真・女神転生 APOCRYPHA   作:DMDK

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Ⅰ 第五章

 人員配備の見直しは、それほど時間のかかるものでもなかった――要は配置先が変わったというだけのことだ。ただし空から襲われる危険性を新たに含んだため、辞退を申し出た者が何人かいたが。まあ、無理もないことではある。

 そもそも生徒と怪我人を除いた人数というのが大したものでもなかったので、組み上げたローテーションには僅かな穴が開いてしまった――これも覚悟していたことだ。子供を駆り出すわけには行かないし、その意志のない者を無理矢理当てるわけにもいかない。結果として生徒の中から選出するしかなく、またそうなった場合の人選は当初から秘かに決めていたので、どこからも文句は出なかった。心配はされたが。

「……で、姉ちゃんがそうなったってワケか」

 窓の縁に肘を当てた体勢で、少年――明と言ったか――が体育館の中から言ってくる。菜緒は窓へと振り返り、

「ええ。みんなには言ってなかったけれど、生徒の中から補充要員を出す必要性に迫られたら、こうするつもりだったの」

 ぶん、と暗闇に向かって竹刀を振り下ろす。護身用にということで剣道部から拝借したものだが、正直どれだけ役に立つかはわかったものではない。自分の腕前がまったく信用できないという意味でも、怪物がこんなものを恐れてくれるのかという意味でも。

(怪物……いえ、悪魔?)

 胸中で言い換える。それに深い意味はないようにも思えたし、あるようにも思えた。自分でもどちらなのかはわからない。

 少年のパソコンで見た画像を思い出す。なんと言ったか――名前は忘れたが、それなりに有名な悪魔らしい。その悪魔の姿が、校庭の一角で目にした怪物のそれと瓜二つだったというのは、一体どういった意味を持つのだろうか。

(そもそも、あの怪物は何?)

 空から降ってきた怪物と、文献に存在する悪魔と。両者の姿が一致したからと言って、その関連性にまで結論を出すことはできない。一方の正体が不明瞭なままだからだ。

 だがもし、先程目にした資料と、現実に遭遇した怪物とを、無条件に結びつけるとしたら。

(あれは……いえ、あれ以外のも、全部)

 儀式なりなんなりでどこかの誰かが呼び出した、悪魔ということになる。ただしそう考える場合、大前提として文献などに見られる悪魔が実在していたという事実を受け止めなければならないのだが。それには流石に抵抗があった。

(……二十一世紀よ? オカルトの申し子が実在してたなんて、馬鹿馬鹿しい)

 その可能性を示唆されているのだとしても、やはりそう考えてしまう。非現実的な、と理性が訴えてくるのだ。十数年間当然のように超自然的なものを否定し、排除して生きてきた身として、こればかりはどうしようもない。なので当然、誰にも言っていなかった。言ったところで一笑に付されるだけだろうが。

(……そうね。考えられるところとしては)

 やはりあの怪物達は人為的に生み出されたもので、外見をデザインする段階で悪魔などの文献を参考にした、というところではないだろうか。そんな科学力と技術を現代の人類が持ち合わせているのかという疑問は、この際脇に置いておくとして。

 どこの誰が作ったのか、どうして市街地に放ったのか、そもそもなんのためにそんなものを作り出す必要があったのか――それはわからない。作り出した当事者に聞くしかないだろう。

 根拠などなにひとつないが、それが唯一納得できる答えだった。なので納得しておく。

 ――したつもりだったのだが。

「しかしスゲぇよなー。悪魔ってマジにいたんだ」

「どうやって呼び出したんだろーな。やっぱ魔法陣とか生け贄とか用意したのかな?」

 背後から聞こえた声は、どうにか捻り出した納得をあっさりと蹴倒すものだった。ぴたりと動きを止めて、窓の方へと近づいていく。

「どしたの姉ちゃん? っていうかさっきから見てっけど、素振りヘタだなー」

「まず、竹刀の向きがおかしいよ。弦がある方が峰なんだから、手前にしないと」

「剣道なんてやったことないんだから、仕方ないでしょ」

 指摘されて赤面しつつ、菜緒は慌てて竹刀を後ろ手に隠した。それで誤魔化せたはずはないだろうが、さておき。

「あのね、あなたたち。悪魔なんて実在するはずがないでしょう。あんなもの真に受けちゃ駄目よ」

 言い含めるようにして人差し指を立てる。少年二人――亮と明はお互いに視線を交わらせた後、

「でも、見たんだろ?」

「あの悪魔が、実際にいたんだよな?」

 こちらを見上げて言ってくる。菜緒は辛抱強く言い聞かせるつもりで、

「たまたまよ、たまたま似てただけ。そうでなければあれを作ったひとがその手の資料を参考にしたとか、そういうことよきっと」

 二人は納得していない様子だったが。

「……うん、一理ありますね」

 二人の背後から悠介が言ってきた。今はパソコンを開いてはいない。

 亮と明が彼の方を振り返り、

「なんだよ悠介、元はと言えばお前が言い出したんじゃねーか」

「どっちなんだよ」

 非難するような口調で口々に言う。悠介は苦笑いしつつ、

「相澤さんの言ってるのは、極めて妥当な推理だと思うよ。悪魔なんているわけがない、姿が似てるのなら、それは偶然か、似せたんだろうってこと。なんの矛盾もないじゃないか」

「じゃあなんでお前は悪魔なんて言い出したんだよ」

 亮が口を尖らせる。あれが悪魔でないと困るとでも言いたげな様子だった。

「それは……ちょっと、気になることがあっただけだよ」

 悠介が言葉を濁らせた。

「気になること?」

 聞き返したのは菜緒だった。昼間からの様子を見る限り、この悠介という少年(そういえば苗字を聞いていない)は年齢の割に落ち着いて――というか、理性的な言動が多いように思えるのだ。傍からは合点がいかない発言にも、彼なりの根拠があってのことのように菜緒には感じられた。

 ……正直、親と死に別れたばかりだというのが信じられない。その点では他の二人も同じことだったが。

「いえ、別に大したことじゃありません。それより相澤さん――さっきはああ言いましたけど、実は反駁もあるんですよ」

「どういうこと?」

 意味がわからず、聞き返す。菜緒の言葉を肯定したというのに、それを手ずから覆すというのだろうか。

 悠介はこちらの顔をじっと見据えて、言ってきた。

「相澤さん、悪魔が非科学的な存在だと、本気で思ってます?」

「……え? ええ、それはもちろん」

 頷きながら答える。悠介は視線をぴくりとも動かさずに、続けてきた。

「悪魔っていうのは、それこそ大昔から人々の間で語り継がれてきたものです。どれだけその非実在性が繰り返し証明されても、決して消えずにね」

「それはまあ……昔は、今みたいに科学が発達してたわけじゃないし」

 こちらの言葉に、今度は悠介が頷いてくる。

「ええ、もちろんそれもあります。当時と同じ感覚で悪魔という発想を持ち出すひとは、現代にはいないでしょうね。それは科学の賜物だと思います」

 でも、と悠介は続けた。

「科学と人智によって悪魔が実在する余地がどんどん失われていって――それでも残るのは、なんだと思います?」

「……?」

 菜緒は眉根を寄せた。

 悪魔などいないと、人に害を及ぼすのはそんなものではないと、大勢の人間が発見と証明を繰り返してきた。それは正しく人類の歴史であって、つまるところ人類史というのはあらゆる事柄を詳らかにすることへ焦点が当てられていたと言ってもいい。想像の産物である悪魔の居場所は削り取られていき、やがては消えた――いや、消える。そして、その後に残るのは。

「金と経験値だな!」

 力強く主張したのは亮だった。あとアイテムもな、と明が補填する。

「うん、はずれ」

 有無を言わせず悠介が断言した。

 菜緒はかぶりを振って、

「駄目、降参よ。つまり、なにが言いたいの?」

 諦めて明答を聞くことにする。悠介は言ってきた。

「悪魔がいないと証明された後に残るのは、そういう悪魔がいたこと、いたと考えられていたこと――噂、情報、口伝、そういったものですよ。こればっかりは、一度生まれたが最後、絶対になくならない。人が生きている限りは」

「……そうね?」

 微妙に納得がいかず、やや首を傾げつつ答える。それを見て取ったのか、あるいは予測していたのか、悠介は更に続けてきた。

「なら、その言い伝えとか作り話とかを参考にして、現代で再現すべく生み出されたものは――悪魔と呼んだとしても、差し支えはないと思いません? 別に魂とかそういうものの話をしてるんじゃありませんよ。いなくなった後にそれでも残ったものを、もう一度宿しているんですから。言わば背景が同じなわけです」

「……うーん?」

 納得がいかないというよりは単に理解が追いつかず、菜緒は唸った。そうなる、のだろうか。そういうものなのだろうか。

「えっと、つまり……」

 できる範囲で悠介の言葉を咀嚼し、再出力を試みる。

「つまり、あの怪物が悪魔を参考にして作られたものだとしても、元々ないものを参考にしてるんだから、同じように悪魔と呼んでも問題ない――っていうことかしら?」

 本物が存在しないのだから、偽物にはなり得ないと。そういうことだろうか。

 うーん、と、今度は悠介が唸り声を上げる番だった。

「そういうのとも少し違うんですけど……でもまあ、少しです。大体は合ってます」

「なんだよ? 要するに、あれはやっぱ悪魔ってことでいいのか?」

「そう呼んでも誰も困らないし、文句も言われないっていうことよ……たぶん」

 明らかに自分以上に理解していない様子の亮の言葉に、菜緒はとりあえず答えておいた。明も同じように疑問符を浮かべているし、先程からまったく喋っていない有紗に到っては、悠介の服の袖を握ったまま船を漕ぎ始めている。

 菜緒は悠介達の顔を見渡して、

「あなたたちも、もう寝なさい。有紗ちゃん、半分眠ってるわよ」

 半分というか八割方眠っていたようだが。

 悠介が彼女の肩を軽く叩き、声をかける。

「ほら、寝るならちゃんと毛布かぶって」

 有紗が少しだけ瞼を開き、すぐにまた閉じた。ああもう、と悠介は珍しく年齢相応に慌てた様子の声を上げて、寝惚けたままの有紗を毛布の置いてある場所まで歩かせて行った。

 その様子を眺めながら、明がぼんやりとした声を上げる。

「……しっかし、記憶喪失って性格まで変わっちまうもんかね?」

「性格っていうか……なにも憶えてないんだから、赤ん坊みたいなものなんじゃないかしら」

 指摘すると、亮がこちらを向いて、

「でもさ、なんであんな悠介に懐いてんだろう?」

「……どういうこと?」

「だって有紗のヤツ、別に悠介とそんなに仲良かったワケじゃないんだぜ?」

「うん。フツーのクラスメートって感じだったよな」

「それは……」

 二人の言葉に、少しだけ考え込む。

(刷り込み、っていうものかしら……?)

 なにも憶えていないからこそ、懐いているのだとも考えられる。疑うことすらも忘れてしまっているのだとすれば。

 悠介と有紗を追って窓から離れていく二人を見送り、菜緒は再び暗闇へと視線を移した。後ろ手に持っていた竹刀を構え直す――今度はちゃんと向きにも注意して。

 声を上げればすぐに隣に聞こえる程度の間隔で、人員を配備してある。もしも怪物に襲われた場合はまず周囲に伝えるよう言われていたし、菜緒自身、単独で悪魔の相手をしようなどとは毛ほどにも考えていなかった。

(……悪魔、か)

 何度も聞かされ、また自分でも口にしていたからか、そう呼ぶのにも抵抗がなくなっていた。悪魔という単語のそもそもの定義に関しても、先程の悠介の話を思い起こせば、考えるだけ無駄のような気がしてくる。なにしろ悪魔は実在しないのだから。

 あの怪物達が、悪魔なのかどうか。結局のところ、それは無益な疑問なのだ。正体がわからないのだから、ただその一点のみを切り取ってみても、悪魔と呼んで差し支えない。

(大体、呼び方ひとつ変えたって――)

 脅威が減るわけではない。そう結論を下したところで。

 今日何度目になるかもわからない、悲鳴が聞こえた。

 

 

 咄嗟にどうすべきか、菜緒は迷った。悲鳴は恐らく建物を挟んで反対側の方から聞こえたものだ。ここからではかなり距離があるし、そもそもこの場を動けばその分こちらが手薄になってしまう。救援が必要になった場合のことを考慮して、建物の中にもある程度の人数に待機してもらっている――悲鳴の主を助けるのはそちらに任せて、自分はここを動くべきではない。菜緒はそう判断して、駆け出そうとしていた足を止めた。

 と。

「……な、なあ。今の、なんだろうな?」

 暗がりで見えないが、少しだけ離れた位置から声が聞こえてきた。菜緒はそちらへと向き直り、

「なにかあったんでしょうけど……こっちをがら空きにするわけにもいきませんから、動かない方がいいと思います。わたしたちはわたしたちで、警戒していないと」

「……ん? あれ、あんた……警察じゃ、ないよな?」

「ええ。ここの生徒です」

 暗闇に向かって頷く――見えなかっただろうが。

「って、子供か!? なんてこった……人手が足りないからって、子供にまで……」

「いえ、いいんです。緊急事態なんですから、仕方がありませんよ」

 嘆くようなその声に、菜緒は努めて平然とした声音で答えた。自分がここにいることを聞いていなかったのだろうか。

 聞こえてきた声から察するに、四十代か五十代くらいの男性のようだった。菜緒の父親と大体同じくらいか――確かに高校生とは言え、子供扱いされてもおかしくない。

「そうは言ってくれてもな……きみ、女の子だろう?」

「はい」

「なんでまた女の子に……せめて男子だろう、普通に考えたら。こんな危険な役目に……」

 益々嘆いたようだった。確かに自分よりは、運動部の男子などの方が適任だったかもしれない。だが、そもそも生徒から人員を回すこと自体が予定外だったのだ。ならばその予定外の事態に対して、仮にも生徒会長を務める身の自分が立候補するのは、なにもおかしなことではないはずだ。

「……おい、くれぐれも無茶はするんじゃないぞ。化け物を見つけても、決してひとりで立ち向かおうなんて思っちゃいけない」

「ええ、それはわかってます」

「そうか、それなら――」

 唐突に。なんの前触れもなく。

 男の声が途切れた。続けて、どさりと、なにか重たいものが倒れるような音。

(……え?)

 どきりとした。思わず声をかける。

「……あの、どうしました?」

 返事はなかった。嫌な予感が瞬時に全身を駆け抜ける。

(まさか……)

 誰かを呼ぶべきだと、頭の中で理性が叫んでいる。その声に逆らうのは得策ではないだろうと判断して、菜緒は声を――上げようとした瞬間に、再び音が聞こえた。

 じゃらり、と、金属が擦れ合うような音だった。

 息を飲んで、後退する。それに合わせてかどうかはわからないが、前方の闇からゆっくりと、なにかが移動してくるのがわかった。輪郭まではわからないが、色はどうにか識別できる。赤だった。

 再び、じゃらりという音。やがて、菜緒はそれがなんなのかを理解した。

 音の正体は、鎖だった。それの首からぶら下がり、地面に引きずられている。全身を真っ赤な獣毛に覆われた、大型犬――不必要なまでに刺々しい首輪から伸びたその鎖は、先端がなにかで断ち切られたように消え失せていた。自力で逃げ出した飼い犬のように。

 そして、その口から――ぽたぽたと、粘り気のある液体が零れ落ちている。その液体もまた、犬の体毛と同じく真っ赤だった。

(……!)

 そこにいたはずの男になにがあったのか、理解が及ぶ。菜緒は赤い犬から視線を外せぬままに、もう一歩後退した。

(これも……悪魔……?)

 どう見ても犬としか思えない外見だが、そうなのだろう。

(呼ばないと、人を……)

 自分だけではどうにもなりそうにない。わかっていたことだし、たったさっき言われたことでもある。菜緒は後ろにいるはずの誰かに助けを呼ぼうとして――

「うわああっ!?」

 背後から聞こえた声に、耳を疑った。危うく目の前の赤い犬から目を逸らし、振り返りそうになる。

(嘘!?)

 正確な距離までを推し量ることはできないが、今の悲鳴はすぐ近くから聞こえた――恐らくは、自分の隣を担当していた誰かの上げたものだろう。そしてなぜ悲鳴を上げたのかと言えば――答えはひとつしか考えられない。

 背後にも、悪魔がいる。

(ひとりじゃ、どうにもならないのに……!)

 それどころか、自分ひとりに対して二つの悪魔がいる。どうすべきか、菜緒は一瞬かそれ以下の間だけ思案を巡らせ――出てきた答えは、やはりひとつだけだった。

「誰か! 誰か来てください! こっちにも――」

 大声を上げる、と同時に。

 目の前にいた赤い犬が、口を開いてこちらへと飛びかかってきた。咄嗟に思い切り横へと跳躍して、突進を避けるも――着地するや否や、赤い犬は即座に方向転換してこちらへと向かってきた。

 反射的に、菜緒は手にしていた竹刀を振り抜いていた。向きなど気にしていられない。赤い犬は跳躍している最中なので、避けられる距離ではなかったはずだが――竹刀の中程を口で受け止め、そのままこちらにのしかかってくる。支えきれずに、菜緒は後ろ向きに転倒した。

「ちょ、待……」

 銜えられたままの竹刀を全力で押し返しながら、こちらに馬乗りになっている犬を振り落とそうともがく。互いの力は拮抗しているようだったが、竹刀から聞こえるみしみしという音がこの状態が長くは続かないだろうことを伝えていた。噛み千切られてしまえば、次に赤い犬がなにに牙を向けるか、想像に難くない。

(やめて……来ないで!)

 ほとんど錯乱に近い心境で、菜緒は思い切り脚を振り上げていた。脛の辺りが赤い犬の腹を下から蹴り上げ、僅かに体勢が崩れる。

 その隙を見逃さなかったのは、なにかの奇跡としか言いようがない――赤い犬の体重を支えていた後ろ足が地面から離れた一瞬に、竹刀を思い切り横へと逸らし、掴んでいた手も放す。バランスを崩して、犬がこちらの身体の上から転げ落ちた。

 自分も犬と距離を取るように転がって、その勢いで一気に起き上がる。ほぼ同時に犬も体勢を取り戻しており、ばきん! と銜えていた竹刀を噛み砕いた。真っ二つにへし折られた竹刀の残骸が地面に落ちる。

 役に立たないだろうと思っていた武器だが、あっさりと失ってしまった。となると、残っているのは――ポケットの中の拳銃だけだ。

(弾はあと、一発……)

 ポケットをまさぐり、拳銃を握り締める。とは言え、これも信頼に足る武器とは言えない――なにしろここまでに、三発中一発しか当てていないのだ。しかも目の前にいる犬が明らかに病院にいたゾンビよりも素早いだろうことは言うまでもなく、そのゾンビにすら、自分は命中させることができなかった。

 赤い犬が再びこちらに飛びかかるべく、姿勢を低くする。彼我の反射神経を比較すれば、自分が反応できるのは恐らく一回が限度だ。事実、さっきはそうだった。

 この場で背を向けて逃げ出しても、間違いなく追いつかれ、背中から噛みつかれるのが関の山だろう。どうしたところで、逃げられそうにない。

(……当てなきゃ)

 残された一発を、なにがなんでも命中させなければならない。それで確実に仕留められるかどうかはわからないが、手傷さえ負わせられれば、逃げ延びる機会が発生する――かもしれない。

 だが、まともに撃って当てることはできそうにないのだ。命中率が三割程度では、信頼に値しない――

(……でも、一発は)

 一発は、当てることができた。それは事実だ。あの時は、なぜ当たった? どうして、当てることができた――?

(……!)

 赤い犬が跳躍するのが見えた。同時にいくつか、うろ覚えの知識と記憶が脳裏を過る。

 確認を取っている暇はない。菜緒はポケットから銃を抜き取り、前方へと構えた――片手のみで。

 飛びかかってきた犬が口を開く。並んだ牙にはまだ血が付着したままだ。

 ――その中へ。菜緒は拳銃を握った手を思い切り突き込んだ。

 初めて、犬が動揺したような気配を見せる。口腔から更に喉の奥にまで銃口を押し入れられ、反射的に吐き出そうとする――よりも、一瞬早く。

 菜緒はトリガーを引いた。

 響いたのはくぐもった銃声だけで、犬の悲鳴はなかった――口が塞がっていたのだから当然だが。銃弾は背中まで貫通したらしく、犬の身体全体がびくりと震え――そのまま、ずるりと菜緒の腕を放し、地面へと落下する。

 力なく横たわり、小さく痙攣を繰り返しているのを眺めたまま、菜緒はまだ腕を下ろすことができなかった。突き出したままの腕には赤い液体と犬の唾液が少しだけ着いているが、それだけだ。

 やがて犬の身体が完全に動かなくなるのを見届けて、菜緒はようやく腕を下ろした。のみならず、安心して力が抜けたのか、その場に腰からへたり込む。

(な、なんとか、なった……まだ信じられないけど)

 以前に友人から聞いたことのあった、飼い犬に噛まれた時の対処法を思い出せたのが幸いだった。無論その友人は、噛んだ犬を撃ち殺すなどという事態を想定したわけではないだろうが(菜緒だって想定していなかった)。

(……って、一息ついてる場合じゃないんだった)

 先程の悲鳴を思い出し、慌てて立ち上がる。恐らくは悪魔に襲われたのだろうが、助けを呼ぶなり逃げるなりしなければならない。

(…………)

 ちらりと、後ろを見やる。

 暗闇に紛れて見えないが――そこには、死体があるはずだ。たったさっきまで、自分と話していた相手の死体が。顔も名前も知らない、ほんの少し言葉を交わしただけの、誰かだ。今日一日で、そんな死体がどれだけ増えたのだろうか。そんな死体をどれだけ目にしただろうか。

 菜緒は思い切りかぶりを振った。こんなところでじっとしていても仕方がない。武器もなにもない状態では、自分は悪魔に対してただの餌にしかならない。助けを呼びに行かなくては――

(ここから一番近いのは、体育館だけど……)

 校舎だけでなく、体育館にも予備の人員に待機してもらっている。だが同時に、避難民も大勢いるのだ。もしすぐ近くに悪魔がいるのなら、そこへ誘導してしまうことになるかもしれない。そう考えて、菜緒はもう一度声を張り上げた。

「誰か来てください! こっちです!」

 悪魔を体育館までつれて行ってしまうような事態になるよりは、向こうからこちらに気付いてもらうのが良い。無論、今の大声で悪魔がこちらに近づいてくる危険性もあるのだが――

 しばし待ってみても、どちらからも反応はなかった。助けが来る気配も、悪魔が近づいてくる様子もない。

(えっと……これは、どう判断すればいいのかしら)

 悪魔が近づいて来ないのは、単にこちらから既に遠ざかっているからだと考えることはできる。だが体育館の方に関しては、この距離で声が届いていないはずがないのだ。これはつまり――

(なにか、あったの?)

 その公算は高いように思えた。近くに悪魔がいないのであれば、体育館の様子を見に行った方がいいかもしれない。

 意を決して、菜緒は体育館の方へと走り出した。大して離れていなかったので、すぐに窓越しの明かりが見えてくる。

 そちらへ駆け寄り、菜緒は窓を強く叩いた。

「すみません! なにかあったんですか!?」

 しばし、反応を待つ――数秒ほどして、内側から窓が開いた。

「誰だ!?――って、きみか」

 中から顔を見せた男はこちらの顔を見知っていたらしく、胸を撫で下ろしたような表情を見せた。

 体育館の中が妙にざわついているのが気になりつつも、菜緒は尋ねた。

「あのわたし、助けを呼んだんですけど、反応がなかったもので……なにがあったんです?」

「え? そっちも襲われたのか!?」

 驚いたように声を上げる。そっちも、ということは。

「いや実は、校舎の方でも怪物に襲われたらしくってね。ここで待機していた連中は、そっちに回ってしまったんだ」

「……校舎側の救援に、ここのひとたちが、ですか?」

 菜緒は眉をひそめた。校舎の方にも待機していたものがいたはずなのだが、わざわざここにいた人員を回したというのだろうか。

 男は困惑した様子で、

「それが、どうも一箇所だけじゃないみたいなんだ」

「……複数の悪魔が、同時に、っていうことですか……?」

「悪魔?」

 こちらが思わず口走った言葉に、男が怪訝な表情を浮かべる。菜緒は慌ててかぶりを振った。

「あ、いえ。怪物が、あちこちで同時に襲ってきたっていうことですか?」

「ああ、どうもそうらしい。校舎側に集中してるって聞いたから、こっちはまだ安全かと思ってたんだが……」

「ええ……安全じゃありません。少なくとも一体、近くに潜んでいるはずです」

「そうか、わかった。校舎の方に行っちまった連中に、大至急何人かこっちに戻るよう伝えよう」

「……戻って、来れるでしょうか」

 向こうも手一杯かもしれないのだ。そんな余裕があるかどうか。

「そう祈るしかないな」

 それだけ言って、男は窓から離れて行った。

(……とにかく、丸腰じゃどうしようもない)

 窓を閉めて、入口の方へと回る。なんでもいい、武器になりそうなものを調達しなければ。

(えっと、竹刀……はちょっと。せめて、木刀とかないかな)

 自分に扱えるかどうかわからないという点においては大差ないかもしれないが、気休めにはなる。うちの剣道部、木刀なんて使ってたかしら――?

 と、目の前をなにかが掠めた。

(……っ! なに!?)

 慌てて立ち止まる。よくわからないが、羽音のようものを上げながら、目の前をなにかが通り過ぎて行った。

(虫……? にしては)

 妙に、大きかったような。

 恐る恐る、辺りを見回す――が、なにも見当たらなかった。気のせいか、やはり虫かなにかだったのだろうと思い、再び走り出そうとしたところで。

 今度は音――というか、声のようなものが聞こえた。小さくてよく聞き取れなかったが、くすくすと、笑い声のような。

(……上!?)

 声の聞こえてきた方向を探り、振り仰ぐ。果たしてそこにいたのは、小さな人影だった。

 少女、だろうか。赤く長い髪に真っ青なレオタードという現実離れした格好をしているが、それ以上に目を惹くのが、背中の羽だった。羽虫を連想させるような二対の透明な羽を生やし、空中に浮いている。大きさは――ここからではよくわからないが、恐らく人の頭より一回り小さい程度だろう。それが口元に手を当てて、くすくすと笑いながらこちらを見下ろしていた。

(な、なんだか可愛いけど……これも、悪魔なの?)

 絵本やイラストなどで見かける妖精そのままの外見に、思わず疑問符を浮かべてしまう。

 と、少女が動いた。

(……!)

 こちらに向かって、真っすぐ滑空するように下りてくる。菜緒は咄嗟に頭を押さえて身を屈めた。少女がこちらの頭上を通り過ぎる。

 地面への落下を回避するように旋回し、少女が再び高度を取った。その表情は、なんだか怒っているようにも見える。それどころか文句でも口走っているのか、口まで動いていた。なにを言っているのかは聞き取れなかったが。

(な、なにかしら? ひょっとして……)

 こちらに敵意はない、のだろうか。

 ……と思ったのは一瞬だけだった。少女が思い切り拳を突き出して、こちらへ一直線に向かってきたのだ。

(なんなのよ、もう!)

 胸中で毒づきながら、慌てて身を翻す。どうにか距離を取ろうと駆け出したが、少女の飛ぶ速度の方が明らかにこちらより上のようだった。首だけで振り返ると、もう真後ろにまで迫っている。

(駄目、追いつかれる――!)

 反射的に頭を押さえて、菜緒は奥歯を食いしばった。せめて転ばないよう、下半身に踏ん張りを利かせて――

 ぽす、と。

 妙に軽い音が聞こえた――いや、聞こえないくらいに小さな音だった。

(…………あら?)

 頭を庇っていた手を少しだけ解き、視線を背後へと向ける。そこには拳を突き出した恰好のまま、そしてどこか得意げに笑みを浮かべて、こちらの背中に触れている少女の姿が見えた。なんというか、勝利を確信したような――あるいは勝利を手にしたような、そんな表情だ。

(……ええっと)

 思わず、沈黙する。

 ――流石に、こういう展開は予想していなかった。というか見たところ、少女の方も予想していなかったように思えるが。

 少女はそのまま数秒ほど動きを見せなかったが、やがて意図した結果になっていないことに思い当たったのか、腕を引っ込めてこちらの顔を見上げてきた。そして、再びなにか文句を言うように口を動かす。

(なにを言ってるのかしら……?)

 聞き取れないほど小さな声なのか、あるいはそもそもこちらが聞き取ることのできる音ではないのか。更にそのまま眺めていると、少女は業を煮やしたのか、駄々っ子のように両手を振り回してこちらの背中を叩きだした。

(……うーん)

 豆粒を投げつけられている程度の衝撃しか伝わって来ず、菜緒は困惑した。

(これは、無視してもいいような……?)

 とりあえず危険性は低そうだと曖昧に結論を下して、菜緒は腕を下ろした。そのまま走り出そうと、視線を前方へと戻し――

 と、背後からの振動が止んだ。諦めたのだろうかと思い、もう一度振り向く。

 見ると、少女はなにやら悔しげな表情で歯噛みしているようだった。宙に浮いているにも関わらず、地団駄を踏むようになにかを蹴るような仕草までしている。

 が、すぐに表情を変えた。どこか挑発的な――あるいはまだ負けを認めていないような――笑みを浮かべ、こちらに指を突き出してくる。

(……なにかしら)

 指先になにか着いているのかと思い、菜緒は目を凝らし――

 瞬間、全身に激痛が走った。

(……っ!?)

 比喩ではなく眼前に火花が飛び散り、そのまま視界が暗転した。一瞬にして平衡感覚が残らず失われ、立っていられなくなる――倒れたのかどうかすらわからなかったが。悲鳴を上げようにも声帯を動かす方法がわからず、それどころかまともに力を込められる箇所が身体のどこにもなかった。恐らく地面に倒れてのたうち回っているはずなのだが、その手応えがまったくない。痛みにすべての感覚が押し流されてしまったようだった。

(なに――!? なにが、どうなったの!?)

 千々に散逸した神経と思考を必死にかき集めるような心持で、菜緒はどうにか状況を探ろうとした。なにが起こったのかわからず、確認することもできない。

 そのまましばらくの間、激痛と脱力感に苛まれ――ようやく視界が回復した時には、世界が引っくり返っていた。やはり転倒していたらしい。羽の生えた少女がこちらを見下ろし、空中で腹を抱えて笑い転げていた。

 立ち上がろうと試みるが、痛みとは別に全身を支配する痺れに、指一本動かすことができない。感電でもしたような感覚だった――無論、ここまで痛烈なものなど味わったことはないが。

(……!)

 少女が再び指を差し伸べるのが見えて、菜緒は戦慄した。なにをされたのか不明のままだが、今のと同じものをもう一度でも受けたら、生きていられるかどうかわからない。少なくともショック死する公算は極めて高いだろう。

(逃げ、なきゃ……立ち上がって、逃げなきゃ……)

 あらん限りの力を込めると、少しだけ身体が動いた。しかしそれ以上はどうにもならず、立ち上がることさえできそうにない。

 少女が笑みを浮かべたまま、なにかをつぶやくように唇を動かすのが見え――

 突然、首から上が消し飛んだ。

(…………え?)

 少女の身体がぐらりと傾き、羽の動きも止まる。そのまま、ぽとりと地面に落下した。頭を失ったままの姿で横たわり、ぴくりとも動かない。

 その姿を眺めながら、菜緒は直前に聞こえたような気がした音のことを考えていた。少女の首が消失するのと同時に、なにか――破裂音が聞こえたような。

 思考はしかし、続いて聞こえてきた足音によって掻き消された。なにかがこちらに近づいている。

「大丈夫ですか!?」

 声が聞こえる。すぐ近くからだ。しかしまだ全身が麻痺したままなので、首を動かしてその声の主の姿を確認することができない。

「誰……?」

 辛うじて声を発することはできた。背後からの声が、安堵するように息を漏らす。

「よかった……息はあるようですね」

 声の主がこちらの前方へと回り込んだ。その場に膝をつき、持っていたなにか――明らかに拳銃とはサイズも形状も違う銃を脇に置いて、顔を覗き込んでくる。

「立てますか? 動けないのであれば、お運びしますが」

「あ……」

 迷彩服とヘルメットに身を包んだその姿を、菜緒はぼんやりと眺めていた。

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