解析を始めてすぐに理解できたのは、聞きかじった程度の知識でどうなるものでもないということだった。
考えてみれば、いや考えるまでもなく当たり前の話で、パソコンどころか携帯端末の類を一切所持していたことのない自分では、自分よりも遥かに精通していたであろう悠介、それに専門職に就いていた白木や加嶋ですら難儀していたものを相手にしたところで門前払いを喰らうだけだ。そんな当然過ぎる事実を確認するのに、二十分とかからなかった。
なので早々に見切りをつけた椎名は、それなりに詳しい部下のひとりにある程度の事情を話し、解析を頼んだのだが。
「――やっぱり、駄目ですよ。見当たりません」
なにやら自分には理解し難い操作をいくつか試した挙句、部下が発したのはそんな台詞だった。
悪魔召喚プログラムが開けないことは割とあっさり判明したので(自分だけならまずその段階で躓いていたに違いない)、ならばその認証キーとなる悠介の生体マグネタイトの情報が、どこかに格納されているのではないか――そう推測してPC内部の検索をしてもらったのだが、作業を始めてから約一時間が経過した時点で、部下はお手上げのポーズをして見せた。
「そりゃ確かに、生体認証のシステムなんて珍しくもないですけどね。見たところ完全にハンドメイドのPCですし、本当にそんなの付いてたんですか?」
疑わしげな視線をこちらに向けてくる。専門的なことなど自分にはわかるはずもないが、しかし椎名は一応反論しておいた。
「だが、そのプログラムが開けないのは確かなんだろう? そういうのは普通、なにかの条件が必要になるものじゃないのか」
「この、DDSっていうプログラムですか。これにしたっておかしいんですよ。パスワードの類を要求してくるでもなく、単純にこちらの操作を受け付けない。ただのダミーだと思うんですけどね」
うんともすんとも言わないプログラムよりもむしろすぐ傍で寝そべっているケルベロスの方が気になるのか(まあ普通の反応だ)、ちらちらとそちらへ視線をやりながら言ってくる。ケルベロスの方は気にもしていない様子だったが。
(……ふむ)
腕を組み、椎名は考え込んだ。
悪魔召喚プログラムが使えないというのは、半ば予測していたことでもある――なのでこれ以上時間を費やすのは、単なる徒労でしかないかもしれない。自分は当然として、自分よりも詳しい者がはっきり開けないと断言しているのだから、そこはさっさと諦めるべきところだろう。
(プランクにとっちゃ、死活問題なんだがな)
ケルベロスへと視線を向ける。やはり生体マグネタイトの浪費を抑えるためか、先程から身じろぎもしていない。あるいは自分の行く末を悟っているように見えなくもないが、そんなものを確認する方法はないだろう。
(となると――やっぱり、こいつか)
腰に下げた鞘を見下ろす。これも悪魔召喚プログラムの産物には違いないが、しかし悠介のPCによるものではない。使われたのは加嶋が組み上げたという合体用のプログラムの方だ。
「こっちの方はもういい。今度は別のプログラムを探してくれ」
と、悠介のPCではなくデスクトップの方を指し示す。
「と言いますと?」
「あー……正式な名前まではわからないんだが、恐らく加嶋が最後にログインしたところにあるはずだ」
「はあ。まあそれくらいなら――」
曖昧な返事を寄越してくるが、しかしキーボードを操作する指に躊躇いはない。目当てのプログラムも、すぐに見つかった。
デジタル・デビル・アナライズ。そしてデジタル・デビル・ミキシング――悪魔合体プログラム。
「……なんですか、この胡散臭いプログラム」
かなりストレートなそのネーミングに眉をひそめる部下を苦笑して眺めつつも、椎名はプログラムが開くかどうかを確認させた。
「なんだこりゃ――ちょっと、意味がわかりません。こんなの、本当に加嶋さんが組み上げたんですか?」
表示された画面を見て更に顔をしかめて聞いてくるが、椎名は答えなかった。
(――ここからは、俺の仕事、か?)
厳密には自分ではなく、自分の中のデジタル・デビルの、だが。
椎名は腰の鞘から刀を抜いた。
「だ、団長!? なにしてるんです!?」
ぎょっとした様子で聞いてくるが、椎名はちらりと部下の方を見やり、
「ああ、もういいぞ。後は俺がやる。ご苦労だった、持ち場に戻ってくれ」
「え? は、いや――そう、ですか」
こちらが乱心したものとでも思ったのかもしれない。まったくもって無理もない感想だが、あるいはこの場で自分が切り捨てられる想像でもしたのだろうか。そそくさと立ち上がり、部屋を出て行く。
ケルベロスと共に取り残された部屋の中で、椎名は抜身の刀をぶら下げたまま意識を集中した。デジタル・デビルを叩き起こし、刀に組み込まれた情報を読み取らせる。
刀身に刻まれた模様が浮かび上がり、同時に自分の生体マグネタイトがそちらへと流れ込んでいくのがわかった。この刀は今、召喚プログラムによって実体化した悪魔と似たような状態になっている。
(よし、この情報だ)
恐らく、尋常な量ではないだろう。読み取らせるだけでどれくらい時間がかかるかわかったものではない。しかもデジタル・デビルが自分の中にいる以上、それに費やす容量としては自分の脳を使うしかなく、捌き切れるかどうかという心配もしなくてはならなかった。脳に直結できるストレージでもあるなら話は別だが。
(くっ――!)
大部分はデジタル・デビルに処理させているものの、それでも追い付かない分の情報が脳裏を侵食してくる。まったく翻訳されていない情報は意味不明な言語と記号の羅列となって、こちらの感覚をいとも簡単に遮断した。
(堪え、ろ――!)
容量に限界がある以上、溢れた情報は元のそれを上書きしようとする。だが最初から、読み取った情報を記憶しておくつもりなどない――自分にできることと言えば、決壊しないようデジタル・デビルの方へ情報を送る、言わば交通整理だけだ。
祈るような心持ちで、デジタル・デビルによる演算処理が終わるのを待ち――
「――ぶはっ!」
どれくらいそうしていたのか、情報の読み取りが終わるや否や椎名は刀を手放していた。乾いた音を立てて刀が床に転がり、ケルベロスが煩そうにちらりとこちらを見やる。
背中にびっしりと浮かんだ汗に不快感を覚えつつ、椎名は自分の人格が上書きされていないことを確認した。恐ろしく無謀な賭けだったが、それでも一応成功したらしい――これほど危険な行為だったとは、正直なところ予想していなかった。
(二度とやらん)
震える手足をどうにか制御しつつ、胸中で毒づく。もっとも、これで終わりではないのだが。
(情報の抽出は、どうにか成功したか)
刀に残留していた悪魔合体の情報を、デジタル・デビルに記憶させることができた。これに加嶋の組み上げたプログラムを併せれば、完全にとはいかないまでも、悠介の行っていた悪魔召喚の一部をエミュレートできるだろう。
(さて、次の問題は――)
キーボードを操作し、デビル・アナライズの方を立ち上げる。これも元は悪魔召喚プログラムとセットになっていたらしいが、こうして登録されていたデータをコピーすることで、外部からでも閲覧だけなら可能になっていた(当然、召喚には召喚プログラムが必要だ)。
この中から、有用だと思われるデジタル・デビルの情報を見つけなければいけない。悠介が刀に封入したと思しきデジタル・デビルのソースがどれかは知らないが――そっくりそのままではなく、一部だけを抽出したらしいので、最早元がなんだったのかはわからない――必要なのは、それとはまた別の情報だ。
素人である自分にとってはまったく優しくない表記で並んでいるリストを見ながら頭痛など覚えつつ、カーソルを動かしていく。データとして不完全なものも多く、選択肢はあまり多くないのだが――
(……まあ、この辺でいいか)
画面に表示されたデジタル・デビルのデータを眺め、椎名は妥協することにした。どれを選んだところで、有用かどうかなど実践してみなければわからないのだ。
再び意識を集中し、情報の読み取りを開始する。とは言え、今度は先程よりも負担は少なかった。読み取らせるのは一部の情報だけでいいのだ。人格が押し流されるような焦燥を味わうこともない――それでも面倒な作業には違いなかったが。
デビル・アナライズを閉じ、今度は悪魔合体プログラムを立ち上げた。ここから先は、完全に自分の中のデジタル・デビル任せになる。
椎名はポケットに手を突っ込み、小銃の弾倉を取り出した。デスクの上に置き、弾丸を並べる。
(こいつがうまくいけば――)
数を増やすつもりだった。ここにある二つの弾倉――併せて四十発分だ――は、言わば試行用だ。逆に言えば、この段階で失敗していては話にならないということでもある。
――自分だけが戦えたところで、意味がない。個人の力だけではどうにもならない。
言い聞かせてでもいるような心境で、椎名は画面に表示されたプログラムを操作した。
作業自体は、三十分程で終えることができた。手間がかかったのは最初の一発だけで、後は同じ作業の繰り返しで済む。が。
(疲れた――死ぬほど疲れた)
デスクの上に突っ伏し、目を閉じる。そのまま眠ってしまいたい衝動が強烈に湧き上がってくるものの、どうにか捻じ伏せて身体を起こした。一仕事終えたには違いないが、だからと言って眠るには早すぎる。
デスクの上に並べた弾丸を弾倉へと詰め直してから、椎名は立ち上がった。弾倉をポケットに戻し、部屋を出ようと――したところで立ち止まり、ケルベロスの方へ顔を向ける。
「悪いな、ケルベロス――いや、プランク。やっぱ駄目だった」
無視されるものとばかり思っていたのだが。
珍しく――本当に珍しく、ケルベロスはこちらの言葉に反応して見せた。ふん、と鼻から息を吐き出す。嘆息したように見えた。
(ふてぶてしい野郎だ。いや、肝が据わってんのか?)
そもそもこちらの言葉を理解できているのかという疑問があるものの、できているのだとすれば今の反応は、わかりきっていたことを改めて確認したに過ぎない、といった意味合いなのだろうか。あるいは、ため息ひとつで諦めがついてしまったのか。いずれにせよ、やたらと人間臭い仕種であったことは間違いない。
(今ここで、殺しておくべきか――?)
その姿を見つめながら、考える。
――今のところは、まだ持ち堪えているように見える。まだ余裕があるということだが、それはつまり、抵抗しようとすればできるということだ。そして抵抗するとなれば、すんなりと殺せる相手ではない。それは確かだ。
時間は惜しい。こうしている間にも街は悪魔の蹂躙に晒されており、一刻の猶予もない。ならば後回しにできることは後回しにしておくべきだろう。
ケルベロスの前を通り過ぎ――と、そこで更に気付く。悠介のPCを繫げたままだった。そちらへと近づき、電源を切ろうと手を伸ばす。
(――ん?)
モニターに映し出されているものの中に、見覚えのある単語が見つかった。見たところテキストファイルのようだったが、ロックもなにもかかっていない。先程まではなにかが隠してありそうなフォルダばかりを漁っていたために、気付かなかったらしい。
ファイル名は、ごく短いものだった。ついでに言うと悪魔や召喚といった胡散臭げな単語も含まれていない――が、悠介の個人的な所有物だったこのPCに格納されていることを鑑みれば、やや不自然な名称でもある。
――そのファイルには、「有紗へ」と書かれていた。
(こいつは……)
僅かに、動きが止まる。戦慄にも似た感覚が背筋を走った。あるいは悪寒か。どちらでも大差はないが。
ファイルの更新された時間を見ると、昨日の日付だった。どうやら彼が自分の元を訪れた、その直前に書かれたものらしい。
数秒の逡巡の後――椎名は、そのファイルを開いた。画面に文書の内容が表示される。
案の定と言うしかないが、一番上にあった一文は有紗に宛てたものだった。もしも自分が有紗を置いて先に死ぬような事態になったら、という前置きがされている。
(その通りになってんじゃねえよ、馬鹿野郎)
彼の余計な先見に文句を言いたい気分になりつつ、文章の続きに目を通していく。
時計を見ながら読み進めていたわけではないが、全部を読み終えるのに十分程かかった。
……正直なところ、書かれていた内容のすべてを即座に理解できたわけではない。むしろ首を捻る箇所の方が多かったくらいだ。が、それでも。
(――マジか)
デスクについた腕に力が込められるのを、椎名は止められなかった。信じられないという率直な感想と、書かれていた内容を鵜呑みにしようとする理解力がせめぎ合っている。
(クソ――見なきゃよかった、こんなもん)
胸中で吐き捨てながら電源を切り、椎名は今度こそ部屋を出た。有紗よりも先に自分が目を通してしまったことに多少のいたたまれなさを覚えはするが、それ以上に後悔の方が強い。
冷静さを欠いている、という自覚はあった。どんなものであれ、情報は多い方が良いに決まっている――のだが、そうすんなりと納得できない。もう少し頭が冷えれば、とりあえずこの後悔の念だけはどこかへ失せてくれるだろう。
なんにせよ、これから部下達のところへ赴くのだから、冷静にはならなければならない。聖堂騎士団を束ねる団長としての顔と声、そして仕種を思い出しておかなければならない。もうすぐその任を解かれることになるかもしれないとは言え、現状を打開するまでは自分から下りることは許されないし、そのつもりもないのだ。
詰所の様子は、二時間程前に見た時と大して変わっていなかった。若干避難民の数が増えているような気もするが、混乱と喧騒はそのままだ。誰かに責任をなすりつけたいという、彼等の表情も。
「今戻った。可能な限りでいい、聖堂騎士団に召集をかけろ」
最初に目についたテンプルナイトにそう告げ、詰所へと入った。会議室へと移動し、部下達の到着を待つ。
やがてひとり、またひとりとテンプルナイトが姿を見せ、その人数が並べられた椅子の数を越えた時点で、椎名は口を開いた。
「これより、侵入した悪魔に対して反攻に出る」
ざわ、と。室内にどよめきが上がった。
「そのための特別対応班を編成する。希望者は名乗り出てくれ」
互いに顔を見合わせ、部下達はなにやら言い合っているようだった。大して広くもない部屋なので大体聞き取れるのだが、戸惑っているものがほとんどだ。
やがてひとりが口を開いた。
「あの、団長――それってつまり、悪魔に対して戦闘行為を仕掛けるための人員、ってことですよね?」
「当たり前だ。さっきも言ったが、俺も加わる」
答えるが、部下達の反応は変わらなかった。悪魔に対して気後れしている様子のものもいれば、単純に悪魔と自分達との戦力差という問題を口にしているものもいる。
(……仕方ないか)
できれば先に人員を選出し、その上で明かしたかったのだが――このままでは編成に時間がかかり過ぎると判断して、椎名は手札を開くことにした。
「なにも無謀な特攻をしようってわけじゃない。勝算はある。というか、切り札がな」
「切り札、ですか?」
先程の会議の時にも口にしたその単語をもう一度上らせると、誰かが聞き返してきた。椎名は頷き、
「そうだ。悪魔に対して有効だと思われる武器の目処がついた。それが――こいつだ」
ポケットから弾倉を取り出し、掲げて見せる。皆の視線がそちらに集中した。
「対悪魔用特殊神経弾頭、とでも呼んでおくが、班に参加するものにはこれを使ってもらう。別に特別な使い方なんてない。撃ち込むだけだ」
こちらの説明に、テンプルナイト達はまだしばらくの間困惑していたが――
「やります」
やがて、ひとりがそう言ってきた。
「その弾丸、悪魔に対して有効な兵器なんですね? あのクソったれどもを、街から叩き出してやることができるんですよね?」
「ああ。特別な訓練は必要ない。撃てればそれでいい」
「なら、自分も――」
続けて別の団員からも声が上がり、更に周囲へと波及していく。元々がこの街の治安維持に従事することを目的として選抜したメンバーには違いないので、士気の高さはこちらの予想した通りだった。
最終的に集ったうちの大半が参加の意思を示し、メンバーは二十名を越えることになった。彼等を四つの班に分け、弾丸も十発ずつ持たせる。
「くれぐれも、弾頭の部分には触れるなよ。別に死にはしないが、弾丸の無駄になる」
簡単な扱い方を説明して、詰所から送り出した。
最後に残った自分を含む班の面々を振り返り、告げる。
「行くぞ。まずは、他の避難場所の救援に向かう」
部下達が頷くのを見て、椎名は移動を開始した。詰所に残っているテンプルナイトはこの場所を守るための最低限の人員のみだが、他の班の者達には弾丸を撃ち尽くしたら戻ってくるよう伝えてある。もちろん、弾丸が想定した効果を発揮せずに逃げ帰ってくるという可能性も、ないではないが。
本来は盗賊に襲われた際に備えて立てておいた避難プランだったが、その通りに住民が移動できているのであれば、避難所として指定した建物はそれなりの数になる。今日一日だけですべてを回ることは不可能だろう。悪魔を警戒しながら移動するのであれば猶更であり、しかもただ警戒するのではなく、同時に駆逐することも目的としているのだから、果たして何日費やすことになるか知れたものではない。
(悪魔さえ片付けちまえば、後は楽なんだが)
考えつつ、黙って歩く。
移動中に悪魔と遭遇することはなかった。それは概ね想定通りであり、悪魔が人間の集まっている場所を狙うのはむしろ当然と言える。連中の狙いは生体マグネタイトを喰らうことなのだから、無意味に建物を攻撃したりするようなことはない。
はず、だったのだが。
「……なんだ、これは」
建物と建物の間に不自然に広がる空間を見て、椎名は思わず声を上げていた。
なにもない、というわけではない。確かになんらかの建築物が存在していたという痕跡が地面に残っている――が、肝心の建物がどこにも見当たらないのだ。撤去されたのだとしても地面に掘り返したような跡がないのはおかしいし、そもそもこの街で土木作業を行うのであれば自分がそれを把握していないはずがない。
「ああ、これですよ。団長の言っていた悪魔って」
と、狙撃役として例の弾丸をまとめて持たせた部下が言ってくる。椎名はそちらを振り返った。
「他にも、いくつかあるみたいなんですが。あの黒い悪魔の吐く光に触れると、こうなってしまうんですよ。人間も悪魔も、そして建物も。綺麗に消滅してしまうんです」
「な――」
思わず呻きながらも、しかし椎名は昨夜のヘカーテのことを思い出していた。黒い竜の口から吐き出された光に貫かれ、目に見えないレベルにまで分解されて消失した悪魔のことを。
(生物だけじゃなく、建物だろうとお構いなしか、あの光は)
その中に人間が――悪魔から見れば餌が――いるとは考えないのだろうか。
(考えないんだろうな)
あの状態の有紗に、理性らしい理性が残っているとは思えない。もっともそんなものが残っていたところで、恐らく関係ないのだろうが。
更に歩くうちに他にもいくつか、建物の消失した痕跡が見つかった。それらの位置関係はほぼばらばらと言ってよく、あの黒い竜が闇雲に周囲を攻撃していたのだとは疑いようがない。
(有紗としての意識は、残ってないってことか)
悪魔に姿を変えても人間だった頃の意識を明確に残していたヘカーテとは違う、ということだ。それは菜緒やケルベロス、そして自分にも言えることだが。
と、椎名は足を止め、部下達にも立ち止まるよう促した。
「団長?」
目指していた場所までもう僅かというところまで近づいていたからだろう、背後から声をかけられる。椎名は振り向かずに、
「いる。二体だ」
短く、それだけを答えた。
なにが、と聞き返してくるものはいなかった。一同に緊張が走る。
「先に言っておいた通り、まず特殊弾頭を撃ち込む。俺が誘き出すから、そこを狙い撃て。いいな?」
「了解」
狙撃担当の団員が頷くのを察知して、椎名は前方へと歩き出した。すぐに避難先に指定した大き目の建物が見えてくる。
そこからやや離れた位置に、テンプルナイトと交戦している悪魔の姿が見えた。体型こそ人間に近いものの肌は赤く、髪のない頭部からは真上に向かって一本の角が生えている。そして手には、なにやら凶悪なサイズの鉈のようなものを持っていた(柄は長いが)。
すぐさま駆け出す。走りながら刀を抜き放ち、ついでに身を低くする。
悪魔と交戦していたテンプルナイトがこちらに気付いたらしく、なにかを言おうと口を開き――かけたところで、角の生えた悪魔に脇腹を殴られ、地面を転がった。悪魔の方もこちらに気付いていたらしく、振り返ってくる。
いや、ただ振り返ったのではなかった。鉈を片手に持ち、野球のボールでも打つような格好で振り抜いてくる。椎名は更に身を沈め、鉈の軌道の下へと潜り込んだ。
回避には成功したものの、流石に速度を落とさざるを得なかった。そしてそのタイミングを見計らっていたのだろうとは、容易に想像できる――背中の先、つまり頭上から別の気配が現れたのは。
振り向かず、椎名は足も止めなかった。動きに急制動をかけ、ほぼ直角に近い方向へと地面を蹴って跳躍する。
直前まで自分がいた場所に、緑色の悪魔が飛来していた。見たところ四足歩行のようだが、背中には翼が生えており、顔は動物のそれではなく、白髪の老人じみたものだった。
緑色の悪魔が尻尾を振り、なにかを飛ばしてくる。それがなんなのかを確認するよりも先に刀で打ち払い、椎名は悪魔から距離を取るように後退した。ついでに回り込み、こちらから見て角の生えた悪魔と緑色の悪魔が直線状に並ぶよう移動する。
こちらが視界を封じようとした、とでも判断したのか、緑色の悪魔はすぐにその場から真上に飛び上がった。空中から再び尻尾をこちらへと向け――
叫び声が響いた。
飛び上がったばかりだった悪魔が驚愕に顔を歪め、そのまま真下に落下する。つまりは、こちらと角の生えた悪魔との間に。が、そちらの悪魔もたった今聞こえたはずの声に意表を突かれたらしく、空を見上げていた。
地面に落ちた緑色の悪魔は、動いていなかった。いや、よくよく観察すれば小刻みに四肢が痙攣してはいる――だが無論、悠長に観察などしている場合ではない。椎名は即座にそちらへと踏み込み、刀を振り抜いた。
狙い違わず、緑色の悪魔の首を刎ねる。
角の生えた方の悪魔はなにが起こったのかまだ理解できていないように見えたが、それでも味方(なのか?)が殺されてなんのリアクションも起こさないままというわけではなかった。今度は両手で鉈を持ち、先程よりも更に重く早い一撃を放ってくる。
掠めるだけでも即死だろう。カウンターを狙おうにもリーチの差があるため、椎名は後ろへと跳んだ。目の前を通過していく鉈を冷や汗の出る想いで見送りつつ、更に距離を取る。鉈のリーチの外側へと。
武器の重量を感じさせない早さで、悪魔が鉈を構え直した。目の前に落ちている悪魔の死体を踏み越え、こちらへと近づき――二度目の叫び声が響き渡る。
悪魔の動きが急激に鈍くなり、どころかその場に武器を取り落した。それでも一応こちらへ接近しようとしてはいるのか、じりじりと脚を前へ出そうとし――
無造作に振るったこちらの刀が、地面に転がる悪魔の首の数を増やした。首から上を失っても、悪魔の身体は倒れなかったが。
(――片付いたか)
動かなくなった悪魔の死体二つを見やってから、椎名は刀についた体液を振り落とした。続けて、複数の足音が聞こえてくる。
「団長、ご無事ですか!?」
振り返って確認するまでもなく、近づいてきたのは離れた場所で待機させていた部下達だった。悪魔の死体を眺めながら、怪訝そうに聞いてくる。
「あの、団長、さっきのは一体――?」
「悪魔が叫んだと思ったら、急に動かなくなったように見えたんですが」
自分で狙撃しておきながら、なにが起こったのかわからなかったのだろう。小銃を構えたままの団員が眉をひそめている。
「先に説明しただろう。お前に持たせた弾丸は、悪魔の動きを封じる効果がある、とな。それほど効果が持続するわけじゃないが、有用性はこれで証明されたな」
言いつつ、椎名は胸を撫で下ろしていた。計算の上では効果を発揮するはずとわかっていたものの、それでも実際にこの目で確かめるまでは不安だったのだ。自分の作った弾丸が、ちゃんと機能するかどうか。
聞こえた二度の叫び声は、撃たれた悪魔の悲鳴ではなかった。着弾の際に、弾丸が発したものだ。
原理自体は、悠介の作ったこの刀と同じだった。弾丸にデジタル・デビルの情報を封入し、条件により活性化させる。ただそれだけだ。
デジタル・デビルの情報を活性化させるというのは要するに実体化させることであり、生体マグネタイトと結合させてやる必要がある。
自分の持つ刀の場合はそれを握る者自身の生体マグネタイトが活性化の条件として設定されており、試したことはないものの、恐らく持っている限り生体マグネタイトを吸われ続けるのだろう。持ち主の安全性という点では正直なところ疑問符がついてしかるべきであり、デジタル・デビルに生体マグネタイトの流入を制御させることのできる自分でなければ、使用者の命を吸い尽くす魔剣となっていたところだ。そもそもが急造の代物なので、別に悠介を責めようとは思わないが。
対して自分の作った弾丸は、実体化に必要な生体マグネタイトの供給元を別のところに指定してあった。といっても細かい設定などできるはずもなく、単純に弾頭の部分に触れた相手から吸い上げる、というだけのことだが。なので発射された弾丸は命中した瞬間、対象の持つ生体マグネタイトと結びついて情報を活性化させる。それが先程聞こえた叫び声の正体だ。
名前は忘れたが象のような悪魔の情報から抽出したもので、この悪魔の発する嘶きには、一時的に生物の身体を麻痺させる効果があるのだという。デビル・アナライズの表記によればバインドボイスという現象らしいが、椎名が弾丸に組み込んだのはそれだった。
(動きを止められるのは、十秒くらいってとこか? まあ、撃ち込む相手によっては違うんだろうが――十分だ)
命中する度にいちいち喧しいという欠点を除けば、悪魔相手にも有効な武器であると、それを確かめることができた。身動きさえ封じてしまえば、そこから息の根を止めるのに十秒は長すぎるくらいだろう。
と、先程悪魔に殴られて吹き飛んだテンプルナイトが立ち上がり、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。流石に脇腹を押さえてはいるが、しかし命に別状はないらしい。
「た、助かりました、団長。お手数を――」
相手の言葉を遮って、椎名は告げた。
「避難民はどの程度いる? 少ないようなら別の場所へ移動して合流しろ」
「あ、その――二十人程度です。テンプルナイトも数人いたのですが、自分を除いて、悪魔に……」
「二十人、か」
微妙と言えば微妙な数字ではある。詰所の方に避難している人数と比べれば明らかに少ないが、しかしまとまって移動するとなると支障が出ないわけでもない人数だ。
――他の場所にも回らなければいけないが、しかし避難民だけで移動させる危険性は、まだまだ高いと言うしかない。せめて護衛のテンプルナイトがもう少し残っていれば良かったのだが。
数秒の黙考の後、椎名は口を開いた。
「わかった、俺達が護衛を務める。全員に呼びかけて、合流するよう伝えろ」
「わ、わかりました」
答えると、脇腹を押さえたまま建物へと走っていく。椎名は他の部下達に周辺の警戒を命じ、建物の周囲へと散らばらせた。
と、そこで。
(……ん?)
視界の端になにかが映り、椎名はそちらへと首を動かした。
(今のは――)
気のせい、ではない。確かに見えた。
椎名は一瞬だけ考え込んだものの、すぐに無視するわけにはいかないと判断して、部下のいる方へと向き直った。
「悪いが、俺は先に移動する。避難民の護衛はお前たちに任せた」
「えっ? あ、はい。お気をつけて」
返事を背中で聞きつつ、椎名は駆け出していた。五十メートル程の距離を一気に走り抜け、建物の角を曲がる。
すぐに見つけることができた。先程ちらりと見えたものと――もう二つの人影が。
「あ」
二つのうちの一方、菜緒がこちらの姿を見つけたらしく、短い声を上げた。隣にいる有紗はこちらに気付いていないらしく、別のものへと手を伸ばしている。ケルベロスだった。
「――なにやってんだ」
その科白が果たしてケルベロスに対してのものか菜緒と有紗に対してのものか、椎名は自分でも判断がつかなかった。菜緒はなにやら気まずげな表情を見せているが、有紗はようやくこちらの存在に気付いたらしく、きょとんとした顔を向けている。ケルベロスはこちらを見ていなかった。
というか、ケルベロスはその場に伏せていた。最後に見た時とは様子が違う。ひどく疲れているような。
「ああもう――だから言ったのに。出るならさっさと出るべきだって」
菜緒が額に手を当てて嘆いているが、それがどういう意味かはわからない。だが有紗はぐったりとしたケルベロスを心配そうに眺めており、こちらのことなどあまり気に留めていないらしかった。
「……? おいケルベロス、どうした?」
流石に気になり、彼女達の方へと歩み寄る。菜緒は明らかにこちらを警戒している様子だが、だからと言っていきなり襲い掛かってくるようなことはなかった。有紗(とケルベロス)を守るような位置に立ち塞がる。
だがそれは一旦無視して、椎名はケルベロスの姿を見下ろした。伏せているというよりは地面に寝そべっているという方が近く、目も閉じている。
「ぷらんく、くるしそう」
有紗の言葉通りだった。熱に浮かされているようにも見える。
「……とうとう、か」
椎名が呻くと、え? というように菜緒が表情を変えた。椎名は彼女へと向き直り、
「そいつが悠介の悪魔召喚プログラムで召喚された悪魔だってことは知ってるだろ? その悠介が死んで、召喚プログラムを操作できる人間がいなくなった。プランクの姿に戻れなくなったんだ」
「え……じゃあ」
はっとなって菜緒がケルベロスの方を見やる。
「ケルベロスの情報が、プランクの生体マグネタイトを喰い尽くそうとしてる。どうも悠介の許可なしに勝手に生体マグネタイトを外部から補給することができないか、したくないみたいでな。時間の問題だとは思ってたが――」
と、視線をケルベロスへと戻す。
「もう、限界か。プランクの生体マグネタイトが残らず喰われちまえば、こいつは完全に悪魔になる。悪魔でしかなくなる」
「そうなったら、プランクの意識は――?」
「期待なんざするな。元々こいつは、あの時に死ぬはずだったんだ。それを悠介が強引に延命させてたに過ぎん」
だがそうしなければ、自分も菜緒も有紗も、メデューサに殺されるか石にされていた。あの状況にあって悠介の判断を非難する理由はないし、つもりもない。
「ぷらんく……しんじゃうの?」
ケルベロスの身体に触れながら、有紗が不安げな声を漏らす。
「ただ死ぬだけならまだマシだ。餓えた悪魔になっちまうよりはな。それよりお前ら、なんでここにいる」
先程から聞こうと思っていたことをようやく口にする。答えてきたのは菜緒だった(まあ有紗の方には期待などしていなかった)。
「いえ、さっさと街を出て行くつもりだったんだけど……有紗ちゃんがプランクを見つけて、それで」
「そうじゃない」
菜緒の言葉を遮り、かぶりを振る。
ケルベロスがこんなところにいたというのは、多少気になるところではある。研究棟に残っていたはずなのだが、生体マグネタイトの尽きかけている身体でわざわざ出歩いたということなのだ。それも、自分の思い過ごしでないとすれば――敢えて人の少ない場所に移動した、ような。
だがそれはさて置いて、椎名はもう一度問いかけた。有紗を見やりつつ、
「姿が見えなくなったと聞いてたが、なるほど。悪魔化が解けてたのか。実体化に必要な生体マグネタイトが足りなくなったってところか?」
「え――」
こちらの言葉に、菜緒は呆気に取られたような表情を浮かべた。考えてもいなかった、というような様子だ。
がすぐに気を取り直し、
「言われてみれば、そうね。セトになってた時、人間も悪魔も食べてなかったし」
と、有紗の方を見ながら言ってくる。その言葉に、椎名は反駁しようとしたが――
「……セト?」
彼女の口走った聞き覚えのない単語に、つい聞き返していた。
菜緒がどこか、苦い表情を見せる。
「うん……その、なんて説明したらいいのかわからないんだけど」
ていうか説明できる自信がないんだけど、と前置きしてから、菜緒は話し始めた。
自分達が有紗だと認識していたこの少女は、肉体だけを残してとっくに死亡していた楠牟礼有紗本人に宿った、デジタル・デビルだということ。しかし生体マグネタイトが足りず、肉体の悪魔化はしていなかったということ。周囲が記憶喪失だと認識していたために、彼女自身も自分が楠牟礼有紗だと思い込んでいたということ――そして背中に見えたあの情報痕は、恐らくデジタル・デビルが彼女の体内に入り込んだ際についた傷だということ。
「で、その悪魔の名前が――セト、か」
一通りの説明を聞いてから、改めてその単語を口にする。菜緒が頷き、
「らしいけど。椎名くん、聞いたことある?」
「いや全然。つか、そういうのは悠介に聞けよ。俺が知るわけねえだろ」
別に悠介ならば知っていたなどという根拠はないのだが、彼のPCの中にはそういった資料の類もあったので、検索しようとすればできていたのは間違いない。実際にそれで名前の判明した悪魔もいたのだから。
「――そうだ、悠介と言えば」
と、ウェアラブルPCの中にあったテキストファイルのことを思い出す。
「なに?」
反応したのは菜緒だけではなかった。ケルベロスの方を見ていた有紗もぴくりと顔を上げ、こちらへと向けてくる。
――有紗へ。あのファイルにはそう名付けられていた。
悠介がどういった思惑であんなものを残したのかは定かではないが、少なくともあのファイルが誰かの目に触れるような事態になった場合、その場に有紗がいる可能性が高いと踏んでいたのだろう。その読みは結局外れてしまったわけだが、しかし無視するというのも気が引けた――悠介が、遺したものなのだ。
小さく、嘆息する。そして口を開いた。
「あいつの持ってた、パソコンにな――」