止め処なくこぼれ出る血に、こちらの服が濡れていく。人体から流れたばかりの血液はまだ体温をそのまま残しており、服越しにその温かさを伝えてきた――有紗の身体から、体温が抜け落ちているということだ。
吐き出した血で顔のあちこちが汚れ、瞼もほぼ閉じかけていた。死人の顔だ。散々見てきたそれに、有紗もまたなろうとしている。
「有紗ちゃん……!」
ぞっとするほど軽くなってしまった彼女の身体を更にきつく抱き締める。
――そして、そこで気付いた。
先程消えたはずの光が、またしても現れている。有紗の背中からだ。
「有紗ちゃん!?」
慌てて彼女の背中を覗き込む。服の上からでもはっきりと見て取れた。昨夜目にしたものと同じ、発光する彼女の傷痕が。
「う――がはっ!?」
と、周囲のテンプルナイト達が次々に悲鳴を上げ、身体を仰け反らせた。椎名も一瞬だけ動きを止めたようだったが、しかしなにかを払い落とすように頭を軽く振ったかと思うと、こちらに向かって叫んでくる。
「相澤、止めさせろ!」
その一言で、菜緒はなにが起こっているのかを把握した。たったさっき、そして昨夜と同じように、有紗が周囲の人間から生体マグネタイトを吸収しているのだろう。先程は有紗が自分の意思でそれを止めたようだったが、今度のこれは――
(たぶん生存本能か、肉体の反射みたいなもの――死にかけている身体を治そうとして、無意識にやってる)
ほぼ意識のない有紗自身に、止めることなどできまい。ならば椎名の言った、止めさせるというのは。
――殺せ、ということだ。今にも死のうとしているこの少女に、即座に止めを刺せと。
菜緒はもう一度、腕の中の有紗を見下ろした。
色濃く浮かんだ死相に変化はない。だが彼女の背中から伸びている光の筋は大きく体積を失った彼女の至るところへと伸びており、このまま死ぬのが先か、それとも悪魔化するのが先か、判断のつかないところでもある。
と、その時。
「ぐ、が――だ、団……長……」
苦悶の呻きを上げ、その場に膝をついていたテンプルナイトのひとりに、異変が起こった。椎名に向かって伸ばしていた手の先が――石へと変わっている。
(……!?)
目を剥くこちらと、そして駆け寄ろうとする椎名の前で、そのテンプルナイトの男は指から肘、そして肩と、どんどん石化していき――完全に、彫像と化した。持っていた銃が支えを失って地面に落下する。
(え……? あれ、メデューサの時と同じ……!?)
驚愕している間に、変化は他のテンプルナイトにも訪れていた。それぞれ身体の末端――部位は様々だが――から石化し始め、見る見るうちにそれが広がっていく。
「相澤っ!!――クソが!」
業を煮やしたのか、椎名がこちらへと駆け寄ってきた。そのまま刀を持っていない方の腕を伸ばし、有紗の襟首を引っ掴もうとする。
が、菜緒は寸前で後ろへと身を引いていた。椎名の手が空振りし、こちらのすぐ目の前を行き過ぎる。
「やめて椎名くん! この子、このままじゃ死んじゃうのよ!?」
声を張り上げると、椎名はこちらのそれよりも更に焦りを感じさせる声音と声量で叫び返してきた。
「有紗のために、ここにいる連中全員石にするつもりかよ! 正気か!?」
正気のつもりだった。無関係のものがどれだけ死のうと知ったことではない。自分は悪魔だ――そして、有紗も。生きるために他人を犠牲にしたとして、それに躊躇も後悔も覚えるはずがない。
「――そうかよ!」
口に出すまでもなく、こちらの返事を悟ったのだろう。椎名が再び向かってくる。ただし今度は、刀を構えた格好で。
こちらも、更に後ろへと跳ぶ。軽くなっているとは言え、有紗を抱えたままで椎名の突進を捌き切ることができるかどうか――
だが、それは無用な心配だった。
「――!!」
椎名が立ち止まり、こちらから視線を逸らす。なにを見ているのかは明らかだ。
テンプルナイト達の姿が、ひとり残らず石像へと変わっていた。そして。
こちらの腕の中の有紗もまた、背中から溢れる光に全身を包まれ――内側から急速に膨れ上がった圧力のようなものに、菜緒は両腕を思い切り叩かれたような気がした。有紗の身体を支えていた腕が跳ね飛ばされ、彼女の体重を感じなくなる。爆発的に膨らむ光に内側からこじ開けられたような感覚だった。
いや、それは真実その通りだったのだろう。光に包まれた有紗の姿が一瞬にして巨大化し、形を変える。有紗ではなくなる。
光はすぐに消失した。代わりに、全身を黒一色に包まれた有翼の爬虫類らしきシルエットが、こちらと椎名の頭上に出現している。
(セト……)
有紗が自分から告げたその名を、菜緒は胸中でつぶやいた。椎名の舌打ちが聞こえてくる。
「くっそ――どいつもこいつも!」
こちらと椎名の見上げる先で、セトは瞼を開いた。金色の瞳が周囲をぐるりと一瞥したかと思うと、首を真上に向かって伸ばし、盛大な咆哮を上げる。先程ケルベロスが上げたものと同等の大音響に、菜緒は思わず耳を塞いでいた。
セトは翼を羽ばたかせ、高度を上げていった。そのまま下手なビルよりも高い位置まで上昇すると、どこかに向かって飛び始める。昨夜と違って目的地でもあるのか、かなりの速度だった。全力で走っても追いつけるかどうかわからない程の。
と、こちらの頭上を飛び越え、ケルベロスが飛び去るセトの後を追って行った。これも恐ろしく速く、建物の屋根から屋根へと飛び移っていく。
(……餌と見なしたのね)
確かに、数人分の生体マグネタイトをまとめて吸収した今のセトは、餌として魅力的だろう。だとすると、先程ケルベロスが他の誰でもなく有紗を狙ったのも、同様の理由だったのかもしれない。
――などと考えている場合ではなかった。セトとケルベロスの後を追わなくては。また実体化に必要な生体マグネタイトを使い切ればセトは有紗の姿へと戻るだろうが、その前にケルベロスに殺されてしまっては元も子もない。
菜緒はその場から走り出そうとして――
不意に、顔面に衝撃が走った。
(――!?)
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。銃で撃たれたのとは違うし、刀で斬られたのでもない。もっと別のなにかを、頬に叩き付けられた。
倒れるようなことはなかった。そこまで威力があったわけではない。痛みや衝撃よりも、単純に驚いて、菜緒はいつの間にか自分の眼前にまで近づいていた椎名へと顔を向けた。握り締めた拳で、こちらの横面を殴りつけた相手を。
「……なんのつもり?」
と尋ねた理由は簡単なものだった。彼の片手には刀が握られたままで、にも関わらずわざわざ素手などで殴ってきた、その意図が知れなかったからだ。
椎名はこちらを殴りつけた腕を下ろすと、
「……悪いな。人間頭に血が上っちまうと、考えるよりも先に手が出るもんだ」
つまり殺そうとしたのではなく、とにかく怒りをぶつけたかった、ということか。まあ、殺気を感じていれば避けられた、などと言い訳をするつもりはないが。
菜緒は左手で――人間のままの方の手で、殴られた頬をさすりながら、
「そう。そんなに気に入らなかった? わたしが――」
と、そこで一瞬だけ言い淀む。どういう言葉を選べば彼の神経を逆撫でしてやることができるか、という疑問が脳裏を過ったからだ。なぜそんなことを考えたのかは、自分でもすぐにはわからなかった。
「わたしが、あの子のためにあなたの部下を見殺しにしたのが」
だが結局、浮かんだ疑問は疑問のままで終わり、口をついて出たのもそんな物言いだった。そもそも、なぜ彼を挑発しようなどという発想が湧いて出たのかがわからないのだから、無念に思うようなこともないが。
「全部だ」
と、椎名がきっぱりと断言してくる。
「なにもかも、全部が気に入らない。今のお前のやることなすこと、いちいち癪に障る。はっきり言うが、まだまだ殴り足りねえからな。もう十発でも二十発でも、ぶん殴ってやりてえよ」
包帯に隠れているはずの彼の顔だが、そこに険相が浮かべられているのだろうとは容易に想像できた。もう少し自分との距離が離れていれば、地面に唾でも吐いていただろう。
「わたしだって」
彼の言葉に悪態をつかずにはおれず、菜緒は口を開いていた。
「わたしにあれだけ偉そうなこと言ってたあなたがそんなふうになっちゃって、ものすっごく気分が悪いわ。言っておくけれど、あなたに偽善者呼ばわりされたこと、まだ忘れてませんからね」
「根に持ってんのかよ」
「そうじゃなくて。あなたの言った通りだったからよ」
呆れたように指摘してくる彼に、菜緒は視線を逸らしながら答えた。
「わたしの信じてたものは、正しいと思い込んでたものは、なんの役にも立たないものだった。誰を救ったりもしなかった。それなのにそんなものの正しさをちっとも疑わずに、他人に押し付けてたの。あの時のあなたがわたしに言ったのだって、そういうことでしょう?」
こちらの抱える誤謬を、彼は指摘していたのだ。そして今の自分なら、全面的に彼が正しかったのだと理解できる。
椎名は。
「……ああ、俺も相当の間抜けだったからな」
肯定とも否定ともつかない、そんなことを言ってきた。
「だから気に入らない。なにもわかってなかった頃の俺の言葉を、お前が鵜呑みにしちまってるのが。お前はもうちょっと、賢いやつだとばかり――」
「だって!」
彼の言葉を遮り、菜緒は声を張り上げた。それ以上を聞きたくなかったし、また彼の顔も直視できずに下を向く。
「助からなかったじゃない! わたしも、椎名くんも!」
この一年というもの、徹底して思い出さないようにしていた感覚が、鮮烈に脳裏に蘇った。少年達に凌辱されていた時の、苦痛と恥辱だ。それらと共に去来した、思考が麻痺しそうな程の怖気に、知らず自分の肩を抱き締める。
「本当に、ルールが人を守るなら! あんなこと、許されるはずがないじゃない! わたしの信じてたものが誰かを助けるようなものなら、あの時にわたしもあなたも、助かってなきゃおかしいじゃないの!」
忌まわしいどころではない記憶は、呆気なくこちらの箍を崩壊させた。視界が歪んだかと思うと、ぼろぼろと涙までこぼれ出す。
「わたしが抵抗できなかったから、あなたが殺されて――わたしは、あの子たちにめちゃくちゃにされて――! どうしてそんなことになるのよ!? そんなのを許すルールなんて、ルールじゃない……! そんなのは、信じるに値しない!」
理性的な、あるいは理路整然とした言葉など、出てこなかった。支離滅裂なことを口走っていると自分でもわかる。とっくに過ぎてしまったことに対して、ないものねだりをしているような。
「あの子たちに報いを与えたのは、ルールなんかじゃない! そんなのとは関係ないところにある、ただの暴力よ!」
「……報い?」
と、そこで椎名が聞き返してくる。菜緒は僅かに顔を上げた。
そう言えば、彼は知らないのだったか。自分も悠介には話したものの、椎名には言っていなかったような気がする。
「――そうよ。わたしが殺したの。悪魔になって。あの場にいた人間を、残らずね」
口の端を歪めて告げる。やけくそ以外のなにものでもない笑いだったが(泣きながらなのだから当然だ)、しかし椎名には特に驚いた様子も見受けられなかった。予想がついていたのだろうか。
「お前がやらなかったとしたら、俺がやってたさ」
椎名が肩をすくめて見せる。
「敏樹の野郎に殴られてる間も、ずっとそれだけを考えてた。どうやって浩一からお前を解放しようか、お前を逃がしたら、こいつらをどうやって血祭りに上げてやろうか――気絶する瞬間まで、そんなことをな。たまたま俺より先に、お前の方が動けるようになったってだけだ」
多分に自嘲を込めた声で言ってくるが、しかしそんなものは慰めにもならない。彼にそのつもりがあったのだとしても、実際にそうしたのは自分だ。自分が殺したのだ。
椎名がこちらを見据えた。
「お前の信じてたものは、誰も救わなかったって言ったな。なら、あいつらに報いを与えたその暴力とやらは、お前を救ったのか?」
その言葉に。
「……っ! それは……!」
咄嗟には、反論の言葉が浮かんでこなかった。
だが椎名は更に続けてくる。
「俺がお前の安否なんざ無視して、あの場であいつらを叩き伏せようとしていたら――お前は、救われてたのか?」
答えないこちらを見ながら、椎名はその問いに対する返答を自分で述べた。
「無理だな。いくらなんでも、四人相手にお前を無傷のまま助けるなんざ、できるはずがない。俺かお前か、どちらかが必ず犠牲になる。その犠牲に目を瞑って、ようやくあいつらにどうにか痛い目を見せてやれる――そんなもんだ、暴力なんてものは。その程度のものでしかない」
言いたいことは、言ってやりたいことは山のようにある。頭の中では彼に対する反論と罵声が次から次へと浮かんでくる。だがそれを語彙に置き換えることができず、菜緒は黙って唇を噛んだ。
「あの状況で、お前と俺が助かる道があったとしたら――そんなもんはひとつだけだ。あいつらがルールを犯さなけりゃ、それで済んでたんだよ。それさえ守られてれば良かったんだ。非は全面的にあいつらにあるのであって、ルールが悪いとかはお門違いもいいとこだ」
吐き捨てるように言ってくる彼の顔を、菜緒は歯痒い思いで見返していた。それでも言い返すことはできなかったが。
「お前は悪魔になって、あいつらを殺した。お前の意思がそこに働いてたかどうかは知らんが、お前自身の仇を討ったわけだ。それを可能にしたデジタル・デビルに、感謝でもしてるのか? 仇を討たせてくれてありがとうとか、今でも本気で思ってんのか?」
自分の、ではない。それだけではない。自分と、そして椎名の仇だ。なぜ彼が敢えて彼自身の名を挙げなかったのかはわからないが、そこは履き違えるわけにはいかない。
「お前は暴力を肯定してるんじゃない。お前が聞いた俺の言動を肯定してるのでもない。単に、自分を救わなかったものを否定してるだけだ」
――それを聞いて、ようやく口が動いた。入り乱れていた反論の為の言葉が、明確な形を持って喉の奥から押し出される。
「そんなの、椎名くんだって同じじゃない!!」
溜め込んでいた反動というわけではないのだろうが、自分でも驚くほどの大声だった。だが、滑り出た言葉は止まらない。
「それまで自分の信じてたものを、否定したいだけ! そうするのに都合がいいから、わたしが口走ってた世迷言をわざわざ担ぎ上げて!」
「……まあ、たぶんそうなんだろうな」
割とあっさりと、彼は認めた。ただし、その声音にははっきりとわかる程の苦渋が滲んでいたが。
「信じてたものが、そうするに値しないものだと痛感した。だからそれを否定して捻じ伏せるために、別の――お前の言葉を信じることにした。確かにその通りだ」
認めるのは、それはそれで苦々しいのだろう。言うまでもなく、こちらにしても同じことだ。
「だが動機や経緯はどうあれ、間違ってないと俺は思ってる。お前の言っていたことの方が、正しい」
「――わたしもよ。悪魔に感謝なんて一度もしたことはないけど、それでもわたしは、あなたに言われたことの方が正しいって、そう思う」
自分の考えていたことが、信じていたものが間違いだった。それだけは確信を持って言える。身を以て思い知らされたのだから、そこだけはなにがあっても覆らない。証明したのは自分自身だ。
そしてそれは、椎名も同じなのだと。嬲り殺しにされた経験に裏打ちされている、譲れない部分なのだと。菜緒はようやく悟った。悟ることができた。
――胸中に訪れた落胆に、菜緒は自分で驚いていた。
(……なんでがっかりするの。椎名くんを説得したかったの?)
今の自分が信じる、以前の彼に戻ってほしいと、そう思っていたのだろうか。それが不可能なのだと理解してしまったから、落胆しているのだろうか。
菜緒は軽くかぶりを振って、その疑問を追い払った。考えても仕方のないことだ。目元を手で擦り、既に止まりかけていた涙を拭う。
軽く息をついてから、菜緒は視線を動かした。石像と化したテンプルナイト達の方を指し示しつつ、
「あれはどういうこと? どうして石になってるのかしら」
否が応にもメデューサに石化させられた亮のことを思い出しつつ、椎名に尋ねる。
彼は小さく咳払いをしてから、こちらの質問に答えてきた。
「多分だが、生物から生体マグネタイトを取り払った結果があれだ。生体マグネタイトだけをな。生物じゃなくなったってことだろう」
生体マグネタイトの定義を考えれば、確かにそう考えるしかない。悪魔が生物の生体マグネタイトを奪う場合は大抵肉体ごと平らげるので(自分もそうだ)、今の今までこんなケースは見たことがなかった。
「――そう言や、お前やケルベロスはなんともないみたいだったな。それに昨夜のヘカーテも。生物から生体マグネタイトを吸い取るっつっても、悪魔には通じないのか?」
思い出したように指摘してくる椎名に、菜緒は言われて初めて気が付いた。人間のままの左腕を見下ろし、
「言われてみれば、確かにわたしはなんともなかったわね。っていうか椎名くんは、どうして無事なの? 吸われなかったの?」
悪魔に姿を変えることこそできないようだが、彼もデジタル・デビルに憑依されているのには違いない。だから無事だったのだろうか。
が、椎名はかぶりを振った。
「いや吸われた。おかげで一回死にかけたしな。細かい説明は省くが、デジタル・デビルに生体マグネタイトの流出を塞き止めさせたんだ」
「止め、させた?」
「クソ面倒な作業だがな」
うんざりしたような表情で言ってくる。よくはわからないが、自分やケルベロス、それにヘカーテにとっては意識するまでもなく身体に備わっているはずの機能が、彼の場合は然るべき手順を踏まなければ働かないということか。当然、生身の人間であれば持ち得ない機能でもある。
そこで、はたと気づく。
「あれ、じゃあ悠介くんも……?」
有紗が彼の死体から、失われつつある生体マグネタイトを吸い取ったと椎名が言っていたのを思い出す。
椎名は頷き、
「ああ。死体が石になってやがった」
それを聞いて、悠介の死体の有り様を思い起こす。内部から尋常でない圧力をかけられ、一目で人体だと認識できない程に損壊した彼の死体が、更にそのまま石になったということか。恐らくもう、生前の彼を知っている者であっても、それを悠介だと判別することはできまい。
と、更に気付いた。セトの飛び去っていった方角へと視線を向ける。
「有紗ちゃん、もしかして」
セトは迷いなく、真っ直ぐになにかを目指しているように見えた。あの姿になった彼女に理性などないだろうと踏んでいたのだが――
「悠介のところだろうな、向かったのは」
こちらの想像とまったく同じことを、椎名がつぶやくのが聞こえた。
完全に置いて行かれたものとばかり思っていたのだが、存外に早くセトの姿を捉えることができた。というのも――
「有紗ちゃん!?」
隣を並走していた菜緒が叫ぶ。
セトは移動を止めていた。その理由は考えるまでもない。真下にいるケルベロスに足止めを食っているからだろう。
ケルベロスはどこかの建物の屋上から一気に跳躍すると、空中のセトに向かって飛び掛かっていった。空を飛んでいるとは言えそれほど小回りが利くわけではないのか、セトの回避には余裕がないように見える。跳び上がったケルベロスの爪と牙をかなりぎりぎりのところで躱し、そして構わずにまた移動を再開しようとする。
突進を避けられたものの危なげなく着地したケルベロスが、首のひとつから炎を吐き出した。すぐ傍にあった建物の壁面を焦がしつつ直進したその火線はやはりセトに避けられたものの、またしてもセトの動きを僅かに止める。
一瞬だけ遅れて、別の口から放たれたもう一条の熱線が、動きを止めたセトの片翼を掠めた。悲鳴らしきものを上げ、セトが空中でバランスを崩す。
「有紗ちゃん!」
もう一度少女の名を叫び、菜緒がケルベロスに向かって駆け出そうとする。それがセトを助けるためなのだろうとはわかっていたが、椎名はそれをこの場で指摘することはせずに彼女の後を追った。どちらにせよ、ケルベロスを放っておく理由がないのはこちらにとっても同じなのだ。
高度を落としたものの、セトはすぐに体勢を戻したようだった。地上から自分を墜とそうとしている敵を先にどうにかしようなどとは考えないのか、あくまで移動を優先するつもりらしい。
(それとも――ケルベロスを敵として認識していないか、だ)
もしそうなのだとすれば、そう時間もかからないうちにケルベロスに喰い殺されることだろう。こちらとしてはそれでも構わないが、菜緒にそれを許すつもりがないのだとは確かめるまでもない。
ケルベロスはすぐにこちらに気付いたようだった。牽制なのかどうかは知らないが、こちらと菜緒をまとめて焼き払える程度の大きさの炎を吐き出してくる。
菜緒は右へ、そして自分は左へ。それぞれ跳び、真っ直ぐに伸びてきた炎を避けた。そのまま立ち止まることなく、ケルベロスに向かって直進する。
飛び去ろうとするセトを追うべきか、あるいはこちらを迎撃するべきか――ケルベロスはそんな躊躇を一瞬も見せず、迷いなくこちらへと向かってきた。
(腹が立つくらい正しい判断だ)
本能でやっているのか、それとも至極冷静な計算によるものか。後者だとすれば、恐らくこれまで見てきた悪魔の中でも最悪の部類に入るだろう。
向かってくるケルベロスとの接触は、菜緒の方が早かった。彼女の身を噛み砕かんとする牙にまったく怯むことなく、逆にその顔面へと右腕を叩き込もうとしている。
が、横手から別の首に阻まれ、腕を引っ込めた。そのままケルベロスとすれ違い、脇腹の辺りに爪を引っ掛けられる。
「うっ!」
菜緒の呻き声が聞こえた。軽く掠めた程度にしか見えなかったものの、彼女の脇腹からは血が流れている。ケルベロスの巨体を鑑みればそれでも軽傷で済んだ方なのだろうが。
菜緒の元を通り過ぎ、ケルベロスはこちらへと迫っていた。三つの口を残らず開いており、こちらの身体を頭から丸呑みにでもするつもりだろう。
自分の身体は、菜緒のそれとは違う。ケルベロスの牙や爪に触れるだけで、容易く致命傷になりかねない。
全身を包む筋肉の量を比較しても、自分の身体能力がケルベロスのそれに匹敵する理由はない。反応速度もだ。この状態のケルベロスを野生動物と同列に扱ってしまって良いものかどうかは首を捻るところだが、勘の良さも明らかに人間を上回っているだろう。
(ノーガードの殴り合いなんざ、するつもりはねえよ!)
椎名は走りつつ、上着から小銃を取り出した。石になったテンプルナイトが使っていたものを持ってきたのだが、当然例の弾丸が装填してある。
先程撃たれたことを忘れていなかったのか、銃口を向けるや、ケルベロスがぴくりと反応したように見えた。だが構わずに、中央の首の眉間を狙って発砲する。
同時に、ケルベロスは横へと跳んでいた。急制動をかけられた反動か爪先が地面を抉り、そしてこちらの撃った弾丸がなにもない場所を通り過ぎる。大した反射神経だと、流石に舌を巻くしかない。
が。
跳んだ先に待ち構えていた菜緒の姿を、果たしてケルベロスが見ることができていたかどうか。
「ふっ――!」
ケルベロスが着地する寸前のタイミングで、菜緒が思い切り拳を突き出した。吸い込まれるようにケルベロスの首筋へと叩き付けられたそれは、そのまま悪魔の巨躯を殴り飛ばす。
ケルベロスの口から呻き声が漏れたかと思うと、次の瞬間には地面へと倒れ伏していた。セト程ではないが巨大な身体がアスファルトに激突し、地響きにも似た音が周囲に伝わる。
「よし……!」
と、菜緒が小さくつぶやくのが聞こえた。彼女はその場でくるりと踵を返し、セトの飛び去っていった方へと駆け出していく。
それを見て、椎名は思わず叫んでいた。
「相澤! てめえ!」
「ケルベロスはお願いね、椎名くん!」
肩越しに振り向いてそう言い残し、菜緒はそのまま走り去って行く。
(押しつけやがった!)
セトを逃がすための足止めはもう十分だと判断したのだろう。この場に自分が残っているという点までをも含めて。
(もう一発くらい、殴っときゃよかった――!)
既に起き上がろうとしているケルベロスの姿を眺めながら、全力で毒づく。がすぐに頭を切り替えて、椎名はケルベロスへと銃口を向けた。
そのまま発砲するものの、やはりケルベロスには見えていたらしい。ほとんど転がるようにして弾丸を避け、その勢いで身体を起こす。なにがあってもこの弾丸だけは受けるわけにはいかないと、どうやらそれも理解している様子だった。
(数に限りがあるってのに!)
二発も無駄にしてしまった。これで弾倉の中の特殊弾頭は残り半分だ。この街に入り込んでいる悪魔がケルベロスだけではないことを考えると、これ以上の無駄撃ちはできない。とは言え、撃ったところでケルベロスに当てられる自信もなかったが。
こちらの持つ銃を警戒してか、ケルベロスも先程までより慎重になっているように見えた――立ち上がった場所からこちらを睨みつけたまま、動きを止めている。いっそのことセトや菜緒を追うことを優先してくれないものかとも椎名は思ったが、そのつもりもないようだった。ここで確実にこちらを仕留める気らしい。
(だったら――)
向こうに追う気がないのなら、こちらから動くしかない。椎名は菜緒の走っていった方に向かって、その場から駆け出した。ケルベロスも即座にこちらの動きに反応し、地面を蹴る。
走りながら、椎名は小銃の弾倉をポケットから取り出した別のものへと付け替えた。通常の弾丸がケルベロスに通用しないだろうとはわかっているが、特殊弾頭を無駄遣いはできない――そしてなにより、向こうが警戒している以上、そもそも命中させる必要がないのだ。
当たり前だがケルベロスはこちらよりも速く、今にも追いつかれそうだった。走りながら後方を確認し、その上照準まで定めるというのは相当に難儀な行為だったが、どうにか背後に向かって発砲する。
予想していた通り、ケルベロスはこちらに追い縋るよりも回避行動を優先したようだった。減速して進路を変え、再びこちらを追いかけてくる。
(よし、賢さが仇になったな)
してやったりと胸中でほくそ笑むも、これがいつまでも続くとは限らない。いや、菜緒やセトに追いつくまで続いてくれるだけで十分なのだが、仮にそれが成功した場合、今度は三体の悪魔を相手にしなければならなくなるわけだ。
(悪魔は悪魔同士で殺し合ってくれよ!)
それが最も街の被害を抑える方法だろう。残った悪魔だけをテンプルナイトと共に駆逐すれば良い。
またしてもこちらに追いつこうとしていたケルベロスに向けて、再び発砲する。
が。
(――!?)
思わず目を疑う。ケルベロスは避けなかった。牙の一本に弾丸が命中して折れ飛んだようだったが、そのままこちらへと突っ込んでくる。
(まさか、気付いたってのか!?)
先程躱した一発で、警戒すべきものではなくなったと、それを察したのだろうか。だとしたら尋常でない洞察力だ。ケルベロスの知能を低く見積もっていたわけでは断じてないが、それでもまだまだ甘かったらしい。時速数百キロで飛来する弾丸の、その僅かな差異に気付いたということなのだから。
流石に足を止めざるを得ず、椎名は横へと跳んだ。ケルベロスの顎門が背後から襲いかかり、地面を抉る。突進の勢いもあってか爆発するようなその衝撃に、破片が周囲へと飛び散った。
刀を抜くような余裕もなく、椎名はケルベロスの側面に向かって発砲した。小さな弾痕が悪魔の身体に穿たれるも、大したダメージになっていないだろうとは確認するまでもない。ケルベロスは即座に、追い抜いたこちらへと振り返ってきたのだから。
(やべ――!)
最もこちらに近い位置にあるケルベロスの口から炎が溢れようとしているのが見え、椎名は息を飲んでいた。と同時に再び地面を蹴り、直後に放たれた熱線からどうにか身をかわそうとする。
(――くっ!)
だが避けきれず、服の一部に火がついたのがわかった。慌てて上着を脱ぎ捨て――ようとして、しかしポケットに弾倉を突っ込んだままなのを思い出す。
弾倉を取り出した上で改めて上着を投げ捨てるも、その時には既に他の部位にも火がついていた。顔のすぐ近くから猛烈な熱気を感じる。燃えているのは顔面に巻いた包帯だ。
今度は微塵の躊躇もなく、椎名は包帯を剥ぎ取った。すぐに剥いだおかげか顔に火傷を負うようなことはなかったが、まあ今更と言えば今更だ。そしてそれはなにも顔に限った話でもない。
上着のポケットから回収した弾倉を今度はズボンの方のポケットに捻じ込み、ついでに吊るしていた鞘から刀を抜き放つ。片手で刀を取り回すことの不利を即座に勘案して、椎名は銃を手放した。すぐ目の前にあるケルベロスの前肢目がけて、刀を構えつつ駆ける。
やはり、ケルベロスは避けようとはしなかった。爪で一撫ですればこちらの身体は砕け散る。それを理解しているのだろう。無駄に時間を喰うよりも、斬られる覚悟をした上でさっさと仕留めた方がいいと判断したわけだ。
(どこまでも的確な判断だな、クソが!)
相討ちならば、こちらが負ける。こちらだけが死ぬ。
だが、自分はまだ死ねないのだ。その上で目の前にいる悪魔を殺さなければならない。反撃を回避した上で、こちらの持つ刃をケルベロスの体内深くへと潜り込ませてやらなければならない。
余りにも無茶が過ぎる難題だが、それが成功する公算は敢えて考えず、椎名はケルベロスに向けて刀を振り抜いた。
――切っ先が、虚しく空を切る。
(!?)
まったく考慮していなかった事態に、椎名はなにが起こったのか理解できなかった。ケルベロスはこちらの一振りを躱そうとはしていなかった。斬られるか、あるいは防いだ上で、こちらの首を刈ろうとしていたのだ。ならば自分が目測を誤ったのだろうかとも一瞬だけ考えたが、しかしすぐに否定する。この距離でそれはない。
ケルベロスは目の前にいなかった。こちらの刀が外れたのは、標的がその場から移動していたためらしい――なぜ、という疑問を抱くよりも先に、こちらの頭上を飛び越えて背後へと着地したケルベロスの方を振り向く。
と。
「駄目だ、外した!」
ケルベロスの立っている場所とは反対側から、声が聞こえた。すぐに複数の足音が聞こえ、銃を構えた数人のテンプルナイトが姿を見せる。
「無事か!? そこの悪魔は我々が引き受ける! 急いで避難しろ!」
ケルベロスからは(そしてこちらからも)距離を取ったまま、テンプルナイトが声を張り上げた。それを聞いて、椎名は。
(…………ああ、そうか)
理解するのに、多少の間を要した。ケルベロスがいきなり跳び上がったのは彼等の銃撃を避けるためだったのだということ――そして、彼等の勘違いについて。
ケルベロスの反応は、やはり早かった。彼等の持っている銃に、特殊弾頭が装填されていることを察したのだろう。そして恐らくは、自分の相手をしながらそれを躱しきることが困難だと判断した。
ケルベロスはその場から大きく跳躍すると、こちらもテンプルナイト達も飛び越えて、セトと菜緒の向かった方へと走り去っていった。人間の足で追いつけるような速度ではない。
(好都合――ってわけでもないが、まあ悪くない状況だ。悪魔は悪魔同士、ってな)
猛烈な速さで遠ざかっていくケルベロスの後ろ姿を見送りつつ、小さく息をつく。テンプルナイト達へと振り返り、
「あの悪魔を追撃する。ついて来い」
刀を収めながら告げる。すると、彼等のうちのひとりが気付いたようだった。
「あれ? その声――もしかして、団長ですか?」
その一言で、他のテンプルナイト達が顔を見合わせる。やはり気付いていなかったらしい。
(まあ当然か)
部下達の前で素顔を晒したことはあまりない。なので包帯の下のこの顔を自分だと認識できていたのは、萌衣くらいだったろう。彼女とは自分の顔に傷が刻まれるよりも以前からの付き合いだったのだ。
先程捨てた銃を拾い直し、弾倉を再び交換し――ようとして、しかし考え直した。自分が刀と銃の両方を取り回すよりも、一方を別の誰かに受け持ってもらった方がいい。
椎名は特殊弾頭の込められた弾倉を部下達に向けて放り投げた。ひとりが慌てた様子でそれを受け止める。
「例の弾丸だ。お前達で使え」
既に弾丸の効果は見知っているのだろう、それについて尋ねてくるようなことはなかった。代わりに、別の質問をしてくる。
「え? あの、団長と一緒だった連中は――?」
「全滅した。その中に残ってるのはあと五発だ。大事に使え」
あっさりと答えると、彼等は息を飲んだようだった。恐らくはたったさっき走り去っていったケルベロスの仕業だと思っているのだろうが――
(まあ、別に間違いではないか)
敢えて訂正する理由もない。どの道、この街に入り込んだ悪魔は一体残らず叩き出さなければならないのだ。
ケルベロスも、菜緒も、そして有紗も。
見逃してやる理由は、どこにもない。