、こちらへと向けてくる。
(……あれは、どういうことだ)
既に死体とすら呼べない状態になっている悠介の成れの果てを見下ろしながら、椎名は再び眉を傾けた。
人間が石になるところというのは、実際に目にしたことがある。無論、普通ならばそんなことはあり得ないのだが、悪魔の手によるものであれば話は別だ。なので無論、自分が以前に見た石に変えられた人間というのも、その原因は悪魔だった。視線で射抜いた相手を彫像へ変えると伝えられ、そしてその伝説の通りに実体化した、メデューサがそうだ。
――そう、悪魔によるものならば、あり得る事態だった。人間が石になるなどというふざけた話も、笑い飛ばせるものではなくなる。
だが、それならば。
(どこにメデューサがいたってんだ。あの時あそこにいた悪魔は三体だけだ)
自分を含めても四体だけで、そして当然自分に寄生しているデジタル・デビルにそんな芸当はできない。仮にできたとしてもやらせる理由がない。
(ってことは――やっぱり、そういうことか?)
たったさっき感じた悪寒が確信に変わる。この上なく喜ばしからざる結論が速やかに導き出される。
椎名はその場で振り返り、
「おい」
「はい?」
声をかけると、男はすぐに返事を寄越してきた。椎名は地下へと親指を向け、
「あのウェアラブルPC、回収しておけ」
「はい――は、え?」
こちらの言葉に頷きかけ、しかしそこで言葉を切る。
男は目を白黒させ、こちらとこちらの指差したものとを交互に眺めながら、聞いてきた。
「え? あの、え? ど、どういうことですか?」
「あそこの死体――死体みたいな石像がつけてるだろう。腕に巻いてるやつだ。あれを回収しておけと言っている」
「しておけ、って――」
恐る恐るといった様子で、男が地下を覗き込む。こちらを見上げていたケルベロスと視線があったのか、すぐに顔を背け、
「すぐ傍に悪魔がいるじゃないですか! 無理ですって!」
ぶんぶんと首を振って言ってくる。考えてみれば至極当たり前の反応だったのだが、椎名は告げた。
「あの悪魔は襲って来ない。危険は――いや、いい。わかった。俺が行く」
説明しかけたものの時間が惜しく――面倒になった、というのもある――椎名はもう一度穴に向き直った。そのまま、地下へと飛び降りる。
「団長! 危険ですよ!」
身長以上の高さを自由落下した衝撃がただでさえままならない両脚を脅かしてくるが、その痛みも頭上から聞こえてくる部下の声も、椎名は無視した。どうにか転倒することだけは避けて、ケルベロスと悠介の死体の方へと歩いて行く。
間近まで迫っても、ケルベロスは動かなかった。先程から変わらず片目だけを開いてこちらを見上げてはいるが、立ち上がりもしなければ吠え立ててくるようなこともない。
椎名は悠介の死体の傍らに屈み込むと、その腕に巻かれているPCのベルトを外した。悠介が倒れた際にどこかをぶつけて故障している可能性もあるが、取りあえず見た目に損傷らしい損傷はない。
外したPCを持ったまま立ち上がり――そしてまったく唐突に、椎名は気付いた。
「……そうか、お前」
ケルベロスへと視線を落とし、声をかける。
「悠介が死んだから――悪魔召喚プログラムを操作する人間がいなくなったから、プランクの姿に戻れないのか」
こちらの言葉に、ケルベロスが返事をするようなことはなかった。ただ開いていた片目を少しの間だけ閉じ、また開き直しただけだ。身じろぎもしない。
(生体マグネタイトの消耗を抑えてるのか)
少なくともそう判断できているのなら、まだ理性――あるいは、プランクとしての意識――はあるのだろう。プログラムからの命令なしに勝手な真似はできないということなのかもしれないが、悠介が死んだという事実は把握していないのだろうか。
椎名はPCを掲げて見せ、告げた。
「ついて来い、ケルベロス。ひょっとしたら、俺が次の主人になるかもしれん」
そこでようやく、ケルベロスの首がぴくりと動いた。両目を開き、こちらの手にしたPCへと視線を向ける。これが自身の生命線に他ならないと、その一点に関しては理解しているのだろう。
(もっとも――)
悠介が死んだからと言って、自分にこれが――悪魔召喚プログラムが扱えるのかと言えば、疑わしいところではある。
確か、生体マグネタイトの認証によるロックが掛かっていて、他の人間には扱えないというようなことを悠介は言っていた。なので彼の生体マグネタイトが失われた今、この中にある悪魔召喚プログラムが誰にも開けない無用の長物と化してしまっている可能性は大いにあるだろう。
だがそれでも、そう判明するまでは放置しておくわけにはいかないし、なにより――このままケルベロスがプランクの生体マグネタイトを喰い尽くしてしまえば、残るのは理性を失った単なる悪魔だ。流石にそうなってまで律儀にプログラムからの命令を待っているとは思えず、この街の住民にとって脅威となる公算が高い。
つまりは、殺すしかなくなる。その時のために、なるべくこちらの目の届くところにいてもらった方が都合が良かった。とは言え、容易い相手ではないだろうが。
プログラムの持ち主でもない自分の言葉を聞き分けるかどうかはわからなかったが、しかしケルベロスはその場から立ち上がると、歩き出したこちらの後をついて来た。一応、理解はしたらしい。
苦慮しつつ壁を伝い、地上へと戻る。同じく上ってきたケルベロス(こちらは難なく登った)を見て、テンプルナイトの男が目を剥く。
「団長!? その悪魔、平気なんですか!?」
「そう言っただろう。いやまあ、今のところはな」
予想していた通りの反応をされ、椎名は適当に受け流した。倒れている他の団員達が目を覚ましたら合流しろと告げて、さっさと歩き出す。
(こいつの解析もしたいが、それよりまず、体調をどうにかしないとな)
こうしている間にも、街へと侵入している悪魔は増える一方だろう。一刻も早く壁を張り直さなければならないが、そのためには生体マグネタイトの確保が最優先だった。実際のところ体調は倒れる直前と比べて気休め程度にしか戻っておらず、ただ歩くだけでも尋常でない疲労が伴う。
(生体マグネタイトの確保、か)
ちらりと、後ろで立ち尽くしている男の方を見る。
(相澤の言った通り――人間を喰えば、すぐにそれができるか?)
男は自分について来ているケルベロスが気になって仕方がないらしく、こちらの視線には気付いていない。自分のすぐ近くに二体の悪魔がいるなどと、予想もしていないといった様子だ。
――菜緒はああ言っていたが、本当に外部から摂取することで生体マグネタイトを補えるのかどうかは怪しいところだと、椎名は考えていた。なにしろ自分の身体はほぼ人間のままで、菜緒やプランクのように肉体までが変質しているわけではないのだ。摂取した生体マグネタイトを、自分のものとして取り込むための器官が存在しない――菜緒やプランクの体内にそんなものが存在するのかは知らないし、そもそも生体マグネタイトというもの自体、なにをどうすれば取り込めるのかわからない極めて曖昧なものでしかないが。
生物と生物でないものを比較して、前者のみが持っているもの。生物が生物たる所以。それが生体マグネタイトだ。そんなあやふやな定義による概念が、生体マグネタイトと名付けられた情報の全てだった。
誰が名付けたのかは知らない。少なくとも悠介ではない。悪魔召喚プログラムを組み上げた誰かかもしれないし、ひょっとしたら人間が悪魔というものを想像したその時から、誰ともなく言い出したのかもしれない。
椎名は軽く頭を振って、益体のない思考と馬鹿げた夢想を振り払った。人間を喰ったところで生体マグネタイトの補充ができるとは限らず、そもそも殺人は犯罪だ。この街にあっては自分がそう決めたし、それ以前からも皆が口を揃えて言っていた。法を犯すことを犯罪と言い、殺人はそれに当たる、と。
この街に壁を張り直すのが目的であっても、それは変わらない。ルールを覆すわけにはいかない。この街の法を犯すことは、つまるところこの街の成り立ちそのものを否定することに他ならないのだから。
街のあちこちからは主に銃声と、たまに悲鳴が聞こえていた。時間を考えれば避難はそれなりに進んでいるはずだが、それでもすべての住民が、というわけにはいかないのだろう。銃声が聞こえるということはテンプルナイトが悪魔と交戦しているのだろうが、基本的には盗賊のような人間を相手にすることしか想定していない彼等がどの程度までやれているのか、あまり想像はしたくなかった。壁が消えて既に十数時間、かなりの被害が出ているには違いない。
幸いにも悪魔と遭遇することはなく、目的地へと辿り着いた。聖堂騎士団の詰所だ。今はテンプルナイトだけでなく、避難してきた住民で建物の周辺がごった返しているようだが。
「団長! ご無事でしたか!」
こちらの姿を見つけた部下のひとりが即座に駆け寄り、声をかけてくる。それで気付いたのか、他にも数人のテンプルナイトが人ごみの中から出てきた。
椎名は後ろを歩いていたケルベロスに止まるよう手で示してから、詰所の方へと歩み寄った。が、口を開くよりも早く。
「おい、どうなってんだ! なんで悪魔が入り込んでるんだよ!?」
その声は、集まっている人々の中から聞こえた。そちらを見やる――が、こちらへと視線を向けている者の数が多く、誰の発したものなのかまでは判別できない。
だが、明らかだった。向けられた視線はほぼ全て、非難の色に染まっている。
「ここには悪魔は入って来ないんじゃなかったのか!? 話が違うじゃないか!」
「そうよ! 私達、そう聞いてたからここに来たのに!」
「テンプルナイトの連中はなにやってたんだ! ちゃんと守ってたのか!?」
次々に声が上がる。どれが誰のものかはわからないが、わざわざ区別する必要はないだろう。
横目で見やると、部下達の多くはうんざりしたような顔か、あるいは同情するような顔をこちらへ向けていた。既に似たようなことを何度も聞かされているのだろう。中には騒いでいる者達と同じくこちらを責めるような表情もあったが、それも無理からぬことではある。
一頻り怒号を聞いてから、頃合を見計らって椎名は彼等の方へと進み出た。口を開こうと――した瞬間に。
「シスター・メイはどうしたんだ! どうして姿を見せてくれない!?」
誰かの口にした、その疑問が。
僅かながらに沈静しようとしていた騒ぎを、再び掻き立てた。
「そうだ、シスターはどうした!? どこにいるんだ!」
「まさか、逃げたんじゃ――」
「馬鹿を言うな! あのひとが俺たちを見捨てて逃げたりするものか!」
「じゃあ、悪魔にやられちまったのか!?」
またしても騒然となり、ついでに先日の事情を伝えられていないテンプルナイト達にも伝播したようだった。
椎名は舌打ちし、
(ちっ――よりによって、こんなタイミングで公表するハメになるとは)
すっと、片腕を差し出した。それですぐに騒ぎが収まったわけではないが、こちらがなにかを言おうとしているのはわかったのだろう。徐々に静まっていく。
ある程度黙ったところで、椎名は腕を下ろした。そして。
「シスター・メイは死んだ。悪魔に殺された」
声を荒らげるようなことはせず、はっきりと告げた。
――完全に静まり返っていたのは、どのくらいの時間だったか。数えていたわけではないが、体感では五秒くらいだったように思う。
やがて、誰かがつぶやくのが聞こえた。
「死んだ……?」
それを皮切りに、あちこちから先程までこちらを責め立てていたものとは違う声が上がり始める。
「シスター・メイが死んだ……あのひとが……」
「じゃあやっぱり、悪魔が入ってきたのはそのせいなのか……?」
萌衣の死を悼む声と、それよりはもう少しだけ冷静に現状の分析をしようとしているらしい声が聞こえてくる。
(悪魔の侵入を阻んでたのが萌衣のヤツだって、そう思い込んでた連中か。……意外と多いな)
実態を公表していなかったのだから、これも仕方のないことだろう。が、この期に及んで勘違いされていては都合が悪い。
「悪魔を防いでいたのはシスター・メイの奇跡などではない。我々、聖堂騎士団の尽力によるものだ」
椎名が再び口を開くと。
え? というような顔をしたのは、市民だけではなかった。一部のテンプルナイトすら、驚いたようにこちらを見ている。
――まあ、言いたいことはわかっているつもりだった。なのでそれを言わせぬよう、すぐに後を続ける。
「確かに街の中へ入り込まれはしたが、こうしている間にも各所で聖堂騎士団が奮戦している。この街と、そして住民の生命を守るのが我々の任務だ」
正直なところ、こうして大勢の人間に聞かせるための声を発しているだけで猛烈な疲労が伴う。だが、説明せずに彼等を納得させることもできない。そして住民を納得させられなければ、法というものは拘束力を失効してしまう。
「責任の追及は、事態の鎮静を成し遂げてからいくらでもしてもらいたい。無論、聖堂騎士団のあらゆる失態は、責任者である自分のそれと同義だ。そうだな、今のうちに意見書なり陳述書なりを纏めておいてもらえれば、裁判を含めた事後処理が円滑になるだろう」
ざわざわと、避難民やテンプルナイトが互いに顔を見合わせながらなにかを言い合っている。その様子を軽く眺めてから、
「今は街に入り込んだ悪魔の撃退が最優先であると、その点を承知してもらいたい。混乱はするべきではない。それは一年前に誰もが思い知っているはずだ」
当たり前だがテンプルナイトも含めてここにいるほぼ全員、一年前の出来事を経験している――もなにも、悪魔の脅威は現在進行形であり、断じて過去のものなどではないのだが。それでも悪魔を寄せ付けない壁に囲まれた場所で暮らしていれば、危機感が薄れるのも当然のことと言えた。もう一度、それを思い出させなければいけない。
椎名は視線をテンプルナイトの方へと移した。
「これから対策会議を開く。出席できるものは出席しろ。それと――ケルベロス」
振り返り、待機させていたケルベロスへと声をかける。間を置かずに白銀の獣がぬっと姿を見せた。
避難民やテンプルナイトの間に動揺の色が上がるが、椎名はすぐに口を開いた。
「警戒する必要はない。この悪魔は敵じゃない――今のところはな」
手招きをしてケルベロスを近寄らせると、椎名は詰所に向かって歩き出した。周囲はまだざわついていたが、ケルベロスはそんなものも向けられる視線もまったく気にした様子もなく後をついてくる。ある意味、自分以上だ。
(大したタマだよ)
そのケルベロスの更に後から、躊躇しつつも何人かのテンプルナイトが建物に入って来る。椎名は先頭を歩きながら、
(対策、か)
そんなものがあるのか?
誰にも聞かれぬよう胸中だけで、椎名はつぶやいた。
部下達は既に会議室――とは名ばかりの、やや広めのスペースにパイプ椅子を並べただけの代物だ――に集まっているはずだったが、椎名はケルベロスと共に別室にいた。理由は簡単で、流石にケルベロスを同席させる必要はないからだ。
血で汚れた服を着替えてから、視線をケルベロスへと落とす。
「ここから出るなよ。腹は減ってるだろうが、我慢してくれ」
告げるが、ケルベロスはなにやら微妙に不満そうな目でこちらを見返していた。まあ言っている本人が眼前で携帯食料を頬張っているのだから、文句のひとつやふたつはあるかもしれない。
パック入りのゼリーで口の中のものを流し込み、椎名は息を吐き出した。まとめてゴミを部屋の隅のゴミ箱へと服ごと放り込み、もう一度ケルベロスを見やる。
「死にかけてたのは俺も同じなんだ。それに対策を練ろうにも、まず壁を張り直さなけりゃ話にならん。お前の分のメシは――考えとくさ」
カロリーを摂取したからと言ってすぐに体力が戻ってくるはずもなく、椎名はまだ覚束ない足取りで部屋の扉へと向かった。ケルベロスは一応了承してくれたのか、渋々といった様子で床に伏せている。
理性を失って周囲の人間を手当り次第に食い殺すような事態になる前に、こちらも対策を考えなければならないだろうと考えつつ、椎名は部屋を出た。会議室はすぐ傍だ。
「待たせたな」
扉を開き、椎名は室内の様子を見渡した。
「……これだけか」
室内に並べられた椅子は、空いているものの方が多かった。出席している部下の人数は、精々十人程度だろう。
「申し訳ありません。避難民の誘導に人員を割かれている上、連絡の取れない者も多いので……」
ひとりが椅子から立ち上がって言ってくるが、椎名は手を振ってそれを制した。
「構わん。だが、後で必ず全員に通達しておけ」
告げてから、全員が見渡せる位置の椅子に座る。
一呼吸置いてから、椎名は口を開いた。
「まずは状況の把握が必要だな。人的被害はどのくらいになっている?」
部下のひとりが椅子から立ち上がる。
「確認できている限りですが、聖堂騎士団の死者が八人、負傷者が五十一人です。そのうちの約半数は軽傷で、任務の続行に問題はないと思われます。続いて市民の方は――」
(……先に市民じゃねえのかよ)
手に持った書類を捲りながら報告してくる部下の姿を見ながら、椎名は誰にも聞かれぬようこぼした。無論、口には出さない。
「その、正直に言えば……不明です。間違いなく被害は出ているはずですが、そもそもまだ避難すら完了していない区画もあります。合流は……絶望的、かと」
「街に入り込んだ悪魔の数は?」
質問を変えると、今度は別の部下が立ち上がった。
「撃退したものを含めても、五十には届かないと思われます。もちろん、この街の住人を残らず殺すのに十分な数であることは、言うまでもありませんが」
「だろうな」
お釣りが来るだろう。生身の人間が悪魔に立ち向かえるものではない。
――自分や菜緒も、悪魔になる以前は生身で悪魔を相手にしていたわけだが。
(あんなもん、運が良かったってだけだ。相手にしてたってより、逃げ回ってただけだしな)
以前のことを思い出しかけるが、すぐにそれを振り払う。無様な過去のことなど、今はどうでもいい。
「一体、黒い竜みたいな悪魔はいるか?」
尋ねると、報告していた部下はなぜか口籠もった。手元の書類から顔を上げ、こちらを見返してくる。
「どうした? 象くらいの大きさの、竜というか、羽の生えた鰐みたいなやつだ」
昨晩見た、有紗が姿を変えた悪魔の特徴を告げる。
「それが――」
やや間を置いてから、言ってきた。
「確かに、いました。自分も目撃していますし、他にも多くのものが目撃しています。他の悪魔や建物に対して攻撃をしかけていたのですが……」
そこで一旦区切ってから、後を続ける。
「何時間かした頃に、突然消えてしまったんです」
それを聞いて、椎名は眉をひそめた。
「消えた?」
「ええ。どこかへ飛び去ってしまったとかではなく、こう、ふっと。それ以後、一度も出現は確認されていません」
捜索したわけではないのですが、と言いにくそうに続けてくる。それはいい。そんなことに割ける人員はなかったに違いないのだから。
(消えた、だと?)
顎に手を当てて、椎名は更に眉をひそめた。
考えられることは、いくつかある。それらを裏付ける根拠も、ないではない――目の当たりにしたし、身を以て味わいもした。
(確かめたいところだが、そんな暇はないか)
憶測を立てたところで、優先すべき事項は変わらない。椎名は椅子から立ち上がった。
「よし。とにかくまずは、住民の避難を完了させることが肝要だな。並行して、戦力の立て直しを図る。動けるテンプルナイトの人数と、即時確保できる武器の数をリストアップしておけ」
「わかりました」
他の団員達も椅子から立ち上がる。
わざわざ見返すまでもなく、彼等の表情には一様に不安の色が浮かんでいた。なにを考えているのかは想像がつく――人手を結集したところで、悪魔相手に太刀打ちできるのか、と懸念しているのだろう。こちらと同じように。
だから、というわけではないが。
「最前線には俺が行く。通常兵器で悪魔を相手にするのは、骨が折れるからな」
宣言すると、何人かの部下が目を剥いた。
「え……団長が、直接ですか?」
「できれば、残って指揮を執って頂いた方が――」
情報を共有できない状態がどれだけの苦境であるか、それを思い知っているのだろう。諌めるように言ってくるが、椎名はかぶりを振った。
「切り札というわけでもないが、俺には悪魔に対してそれなりに有効な得物がある。温存しておくのは戦力の無駄だ」
もっとも悠介から渡されたあの刀にしても、普通のものより切れ味が良いという程度のものでしかないが。
「可能な限り、こっちに回せ――悪魔は、俺が殺す」
それで部下達の不安を取り除けたはずもないが、しかし反論は上がらなかった。解散を告げてやると、ぞろぞろと部屋から退室していく。
自分以外の誰もいなくなってから。
椎名はため息を吐き出した。
(確かに――切り札ってほどのもんじゃねえな)
例えばあの刀が部下達全員に支給できるほどあったとして、それで状況が変わり得るだろうか? 無論、ノーだ。テンプルナイト達は(というか自分も含めて)刀を取り回す訓練など受けていないし、そもそも悪魔に対して距離を詰めるような事態を想定すらしていないだろう。銃を持っているのに、わざわざ刀を持って突っ込んでいくような真似はする必要がない。
(ま、そりゃそうだ。俺が刀なんぞ使ってたのも、単に銃が足りなかったせいだしな。俺だって銃と刀なら、迷わず銃を――)
と、そこまで考えて。
椎名は動きを止めた。はたと思い当たり、思案を巡らせる。
(そうだ――例え悪魔召喚プログラムを使えたとしても、そこは変わらない。俺だけがそれを使えたところで、大して意味がない。この状況を打破する上で、必要なのは――)
物量だ。なによりも今、それが足りていない。押し寄せている悪魔の群れに対して、刀一本ではどうにもならない。自分だけが悪魔と戦えたとしても、意味がない。
ならばどうすればいいのか。
その答えは、いや答えに近いであろうものは、結局のところ悠介が遺した悪魔召喚プログラムだ。人間が生身で悪魔に立ち向かえない以上、やはり悪魔を制するには悪魔の力を借りるしかない。
椎名は部屋を出ると、ケルベロスを待たせていた部屋へと移動した。割と遠慮なく扉を押しやったのだが、ケルベロスは気にした様子もなく床に寝そべったままだ。
椎名はそのまま部屋へと入り、机の上に置いておいたウェアラブルPCを取り上げた。
(……こいつに賭けるしかないか)
分は悪いが、負ければ街に相当の被害が出ることを覚悟しなければならない。現時点で既に被害は出ているが、それすら通り越して致命的なところにまで到るだろう。
こちらがPCを持ち上げるのを見てか、ケルベロスが顔を上げた。心なしか、待っていたようにも見える。
「来い、ケルベロス。こいつを調べる。駄目だった場合は――覚悟してくれ」
やはり、返事はなかった。頷きもしない。ただその場から立ち上がり、こちらの顔を見据えただけだ。
壁に立てかけておいた刀を引っ掴み、椎名は部屋を出た。そのまま建物の出口に向かって歩く。
「あ、団長」
外に出るや、避難民の誘導に当たっていた団員のひとりがこちらを見つけ、声をかけてくる。
流石に黙っていなくなるのはまずかろうと思い、椎名は口を開いた。
「悪いが、俺はしばらく研究棟に籠る。一時間毎に連絡を寄越せ」
「え? あ、はい」
わけがわからない様子だったが(こちらの後ろにいるケルベロスのこともあるだろう)、椎名はそれ以上説明せずに再び歩き出した。避難民からも明らかに不審げな目でじろじろと眺められるが、気にしている暇はない。居並ぶ彼等の横を通り過ぎ、目的の場所へと向かう。
(――と、その前に)
適当に人目のつかないところまで来てから、椎名は立ち止まった。その場で自分の身体を見下ろす。
(完調、には程遠いが……)
少しなりとも食糧を腹に収めたからか、体調は好転の兆しを見せていた。少なくともこうして歩く分にはさしたる支障もなく、疲労もあまり感じなくなっている。
(なら――)
軽く目を閉じる。果たしてそうすることに本当に意味があるのかどうかは知らず、単にこの方が集中できるような気がするというだけだ。
意識を集中する――どこに集中しているのかと聞かれれば、わからないとしか答えようがないが。どこかだ。自分の中のどこかにいるデジタル・デビルにだ。
複雑を通り越して意味不明な演算は、デジタル・デビルに任せるしかない。自分の頭でどうにかできるものではない。先程まで完全に沈黙していたデジタル・デビルはどうにかこちらの生体マグネタイトに反応し、健在であることを示してきた。
それを喜ぶようなことはしない。ただ命令だけを与える。情報の処理を実行するように、と。
以前に一度だけ見せたことのある反応を、デジタル・デビルは今度も同じように寄越してきた。言うまでもなく、初めて壁を展開させた時のそれだ。
――目を開く。見なくともわかっていたのだが、それでも空を仰ぐ。
(よし)
どうにか、成功したようだった。再び悪魔を――実体化した悪魔の情報侵入を遮断する防壁が、街全体を覆っている。これで少なくとも、今以上に悪魔の数が増えることはないはずだ。
(よく考えたら、成功例はたった一度だけだったんだな。今のを含めても二回か)
最初に展開した時は、失敗するかもしれないなどとは思いもしなかった。設定した以上は、そうなるのが当たり前だとしか思わなかった――無意識のうちに、自分に憑依したデジタル・デビルのことを理解していたのだろう。
そしてそれ以来、壁が消えるなどという事態には陥ったことがなかった。昨夜までは。
(俺が死んだら、もう二度と張れないな)
そうなればどうなってしまうのかは、考えたくないし考えるだけ無駄だろう。
だが、心残りがあるとすれば。
自分が死んだ後でも機能するような、そんなルールを、自分はまだこの街に築いていないということだ。
(そうだな――それまでは、また死ぬってのだけはナシだ)
だからと言って、本当になしになどできないが。
椎名は小さく嘆息して、再び研究棟に向かって歩き始めた。