夜が明けてから既に数時間程が経過しているが、具体的な時間まではわからなかった。時計など持っていないし、そもそも必要になることがこれまでほぼなかったからだ。なので太陽の位置からおおよその時間を推し量るしかない。
(昼前、くらいかしら?)
黒く染まりかけているにも関わらず日光を降り注がせている太陽をちらりと見上げつつ、菜緒は見当をつけた。もっとも、今となってはあまり気にするようなことでもない――夜の到来に気を重くする必要はない。なにしろ月がその姿を見せることは、もうないのだから。
昨夜のことを思い出し、菜緒は改めて自分の記憶が確かなものなのかを疑った。目の当たりにしたにも関わらず、今もって信じ難い――月が、消えたなどと。
(なにか、騙されてるみたいな気分ね)
首を動かし、傍らに倒れている少女へと視線を向ける。自分よりも――生前の自分よりも、だ――更に小さな体躯のその少女は身を覆うものをなにも身に着けておらず、仰向けのまま目を閉じていた。気絶しているのか眠っているだけなのか、区別はつかない。
――夜明けから程なくして、有紗の悪魔化がいきなり解けた。
直前まで空を飛んでいた彼女の身体は当然のように自由落下を始め、菜緒は思わず駆け寄って受け止めていた(軽かった)。そのまま適当な建物に入って彼女を横たわらせ、時折付近に現れる悪魔を仕留めたりもしつつ、こうして彼女の目覚めを待っている。
待っている、のだが。
(起きるのを待って――どうするつもり?)
有紗の姿を見下ろしながら、自問する。既に何度となく繰り返したものだった。
放っておけばいい。有紗が悪魔だったからと言って、自分にはなんの関係もない。むしろ悪魔――自分のことだ――の前でこうも無防備な姿を晒しているのだから、殺されたところで文句も言えまい。まあ、言ったところで聞く耳は持たないが。
殺して、喰らえばいい。人間など自分にとっては餌に過ぎず、どころか自分以外の悪魔ですらそうだ。
他者は餌でしかない。思い返してみればそれは悪魔になってしまうよりも以前から当たり前のはずだった事実で、生前の自分が気付こうともしなかった真理だ。履き違えれば死ぬしかない。他者の餌になって、殺されるしかない。事実、自分は正にその通りの結末を迎えたのだ。
(――と言っても)
何度か投げかけた自問に、しかし理性が返してくる答えも同じものだった。
(この子、生体マグネタイトが極端に少ないのよね)
首を傾げつつ、有紗の肢体を繁々と眺める。
――そう言えば悠介や明、亮もそうだが、年齢を聞いていなかった。だから彼女が具体的に何歳なのかはわからないが、それでも同年代の少女と比べて、発育が遅れているように見える。身体つきもそうだし、身長も目に見えて低い。食欲が湧かない程に生体マグネタイトが少ないのは、それと関係があるのだろうか。
考えてみれば、これまでに人間を殺して喰らう際、相手の持つ生体マグネタイトの量など気にしたこともなかった。持っているかどうかが重要なのであり、そして人間であれば生体マグネタイトは例外なく持ち合わせている。生物なのだから当然だ。多少は個人差もあったような気はするが、つまりはその程度だった。
なのだが、有紗のそれは目に見えて――いや、目で見ているのかと聞かれれば、違うとは断言できるのだが――少ないようだった。喰らったところで大して足しにもなるまい。
(それが理由?)
と。
またしても、疑問が湧き上がる。
(食べたって、大してお腹は膨れないから――だから、殺さない?)
だとすればナンセンスだ。というか、理由になっていない。獲物の大小など、これまで気にしたことなどなかったはずなのだから。
(――わたしは)
そこで止まる。他の理由を探そうとして、しかしそこで行き詰まってしまう。
周囲には人間の気配も悪魔の気配もなかった。住民達は既に避難しているらしく、悪魔も今は見当たらない。遠くから時折銃声らしき音が響く程度で、有紗の寝息すら聞こえなかった。
考えることがなくなると、今度は昨夜の出来事を思い出してしまう。と言っても脳裏に焼き付いているのは死ぬ直前の悠介の顔ばかりで、それ以外のことは思い出そうとしなければ思い出せないという程度でしかなかったが。
あれから、自分は一睡もしていない。だが理解している。またひとつ、悪夢の内容が増えたのだと。魘された挙句に飛び起きて、冷や汗に不快感を覚える――その理由が、また増えてしまったのだと。
(どこまで増えるのかしら)
少なくとも、減ることだけはない。それは理解していた。二度目の死を迎えるまで、際限なく増えていくに違いないとも。
げんなりとそう考えたところで。
「う……ん」
足元から聞こえた声に、菜緒は思考を途切れさせた。
「有紗ちゃん? 目が覚めた?」
「ん……なお?」
眠たそうに眼を瞬かせながら、有紗が倒れたままこちらの姿を見上げてくる。そのまま再び寝入ってしまいそうにも思えたが、有紗はむにゃむにゃと寝惚け気味に口を動かした後、やがて手をついて上体を起こした。きょろきょろと周囲に視線を向け、次いで自分の身体を見下ろす。
「ありさ、はだか……? どーして? なおがひんむいたの?」
「どうして、って――憶えてないの?」
自分の身体を隠そうともせぬまま聞いてくる有紗に、菜緒は問い返した。有紗が小首を傾げる。
「おぼえ? なにを?」
「だから――その、昨夜のこと」
「ゆうべ? ゆ――」
言いかけて。
有紗の動きが止まった。見る見るうちにその顔面から表情が抜け落ちていき、その代わりに――と言っていいものか――ぼろぼろと涙をこぼし始める。
「……有紗ちゃん」
彼女の眼前に膝をつき、菜緒は手を伸ばした。だがこちらの指が肩に触れるよりも早く、有紗が口を開く。
「ゆ――う、すけ――」
涙こそ流しているが、彼女の表情は泣き顔のそれではなかった。なにも浮かんでいない。感情の抜け落ちたまったくの無表情のまま、ただ涙だけを頬へと伝わらせている。
――泣き顔の作り方を知らないのだろうか、と。
根拠もなく、菜緒はそう考えた。
「しんじゃった――悠介、しん、じゃった」
泣きながら、有紗がつぶやく。目の前には自分がいるが、しかし焦点の知れぬ彼女の瞳には映っていないようにも思えた。
(……ちゃんと、わかってるのね)
少しばかり、意外でもあった。初めて出会ったのは一年程前で、その頃の彼女は日本語も話せない、生まれたての赤子のような状態だったのだ。つまり今の彼女は生後一年程ということになり、そんな子供が死という概念を理解し、受け止められるとは思っていなかった。悲しむことができるなどと、思っていなかった。
つまりは、それだけ多くの死体を見てきたということなのだろうか。たった一年間で。
(……同じか、わたしも)
違いがあるとすれば、自分の場合は目にした死体のほとんどが自分で殺した相手で、そしてその後に喰らってきたということだ。決定的に違うとも言えるが、しかし死体を目の当たりにしてきたことには変わりない。
いや、こんなご時世だ。死体と縁遠いまま生きてこられた人間など、そう多くもあるまい。親しい人間が殺され、あるいは殺し、自分が死体にもなり――そんな光景が日常茶飯事のはずだ。
そんな中で、悠介と共に生き抜いてきたのだ、この少女は。否が応にも、理解せずにはいられなかったのだろう。
死ぬというのはつまり、もう二度と、誰も会えなくなるということなのだと。
それがずっと寄り添ってきた相手であれば、尚更だった。しかも彼女にとって、生まれた時から――今の彼女が生まれた時から――傍にいた、自分の半身のような存在だったのではないだろうか。
例え、悪魔に肉体を乗っ取られていても。
有紗が本気で悠介の死を嘆き、そして実感しているのだと、菜緒は疑おうとは思わなかった。
泣き疲れたらしく再び横になった有紗の隣に腰を下ろし、菜緒は黙って窓の外を眺めていた。
横になってはいるものの有紗は眠っておらず、真っ赤になった目も閉じていない。どこを見ているのかはわからないが、さっきまでよりは焦点もしっかりしているようだった。
やがて、有紗がぽつりと言ってきた。
「あのね、なお」
呼びかけられ、視線を落とす。彼女はこちらを見ておらず、横になったまま床を見つめていた。
なに? と問いかけると。
「ありさは……ありさじゃ、なかったみたい」
そんなことを、彼女は言ってきた。
――しばし、沈黙する。
思考らしい思考も働かず、菜緒は微動だにせぬまま有紗の顔を見返していた。涙の跡がはっきりと見て取れる。
やがて、どうにか口から発することができたのは。
「は?」
ごく短い疑問だった。
「え? えっと……ごめんなさい。わたし悠介くんじゃないから、彼みたいにはあなたの言うこと、理解できないんだけど」
我ながらなにを口走っているのかと思わないでもなかったが、ともあれこちらに伝わっていないという点を彼女に気付かせることだけはできたらしい。有紗が再び口を開く。
「ありさも、ありさはありさなんだとおもってた。悠介や、みんながそーいってたから。ありさのこと、なんにもおぼえてなかったけど……悠介がありさのこと、ありさってよんでたから。だから、ありさはありさなんだって、おもってたの」
言葉を覚え始めてから一年程度ということを考えれば、有紗の語彙は驚異的ですらある――あるが、それでも舌足らずには違いなく、菜緒は彼女の言っている内容を理解するのに、先程よりも更に時間を要した。
どうにか咀嚼して、口にしてみる。
「えっと、つまり……昔のことはなにも憶えてないけど、悠介くんとかわたしたちとかが、あなたは有紗ちゃんだよって言ってたから、自分は――えっと、楠牟礼有紗だと思ってた、っていうことかしら?」
昨日改めて聞いたばかりの彼女の本名を思い出しながら聞くと、有紗はこくりと頷いた。
「うん。そうおもってたの。でもありさは、ほんとはありさじゃなかった」
「……え?」
有紗が身体を起こした。床に座り込んだ体勢のまま、こちらを見上げてくる。
「ほんとのありさは、もうしんじゃった。ありさが、いまのありさが悠介にあったときには、もうしんじゃってた」
「え、ちょ……ちょっと待って」
更に混乱が押し進められ、菜緒は身体ごと有紗へと向き直った。
「あなたは、楠牟礼有紗じゃない――? 別人だったっていうの? だって、悠介くんや明くんたちは、以前のあなたのことを知ってたじゃない」
クラスメイトだと言っていた。クラスメイトだった頃の有紗のことを、彼等ははっきりと憶えていた。
が、有紗は。
「悠介たちのかんちがい」
あっさりと、そう告げてくる。
そんな馬鹿な、としか思えず、菜緒は抗弁した。
「勘違いなんてことないでしょう。毎日同じ学校の、同じ教室に通ってたのに。むしろそれでどうやって勘違いできるのよ」
「でもかんちがい。いまのありさとまえのありさの、みためがおなじだったから。だからかんちがいした……んだと、おもう」
「だからどうやって勘違いを――」
言いかけて。
「……見た目が、同じ?」
彼女の言葉に引っ掛かるものを感じ、問い直した。
有紗が頷いて見せる。
「うん。いまのありさと、まえのありさはちがうけど、みためはおなじ。だから悠介たちもかんちがいしたんじゃないかな」
――彼女は、記憶喪失なのだと。
自分にそう告げたのは誰だったか。今となっては思い出せないが、実際に有紗の様子を目にして、納得してしまった。恐らくは悠介達もそうだったのだろう。
姿こそ彼等の知る有紗のものだったが、中身は赤子も同然の状態だった。赤子と変わらぬ――別人だった。そしてその事実を、記憶喪失として受け止めた。
「記憶喪失じゃ、なかったってこと――?」
「ありさはまえのありさのことをわすれちゃったんじゃなくて、しらなかった。ありさじゃないから、しらなかったの。でもみんな、ありさのことありさじゃないなんていわなかったから、ありさもきづかなかった」
自分が、楠牟礼有紗ではないと。誰もが記憶喪失だと思い、そして指摘していたから、彼女自身そう思い込んでいたのだと。そういうことなのだろうか。
だが、それならば。
「じゃあ……あなたは、誰なの?」
悠介達ですら気付かないくらいに有紗とそっくりな、この少女は一体誰なのか。なんとなく彼女の答えを予想しつつも、菜緒は尋ねた。
「あのとき、まえのありさがしんで――このからだにはいりこんだのが、いまのありさ」
そして予想に違わぬ返答を、彼女は寄越してきた。
それはつまり。
「デジタル・デビル――?」
つぶやき、菜緒は有紗の肩へと手を伸ばした。力を込めても彼女は特に抵抗せず、あっさりと背中をこちらへと向けてくる。傷痕の浮かんだ背中を。
「このきずは、いまのありさがまえのありさのからだのなかにはいったときに、ついたんだとおもう。なおとか、ぷらんくにもついてるよね?」
言われて、菜緒は左手を自分の右肩に当てた。デジタル・デビルが体内に侵入した、その痕跡が残っている箇所だ。プランクの場合は額で、ヘカーテは下腹部だった。椎名のは知らない。
――こうして改めて見ても、大きすぎる傷痕だった。有紗自身の口から聞かされるまでもなく、致命傷としか思えない。最初に目にした時は気付かなかったが、考えてみればこれほど大きな傷が、それでも塞がっているということ自体、おかしな話だったのだ。致死量に及ぶ血液が流れ出るよりも先に、塞がったりするはずがない。
「ありさは、しんじゃったありさのなかにはいった。えっと……せーたい、まぐねたいと? だっけ? とにかくそれをすいとって、あくまになるはずだったの」
「はず、だった?」
「うん。なるはずだったけど、なれなかったの。しんじゃったありさのなかのせーたいまぐねたいとは、ほとんどのこってなかったから。だからありさは、あくまになれなかった」
実体化し損ねた、ということか。
自分の場合は、デジタル・デビルに感染したタイミングというのが具体的にいつかはわからないが、恐らく完全に死体となる直前だったのだろう。つまり、まだぎりぎり生きていた。生きていたからこそ、デジタル・デビルは自分の中の生体マグネタイトを喰らい、実体化することができたのだ。
だが、彼女は。
(宿主の死に、間に合わなかった――?)
既に死体となっている楠牟礼有紗に転移してしまった。
人間が死亡する過程において、どのタイミングで生物でなくなるのかなど、医師でもない自分にはわかりようもない――少なくとも絶息した直後であれば生体マグネタイトが抜け切っていないのだとは、実際に死体を喰らってきた経験から理解しているが。いずれにせよ彼女は、機を逸してしまったのだ。吸収するつもりでいた楠牟礼有紗の生体マグネタイトは、もう尽きかけていた。実体化するには足りなかった。
「ほんのすこしだけのこってたぶんをつかって、ありさはなんとか、きえずにすんだ。だけど、それでせーいっぱいだったの。なにもわからなくなって、じぶんがだれなのかもわからなくなって――」
なにも憶えていない、新しく生まれた彼女という人格が、楠牟礼有紗という肉体に残ったのだろう。上書きしたと言ってもいい。確かにそれならば、周囲からはショックで記憶を失ったように見える――のかもしれない。
(わたしとは、まったく逆の結果になっちゃったってことか)
自分の場合はデジタル・デビルの人格など発生せず、生前の記憶も残らず持ったまま、肉体だけが変質を遂げた。唾棄すべき以前の自分をはっきりと憶えているままに、悪魔へと変わったのだ。そんなものは忘れてしまってよかった。忘れているべきだった。自分はあの時に誕生した悪魔なのだと、心底からそう思い込みたかった。
どちらが幸せなのか――なにもかもを忘れてしまうのと、なにも忘れられないのと。そんな質問を投げかけられたところで大抵の者は、内容による、と答えるのだろうが。記憶の選り好みができるのなら、それに越したことはない。
有紗は座ったままその場で向きを変え、こちらの顔を見上げてきた。
「なお、おぼえてる?」
聞かれて、なにを? と菜緒は返した。
「なおが、あくまになったときのこと」
ぎくりとする。不意の質問だった。彼女からそれを尋ねられるとは、まったく想定していなかった。
だが答えようにも、あの夜のことは未だにはっきりと思い出せない。理性が消し飛んでいたのだから当然だ。眠っている間に自分がどんな寝相をしていたかなど、わざわざ把握している者というのもいないだろう。
「――それが、どうしたの?」
こちらが憶えているかどうかという以前に、なぜ彼女からそんな質問をされたのかがわからず、もう一度問い返す。
有紗は立ち上がると、窓の方へと歩いて行った。建物の外へと視線をやると、きょろきょろと首を動かし――やがて目当てのものを見つけたのか、そちらに指を向ける。
「あ、あそこ」
菜緒は有紗の隣にまで歩いて行き、彼女の指し示している方角へと目を向けた。見えたのは――この街の中心に位置する、聖堂だ。約一年前、初めてここを訪れた時にも立ち寄り、一週間程滞在もしていた。
「あそこだよね? あそこで、あくまになったんだよね、なおは」
「そう、だけど」
厳密には建物の中というわけではないのだが、頷いておく。
それがどうしたの? と聞くよりも先に。
「あのときね。ありさ、なおのことみたんだよ」
聖堂へと顔と指を向けたままの体勢で、そう言ってきた。
「え?」
はっとなって、彼女の顔を見る。
彼女は続けてきた。
「悠介は、ねてたからみてないとおもう。でも、ありさはおきてた。それでなお、ありさのこともころそうとしたの。まわりにいたみんなみたいに」
「わたしが――有紗ちゃん、を」
殺そうとした。他の人間達に対してそうしたように、殺して喰らおうとした。
今更、驚くようなことではない――わかっていたことだ。というか、悠介や有紗、そして椎名と再会するまで、実際にそうしてしまったものとばかり思っていた。彼等も、自分を凌辱して殺した少年達も、周辺の見張りを担当していたもの達も、シスターも――あの場にいたほぼ全員、自分が殺したのだと、そう思っていた。
「なおは、悠介もころそうとした」
有紗のその言葉に。なぜだか痛みのようなものを覚えて、菜緒は顔を伏せた――自分の頭では理解していても、他人からそれを指摘されるとなると、また話は違ってくるものらしい。
だがこちらの様子には構わず、有紗の独白じみた言葉は続いた。
「だからありさ、悠介をまもろうとして――」
(……え?)
顔を上げる。有紗の顔を見据える。
「そのときはじめて、あくまになったの」
瞬間。
菜緒の脳裏に、忘れていたはずの記憶が過った。
――およそ、一年程前。つまりは自分が悪魔になったあの夜で、場所もやはり悪魔になったあの聖堂だった。
人間を、ひたすらに殺した。殺して喰らい、それでも一向に満たされなかった。満月の影響だったのか、それとも京香に刺された胸の傷を癒すべく、身体が生体マグネタイトを欲していたのか――まあ、両方というのが妥当なところだろう。
少年達を殺し、周囲を取り囲んだ警備担当者達を殺し――建物の外に標的がいなくなって、次に向かったのは当然、建物の中だった。そこにまだまだ餌があるのだと、それを理解していた。
実はこの時点で何人か、殺し損ねて逃げられた標的がいたのだが、まったく気にしなかった。逃げた相手をわざわざ追うよりも、逃げ出さずに震え上がっている獲物を優先した方が実入りが大きいとわかっていたからだ。本能だけで動いていても、あるいは動いていたからこそ、そう判断したのかもしれないが。
そして、何十人目かの標的として視界に捉えたのが――気絶した悠介と、彼を庇うように立つ有紗だった。
――そうだ。あの時、確かに。
自分の目の前で、有紗は姿を変えた――昨晩と同じ、黒い竜のような悪魔へと。
「ありさも、ずっとわすれてた」
記憶の中の彼女ではなく、目の前にいる有紗が言ってくる。悪魔ではない、人間と変わらぬ姿で。
「だけど、なおとまたあって――それで、おもいだしたの。なおがあくまになったことも、ありさがありさじゃなかったことも」
ならば彼女が思い出したのは――なにも憶えていない理由を思い出したのは、ほんの二日前ということか。自分と再会した、その時に。
有紗は窓から離れると、さっきまで座っていた場所に再びぺたんと座り込んだ。両手で膝を抱え込む。
「ありさは、ほんとはありさじゃなかった……けど」
引き寄せた膝に顎を乗せ、有紗はこちらを見ずにつぶやいていた。聞こえない声量ではなかったが。
「悠介はありさのこと、ありさってよんでた。だから、ありさでよかった。悠介がそうおもってるなら、ありさはありさだった」
独り言、なのだろう。それは疑いようもない。そうでないのなら、ここにはいない誰かへの呼びかけだ。もっとも、そんな相手は限られるが。
「でも、悠介……しんじゃった」
またしても、彼女の瞳に涙が滲む。零れ落ちることがなかったのは、単に彼女の涙腺が戻り切っていないというだけの理由だろう。
彼女は泣いている。それは確かだ。
「ありさは、悠介がいたからありさでいられたのに……悠介、しんじゃった」
そこで言葉を切り、有紗はまた一頻り泣いた。声を上げるようなことはなく、やはり表情が変わることもなかったが、菜緒は黙ってそれを眺めていた。
やがて彼女の涙は止まったが、二度も泣き疲れるまで泣いたのが堪えたらしく、瞼が落ちかけていた。菜緒が建物の中からどうにか見つけてきたカーテンを床に敷くと、倒れ込むようにしてその上に横たわる。
菜緒はカーテンの余った部分を毛布代わりに彼女の身体へとかけてやりながら、尋ねた。
「あなたが、有紗ちゃんじゃないなら――」
閉じようとしていた有紗の目が、僅かに開く。問い返すようにこちらを見返してくる。
「あなたのこと、なんて呼べばいいの? わたしも悠介くんと同じで、あなたのことは有紗ちゃんとしか呼びようがないんだけど」
有紗はしばし、視線を逸らした。といって、こちらの質問をはぐらかそうとしたようには見えない――単純に、考え込んだのだろう。なにかを思い出そうとしてるようにも見えるが。
ややあって。
「――セト」
有紗は短くつぶやいた。
彼女がなにを言ったのか、菜緒は即座にはわからなかったのだが。
「それがたぶん、ありさのほんとのなまえ。ずっとわすれてた、あくまのありさのなまえ」
それだけ言うと、今度こそ有紗は目を閉じた。呆気に取られているこちらの目の前で、すぐに寝息を立て始める。
(……セト?)
聞き覚えのないその単語を、胸中で反芻する。恐らくはメデューサやヘカーテと同様に、どこかの地方に伝わる悪魔の名前、なのだろうが――それはいいとして。
(その名前で呼べ、ってこと?)
由来や出自などよりも、菜緒はそちらの方が気になっていた。
窓の外を眺めていると、先程までは消えていたはずの街を覆う壁が、再び張り巡らされていることに気付いた。
(……椎名くんか)
目で見えているわけではないのだが、察知できる。五感のいずれにも属さないなにかしらの感覚器官が、悪魔になると共に備わったのかもしれない。生物の持つ生体マグネタイトを「見て」いるのも、恐らくそれだ。人間でいた頃の感覚で言えば嗅覚が一番近しいような気がするが、あまり詳しいことはわからない――わかろうと思ったこともなかった。ただ喰らうだけの存在になってしまった、自分の身体のことなど。
街の喧騒は大分落ち着いてきているようだった。それなりに避難が済んだのか、今は悲鳴もほとんど聞こえない。悪魔の姿は割と頻繁に見かけるものの、それも治安維持部隊と思しき連中と交戦しているものが多かった。テンプルナイトにしても本気で悪魔を殲滅するつもりがあるのかないのか、牽制だけして退却、ということを繰り返している。
(無理もないけど)
見た限り、明らかに悪魔との戦闘行為に不慣れな様子だ。人数だけは多いのでなんとかなっているものの、一人一人の練度はあまり高いとは言えない。元々自衛官でも警察官でもない、一般市民で多く構成されているのだろう。
改めて、椎名の張った壁を見やる。今更だが、尋常でない大きさだった。これが包んでいる範囲がすべてこの街に当たるのならば、それはそのまま、この街自体の大きさと直結している。
(人だって、一杯いる。それを全部、椎名くんが――?)
常識的に考えて、彼ひとりで組織をどうにかできるはずはない。例えそれを成り立たせているのが彼の張った壁に他ならないとしても、それでも個人の裁量だけではままならないのが組織というものだ。自分が人間の社会で生きていたのは十数年程度でしかないが、しかしそれくらいのことはわかる。
なにもない荒れ地を開拓するところから始めた、というわけではない――当たり前だが。元々人間が生活していた場所だ。多少は破壊もされただろうが、それでも悪魔さえ寄せ付けなければ、復興はさほど難しいことでもなかったのだろう。焼野原からであっても、人間は立ち直ることができる生き物だ。
だが、治安維持や法整備となると、途端に話がややこしくなる。万人の不満を解消し得るルールなど存在しないのだ。以前の社会に法律のスペシャリストと呼べる人材が一体どれだけいたのかなど知る由もないが、それでも尚、国民から不満が取り除かれた前例などありはしない。
どこに皺を寄せるかという、ただそれだけが法であり、そしてルールだった。それが社会というもので、人が集まれば必然的に発生する貧乏くじの引かせ合いだ。
それを――椎名が先頭に立ってやっているのだと。
(信じられないって言ったら、失礼かしら)
だが、信じられなかった。自分の抱いていた彼という人物像と、あまりにも乖離している。
――以前の自分の愚かさを痛感し、ならばなにが正解だったのかと考えて、その指針になったのが彼の言葉だった。
即ち、自分が生きるためならば、他者の都合などどうでもいい、と。
愚かであったばかりに殺され、そして殺す側に回った後では、認めるしかなかった。それこそが真理なのだと、受け入れるよりほかなかった。自分ではなく、彼の方が正しかったのだ。自分の信じていたものは間違いで、彼の信じていたものこそが真実だったのだ。
だと言うのに。
(どうして――? どうしてあなたが、そんなことしてるの?)
自分にそう気付かせた本人が、それとは真逆のことをやっている。自分が過ちでしかなかったとかなぐり捨てたはずのものを、今は彼が抱えている。
裏切られたような気分、と言ってしまえば流石に過言だが――似たような心持ちではあった。もっとも数日前までは彼も死んだものとばかり思っていたのだから、再会した途端にこれでは、我ながら現金過ぎるとも思ったが。
(どうしようかしら、これから)
自分を付け狙っていたヘカーテはもういない。有紗によって情報レベルにまで分解され、霧散してしまった。そもそもこの街を再び訪れたのは、悠介の助言を受けてヘカーテを迎え撃つためだったのだから、もう用はないと言えば用はない。人間が集まっているので餌場としては一見魅力的だが、しかしテンプルナイトのような武装組織もいるとなると、必ずしも狩り易いとは言えない。それは正に今、この街を襲撃している悪魔達が証明していた。多少の混乱と犠牲はあったものの、避難も割とつつがなく完了している。
(有紗ちゃんも、元の姿に戻ったし――潮時かしら)
彼女が目を覚まし次第、街を出る。この街を襲っている悪魔など自分が関与すべきことではないし、どうでもいい。どうせ椎名や聖堂騎士団がどうにかするつもりでいるのだろう。返り討ちに遭ったところで、この国の至るところに転がる死体の仲間入りを果たすだけだ。
有紗を置いて行くという案を、菜緒は既に放棄していた。昨夜の時点で悠介共々に追放を宣告された身であり、彼女にとってもこの街に残る理由はないだろう。なにより菜緒には、自覚があった。
(わたしは、たぶん――この子を、放っておきたくない)
わざわざ彼女の後を追ったのも、そして眠っている間に殺そうとしなかったのも、つまるところそれが原因だ。餌になり得ないというだけでなく、もっと単純に――殺したくない。
悠介が死に、残される形になってしまったこの少女を、菜緒は見捨てたくなかった。
(――おかしい、のかしら。悪魔なのに)
恐らくおかしいのだろう。だが、それは悠介にしても同じことだ。悪魔である自分を、どう転んでも人間の天敵でしかない自分を、守ろうとしたのだ、あの少年は。好意という、ただそれだけの動機で。
倫理や道徳観によるものからではない。そんな愚にもつかないものに従うのなら、むしろ自分を抹殺する方向性になっていたはずだ。人間を殺して喰らう化物が一体、地上から姿を消すことを、諸手を上げて歓迎していたはずだ。
そうしなければいけないから、ではなく、そうしたいから。
つまりは欲望であり、自分が有紗を守りたいと思うのもそれだ。そのためならば、他者を踏みにじることだってやぶさかではない。誰もがやっていることなのだから、文句を言われる筋合いでもない。
(悪魔だもの、欲望には忠実にならないと)
人間と同じに。あるいは、人間以上に。
人間ではない自分には、それができる。
(そうと決まれば……とりあえず、有紗ちゃんの服が必要ね)
窓から身を離し、眠っている有紗の姿を見やる。流石に裸で連れ出すわけにはいかない――自分と違って身体の方は人間のままであるらしいので、凍死の危険性は減らしておくに越したことはないだろう。
菜緒は建物の外へと出た。どこからか服を調達してくるつもりだったが、大して手間はかかるまい。この街にはついさっきまで人間が生活しており、そして今は避難しているためにほとんどの家屋が空き家なのだ。悪魔やテンプルナイトと遭遇したとしても、その場で殺せば済む。
(……椎名くんだったら?)
ぴたりと、脚が止まる。
――恐らく、一筋縄ではいきそうにない。彼の身体能力はよく知っている。あの時の傷が今も残っているようだったが、しかし動きの方はむしろ、以前よりも洗練されているようにすら見えた。人間が悪魔に太刀打ちなどできるはずはないが、彼の場合は例外だ。こちらも殺すつもりでいかなければ、殺される可能性は決して低いものではない。
(わたしを――殺そうと、するわよね)
考えるまでもない。するに決まっている。現に昨夜、ヘカーテ諸共に切り捨てられそうになったのだ。
躊躇うようなこともないだろう。自分はこの街に――彼の築き上げたこの街に入り込んだ悪魔で、そして少なからぬ損害も与えた。どこをどう見ても、今の自分は彼の敵でしかない。見逃される理由などどこにもない。
(会ったら……殺すしかない、わたしも)
殺されたくなければ、彼を殺すしかない。
これまでに何度もしてきた事だ。理由自体は状況に応じて様々だったが、必要だから殺してきたという一点だけは揺るがない。必要に迫られても引き金に指をかけることを躊躇していた、あの頃とは違う。
椎名を殺す。そうするしかなく、今の自分ならばきっと、それができる。
止めていた脚を、菜緒は再び動かした。無人の街を歩く。
悪魔化した有紗の吐き出した光に打たれ、周辺の建物のいくつかは消失している。無論、その中にはまだ人のいたものも含まれていただろう。建物と共に、彼等も分解されてしまったのだろうか。
悪魔として実体化した、有紗の姿を思い出す。漆黒の肌とやはり漆黒の翼を持つ、巨大な竜――そういった風体だった。菜緒自身は見たことも聞いたこともないが、あれもやはりどこかの文献に記されている悪魔なのだろう。悠介ならば判別できただろうか。
(……セト、って言ってたけど)
有紗が自分で名乗った名前だ。考えてみれば、悪魔自身の口から名を聞かされたのは初めてだった。ヘカーテの場合は真弓がたまたま心当たりがあったらしいというだけで、有紗とは違う――真弓が知らなければ、やはり知り得ないままだったのだ。
――一年前に、聖堂で。自分はあの姿の有紗を目撃している。
互いに理性もなにもあったものではない状態だったので、忘れ切っていた。幸いにも自分も有紗も死なずには済んだようだったが、おかげで自分はあの場で気を失い、全裸で倒れていたらしい。
(……よく無事だったわね、わたし)
消失した建物の跡を見やりつつ、呻く。ヘカーテをも分解したあの光を自分も受けていたら、今頃こうしてはいなかっただろう。
(でも、ひょっとしたら――)
その方が良かったのかもしれない。
悪魔へと生まれ変わって、人間を殺し――その後も殺し続けるような、そんなことにはならずに済んだかもしれない。なにも知らないまま、二度目の死を迎えられていたかもしれない。
(わたしを助けようとして、悠介くんが死んだりすることも)
なかったのかもしれない。
この上なく無意味な仮定だとわかってはいても、菜緒はそう考えずにはいられなかった。