自動車の走っていない道路というのも、今となってはすっかり見慣れた光景ではある。それは悪魔の寄って来ないこの街においても同じだった――もっとも、今は違うが。
最早その意味をまったく為していない信号機の下を通り抜け、舗装された路面を走る。この街はまだ比較的無事な方だが、悪魔の蹂躙によって引き裂かれた道路というのも、外では珍しくない。そういった場所には大抵の場合横転した自動車と、それに追突したのであろう別の自動車が残されていた。そして、それを取り除くような人間もいない。
そんな土地に比べれば、この街の道路は走り易いことこの上なかった。セトの姿こそ見失ってしまったものの、こちらを阻むようなものは――まあ、あまりない。椎名とケルベロスを置き去りにしたのは数分前だったが、今のところは街に侵入した悪魔やテンプルナイトに遭遇することもなく、順調に目的地へと近づいている。
(椎名くんだけで、ケルベロスをなんとかできるかしら)
走りながら考えるが、微妙なところだった。ケルベロスを甘く見ているわけではないが、それでも椎名が悪魔に後れを取るとも思えず、どちらが生き残ってこちらの後を追ってくるかは本気でわからない。椎名の方であれば、この街を出てしまえばそれ以上追ってくることはないだろうが。
――セトが実体化に必要な生体マグネタイトを使い切って有紗の姿に戻り次第、街を出る。菜緒はそのつもりだったが。
(確かにテンプルナイト達から生体マグネタイトを吸収して、セトの姿にはなったけど、よく考えたら――)
姿を変える直前の、有紗の容態を思い出す。誰の目にも明らかな致命傷だった。というかむしろ、死体だった。あれだけの重傷が――質量の半分近くを失ったのだ――果たしてそう簡単に癒えるものだろうか。
自分の胸には、京香に刺された痕跡がうっすらと残っている。椎名の顔にもやはり敏樹に切り刻まれた傷痕が痛々しいまでに残されており、そして恐らくそれは顔だけに留まらない。デジタル・デビルによる治癒力――と言うよりは、融合した生物の持つ生体マグネタイトを涸れさせないようにする執着力――にも、限界があるということだ。事実、一年以上も前に負ったはずの有紗の背中の傷は、塞がりこそしたものの消えてはいなかった。彼女自身の保持する生体マグネタイトが微量であることも、当然無視できる問題ではないだろう。
(有紗ちゃんに戻ったところで、傷が完全に癒えてなかったら)
死ぬだろう、間違いなく。それでは意味がない。
考えているうちに、目的地が近いことを菜緒は悟っていた。昨日悠介や有紗、そしてケルベロスと共に、ヘカーテを迎え撃った地下鉄への入口が見えてくる。
地下へと続く階段の横を通り抜けると、すぐに見えた。地面に開いた穴と、その周囲に転がる照明器具――そして、地面の穴から覗くセトの巨体が。
「有紗ちゃん!」
名を呼びつつ、菜緒は穴の縁まで駆け寄った。中を見下ろすと、大して広くもないスペースに身体を押し込むようにして座り込んでいるセトの姿が見える。そして、その向こうには。
(……!)
椎名の言っていた通りのものが、そこに転がっていた。石となった、悠介の死体が。
いや、それを死体と呼ぶのは無理があった。少なくとも、一目で人間の死体だと――かつて人間の形をしていたのだと、そう判別できるものはいないだろう。悠介が死ぬ瞬間を目の当たりにしていた自分でさえ、床に転がる奇怪な形状をした石像から生前の彼の面影を見出すのが困難なのだ。知らないものが見たところで、不格好なオブジェとしか認識できまい。
――だが無論、セトにとっては見覚えのないものなどではない。それが悠介だと、悠介だったものだと、それを理解しているはずだ。だからこそわざわざここへと飛んできたはずなのだ。
セトは長い首を窮屈そうに動かすと、床に転がる石像へと鼻先を近づけた。そのまま、悠介の残骸に軽く触れ――
低く、呻き声のようなものを漏らした。
(……鳴いてる?)
およそ悪魔らしからぬその行動に、菜緒は声をかけることも忘れていた。セトは悠介の死体から顔を離そうとせず、口から明らかに威嚇のそれとは違う声を発している。
(有紗ちゃん……)
更にセトの方へと歩み寄り、その姿を眺める。よく見ると、黒い肌のあちこちに傷が見て取れた。ここへ来るまでにケルベロスから受けたものだろうが、一番目立つのは翼の焦げ跡だ。セトに痛覚があるのかどうかはわからないが、恐らくここまで飛んで来るだけでもかなりの無理をしたのだろう。
「有紗ちゃん」
声をかけると、セトはぴくりと反応した。頭をもたげ、こちらへと目を向けてくる――いや。
(……?)
こちらではない。ややずれている。菜緒はセトの視線を追って振り返った。
そして、すぐに見えた。こちらへと向かってくる、黒い獣毛に覆われた三つ首の悪魔の姿が。
(ケルベロス!――もう追いついてきたの!?)
慌ててセトとケルベロスの間に立ち、右腕を上げる。が、すぐにそれだけでは足りないと判断し、菜緒は左腕の袖を捲り上げた。右腕と同じように悪魔のそれへと変え、突進してくるケルベロスに備える。
(なにやってるのよ、椎名くんは――!)
自分で彼ひとりに押し付けたことはこの際脇に押し退けて、菜緒は胸中で非難の声を上げた。どうせ彼には聞かれていないのだから問題はない。
背後でセトが飛び上がる気配を見せるのがわかった。翼を空打ちする音が聞こえる。だがその時には既に、ケルベロスはこちらの間近にまで迫っていた。
(狙うのは、わたし? それとも――)
こちらなど無視してセトへと飛び掛かるか、あるいは邪魔者である自分を噛み砕いてからセトを仕留めるか――ケルベロスが選んだのは後者のようだった。こちらがセトの前から動こうとしないことを見て取ったのか、走ってきた勢いそのままに頭から突っ込んでくる。
当たり前だが、こちらは避けるわけにはいかない。セトはまだ飛び上がっておらず、ここで自分が横へと逃げれば、ケルベロスは一直線にセトへと突っ込むことになるのだ。止めるしかない。
中央の口を開いて迫ってくるケルベロスに向けて、菜緒は全力で右腕を突き出していた。押し返すことができないとはわかっているので、ならばせめて動きを逸らさなければいけない。
右の拳がケルベロスの鼻先に触れ、同時に強烈過ぎる手応えが右腕から全身へと伝導した。がすぐに、衝撃が腰から下へと集中する――押し飛ばされそうになっている。
足の裏と地面との摩擦がケルベロスの重量に負けそうになっていると即座に察知し、菜緒は両足も悪魔のものへと変えた。地面へと爪先がめり込み、そこでようやくケルベロスの動きを止めることに成功する。
「こ、の……っ!」
菜緒は歯を食い縛りながら、こちらの身体を噛み千切らんと開かれたケルベロスの下顎に左腕を叩き付けた。そのまま刃物となった両手の指を思い切り食い込ませるが、ケルベロスは痛みにもがくようなこともなく、更に押し切ろうとしてくる。
――まずい体勢だ、と理解はしていた。目の前にケルベロスの口が開いているということは、このまま炎を吐き出されたら避けようがない。そうでなくとも、左右の首まで押さえ込むにはこちらの腕の数が足りていないのだ。ケルベロスがこちらを喰らうのではなく、単純に殺すことだけを考えたら――
(――!!)
懸念した通り、ケルベロスの喉から炎が溢れた。こちらの目の前だ。
だが幸いにも、というべきか、迷うような時間はなかった。背後でセトが飛び上がった音が聞こえる。菜緒は即座に両手を離し、真後ろに向かって地面を蹴っていた。
仰け反ったこちらの眼前を、放たれた炎が通り過ぎていく。体勢を戻すような余裕もなく、菜緒はそのまま炎を眺めつつ背中から地下へと落下した。
「けほっ!」
衝撃が背中から肺へと浸透し、呼吸が止まる。地下には瓦礫が散乱していたはずだが、運悪くそのひとつに直撃したらしい。思わず泣きたくなるほどの激痛が走り、菜緒は身を捩った。
が、泣いている暇はない。どうにか痛みを堪えてすぐに立ち上がり、穴の縁に立つケルベロスの姿を見上げる。炎は既に収まっていた。
ケルベロスはこちらを見ていなかった。頭上へと飛び上がったセトへと首を向けている。
跳び上がるつもりだろう。セトはまだそれ程高い位置まで上っておらず、ケルベロスにとっては跳躍するだけで充分に爪を届かせることのできる距離だ。よくよく考えればとんでもない話だが。
無論、大人しくそうさせる理由はない。菜緒は両腕をケルベロスへと向けると、肘から先を撃ち出すようにして伸長させた。瞬時に腕は二メートル程にまで伸び、ケルベロスの左右の前肢それぞれを掴んで指を食い込ませる。
これは完全に予想外のことだったのだろう。跳び上がろうとしていたケルベロスが体勢を崩し、驚いたようにこちらの姿を見下ろしてくる。
できればこのままケルベロスの身体を引きずり落としたいところだったが、どう考えてもウェイトが足りない。指でケルベロスの肢を切断しようにも、これは長さが足りなかった。
と、ケルベロスが弾かれたように首を上げる。こちらも同じように首の角度を変えると、セトがケルベロスに向けて口を開いているのが見えた。あの光を吐き出す気だ――悪魔だろうが高層建築物だろうが、区別なく分解する光を。
セトの口から光が溢れると同時、ケルベロスはその場から前方へと跳躍していた――肢に食い込んだ、こちらの腕ごと。
「ちょっ――」
自分の体重がケルベロスのそれを上回っているはずがなく、そしてこちらの足が床に根付いているわけでもない以上、引っ張られるのは当然の結果だった。やむを得ず、ケルベロスの肢に食い込ませていた指を離す。
戒めを解かれて、ケルベロスは穴の反対側の縁へと難なく着地したようだった。こちらもバランスを崩しはしたものの転びはせず、腕の長さを元に戻す。
直後にセトが光を吐き出し、直前までケルベロスの立っていた足場が消失した。だがケルベロスは一顧だにせず、振り返って再びセトへと飛び掛かるべく身を屈めている。
菜緒は躊躇せず、思い切り跳躍していた。悪魔のものへと変化している両脚は数メートルにも及ぶ上昇を易々と可能にし、瞬時にケルベロスの眼前まで跳び上がる。
(ワンピースでよかった)
破れる心配をする必要がない。もっとも悠介の調達してきたこの修道衣では裾が長すぎて、動き回るには決定的に向いていないのだが。
跳躍の勢いを乗せ、ケルベロスの顎目がけて拳を振り上げる。ケルベロスは即座にその場から後退してこちらの一撃を避けたが、跳び上がることを断念させるのには成功したようだった。そのまま穴の縁へと着地し、間髪入れずケルベロスへと突進しようしたところで。
(――有紗ちゃん!?)
頭上のセトが再び光を撃ち出そうとしているのに気付き、菜緒は慌てて方向転換せざるを得なかった。こちらがいることなどお構いなしに光が放たれ、またしても地面の一部が消え失せる――ケルベロスもその場から移動し、光を躱したようだった。
(やっぱり、理性なんて残ってないの?)
悠介だけが例外ということか。共に過ごした時間を考えれば無理もないことだが。
ケルベロスとの距離が再び開いてしまったことを苦々しく思いつつ、菜緒は再び駆け出そうと両脚に力を込めた。
瞬間、象の嘶きに似た声が響き渡った。
(え!?)
聞き覚えのある音に振り返る。その直前、なにやらケルベロスも――あるいはこちら以上に――過敏に反応していたように見えたが。
頭上にいたセトに異変が起こっていた。羽ばたかせていた翼をぴたりと止めている。無論のこと、それで高度を維持できるはずもなく――真下に開いた穴に向かって、落下を始める。
「有紗ちゃん!」
叫び、菜緒はそちらへ駆け寄ろうとした。が。
(――っ!!)
足を踏み出そうとした瞬間に、見えた。ケルベロスの口から炎が覗いている。それも、三つの口すべてから。
標的はこちらではない。落下しようとしているセトだ。セトは小刻みに全身を震わせてはいるものの翼を動かそうとしておらず、回避のための動作をしていない――あるいは、できないのか。
咄嗟に駆け寄ろうとはしたものの、恐らく落下の衝撃自体はそれほどでもないはずだ。少なくとも、ケルベロスの炎の直撃を受けるよりは。ならばそちらへ向かうよりも、ケルベロスを止める方が良い。
――だが、一瞬とは言え足を止めたのが禍した。こちらの腕が届くよりも早く、ケルベロスの口から炎が吐き出される。
「やめて!!」
それが既に遅いのだとは悟っていたが、しかし菜緒は叫んでいた。同時に放たれた三つの火線はその全てが落下するセトへと直進しており、黒い巨体を瞬時に覆い尽くす。
「有紗ちゃんっ!!」
振り返りつつ叫ぶ。間近で渦巻く炎が放つ熱気はこちらの肌も容赦なく炙っているのだが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
炎が収まり、菜緒は穴の縁へと駆け寄った。その中へと視線を落とすと。
「……!」
全身から煙を上げ、皮膚の至る箇所が焼け爛れているセトの姿が見えた。元々黒い肌だったので焦げ目までを判別することはできないが、今の炎で尋常でないダメージを負ったのは間違いない――翼は左右ともに溶け落ち、尻尾に至ってはどこにも見当たらなかった。
当たり前だが、被害はセトのそれだけではない。地下の空間そのものが大きく抉れ、形を変えてしまっている。そして――石となっていた、悠介の死体もまた。溶けて元の形を失い、最早見分けることすらできなかった。
「――っ! ケルベロス!!」
激昂し、菜緒はケルベロスに向かって駆け出していた。と同時に、銃声が響く。
ケルベロスは向かってくるこちらではなく、その狙撃の方を警戒したようだった。大きく横に跳んだかと思うと、ケルベロスのいた地面に小さな穴が穿たれる。
立て続けに、銃声が聞こえた。それに呼応するようにケルベロスが跳躍を繰り返し、こちらから離れていく。
何発目かの狙撃を見届けたところで、菜緒はようやくどこから撃たれているのかを割り出すことができた。立ち止まってそちらへと視線を動かし、目を凝らすと――見えた。数人のテンプルナイトがなにかの建物の窓から、こちらとケルベロスに対して銃口を向けている。
(椎名くん――?)
その中に彼の姿がないことに気付き、菜緒は眉をひそめた。自分やケルベロスを後回しにして他の場所へ移ったとも考えられない。ということは――
予測はすぐに的中した。ケルベロスの背後にある路地から、刀を持った人影が飛び出してくる。
即座には、それが椎名であると判断できなかった。彼は上着を脱いでおり、しかも先程まで被っていたフードも、顔に巻かれていた包帯も見当たらなかったからだ。傷痕だらけの顔からは自分の知っていた頃の彼の面影を見出すことも難しく、最終的にそれが椎名であると菜緒が断定したのは、単にこの状況で仕掛けてくるのが――しかも悪魔に対して刀一本で――他に考えられないという、割と消極的な理由だった。
不意打ちだったようにしか見えなかったし、実際のところ椎名もそのつもりだっただろう。狙撃に注意を向けさせ、その間に近づいた彼が奇襲をかける、そういった筋書きだったはずだ。
だがそれでも、唐突に背後に現れた彼の動きに、ケルベロスは反応して見せた。あるいは、椎名達の思惑を見抜いていたのかもしれない。
駆け寄りつつ振り抜かれた椎名の刀を、ケルベロスの爪が受け止める。そしてそのまま、口を開いた。またしても、その奥に炎が灯り――
「はあぁっ!!」
そこへ、菜緒は全力で拳をぶち当てていた。確かな手応えと共にケルベロスの身体が一瞬だけ地面を離れ、そのまますっ飛んでいく。
ケルベロスは数メートル程地面を転がったところで止まり、起き上がった。が、体勢を戻し切るよりも先に椎名が側面へと迫り、刀を振り切る。流石に今度は反応できなかったらしく、右側の首の下顎がぼとりと地面に落ちた。
ケルベロスの絶叫が響く。しかし椎名は動きを止めなかった。振り抜いた刀を即座に引き戻したかと思うと、今度はケルベロスの右前肢を叩き斬る。四肢のひとつを切断され、ケルベロスの頭が上体ごと大きく傾いだ。
その隙を見逃さず、菜緒はケルベロスに向かって距離を詰めようとし――
「え?」
しかし椎名がこちらに向かって手を突き出しているのを見て、動きを止めた。近づくな、という意味だろうか。
どういうつもり? と尋ねるよりも早く。
先程聞こえたものと同じ嘶きが、またしても響き渡った。同時にケルベロスの身体がびくりと震えたかと思うと、完全にバランスを失ってその場に倒れ込む。
それを見届けてから、椎名が口を開いた。
「……よし。やっと効いたか、このクソ犬が」
この上なく忌々しげに吐き捨てると、椎名は倒れたケルベロスの首の根元へと刀の切っ先を突きつけ――そのまま、深々と突き立てた。ケルベロスの残ったふたつの口から弱々しい呻き声が漏れ、もう一度痙攣のように身体を震わせる。
「さすがにしぶとい。まだ生きてやがるか。おい相澤、手伝え」
と、椎名が振り向かぬままこちらへと手招きをしてくる。菜緒はそちらへと歩み寄り、倒れたケルベロスの姿を見下ろした。
「神経弾の効果が切れる前に、止めを刺す。頭を潰されりゃ、流石に死ぬだろ」
「神経弾? さっきのあれのこと? 象の鳴き声みたいなのが聞こえたけど」
「説明は後だ。よっ――と」
椎名が刀を引き抜き、構え直す。そしてこちらと同じようにケルベロスの首を見下ろすと、
「じゃあな、ケルベロス。プランクのやつには別れの言葉も言えなかったから、代わりに聞いとけ――お前は、大したヤツだったよ」
告げて、刀を一息に振り下ろした。中央の首が斬り落とされ、地面を転がる。
(プランク……)
彼ではないと、有紗にはそう告げた。実際にここに転がっている悪魔にプランクとしての意識はもうないのだろうし、あったとしてもそれを確認する方法などない。もしくは悠介の言っていた通り、メデューサと交戦した際にプランクとしての意識はとっくに死亡していたのかもしれず、有紗のように自覚がなかっただけなのかもしれない。
それでも。菜緒はつぶやいていた。
「助けてくれて、ありがとう」
渾身の力を込めて、拳を叩き付ける。残っていた左側の頭部が潰れ、辺りに血を撒き散らした。
微かに痙攣していたケルベロスの身体が完全に動きを止め――もう二度と動かない、死体へと変わる。一年前に一度死にかけたプランクの肉体は、今度こそ死を迎えた。悠介がいない以上、再びその骸を操られるようなこともない。
「はあ――ようやく、ひとつ片付いたか」
大きく息を吐き出し、椎名が呻く。そして踵を返したかと思うと、セトの落下した穴の方へと歩いて行った。
菜緒もそちらへと歩き、改めてセトの姿を見下ろした。やはり、受けたダメージは深刻だ。下手をすれば、もう生きていないかもしれない。
「――生きては、いるな。辛うじて」
と、こちらの考えを見透かしたように椎名が告げてくる。
「神経弾を受けて身動きが取れなくなったところに、ケルベロスの火を浴びたか。そりゃ一溜まりもねえよな」
「だから、その神経弾ってなに? あの銃弾のこと?」
「まあそうだ。こいつと同じ――」
こちらの質問に、椎名は持っていた刀を示しながら言ってきた。
「デジタル・デビルから取り出した情報を練り込ませた、特殊弾頭だ。悠介の置き土産だよ。一時的にだが、悪魔の動きを止められる」
悪魔だけじゃねえけどな、と続けてくる。
(悠介くん、そんなものを――)
菜緒は素直に驚いていた。人間など悪魔に比べればどこまでも無力な存在でしかないと思っていたが、それを覆し得るだけのものを、彼は考えていたのだ。それも悪魔召喚プログラムあってこそ、なのだろうが。
と、椎名が刀を持ったまま穴の中へ飛び降りようとしているのを見て、菜緒は声をかけた。
「ちょっと待って椎名くん。まさか、有紗ちゃんに止めを刺す気?」
「なにがまさかなんだ。当たり前だろ」
椎名が振り返り、呆れたように言ってくる。確かにこの期に及んでまさかもなにもないのだが、しかし菜緒にそれを承服するつもりはなかった。
「させると思う? 有紗ちゃんがまだ生きてるなら、わたしが守る」
「やめとけ」
こちらの言葉に、しかし椎名は即答してきた。
「大体、なんで守ろうなんて思うんだ。あいつは悪魔で、お前も悪魔だろ。悪魔同士で誼があるなんざ、まさか言わねえよな?」
「言わないわよ。そんな理由じゃない」
「じゃあなんでだ。お前からすればあいつは、餌以上のものにはなり得ないはずだ」
「それは――」
言葉に詰まる。だがこちらの返事を待つことなく、椎名は続けてきた。
「悪魔なら悪魔らしく、自分以外の生き物は残らず餌だって割り切れよ。つか、割り切ってたんじゃねえのかよ」
割り切っていた。割り切っていたはずだった。椎名や悠介と再会するまでは、間違いなくそう思っていたはずだった。
だが、今は。
「悠介くんが、死んだのは――」
「うん?」
口を開いたこちらに、椎名が聞き返してくる。菜緒は続けた。
「あの子が死んだのは――わたしたちのせいだって、そう思っちゃったの」
それを口にする。敢えて考えないようにしていた、その理由を。
言い返されるものと思っていたが、しかし椎名は反駁してこなかった。
「わたしもあなたも、変わった。以前とは違うわたしたちになった。あの子はそれに、巻き込まれて死んだんだって。……そう、思っちゃったの」
彼の死は自業自得だと。誰の目にも明らかに、彼自身が選択を誤ったことが死因なのだと。そう考えていた。
いや、今でもそれ自体は変わっていない。悠介の死は完全に彼自身の責任によるものであって、彼の採った選択肢の結果でしかない。自分と椎名を見捨てるという道を切り捨てた、馬鹿な判断の末路に過ぎない。
だが、それでも。
「お前が、ヘカーテの仇にならなければ――俺が白木の家族を追い出さなければ、あいつは死なずに済んだ。そう言いたいのか」
苦々しげに、椎名が言ってくる。その表情はしかし、決してこちらの言葉を否定しているようには見えなかった。
――ただの結果論だ。自分にも椎名にも、そして悠介やヘカーテにも、そんなことは予測し得たはずがない。直接的に悠介の死因を作ったのはヘカーテだが、彼女にしても悠介を殺すつもりなどなかったのだ。彼女が殺そうとしていたのは自分と椎名で、そこへ悠介が割り込んできたという形だ。あの時の彼が、果たして死を覚悟していたのかどうかは――今となってはわからないし、この先もずっとそれを知る機会はない。
責任の所在は明らかで、どうしたところで他の誰かが――悠介以外の誰かが、それを負うことなどできない。彼の死は、彼の責任でしかない。それが論理的な帰結だ。
だが――それでも。
「有紗ちゃんから悠介くんを奪ったのは、わたしとあなた。そう考えちゃったら……仕方、ないじゃない」
椎名はなにも言って来なかった。僅かに痛みを堪えるような色を湛えた目も、こちらからは逸らしている。
やがて、吐き出すように言ってきた。
「だったら――尚更、捻じ曲げるわけにはいかない」
刀を握り締め、こちらへと身体を向けてくる。いつでも斬りかかることのできる体勢だった。
「俺やお前が捻じ曲げちまったら、悠介の死が完全に無駄になる。違うか? あいつは、俺たちを助けようとしたんだぞ」
「それは――そうかも、しれないけど」
「あいつは自分の命よりも、俺たちを生かすことの方が正しいと判断して、そして実行に移した。俺たちが今こうやって生きているのはその結果だ。お前の言ってるのはそういうことだ」
菜緒は唇を噛んだ。悠介の選択に非がなかったとするなら、そういうことになる。彼が間違っていなかったと仮定するのなら、そういうことになる――
「でも、やっぱりわたしは――有紗ちゃんを、助けたい」
悠介に置き去りにされてしまった、あの少女を。彼の代わりに――は、なれないとしても。
「そうか」
それだけを告げて、椎名が動く。即座に反応して、菜緒もまた動いていた。
が、動こうとしたところで。
椎名が踏み出しかけていた足を止めていた。ゆっくりと首を動かし――セトの方を見やる。
「……なんだと?」
彼がつぶやくのを聞き、菜緒もまた動きを止めて視線をセトの方へと向けていた。眉をひそめつつ、死に瀕している黒い悪魔の姿を見やり――
「あら?」
そして、声を上げていた。セトの身体に異変が起きている。
真っ先に目についたのは、尻尾だった。ケルベロスの炎をまともに浴びて焼失したはずのそれが、いつの間にか再び生えている。
そしてすぐに、尻尾だけではないと気付いた。溶け落ちたはずの翼もその面積を取り戻しかけており、更に目を凝らせば全身の皮膚も少しずつ再生しているように見える。
「傷が、治ってる……? どうして――」
菜緒は思わず口にしていたが、しかし悪魔が欠損した肉体を復元する上で必要とするものと言えば、答えはひとつしかない。
「生体マグネタイトを、吸収してるだと――!? 馬鹿な! 一体どこから吸い上げてるってんだ!?」
慌てた様子で椎名が周囲へと視線を巡らせる。
「ここには俺たちしかいねえんだぞ! そのためにテンプルナイトも近づかせずに――」
「椎名くん……あれ」
彼の言葉を遮って、菜緒はそちらを指差した。椎名がこちらの示した方へと顔を向けるが、
「ん? あっちは確か――連中を配置した場所だったな。……おい、まさか」
彼の視力では見えないのか、椎名はこちらに向き直って聞いてきた。菜緒は頷き、
「あなたの部下のひとたちが、石になってる」
銃を構えたままの格好で石像となっているテンプルナイト達の姿を見ながら、告げた。椎名の舌打ちが聞こえる。
「冗談じゃねえ――! ここからどれだけ離れてると思ってんだ!? さっきよりも、もっと範囲が広いじゃねえか!」
目測ではあるが、ここからテンプルナイト達が狙撃を行っていた地点まで、軽く数百メートルは離れている。有紗の姿だった時は間近にいた人間のみだったが、それとは比べものにならないほどの距離だ。
しかも。
「まだ、再生してる。まだどこかから、生体マグネタイトを吸収してる」
「クソ!」
叫んだかと思うと、椎名が穴に向かって飛び降りた。こちらが止める暇もなく、落下しながらセトに向かって刀を突き出している。
「椎名くん、やめて!」
菜緒は腕を伸ばして声を張り上げたが、その時には既に、椎名はセトに肉薄するところまで迫っていた。刀を突き刺そうとし――
ぱっと開かれたセトの翼に、打ち払われた。
「ちっ!」
空中でバランスを崩した椎名がくるりと回転し、そのままセトからやや離れた場所に着地する。それを見て菜緒は胸を撫で下ろし、穴の縁へ駆け寄った。
「有紗ちゃん! 無事なのね!?」
セトが返事を寄越してくるようなことはなかったが、しかしケルベロスによって焼かれたその肌は、ほぼ完治しているようだった。翼も尻尾も元に戻っており、空中へ飛び上がろうとしている。
そして、すぐに菜緒は気付いた。
「あれ……? なんだか……」
目を瞬かせる。なにか、違和感を覚えた。
セトは翼を羽ばたかせて再び飛び上がると、すぐにこちらと同じ高さにまで上ってきた。それも一瞬のことで、あっと言う間にこちらの頭上にまで上昇していく。
――そこで、菜緒はようやく気付いた。違和感の正体を悟る。
セトの身体が、大きくなっている。先程までは数メートル程度だったはずの体長が、今は十メートルを優に越えていた。上昇してこちらから遠ざかっているにも関わらず目視でのサイズが変わらないので、こちらの遠近感が狂ったのかと思ったほどだ。
「な――」
椎名も気付いたらしく、セトの姿を見上げて呆然と声を上げていた。
セトの身体は尚も肥大しており、見上げているこちらからの距離感が掴めなくなっていた。地に落としている影の大きさから察するに、その体長はそろそろ二十メートルを越えようとしている。
「まだ、生体マグネタイトを吸収し続けてるの……?」
見た限り、傷はもうどこにも見当たらない。だが肥大化は止まらず、完全にこちらの頭上を覆っていた。
「街の人間から、吸い取り続けてるってのか――!? やめろ、有紗!」
穴の底から椎名が叫ぶが、セトはそちらへと視線を下ろすと、大きく口を開いた。そのまま直下に向けて――光を吐き出す。
「椎名くん!」
慌てて視線を落とすと、撃ち落とされた光を椎名が横に跳んで避けるのが見えた。直径にして二メートルはあろうかという穴が彼の立っていた場所に穿たれ、見えていたはずの床が消失する。
椎名はそのまま壁に向かって走ると、瓦礫を足掛かりにしてこちらの前にまで上がってきた。セトの姿を見上げ、声を張り上げる。
「どこまでデカくなるつもりだ――どれだけ吸収するつもりなんだ、あいつは!」
聞かれたところで、こちらにわかるはずもない。だがひとつだけ、わかることもあった。と言うか、思い出したというべきか。
一年前、自分が目にしたセトの姿は、もっと小さかった。それも昨晩姿を現した際の大きさより、更にだ。
考えてみれば当たり前の話で、あの時の有紗はこちらから悠介を守るために悪魔化したのだから、周囲から吸い上げる生体マグネタイトの量を最小限に抑えていたのだろう。でなければ周囲の人間諸共、悠介のそれまで吸い尽くしてしまう。あの時の彼女にはそれを判断できるだけの理性があり――ついでにそのおかげで、自分も助かったのだろう。分解されて消え失せるようなことがなかった。
だが、今度は違う。椎名の叫びに対する返答に窮していると、地上に落ちているセトの影が形を変えるのに気付いた。
セトが、移動しようとしている。
「待て!」
翼と身体の向きを変え、飛び去ろうとしているセトを追って、椎名が駆け出した。その更に後を追い、こちらも走り出す。
と、飛びながら、セトが再び口を開くのが見えた。
「――!」
椎名の顔がはっきりと青ざめる。それが上空から見えたということはないだろうが、セトは特に躊躇した様子もなく、眼下に広がる街に向かって光を吐き出した。
建物がまとめて二つ、光の直撃を受けて消滅するのが見えた。一瞬にして、跡形もなく。
「有紗! やめろっつってんのが聞こえねえのか!」
椎名の叫びに反応するでもなく、立て続けにセトが光を吐き出した。そのいずれもが街の一部を削り、分解していく。
「あいつ――! 理性なんかもうねえのかよ!」
椎名は立ち止まると、こちらへと振り返り――間髪入れず、胸倉に掴みかかってきた。そのまま、こちらの顔を引き寄せる。
「おい、あれが有紗だってのか!? あんなモン、人間を喰らう悪魔より始末に負えねえじゃねえか! あれを助けるとか、本気で言ってんのか!」
「それは――」
答えようがなかった。
実体化に必要な生体マグネタイトを使い切ってしまえば、また有紗の姿に戻るだろうと踏んでいた。実際、一度はそれで元に戻ったのだ。そしてその時の彼女はまだ、自分の知る有紗のままだった。人間ではないという自覚はあったようだったが、それでも彼女はまだ、悠介の死を嘆き悲しむ、少女でしかなかったのだ。
だがこうなると、元の有紗の姿に戻れるのかどうか、確証はない。周囲に存在する生体マグネタイトを残らず吸い尽くしたとしても、それまでに無差別に吐き出している光に打たれてこちらが消滅する公算も、決して低いとは言えないだろう。
――死んだ、のだろうか。自分の知る彼女は既に、ケルベロスに下半身を食い千切られた、あの時に。
「そんなの……わからないじゃない」
目の前にある椎名の顔を見据え、菜緒は口を開いた。
「戻るかも、しれないじゃない。吸い取るための生体マグネタイトがなくなれば、有紗ちゃんに戻るかもしれないじゃない」
「この街の住民が全滅するまで、待ってろってのか!?」
「そうよ! 関係ない人間なんて、わたしの知ったことじゃないもの! わたしが助けたいのは有紗ちゃんだけ!」
「それで助けられるかどうかもわかんねえのにか!? お前だって、あの光に触れたら無事じゃ済まねえってことくらい、わかるだろうが!」
「それでもよ!」
椎名の目を睨み返しながら、菜緒はあらん限りの声量で叫んでいた。
「こっの――!」
椎名が声を詰まらせ、こちらの襟を掴んだ腕に更なる力が込められる。殴られると思い、菜緒は反射的に奥歯を噛みしめていたが。
彼は腕を伸ばし、こちらの身体を突き飛ばした。胸元を押され、その場に尻餅をつく。
椎名はこちらの姿を見下ろしていた。表情を押し殺してはいるが、怒りに打ち震えているのだとはわかる――今はもう、彼の顔を隠すものはないのだ。
彼がなにかを言おうと、口を開きかけ――それと同時に。
「――椎名くん、上!」
こちらの直上でセトが口を開いているのが見え、菜緒は反射的に叫んだ。椎名がはっと顔を上げ、向けられたセトの口を仰ぐ。
直後に光が放たれ、菜緒は真横に向かって身体を転がせていた。椎名もまたその場から跳び退き、降り注いだ光から身を躱す。
更に二度、三度と、光はこちらと椎名に向けて撃ち下ろされた。立ち止まらずにそれを避けながら、セトの姿を見上げる――こうしている今もセトの身体は大きくなっており、既に全体を視界に収めることが難しいほどだった。
「……もう俺たちのことも、外敵としか見えねえとよ」
こちらと同じように光を避け続けながら、椎名が言ってくる。やはり、菜緒はそれに応えることはできなかった。
もう一度、菜緒はセトの姿を見上げた。なにを言ってくることもない。ただこちらの立っている場所目がけて、あらゆるものを分解する光を吐き出してくるだけだ。
――敵ならば殺す。こちらの存在を脅かすものであれば、躊躇する理由はない。それが悪魔だ。それが今の自分だ。
いや、悪魔でなくとも。それは誰もが当たり前のようにやっていることなのだと――そう言い聞かせたのは、他でもない自分だった。それが正しいと信じた。
他に信じるべきものがないという、ただそれだけの理由であっても。