それが道具である以上、用途というものは須く存在する。美術品であれば鑑賞に耐え得る外観が要求されるだろうし、機能性が求められるものであれば言うまでもない。目的もなく作り出されるものは道具とは呼べず、そういう意味では親の明確な意図を受けて生まれてくる子供という存在もまた、道具であると言える――その意図が貫徹されるかどうかは別問題だが。
定められた用途に沿わなくなった道具は、既に道具とは言えない。ならば何になるのだろうか。ただ無意味な存在になり下がるのか、あるいは道具ではない何かになるのか。多くの場合はそんな選択肢すらなく、処分されるのだろう。道具が道具でなくなるなどという事例は、ほぼないと言っていい。道具のままであり続けるか、別の用途に用いられるか、消えてなくなるか。道具の末路と言えば、そんなところが関の山だ。
同情には値しない。道具が道具であることに憐れみを覚える必要はない。もし同情する余地があるとすれば、それは本来道具ではないもの――そんなものがあればの話だが――を道具だと認識している場合だけだ。道具を道具だと割り切れない惰弱に由来する、甘えとも言える。
だが、それでももし。道具に憐憫を覚えるようなことがあるのなら――道具としての機能と用途を残したまま捨てられたものが、それに当たるのかもしれない。無意味に捨てられる道具が、そうなのかもしれない。
(ま、もっとも――)
握った刃を裏返し、まじまじと見やる。ろくに手入れもせずに――消火剤やら斬った相手の体液やらを拭いもせずに振り回していたので、既に信頼性は皆無に等しかったが。
(こいつには、まだ使い道はありそうだけどな)
突き刺すことはどうにか出来そうだし、なんとなれば棒切れ代わりに使ってもいいのだ。道具が文句を言ってくることもない。
本物の、剣。見たのも触れたのも――そして当然、なにかを斬ったのも――今日が初めてのことなのだが、不思議な程に馴染む感触だった。
授業で剣道を教えられたことはないし、竹刀を握ったことすらない。完全に、自分は素人だった。当たり前だが、熟練者が見ればきっと問題だらけの扱い方なのだろう。それでも道具それ自体が不満を述べてくることはなく、また剣に魂が宿るなどという妄想を抱ける程に愛着があるわけもない。ただ、しっくり来るというだけの話だ。
あるいは、そのしっくり来るという感覚こそが。なにかを斬る上で最も大事なことなのかもしれないが。
(……ってのは、自惚れかね?)
誰に見せるわけでもない苦笑が思わず漏れる。実際、周囲には自分以外誰もいないのだから、見せるつもりなどなかったのだが。
と思っていたら。
「あーうぜ。なんなんだよあのクソメガネ。何様のつもりなんだ?」
なにかに毒づいている声が聞こえてくる。椎名は咄嗟に持っていた剣を背中に回した。
「ここの生徒会長だってさ。見たまんま、ガリ勉女だったってこと」
「うっわキモ。高三にもなって処女とかありえないし」
「……そんなこと、なんでわかるの?」
「は? お前本気で言ってる?」
なにやら言い合いながら、足音が近づいてくる。四人くらいだろうか。男が三人に、女がひとりだ。
「おい敏樹。どーすんのあのブス」
「ヤっちゃう?」
面白がっているような女の声。それに別の男の声が答える。
「当然だろ? 二度とあんなナメた口がきけねえように――」
「ねえ、あそこ」
更に別の声が科白を遮る。
「あ? なんだ浩一?」
「いや、誰かいるんだけど」
その言葉で、全員がこちらを向く。まったく気付いていなかったらしい。
椎名は彼らの方を見ていなかった――目線だけを向けて、ちらりと観察する。私服姿の少年が三人と、同じく私服姿の少女。十代くらいだろうが、具体的な年齢までは見ただけではわからなかった。まあ、自分と大して変わらないだろう。
特に興味も持てなかったので、椎名はすぐに観察するのをやめた。視線を戻し、既に星が見え始めている空へと戻す。
「……オイ。なに無視してんだよ」
少年の誰か(誰でもよかった)が声を上げる。椎名はそちらは見ぬままに、
「無視されたくなかったのか? 話し相手になってほしかったか?」
「ああ?」
別の誰かの声と、そして足音。彼らのうち二人の少年がこちらの視界を遮るように前に立った。なにやら剣呑な視線を寄越している。
「てめえ、ここの生徒か?」
「見てわかれよ。コスプレに見えるか?」
挑発的な声音で聞き返す――いや、挑発するつもりはなかったのだが、つい口を衝いて出てしまった。こういった手合いへの対処法として身に沁みついてしまっているのだ。
目の前の少年が舌打ちするのが聞こえた。
「あのメガネ女と言い、うぜぇのが多いな、この学校は」
「ウザいメガネ女、ねえ」
そう言われて即座に思い浮かんだのは、病院で会った女子生徒だった。が、それは今はどうでもいい。
「なんつーか、ナメてるよな。色々と。ボッコにされなきゃわかんねえの?」
「んー、そうだな……」
とりあえず、返事をしようとはしたのだが。
その時点で、椎名は飽きた。恐らくこれ以上この連中と話していたところで、得するようなことはひとつもない。これも身に沁みついた経験則だろう。
「ぶっ!?」
向かって右側に立っている少年の身体が少しだけ縦に揺れ、同時に奇妙な声を漏らした。他の三人が何事かとそちらに視線を向ける。その時には既に椎名は少年の股間に叩きつけた膝を引き戻していた。左側の少年――声に気を取られてか、こちらを見ていない――の顔面に向けて、肘を振りぬく。
今度は悲鳴は上がらなかった。と言うか、声にならなかったのだろう。鼻を痛打された少年がその場にうずくまり、抑えた手の隙間からぼたぼたと血を流している。
「
横で見ていたもうひとりの少年が慌てた様子で二人に駆け寄ろうとするが、それよりも早く。
「あいたっ!」
椎名が向けた剣の切っ先が腕を掠め、足を止めた。血が流れ出しているが、それほど深く切れていないだろうことは手応えでわかる。残った少女はと言えば、そもそもこちらに近づこうとすらしていなかった。椎名の持っているものを見て、目を丸くしている。
「ちょ、おま、なに持ってるの!? っていうかそれ、ホンモノ!?」
少年達もまた、それぞれ似たような表情を浮かべている。椎名は突き出していた剣を手元に引き戻しながら、
「気にすんな。ただの長いナイフだ」
「いやいや! 長すぎるし! ナイフなワケないし!」
「刺されりゃ一緒だから、気にすんなって」
言いつつ、最初に股間を蹴り上げた少年の背中に向かって、剣の切っ先を突き付ける。少年はうつ伏せに倒れながらもこちらがなにをしようとしているのかは見えているらしく、引きつった顔を浮かべていた。
「いや、つか、冗談っしょ? オレら、ちょっとからかっただけだし――」
「冗談に冗談で返さない人間もいるって、勉強になったろ?」
言って、椎名は剣を振り下ろすべく腕に力を込め――
「……おい椎名、その辺にしといてやれ」
少年の背中に切っ先が届こうかというタイミングで、その声は聞こえた。ぴたりと、腕を止める。
「痛ってええええ! 刺した! こいつマジに刺しやがった! 信じらんねえ!」
……勢い余って数ミリほど減り込んでしまったようだったが。
喚き声を上げている少年からは視線を逸らして、椎名は先程の静止の声が聞こえてきた方へと顔を向けた。体育館の方から歩いて来たのか、背広姿の男が煙草の箱を持った手をこちらに向けて上げている。
「おーお、やりやがったな。また傷害でパクられかけても、俺は責任取らんぞ?」
「……取ってくれなんて頼んだ覚えはねえよ」
吐き捨てて、椎名は剣を下ろした。まだぎゃあぎゃあと喚いている少年の脇腹に靴の先を押し当て、軽く蹴りを入れる。
「おい、うるせえからどっか行け。邪魔だ」
「て、てめえがやったんだろが……」
呪詛のような声を漏らしつつ倒れていた少年と鼻血を流していた少年がよろよろと立ち上がり、他の二人に支えられて校舎の方へと歩いていくのを眺めてから、椎名は改めて男の方へと向き直った。男は煙草を取り出してそれに火を点けると、
「なんだお前、そんなもんどこで拾った? それとも、最近はそんなのも店で買える時代なのか?」
探せばそういった店くらいはどこかにあるのかもしれないが。
「バケモノからパクったんだよ。文句は元の持ち主に言ってくれ」
「そりゃ面倒だな。凶器をどこから手に入れたかってのは、結構大事なことなんだ」
警察が苦労するだろうな、と言って、煙草を銜える。美味そうに煙を吐き出すその姿に、椎名は一応指摘しておいた。
「……学校敷地内って、禁煙じゃなかったか?」
「おう、だから隠れて吸っとる。お前も……って、煙草はやらんのだったな」
「それ以前に、教師が生徒に勧めんなよ」
「ん?」
と、男が微かに眉をひそめた。なんだよ、と問いかけると、
「いや、お前がそんなことを言うとはな。相澤に感化でもされたか?」
「ああ?」
「相澤から聞いたぞ。お前、病院から一緒に逃げて来たんだろう?」
「あー……相澤って、あの女か」
忘れていたわけではないが、すぐにはぴんと来なかった。
「前に隠れて吸っとったら、相澤に見つかってな……怒られたぞ、思いっきり」
「なにやってんだよ」
そうとしか言えず、半眼を向ける。その男――木暮はポケットから携帯灰皿を取り出すとその中に灰を落とし、
「お前、村中の見舞に行っとったんだろう?……お前にとっちゃ、先輩みたいなもんだからな」
「…………」
椎名は答えなかった。適当に視線を宙に這わせる。それで誤魔化せるとは思っていなかったが。
「村中もな、お前が学校に来てないこと、えらく心配しとったんだぞ。教師として、と言うより、同じ施設の出身としてだろうがな」
「……頼んでねえよ」
「おう。あいつが勝手に心配しとったんだ。そうする資格くらいはあるだろう? あいつには」
「同じ身の上だから、ってか?」
は、と鼻を鳴らす。
「そうなんだろうよ。あんたらからすれば、同じに見えるんだろうな。養護施設の出身者ってのはさ」
「…………」
今度は木暮の方が沈黙する番だった。なにも言わずに、こちらを見返している。だが構わずに、椎名は後を続けた。
「資格だ? それがあんたにはなくて、村中の野郎にはあったって? んなワケがあるか。あんたにねえなら村中にだってねえんだよ」
「……そうかもしれんな」
ふう、と木暮が息を吐き出す。気のせいかもしれないが、どこか疲れたような声音だった。
「だが、見舞に行っとったのは事実だろう?」
「あんたには関係ねーよ」
唾棄するような心持で告げる。木暮はもう一度沈黙を挟んでから、やがて言ってきた。
「……まあな。ないと言えば、ないか」
微妙に引っかかる物言いだったが、無視しておく。
木暮は再び煙を吐き出すと、
「ところでお前、なんでこんなところにおるんだ? バケモノが入り込んで来るかもしれんのに。中に入ったらどうだ? まさか、他の生徒に会いたくないとか言うんじゃなかろうな?」
その指摘は半分以上図星だったが、それをそのまま認めるのも癪だった。なので誤魔化しておく。
「色々やってんだろ、中。手伝わされるのも面倒だから、隠れてたんだよ」
「お前な……少しは手伝ってやらんか。相澤を見ろ相澤を。あいつ、昼間からずっと働きっぱなしなんだぞ?」
「……あの女がどうかしたのかよ」
なぜそこで彼女の名前が出てくるのかわからず、聞き返す。木暮はなにやら呆れた様子だった。
「あのな、椎名……自分の学校の生徒会長が誰なのかくらい、知っておけ」
言われて。
はあ? と、椎名は自分でもはっきりと自覚できるほど間の抜けた声を上げていた。
「生徒会長? あいつが?」
「……本当に知らんかったのか」
「まあ、優等生の類なんだろうとは思ってたが……」
病院と、そしてここに戻ってくるまでの彼女の様子を思い出す。簡潔に言えば、どこにでもいそうな少女だった。当たり前の反応を見せ、当たり前の行動をし、当たり前の倫理を持ち合わせている――ありふれた存在だった。携帯電話を持っていなくとも。
「優等生には違いないさ。お前と違って、教師からも頼りにされとるしな」
「余計に信じられねえ」
未知の怪物を前にあたふたと取り乱していた姿しか思い出せず、更に疑惑が深まる。それとも自分は、生徒会長という役職に対してなにか幻想でも抱いていたのだろうか。だとすればそれが今日、諸々の既成概念と共に打ち砕かれたのは間違いない。
木暮は苦笑いしつつ煙草を揉み消すと、
「ま、あそこまで働けとは言わん。というか、相澤はちょっと働きすぎだからな。お前も、こんな状況じゃバイトにも行けんだろう? ならその分、誰かのためになることをやっても罰は当たらんさ」
「……まあ、気が向いたらな」
体育館に向かって歩き出している木暮の背中に向かって、とりあえず返事はしておく。木暮にしても、こちらの言葉をあまり本気には受け取っていないだろう。
椎名は再び空を仰いだ。雲がまったくないわけではないが、それでも普段より星がよく見えるような気がする――周辺の建物に灯りが少ないせいだろうか。なぜ少ないのかは考えるまでもない。
――と。
(……ん?)
ふと、椎名は違和感を覚えた。視線の先――満月より少しだけ欠けた月のほど近くに見えていた星が、瞬いたような気がしたのだ。一瞬だけ雲に隠れたのかとも思ったのだが――
(いや……なんだ?)
目を凝らすと、やはり星が瞬いていた。まるでその星の手前で、なにかが往復運動を繰り返しているような。
違和感は徐々に大きくなっていった。やがて――
(……!?)
ようやく、違和感の正体を把握する。星どころではない、もっと手前だ。雲よりも地表から近い位置で、なにかが動いている。そしてそれは――少しずつ、大きくなっていた。
なにかが、こちらに近づいている。
(な……!)
絶句している間に、それは地上へと激突した。間を置かず、こちらから数十メートルほど離れた位置で、
「うわああああああああっ!?」
悲鳴が上がる。続いて、複数の声。
「な、何事だ!?」
体育館へ向かっていたはずの木暮が立ち止まり、こちらへと振り返っていた。
「おい椎名! 今の、聞こえただろう!?」
「……向こうだ!」
悲鳴の聞こえてきた方向、つまりなにかが落下した場所へ向かって、椎名は走り出していた。
「あ、おい待て! 椎名!」
背後から木暮の声が聞こえてくるが、構わずに全力で走る。
(あれは……)
先程目にした影の形を思い出す。
――翼を携えた、人影だった。
突然の悲鳴は、体育館の中にまで聞こえてきた。全員がほぼ同時に、弾かれたように顔を上げる。
(……なに、今の!?)
菜緒は手を止めて、入口へと顔を向けていた。悲鳴は、外から聞こえたのだ。
菜緒と同時に、館内の何人かが立ち上がるのが見えた。一瞬だけ彼らの方を見てから、体育館の入り口に向かって走り出す。
入口から外へ出ると、周囲からは先程のものよりは小さいものの、複数の悲鳴が聞こえていた。嫌な予感が全身を駆け巡る。
(まさか……!?)
躊躇せず、菜緒は声の聞こえる方に向かって駆け出していた。後ろから静止の声が聞こえたような気もするが、構ってはいられない。十秒ほどで目的地に辿り着き――そこで見えたものに、息を飲む。
真っ先に目に飛び込んできたのは、猛禽類のような被り物をした人影だった。首から下は赤紫色のタイツのようなものを着込んでおり、なにかの仮装だと言われればそれで納得してしまいそうな格好ではある。だが、断じてそうでないことは明白だった。腕組みをし、背筋と両脚をぴんと伸ばしたままの体勢で、その人影は――宙に浮いていたのだ。背中から生えた、これも猛禽のものと思しき翼を羽ばたかせて。
そしてその周囲に、これははっきりと人間だとわかる人影がいくつか見えた。その中のひとつは地面に倒れており、地面にどす黒い沁みを広げている――絶命していることは確認するまでもない。
と、空飛ぶ怪物の周囲に見覚えのある顔を見つけ、菜緒は声をかけた。
「椎名くん! なにがあったの!?」
「見てわかんねえのか!」
振り返らずに叫んでくる。
「クソが、まさか空まで飛ぶやつがいるとはな――」
「え」
椎名が口にした内容に、思わず聞き返す。
「……空? 飛んで来たの?」
「だから、見りゃわかるだろ!」
苛立ちを隠そうともせずに椎名が声を張り上げる。確かに、見ればわかった。間違いなく、疑問の余地もなく、飛んでいる。椎名の頭の位置よりもやや高いところから、周囲を見下ろしていた。椎名が梟もどきの姿を見据えたまま動こうとしないのも、剣が届かないからなのだろう。
(嘘、でしょ……? 空からも来るなんて)
戦慄が駆け巡る。これでは学校の敷地を取り囲む壁など、まったくの無意味だ。
「おいポリ公! ぼさっと見てねえで撃てよ! こっちは届かねえんだ!」
「え? あ、ああ!」
見張りに出ていたのだろう、梟もどきの姿を見上げていた警官が椎名の言葉で我に返ったらしく、拳銃を抜き取る――が、その時には既に、梟もどきはそこにいなかった。椎名達の頭上を素早く移動し、戸惑っている警官の背後から襲いかかろうとしている。
「どけ!」
梟もどきの動きを誰よりも早く察知したらしい椎名が、警官の方へと突進する。警官の方も椎名の声には反応できたらしく、彼と梟もどきとを結ぶ線上から転がるように移動した。椎名と梟もどきの間に、遮蔽物はなにもなくなったが――
にやりと。梟の嘴の端が、奇妙に歪んだような気がした。
「……おい、椎名!」
突然、梟の方へと駆け寄っていた椎名の横手から男性教諭――木暮が体当たりをかけた。そのまま椎名を地面へと押し倒し、その直後。
「ぐうっ!?」
木暮の背中を掠めるようにして、なにかが飛んで行った。赤子の頭ほどはありそうなそれはそのまま空中を直進し、校庭を取り囲む壁にぶち当たって爆音を上げる。
――梟の口から火の玉が飛び出したのだと理解するまで、数秒ほど掛かった。
「な、なんだよ、今のは……?」
誰かが上げた声に、しかし返事をするものはいない。菜緒もまた、ゆらりと空中へ浮かび上がる梟もどきの姿を見つめたまま、動くことを忘れていた。
「ぐっ……椎名、無事か?」
「あんたのが無事じゃねえだろ!? いいからどけ!」
背中を焼かれたらしく苦しげな声を上げる木暮を振り解き、椎名が立ち上がった。剣を持ったまま地面に倒されたわけだが、それで木暮を刺してしまようなことはなかったらしい。
だが立ち上がったところで、梟もどきは彼の剣が届く位置にはいなかった。先程よりももう少し高い場所で、再び嘴の奥に火が灯る。
「……逃げて! 早く!」
咄嗟に、菜緒は叫んだ。それに反応してかはわからないが、周囲にいたもの達が一斉に四方へと散る。
梟の口から再び飛来した火球が、校庭に火柱を上げた。直撃したものこそいなかったようだが、ちりちりと肌を焼く熱気が周囲へと広がる。
菜緒は火柱から距離を取りつつ、ポケットの中の拳銃を取り出した。警官に返すのを忘れていたのだが、果たしてそれが幸運だったのか不運だったのか――自分が扱ったところで、まともに当てられるとは思えない。
それでもなにかの奇跡が働いて弾が命中してくれるかもしれない可能性に縋り、菜緒は銃口を梟もどきの方へ向けた。向けたつもりだった。
(あれ?)
最後に見たはずの位置に、梟もどきの姿がない。慌てて視線を動かすと――すぐに見つかった。先程よりも更に高度を上げ、やはり腕を組んだまま眼下の光景を見下ろしている。
再び、嘴を開くのが見えた。
(この……っ!)
なにも考えず、というか考えられず、菜緒は上空に向かって発砲していた。乾いた銃声が辺りに響き渡り、直後に頭上から火球が降ってくる。
……発砲の反動でバランスを崩したのが奏功したのか、あるいはそもそもこちらを狙っていなかったのか、火球は菜緒の眼前に落下していた。熱ではなく落着の衝撃自体に吹き飛ばされ、尻餅をつく――無論、熱がなかったわけはないので、危うく火傷するところだったが。
地面に尻を着いたままの体勢でその場から急いで距離を取り、立ち上がる。
(ど、どうすれば……?)
必死に考えを巡らせるが、どうしようもない。自分が銃を撃ったところで当たらないのはわかりきっていたことだが、そもそも相手は空中にいる上、移動まで可能なのだ。こちらが手を出しようのない位置で、一方的に有利な条件を揃えている。
(なにか……なにかないの!? なんとかする方法は……)
こちらに有利な要素はないのかと思案するが、菜緒には思いつかなかった。おまけに先程の発砲で目を付けられたのか、梟もどきの視線が明らかにこちらを向いている。
(……え。ちょっと、嘘……)
じりじりと後ろに下がる。それに合わせて、梟もどきの嘴の角度も動く。
――肌が粟立ち、汗が噴き出してくる。腰が抜けそうだし、涙も出そうだ。文字通り獲物を捉えた猛禽の視線に射抜かれて、全身が竦んでいる。
(待って。お願いだから、ちょっと待って……)
足は止まらない。ゆっくりと後退し続けている。が、向けられた嘴もそれに追随してこちらをぴたりと捉えていた。そしてその奥に、またしても火球が膨れ上がり――
がくり、と。
一瞬、梟もどきの身体が揺れたように見えた。と同時に、嘴の中に見えていたはずの火球が消失する。
(え?)
何が起こったのかわからず、菜緒は足を止めた。梟もどきはこちらを見下ろしていない――見下ろしているのは、それ自身の胸だった。なにやら奇妙な形に変形している。
いや、違った。変形しているのではなく、なにかが突き出しているのだ。細長い何かが。
――それが梟もどきの胸板を背後から貫いている剣だと理解するまで、数秒を要した。甲高い絶叫を上げて、梟もどきが身をのけ反らせる。更に高度の維持が出来なくなったのか、翼の動きを止めて落下を始めた。
が、地面に落ちるよりも僅かに早く、梟もどきは再び翼を羽ばたかせた。寸でのところで地面への激突を免れ、もう一度上空へと舞い上がる――寸前に。
爆竹をひとつだけ炸裂させたような音が響き、梟もどきの眉間でなにかが弾けたように見えた。同時に梟もどきがだらりと四肢を垂らし、そのまま無防備に地面へと落下する。そして、動かなくなった。
なにがどうなったのかまったくわからず、菜緒は呆然とそれを眺めていた。地面に倒れた梟もどきの元へ、椎名が近づいていく。その手には、剣を持っていなかった。
(あ……)
ようやく理解が及ぶ。つまり椎名は上空にいる梟もどきに向かって、剣を投げつけたのだ。梟もどきがこちらに気を取られている間に、地上から。そして落下した梟もどきが高度を取り直そうと動きを止めた瞬間に、背後から頭を撃ち抜いたのは――視線を動かすと、先程の警官が銃を構えたまま安堵の息を漏らしているのが見えた。
状況を把握して、菜緒は思い切り息を吐き出した。自分達に有利な要素はあったのだ。即ち――相手の注意を引き付ける誰かがいるという、数的な有利が。二度と御免だが。
椎名が梟もどきの身体から剣を抜き取り、続いて先刻の火球で散開していたもの達が再び集まって来た。完全に動かなくなった梟もどきを眺めて、誰かが声を上げる。
「……こいつ、空から飛んで来たのか?」
全員が顔を見合わせた。その意味がわからないものはいないだろう。
「勘弁してくれよ……頭の上も警戒しなきゃいけないってのか?」
「警戒するったって……さっきみたいなのを上から落とされたら、どうしようもないじゃないか!」
悲鳴じみた声が上がる。それも全員がわかっていることだった。校庭に残された火柱の痕跡をわざわざ見るまでもなく、そもそも頭上からの脅威などというものを想定していなかったのだ。見張りでどうにかなるような問題ではない。そしてその見張りも、ひとりが欠けてしまった。
「全員を建物の中に入れて、そっちを固めた方がいいかもしれんな……外での見張りは、ちと危険だ」
「……木暮先生! 大丈夫ですか!?」
苦しげに表情を歪めつつ、警官に支えられてこちらに近づいてきた木暮の姿を認め、菜緒は駆け寄った。
「早く保健室に――」
「いや……保健室は、とっくに満員だよ。俺よりも重傷な連中でな。まあ、手当はしてもらいたいところだが、ベッドは要らん」
「……死んでも知らねえぞ」
強がりに過ぎないことは表情を見ればわかった。それは椎名にしても同じだったのだろう、木暮に向かってぶっきらぼうに言い放つ。
木暮がやけくそじみた笑みを浮かべた。
「お前に心配されるとは、思っとらんさ……相澤なら心配してくれるだろうがな」
「そうかい。なら、好きなだけ心配されてろよ」
告げると椎名は踵を返し、校舎に向かって歩き出した。木暮も警官に支えられたまま、保健室の方へ歩いて行く。
それを見送ってから、菜緒は居残った全員の顔を見渡すと、軽く咳払いをした。
「……とにかく、屋外での見張りは切り上げましょう。人員の配備は改めて練り直しますから、ひとまず皆さん、建物の方に集まってください。見張りに回っている方々にも連絡をお願いします」
何人かが頷き、走り去っていく。見張りに着いているもの達に伝えに行ってくれたのだろう。
菜緒は残ったもの達の顔をもう一度見渡して、
「……わたしたちも、戻りましょう」
反対の声は一切上がらなかった。
「……あ、戻って来た」
体育館の入口の方を眺めていた亮の声に、悠介はちらりと視線を送った――出て行った時よりも人数が多いようだったが。
「なんだったのかな、さっきの悲鳴」
「またバケモノが襲ってきたんだろ?」
戻って来た面々が入口の近くで固まってなにかを話し合っているのを見ながら、悠介はつぶやいた。
「……見張りに出てたひとたちも戻って来たみたいだね。もう、屋外は危険だってことかな」
「え。じゃあもう、外に出れねーの!?」
こちらの言葉に、明が文句を口走る。
「その方が身のためだよ。事態が収拾するまではね」
「マジかよー。いつになったら片付くんだよ」
嘆くような明の声に、悠介はふと有紗の方を見やった。
「……?」
彼女は何も言わずにこちらを見返してきている。なにを考えているのかはわからないし、こちらの考えていることが彼女に伝わるわけもないだろう。
(事態が収拾するまで、か)
仮にこの状況が落ち着いて、昨日までの日常が戻って来たとしても。
戻らないものは、既にいくつもある。命を落とした人間もそうだし、有紗の記憶もそうだ。事態が収拾したとして、彼女が思い出すとは限らない。そこまで楽観的になれる理由もない。そしてその場合、彼女はどうなるのか――これまで通りの生活を送ることが確実に不可能である以上、病院かなにかしらの施設か、そういった場所へ送られることになるのだろうか。
いや、それは自分達にしても同じだ。未成年であることは言うまでもないし、ひとりで生きていけるような資産が残されているわけでもない。親戚の元へ身を寄せるか、児童養護施設に入ることになるか――どちらも、悠介にとってはあまり喜ばしいものではなかった。
と、入口の近くで話し合っていたもの達が移動を始めた。何人かはこちらへ戻って来ているが、残りは校舎の方へ向かおうとしている。
「あ、おーい姉ちゃん!」
校舎へ移動する人々の中に見えた憶えのある女子生徒に向かって、亮が声を張り上げた。すぐにこちらに気付いたらしく、呼ばれた女子生徒は周りに軽く声をかけた後、こちらへと寄ってくる。
「あなたたち、まだ起きてたの?」
「だって寝れねーんだもん。ってゆーか、さっきのなんだったの? またバケモン?」
「……ええ」
神妙な面持ちで、彼女は頷いた。隠す必要はないと判断したらしい。
悠介は彼女の表情を見て、尋ねた。
「状況が変わったみたいですね。なにがあったんです?」
女子生徒が驚いたような顔を見せた――なにに驚いたのかはわからないが。
が、すぐに表情を戻し、
「その、ね……空から、襲われたの」
「空?」
明が聞き返す。彼女は頷いた。
「ええ。それで、外での警備はもう危険だってことになって」
「空まで飛ぶのがいたの? あのバケモノに?」
「どんなヤツだった? 鳥とか竜とか?」
興味をひかれたらしく、亮と明が女子生徒の方へと身を乗り出す。その反応に、彼女は若干戸惑ったようだったが、
「えっと、なんて言ったらいいかしら……羽って言うか、翼が背中に生えててね。首から下は人間みたいなんだけど、頭は鳥みたいだったわ」
女子生徒の説明に、二人は顔を見合わせ、
「……鳥人間ってコト?」
「バケモンっていうか、怪人じゃん」
「うーん、そんな感じかしら?」
二人からの言葉に、リアクションに困ったのだろう、女子生徒が顎に指を当てて答える。
悠介は。
(頭が鳥で、翼が生えてて、首から下は人間……?)
女子生徒が説明した内容を反芻しつつ、ノートPCを開いた。
「……ん? なにやってんだ悠介?」
「またさっきの続きか?」
二人からの質問には答えず、あるデータを呼び出す。それをざっと眺めると――
顔を上げて、女子生徒の顔を見返す。
「……えっと。なんて言いましたっけ」
名前を聞いていなかったことを思い出して、悠介は尋ねた。女子生徒の方もすぐに思い当たったのか、答えてくる。
「相澤よ、相澤菜緒。ここの三年生」
「じゃあ相澤さん。その怪物ですけど……首から上が鳥の頭だったって言いましたよね?」
「え? ええ、そう見えたけど」
こちらの質問に女子生徒――菜緒が頷いて見せる。悠介は更に尋ねた。
「その鳥ですけど……ひょっとして、ミミズクとか、フクロウじゃありませんでしたか?」
「…………えっ?」
はっきりと、菜緒の表情が固まった。その反応を見て悠介は、
(いきなりビンゴか)
一応候補としては他にもいくつかあったのだが、真っ先に挙げたものが正解だったらしい。菜緒の方はわけがわからないといった様子で、聞いてくる。
「ど、どういうこと? あなた、見てたの?」
「いえ、見てませんよ。そうじゃないかと思っただけです」
「どうして、そんなこと――」
「これですよ」
言って、ノートPCのモニターを指し示す。菜緒は首を伸ばしてこちらの手元を覗き込み――
「……え!?」
そこに映っていた画像を見て、絶句したようだった。
「……? 悠介、なんだこれ?」
「これが、鳥人間?」
菜緒と同じように覗き込んでいた亮と明が首を傾げている。悠介は視線をモニターに移し、画像に添えられた文章を読み上げた。
「天使の身体に、ミミズク乃至はフクロウ、カラスの頭を持つ――だそうです。これに間違いありませんか?」
「…………」
菜緒は答えて来なかった。画像を凝視したまま、息もしていないように見える。
悠介は更に続きを読み上げた。
「『ソロモンの小さな鍵』の第一書である『ゴエティア』によれば、イスラエル王ソロモンの封じた七十二の悪魔の一柱に数えられ、序列は六十三番。不和を司る地獄の侯爵である――なるほど、割と有名な悪魔みたいですね」
「……悠介? なに言ってんだ?」
「イスラエル? って、国の名前だろ?」
亮と明の質問にはやはり答えず、悠介は菜緒の顔を見た。彼女はまだモニターから顔を離していなかったが。
「どうでもいいデータだと思ってたんですけど、まさかこんな形で見る日が来るなんて、予想してませんでしたよ」
「どういうこと、なの……?」
ようやく口を開き、菜緒がこちらを向く。見ての通りですよ、と悠介は告げた。
再びモニターに視線をやる。そこに映っていたのは、猛禽の頭に翼、そして人間の身体を持った――悪魔の画像だった。画像の下には、名前も記されている。
――堕天使アンドラス、とあった。