きみがこれを見ているということは、たぶん僕の身になにかあったんだろうと思う。死んだか、それとも悪魔になったか。まあどっちでもいいかな。
これを書いているすぐ隣にきみはいるわけだけど、いつまでも僕がきみの傍にいられるとは限らない。僕の方が先に死ぬことなんて十分に考えられる。だからもしそうなった時のために、こんなものを残しておくことにするよ。もしもきみひとりでは読めないようなら、誰か――相澤さんか椎名さんか、その辺りにお願いしてみるといい。その二人に目を通しておいてもらいたいこともあるから。
なんて書き出しになってしまったけど、実際のところ僕がきみに対して、個人的に言いたいことがあるわけじゃない。そこはごめん。これは僕の考えをただまとめただけのもので、誰かの目に触れるようなことがあるとしたら、たぶんきみが一番可能性が高いだろうっていうだけのことなんだ。
あまり時間もないから、さっさと本題に入ろうと思う。僕の考えっていうのは要するに、悪魔に関してだ。ほとんどが状況証拠による推論であって、間違ってる可能性も大いにあるってことは最初に記しておくよ。なんだか言い訳くさいけれど。
悪魔の正体が情報、つまりデジタル・デビルであることは以前にも話した通りだ。その発生源が南極に現れたシュバルツバースであることも。
通信の類が一切使えなくなったのも、デジタル・デビルを始めとする有害な情報――仮にノイズと呼ぶけれど――が原因だ。シュバルツバースが消滅してノイズが止んだ際、通信が回復した点を鑑みても、これはほぼ間違いないと思う。
ノイズに含まれていたデジタル・デビルは、地上の生物を悪魔に変えた。生物の持つ生体マグネタイト(これの定義もかなり曖昧だよね)と結合して、情報に過ぎないデジタル・デビルが悪魔という生物に実体化したんだ。
ただし、デジタル・デビルが生体マグネタイトと結合するには、恐らく条件がある。それが月の光だ。悪魔が現れたあの日は満月だったわけだけど、僕や有紗、それに相澤さんや椎名さんみたいに悪魔化を免れた人間っていうのは要するに、満月の光に含まれていたデジタル・デビルと生体マグネタイトの結合を促すノイズを浴びてなかっただけのことなんだ。タイミングの問題でしかなかった。運が良かったとも言えるけれど。
じゃあ、あの日悪魔にならなかった人間に、シュバルツバースから発生したノイズはなんの影響も与えなかったのかっていうと、たぶん違う。悪魔にこそならなかったけれど、僕や有紗の身体にも、ノイズの影響はあったんだ。
人間の身体、特に皮膚なんかの身体の表面の細胞は、長くても一月あれば新しいものに入れ替わるっていう話を聞いたことがある。完全に憶測でしかないけど、悪魔が出現したあの日から次の満月までの間に、地上の生物には、ノイズに対する耐性がついていたんじゃないかな。だからそれ以降の満月でも、僕や有紗は悪魔にならなかった。
これは椎名さんや相澤さん、それに真弓さんが悪魔になった時の状況を聞いて行き着いた結論だ。なんならそこにプランクを含んでもいい。彼等に共通しているのは、死にかけていた時に悪魔になったということ。つまりノイズに対する抵抗が失われかけていた状態だったからこそ、デジタル・デビルに侵食されたんじゃないかってね。我ながら強引な解釈だと思うけど、辻褄は合うんだ。
南極に出現したシュバルツバースは、とっくに消滅してる。だからノイズも止んで、通信が回復したわけだけど――それは一時的なものでしかなかった。別の場所に、新しいシュバルツバースが出現したから。それが、あの太陽の黒さの正体だよ。
見ての通り、南極のそれとは比較にならない規模だ。正直言って、大きすぎて人間なんかじゃどうしようもない。南極のシュバルツバースは調査隊の手で解消されたらしいけれど、そのひとたちが一体どうやってシュバルツバースを消し得たのか、是非とも話を聞いてみたいね。
南極のシュバルツバースが発していたノイズこそ止んだものの、今度は太陽が同様のノイズ――ソーラーノイズとでも呼ぼうか――を発している。なにも解決していないどころか、悪化してると言ってもいいだろうね。今のところ判明してるノイズの影響は通信の阻害にデジタル・デビルくらいだけど、それだけとは限らない。他にもあるかもしれないっていうか、ないと考える方がおかしい。
繰り返すけれど、悪魔の正体はデジタル・デビルという情報だ。シュバルツバースという地球規模の現象から発生したもので、その目的はただひたすら生物から生体マグネタイトを奪うこと。まるでそれ以外の目的がないか、あるいはそういう機能でしかないみたいに。
だとすれば、デジタル・デビルというのはなにかの手足でしかない。遣いでしかないっていうことになる。地球規模で発生していることを考えれば、恐らくその大元は地球そのものだ。
もちろん、地球に意思なんてない。あるっていうひともいるかもしれないけど、それはそういう概念みたいなもので、意思疎通ができるような代物じゃない。情報でしかない。
じゃあ、その情報でしかない「地球意思」が、端末であるデジタル・デビルを通じて生体マグネタイトと結びついたら――それは「地球意思」という生物の誕生を意味するんじゃないだろうか。デジタル・デビルが悪魔へと実体化するように、概念的なものでしかなかった「地球意思」が、情報という段階から明確な生物になるんじゃないだろうか。
言うまでもないけれど、ただの憶測だ。証拠なんてなにもない。
そもそも、シュバルツバースはどうして発生したのか? 僕にはその答えを知る鍵が、悪魔になった生物の身体に現れる情報痕にあるような気がする。椎名さんやプランク、そして恐らく相澤さんや真弓さんにもあるあの模様だ。
あの模様はつまり、規模こそ違うけれど、シュバルツバースと同じものなんじゃないだろうか。
デジタル・デビル、いやノイズに侵食された傷痕。それがシュバルツバースなんじゃないだろうか。椎名さんたちに現れているものと南極や太陽に発生しているものとは、単に規模が違うだけで、同じものじゃないだろうか。
そう仮定すると、今度は地球に発生したシュバルツバースは一体どこから来たノイズに汚染されたんだって話になっちゃうけど、それは卵が先か鶏が先かっていうのと同じことで、循環してるって考えるのが一番妥当かもしれない。地球に影響を及ぼす程の情報の発生源なんて、それこそ太陽くらいしか思いつかないし。
なんだか取り留めのない文章になってきた。考えをまとめながら書き進めてるから仕方ないのかな。推敲したいところだけど、そんな時間もないし。
もっと他の情報があれば、また違う結論が出せるかもしれない。なんにせよ、今の段階で考えられるのはここまでだ。妄想と大差ないと言われればそれまでだし、自分でもそう思うけどね。
つまり、どう考えても人間の手に負える状況じゃないっていうこと。我ながら悲観的な結論だけど、楽観的になるには情報が足りないんだから仕方がない。
この先、この文章を更新する機会があることを祈っておこうと思う。
悠介のPCに遺されていたという、その文書の内容を聞かされて。
菜緒はしかし、どうリアクションをすればいいのかわからなかった。思ったのは、割と見当外れなことだけだ。
(悠介くん……そんなこと考えてたの)
恐らく、自分の頭では半分も理解できていない。というか椎名自身理解しきれていないらしく、ところどころの説明はかなりあやふやだった。有紗などはかなり早い段階で首を傾げ始め、顔全体に疑問符が浮かんでいる。
が、それでも。
「……どうなの? 悠介くんの考え、合ってるのかしら」
菜緒は聞かずにはいられなかった。なにしろ彼女は外見こそ人間のそれだが、元を正せばデジタル・デビルなのだ。この場にいる者の中で、最も真相に近い位置にいることになる。
しかしやはりというか、有紗はかぶりを振った。
「よくわかんない……」
心なしか疲れたような表情で、有紗がそう口にした。
椎名が面倒臭そうに言ってくる。
「まあ、ほとんどがあいつの憶測だ。確かに言えるのは、人間の手でどうにかなるような状況じゃないってことだけだな」
そこだけは菜緒にも理解できたし、同感だった。太陽を見上げる。
(あの黒くなってるのが、シュバルツバースですって?)
スケールが大き過ぎて、人間にどうにかできるような話だとは思えない。だが、確かに理解できた部分というのもある。
「――でも、悪魔が実体化するのに月が影響してるっていうなら」
視線を下ろしながら言うと、椎名がこちらを見た。同じことを考えたのだろう。
「月がなくなっちゃった以上、もう新しく悪魔が現れることはないのよね?」
「……そうなるな。悠介の見解が正しければ、の話だが」
なにやら思うところでもあるのか、椎名の口調は若干疑わしげだった。信じるには根拠が足りないということか。
――月と悪魔との間になにかしらの関係があるのだということは、身を以て知っている。なので悠介の推論が的外れなものであるとは、菜緒は思えなかった。自分や椎名、そしてヘカーテが悪魔になった時、最初に悪魔が発生した時――それぞれの状況も、悠介の考えを裏付けているようには思う。となると椎名が考えているのは、単に楽観視するのは危険だということなのかもしれない。
地球意思がどうのという部分は、流石に御託としか思えなかった。発想の飛躍で、行き過ぎている(説明している椎名もそこには懐疑的なのか、歯切れが悪かった)。それを否定する要素こそないものの、ただそれだけで根拠に乏しい――ついでに言うなら、どうでもいい部分でもある。なぜそんなものが現れたのかよりも、現れてしまったものにどう対処すべきか、することができるのか、その方が重要な問題なのだ。
(大体、もしそれが本当なんだとしたら)
デジタル・デビルが地球の端末で、それがただ生体マグネタイトを奪うだけの存在であるのだとしたら――それはつまり、地球そのものが人類を排除しようとしているということだ。そして、今は地球に代わって太陽が。
地球や太陽に、そんな意思のようなものがあるとは思えない。いや、それは悠介自身も指摘していたか――その上で、ないはずのものが存在するようになったのではないか、と推測しているのだ。デジタル・デビルが実体化するのと同じように、生体マグネタイトと結びついて。
(じゃあ、最初はなんだったの? そもそもシュバルツバースが発生した理由は――)
とそこまで考えて、しかし菜緒はなるほどと納得した。卵と鶏の話を悠介が持ち出したのは、こういうことなのだ。どこに始まりを求めるかなど宇宙の誕生を議論するのと同じで、限りなくゼロに近づくことはできてもそのものに到達することは決してない。つまりは考えても無駄ということだろう。自分の頭では尚更だ。
「まあいい。ともかくこれで――悠介に対する義理は、果たした」
椎名のその言葉が、果たしてどういった意味か。
理解するのは一瞬で済んだ。それは彼が刀の柄に手をかけているのを見るまでもない。
「しーな?」
有紗が眉をひそめるが、菜緒は問いかけるようなことはしなかった。わかっているつもりだし、覚悟していたことでもある。
「わたしたちを、殺すつもり?」
それでも敢えて問いかけたのは、どういうつもりだったのか。自分でもわからない。
だが、身体の方は明確に反応していた。有紗を庇うように前に立ち、右腕の袖を捲る。彼に対して片腕だけでは足りないかもしれないが、この場で服を全部脱ぐような猶予は与えてくれまい。
「聖堂騎士団は今、街に入り込んだ悪魔を討伐して回ってる。俺がそのトップだってことは、今更説明するまでもないな?」
「ええ。信じられないけどね」
椎名はまだ刀を抜いていない。だがいつでも抜ける体勢だった。彼に居合の心得などあるかどうか知らないが、間違いなくこちらの腕が変わる方が早い――まあ、たぶん。
「これが最後だ。だから言っておく。お前がそんなふうになっちまったのが、残念でならない」
「それはわたしも同じ。あなたの方が正しかったんだって、ずっと思ってたんだから」
「俺もだ。間違ってたのは俺で、お前の言い分が全面的に正しいと思ってた。だから今のお前は――」
「敵よね」
告げると同時、椎名の身体が動いた。抜く。抜いて、こちらを一瞬で両断する。
予想していたよりも更に早い動きに、菜緒は自分の身体が既に斬られているような錯覚すら覚えた。だが関係ない――相打ちになれば、生き残るのは自分の方だ。人間のままの彼と悪魔になった自分とでは、肉体の頑強さが決定的に違う。
が、彼の刀が鞘から抜かれるよりも一瞬だけ早く。
絶叫にも似た声が、すぐ傍から聞こえた。
完全に意識の外へと追いやっていたその声に、菜緒はそちらへと視線を向けていた。椎名も同じように動きを止めて声のした方を見ている。
ケルベロスだった。地面に伏せていたはずだが立ち上がり、空に向かって大きく口を開いている。
その全身に――光の筋が絡みついていた。
「ぷらんく!?」
有紗が驚いたように声を上げるが、菜緒は素早く彼女とケルベロスの間へと移動した。椎名もこちらではなく、ケルベロスの方へと向き直っている。
「時間切れか!」
椎名の舌打ちが聞こえる。
見れば明らかだった。先程までとは様子が違う――全身に伸びている光の筋は真っ赤に染まっており、プランクからケルベロスへと姿を変える際に現れるそれとは別物だ。
ケルベロスは苦しげに呻いており、見様によっては全身に絡みつく光の筋を振り払おうとしているようにも見える。それが無駄なあがきだと知ってはいても。
変化は、すぐに訪れた。現れた赤い筋は見る間にその光量を増していき、ケルベロスの姿を包み込んでいく。
もう一度、ケルベロスの絶叫が響き渡り、そして。
「ぷらんく……?」
有紗が呆然とつぶやく。ケルベロスの姿が変化していた。
全身を覆っていた白い獣毛は、大部分が黒く変色している。体躯も一回り以上膨れ上がり、有紗からは見上げるような格好になっているだろう。だがなによりも一目でわかる変化は、首から上に集中していた。目も鼻も耳もなく、鋭い牙だけが覗く口が顔の大部分を占めており――それが三つ、首から生えている。
獅子か、あるいは狛犬のようにも見えた以前の姿は――つまりプランクの面影は、もうどこにもなかった。この三つ首の姿こそが、恐らくは。
(悪魔としての、ケルベロスの本当の姿――?)
そうかもしれないし、違うかもしれない。ケルベロスにまつわる資料でもあれば確認できたのかもしれないが、敢えてそうする必要性も薄い。それがわかったところで、目の前で餓えを訴えるようにがちがちと牙を鳴らしている悪魔の存在をどうにかできるわけではないのだから。
「ぷらんく!」
「有紗ちゃん、離れなさい!」
ケルベロスの方へ近づこうとする有紗の腕を掴み、菜緒は距離を取った。直後、ケルベロスの首のひとつが地面を抉るような勢いで叩き付けられる――直前まで、有紗の立っていた場所だ。
「ちっ! もう理性なんざ残ってねえか!」
舌打ちしながら、今度こそ椎名が抜刀するのが見えた。そのまま躊躇なく、ケルベロスの前肢へと切りつける――が、寸前でケルベロスは大きく跳躍していた。その体躯からは信じられない程の機敏さで、間近にあった建物の屋根の上へと着地する。
こちらの見上げる先で、三つの首が同時に咆哮を上げた。尋常でないその声量に、鼓膜どころか周囲の建物の壁面すら振動しているように思える。同時に、ケルベロスの三つの口から炎が溢れた。
それを見て取るや、菜緒は有紗の腕を更に引っ張った。痛みのためか有紗が小さく悲鳴を上げるが、構っているような余裕はない。そのまま彼女を巻き込んで地面を転がり――
直後、三つの火線が放たれた。荒れ狂う熱波が周囲の気温を瞬間的に上昇させ、今だけ季節が変わったのかと錯覚する程だった。咄嗟に伏せたため直撃こそ免れたものの、服の上からでも背中を焼かれそうな熱気が押し寄せている。
この熱さには、覚えがある――メデューサの身を焼いたあの炎だ。ただし首がひとつしかなかったあの時とは違い、同じものが更にふたつ放たれており、しかも標的は自分達を仕留めようとする悪魔などではない。間違いなく、こちらを狙っていた。
どうにか熱波が収まり、菜緒は顔を上げた。見ると、火線上にあったのであろう建物が焼け焦げている。いや、焼け焦げているというよりは溶解しており、コンクリートすら貫いて風穴が開いていた。
「こっの――無茶苦茶やりやがって!」
と、こちらと同じようにどうにか回避したらしく、椎名が刀を構え直しながら毒づいている。菜緒も立ち上がり、有紗を庇うように彼女の前へと進み出た。右腕を悪魔のそれへと変化させ、ケルベロスの姿を見上げる。
ケルベロスが屋根を蹴った。狙いはこちらだ。餓えのためか、この場でもっとも生体マグネタイトを摂取するのに相応しい――つまりは餌に適している相手を選んだ、ということだろうか。単純に位置の問題かもしれないが。
だがそういうことなら、有紗を抱えて逃げるというのはできそうになかった。瞬時の判断で有紗の身体を蹴り飛ばし、こちらから距離を取らせる。有紗が再び悲鳴を上げるのが聞こえたが、我慢してもらうしかない。
真っ直ぐに飛び降りてくるケルベロスの鼻先(かどうかは知らない)へと、菜緒は渾身の力で腕を突き出していた。ケルベロスは避けようともせず、中央の首へと吸い込まれるようにこちらの拳が叩き付けられる。
手応えは、間違いなくあった。相手の突進の速度をそのままカウンターとして、叩き付けることができた。それは間違いない。
が、それでもケルベロスの身体を止めることはできなかった。殴りつけたはずのこちらをそのまま撥ね飛ばし、地面へと着地する。噛み砕かれなかったのは、こちらの拳で首の向きを変えられていたからか。
殴った腕に返ってきた反動に顔をしかめつつ、菜緒は即座に立ち上がった。撥ね飛ばされたおかげで数メートルほど地面を転がりはしたが、ダメージはほぼない。腕が痺れた程度だ。体感的にはトラックに撥ねられたような心地(そんな経験はないが)に近かったものの、多少なりとも勢いを削ぐことができていたらしい。
と、ケルベロスが素早く向きを変え、前肢を振り上げた。側面から近づいていた椎名の振り抜いた刀を、爪の先で受け止める。金属の擦れ合う乾いた音が響いた。
即座に、菜緒は拳を固め直した。椎名の方を向いてがら空きになったケルベロスの横腹へと、真っ直ぐに腕を突き出す。
「なお、やめて!」
横手から有紗が制止の声を上げてくるが、聞いていられない。そのままこちらの拳はケルベロスの身体を打ち据え、数メートル程の距離を吹き飛ばした。三つの口から同時に呻き声を漏らしながら、ケルベロスの巨躯がなにかの建物にぶち当たって停止する。
ケルベロスはすぐに起き上がり、またしても突進してきた。狙いは先程と同じく、自分だ。正面からぶつかったところで動きを止められないのは既に承知しているので、今度は横に跳躍して突進を回避する。こちらの身体を噛み砕こうとしていた顎が空を切り、ケルベロスがブレーキをかけた。
そのタイミングを狙っていたのだろう。椎名が刀を突き出したままケルベロスの後肢へとぶつかって行ったように見えた。再びケルベロスの口から咆哮がこぼれ、椎名の身体を蹴り飛ばす――引き抜かれた刀には、血と思しき液体がべったりと付着していた。
椎名は身を翻して難なく着地すると、刀を構え直して再びケルベロスへと向かって行った。無論、その間にこちらもケルベロスへと駆け出している。
前と後ろから同時に攻め入られ、ケルベロスの取った反応は真上に跳躍するというものだった。上昇中にどこかの建物の壁を蹴り、そのままこちらや椎名からはやや離れた場所に着地する。
今度はすぐに飛び掛かってくることはなかった。目のない顔でこちらを睨みつけたまま、低く唸り声を上げている。
「デカくなった分、前よりもタフになってやがるな」
椎名がケルベロスの方へと向き直りながら口を開く。以前のケルベロスと交戦したことなどないので、菜緒はそれに同意することはできなかったが。
「なお、しーな……ぷらんくを、ころすの?」
と、背後から有紗が声をかけてくる。見えないが、今にも泣き出しそうな声音だ。
――自分や椎名と違って、彼女と悠介はこの一年、ずっとプランクと一緒だったのだ。命を救われたのは恐らく一度や二度ではないだろうし、そもそもプランクがケルベロスと融合する以前から、彼女はあの犬のことをえらく気に入っていたようだった(プランクの方は彼女からのスキンシップを迷惑そうにしていたが)。自分がプランクを同道させようと思ったのも、それが最も大きな理由だ。
できることなら、殺されるようなことにはなってほしくない――彼女がそう考えるのは当然と言える。だからこそ、菜緒ははっきりと告げた。
「あれはもう、プランクじゃない」
理解させる必要がある。理解させて、受け止めさせる必要がある。
「プランクは死んで、あそこにいるのはただの悪魔だ。俺たちを餌としか認識していない」
椎名もこちらと同じことを考えたのか、やはり振り向かぬままに吐き捨てた。
「しんだ……? ぷらんくも、悠介とおなじ……」
ショックを受けているのだろうとはわかる。悠介の死を理解できた彼女だ。同じようにプランクの死を理解し、そしてそれに打ちのめされている――実年齢の割に語彙が豊富であっても、生まれて一年程度でしかない少女には許容量を越える衝撃だろう。
だが、ここで大人しく殺されるわけにはいかない。殺され、餌になるわけにはいかない。ならばできることは、一刻も早く目の前の餓えた悪魔を抹殺することだけだ。
両手を握り込み、菜緒はケルベロスへと駆け出し――その直後に。
まったく趣の異なるふたつの音が、ほぼ同時に響いた。
(――!?)
何事か理解できず、思わず足を止める。たった今聞こえた音もそうだが、眼前のケルベロスの様子にも理解が及ばない。
ずん、と重々しい音を立て、ケルベロスの身体がその場に崩れ落ちた。そのまま動かなくなる――いや、よく見れば首や胸が微かに上下しており、口からも苦しげな声を漏らしてはいるが。
(なにが――それに、今の音)
ケルベロスの倒れる直前に聞こえ、こちらの足を止めた音を思い起こす。銃声のようだったが、同時に妙な音も聞こえた。こんなところで耳にするのがおかしい――象の嘶きらしきもの。
「……まあ、気付くよな。こんだけ暴れてりゃ」
と、椎名がケルベロスとは違う方を向きながら言ってくる。つられて彼の向いている方へ首を向けると。
「団長! ご無事ですか!?」
こちらへと駆け寄ってくる、複数の人影が見えた。テンプルナイトだろう。全員が銃を持っており、そのうちのひとりは倒れたケルベロスへと銃口を向けたままだ。
駆け寄ろうとする彼等を、椎名が片手を上げて制した。
「近づくな。今、とどめを刺す」
彼の言葉通りにテンプルナイト達が足を止め、ケルベロスの方を見やる。椎名は特に焦るでもなく、ケルベロスへと近づいていった――倒れたケルベロスは、まだ動かない。
(銃で、狙撃したの?)
状況を鑑みれば、そうとしか考えられない。だが自分や椎名の攻撃にあれだけ耐えていたケルベロスが、たかが銃弾の一発で地に伏せているというのは、どうにも理解し難い光景ではあった。大砲でも撃ち込んだというなら、まだ納得できたところなのだが。
「しーな……やめて」
半ば以上泣き声になりながら、有紗が椎名へと声をかける。だが椎名は振り向きもせず、返事もしなかった。倒れたケルベロスの間近に立ち、刀を振り上げる。
瞬間。
「――やめて! ころさないで!」
ありったけの声量だったのだろう、有紗が叫んだ。それと同時に。
「がっ!?」
悲鳴が上がった。それも複数だ。
またしてもなにが起こったのか理解できず、菜緒は悲鳴の聞こえてきた方向――テンプルナイト達へと視線を向けていた。
彼等は一様に、表情を歪ませていた。だが、なにに対して苦悶しているのかはわからない――いきなり背後から悪魔の不意打ちを受けたという様子もなければ、どこか遠方から狙撃されたようにも見えない。
「あ、有紗……お前……!!」
掠れた声を漏らしたのは、椎名だった。刀を振り上げたままの格好で、有紗の方へと振り返っている。
「やめて……ぷらんくまで、ころさないで……」
有紗は既に、椎名の方を見ていなかった。両手で顔を覆い、ゆっくりと首を振っている。
「たすけて……たすけて、悠介……おねがいだから、ぷらんくをたすけて……」
「有紗ちゃん! 悠介くんはもう――」
菜緒は叫び、有紗の元へ駆け寄ろうとしたが。
その時にはもう、彼女の背中から光が膨れ上がっていた。見覚えのある光が。
昨夜感じたものとまったく同じ感覚に、椎名は忌々しいものを覚えずにはいられなかった。なにが起こっているのかは、概ね予想がつく――それすらも、こうなってしまっては腹立たしいことでしかなかったが。
体内から生体マグネタイトが漏れ出している。それも恐らくは、自分だけではない。やや離れた場所に立っているテンプルナイト達も同様だった。全員――菜緒を除く全員が苦しげに顔を歪め、胸や頭を押さえている。
「有紗……やめろ……!」
震える腕でそれでも刀を取り落さなかったのは自分でも信じられないことだったが、しかしそんなものではどうしようもない。刀身に浮かんでいたはずの模様が消失したのだろうとは、見なくともわかった。
「椎名くん!?」
異変を察知したのか、菜緒が声をかけてくる。椎名は声を振り絞って叫んだ。
「止めろ、相澤……! 有紗のやつを……止めろ!」
「一体、どういう――」
「生体マグネタイトを吸ってるんだ! 俺や、周りの連中から……! このままじゃ、また悪魔になっちまうぞ!」
「――!」
弾かれたように、菜緒が有紗の方を見る。彼女も理解したらしい。
「有紗ちゃん、やめて! やめなさい!」
菜緒が有紗の元へと駆け寄り、彼女の腕に掴みかかる。だが有紗の背中から溢れている光は一向に止む気配を見せず、どころか益々その光量を増している。
(なにボケっとしてんだ……! 仕事しやがれ、クソ悪魔が!)
胸中で思い切り罵りつつ、デジタル・デビルへと呼び掛ける。
昨夜は為す術もなく生体マグネタイトを吸い上げられたが、考えてみれば今手にしている刀にしても、こちらの生体マグネタイトを吸うという点では同じなのだ。そして本来ならば無尽蔵に(というか、こちらの生体マグネタイトが枯渇するまで)吸い取られるはずのそれを、自分はデジタル・デビルによって制御することに成功している。ならば今、自分の身体から流出している生体マグネタイトも、塞き止められるはずだった――理屈の上では。
とは言え、流れ出す規模が違う。刀の方は少しばかり吸わせっ放しにしたところでこちらの体調に支障がない程度だが、たった今有紗に奪われている生体マグネタイトは、それだけで生命維持が困難になる程の量だった。なので当然、こちらのデジタル・デビルによる塞き止めのための処理も鈍くなる。それでも椎名は、デジタル・デビルに指令を送り続け――
「…………くはっ!」
どうにか生体マグネタイトの流出を止めることに成功し、大きく息を吐いた。その場に膝をつき、ぜいぜいと呼吸を繰り返す。無意識のうちに息を止めていたらしい。
――正直、危ないところだった。デジタル・デビルの制御がもう少しでも拙いものであれば、間に合わなかっただろう。そういう意味では、弾丸を精製するためにデジタル・デビルに複雑極まる演算をさせておいたのは正解だったと言える。少なくとも以前よりは巧みに、デジタル・デビルの制御ができるようになっていた。
が、人心地ついている場合ではない。椎名は顔を上げた。
「やめろ有紗! ここにいるやつらまで、悠介と同じにするつもりか!」
苦し紛れの科白だった――少なくとも、それで有紗の意識をこちらに向けさせることができるかどうか、確信があったわけではない。
だが有紗ははっと顔を上げ、こちらを見た。同時に、身を捩っていたテンプルナイト達が糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。気を失っているものもいるが、倒れずに辛うじて持ち堪えているものもいた。
彼女の背中から放たれている光も、勢いを弱めたようだった。が、まだ消えていない。膨れ上がっていたのが止まっただけだ。
「悠介と、おなじ……って……?」
顔を覆っていた手を下げ、有紗が恐る恐るといった様子で聞いてくる。彼女の腕を掴んだままの菜緒もそこは意味がわからなかったらしく、こちらへと振り返っていた。
……自分で口走ったこととは言え、それでも悠介の死体の様子を彼女に伝えるというのは、多少の抵抗があった。だが、答えないわけにもいかない――それで彼女の理性が歯止めをかけることを思い出すかもしれないとなれば。
逡巡は一瞬だけだった。口を開く。
「悠介の死体からなけなしの生体マグネタイトを、お前が吸い上げたんだよ。あの時あそこにいた連中はみんなそうだ」
「……ありさ、が? 悠介から?」
呆然と、有紗がつぶやく。予想していたことだが、自覚はなかったらしい――あの場にいた人間を、そのつもりもなく皆殺しにしかけたのだとは。
「椎名くん? じゃあ有紗ちゃんが、いえ、セトが実体化するための生体マグネタイトって――」
こちらの考えていたことに、菜緒もようやく行き着いたらしい。椎名はああと頷き、
「有紗自身は、生体マグネタイトが妙に少ないって言ったな。だから必要な分を外部から吸い上げる。簡単な理屈だ。自覚はないみたいだが」
おかげでこちらは危うく死にかけ、悠介は死体とすら呼べないものに成り果てた。
「……悠介……」
有紗がもう一度つぶやき、彼女の背中から放たれていた光が徐々に小さくなっていった。やがて、完全に消え失せる。
とりあえず安心したのか、菜緒が有紗の腕を離した。
「あの、団長。今のは一体……」
と、声をかけてきたのはテンプルナイトだった。こちらと有紗、それに菜緒とケルベロスのどれに視線を定めればいいのか迷っている様子で、きょろきょろと首を動かしている。
「もしかして、その子も――悪魔、なんですか?」
こちらと菜緒の会話の意味までは理解できなくとも、流石にそれくらいはわかったのだろう。有紗の方を見ながら聞いてくる。
椎名は首肯した。
「そうだ。ついでに言うと、そこの女もな」
黙っていても意味はない。今も菜緒の右手は悪魔のそれに変わったままなので、説明するまでもなく見抜いていただろうが。
他の部下達も、立ち上がって銃を構えるのが見えた。全員の銃口は、真っ直ぐに菜緒へと向けられている――有紗に向けているものはいなかった。まだこちらの言葉を信じ切れていないといったところか。無理もないが。
「――団長!」
と、部下のひとりが慌てたように声を張り上げる。その視線の先を確かめるのは、一瞬で済んだ。
ケルベロスが起き上がっていた。弾丸の効果が切れたらしい。
「ちっ!」
失念していた、というわけではないが、しかし有紗の方に気を取られていたのは事実だ。それは菜緒の方も同じらしく、明らかに自分よりも慌てた様子でケルベロスの方へと向き直っている。
それが致命的なミスであると、椎名は既に悟っていた。いや、ひょっとしたら自分ではなく、自分の中のデジタル・デビルかもしれない。反応が遅れたのは瞬き程度のごく僅かな時間でしかないが、その僅かな遅れがケルベロスの自由を許してしまったのだと。
ケルベロスが地を蹴り、跳躍する。身体の大きさを微塵も感じさせない速度だ。自分も菜緒もその動きに反応することはできていたものの、阻むには至らなかった。菜緒に銃口を向けていた部下達は当然反応などできなかったし、有紗に至ってはそんな期待をする方が間違っているだろう。
伸ばしたこちらと菜緒の手の間を擦り抜け、ケルベロスは――一直線に、有紗へと飛び掛かっていた。自分へと向かってくる悪魔の姿を、有紗は棒立ちのまま見つめ――
その腰から下を、ケルベロスの首のひとつが噛み千切った。
「有――」
叫びかけたのは菜緒だろう。真横を通り過ぎていったケルベロスと、そして有紗の方に振り返り、顔面を引きつらせている。
こちらも彼女と似たような格好だった。踏み出しかけていた脚を止め、首から上だけを有紗の方へ向けている。
ケルベロスは有紗のいた場所を通り抜け、数メートル程先で立ち止まった。その背後で――下半身を失った有紗が、どさりと地面に倒れ込む。と言うより、落下したと言うべきか。
ケルベロスの口――向かって左の首だ――には、噛み千切った有紗の一部が銜えられていた。ぼたぼたと落ちる血が、地面に赤い染みをいくつも作っている。
「ぷ……」
うつ伏せに倒れている有紗の口から、掠れた声が聞こえた。
「ぷらん……く……?」
倒れたままそれでも首だけを動かし、ケルベロスの方を見やる。その視線の先で、ケルベロスは。
銜えていた有紗の身体の一部を咀嚼し、そして飲み込んだ。噛み砕かれた肉から更に血がこぼれ、ケルベロスの足元により大きな血溜まりを残す。
「有紗ちゃん!!」
菜緒の絶叫が響いた。ようやく動くことを思い出したのか、はたまた金縛りが解けたか――倒れた有紗の元へ駆け寄り、彼女の身体を抱き起こす。
「有紗ちゃ――」
そしてすぐに、息を飲んだようだった。有紗の腰があった箇所からは血が出続けており、むしろ一瞬でショック死しなかったのがなにかの奇跡なのではないかとすら思える。
菜緒に抱きかかえられ、それでも有紗の目はケルベロスへと向けられていた。再びなにかを言おうとしたのか、口を動かし――喉の奥から溢れた血が、それを遮る。
「有紗ちゃん、駄目!」
流れ出す血で汚れることも構わずに、菜緒が有紗の身体を抱き寄せた。彼女の耳元に顔を近づけ、必死の形相で叫ぶ。
「死んじゃ駄目!!」
だがその叫びが、有紗の耳に届いているようには見えなかった。