そもそも悪魔として実体化した今の有紗に、敵とそうでないものを区別するような理性というか知能があるのかどうか。それは定かではない。悪魔にとって、自分以外の動くものは残らず捕食する対象であるはずだからだ。そこに敵味方という区分はあってもなくても大差ない。
(だけどこれは――どういうこった!?)
上空から飛来する光をどうにか躱し続けながら、椎名は疑問に思っていた。
セトにとっての食事とは、他の悪魔のように生物を肉体ごと喰らうようなものではなく、生体マグネタイトだけを直接吸収するという、ある意味より効率的な手段によるものだ(どうやっているのかは知らないが)。そもそもその時点で、おかしな話だった。そんな機能を備えているのなら、近くに生物さえいればなにもしなくとも実体化を果たすことができるということであり――他者を攻撃する手段など、必要ない。しかもその手段というのが、触れれば生体マグネタイト諸共に分解させてしまうようなものとあれば尚更だ。無意味どころか、むしろ実体化を阻むものですらある。
その攻撃をこちらへ向けているということは、つまり捕食対象などではなく、明確に敵対存在として自分達を捉えているということだ。抹殺するべき相手として。
――やはり、他の悪魔とは異なっている。目の前の餌となり得るものを、そう認識しないというのは。
(それとも、他の悪魔とは動き方が違うだけで――)
地上の人類を排除するという点においては変わらない、のだろうか。悪魔というのは結局のところ、そのための存在なのだろうか。
(悠介のメモにあった、地球意思ってヤツか?――馬鹿馬鹿しい!)
彼の残したファイルに記されていた中でも、取り分け信じるのが難しかった記述を思い出す。というか悠介自身、どこまで本気であんなことを書いたのか怪しいものだ。ろくに推敲も添削もせず、ただ思い立ったことだけを発作的に書き殴っただけなのではないだろうか――実際、それを自覚しているような一文もあった。
いずれにせよ、ここで吐き出される光を避け続けているだけでは埒が明かない。こうしている間にもセトの体積は増し続けており、それはつまり、被害が拡大の一途を辿っているということを表している。一刻も早く、無力化しなければならない。
だがそれを為すには、刀一本ではどうにもなりそうになかった。必要なのは――
再び降り注いだ光をやり過ごしたところで、椎名はその場から駆け出した。街の地図は頭に叩き込んである。
(ここから一番近い、避難所っつうと――)
現在位置と地図を頭の中に思い描き、全力で走る。恐らくそこならば、テンプルナイト達がいるはずだ。既に残らず石になっている可能性もあるが、しかしこちらの望むものを手に入れるには彼等と合流するしかない。
と、こちらが駆け出すのを確認してか、セトが迷うように首を動かすのが見えた。怪訝に思って背後を振り返ると、菜緒がその場に立ち止まったまま動いていない。
(――どっちを狙おうか、迷ったのか)
彼女がどういうつもりでその場に留まっているのかは知らないが、こちらが二手に分かれたことで、セトを惑わせることができたらしい。意図したことではなかったが、僥倖と言えた。これでセトがこちらではなく、残った菜緒の方を狙ってくれれば言うことはないのだが――そこまで幸運は働かず、セトは首をこちらへと向けてきた。
再び上空から降り注ぐ光を避けつつ、ひた走る。市民が避難しているであろう建物にまでセトを引っ張っていくことになってしまうが、この状況では如何ともし難い。セトがどれだけの範囲に亘って生体マグネタイトを吸収しているのかもわからないのだから、心配しても仕方がないというのもあるが。
光を避けるために度々足を止めつつも、どうにか目当ての建物を視界に捉えることができた。更に速度を上げ、そちらを目指す――と。
(――!)
見えた。建物の入口辺りだろうか、テンプルナイトと思しき銃を持った人影が立っている。まだその人相まで確認できる距離ではないが、徐々に近づいていくと。
(ちっ――手遅れか!)
そのテンプルナイトが石像となっているのを確認し、椎名は思い切り舌打ちした。更に近づいていくと建物の中の様子が窺い知れ、その中に数十もの彫像が居並んでいるのが見て取れる。
全滅だった。ここにいる数十人分もの生体マグネタイトは、残らずセトに吸い尽くされたのだ。
苦々しく思いながら、椎名は入口に立っていたテンプルナイトの石像から、銃をひったくった。弾倉を確認する。弾自体は残っているが、問題は弾頭の種類だ。
(ハズレか!)
弾倉だけをその場に投げ捨て、椎名は別のテンプルナイトの姿を探した。そこへ再び上空から光が落ち、身を翻す――目の前に立っていたテンプルナイトの石像が光に撃ち抜かれ、綺麗に消失した。
避けながら尚も周囲を確認すると、別の石像が見えた。こちらも小銃を持ったまま石化しており、急いでそちらへと駆け寄る。椎名は弾倉を確認し――
(一発だけかよ!)
目当ての特殊弾頭を見つけたものの、残弾の少なさに胸中で嘆きの声を上げる。だが当然、ないよりは良いに決まっている。持っていた銃を捨て、椎名はそちらを取り上げた。即座に振り返り、セトへと銃口を向ける。
が、そこで。
(撃って、どうするつもりだ?)
はたと気付く。ここでこの弾丸を命中させ、セトの動きを封じたとしても。
(息の根を止めない限り、また元の木阿弥だ)
地上からでは具体的な数値こそわからないものの、既にセトの身体は数十メートル程にまで達しており、最早自分の刀で斬りつけただけでは殺すのは困難だろう。首でも斬り落とせば殺せるかもしれないが、それを実現するにはこんな刀ではなく、もっと大きな重機でも持ち出さなければなるまい。そしてそんなものを持ち出す頃には、セトは再び上空へと舞い戻っている。
(くそ、どうする!?)
悩むことに費やすことのできる時間は余りにも少ない。というか、そんなものはない。被害が拡がり続けている以上、今すぐにでもセトを殺さなければならないのだ。
即座に決断しなければならない。あの悪魔の息の根を止める方法を、打ち立てなければならない――
(――待て、よ)
と、手に持った刀を見下ろす。
この刀一本で、セトに止めを刺すことは――できなくはなくとも、ひたすらに時間がかかるだろう。セトの巨体を考えれば何度斬りつければいいのかわからず、その間にセトが戒めを振り解いて飛び上がるのは目に見えている。
この刀だけでは、足りない。これだけで止めを刺すことはできない。ならば。
(時間がねえんだ。やってみるしかないか!)
セトへと向けていた銃口を引き戻し、椎名は再び走り出した。先程走ってきた道を、今度は逆走する。
急がなければならない理由は、他にもある。このままセトが巨大化を続ければ、どこかの時点で完全に手に負えないサイズになってしまうだろう。それがこの街の住民が残らず石になるより先か後か、確かめるわけにはいかない。
(今ならまだ、殺せる――仕留められる!)
その可能性がある。それに賭けるしかない。
またしてもセトの光を躱しつつ、走る。だがセトの巨大化に伴って口の幅も大きくなっているのか、吐き出される光はどんどんその太さを増していた。避けようにも足を止めることが多くなり、明らかに先程よりもペースが落ちている。
そして言うまでもなく、周囲の被害も尋常なものではなかった。数えるのが馬鹿らしくなるほどの建物がなくなっており(それでも後のことを考えれば、数えないわけにはいかないのだが)、道路にも無数の穴が開いている。いくつかの建物は直接光を浴びたわけではなく、支えになっていたものを消されたせいで倒壊したようだったが、それらも被害のひとつとして勘定しない理由はない。
シスター・メイの死。悪魔の侵入。消失した建築物。そして生体マグネタイトを吸い上げられ、石像となった者達。僅か数日の間に、前例がない規模の被害だ。例えすべての悪魔を排除したとしても、再びこの街を復興させるにはとんでもない時間がかかるだろう。あるいは、不可能かもしれない。
だがそれでも、ここで被害の拡大を食い止めることは無意味ではない。ここに暮らす人々の生命を守ることは、無意味ではない。そう信じるからこそ、治安維持部隊の長などという、自分には分不相応な役柄を続けてこられたのだ。
やがて、見えた。先程の場所に立ち尽くしたまま、動いていない菜緒の姿が。
「相澤!」
声を張り上げる。ぴくりと菜緒の身体が動き、こちらへと振り返った。
彼女に向かって走る足を止めず、更に叫ぶ。
「有紗を――セトを殺す! 手を貸せ!」
え、というように、菜緒の口が小さく動くのが見えた。実際のところ声に出して呻いたのかもしれないが、こちらの耳には届いていない。
自分と菜緒を同時に視界に収めたからか、幸いとばかりにセトは再び菜緒も標的に加えたようだった。彼女の立っていた場所に光が飛来し、慌てた様子で菜緒がその場から移動する。
光を避けるために走り出した彼女に追いつき、その隣を並走する。菜緒は訝しげに聞いてきた。
「殺すって、どうやってよ? なにか方法でもあるの?」
「ある。あることにしとく。けどそれには、お前の協力が必要だ。まあお前が嫌だっつうなら、ここでお前を気絶でもさせて、無理矢理協力させるけどな」
そうすることに躊躇いもない。むしろ彼女の確認など取らず、さっさとそうしていた方が良かったかもしれないとすら、椎名は思ったが。
「…………わかったわ」
走りながら。
彼女はそう答えてきた。
「……どういう心境の変化だ?」
こちらを見ることなく、ただ前方だけを見据えて走っている彼女の顔をちらと見やり、椎名は尋ねた。
「別に――自分が悪魔だってことを、思い出しただけ」
やはりこちらと視線を交わらせることなく、菜緒はそう吐き捨てた。
「あなたや悠介くんたちに再会できて、血迷ってたのかもね。自分以外の誰かを助けようなんて、確かに悪魔らしくないこと考えてたわ」
悪魔らしくはない。だが、彼女らしくはある。
思わず喉元まで出かかったその科白を、しかし椎名は飲み込んだ。そんなことを言われたところで、今の彼女が喜ぶことはないだろう。それはわかっていた。
「だけどもう、血迷うのは終わり。わたしは悪魔になったんだから、その流儀を貫くだけよ。悪魔としてのやり方で――悪魔のルールにだけ、従う」
「ルール、か」
彼女の口にした言葉を、つい繰り返す。言うまでもなく、自分がこの街に敷いたものや、そして以前の彼女が守ろうとしていたそれとはまったくの別物だ。
どちらが正しい、ということはないのかもしれない。野生動物の行う狩りを、人間の法に当てはめるのはナンセンスだ――だが自然の摂理とやらに逆らうことで、人類は繁栄したのではなかったか。その繁栄を非というなら、それはただの偏執狂だろう。草食動物であっても、肉食動物に狩られる際には抵抗して見せる。
人が築き上げてきたルールとはつまるところ、外敵や脅威に対して持ち得た武器でしかない。それが他のルールより優るものであれば人類はこの先も繁栄を続けるのだろうし、そうでなければ他の――例えば、菜緒が口にしたように悪魔の――ルールによって追いやられるだけだ。死に絶えるとまでは言わないが、以前と同じところに戻りはしない。
そして自分が人間である以上、どちらのルールも正しいなどとは口が裂けても言えない。人間以外のなにかの持つルールを認め、肯定する資格を、人間は永遠に持ち得ない。人間は人間以外のなにも是とは言えない。
――どこまでも、人間の尺度でしか物事を量れない。
(だから、悪魔は殺す)
どこまで行っても敵でしかないのだから、殺すしかない。排除するしかない。悪魔のルールなどに、人間のルールを脅かされるわけにはいかない。
考えながら走っていたせいか、セトの吐き出した光で大きく抉れた地面に、足を取られた。危うく転倒しかけるが、しかし菜緒に腕を引っ張り上げられて事なきを得る。
「それで、どうするの? どうやってセトを殺すつもり?」
こちらの礼を待たずに(椎名としてもそんなものを言うつもりはなかったが)菜緒が聞いてくる。椎名は持っている銃を示し、
「話は簡単だ。こいつを撃ち込んで、セトの動きを止める。落ちてきたところを――一撃で、仕留める」
こちらのその説明に。
「……どうやって?」
当たり前だが、菜緒は眉をひそめて指摘してきた。椎名は刀の方を掲げて見せ――ようとしたところを真上から光に撃ち抜かれ、慌ててその場から移動した。
「ええい、説明は後だ! とにかく、落ちてきたあいつに潰されないよう、まずは距離を取る! 走れ!」
「ちょ――ああ、もう!」
走る速度を更に上げたこちらに追い縋るべく、菜緒もまた速度を上げたようだった。流石に肉体まで悪魔になっている彼女とは筋肉の質が違うらしく、先行したはずのこちらにすぐさま追いついてくる。
セトの攻撃によって次々に建物が消失しているとは言え、それでもここが以前は大勢の人間が生活していた場所であることに変わりはなく、距離を取るのは容易ではなかった。入り組んだ建物のせいで少し走ってはすぐに曲がる、ということを繰り返さざるを得ず、なかなか引き離すことができない。それでなくともあの巨体だ。中途半端な距離では、落下の衝撃から免れないだろう。
それでも止まることなく走り続け、やや大き目の通りに出た。以前は時刻を問わず自動車が行き交っていたのであろう車道の真ん中を、誰の目を憚ることもなく疾走する。
そして。
「よし――撃つぞ!」
「ええ!」
十分な距離を稼いだと判断して立ち止まり、椎名は振り返りながら銃口をセトへと向けた。ろくに狙いもつけず――そんな余裕はなかったし、標的のサイズからしても必要ない――即座に発砲する。
銃弾はセトの首、顎のやや下辺りに命中した。弾頭に仕込まれたデジタル・デビルのソースが生体マグネタイトと反応し、けたたましい嘶きを上げる。
「今だ、相澤!」
彼女の方へと振り返り、椎名は声を張り上げた。が。
「……ちょっと待って、椎名くん」
菜緒はセトの方を見上げたまま、こちらを見ていなかった。その表情にただならぬものを感じ、こちらも再びセトへと視線を戻す。
(な――!?)
そして、絶句した。
セトの首が痙攣したようにがくがくと震えている。特殊弾頭の効果が顕れているのだろう――それはいい。
問題なのは、首から下だった。大きく羽ばたく翼の動きには、大した変化がない。若干鈍くはなっているのかもしれないが、それだけだ。変わらず、宙に浮いたままだった。
(デカくなりすぎたか!)
確かに、特殊弾頭の効果はあった。それは間違いない。だが相手の身体が巨大過ぎたせいか、その効果が全体にまで行き届いていない。首の動きを封じただけだ。
「クソが!」
罵りつつ、足元に銃を叩き付ける。暴発しなかったのは幸運と言えたが、そんなものに感謝する気にもなれない。
確実とは言えない方法なのはわかっていたが、よりにもよって初手の段階でつまずいてしまった。もっと大量の特殊弾頭を用意して、セトの身体にまとめて撃ち込んでやることができていたら話は違ったのかもしれないが――そんな時間的余裕はなかった。
(今から弾丸を調達するにしても、その間にどれだけデカくなるかわかったもんじゃねえ)
そして今より更に大きくなれば、必要になる弾丸の数も跳ね上がる。場合によっては、残っている特殊弾頭の数をあっさりと越えるだろう。そうなれば完全に手詰まりだ。
時間など元からなかったが、打つ手すらも失ってしまった。その事実を認めるしかなく、歯噛みする。
「――椎名くん?」
と、菜緒が声をかけてくる。
「セトの動きを止めたかったのは、近づきたかったからなの?」
「……ああ。ついでに、あの光を吐き出させないためってのもあるがな。じゃなきゃ近づけねえ」
こちらの意図を把握していなかったのか(説明していなかったのだから仕方がない)聞いてくる菜緒に、椎名は頷きながら答えた。菜緒はセトの方を見やり、
「当たったの、首の辺りよね? 今は光を吐けないみたいだけど」
「近づけなきゃ意味がねえよ! ここからどうやって斬れってんだ!?」
彼女に当たったところで仕方がなく、八つ当たりだとは理解していたが、それでも怒鳴らずにはいられなかった。
だが菜緒は。
「――近づければ、いいのね?」
そんなことを聞いてきた。顔を上げ、彼女へと向き直る。
「なら任せて。なんとかしてみるから」
「なんとかって、どうやって――」
彼女がどういうつもりなのかわからず、椎名は呻いた。上空のセトまでは、周囲のビルの高さを越えるほどの距離がある。ここからものを投げたところで届くようなことはないだろうし、跳び上がるなど論外だ。
菜緒は答えずに、襟元へと手を当てた。そこで一瞬だけ、動きを止める。
「相澤?」
彼女がなにをしているのかわからず、声をかけると。
「ちょっと、あっち向いてて」
なぜか半眼でこちらを睨み、菜緒が言ってくる。意味がわからなかったので、椎名は更に聞き返した。
「お前、なにするつもりだ。俺が――」
「いいからあっち向いてて! 早く! 殴るわよ!?」
「なんなんだよ、クソ!」
彼女の剣幕に圧され、椎名はわけがわからないながらもその場で回れ右をした。直後、背後からごそごそと動くような音が聞こえてくる。
――気のせいでないとすれば、衣擦れのような音だった。
そして、そのまま数秒ほど待ったところで。
「もういいわよ、こっち向いても」
背後から声をかけられ、椎名は振り向いた。そして――思わず、目を見開く。
そこに立っていたのは、菜緒ではなかった。悪魔だ。頭から爪先まで、全身のどこを探しても人間としての形質が見受けられない。見たこともない姿だった――唯一、両腕だけを除いて。指の一本一本が刃物になっており、掌の部分に口腔が開いたその形状には、見覚えがある。
その悪魔の足元に脱ぎ捨てられた修道衣があるのをちらりと見て、椎名は即座に理解した。まあわからない理由というのもなかったが。
「……それが、今のお前の本当の姿か」
こちらの言葉に、菜緒が頷いて見せる。
「そうよ。これがわたし。本当のわたし。人間の姿の方が、きっと偽物」
表情はわからない。それを構成するための器官が顔になにひとつ存在していないのだから、読み取りようがない。声ですら、顔からではなく掌にある口から聞こえてきた。
菜緒はこちらに向かって腕を伸ばすと、言ってきた。
「じゃあ椎名くん、わたしに掴まって。跳ぶから」
「……なに?」
耳を疑う。セトの姿を見上げ、
「まさか、あの高さまでか?」
「そう言ってるでしょ。いいから早く!」
じれったくなったのか、菜緒は眼前にまで歩み寄って来ると、そのまま両腕でこちらの胴を抱え込んだ。僅かに膝を曲げ、体勢を低くする。
「お前、本気で――」
「舌噛まないでね!」
こちらがみなまで言うよりも早く、菜緒は宣言通りにその場から大きく跳躍した。が、一直線にセトに向かっているわけではなく、やや逸れている。
(いや、逸れてるっつーか――!)
明らかに傾いていた。むしろセトから離れ、近くのビルの壁面に頭から突っ込もうとしている。
こちらが文句を言う間もなく、菜緒は身体の角度を変えると、迫っていたビルの壁面を思い切り蹴りつけた。その反動を利用して更に跳び上がり――今度は別のビルの壁が迫ってくる。
菜緒はその壁をも蹴り、もう一度上昇した。再び壁面が遠ざかっていき――最初に蹴った方のビルの屋上へ、危なげなく着地する。
菜緒がこちらの胴から腕を離し、嘆息した。
「ふう――どう? だいぶ近づけたでしょ」
「た、確かに……近づいたけどよ」
ほぼ一瞬で数十メートルもの距離を駆け上り、こちらとしてはジェットコースターにでも乗せられたような気分だった。少なくとも、感謝する気にだけはなれそうもない。
悪態をつきたいところだったが取り敢えずそれは忘れて、椎名はセトの方へと視線を移した。確かに、先程までよりは大きく近づくことができた。それでもここから跳びかかって届くような距離ではないが、もう一度菜緒に運んでもらえば問題はないだろう。全身を悪魔に変えた彼女の身体能力に舌を巻きつつ、しかしすぐに頭を切り替える。
(ここからなら――斬れる)
つまり、後は自分次第ということだ。すべてを抜かりなくやってのけなければならない。
セトの首はまだ動いておらず、眼球だけをこちらに向けていた。その口からは低く唸り声のようなものが漏れており、光を吐き出すような気配はない。もっとも、それもいつまで続くかはわからないが。
刀を握り締め、意識を研ぎ澄ませる。今日だけで何度目になるかわからないデジタル・デビルへの指令を、再び発する。
生体マグネタイトと反応して、刀身の模様が淡い光を放った。こちらの身体から流れ込んだ生体マグネタイトが、刀に込められたデジタル・デビルの情報と結合している。
悠介に説明されたわけではないが、封入されたデジタル・デビルの情報が刀身にどういった影響を与えているのかは理解できていた。というか、こちらの生体マグネタイトを通じて情報レベルでリンクしているのだから、嫌でも伝わってくる。単純な効果だった。刀身の持つ強度と、そして対象を切り裂くという、刀であれば当然有している特性の向上だ。それ以外に、この情報は刀自体に対してなんの影響も与えない。他の情報を探し出している時間などなかったのだろうとはわかるが。
持つ者から生体マグネタイトを吸収するという点にしても、使い勝手を考えるなら、リミッターを設けておくべきだった。自分のようにデジタル・デビルを介して生体マグネタイトの流入を制御できるのでなければ、際限なく吸い上げられて死ぬしかない(いや、正しくは石化か)。これに関しても、悠介がどれだけ焦ってこの刀を生み出したのかが窺い知れる。
(――そうだ。俺なら、制御できる)
体外へ流れ出ようとする生体マグネタイトを、塞き止めることができる。悠介が設定しなかった閾値を、使い手である自分の方で用意できる。
だが――椎名は敢えて、それをしなかった。
(ぐっ……!)
デジタル・デビルによる制御をせず、生体マグネタイトを吸収させ続ける。それに伴って刀身も変質を続け、浮かび上がっている模様の発する光も際限なく強くなっていった。
(こいつは――予想以上に、ヤベえ――!)
セトに生体マグネタイトを吸収されていた時と同じ感覚が全身を襲い、急速に力が抜けていく。が、ここで倒れるわけにはいかない。失神してしまうわけにはいかない。
「――相澤!」
どうにか意識を保ちつつ、椎名は叫んだ。
「あいつをぶった斬る! 跳ぶぞ!」
菜緒はこちらの持つ刀の異変に困惑していたようだったが、しかしすぐに頷き、こちらの身体を抱えた。今度は先程とは違い、横から手を回してくる。
「行くわよ、椎名くん!」
告げて、菜緒がビルの屋上から跳躍する。同時に椎名も足場を蹴っていた。セトのやや上方に向かって、一直線に跳び上がる。
こちらと菜緒の身体が放物線を描き、そしてすぐにセトの方へ落下を始めた。手の中の刀はまだこちらの生体マグネタイトを吸収し続けており、模様から溢れる光は直視できないほどにまで強まっている。
見る見るうちにセトの巨体がこちらへと迫り、椎名は刀を振り上げた。跳び上がった時の勢いそのままに、セトへと肉薄し――一息に、振り下ろす。
手応えはなかった。なにを斬っているような反応もこちらの腕に伝えることなく――振り下ろした刀は、セトの首の根元を易々と切り裂いていた。
セトの首が僅かに動く。身悶えようとしたのだろうが、実際にそうできたのは首から下だけだった。足場にしているセトの身体が大きく揺れ、ずり落ちそうになる。
「し、椎名くん!」
菜緒が焦ったように声を上げるのが聞こえたが、返事をするような余裕はない。椎名は更に腕に力を込め、セトの首元へと食い込んだ刀をそのまま通り抜けさせようとした――が。
(――限界か!)
刀が、ではない。こちらの生体マグネタイトだ。右腕の手首から先が、石になり始めていた。
だが、まだ終わりではない。まだセトを殺すには至っていない。
椎名は叫んだ。
「相澤!!」
名を呼ばれて、菜緒がこちらの顔を見る。椎名はまだ無事な左手を柄から離し、自分の右手を指し示した。
「掴め! お前の生体マグネタイトも寄越せ!」
その意味が、彼女に伝わったのかどうかはわからない――単に反射的な行動だったのだとしても、別段驚くには値しない。
菜緒は腕を伸ばし、両手でこちらの右手ごと柄を握り込んだ。こちらの手が石になっていなければ、刃物のような彼女の指が刺さっていたところだ。
「うっ――!?」
生体マグネタイトを吸われる感覚というのは、彼女にとっては初めて味わうものなのだろう、呻き声を漏らす。だが、今はそんなことに構ってはいられない。悶えるセトの身体から振り落とされないよう歯を食い縛りながら、椎名は腕に力を込めた。
恐らくは自分よりも、生体マグネタイトの量は多いのだろう。菜緒のそれを吸収して、刀の発する光が一層強まった。目を開けていられないほどに。
こちらと同じように、菜緒もまた腕に全力を注いでいるようだった。椎名は更に右腕へと力を込め、斬るというよりはむしろ刀の方をへし折るようなつもりで柄を押しやり――
そして、刀身がセトの身体を通り抜けた。
途方もない規模の質量に打ちのめされ、大地が轟音を上げる。当たり前だがその衝撃はこちらの身体をも盛大に揺らし、菜緒は滑り落ちないようセトの身体にしがみついていた。隣にいる椎名も似たような格好だが、彼の方はセトの身体に突き立てた刀を握っている。
――やがて振動が収まり、菜緒は伏せていた顔を上げた。すぐ近くに地面が見える。そして自分の下には、落下したセトの身体があった。ただし、首を除いた部分だけだが。
顔の向きを変えると、少しだけ距離を置いたところに、切り落とされたセトの首がやはり落下しているのが見えた。長さだけで言えば胴体と同じくらいあるので、地面が受けた衝撃は似たようなものだったろうが。
「――ごほっ!」
セトの身体がクッションになったとは言え、それでも落下の衝撃はこちらの全身を容赦なく貫いていたらしく、菜緒は咳き込んだ。
――身体がだるい。あの刀の柄を握った瞬間に、猛烈な勢いで体内の生体マグネタイトを吸い取られたためだろう。手足を動かすだけの力も入らず、全身に倦怠感がまとわりついている。
「……なんだったの、その刀?」
と、椎名がふらつきながらも立ち上がるのが見え、菜緒は尋ねていた。椎名は左手で石になった右手から刀の柄を引き抜きつつ答えてくる。
「こいつも、悠介の作ったもんだ。というか、正確にはこいつの方こそがな。あの弾丸は、この刀を参考にして俺が作った」
「それにも、デジタル・デビルの情報が混ざってるってこと?」
「そうだ。持ち主の生体マグネタイトを無尽蔵に吸い上げて切れ味に変換する、タチの悪い代物だ」
と、椎名が肩をすくめて見せた。
「もっとも、悠介がその辺に手を加えなかったから、どうにかうまくいったんだがな」
「わたしの協力が必要だって言ったのは、そのための生体マグネタイトを確保したかったからなの?」
気になっていたことを聞いてみる。椎名は特に悪びれるようなこともなく、あっさりと頷いてきた。
「そういうことだ。俺の分だけじゃ足りない可能性があったからな。で、実際に足りなかった」
「じゃあ、無理にでも協力させるっていうのは――」
「お前が気絶してようと、死んでさえいなけりゃ生体マグネタイトはどうにかできる。俺に憑依したデジタル・デビルならな」
その言葉に、菜緒は思わず文句を言おうとして――
しかし実際に口から出たのは、疑問符だった。
「わたしの生体マグネタイトを――? そんなこと、どうやって」
聞くと。
椎名は口籠もった。なにやら言いにくそうに――あるいは言いたくなさそうに顔を背けるが、やがてこちらへと向き直り、言ってくる。
「……悠介の残した、あのファイルにな」
「え?」
いきなり話を逸らされたように思えて、眉をひそめる。が、椎名は表情を変えぬままに続けてきた。
「俺とお前に宛てたメッセージもあったんだよ。短い内容だったけどな」
「わたしたち、に?」
「ああ。有紗に伝える必要はないだろうと思って、さっきは言わなかった」
「…………どんな?」
「簡単だ。俺とお前それぞれに融合した、デジタル・デビルに関する調査結果だ」
どうということもないような口調で言ってくる椎名に。
「……えっ!?」
菜緒は思わず、頓狂な声を上げていた。
それでもやはり椎名は、大したことじゃないとでも言いたげに、
「特定するのはそれほど難しいことじゃなかったらしい。あいつのパソコンの中にあった古今東西悪魔辞典的な、そんな怪しい資料を検索したら、割とあっさり特定できたんだとよ」
と、こちらを指差してくる。刀を持ったままの左手で。
「ゾロアスター教、だったか? その教典だかなんだかに登場する、蛇の悪魔。それがお前と融合したデジタル・デビルだ。名前は確か――アジ・ダハーカとか言ったか」
「アジ……なに?」
聞いたこともない名前だった。というかゾロアスター教など、世界史の授業で耳に挟んだような気がするという程度の知識しかない。いや、知識とも呼べないが。
「で、俺の方は――ペルシャだったか? そこら辺に伝わるなんとかいう叙事詩の登場人物で、ザッハークってやつらしい。俺はまったく知らんが」
そちらもやはり、聞いたことがなかった。なので当然、こう答えるしかない。
「で、それがどうかしたの?」
先程発したこちらの質問に対する答えにはなっていない。やはり話を逸らされたのかと、疑わしげな心持ちで尋ねる。
椎名が苦笑を浮かべた。
「あいつのファイルに書いてあったこと、そのまま言うぞ。『ペルシャの悪王ザッハークと、ゾロアスター教に語られる邪龍アジ・ダハーカ。この両者は一般的に、同じ悪魔とされているそうです』――だそうだ」
その部分だけは諳んじているのか、なにかを読み上げるように椎名が告げてくる。それを聞いて、
「…………え?」
一瞬、思考が止まる。彼の言葉の意味を理解し、そして反芻するのに、数秒の時間を要した。
「同じ……悪魔?」
「原典を辿ると、そうなるらしい。詳しくはわからんがな」
面倒なことを考えるつもりはないとばかりに、椎名がかぶりを振って見せる。まあ、こちらとしても似たような心境だが。
「だからだ。俺の中にいるデジタル・デビルなら、お前の生体マグネタイトを制御できると踏んだんだよ。元はひとつのデジタル・デビルだったってことだからな。俺とお前が死んだあの時に、そいつが分かれてそれぞれに宿ったんだ」
「じゃあ、あなたのデジタル・デビルの欠損っていうのは――」
「お前に持ってかれた分ってこった。実体化に必要な情報は、残らずお前の方にいっちまったんだろ」
「……そう、だったの」
知らず、胸元に手を当てる。そこにデジタル・デビルがいるというわけではないが。
元々ひとつだったデジタル・デビルが、どういうわけか分かれて自分と椎名に宿った。そしてそのために欠損を抱えた椎名のデジタル・デビルが、完全なものにはならなかったというのなら――
(わたしは?)
自分の方にも、なにかしらの欠落があるはずだ。自分ではわからないが、そうでなければおかしい。もっとも悠介のいない今、それを自分で判別するのは不可能なのだろうが。自分以外の悪魔と比べるにしても、一体なにをどう比較すればいいのかもわからない。
と、足元から異変を感じ、菜緒は視線を下ろした。動かなくなったはずのセトの身体が、様子を変えている。
「なに? まさか――」
また動き出すのかと思い、菜緒は慌てて地面へと下りた。同じように飛び降りた椎名がセトの身体を見上げて、つぶやく。
「いや、これは」
セトの身体から、光の粒子のようなものが浮き上がった。瞬く間にそれは数を増していき、数えきれないほどの粒がセトの身体を覆っていく。
――セトの吐き出した光が建物や悪魔を分解する光景と、似ているように思えた。
「こいつは、セトが吸収した情報か。元に戻ったりは――しねえよな、やっぱり」
椎名の言葉を肯定するように、浮き上がった粒子は更に細かく分解されながら空へと上っていき、そして見えなくなった。横たわっていたセトの身体も、破壊の痕跡だけを残して消滅している。
――元には戻らないのなら、分解されたあの情報群は、果たしてどこへ向かうのだろうか。
振り返ると、切り離されて落下したセトの首も似たようなことになっていた。浮かび上がった無数の光の粒が霧散し、そして――
有紗の上半身だけが取り残されるように、そこに横たわっていた。
「有紗ちゃん!」
そちらへと駆け寄り、菜緒は有紗の身体を抱き起こした。傷口から流れていたはずの血は既に止まり、触れた肌もぞっとするほど冷たい。
――無論、有紗はこちらの言葉に返事を寄越してはこなかった。瞼は開いているもののぴくりともせず、その瞳が最早なにも映していないのだろうとは確認するまでもない。
ただの、死体だった。そうとしか呼べないものだった。
「有紗、ちゃん……」
有紗の身体をきつく抱き締め、目を閉じる。それでこちらの体温が死体に移ったりはしないと、それはわかっていたが。
「……俺だって、な」
と。
背後から、椎名が声をかけてくる。
「悠介が死んだことを悔やんでないわけじゃない。有紗を殺したかったわけでもない」
そんなことは、言われるまでもなくわかっていた。だからわざわざ聞く必要はない。
――振り返って、泣き喚きながら文句をぶつける必要はない。
「ただ、そんな本音に価値なんざないって、そう思っただけだ。本音だけで、誰かを救えたりはしない」
本音で救えるのは、自分だけだと。
彼がそうつぶやいたような気がしたが、恐らく気のせいだ。自分の耳には届かなかったのだから。
届いていたのは、自分のすすり泣く声だけだった。恐らくは、椎名の耳にも。